1 「差別戦線」に呑み込まれ、翻弄されたヒロインが苦悩する基本・メロドラマ
フィフティーズ(50年代)の時代のクラシカルな風景を完璧に再現した1957年の晩秋、紅黄葉の目映(まばゆ)い色彩が際立つ、そのハートフォードで暮らするアッパーミドル(中流上位)の主婦・キャシー・ウィテカー(以下、キャシー)は、一流企業の重役である夫・フランクと、二人の子供と暮らす、何不自由ない生活を送っていた。
「奥様はマグナテック社の重役夫人として、パーティを開き、ご主人と共に広告にも登場。コネチカットの人々には、お二人は“ミスター&ミセス、マグナテック”です。心から家族を愛し、黒人にも優しい」
ここで言う「黒人」とは、父の死に代わり、ウィテカー家に庭師として働くことになったレイモンドのことだが、まもなく、彼の存在の重要度が増していく伏線となる。
11歳の娘・サラの父であるレイモンドの人間性は、その優しさと共に、経営学の学位を持つ、その知的な人格がエピソードとして挿入される。
「娘と二人で、何とかやってます」
他の町に園芸店を持ち、5歳の時に妻を亡くしたレイモンドの言葉である。
そんなレイモンドの人格に接したキャシーが、夫・フランクが同性愛者である事実を知ったのは、たまたま、残業でマグナテック社に居残る夫に夕食を届けに行ったときだった。
「僕は…実は…以前、だいぶ前に…遥か昔のことだが…僕には、ある“問題”が。でも、一時の気の迷いだと思っていた。まさか今になって…」
「問題?」「そうだ」
「誰かに相談しなかったの?お医者様とか」
「いや」
「誰にも?理解できない」
「僕だって…」
「このままでは、私…」
「分った」
「事件」の直後の夫婦の重苦しい会話であるが、その本質はカミングアウトである。
まもなく、妻を随行し、精神科医・ボウマンの診察を受けるフランク。
「同性愛が治る確率は、5%~30%ほどでしかなく、完治は難しいのです。しかも時として、治療によって心理的影響も。週に2回ほどのカウンセリングが必要です。場合によって“行動療法”を施すことも。電気ショックや、または性ホルモンの投与など。初めは、とても不安に感じるでしょう。焦らず、ゆっくりと。奥様ともお話合いの上で」
「治療を受ける決心はついてます。こんなことで、人生を破滅させたくないんです。家族のためにも。病気だと分っています。自分がとても惨めで、情けないんです。立ち直って見せます。必ず、病気に勝ちます。神に誓って」
妻・キャシーも信じた。
「私が愛してるのはあなた一人。私にとって、男性はあなただけなの」
キャシーの優しいストロークを、「触るな!」と叫び、叩いて振り払い、拒絶するフランク。
こんなエピソードの度に、謝罪する夫もまた、妻以外の他人には言えない煩悶を抱えているのだ。
レイモンドの園芸店に立ち寄った後、レイモンドお気に入りのレストランに入った二人は、好奇の視線も交じりながらも、静かな音楽を聴き、ダンスを踊るのだ。
この一件が世間の噂になり、キャシーの親友・エレノアから電話が入り、心配する思いを率直に告げられる。
夫にも知られ、帰宅早々、難詰(なんきつ)されるキャシー。
「どういう結果になるか、分ってんのか!僕にも影響するんだ!家庭や会社はどうなるんだ!」
夫の逆鱗に触れ、キャシーは、「悪意に満ちた思い込みよ」と強い口調で弁明する。
フランクのこの極端な攻撃性は、最近の仕事ぶりから、会社から休養を命じられた事実上の戦力外通告に対するフラストレーションの爆発だった。
その「最近の仕事ぶり」には、明らかに、精神科への通院の事実が絡んでいることを本人は認識しているが故に、通院を勧めた妻への当てつけでもあった。
事情を汲んで、慰める妻。
マイアミでのキャシー |
一方、レイモンドの一人娘・サラは、白人少年から石を投げられるといういじめを受ける。
