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2016年9月20日火曜日

エデンより彼方に(’02)   トッド・ヘインズ


<光を失ったフィフティーズの薄暮の陰翳が、二つの「違う世界」への架橋を閉ざす>





1  「差別戦線」に呑み込まれ、翻弄されたヒロインが苦悩する基本・メロドラマ





アメリカ東海岸、ニューイングランド北東部の6州の1つ・コネチカット州の中央部に位置するハートフォードは、「トムソーヤーの冒険」、「ハックルベリーフィンの冒険」を執筆したマーク・トウェインが暮らしていた街として有名で、今でも、マーク・トウェインの家は観光名所になっている。

フィフティーズ(50年代)の時代のクラシカルな風景を完璧に再現した1957年の晩秋、紅黄葉の目映(まばゆ)い色彩が際立つ、そのハートフォードで暮らするアッパーミドル(中流上位)の主婦・キャシー・ウィテカー(以下、キャシー)は、一流企業の重役である夫・フランクと、二人の子供と暮らす、何不自由ない生活を送っていた。

「奥様はマグナテック社の重役夫人として、パーティを開き、ご主人と共に広告にも登場。コネチカットの人々には、お二人は“ミスター&ミセス、マグナテック”です。心から家族を愛し、黒人にも優しい」

ウィテカー家
ボランティア活動にも活発なキャシーは、このような雑誌記者のインタビューを受けるほど、地域では「理想夫婦」の伴侶であり、良妻賢母の鑑として喧伝されていた。

ここで言う「黒人」とは、父の死に代わり、ウィテカー家に庭師として働くことになったレイモンドのことだが、まもなく、彼の存在の重要度が増していく伏線となる。

11歳の娘・サラの父であるレイモンドの人間性は、その優しさと共に、経営学の学位を持つ、その知的な人格がエピソードとして挿入される。

「娘と二人で、何とかやってます」

他の町に園芸店を持ち、5歳の時に妻を亡くしたレイモンドの言葉である。

そんなレイモンドの人格に接したキャシーが、夫・フランクが同性愛者である事実を知ったのは、たまたま、残業でマグナテック社に居残る夫に夕食を届けに行ったときだった。

キャシー
同性愛の現場を目撃したキャシーは衝撃を受け、居た堪れずに自宅に走り去っていく。

「僕は…実は…以前、だいぶ前に…遥か昔のことだが…僕には、ある“問題”が。でも、一時の気の迷いだと思っていた。まさか今になって…」
「問題?」
「そうだ」
「誰かに相談しなかったの?お医者様とか」
「いや」
「誰にも?理解できない」
「僕だって…」
「このままでは、私…」
「分った」

「事件」の直後の夫婦の重苦しい会話であるが、そ本質はカミングアウトである。

まもなく、妻を随行し、精神科医・ボウマンの診察を受けるフランク。

「同性愛が治る確率は、5%~30%ほどでしかなく、完治は難しいのです。しかも時として、治療によって心理的影響も。週に2回ほどのカウンセリングが必要です。場合によって“行動療法”を施すことも。電気ショックや、または性ホルモンの投与など。初めは、とても不安に感じるでしょう。焦らず、ゆっくりと。奥様ともお話合いの上で」
「治療を受ける決心はついてます。こんなことで、人生を破滅させたくないんです。家族のためにも。病気だと分っています。自分がとても惨めで、情けないんです。立ち直って見せます。必ず、病気に勝ちます。神に誓って」

