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2016年7月26日火曜日

岸辺の旅(’15)   黒沢清


<人間の〈生〉と〈死〉、グリーフワークを丹念に描いた秀作>





1  望みが叶って、稲荷神社の祈願書を燃やし、グリーフが完結する





「楽しい曲だし、何か、曲のリズムと先生のテンポが合っていないっていうか…だから、この子、間違えるんじゃないかって…」

ピアノ講師の仕事で、見過ぎ世過ぎを繋いでいる瑞樹(みずき)の心の風景を、端的に示すシーンから開かれる物語は、3年前に失踪した夫の優介の唐突の帰宅によって、一気に変化の端緒を反照するシークエンスを映し出していく。

「俺、死んだよ。富山の海でね。体はとっくにもう、カニに食われて失くなってる。だから、探しても見つからないんだ。あの頃、病気だったんだろうね」
「あたしのせい?」
「違うよ。何か、仕事に追われてる気がしてさ。不思議な感じだったな。あっという間なんだ。一歩踏み出して、ことが始まると、もう引き返せない」

「死者」となって帰宅した優介と、その夫を探すために苦労し続けた妻・瑞樹との奇妙な会話だが、一貫して、物語は「映画的リアリティ」を被せつつ進行していく。

「ここまで長い道のりだった。そうやって、旅をする死者は少なくないんだよ。途中で疲れてしまって、一カ所に住み着いてしまう者もいる。とうとう、自分が自分じゃなくなって、あるとき、ふっとまた、いなくなってしまうんだろうね」

その夜の優介の言葉だった。

ここで、夢から覚めた瑞樹は、優介の「帰宅」が夢ではなく、現実である事実を知り、3年ぶりに会った夫に抱きつき、「いつまでもここにいて」と懇願するが、優介の答えは、以下のもの。

「俺と一緒に来ないか?あちこち、きれいな場所があるんだ。あの世とかじゃないよ。ここに来るまでに色々世話になって、俺がいなくなって困ってる人もいるんだよね」

優介と瑞樹
かくて、精神的に追い込まれ、入水自殺した優介の死後、彼が亡くなってから帰宅する間に立ち寄った生活スポットを、夫に導かれ、その夫の3年間の足跡を辿る二人の「岸辺の旅」が開かれる。

二人が最初に出会った人物の名は、新聞配達業に従事する初老の島影。

「死者」である事実に気が付いていない島影は、人情味のある好人物。

この新聞屋で働いていた優介は今、頼まれてパソコンの修理をし、瑞樹は島影の新聞の折り込みの手伝いをする。

「優介が帰って来たのは、どうして?」
「みっちゃん、好きだよ」

最も聞きたいことを尋ねる瑞樹に、未だ答えられない優介。

「何だか、呼ばれてるような感じがする。どこだか分らないけど、行かなくちゃならない…」

優介と島影
同時に、「死者」である島影もまた、「ややこしい」現実に捕捉され、自分のポジションと、肝心の「辿り着く先」が不分明になり、泥酔しながら、その苦悩を優介に打ち明けるのである。

この直後、迷いを振り切ったのか、趣味の花の絵や写真を切り抜いた、そこだけは特段に、鮮やかな色彩で彩られた部屋の中で、彷徨(さまよ)う霊体の島影は「あの世」に旅立っていく。