同様に、キャシーの息子・デヴィッドから、学校で黒人の少女をいじめている由々しき事態があった事実を知らされ、いじめっ子と遊ぶことを禁止するキャシー。
それ以上に、同性愛の関係を断ち切れない現実を、嗚咽の中で告白するフランクの心情を聞かされたキャシーは、もう、限界だった。
「僕は生まれて初めて、愛がどんなものか知った。惨い言い方ですまない。でも、僕は必死で、この想いを消そうと努力したんだ。君と子供たちのために、忘れなくてはと…でも、忘れられないんだ」
告白したことで、気持ちが楽になったと考えたキャシーの方が甘かった。
「私は、とんだバカだったわ。モナの“中傷”から、あなたを救おうなんて。言うことなどないわ。他人の人生ですもの」
「モナの“中傷”」とは、レイモンドとの関係のこと。
そして、ウィテカー家のメイドのシビルから、石を投げられた少女がサラである事実を知らされ、衝撃を受けたキャシーはレイモンドの住所を聞き、有無を言わさず、レイモンドの家を訪ねた。
以下、二人の短い会話。
「これ以上、娘を苦しませたくない。毎晩、家に石を投げ込まれる。白人じゃない。黒人が投げるんです。でも、じきにここを出て行きます。もう仕事はありません。誰も雇ってくれない。ここに残る意味はない」
「もしかして、いつか近い将来、あなたが落ち着いたら、訪ねていくわ。ボルティモアへ。また、独り身になるのだし」
心理的に最近接しながらも、二人は、それ以上進めない。
「今、大事なことは、サラのためを考えてやることです。違う世界に関わった代償を払いました。辛い思いをした。もう沢山です。誇り高い人生を送ってください。さよならキャシー」
ここまではっきりと言われて、キャシーは嗚咽する以外になかった。
「違う世界」に架橋しようとした女に残された、唯一の希望すらも終焉した瞬間である。
フランクと離婚の手続きをしたキャシーは、ハートフォードを去っていくレイモンドを見送るために駅に行き、手を振り、別れを告げた。
ラストシーンである。
結局、この映画は、光を失ったフィフティーズ(50年代)の薄暮の陰翳が、二つの「違う世界」への架橋を閉ざす物語だったのだ。
―― 「差別戦線」に呑み込まれ、翻弄されたヒロインが苦悩する基本・メロドラマであったが、私には、夫・フランクが嗚咽の中で、妻に告白するシーンの重みが最も印象に残った。
フィフティーズ(50年代)という時代限定の渦中にあって、「セクシュアルマイノリティ」が、その煩悶を抱え続ける孤独の辛さは、善かれ悪しかれ、LGBTという言葉が普通に使われている現代から見れば、察して余りあるからだ。
惜しむらくは、同性愛を異性愛へと変える心理療法のシーンがインサートされていなかったこと。
2 「違う世界」の未知のゾーンに踏み込んでいく男と女 ―― その時代限定の難しい現実
朝鮮戦争に象徴される、自由主義陣営と共産主義・社会主義陣営との対立構造である、冷戦という国際的緊張の渦中にあっても、アメリカは戦争に投入されたパワーを、自動車、皿洗い機、生ごみ処理機、テレビと言った消費文化の方向に向けていく。
特に1955年以降、「古き良き時代」とも称される、この時代のアメリカのフィフティーズを特徴付けるのは、道徳的規範の拠点となる家族を中心とする大衆消費文化の目立った展開であった。
戦勝気分も手伝って、人々が押し並べて裕福な生活を渇望し、家族のために消費することが社会の安定に直結するという「家族主義の時代」こそ、ゴールデンエイジと呼ばれるフィフティーズの基幹イデオロギーだったのだ。
そんなフィフティーズの繁栄の渦中にあって、何不自由ない生活を送っていた本作のヒロイン・キャシーが被弾したエクスペリエンス(経験)は、看過できない事態だった。
「幸福なる夫婦」(マイアミで)の幻想 |
