1 〈状況〉を突き抜け、ジェネレーションギャップの狭隘なスキームを超え、リセットされた芸妓と舞妓の物語
秀作揃いの溝口健二監督の作品の中で、私は「近松物語」と並んで、本作の「祇園囃子」が一番好きだ。
小品ながら、クローズアップ(大写し)を排したカメラワークは素晴らしく、何より、全く無駄な描写がないのにも拘らず、祇園の生態を精緻に描き出した秀作の切れ味は出色だった。
そして、何と言っても、この映画は、主演の木暮実千代の魅力に尽きる。
「艶・誇り・人情」を併せ持つ芸妓を演じた木暮実千代が、この映画を支配し切っていると言っていい。
紛れもなく、彼女の代表作である。
―― 以下、梗概と批評。
「鰻の寝床」(間口が狭くて、奥行きの深い場所)と呼ばれる、京都独特の家屋が並立つ祇園の路地を、一人の少女・栄子が歩いて来る冒頭の情景のシーンが、観る者を、一気に古風な日本の風景に誘(いざな)っていく。
「あんたみたいなだらしのない人、大嫌いや。三月もお茶払いためといて、まだ未練たらしゅう、のこのこ芸者の館に遊びに来て。色街はねえ、綺麗にお金の使えるときだけ来るとこどっせ。芸者の嘘は嘘やあらへんの。お商売の駆け引きや。お客さんの気持ちに相槌打って、面白う遊ばせて上げてんのが分りゃしませんのか」
これでもう、男はダメになり、早々に退散する。
同様に、美代春の馴染み客だった栄子の父親・沢本の零落(れいらく)した現状を聞かされ、父親の許可を取ることを条件に、栄子の舞妓の「仕込み」を認可するが、沢本を訪ねる男衆(芸妓の身の回りの世話をする男)に向かって、肝心の沢本は保証人にはなることを拒んでしまう。
母親が逝去し、厳しい生活苦を強いられている現状の中で、頭を下げてまで頼む栄子の熱意を目の当たりにして、仕込む決意をする美代春。
1年後、母親譲りの芸妓の素質を持つ栄子の努力を評価する美代春は、栄子の「見世出し」(「店出し」=芸子としての初お披露目)を考え、「吉君」(よしきみ)という茶屋の女将に相談に行く。
目的は、「見世出し」のための衣装代を借りることだった。
女将から30万円の金を借り、いよいよ、美代栄という舞妓名をもらった栄子の、「見世出し」の日がやってきた。
「見世出し」してまもなく、お茶屋の座敷で、栄子は車両会社(鉄道車両メーカー)の専務・楠田に見初められる。
その座敷には、運輸省(国土交通省の前身)の中間管理職・神崎も同席していたが、この構図は、楠田の事業のための営業接待であるという事実を判然とさせる。
妖艶な色気を備えた美代春に、一目惚れする神崎。
その楠田が、美代栄の「旦那」になることを求め、「吉君」の女将から話を受ける美代春。
当然、美代栄には、その気がない。
そんな状況下で、楠田の部下の佐伯の画策で、美代春狙いの神崎、美代栄狙いの楠田の意を汲み、東京への上京を具現する下衆な男たち。
無論、「8000万の大仕事」という営業絡みでもあった。
その東京で、神崎と二人だけの座敷を持つことを、美代春に強要する楠田の言葉である。
楠田には30万の借金がある事実を知る美代春には、拒絶する意志も萎えてしまうのだ。
そして、余裕含みの楠田は美代栄に近づき、強引に体の関係を求める行動に走るが、「遊女」であることを拒絶する美代栄は、楠田の唇を噛んでしまうという事件を起こす。
この一件で、一切を失う美代栄と美代春。
ひたすら、謝罪するばかりの「吉君」の女将。
営業第一の楠田の怒りの矛先は、自分に危害を加えた美代栄よりも、神崎との座敷を反故にした美代春に向かっていく。
「よろしゅうおす。今度はきっと、まとめまっさかい」
神崎が気分を害していると聞かされた女将は、二つ返事で引き受ける外になかった。
「そやけど、ああするより他に道はなかったんやもん」と美代栄。
「あんた、楠田はん、嫌いやったんか?」と美代春。
頷く美代栄。
東京に行ったことを後悔し、嗚咽するばかりだった。
その直後、「吉君」の女将から呼ばれた美代春は、きつく叱責されるに至る。
「そやかてお母さん、好きでもないのに、そう簡単に…」