旅立っていった島影の部屋は、鮮やかな色彩で彩られた風景とは無縁な廃屋と化していて、それを視認する瑞樹は恐怖に怯(おび)えてしまう。

優介もまた、そんな運命を辿っていく思いを隠せないのだ。

次に、二人が立ち寄ったのは、「生者」である神内(じんない)夫婦。

中華料理店を切り盛りする神内夫婦の店で、一時(いっとき)、働くことになる二人。

優秀な歯科医だった優介は餃子作りの仕事に励み、瑞樹は神内夫人・フジエのピアノを弾く平穏な日々を過ごすが、ここで惹起したエピソードは重要なので後述する。

優介との物理的共存に愉悦しながらも、霊体である優介との交接はルール違反なので拒絶される。

中華料理店と別れ、二人は新たな旅に出る。

その旅の中で、優介が生前中に病院の事務員と浮気していた事実を、優介のパソコンのメールで知った瑞樹に、「どうでもいい女なんだし」と歯牙にもかけない反応する優介。

その言葉に切れた瑞樹は、その女・朋子と会うために、一人で東京に戻ってしまう。

朋子
一見、穏やかながらも、敵意丸出しの朋子との言語の応酬によるキャットファイトは、毅然とした態度を貫く朋子に蹴散らされる始末

瑞樹の心は動揺し、改めて、自分の知らない夫の内面世界の一端を知らされる。

それは、3年間の「空洞」を埋めるために必死だった瑞樹の嫉妬感情が、なお息づいている現実を認知させるのだ。

二人の旅は続く。

二人が辿り着いたのは、優介が私塾を開いていた山奥の農村。

そこには、優介が懇意にしていた星谷老人がいる。

アインシュタインの相対性理論をレクチャーしていた最も懐かしい農村だが、そこで今、優介は情熱を持って、老いも若きも、一堂に会する村人たちを相手に、難解な科学的講話中心の寺子屋を再現する。

タバコ畑を経営する星谷老人の義理の娘・薫と、その息子の良太と親戚縁者のような関係を作っていた優介は、そのタバコ畑で働き、人生の最も良好な生活を繋いでいた。

この山奥の農村での生活こそが、歯科医であることにアイデンティティクライシスに陥っていた優介の、その再構築の人生のルーツである現実を、瑞樹は目の当たりにするのだ。

星谷老人
星谷老人が、自分の息子と仲違いし、息子・タカシが家を出るに至り、旅先で風邪をこじらせ、行路病死(こうろびょうし)し、その骨を薫が一人で受け取りに行くが、肝心の良太を置いて、それっきりになってしまった話を、しみじみと聞かされる瑞樹。

ところが、2年後に、失踪した薫が、空腹で死にそうな優介を連れて帰宅したと言うのだ。

しかし、帰宅した薫は、「何をやらそうとしても、まるで魂が抜けたみたいに、ぼーとしてるだけで…」(星谷老人)という状態だった。

その薫を、優介と同様に霊体と考えていた瑞樹は、失踪した薫の夫こそ霊体であると、優介から教えられる。

この村での瑞樹の体験の総体は、彼女の心の闇を払拭させるに足るだけの決定的な何かになっていく。

瑞樹は、星谷老人に教えられた渓谷の滝に行く。

その滝で、瑞樹の前に現れたのは、彼女が16歳の時に逝去した瑞樹の実父だった。

優介との関係で、娘の将来を心配するあまり、自分の思いを娘に伝えに来たのである。

既に、霊体となって彷徨(さまよ)っている薫の夫が森に現れ、その夫に未練を持つ薫との絡み合いを視認し、「生者」である薫から、「死者」である薫の夫・タカシを引き離そうとして格闘する優介のエピソードが、この直後に提示される。

「ここまで来れば、なるようにしかならねぇよ」

そんな投げ遣りな言葉を吐いて、相変わらず、自分に未練を持つ薫と消えていこうとする。

それを遮断しようとする優介に対峙し、瑞樹は最も重要な言葉を吐き出した。

「区切りなんて、つけない方が楽なことだってあるよ!」

たじろぐ優介。

「みっちゃん、それでいいの?」

そして、あまりに不全な状態に置かれ、不安と恐怖に呪縛されているタカシに、優介は「最後の望み」を尋ねるのだ。

「死にたくなかった。俺は死にたくなかったんだ。薫に、そう伝えてくれ」

これが、「あの世」に導かれていくことになるタカシの遺言となった。

更に、肝心の優介にも、顕著な疲弊感が現出し、彼にもまた、「あの世」からの呼び出しが近いことが実感するに至る。

この決意が、優介のレクチャーのうちに変換されていく。

「宇宙はこれで終わるんじゃない。ここから始まるんです。我々は、その始まりに立ち会っているんです。俺はそう考えるだけで、すごく感動します。生まれてきて、本当に良かった。それがこの時代で、本当に幸運でした」

