1 男の贖罪意識を試し続けてきた女の、それ以外にない収束点
東京都郊外(奥多摩近辺と思われる)。
夫婦の隣家で起きた幼児殺人事件を契機に、夫婦の関係に亀裂が入る。
夫の尾崎俊介(以下、俊介)が、件の殺人事件の容疑者として、地元警察に逮捕されるに至る。
幼児の母・立花里美と内通していた疑いをかけられ、逮捕されたが、冤罪によって地元警察から釈放される。
一方、かつてラガーマンだった週刊誌記者・渡辺は、16年前の和東大学時代に、当時、プロを目指す野球部員だった俊介の身元を調べていた。
その調査から、卒業の半年前に俊介が退部し、都心の証券会社に入社した事実を掴み、その証券会社を訪ねる。
俊介をコネで紹介したという証券会社の先輩から、同時期に3人の部員も退部している事実を聞かされ、そこに俊介を含む4人の部員が犯した事件の臭気を嗅いでいた。
殆ど同時期に、地元警察から釈放される際に刑事が吐露した言葉の中で、俊介が犯した犯罪が集団レイプ事件である事実が判明する。
当然、渡辺も、その情報を共有しているから、彼は俊介を訪ねていくが、無反応の俊介。
渡辺と小林 |
就職先で恋人ができ、婚約するに至るが、相手の両親が彼女の過去を調べさせた結果、事件のことが知られ、婚約は破談。
そして、この噂が広まり、夏美は退職する。
今度はリース会社に転職して知り合った男と結婚するが、翌年春頃に流産、その後、その相手からDVを受け、入退院を繰り返す。
実家に戻った夏美は、2度の自殺未遂を起こした後、失踪するに至る。
ここで、サスペンスベースの物語は、俊介の妻・かなこが、隣家で起きた幼児殺人事件の犯人として、夫を密告するシーンを提示する。
警察から釈放後の俊介を、執拗に追う渡辺。
渡辺は俊介に対して、直截(ちょくさい)に、集団レイプ事件の被害者・夏美が負ったセカンドレイプの現実を突きつけるが、かなこの密告によって、再び、俊介が警察に拘束される現場を目撃するのだ。
一方、そのかなこの密告を警察から知らされた俊介は、かなこを前にした接見室で、衝撃を受ける心情を隠し切れなかった。
16年前に起こした集団レイプ事件の辛い記憶が、留置所の中で、フラッシュバックのように襲ってくる。
二人の女子高校生に、殆ど泥酔状態の4人の大学生が取り囲んでいた。
一人の女子・夏美をゲットしたつもりの俊介が夏美といちゃついていて、一見、睦み合うようなムードを醸し出ていたが、不穏な雰囲気を察知したもう一人の女子が、「トイレに行く」という理由をつけ、その場を外したことで、今度は、夏美を囲繞し、明らかにレイプ事件を想起させるカットが挿入される。
ここで、現実に戻る。
そして、小林の情報によって、夏美が生きていて、電気屋の前で、仲良く二人で、高校野球の中継を見ていたという事実を知らされた渡辺は、「夏美=かなこ」ではないかという印象を強くする。
ここから、時系列は、レイプ事件から時を経て、DVの痕を顔に残し、疲弊し切った様子で、病院の中庭のベンチに座るシーンにシフトする。
病院に見舞いに来た俊介の声掛けに、呆れ果て、その場を去っていく「夏美=かなこ」の悄然(しょうぜん)とした姿が、相当な間をとって、印象的に映し出されていた。
そして、「夏美=かなこ」である事実を、本人に向かって、ダイレクトに問いただす渡辺。
そこには、小林もいる。
玄関の扉をノックし、開扉(かいひ)を求める小林。
フラッシュバックに襲われるかなこ。
その事実を、渡辺と小林に、正直に話すかなこ。
何度も入退院を繰り返すかなこのもとに、男が訪ねて来たと言うのだ。
「本当に申し訳ありませんでした」
それ以外にない言葉をリピートするだけの男を、追い返す実母。
初めてのDVによってレイプ事件のフラッシュバックが惹起し、自殺未遂に振れるかなこ。
心身ともに疲弊し切ったかなこが、「お金貸して」という電話を、証券マンの俊介にかけた映像が、その直後に提示される。
慌てて駆けつけて来た俊介の前にいるのは、電話ボックスの中で蹲(うずくま)り、「死ねないんだよ…」と漏らし、心配のあまり、自分の体に触れようとする俊介を拒絶するかなこだった。