少なくとも、この時点で、フランクは本気だった。

妻・キャシーも信じた。

しかし、夫婦主催のパーティは成功し、昔のように睦み合う関係を復元しようとするフランクだが、どうしても異性愛に振れにくい男がそこにいた。

「私が愛してるのはあなた一人。私にとって、男性はあなただけなの」

キャシーの優しいストロークを、「触るな!」と叫び、叩いて振り払い、拒絶するフランク

こんなエピソードの度に、謝罪する夫もまた、妻以外の他人には言えない煩悶を抱えているのだ。

キャシーとレイモンド
そんなキャシーに異変を感じ、農家へ植木を取りに行くというレイモンドの誘いに感謝し、一緒に「小さな旅」に踏み込んでいくキャシー。

レイモンドの園芸店に立ち寄った後、レイモンドお気に入りのレストランに入った二人は、好奇の視線も交じりながらも、静かな音楽を聴き、ダンスを踊るのだ。

この一件が世間の噂になり、キャシーの親友・エレノアから電話が入り、心配する思いを率直に告げられる。

夫にも知られ、帰宅早々、難詰(なんきつ)されるキャシー。

「どういう結果になるか、分ってんのか!僕にも影響するんだ!家庭や会社はどうなるんだ!」

夫の逆鱗に触れ、キャシーは、「悪意に満ちた思い込みよ」と強い口調で弁明する。

フランクのこの極端な攻撃性は、最近の仕事ぶりから、会社から休養を命じられた事実上の戦力外通告に対するフラストレーションの爆発だった。

その「最近の仕事ぶり」には、明らかに、精神科への通院の事実が絡んでいることを本人は認識しているが故に、通院を勧めた妻への当てつけでもあった。

事情を汲んで、慰める妻。

マイアミでのキャシー
マイアミに家族旅行することで、自覚的に献身的な関係を保持し、それを継続しようと努めるキャシーだったが、泊ったホテルでハンサムな若者と出会ったフランクは、再び、同性愛の関係を結んでしまうのだ。

一方、レイモンドの一人娘・サラは、白人少年から石を投げられるといういじめを受ける。

同様に、キャシーの息子・デヴィッドら、学校で黒人の少女をいじめている由々しき事態があった事実を知らされ、いじめっ子と遊ぶことを禁止するキャシー。

それ以上に、同性愛の関係を断ち切れない現実を、嗚咽の中で告白するフランクの心情を聞かされたキャシーは、もう、限界だった。

「僕は生まれて初めて、愛がどんなものか知った。惨い言い方ですまない。でも、僕は必死で、この想いを消そうと努力したんだ。君と子供たちのために、忘れなくてはと…でも、忘れられないんだ」

煩悶するフランク
ここまで吐露され、今や、一人で抱え切れない不安を、フランク「問題」を、親友のエレノアに告白するキャシー

告白したことで、気持ちが楽になったと考えたキャシーの方が甘かった

「私は、とんだバカだったわ。モナの“中傷”から、あなたを救おうなんて。言うことなどないわ。他人の人生ですもの」

モナの“中傷”」とは、レイモンドとの関係のこと。

そして、ウィテカー家のメイドのシビルから、石を投げられた少女がサラである事実を知らされ、衝撃を受けたキャシーはレイモンドの住所を聞き、有無を言わさず、レイモンドの家を訪ねた。

以下、二人の短い会話。

「これ以上、娘を苦しませたくない。毎晩、家に石を投げ込まれる。白人じゃない。黒人が投げるんです。でも、じきにここを出て行きます。もう仕事はありません。誰も雇ってくれない。ここに残る意味はない」
「もしかして、いつか近い将来、あなたが落ち着いたら、訪ねていくわ。ボルティモアへ。また、独り身になるのだし」

心理的に最近接しながらも、二人は、それ以上進めない。

レイモンドの心中には、キャシーが占有する感情の重みと比べて、明らかに埋めがたい距離感があるからだ。

「今、大事なことは、サラのためを考えてやることです。違う世界に関わった代償を払いました。辛い思いをした。もう沢山です。誇り高い人生を送ってください。さよならキャシー」

ここまではっきりと言われて、キャシーは嗚咽する以外になかった。

違う世界に架橋しようとした女に残された、唯一の希望すらも終焉した瞬間である。

フランクと離婚の手続きをしたキャシーは、ハートフォードを去っていくレイモンドを見送るために駅に行き、手を振り、別れを告げた。

ラストシーンである。

結局、この映画は、光を失ったフィフティーズ(50年代)の薄暮の陰翳が、二つの「違う世界」への架橋を閉ざす物語だったのだ。

―― 「差別戦線」に呑み込まれ、翻弄されたヒロインが苦悩する基本・メロドラマであったが、私には、夫・フランクが嗚咽の中で、妻に告白するシーンの重みが最も印象に残った。

フィフティーズ(50年代)という時代限定の渦中にあって、「セクシュアルマイノリティ」が、その煩悶を抱え続ける孤独の辛さは、善かれ悪しかれ、LGBTという言葉が普通に使われている現代から見れば、察して余りあるからだ