このレクチャー後、優介と瑞樹は結ばれる。

禁断の行為に振れた優介には覚悟ができていた。

だから、海辺にやって来た。

目立った疲弊感によって、自分に残された時間が限定されているという自覚の中で、自らが犯した過ちを、何某かの形で表現せねばならなかった。

「行かなくていい…うちに帰ろうよ。一緒に帰ろうよ…帰ろうよ」

嗚咽の中で絞り出す瑞樹の思いは、この言葉に凝縮されている。

「ちゃんと謝りたかった。でも、どうやって謝ればいいのか、ずっと分らなかった」

この優介の言葉こそ、霊体の状態で瑞樹の前に出現した、彼の帰還の理由であった。

「望みは叶った。また、会おうね」
「うん」

これだけの会話だった。

これだけの会話だったが、優介の失踪の原因が分っても、帰還の理由が分らない疑問を延長させていた瑞樹にとって、謝罪するために帰って来たという事実が、映画のラストで明かされることで、瑞樹の「望みが叶った」のである。

一瞬にして消える優介。

その直後、瑞樹は、優介の帰還を願って書いた、稲荷神社の100枚の祈願書を燃やすのだ。

彼女のグリーフが完結した瞬間だった。





2  「死の認知」のリアリティは、「死後の世界」を信じないという死生観を受容することを意味しない 





この映画で大前提として押さえておきたいのは、黒沢清監督の素朴な死生観である。

黒沢清監督
深津絵里演じる瑞希の台詞の中にある、「違いなんて、何もないのかもね。だったら私も、さっさとそっちの世界に行ってもいいのかな」という言葉に象徴されるように、黒沢監督は、「死者」になっても、やり残した「生者」の「人生」の80パーセントくらいは続くものではないかと考えていて、「死者」になったとき、「こんなにも続くものなんだ」と思う気がするという風に、インタビューで語っていた。

この素朴な死生観が、本作の骨格を成しているのは間違いない。

その意味で、黒沢監督の死生観を反映する原作との邂逅(かいこう)は、僥倖(ぎょうこう)だった。

回想シーンの挿入を除いて、殆ど原作を踏襲し得たからである。

これは、「死んだら終わり」と考える私の死生観と全く相容れないが、さすが、黒沢監督は、日本を代表するジャンダルム(奥穂高岳の西南西にある岩稜で、私は「独立峰」と呼ぶ)の如き映画作家なので、この素朴な死生観を、映画的空間を自在に駆動し、霊界からやって来た「失踪中」の夫と、それを受容する妻の、復元した夫婦の愛の究極の可能性をフォローし続けていくのだ。

だから、その風景の構築の成否に、一切がかかっている。

の成否は、黒沢監督自身の演出力と、の演出力によって引き出される俳優の内的表現力に委ねられるに至るが、ここでは、後者の力量が決定的に問われる映画と言っていい。

ある種、典型的な俳優依存の映画である所以が、この辺りにある。

もとより、心理学ベースで言えば、私が勝手に命名した「死の三命題」という定理がある。

「死の不可逆性」(死んだら生き返らない)・「死の普遍性」(全てのものが死ぬ)・「死の不動性」(死んだら動かない)という定理が、それである。

以上の「死の認知」がリアリティを持つのは、せいぜい、小学校中学年以降であると言われているが、しかし、この「死の認知」に届くことは、必ずしも、「死後の世界」を信じないという死生観を受容することを意味しないのである。

れは、宗教・世界観の問題が重厚に絡むが、世界中の多くの人々が、例えば本作のように、死後の霊体の存在が、まるで、「生者」境界を感じさせないで、「日常性」を自在に遊弋(ゆうよく)する時間に、一種、異様なリアリティを保持し得るなど、「死後の世界」を信じるというデータが厳に確認されているのだ。