一つだけ言えることは、フィフティーズの基幹イデオロギーである「家族主義の時代」の、その中枢で暮らしていたキャシーのアイデンティティが、夫婦関係の危機を復元し得なかった事態と相俟(あいま)って、根柢的なダメージを受けた事実だけは否定できないだろう。
ここに、興味深いデータがある。
アメリカの国勢調査によると、白人男性と黒人女性の結婚率よりも、白人女性とアフリカ系の黒人男性の方が、およそ2倍になっているという報告である。
この報告は、白人女性がアフリカ系・ラテン系の男性を選ぶ傾向が高い事実を示しているが、同時に、この報告が、白人男性がアジア系・ラテン系の女性を恋人に選ぶ確率の高さの証明なのか、残念ながら判然としない。
白人女性はアジア系男性が真面目過ぎて、セクシーさが感じられないとも言われているが、これも不分明である。
ただ、知的で抱擁力があり、体も大きいレイモンドに、人間的魅力と同時に、無意識的にセクシーさを感じたであろうことは容易に想像し得る。
言うまでもなく、以上の異人種間の結婚のケースは稀であり、殆どの黒人が、同人種の黒人と結婚している現実を否定すべきもない。
とりわけ、白人男性が黒人女性と交際するのは我慢できても、白人女性が黒人男性と交際するのは、大方の白人男性が許さないという現実がある。
かつて、アメリカ南部では、黒人男性とデートした白人女性が、白人至上主義者から銃殺される事件が起こっている。
「有色人種専用待合室(COLORED WAITING ROOM)」と書かれたバス停の看板 |
アラバマ州法に至っては、白人女性の看護師がいる病院に、黒人男性が患者として立ち入れなかったのだ。
確かに、1967年に、訴訟を起こしたことで、リチャード、ミルドレッド・ラビング夫婦(夫が白人、妻が黒人のカップル)は、異人種間結婚禁止法の撤廃(最高裁による「禁止法は違憲」という判決)の立役者となったが、他人種への深い偏見の根強さは、今でも大して変わらないという現実がある。
この現実を検証したのが、ワシントン州オリンピアでの事件だった。
ケーブルテレビ向けの24時間ニュース専門放送局・CNNによれば、市内のレストラン近くでキスを交わしていた、アフリカ系黒人男性と白人の女性が、白人至上主義者によって刃物で襲われるという事件が惹起した。
そして、この映画で、そのキャシーと心理的に最近接したために、一方的に被弾される理不尽な立場に追いやられたのが、親子二代にわたって雇用されている黒人の庭師・レイモンド。
「私は偏見を持たない人間なの」
偶然、美術館でレイモンドに会った時のキャシーの言葉だが、善かれ悪しかれ、この物言いには、「差別」を意識する視線が内包している事実を、本人だけは認知できない現実を反照しているのだ。
この二人が絵画を鑑賞し合う現場を見て、あってはならない関係構図を白眼視する、白人女性たちのシビアな視線が注がれていた。
「でも、心を許したなら、違う世界の人間ではなくなるわ」とキャシー。
本作の中で、最も重要な会話であると言っていい。
異人種の二人は、「違う世界」の未知のゾーンに踏み込んでいるという認識があるからだ。
「ここハートフォードにも、黒人だけの世界があります。でも皆、そこから出ようとしない。子供たちに望むことは、ただ一つ。限りない可能性です」
映画にもセリフとして拾われていたが、このレイモンドの言葉が意味するのは、容赦ない冷たい視線を受け続ける彼にとって、白人からの攻撃は馴致(じゅんち)しているが、「黒人対黒人」という関係性を壊されるのが痛烈な攻撃性になるという厄介な現実の様態だ。
常に漂う「視線の恐怖」 |
この「視線の恐怖」こそ、白人女性と睦み合う行為に対して、過剰に構えてしまう状態を日常化する。
「白人女性が黒人男性と話をして、何が悪いの!」