惜しむらくは、同性愛を異性愛へと変える心理療法のシーンがインサートされていなかったこと。

ジュリアン・ムーアの繊細な感情表現力は素晴らしかった。





2  「違う世界」の未知のゾーンに踏み込んでいく男と女 ―― その時代限定の難しい現実





朝鮮戦争に象徴される、自由主義陣営と共産主義・社会主義陣営との対立構造である、冷戦という国際的緊張の渦中にあっても、アメリカは戦争に投入されたパワーを、自動車、皿洗い機、生ごみ処理機、テレビと言った消費文化の方向に向けていく。

フィフティーズの時代
何より、白人中流階級にとっては、この時代の繁栄は投資ではなく、消費が推進力だったと言える。

特に1955年以降、「古き良き時代」とも称される、この時代のアメリカのフィフティーズを特徴付けるのは、道徳的規範の拠点となる家族を中心とする大衆消費文化の目立った展開であった。

戦勝気分も手伝って、人々が押し並べて裕福な生活を渇望し、家族のために消費することが社会の安定に直結するという「家族主義の時代」こそ、ゴールデンエイジと呼ばれるフィフティーズの基幹イデオロギーだったのだ。

そんなフィフティーズの繁栄の渦中にあって、何不自由ない生活を送っていた本作のヒロイン・キャシーが被弾したエクスペリエンス(経験)は、看過できない事態だった。

「幸福なる夫婦」(マイアミで)の幻想
異人種間の恋愛に最近接するキャシーが嵌った世界が、夫婦関係の危機に淵源(えんげん)するものであったにしても、異人種間の恋愛を「不浄」な行為とする世俗の、過剰なまでにバイアスがかかった視線を浴びる生活様態は、「非日常」の常態化であったと言っていい。

一つだけ言えることは、フィフティーズの基幹イデオロギーである「家族主義の時代」の、その中枢で暮らしていたキャシーのアイデンティティが、夫婦関係の危機を復元し得なかった事態と相俟(あいま)って、根柢的なダメージを受けた事実だけは否定できないだろう。

ここに、興味深いデータがある。

アメリカの国勢調査によると、白人男性と黒人女性の結婚率よりも、白人女性とアフリカ系の黒人男性の方が、およそ2倍になっているという報告である。

この報告は、白人女性がアフリカ系・ラテン系の男性を選ぶ傾向が高い事実を示しているが、同時に、この報告が、白人男性がアジア系・ラテン系の女性を恋人に選ぶ確率の高さの証明なのか、残念ながら判然としない。

白人女性はアジア系男性が真面目過ぎて、セクシーさが感じられないとも言われているが、これも不分明である。

そうかと言って、白人女性のキャシーが、レイモンドがアフリカ系の男性だったからセクシーさを感じたか否か、私には全く分らない。

ただ、知的で抱擁力があり、体も大きいレイモンドに、人間的魅力と同時に、無意識的にセクシーさを感じたであろうことは容易に想像し得る。

言うまでもなく、以上の異人種間の結婚のケースは稀であり、殆どの黒人が、同人種の黒人と結婚している現実を否定すべきもない。

とりわけ、白人男性が黒人女性と交際するのは我慢できても、白人女性が黒人男性と交際するのは、大方の白人男性が許さないという現実がある。

かつて、アメリカ南部では、黒人男性とデートした白人女性が、白人至上主義者から銃殺される事件が起こっている。

「有色人種専用待合室(COLORED WAITING ROOM)」と書かれたバス停の看板
現に、1964年までの約100年間、異人種間結婚禁止法が存在したアメリカ南部でのジム・クロウ法のプレッシャーは半端ではなかった。

アラバマ州法に至っては、白人女性の看護師がいる病院に、黒人男性が患者として立ち入れなかったのだ。

確かに、1967年に、訴訟を起こしたことで、リチャード、ミルドレッド・ラビング夫婦(夫が白人、妻が黒人のカップル)は、異人種間結婚禁止法の撤廃(最高裁による「禁止法は違憲」という判決)の立役者となったが、他人種への深い偏見の根強さは、今でも大して変わらないという現実がある。