従って、図録で明らかのように、日本人の50パーセントの人「死後の世界」を信じるデータを見れば、黒沢監督の死生観もまた、特段に問題はないと言える。

「死後の世界」を信じられれば、私たち人間はどれだけ幸福かと、正直に思うが、には無理である。





3  人間の〈生〉と〈死〉、グリーフワークを丹念に描いた秀作





ここから、映画について言及していこう。

元々、他人だった男と女が夫婦になったが、思いも寄らない夫の謎の失踪によって「悲嘆(GRIEF)」に陥り、殆ど「閉じこもり期」「ショック期」⇒「喪失期」を経て、「グリーフワークのプロセス」の第3ステージ)に捕捉されていた妻の前に、「死者」になった夫が出現することで開いていく物語が描く世界は、仏教の民間信仰の教えで言えば、此岸と彼岸、即ち、私たちが住んでいる「現在生」(げんざいしょう)=現世と、煩悩を突き抜け、悟りに至るために超えるべき「死後の世界」との境界を借景にした、極限的な「非日常」の風景だった。

優介の失踪後、瑞希の中枢「閉じこもり期」に潜り込み、沈殿しているものの圧倒的な重さで上澄みを掬(すく)えない過去によって、縛られた時間の宙吊り状態の現在性が炙(あぶ)り出され、心身ともに疲弊し切っていた。

深い喪失感の負の稜線が伸ばされて、いつしか、自分の拠って立つ価値観が崩れ去っていく、鬱的状態とも言える無気力な心的風景を晒(さら)し、自責感情が発現し、一切の不幸の原因を自己責任の問題のうちに還元させていく危うさもあっただろう。

優介の出現は、まさに、この危うさの際(きわ)に捕捉された瑞希の心的風景の渦中に入り込むことで、自責感情を発現していた彼女の中枢を救う決定的な意味を持っていた。

それは同時に、優介自身にとっても、自死によって霊界の住人と化したことで分娩された時間を駆動させ、自己を見つめ、その存在の意味を考え、「もう一つの人生」の可能性を探り、アイデンティティを獲得し得た確かな〈生〉の様態を伝えることによって、妻の瑞希〈生〉の様態を攪乱(かくらん)した責任を負った者の、深い謝罪行為に振れるという意味を成していた。

ここで、改めて、優介の謝罪を受容し、〈生〉〉のファジーな境界が乗り越えられ、グリーフが完結するまでの瑞希の心的過程を整理したい。

私は心的過程を、以下のように考える。

「無自覚な言語交通の不全期」⇒「空洞期」(「閉じこもり期」)⇒「言語交通の不全性の解消期」⇒「再生期」という心的過程である。

「無自覚な言語交通の不全期」とは、優介の失踪後、優介を探すために費消し続けた3年間を指す。

残したパソコンのメールから浮気相手も突き止め、自らが全く感知し得ない、「もう一人の夫」の相貌性を知らしめられことによって、自分の存在価値の情態を見つめるに至るが、そこで炙(あぶ)り出された現実は、夫との言語交通の不全であった。

それも、無自覚な不全であったが故、この心的過程が、地続きの流れで、彼女の中枢に「空洞期」(「閉じこもり期」)を開いてしまうのは必至だった。

「空洞期」とは、一言で言うと、グリーフに捕捉された自我が宙吊り状態の現在性を晒(さら)し、足場が定まらず、辛うじて、時間にぶら下がっているという心的風景である。

この心的風景は、冒頭での、「楽しい曲なのに、曲のリズムと先生のテンポが合っていない」などと、ピアノ講師の生徒の母親に、直截(ちょくさい)に指摘されるシーンのうちに止めを刺すだろう。

瑞希〈生〉の様態が、首の皮一枚で、時間にぶら下がっているのだ。

これは、想像してみれば分ること。

昨日まで日常性を共存していた配偶者が、忽然と消えてしまったのである。

その理由が全く分らないのだ。

事件に巻き込まれたかも知れないし、事故に遭ったのかも知れない。

しかし、それなら調べたら分るはずだ。

分ったのは、唯一つ。

浮気相手がいたことだけ。

もしそうなら、自分は捨てられたのかも知れない。

そんな風に疑心暗鬼が膨張し、それでもなお、解決し得ない事態に直面し、喪失感に甚振(いたぶ)られ、翻弄される日々に疲弊し切って、我が身、一人分だけが入る小さな殻に閉じこもる以外になかった。