新しく部屋を借り、自分の人生を再スタートさせるはずの俊介は、この叫びを受け、もう、何もできなくなった。
列車に乗る女と、少し離れた席で座っている男。
女が先行し、男がそのあとを追う。
男に対する拒絶を言動化する女。
「どうしても、あんたが許せない」
女はそう言い放って、裏寂れた田舎の道路の中枢に、男を置き去りにする。
それでも、ついていく男。
男には、今、それ以外の選択肢がないのだ。
田舎の宿に入り、女は事件の際に逃げたもう一人の高校生の名が、「かなこ」である事実を男に告げる。
弾丸の雨の中、男は女に金を渡そうとするが、それを拒絶し、男の頬を叩く女。
明らかに、「支配・服従」の関係を露骨に押し付ける女の思いにも、それ以外の選択肢を持ち得ないのである。
こんな状況下で、「それでも、ついていく男」との物理的距離が狭まっても、「支配・服従」の関係によって、「永遠なる贖罪」を男に求める女の情感系の強度に変化がなかった。
「あの日、あなたに会わなきゃ…」
吐き捨てて、足早に歩いていく女。
「それでも、ついていく男」に「ついて来ないで!」と叫びながらも、「それでも、ついていく男」との距離を確認し、歩を緩める女。
歩道橋から飛び降りようとして、男を試す女。
「飛び込むんじゃないかと、一瞬、思ったよ…」
「それでも、ついていく男」の一言に、「死ねばいいと思った?」と突きつける女。
「すいません…楽になる気がして…」
思わず、本音を吐く男。
「あたし、あんたが逃げたかと思った。だけど…戻って来て欲しかった」
女も本音を吐く。
この言葉に、嗚咽を漏らす男。
贖罪だけが、男の残り人生のすべてなのか。
この直後の映像は、かなこの密告が虚偽である事実を自ら認めることで、俊介が警察から釈放されるシーンに繋がるが、再び、時系列が戻っていく。
二人はアパートの部屋を借り、棚も何もない殺風景な、「非日常の日常」の生活の一歩を踏み出していく。
「死ねって言われたら、俺、死ぬから」
男のこの一言によって、女との物理的距離が最近接し、そこに、一人の男と一人の女の心理的距離が最近接する。
最近接した男と女が交接する、そのファーストステージが開かれた瞬間である。
そんな回想に耽っていた男が、解放された身を、「ただいま」と言って、部屋にこもる女の前に現れた。
「お帰り。お腹すいてる?チャーハンくらいだったら作れるけど」
「食べたいな」
普通の会話だった。
二人は自宅を離れ、小さな旅に出る。
渓谷の見える温泉場(奥多摩のもえぎの湯)で、ここでも、普通の会話を繋いでいた。
二人は渓谷にかかる吊り橋を歩き、橋の中枢点で止まった。
「何にも言わないんだね。あたしのせいで留置所に入ったでしょ。怒ったりしないの?あなたが留置所に入ってるとき、あの渡辺って記者に何もかも話したよ。あの人、『それで幸せなのか』って頻りに聞いてた。だから私、答えたのよ。私たちは…幸せになろうと思って一緒にいるんじゃないって」
かなこはここで、おもむろに、右足のサンダルを渓谷に落とした。
「私が決めることなのよね」
そこだけは、きっぱりと言い切った。
ラストシーン。
渡辺が二人の様子を見ようと訪ねて来た。
渓谷で涼んでいる俊介は、意想外のことを話し出した。
「彼女は出ていきましたよ。…置手紙一つですよ。ただ、『さようなら』ってだけで。…幸せになりそうだったんですよ。幸せになりそうだったからです」
妻とよりを戻した渡辺は、ここで、自分の思いを重ねるように発問する。
「だったらなればいいじゃないですか?」
「ダメですよ。一緒に不幸になるって約束したから。だから一緒にいれたんです」「でも、それでいいんですか?」
「テーブル、新しくしたんですよ。ホームセンターで。安いんですね。棚も買って…」
そう言った後、俊介は、きっぱりと自分の意志を表明する。
「俺は捜し出しますよ。どんなことしても。彼女を見つけ出します」