自分の夫に対して、ここまで言い切ったキャシーには、当然ながら、自分の行為が世間の噂になり、白眼視される思いなど全く意に介しなかった。
彼女の内面には、「反差別主義者」という「理想的な思い」を、常に自己確認する意識が先行しているので、その分だけ、相手が置かれている辛い立場への想像力の脆弱性が垣間見えてしまうのである。
「一瞬でも、物事の上辺に関係なく本質を見ること?“エデンより彼方に、永遠に輝く場所を見つめて”
僕は信じます」
解雇されたときのレイモンドの反応である。
トッド・ヘインズ監督 |
そのような時代限定の難しい現実を、きっちり描き切った本作に敬意を表したい。
3 同性愛者は存在するだけの理由がある
統合失調症治療で多大な功績をあげた、新フロイト派の代表格・ハリー・スタック・サリヴァンが、思春期に同性の親友との関係性に頓挫した結果、「同性愛者」が生まれると説いた事実に端的に表れているように、本作で描かれていたように、米国には、新フロイト派の精神分析や行動療法による、同性愛者を異性愛者に変えるための心理療法が実施されていた重い歴史がある。
中でも、「嫌悪療法」は、同性の裸体の写真を見せた後、クライエントに電気ショックや、嘔気を催す薬物を与える療法として、ごく普通に実施されていたのである。
ミシシッピ州で「反LGBT法」・ミシシッピ州のフィル・ブライアント知事
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但し、ここで留意しておきたい点は、国際機関において、「性的指向」(性欲や恋愛に関わる根本的な性的傾向)や「性自認」(自分は男性、或いは、女性であるという自己認識)という人権問題を扱う公文書でも、LGBTという用語は使用されていて、今日、日本のメディアでも一般的な概念とになっているが、T=トランスジェンダーの一部からは、Tの場合、「性自認」が身体的性別と対応しない状態を意味するので、「性的指向」であるLGBと区別すべきという主張があることだ。(因みに、デンマークは精神疾患から外している)
日本では、「性同一性障害特例法」が2003年に成立したが、「生殖腺がないこと」という条件の厳しさが、手術(性別適合手術=本人の性同一性に合わせて行う外科的手術だが、生殖能力を永久に奪う手術でもある)なしでは「性別変更」は認められないという艱難(かんなん)なバリアがある。
また、同性愛は違法ではなく(注)、LGBTへの特段の敵意が存在しないにも拘らず、正規雇用を求める真剣な就活において、LGBTに対する差別や偏見が存在する厳しい現実があるのは、殆ど自明だろう。
WHOが治療の対象にしていないという実状を見れば分るように、同性愛は「性的指向」の一種であり、その生物学的メカニズムについては、殆ど何も分っていないのが現状であるが故に、多くの仮説が提起されている。
進化論に矛盾するのである。
それが、淘汰の過程と考えられなくもないが、例えば、日本のLGBTの出現率が5.2%(大半がトランスジェンダー)と言われている事実を想起する時、この数字の多寡の判断の難しさを認知せざるを得ないのだ。
女性の20%、男性の10%に発生すると言われる「性的欲求低下障害」(女性の「性欲」を刺激する女性版バイアグラ・フリバンセリンが治療薬として出現)という疾病が示すように、進化の歴史の中で、男性のY染色体の極端な減少が示す現象が意味するのは、或いは、人類史そのものの淘汰が惹起していると考えられなくもないが、これも全く不分明である。
では、同性愛者の生物学的な存在意義とは、一体、何だろうか。
仮に、同性愛が先天的なものならば、遺伝的・進化論的な説明抜きに語ることができないのは明らかである。
また、同性愛が後天的なものであるという説明は、確かに説得力がある。