この辛さこそ、彼女の「空洞期」の「非日常の日常」の常態化された風景だった。

次に、「言語交通の不全性の解消期」(以下、「解消期」)とは、霊体と化した夫・優介の帰還によって、此岸と彼岸の危ういラインに侵入し、夫婦の関係の在りようを内視し、夫の失踪の理由に迫っていくことで、自分自身を見つめ、対峙しつつ、限りなく客観視し、相対化していく心的過程である。

それによって、夫婦間の「言語交通の不全性」解消していくのである。

何より重要な事柄は、瑞希自身が主体的に〈状況〉と関わり、自らの〈生〉の様態を前向きに変容させていったという一点にある。

この「解消期」において、映画のヒロイン・瑞希にとって、最も重要なシーンの一つが提示されていた

中華料理店の神内夫人・フジエのピアノを瑞樹弾くシーンだが、このとき、思いも寄らないフジエの怒りを買い、驚く瑞樹に、冷静になったフジエ(当時、18歳)が、病死し8歳下の妹との思い出を話し出す。

フジエの妹が姉のピアノが気に入り、フジエの目を盗み、勝手に演奏するが、溜まっていた自分のストレスを妹に転嫁し、一度だけ妹を引っ叩いたことがあった。

「二度と私のピアノに触らないで!」

怒気を炸裂させるフジエ。

折り悪く、妹病死しのは、それから間もない時だった。

ピアノを止めのも、妹の死が原因だったと吐露するフジエ

「でも、そんなどうでもいいことが、タコ糸みたいに私の足元に絡みついていて、年取れば取るほど、もう、一歩も前に進めないって思うくらい、頑丈に…私を過去に繋ぎ止めているの…ほんの一瞬でいい。私、あの頃に戻りたい。それで、心からマコちゃんに謝りたい。叩いてごめんね。ピアノ、弾きたかったんだよね。私がいつも弾いてるの、羨ましかったんだよね。許してね。また、天国で会おうね…」

ここで、暗転する映像の中、悔いるフジエの前に、10歳の妹が現われる。

フジエの妹に瑞樹が近寄り、ヨハン・ブルグミュラー25の練習曲・「天使の合唱」を弾く妹に、親切にピアノを教える瑞樹。

「もう一度、最初から。優しく、滑らかに。自分のテンポで」

ピアノを教える瑞樹の表情は、前述したように、冒頭のシーンでの彼女のそれと対極をなす。

このシーンは、「解消期」の中で、瑞樹の変容を端的に示すシーンであると言っていい。

して、本作のエッセンスが収斂されていく、山奥の農村での生活を描く後半のシークエンスが、ここから開かれる。

それは、優介の帰還の謎が解かれる最も重要なシークエンスだった。

同時に、瑞樹「解消期」が、「再生期」にシフトする彼女の心的過程が自己完結していくシークエンスでもあった。

この山村での生活に溶融する優介の人生が、生前の夫のイメージと切れ、再構築されている現場を目の当たりにした瑞樹は、夫の「もう一つの人生」の可能性を見て、自分を随行させた「岸辺の旅」の原風景を確かめるに至った。

「薫はもう、生きておらんのでしょう。誰にも、どうすることもできなかったんだから、これ以上、ここから誰かが消えていくことが、私は我慢できない。そんな気持ちが、あの子を留まらせていただけですよ。いつまでも続かんよね…」

義理の娘・薫(生者)と、人生への妄執によって崩れていくタカシ(死者)との、絡みついて離れない関係を星谷老人から聞かされた瑞希は、その後の二人が、此岸と彼岸のライン、即ち、〈生〉と〈死〉の際(きわ)で激しく揺動する現実に、複層的に絡み合う人生の厳しさを視認し、より一層、自己の相対化を加速させ、軟着陸の条件を構築していく。