俊介の強い言葉を受け、意地悪いようだが、どうしても聞きたいことを、渡辺は問う。
「あの…。一つだけいいですか?もし、あのときに戻れるとしたら…事件を起こさなかった人生と、かなこさんに出会えた人生と…どっちを選びますか?」
思いも寄らない発問を受け、渡辺に顔を向け、呆然と立ち尽くす俊介が、そこにいた。
それは、虚を突かれた発問の答えが、それを言語に結ぶことを禁忌にするほど、俊介の内側で灼然(しゃくぜん)たるものであったからである。
2 女が渓谷にサンダルを捨てたとき、「何か」が終わり、「何か」が始まった
警察から釈放され、男は女の柔和な態度に迎えられ、当惑する。
しかし、女の柔和な態度が継続力を持つことを感受した男は、恐らく、「日常性」の空気を感じ取った。
それは、「非日常の日常」から、「非日常」という概念が削り取られるような感触だった。
女が渓谷にサンダルを捨てたとき、「何か」が終わり、「何か」が始まった。
その始まった「何か」に、男は希望を感じ取った。
男は救われたと思ったのか。
しかし、それは束の間だった。
孤独の穴埋めにもしていた男を「解放」した女は、そのまま消えていく。
男を「解放」した女の心理に横臥(おうが)する感情は、どれほど物理的共存を延長しても、骨の髄まで安寧し得る「日常性」を構築することなど叶わず、女の内側に溜め込まれた雷管が起爆する危うさを処理できない現実を直視するとき、もう、相対的安定を得た今こそ決断して、それを遂行する意志を固めたに違いない。
思うに、歩道橋からの自殺未遂行為など、「死ねって言われたら、俺、死ぬから」と言い切った男の、贖罪意識の是非・高低を試し続けてきた女にとって、密告行為は、最後の「試し」の具現化だった。
その最後の「試し」においてさえ、男は虚偽の自白をし、贖罪意識を身体化するのだ。
そればかりではない。
警察から釈放されて帰宅しても、男は女の密告行為に全く言及しなかった。
女は、そのとき、決断したと思われる。
男の行為は贖罪意識から発し、愛情からではなかった。
それは、疾(と)うに分っていた。
「今」・「このとき」、「遅過ぎた選択」を具現化しなければ、男の贖罪意識を試し続けてきたことで、悪意にまで膨張された女の人格は、より一層、捩(ねじ)り切れ、いよいよ自己嫌悪を深め、これ以上膨れ上がっていくと、自我の安寧どころか、二人とも復元し得ないほど傷ついてしまうだけだろう。
それは女にとって、もう一つの自傷行為であると言っていい。
もう、限界だった。
かくて女は、「さよなら渓谷」を実践躬行(じっせんきゅうこう)するのだ。
その結果、男は置き去りにされる。
置き去りにされた男の感情は複雑だった。
「幸せになりそうだったんですよ」
男は、そう言った。
それは、初めて手に入れたばかりの「解放感」が生む、「寂しさ」の発現でもあった。
孤独な男に渓谷の風景は似合っていた。
男は、渓谷に来るたびに失ったものの大きさを知る。
それは女への思慕であると、男は考えた。
「愛」と読み取ったのかも知れない。
そんな男を訪ねた雑誌記者に、男は自分の「愛」を吐露する。
吐露された記者は、根源的で、最も知りたかった問いを投げかける。
その問いに反応できない男が、そこにいる。
明らかに、男はここで、自己欺瞞を突かれている。
男が「愛」と信じたものの本体は、「寂しさ」からくる空洞感が生み出した、様々に複層的に交差する感情だった。
その本体は、「解放感」である。
女から完全に解放された男が得た感情の中に、「寂しさ」が含まれていたとしても、それは一年にも満たない期間だったが、この凝縮された時間の中で、味わったことのない「解放感」を手に入れた者が、その「解放感」の使い方に戸惑い、困惑する情的過程の目立った発現ではないか。
その「解放感」の使い方に未だ馴致(じゅんち)しない時期に放った男の言葉には、多分に重量感が欠けている。
いつの日か時が経ち、「解放感」の使い方を駆使し、男は動いていく。
しかし、動いた先に女はいない。
男は女を捜すことはない。
