1 「炭鉱は僕の人生じゃない。僕は宇宙へ飛びたい」
素直に感動できる。
物語の主人公が、自分の遠大な夢を具現するには、本人の人一倍の努力だけでなく、それを共有する仲間との友情、周囲の理解ある大人の存在が如何に重要であるかということを、あざとさを全く感じさせない落ち着いた筆致で、情緒過多に流れることなく、丁寧に描き切ったところが、この映画の人気の所以なのだろう。
―― 以下、あらすじと批評。
ウェストバージニア州の南端に位置するマクドウェル郡。
石炭採掘産業で全国に知られていたが、本作の背景となる1950年代に石炭産業の衰退によって、州内で最大の人口減少率を示し、とりわけ若者の流出が顕著で、貧窮化も増加していった。
本作の舞台となるコールウッドの炭鉱町も、その例外ではなかった。
この時代の大きな転換期に、暗鬱(あんうつ)な空気を払拭するかの如く出現したのが、物語の主人公・「ロケット・ボーイズ」だった。
「アメリカ政府は昨日、1957年10月4日、ソ連が人類初の人工衛星の打ち上げに成功し、軌道に乗せたと発表した。ソ連の人工衛星・スプートニクは画期的な快挙で、アメリカ政府関係者は、“冷戦”に新たな章を加える懸念を隠せず、事実、その衝撃の波紋は国中に広がってます・・・陸軍ミサイル開発局の主任フォン・ブラウン博士は、アメリカもソ連に続き、ただちに人工衛星を打ち上げる宣言を。また、未確認情報ですが、このソ連の衛星は、アメリカにいる我々も、まもなくその軌跡を肉眼で見られると。日の入りで1時間後と日の出1時間前に、アメリカの“10月の空”を横切ります」
この長いキャプションから開かる物語は、いわゆる「スプートニクショック」と呼ばれるほど、アメリカを筆頭にする西側諸国の政府や社会に、「共産主義国家・ソ連」への危機感を決定づけた「歴史的事件」として、今でも語り草になっている。(注)
―― コールウッドの炭鉱町にあるビッグ・クリーク高校で、アメフトに興じるホーマーが決定的に変わる出来事。
全ては、ホーマーの青春に存分すぎる刺激を与えたこの夜から開かれていく。
「ロケットを作る。スプートニクだよ。とにかく作る」
家族の団欒(だんらん)の中で発せられた、ホーマーの行動宣言である。
炭鉱夫としての誇りを持つ父・ジョンや母と兄は、冗談としてしか受け止めないので、笑って済ますだけだった。
しかし、ホーマーは本気だった。
友人のロイ・リーとオデルを誘って、ロケットを作る実験をするが、化学的知識がないので当然失敗する。
性格的にポジティブなホーマーが、「アメリカ宇宙開発の父」と呼ばれるドイツ出身の科学者・フォン・ブラウン博士に手紙を書き、自分の思いを伝えるほどの入れ込みようだった。
そんなホーマーが、「変人」扱いされているクエンティンを仲間に引き入れたのは、化学の素養を持つクエンティンの頭脳が必要だったからである。
「ロケット・ボーイズ」の誕生である。
ホーマーの家の地下室を拠点に、ロケット作りに励む4人組が苦労して作ったロケットの発射実験で、炭鉱に飛ばしたため、父の激しい叱責を受け、さすがのホーマーも意気阻喪(いきそそう)する。
それでも彼らには、力強い味方がいた。
ロケットを教室内に持ってきたホーマーを指弾した校長から、授業で使用するという理由で守るのだ。
更に、科学コンテストで優勝すれば、奨学金を手に入れられるという情報に、ロケット作りに向かうホーマーのモチベーションが一気に高まっていく。
奨学金が手に入れば、炭鉱夫にならずに大学に行けるという思いが、ホーマーの行動力の根柢にある。
しかし、「科学コンテストの優勝の可能性はゼロ」と言われ、炭鉱夫を継ぐ以外の選択肢がないと諦めるロイ・リーとのシリアスな議論が挿入されることで、「ロケット・ボーイズ」に待ち受ける試練は、まさにコールウッドで生まれた者の宿命でもあった。
それでも、「ロケット・ボーイズ」の挑戦は継続されていく。
炭鉱住宅内でのロケット作りの拠点を奪われた彼らは、まもなく、13キロ離れたスネークルートという広々としたエリアで実験を進めていくが、中々、成功しない。
理科の実験での、ホーマーへのクエンティンのレクチャーである。
推進剤を確保することができても、高熱に耐える良質な鉄として「高炉銑鉄」を使うことを、炭鉱機械室のボールデンに指摘されるが、それを買うには高価であると言い添えられる。
炭鉱の閉鎖によって、廃止の支線だらけのマクドウェル郡の、廃線になった列車のレールを盗み、それを金に換えていく「ロケット・ボーイズ」の面々。
「燃料が燃える時、爆発を制御する。ノズルが燃焼ガスを噴流させ、その流速は、噴出口では音速まで高まる!」