この現実を検証したのが、ワシントン州オリンピアでの事件だった。

ケーブルテレビ向けの24時間ニュース専門放送局・CNNによれば、市内のレストラン近くでキスを交わしていた、アフリカ系黒人男性と白人の女性が、白人至上主義者によって刃物で襲われるという事件が惹起した。

「家族主義の時代」
2016年8月のことである。

まして、キャシーが精神的に依拠していたのは、家族のために消費することが社会の安定に直結するという「家族主義の時代」だったのだ。

そして、この映画で、そのキャシーと心理的に最近接したために、一方的に被弾される理不尽な立場に追いやられたのが、親子二代にわたって雇用されている黒人の庭師・レイモンド。

「私は偏見を持たない人間なの」

偶然、美術館でレイモンドに会った時のキャシーの言葉だが、善かれ悪しかれ、この物言いには、「差別」を意識する視線が内包している事実を、本人だけは認知できない現実を反照しているのだ。

この二人が絵画を鑑賞し合う現場を見て、あってはならない関係構図を白眼視する、白人女性たちのシビアな視線が注がれていた。

リトルロック高校(一部の白人が黒人生徒の排斥運動を開始したことで、州知事が州兵を出動させ、学校を閉鎖し、黒人学生の入学を妨害するという事件)の事件が惹起した時期と重なり合って、公民権運動への形式的な関心を示すキャシーと切れ、白人社会の根柢を揺るがしかねない空気が、ここハートフォードの街にも、例外なく漂っていたのである。

リトルロック高校事件・黒人生徒の入学に反対し学校を封鎖する白人たち
「時として、違う世界の人間のほうが心を許せる」とレイモンド。
「でも、心を許したなら、違う世界の人間ではなくなるわ」とキャシー。

本作の中で、最も重要な会話であると言っていい。

異人種の二人は、「違う世界」の未知のゾーンに踏み込んでいるという認識があるからだ。

それでも、未知のゾーンで癒される女と、その女を癒す男が、心理的に最近接していくのは時間の問題だった。

「ここハートフォードにも、黒人だけの世界があります。でも皆、そこから出ようとしない。子供たちに望むことは、ただ一つ。限りない可能性です」

映画にもセリフとして拾われていたが、このレイモンドの言葉が意味するのは、容赦ない冷たい視線を受け続ける彼にとって、白人からの攻撃は馴致(じゅんち)しているが、「黒人対黒人」という関係性を壊されるのが痛烈な攻撃になるという厄介な現実の様態だ。

常に漂う「視線の恐怖」
アフリカ系・ラテン系のカテゴリーを問わず、「自分たちの男」という意識が強いが故に、黒人女性にとって、白人女性と睦み合う黒人男性への嫌悪感情が、弥増(いやま)してしまうということである。

この「視線の恐怖」こそ、白人女性と睦み合う行為に対して、過剰に構えてしまう状態を日常化する。

「白人女性が黒人男性と話をして、何が悪いの!」

自分の夫に対して、ここまで言い切ったキャシーには、当然ながら、自分の行為が世間の噂になり、白眼視される思いなど全く意に介しなかった。

彼女の内面には、「反差別主義者」という「理想的な思い」を、常に自己確認する意識が先行しているので、その分だけ、相手が置かれている辛い立場への想像力の脆弱性が垣間見えてしまうのである。

「一瞬でも、物事の上辺に関係なく本質を見ること?“エデンより彼方に、永遠に輝く場所を見つめて” 僕は信じます」

解雇されたときのレイモンドの反応である。

トッド・ヘインズ監督
「反差別主義者」という「理想的な思い」を具現することで、不安定な状況下での安寧を得ると同時に、恋愛感情をも有するキャシーは、物事を知的に考え、それを粛々と処理し、深々と内化できるレイモンドの理性的反応に感銘を受けるが、そんな優秀なアフリカ系黒人男性であっても、「黒人対黒人」という関係性の破綻を怖れる辛い立場を、真に理解することが叶わなかったのである。

そのような時代限定の難しい現実を、きっちり描き切った本作に敬意を表したい。





3  同性愛者は存在するだけの理由がある





統合失調症治療で多大な功績をあげた、新フロイト派の代表格・ハリー・スタック・サリヴァンが、思春期に同性の親友との関係性に頓挫した結果、「同性愛者」が生まれると説いた事実に端的に表れているように、本作で描かれていたように、米国には、新フロイト派の精神分析や行動療法による、同性愛者を異性愛者に変えるための心理療法が実施されていた重い歴史があ