これだけは、はっきり言える。
「贖罪人生」から解放された男は、全く別の人生を歩んでいくだろう。
男が愛情と信じたものは、束の間、女との柔和な風景の中で得た精神的安寧であったに過ぎないからである。
それ故、男と女は、決して結ばれることはない。
作り手がどのような思惑で、このラストシーンを用意したか否か、寡聞にして私は知らない。
しかし、「贖罪人生」を強いた女と、その人生を強いられた男の物理的・生物学的共存には、私たちが呼吸を繋ぐ、ごく普通の「日常性」に届かない、「非日常の日常」が常態化された風景だった。
この関係に唯一の解決点があるとすれば、もう、置手紙をして女が去っていくという選択肢しかなかったのだ。
この一点においてのみ、女は救われ、男もまた救われるからである。
3 「レイプトラウマ症候群」 ―― その瞑闇の世界の風景の痛ましさ その1
この映画を本質的に理解するには、「レイプトラウマ症候群」(以下、RTS)について知る必要があるだろう。
だから、心理学的アプローチが不可避となる。
ここで言う「レイプ」を、日本の刑法の枠内に収めて狭義に説明すれば、刑法177条(暴行又は脅迫を用いて13歳以上の女子を姦淫した者は、強姦の罪とし、3年以上の有期懲役に処する)に相当する犯罪による性暴力被害を指す。
しかし、日本の刑法180条(告訴がなければ公訴を提起することができない)によって、「強姦罪」は被害者に不利益が生じる怖れを防ぐための「親告罪」とされ、告訴を欠く公訴は、訴訟条件を欠くものとして公訴棄却となってしまうので、多くの「暗数」(警察が認知しない犯罪行為のことだが、被害が軽微であると判断され、告訴を警察が受理しないという警察のフィルタリングもある)がありながらも、統一された公的な犯罪統計が存在せず、完全に把握することは困難であると言っていい。
重要な事柄から書けば、「暗数」に隠し込まれやすい、この性暴力被害を被弾し、それを引き摺って生きていく女性が負うRTSは、「心理的に健康な人が起こす反応である」という事実である。
それは、この症状が精神疾病に起因していないということを意味する。
従って、個人の性格傾向や特性などは、この激甚な性暴力の破壊力の前では、殆ど無縁であると言える。
また、激甚な性暴力を被弾したことに因る心的外傷を認知し続ける精神状態は、普通の日常性を確保している者には理解し得ないが故に、より一層、孤立感を深めてしまう現象を生み出す。
「私も被害を言えないでしまい込んで、自分を責めたり相手を憎んだりしながら必死で生きている」(ウートピ世論調査結果)
性暴力を被弾した女性の精神的ダメージは、いよいよ深くなるので、このダメージを希釈化する方略として、「たいしたことではない。自分は傷ついていない」などと思い込むことで、非意識過程の中で、却って性行為にのめり込むケースもある。
性暴力被害に被弾した記憶を消去してしまうのである。
「なかったことと自己暗示をかけてる」(ウートピ世論調査結果)というアンケートの回答が、その事実を裏付けている。
これは、社会への不適応状態に陥った時に行われる、「自我の再適応メカニズム」としての「防衛機制」である。
こんな風に、心理的な安寧状態を保持する方略もあるのだ。
もとより、RTSは、根本となる一つの原因から生じる一連の身体・精神症状を指すが、その症状は多様であり、いずれの症状も、必ず出来するとは限らないのだ。
まさに、RTSが「症候群」(シンドローム)である所以である。
―― ここから、映画のケースを考えてみよう。
紛れもなく、映画のケースは、刑法178条2(2人以上の者が現場において共同して第177条又は前条第2項の罪を犯したときは、4年以上の有期懲役に処する)の「集団強姦罪」に該当するので、「親告罪」ではないのだ。
「強姦罪」と「集団強姦罪」の相違点を知らねばならないだろう。
ところが、「集団強姦罪」が「親告罪」ではないが故に、逮捕されても、執行猶予付きの判決を下されただけだった。