興奮しながら仲間にレクチャーするクエンティンは、自分の得意分野で勝負する実験にアイデンティティを確保して、ほとんどアルター
エゴ(別人格)の相貌(そうぼう)を見せるのである。
かくて、失敗続きの「ロケット・ボーイズ」は、ボールデンの協力を得て、ロケットの改良を繋いでいく。
改良を加えたロケットに点火しても、天に向かって飛ばずに爆発する。
それでも諦めない、「ロケット・ボーイズ」の挑戦。
繰り返される失敗の連続の果てに、遂に成功する。
彼らのロケットは、天に向かって、どこまでも飛んでいくのだ。
彼らを囲繞(いにょう)する空気は一変する。
「ロケット・ボーイズ」の存在は、今や、地元の新聞にまで掲載されるほどの認知度を獲得していく。
ところが、「遠い空の向こうに」まで飛ばしたロケットが、あろうことか、森林火災を引き起こした疑惑で、警察に逮捕されるに至る。
幸いにして、未成年という理由で釈放されたホーマーだが、炭鉱夫を継父に持つロイ・リーが、警察に捕捉されたことで暴力を振るわれている現場を見たホーマーの父・ジョンは、いつもの男っ気を発揮して、ロイ・リーを救済する。
「お前の実の父親は、今までで最高の部下だった。俺は幸運だった」
自分の車に同乗させたロイ・リーへのジョンの言葉である。
何も語らないが、勇敢な炭鉱夫を父に持つホーマーの誇りが、そこに垣間見える。
不幸は連鎖する。
坑内と繋がっているケーブルの切断によって起こった炭鉱事故で、金銭的理由で坑内に留まったバイコフスキーが犠牲になり、ジョンが大怪我を負ったのは、その直後だった。
「お前のオヤジさんがいなきゃ、最低10人は死んでるところだ」
事故の報を受け、父が失明する危険性があると知ったホーマーにとって、「勇敢な炭鉱夫」の健在性の事実よりも、賠償金すら受け取ることが叶わない、一家の大黒柱を喪うリスクの大きさを考えたとき、ブルーな気分に落ち込むのは当然だった。
「俺が働く」
アメフトで奨学金を得て大学に行く兄に代わって、ホーマーは、今や、それ以外にない選択肢に振れていく。
まもなく、キャップランプを取り付け、ヘルメットを被ったホーマーが坑道に出現するカットが映し出される。
右からホーマー、クエンティン、オデル、ロイ・リー |
以下、「ホジキン病」(リンパ球が癌化して増殖するので、現在、「ホジキンリンパ腫」と言われる)を患う彼女が、その思いを込めて語った言葉。
「時には、他人の言うことを聞いてはいけないの。自分の内なる声を聞くの。あなたは炭鉱マンじゃない。別の人生を設計してるはずよ」
その夜、思いを巡らすホーマーが、「内なる声」を聞いて出した結論が、「ロケット・ボーイズ」への復活だった。
森林火災を引き起こしたと疑惑をもたれたロケットの着地点を、クエティンとの協力で三角関数を用いて難解な方程式を解き、火災の原因が航空機の照明弾である事実を確認させ、ライリー先生の後押しで、校長の前で化学的に立証したことで、ビッグ・クリーク高校の代表として、科学コンテストへの参加の許可を受けるに至る。
しかし、ここでもまた、最大の強敵は父だった。
ホーマーの夢を認知しながらも、炭鉱夫の仕事を最後まで続けることを求める父に対して、明瞭に言い切ったのである。
それを無言で受け入れる父。
炭鉱争議で揺れる渦中で開かれる科学コンテスト。
このコンテストで金メダルを獲得し、優勝したビッグ・クリーク高校の代表として、ホーマーが栄誉を授与する。
「科学の講義内容は全米一だ」
バージニア工科大学から、早速スカウトされるホーマー。
この人物がフォン・ブラウン博士であることを知らずに、握手するホーマー。
そして、ホーマーは父に、「5時に最後の打ち上げがある」ことを告げ、暗に見に来て欲しい旨を求めたが、「仕事が山積みだ」という呆気ない父の反応を受け、その場を去っていく。
「ヒーローに会ったと?気づかずに」
去っていく息子に、さり気なく声をかける父。
「僕達、見解が一致しない事柄がある。いや、ことごとく全ての事で一致しない。でも、僕もひとかどの人物になれるはずだ。オヤジと異なるからじゃない。同じだからだ。同じくらい、分らず屋で強情だ。同じくらい、良い人間になりたい。確かに、ブラウン博士は偉大だが、ヒーローじゃない」
その父に、はっきりと自分の思いを告げる息子。
「あなたこそ、僕の本当のヒーローなんだ」
そう、言いたかったのだ。
息子の言葉をしっかり受容し、無言で仕事場の最前線に戻っていく父。
「父と子の葛藤」をもテーマにするこの映画で、最も重要で感動的な台詞であると言っていい。
観る者の感動を、あざとく狙ったシーンではない自然な状況設定が、この映画を強くしているのだ。
その日の5時。
最後の打ち上げの前で、ホーマーが、居並んでいる町の人々に感謝の思いを述べているときだった。