中でも、「嫌悪療法」は、同性の裸体の写真を見せた後、クライエントに電気ショックや、嘔気を催す薬物を与える療法として、ごく普通に実施されていたのであ

また、マッカーシズムの「同性愛者狩り」を俯瞰しても、ホモフォビア (同性愛嫌悪)の歴史の根深さは無視できないが、DSM-II(米国精神医学会の診断基準第2版)において、「人格障害」の分類にふくまれていた「同性愛」が精神障害ではないとされたのは、DSM-III(1973年)まで待たねばならなかった。

ミシシッピ州で「反LGBT法」・ミシシッピ州のフィル・ブライアント知事
然るに、米国心理学会や米国精神医学会などの専門家団体が、同性愛を異性愛へ変える心理療法の効果に対する疑問を呈し、その有害性を指摘する内容の公式声明文を発表したのが、1990年代後半以降という現実の歴史の重さを考えるとき、2016年の今、ミシシッピ州で「反LGBT法」(「宗教自由法」)が成立した事実は、レズビアン・ゲイ・バイセクシュアル(両性愛者)・トランスジェンダー(体と心の性が一致しない人=性同一性障害)という、LGBT=「セクシャル・ マイノリティ」(性的少数派)への差別が、相変わらず、現代的課題であという事実を反照していると言えるだろう。

但し、ここで留意しておきたい点は、国際機関において、「性的指向」(性欲や恋愛に関わる根本的な性的傾向)や「性自認」(自分は男性、或いは、女性であるという自己認識)という人権問題を扱う公文書でも、LGBTという用語は使用されていて、今日、日本のメディアでも一般的な概念とになっているが、T=トランスジェンダーの一部からは、Tの場合、「性自認」が身体的性別と対応しない状態を意味するので、「性的指向」であLGBと区別すべきという主張があることだ(因みに、デンマークは精神疾患から外している)

日本では、「性同一性障害特例法」が2003年に成立したが、「生殖腺がないこと」という条件の厳しさが、手術(性別適合手術=本人の性同一性に合わせて行う外科的手術だが、生殖能力を永久に奪う手術でもある)なしでは「性別変更」は認められないという艱難(かんなん)なバリアがある。

また、同性愛は違法ではなく(注)、LGBTへの特段の敵意が存在しないにも拘らず、正規雇用を求める真剣な就活において、LGBTに対する差別や偏見が存在する厳しい現実があのは、殆ど自明だろう。

WHOが治療の対象にしていないという実状を見れば分るように、同性愛は「性的指向」の一種であり、その生物学的メカニズムについては、殆ど何も分っていないのが現状であるが故に、多くの仮説が提起されている。

ここで問題になるのは、同性愛が子孫を残す上で不利な性質であるにも拘らず、なぜ、淘汰されずに、この「性的指向」が残っているのかという点にある。

進化論に矛盾するのである。

それが、淘汰の過程と考えられなくもないが、例えば、日本のLGBTの出現率が5.2%(大半がトランスジェンダー)と言われている事実を想起する時、この数字の多寡の判断の難しさを認知せざるを得ないのだ。

女性の20%、男性の10%に発生すると言われる「性的欲求低下障害」(女性の「性欲」を刺激する女性版バイアグラ・フリバンセリンが治療薬として出現)という疾病が示すように、進化の歴史の中で、男性のY染色体の極端な減少が示す現象が意味するのは、或いは、人類史そのものの淘汰が惹起していると考えられなくもないが、これも全く不分明である。

では、同性愛者の生物学的な存在意義とは、一体、何だろうか。

仮に、同性愛が先天的なものならば、遺伝的・進化論的な説明抜きに語ることができないのは明らかである。

また、同性愛が後天的なものであるという説明は、確かに説得力がある。

フリバンセリン
例えば、妊娠中の母体に過度のストレスがかかると、胎児が同性愛に振れやすいという報告があるが、この事例は、生後の環境や境遇が要因となっている証左を示すのか。