新井浩文が演じた俊介の後輩に至っては、悪びれる様子や、2度の自殺未遂を起こしたヒロインへの配慮も全くなく、自らが積極的に関与した「レイプ事件」をしたり顔で喋っていた。
観点を変えて、思考したい。
脳科学的に言えば、彼女の状態は、情動反応を誘発する重要な脳の部位である扁桃体(アーモンドの形をした大脳辺縁系の一部)の記憶に制御される行動と、心の働きとしての意識が乖離していることによって惹起していると考えられる。
ここで言う、彼女の扁桃体の記憶とは、RTSによる甚大な心的外傷であり、意識とは、贖罪する相手を心の中で受容し得る観念の様態である。
しかし、その意識のルーツには、RTSの記憶による恐怖・怒り・恥辱・絶望・死の脅威などの感情が絡み合い、捩(ねじ)れ切って複層的に含まれているので、意識もまた、常に分裂的な反応(「自分が自分である」という感覚が失われる「解離性障害」への危うさ)を起こして、自我内部で統合されていないのである。
そのことは、彼女が、自己肯定感の喪失によるアイデンティティ・クライシスの心的状況を常態化していることを意味している。
安定的自我によって、「反復」→「継続」→「馴致」→「安定」という循環を持つ(私の定義)、ごく普通の日常性が確保されている状態 ―― この状態を、人間の尊厳性と呼びたい。
この人間の尊厳性が根柢から脅かされ、無力化されるルーツに横臥(おうが)するのは、扁桃体が記憶し、それが意識に乗り移っている「集団強姦罪」の禍々(まがまが)しくも、凄惨極まる記憶である。
だから、絶対に相手を許せない。
物語の序盤に興味深いエピソードがある。
「炊飯器、新しいのにしようか?」
この俊介の何気ない言葉に、「いらない」と答えるかなこ。
明らかに、通常の夫婦が、ごく普通に構築する、「日常性」の風景の立ち上げに対する拒絶反応である。
従って、いつもそうであるように延長されていた夫婦の交接を、この時ばかりは、きっぱりと拒絶する。
かなこの拒絶に、襲いかかるように求めていく俊介。
「夫婦だろ!」と叫ぶ俊介。
「出てってよ!」と叫び返すかなこの脳裏に、噴き上がってくるRTSの凄惨な記憶。
この直後、俊介を拒絶したかなこが、自ら交接を求めるシーンに繋がるが、彼女のこの行為は、脳幹内の間脳下部に位置する、原始的な脳・視床下部には性欲中枢があり、扁桃体の指令によるドーパミン流出のこの欲望脳の、極めて動物的反応であると考えられる。
一貫して「受ける性」である彼女には、自分のイニシアティブで相手と交接する、ごく普通の性行動を受容する構えが、遣り切れないほどの彷徨の果ての、俊介との物理的・生物学的共存の生活の中で形成されたと思われるのである。
その彷徨の端緒を開く決定的なエピソードがあった。
RTSによる甚大な心的外傷によって、殆ど未来の見えないかなこが、絶望的な状況の中で、俊介を呼び出したときのこと。
「はい」と言って頷く俊介。
「…じゃ、私より不幸になってよ!私の目の前で、苦しんでよ!」
そう叫び、かなこは号泣するのだ。
また、こんな糾弾もあった。
「どうしてもあんたが許せない。私が死んで、あんたが幸せになるんだったら、私は絶対に死にたくない。あんたが死んで、楽になるんだったら、私は絶対にあんたを死なせない。こんなことで楽になろうとしないでよ」
あまりに直接的言辞だが、この言辞の意味は、彼女の扁桃体の記憶が情動反応を誘発し、意識のルーツに根深く張り付いているRTSの記憶による怒りを噴き上げ、感情に意識が追いついた典型的なパターンであって、そこに矛盾がない。
但し、私がこの映画で一番気になったのは、小説の台詞を、そのまま映画に写しとったような印象を強く受けたという点である。
このような人間の心の闇を描くシリアスドラマに、以上のような、あまりに首尾よく整った、歯切れの良い「決め台詞」の挿入は、却って「描写のリアリズム」を希釈化させてしまうリスクを分娩(ぶんべん)してしまうのである。
良い映画だが、その辺りが些か気になるところだった。