「それはな、お金のある人間の言うことえ。お金もないくせに、生意気なこと言わんとおき。そんな偉そうなこと言うのやったら、美代栄が出るとき、立て替えた30万円のお金、あんた、払えるか?」
「何とかして、お返しします」と答えた美代春に対するペナルティが、この一件以来、座敷への出入り禁止という形で、二人の女の生活基盤を崩していく。
座敷への出入り禁止を受けた美代春と美代栄は、屋形に閉じこもるような、寂しい日々を送る現実を余儀なくされるが、「吉君」の女将の画策で、楠田への謝罪の取り次ぎを求め、「吉君」を訪ねていく美代栄。
その美代栄を引き取りに行くために、否が応でも、美代春は動かざるを得なかった。
この時点で、明らかに、美代春は覚悟を括っている。
神崎の座敷に出向くことなしに、事態の決着がつかないことを認識しているからである。
美代栄を引き取った美代春は、既に、本を読みながら、女将が用意したお茶屋の布団で待つ神崎の座敷に入っていく。
このワンシーンのみで、美代栄が待っている屋形に戻って来る美代春を映し出し、感銘深いラストシークエンスに流れていく。
夏のバッグ、草履、帯を買って来て、美代栄にプレゼントする美代春の表情には、どうしても逃れられない「仕事」を終えたときの安堵感と、微(かす)かな明るさが見え隠れしていた。
それを見抜いた美代栄は、納得できない表情で、美代春に疑問をぶつけた。
自分のために、神崎の座敷に入った美代春を許せないのだ。
「うちの代わりに、好きでもない人のところに行くんやったら、うち、舞妓やめたい」
それを否定する美代春に、なお食い下がる美代栄。
「嘘!姉ちゃんの嘘つき!皆、嘘つきばっかりや!京都の名物も、世界の名物も皆、嘘や!もう嫌や!体を売らんと生活できんのやったら、うち、舞妓やめる!姉ちゃんも芸者、やめて!」
ここまで言われた美代春は、思わず、美代栄を叩いたが、漸次(ぜんじ)、落ち着きを取り戻して、今度は美代春が、ゆっくりと、自分の思いを吐露していく。
「なあ栄子、あたしはもう、この暮らしには慣れ切った体やさかい、今更どうしようもないけど、あんたの体だけは綺麗に守ってやりたいと思ってんのえ。難しい世の中だから、あんたみたいに生一本では通らへんのえ。そやけどあたしは、あんたの気持ちはできるだけ通してあげたいと思うてる。あたしは親も兄弟もない寂しい女やけど、人間の情けだけは持っているつもりや。うちらの境遇を考えてみておうみ。困っているときには、お互いに助けおうて生きていくよりしょうがないやないか。なぁ栄子、あたしはあんたのことを他人とは思うてへんのえ。ほんまに親身に考えてんのえ。分ったなあ」
ここまで言われたら、もう、美代栄のアプレのマインドは、底の浅さを露呈するばかりだった。
「分ってる。分ってる」
そう言って、美代栄を受け止める美代春。
彼女も頬を濡らしている。
「今日からあんたの、美代栄ちゃんの旦那はあたしや」
そこだけは、明確に言い切った。
すべてが終焉した瞬間だった。
度量の広い美代春の人情に、美代栄の思いが終焉されるのは、ジェネレーションギャップの狭隘なスキーム(心理的枠組み)を超える情感が、十分に息づいているからである。
芸妓と舞妓として、再出発する人生が、ここから開かれたのである。
これは結局、苛酷な〈状況〉を突き抜け、ジェネレーションギャップの狭隘なスキームを超え、リセットされた芸妓と舞妓の物語だったのだ。
2 「弱さの中の強さ」が際立つ女たちの応力の強さ
この映画の一つのポイントは、「売春防止法」(施行は1957年4月1日、完全施行は1958年4月1日/「売春禁止法」にあらず)の施行以前に製作された映画であること。
横須賀に開設された米軍向け慰安所(ブログより) |
後述するが、大変な苦労を経て芸妓になった女性たちに対する、男たちの視線においても、芸妓を「商売女」と同義に括ってしまい、遊女との区別もつかないレベルを超えない現実を考えるとき、いつの時代でも変わり切れない風俗の相貌性を感受せざるを得ないのである。
考えてみるに、この映画の基本骨格は、気に入った芸妓とやりたい思いを隠し切れない、運輸省の中間管理職の好色な役人のために、商売絡みで奔走する、相も変わらぬ上下関係で固めた、鉄道車両メーカーの男たちに対して、三者三様の女たちの生きざまが、それぞれの思惑で向き合っていく構成によって成っている。