しかし、過度のストレスの負荷があっても、同性愛者を生みやすい個体もあれば、それと無縁な個体もある。

それは、過度のストレスの負荷状態の中で、男性ホルモンであるアンドロゲンの抑制に耐性がある個体と(同性愛化しやすい)、胎児へのアンドロゲンの供給に問題がない個体との相違点であると言っていい。

当然ながら、因果関係を特定することの難しさが、そこに垣間見えるのだ。

異性愛やLGBという「性的指向」が、初期の幼児期の時期に決定されると主張する専門家もいる。

然るに、同性愛の発生が先天的なものであれ、後天的なものであれ、少なくとも、何某かの遺伝的要因が関わっているのは間違いなく、進化論的な説明を避けては通れないと思われる。

多くの場合、同性愛とは無関係ではないが、男性に多いと言われ、性嗜好異常に包括される「異性装」(「服装倒錯的フェティシズム」)と切れ、同性愛の場合は、進化論的な説明において説得力がある答えが提出されなくとも、それでも私は思う。

同性愛者が子孫を残すという一点において不利であったとしても、同性愛者が存在しているという現実が、存在するだけの理由があるということを。

差別や偏見に曝されていたにせよ、自然淘汰を乗り越えているばかりではなく、本作のフランクがそうであったように、知的に優れていたが故に、社会的に高いポジションを得て、社会生活を営む上で何ら支障なく、精神疾患・身体的疾患とも無縁である事実を想起する限り、彼らの存在には、存在するだけの理由があると言える

だから私は、「性的指向」のために、自分ではどうにもならない、フランクの嗚咽の中の告白に深い憐れみの情を覚えざるを得なかった。

キャシーには辛かっただろうが、極端に差別や偏見に曝されていた時代で、「性的指向」を変換させられる「治療」に頓挫し、いよいよ煩悶を重ねるばかりのフランクの、離婚後の幸福を願う気持ちでいっぱいだった。

同性愛者原因説において、一つだけ捕捉しておこう。

近年、米カリフォルニア・サンタ・バーバラ大学の進化生物学チームの研究で、母親の胎内で早期に作られる「エピマーク」という後成遺伝子が、性別や生殖器の発達に関わっているという大胆な仮説を提示している。

「エピマーク」に関する様々な情報がネット上に飛び交っていて、正直、興味をそそられるが、今の私には、特段の関心を持ち得ない。

本稿の最後に、同性愛の問題の枠組みを超え、最も重要な事実を書いておきたい。

LGBTのシンボルとなっているレインボーフラッグ(LGBTの社会運動を象徴する旗)
LGBTを理解する上で、人間の性別がどのように決定されるかという、性分化の生物学的機序を知っておく必要があるということだ。

なぜなら、「性的指向」に関連するLGBも、「性自認」に関連するTも、性分化のプロセス(脳の性分化段階)における影響による発現が考えられるからである。

要するに、「男性化・女性化」という、性分化の機序は極めて複雑であり、幾多の険しい関門を突破していくという現実の重さである。

そして、その突破すべき険しい関門は、たった一つの段階においてさえ十全に機能しなければ、異常を起こし得るリスクを抱えているが故に、ヒトの性は常に、想定される状態に性分化し、発達するとは限らない複雑性に囲繞されているということ。

ヒトの性分化への道程は、幾多の険しい関門突破なしに済まないのだ。

多くの胎児は、正常に性分化し、発達するが、私たちの性には、性分化疾患のトラップに嵌る危うさと同居しているのである。

〈生命〉の厳密な定義は確立されていない現実を踏まえて、敢えて文系のラインで書くが、その関門を突破して、私たちの世界にデビューし、固有名詞を有する自我にまで辿り着いた全ての人間の〈生命〉には、存在するだけの何某かの理由があったのだ。


同性パートナーシップ条例・「モーニングバード」(テレビ朝日系列他)より
(注)同性結婚は、「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない」という憲法第24条1項により法的に認められていない。しかし、渋谷区では、全国で初めて、「同性パートナーシップ条例」が成立させ、「セクシャル・ マイノリティ」の権利を保障する動きとして注目されている。但し、同性カップルを夫婦と同等に扱う証明書に法的な効力はなく、区側は「憲法が定める婚姻とはまったく別の制度」としている。現在、世田谷区でも、カップルが「パートナーシップ宣誓書」を区長に提出し、区が「受領証」を発行するという制度が生まれている。


(2016年9月)


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