閑話休題。
男の執拗な贖罪の言動を受けても、RTSの記憶による恐怖・怒り・恥辱・絶望・死の脅威などの感情が捩(ねじ)れ切って、複層的に張り付く意識が、高い強度の中で記憶している限り、忘れようと努力しても、簡単に忘れられるわけがないのだ。
基本的に、女性にのみ適用される「集団強姦罪」に被弾した、RTSによる甚大な破壊力を軽視してはならないのである。
4 「レイプトラウマ症候群」 ―― その瞑闇の世界の風景の痛ましさ その2
思うに、私たちが意識と呼んでいる実態は、身体の情動反応を捉えたイメージ化された集合体である。
何より、人間の行動は、私たちが理性と呼ぶ前頭葉によって統合されていながらも、このような激甚な心的外傷を被ると前頭葉が十全に機能しなくなる。
これは、一つの統合された人格が分裂する危うさを招来するだろう。
扁桃体によって誘発された情動反応は、環境に適応するために、前頭皮質(思考・創造性・感情制御等を担う脳の最高中枢)によって適切に制御されているからである。
「エモーショナル・ブレイン―情動の脳科学」の著者として名高い、アメリカの心理学者・ジョセフ・ルドゥーによると、扁桃体が無意識の記憶を溜めるのは、海馬が意識的な記憶を定着させるのと同じ方式であるとされる。
「過去のことを思い出すとき、海馬は意識的な記憶を呼び出しているのに対し、扁桃体を基本としたシステムは身体的な記憶を思い出すのだ。つまり、心臓をドキドキさせたり、手のひらに汗をかいたりといった、当初の体験を再構築するのである。記憶がある程度の強さで扁桃体に焼きつけられてしまうと、もう自分の意志で抑えることはできない。身体が反応して、感覚が完全にリプレイされながらトラウマを再体験することになる」(前掲書)
「トラウマを再体験する」というPTSD(心的外傷後ストレス障害)の状態では、扁桃体に根づいた無意識の記憶が、その原因となった特定の体験との繋がりを持たずに、卒然として押し寄せてくることにもなる。
前頭皮質の評価が介在しない粗雑な扁桃体の記憶や情動反応が、人間が様々に直面する状況に不適応を起こすことは十分に考えられるのである。
私たちがストレスを溜めて皮質の機能を低下させているとき、しばしば、感情のコントロールがうまくいかなくなるのは、扁桃体の指令を抑制し切れなくなるからだ。
恐怖の刺激に継続的に晒されることで、実際の情動的刺激がなくても過敏に反応してしまう恐怖症を発症するのも、扁桃体の記憶が関わっている。
そして、扁桃体の記憶や情動反応が、当然の如く、RTSの記憶を収納する。
RTSの記憶を収納することで、安定的で継続的な日常性の確保が困難になるのである。
このことは、前述したように、「反復」→「継続」→「馴致」→「安定」という循環を持つ、ごく普通の日常性が確保されている状態(人間の尊厳性)の復元が、彼女にとって、いかに困難であるかという現実を示している。
その意味で、二人の関係を「愛」と呼ぶには無理がある。
それほどまでに、根深く張り付いているRTSの破壊力は甚大であるということだ。
―― 映画に戻る。
男の執拗な贖罪の言動を受けても、RTSの記憶による恐怖・怒り・恥辱・絶望・死の脅威などの感情が捩(ねじ)れ切って、複層的に張り付く意識が、高い強度の中で記憶している限り、忘れようと努力しても、簡単に忘れられるわけがないのだ。
結論から言えば、二人の安定的で継続的な日常性の確保が困難であるという現実の途轍もない重さ ―― これが二人の関係の底層に張り付いているが故に、何らかのきっかけさえあれば、ほんの一時(いっとき)の「幸福」を希求する彼らの自我に圧力を加えてしまうのである。
「自分をレイプした相手と一緒に暮らすっていうの、私、全然分りません。でも、尾崎にはバレる心配がないんです。いつもびくびくしながら、事件のことを必死で隠して、でも、いつも事件と一緒に生きてて…」
渡辺に語ったこの小林の言葉が、「夏美=かなこ」の心理を代弁していると言える。