「女」と「ビジネス」のうちに収斂される、男たちの心理の単純な構造と対比して描いた物語は、その個性的な女たちの生きざまを、時には「悲哀」を込めながらも、決して「悲哀」の極点に収束させず、雑草のような逞しさで生きる女の応力の強さのうちに拾い上げられていた。
確かに、花街(かがい、はなまち)という特殊な世界は、男たちの欲得尽くの世界に寄生しているが、その権力関係と欲得性において、十把一絡げ(じっぱひとからげ)に括れてしまうが故に、没個性的とも言える男たちもまた、「女」と「ビジネス」のうちに収斂される花街に依拠しているのである。
花街の世界の権力関係が、男たちの権力関係と欲得性に寄生しつつも、十把一絡げに括れてしまう後者の没個性的様態と比べると、前者の世界で呼吸を繋ぐ女たちの生きざまこそ、遥かに個性的であり、「女」と「ビジネス」に絡みつく男たちの権力関係の、その「強さの中の弱さ」の狭隘さに表面的に迎合する分だけ、女たちの「弱さの中の強さ」が際立っていた。
「強さの中の弱さ」の狭隘さを食う、女たちの「弱さの中の強さ」は圧巻である。
三者三様の女たちの生きざまの中で抜きん出ているのは、何と言っても、茶屋・「吉君」の女将。
「吉君」の女将 |
美代春を相手に横たわって会話をするシーンこそ、立ち位置を確立した「吉君」の女将の真骨頂であると言っていい。
また、アプレゲールの生きざまを地で行く美代栄は、無頓着なフラッパー(おてんば娘)を想起させなくもないが、基本的には、プロの芸妓に届き得ない駆け出しの舞妓に過ぎないと言える。
駆け出しだから、自己基準で動き、暴走し、〈状況〉に翻弄された挙句、泣きを見て、依存状態の果てに救済されるに至るのだ。
しかし、彼女の個性が際立つのは、「防衛的自己呈示」(弁解・正当化・
謝罪)・「主張的自己呈示」(自己宣伝・威嚇・哀願)と言った対人心理学の概念のように、意図的に振る舞い、相手に好印象を与える自己呈示のコミュニケーションに極端に振れず、有り体(ありてい)の態度に徹し、ありのままの自分を曝(さら)け出す天真爛漫さに満ちていた。
戦後民主主義の形式的な洗礼を受けたことで、自己基準の枠内で、特定他者とコミュニケーションを結んでいく美代栄の個性は、生一本で駆け出しの舞妓という範疇をも超え、本来的な自我の強さがフルパワー状態だった。
そんな美代栄と対比効果を見せるように人物造形されたのが、言うまでもなく美代春。
何より、ここで切要なのは、古い倫理観に縛られているように見える美代春の生きざまである。
映画の凛としたヒロイン・美代春の、「好きな男としか体を許さない」という生き方は、あまりに目映(まばゆ)く映る。
印象深いのは、弱り目に祟り目というか、金欠状態の中に、栄子の父・沢本が訪ねて来た時のエピソード。
沢本と美代春 |
そこには、沢本が美代栄の父親であるが故に、手ぶらで帰す訳にはいかないという人情含みの倫理観がある。
その沢本が帰った後、一人、縁側で三味線を弾き、唄う静かなシーンは、まさに、芸妓に誇りを持つ彼女の生きざまの真骨頂であった。
地味なシーンだが、このシーンは本作の白眉である。
また、冒頭のシーンで、自分が振った男の金回りが良くなって、押しつけがましく、金欠状態の美代春に、「金の工面なら、いつでもする」という態度に立腹するシーンもまた、同様に、彼女の生きざまが透けて見え、圧巻だった。
だらしがなく、情けない男たちが勢ぞろいする映画の中で、その対比効果は抜きんでていた。
それでも、「好きな男としか体を許さない」という美代春の矜持(きょうじ)は、「体は売っても心は売らない」という戦線まで後退したが、その情愛を特別な人間以外にストロークすることは決してない。
それが、彼女の最後の砦であるからだ。
この戦線だけは、何としても守る。
美代春の本来の真の凄さが、そこにある。
だから、アプレゲールの生きざまを地で行く美代栄を受容する、美代春の包括力は半端ではない。
以下、そのときの美代春の言葉。