しかし、過度のストレスの負荷があっても、同性愛者を生みやすい個体もあれば、それと無縁な個体もある。
それは、過度のストレスの負荷状態の中で、男性ホルモンであるアンドロゲンの抑制に耐性がある個体と(同性愛化しやすい)、胎児へのアンドロゲンの供給に問題がない個体との相違点であると言っていい。
当然ながら、因果関係を特定することの難しさが、そこに垣間見えるのだ。
異性愛やLGBという「性的指向」が、初期の幼児期の時期に決定されると主張する専門家もいる。
然るに、同性愛の発生が先天的なものであれ、後天的なものであれ、少なくとも、何某かの遺伝的要因が関わっているのは間違いなく、進化論的な説明を避けては通れないと思われる。
多くの場合、同性愛とは無関係ではないが、男性に多いと言われ、性嗜好異常に包括される「異性装」(「服装倒錯的フェティシズム」)と切れ、同性愛の場合は、進化論的な説明において説得力がある答えが提出されなくとも、それでも私は思う。
同性愛者が子孫を残すという一点において不利であったとしても、同性愛者が存在しているという現実が、存在するだけの理由があるということを。
差別や偏見に曝されていたにせよ、自然淘汰を乗り越えているばかりではなく、本作のフランクがそうであったように、知的に優れていたが故に、社会的に高いポジションを得て、社会生活を営む上で何ら支障なく、精神疾患・身体的疾患とも無縁である事実を想起する限り、彼らの存在には、存在するだけの理由があると言える。
だから私は、「性的指向」のために、自分ではどうにもならない、フランクの嗚咽の中の告白に深い憐れみの情を覚えざるを得なかった。
キャシーには辛かっただろうが、極端に差別や偏見に曝されていた時代で、「性的指向」を変換させられる「治療」に頓挫し、いよいよ煩悶を重ねるばかりのフランクの、離婚後の幸福を願う気持ちでいっぱいだった。
同性愛者原因説において、一つだけ捕捉しておこう。
近年、米カリフォルニア・サンタ・バーバラ大学の進化生物学チームの研究で、母親の胎内で早期に作られる「エピマーク」という後成遺伝子が、性別や生殖器の発達に関わっているという大胆な仮説を提示している。
「エピマーク」に関する様々な情報がネット上に飛び交っていて、正直、興味をそそられるが、今の私には、特段の関心を持ち得ない。
本稿の最後に、同性愛の問題の枠組みを超え、最も重要な事実を書いておきたい。
LGBTのシンボルとなっているレインボーフラッグ(LGBTの社会運動を象徴する旗) |
なぜなら、「性的指向」に関連するLGBも、「性自認」に関連するTも、性分化のプロセス(脳の性分化段階)における影響による発現が考えられるからである。
要するに、「男性化・女性化」という、性分化の機序は極めて複雑であり、幾多の険しい関門を突破していくという現実の重さである。
そして、その突破すべき険しい関門は、たった一つの段階においてさえ十全に機能しなければ、異常を起こし得るリスクを抱えているが故に、ヒトの性は常に、想定される状態に性分化し、発達するとは限らない複雑性に囲繞されているということ。
ヒトの性分化への道程は、幾多の険しい関門突破なしに済まないのだ。
多くの胎児は、正常に性分化し、発達するが、私たちの性には、性分化疾患のトラップに嵌る危うさと同居しているのである。
〈生命〉の厳密な定義は確立されていない現実を踏まえて、敢えて文系のラインで書くが、その関門を突破して、私たちの世界にデビューし、固有名詞を有する自我にまで辿り着いた全ての人間の〈生命〉には、存在するだけの何某かの理由があったのだ。
同性パートナーシップ条例・「モーニングバード」(テレビ朝日系列他)より |
(2016年9月)
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