この経験は、自分の夫もまた、成仏できない霊体である現実を思うとき、彼女を捕捉する世界の混沌こそ、現世で虚しく呼吸を繋ぐ自分の、その拠って立つ〈生〉の様態を相対化せざるを得なかったのである。

この世には、このような人々が、まるで現世とのラインの区別なく存在している現実の世界の風景は、小さな世界で生きていた自己の「悲哀」を、限りなく、相対化する破壊力を持っていたのだ。

そればかりではない。

瑞樹は、「あの世」との出入り口である、星谷老人に教えられた渓谷の滝に行き、彼女が16歳の時に死別した瑞樹の実父との対話も、否応なく、異世界に潜り込んだ瑞樹の内面の様態を端的に伝えていた。

「お父さんには、こうなることが分っていたの?」
「ああ。本当に済まない」
「あの人は病気だったの」
「庇うんじゃない!あいつがお前にしたことといったら…」
「お父さん、お母さんが5年前に亡くなったこと、知ってるよね?向こうでお母さんと会えた?」
「ああ。穏やかに暮らしてる」
「良かった」
「お前は何も心配することないよ。だから、いいか。あの男のことは忘れろ」
「私は…大丈夫。そう、お母さんにも伝えて」

瑞樹の内的コミュニケーションを印象づけるが、物語の流れから言って、彼岸の先にある「あの世」から、娘の将来を心配するあまり、「滝」という物理的ツールを利用して、現世に戻って来た若き日の実父であるのは間違いないだろう。

何より重要なのは、「混沌と迷妄の世界」に捕捉されている瑞樹が、今、抱えている困難な状態の中で、彼女自身が、「あの世」の父を呼び出したという一点にある。

そんな瑞樹が、「解消期」と地続きにある、「再生期」に踏み込んでいく。

して、その瞬間がやってきた。

覚悟はできていた。

「ちゃんと謝りたかった」

優介のこの言葉を受容し、一切がクリアになった。

だからこそ、余計、未練が残る。

〈死〉を通して、初めて理解できたに違いない優介への思いが澎湃(ほうはい)したとき、不可避な別離が待っているのだ。

しかし、この言葉を届けるために消費し尽くした時間の重さによって、もう、自分と共有する「防衛体力」を持ち得ない男の辛さを想う瑞樹の優しさが、「また、会おうね」という言葉に結ばれる。

一切は、この一言に凝縮されるのだ。

「帰りたくなかったら、燃やさなきゃいいのね」

そう言って、大切にしていた祈願書を燃やすとき、瑞樹のグリーフが完結する。

この映画は、詰まる所、瑞樹のグリーフワークをテーマにした作品でもあった。

思うに、この「再生期」に至ってソフトランディングする瑞希の心的過程の艱難(かんなん)さは、このような経緯を突き抜けていくことなしに帰還し得なかった優介の、複層的に捩(ねじ)れ切ったアイデンティティの本来的復元が、容易に叶わなかった現実を反照していると言えるだろう。

それにしても、なぜ、この映画は、私に、これほどの感動を与えるのだろうか。

三つあると思う。

一つは、人間の〈生〉と〈死〉の問題を、説明セリフ・説明描写なしに、しっかりと描き切ったこと。

〈生〉と〈死〉が地続きであると考える、黒沢監督の死生観と全く相容れない私だが、この映画は、そんな価値観の違いを安々と超克する構築性があった。

脱帽する。

二つ目は、ヒロインである瑞希のグリーフワークを丹念に描いたこと。

そして、三つ目は、瑞希と優介を演じ切った深津絵里と浅野忠信の出色の表現力。

素晴らしいとしか言いようがない。

ここでも、いつものように暑苦しくなく、且つ、言い知れぬ存在感があり、その自然な演技の訴求力は浅野忠信の独壇場である。

浅野忠信同様に、深津絵里の繊細な表現力は、この国で、彼女の右に出る女優はいないだろう。

この二人に共通するのは、哀感・ 哀愁が漂うこと。

だから、この二人がタッグを組めば、映画的成功が約束されるのは必定だった。

黒沢監督の演出力と慧眼(けいがん)が冴えた逸品である。


(2016年7月)

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