「あたしは親も兄弟もない寂しい女やけど、人間の情けだけは持っているつもりや。うちらの境遇を考えておみ。困っているときには、お互いに助けおうて生きていくよりしょうがないやないか。なぁ栄子、あたしはあんたのことを他人とは思うてへんのえ。ほんまに親身に考えてんのえ。分ったなあ」
この台詞を言わせるためとも思える、質の高い人情ドラマを彷彿(ほうふつ)とさせ、観る者の心を強く打つ。
残酷な印象を残像化し、悲哀に満ちた運命を引き受けつつも、トラジディ(悲劇)に収束させていないのだ。
女の弱さを晒すが、屈折していない。
苦しみの連射に崩れそうになるが、壊れることなどない。
切なさが痛いが、その復元力には颯爽感すら覚える。
惰弱(だじゃく)ではないのだ。
これが、ラストシーンの意味である。(トップ画像)
押し潰されるほどの辛酸を舐め、悲哀を極め、紆余曲折を経ても、それでもなお、祇園の世界で生き抜く意志を体現するラストシーンに凝縮されているのだ。
厳しい筆致で描いているが、明らかに、美代春の人物造形に、溝口健二監督は、プロの芸妓のテクニックの範疇を超え、成熟した女だけが到達し得る一つのモデル像を提示している。
「艶・誇り・人情」を併せ持つ芸妓・美代春の人物造形の成就によって、この映画は傑作に昇華し得たのである。
3 芸妓や舞妓がプロフェッショナルになる艱難さ
そこには、置屋(おきや)という「家」に住み、三味線などの芸で宴席に興(きょう)を添える仕事をする女性・芸妓(げいぎ)と、芸妓見習いの少女・舞妓(まいこ)がいる。
彼女らは、客に飲食させる「お茶屋」に呼ばれて、宴席を楽しくさせるプロの仕事に専心する女性である。
しかし、このプロの仕事として振る舞うには、長い間の修練を積む相当の年季が求められる。
以下は、京都市東山区宮川筋四条下る宮川筋にある、「たけもと」の「舞妓さん募集」のブログである。
これを読めば、芸妓や舞妓がプロフェッショナルになるには、いかに大変であるかという現実が理解できるだろう。
「舞妓になるためには、『たけもと』では約1年間の『仕込みさん』という修行期間があります。
この期間は、様々な芸事、作法などの修行をします。
『仕込みさん』には自由な時間がありません。
多くの方が、ここで挫折してしまいます。
舞妓になるまでは、お座敷には出られません。
舞妓はあくまで、芸妓になるための修行段階です。
もちろん、修行ですからお給料は出ません。
伝統行事での舞や踊りといった、華やかな舞台で舞を見せる大きなお仕事もあります。そのための踊り、三味線等の鳴り物、唄やお茶といった、お稽古もこなさなければなりません。
(元々、舞妓は芸妓になるための修行期間です)
舞妓の主な仕事は、お客様に心地よい時間を過ごしていただく事です。
『おもてなしの心』、舞妓としての『誇り』がないと務まりません。
お休みは、月2回の公休日のみ。
それも、お仕事でなくなることもあります。
忙しい舞妓さんに至っては、何ヶ月も休める『休み』はありません。
お部屋も、一人部屋がもらえません。
つまり、相当に束縛された生活を5・6年過ごすことになります。
舞妓への道は、かなりの忍耐力と根性がないと耐えられません。
舞妓の募集年齢条件、15~18歳というのは、人生の大変大きな岐路です。
よく考え、お家の方ともご相談ください。
保護者の同意なしには、置屋には受け入れられません。
よほどの覚悟がなければ、応募はやめてください。
迷いがあれば必ず後悔します!!
もちろん、いろいろ不安や質問等があると思います。
そのような時は、迷わずご連絡ください。
直接、たけもと女将がお返事させていただきます。
最初にも書いたように、『できる限りの良い環境で舞妓への道を応援いたします』ので」(筆者段落構成)
以上の募集の言葉にあるように、「仕込みさん」とは、舞妓さんになるための修行のこと。
芸妓や舞妓がプロフェッショナルになることが、如何に艱難(かんなん)であるかという現実が理解できるだろう。
(2016年9月)
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