「死ねって言われたら、俺、死ぬから」
同様に、俊介のこの一言も、あまりに重い。
事件後の彼の残りの人生は、「贖罪恐怖感」とも言うべき感情に支配されているのだ。
しかし、この映画は、その問題意識と訴求力において、高く評価できるものの、些か偏頗(へんぱ)な印象を受ける。
最後まで、俊介の「贖罪恐怖感」を重視することで、俊介への感情移入しやすい人物造形を誘導し、彼をここまで追い詰め、責め苛(さいな)んだ、かなこの「性格傾向」が、恰(あたか)も、尖り切った彼女の特殊で、負の側面に起因するかのようなイメージを受けてしまうのである。
RTSが、基本的に、個人の「性格傾向」の問題とは無縁である現実への理解が浅いのではないか。
ここで改めて考えてみるに、かなこが救済されるには、彼女の心の叫びや闇を完全に受容してくれる相手が必要だった。
それが、「レイプ事件」の加害者である俊介の「贖罪人生」という設定になる。
要するに、俊介には、「贖罪人生」それ自身が、彼の唯一の救済になるという印象を強めてしまうのである。
更に思うに、「贖罪恐怖感」にまで膨張するほど自我を歪めさせた、俊介の「贖罪人生」には、程度の高低の質において、リアリティが欠けているのではないか。
叫ばれ、号泣され、糾弾され続けても冤罪を引き受け、身をば一途に捨て、「贖罪人生」を繋ぎ、それを継続するという人物造形には無理があると思わないのだろうか。
観る者は、俊介に「贖罪人生」を強いる辺りにまで堕ちていく、かなこの「狂気」が強烈に印象付けられた分、「贖罪恐怖感」にまで膨張し、「贖罪人生」を繋ぐ俊介の「心の辛さ」に感情移入するだろう。
その結果、かなこの「被害者性」と俊介の「贖罪人生」には、本来、位相が全く違うにも拘らず、後者の「贖罪人生」を強調し過ぎてしまう構成力に結ばれていくことになる。
その一点において、かなこの「被害者性」が希釈化されてしまわないか。
これは、扁桃体が記憶した、かなこの激甚な恐怖が脆弱化されることを意味する。
この瑕疵は、かなこの「レイプ事件」の状況の凄惨さを、きちんと描き切っていなかったことと無縁ではないだろう。
最後まで「男性目線」で描いてきたとは思わないが、印象の濃度で言えば、そのような残像が残ってしまうのである。
―― 本稿を括るにあたって、以下のことだけは書き添えておきたい。
社会心理学の概念である「公正世界信念」についてである。
「世界は公正にできており、努力した者は報われ、努力しない者は報われない」
簡単に言うと、このフレーズに収斂される倫理観で、モラル重視の日本人に根強い観念である。
然るに、この「公正世界信念」が過剰になると、しばしば、被害者・被災者に対する取るに足らない「落ち度」を見つけ出し、その態度を批判してしまうのである。
「被害者・被災者にも何らかの責任があるのでないか」
「公正世界信念」を過剰に信じ、それを他者に押し付ける傾向を持つ、ごく一部の者は、こんな風に決めつけてしまうのだ。
被害者・被災者の一面だけを見て、「ヒューリスティクス」な判断が過剰に先行する僅かな情報のみで、「努力しない者」への道徳的ジャッジメントを被せてしまうのである。
「強姦罪」と「集団強姦罪」には、「加害者」と「被害者」しか存在しない |
「女子高校生にも何らかの責任があるのでないか」
この国では、高い確率で、この問いが女子高校生に発せられるに違いない。
しかし、女子高校生の「落ち度」と、4人の大学生が犯した犯罪を同次元で論じるのは根本的に間違っている。
「加害者」と「被害者」の問題を、同次元で論じるのは根本的に間違っているのだ。
何度でも繰り返したいが、「強姦罪」と「集団強姦罪」には、「加害者」と「被害者」しか存在しないのだ。
この認識を共有すること。
そこからしか、何も始まらないのである。
【参考資料】
拙稿・心の風景 「感情」が人間を支配する
(2016年7月)
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