彼の視線の先に仕事を終えた父がいて、感動のあまり、言葉を失うホーマー。
そして、ホーマーは父に、ロケットのボタンを押してもらうことを依頼し、それを引き受ける父。
町の人々が、いつまでも見守るロケットの完璧な打ち上げの中で、息子の肩に遠慮げに手を添える父。
ラストシーンである。
「ロケット・ボーイズは全員大学を卒業、クエティンは現在、石油会社の化学エンジニア、ロイ・リーは銀行を辞め、自動車ディーラーに、オデールは牧場主で保険代理店のオーナー。(略)フリーダ・ライリーは、ホジキン病で死去。享年31。ジョン・ヒッカムは1976年、炭塵肺で死去。1965年、コールウッドの町は売却され、炭鉱は永久に閉鎖。
ホーマー・ヒッカムはNASAのエンジニアとなり、宇宙飛行士を養成」
これが、最後のキャプションである。
(注)スプートニクの打ち上げがベトナム戦争の底流にあった事実を、「マクナマラの戦争」とさえ揶揄されたマクナマラ国防長官(当時)の、以下の言葉から読み取れるだろう。
「ソ連が1957年にスプートニク(ロシア語で人工衛星のこと)を打ち上げ、宇宙工学でのリードを見せつけたことで、フルシチョフの脅迫に信頼性が増しました。翌1958年、彼は西ベルリンに強圧を加えてきました。そしてまもなく、西半球ではカストロがキューバを共産主義の橋頭堡に変えました。われわれは包囲され、脅威にさらされたように感じたのです。アメリカのベトナム介入の底流にはこのような恐怖感があったのでした」(「マクナマラ回顧録」・ロバート・S・マクママラ著 仲昇訳 共同通信社刊)
2 「夢を具現する能力」に昇華させた「夢を見る能力」の凄み
能力の裏付けのない児童期段階で見る他愛のない「夢」の多くが、大抵、思春期彷徨の渦中で雲散霧消していくというのが、普通の「夢」の流れ方だろう。
「快・不快の原理」に搦(から)め捕られた未熟な自我が、少しずつ、しかし確実に、「損・得の原理」に捕捉されることで、まさに、「夢」という名の心地良き物語とのゲームが自己完結していくのである。
中には、思春期過程に踏み込んでも、なお壊れ切れない「夢」が、自我に張り付いている場合がある。
「夢」が自壊しないことによって、「夢」を自分なりに成長させてきた思春期自我の懐(ふところ)深くに、世界とのリアルなリンクへの自己運動が、騒いで止まない情感系の内的行程が加速的に延長されているのだ。
これこそが、「夢を見る能力」のリアリズムの具象性である。
「快・不快の原理」に搦(から)め捕られた未熟な自我が、少しずつ、しかし確実に、「損・得の原理」に捕捉されることで、まさに、「夢」という名の心地良き物語とのゲームが自己完結していくのである。
中には、思春期過程に踏み込んでも、なお壊れ切れない「夢」が、自我に張り付いている場合がある。
「夢」が自壊しないことによって、「夢」を自分なりに成長させてきた思春期自我の懐(ふところ)深くに、世界とのリアルなリンクへの自己運動が、騒いで止まない情感系の内的行程が加速的に延長されているのだ。
これこそが、「夢を見る能力」のリアリズムの具象性である。
「夢を見る能力」が「夢を具現する能力」にシフトしていくのである。
自分なりに成長させ、継続させてきた「夢を見る能力」が、いよいよリアリティを帯びてきて、「夢を具現する能力」を引っ張っていく強い思いが安楽死しなかったのだ。
それが、どれ程のサイズの「夢」であろうとも、シビアな客観的世界との対峙の中で篩(ふるい)に掛けられ、成長してきた「夢を見る能力」が「夢を具現する能力」に繋がったのである。
途中で頓挫(とんざ)を来たす事態が起こっても、ホーマーの「夢を見る能力」だけは破綻しなかった。
彼の夢を支え切ったのは、何だったのか。
ホーマーの「夢を見る能力」とは何なのか。
「未知の世界」との出会いに率直に感動し、それが情動を噴き上げ、且つ、継続力を持つことで、「夢見」の情感系を保持し得る能力の高さ。
これであると思う。
「ロケットを作る」
家族の団欒の中で発せられたホーマーの行動宣言だが、そこに「本気度」がある辺りがホーマーの真骨頂であると言っていい。
ヒロインのセシリアは、辛い現実から、束の間、解放されたいという思いが心理的推進力になって映画を観る。
それも繰り返し観る。
セシリアの現実逃避の映画鑑賞の凄みは、「夢を見る能力」の凄みである。
彼女の「夢を見る能力」の凄みは、「夢見効果」と化して、明日もまた、辛い現実を引き受けていく相応の残酷を、相当程度、希釈化させ、浄化させてくれる能力の凄みである。
その思いは、充分過ぎるほど理解できる。
しかし、その心理の本質は、辛い現実に自我が適応するための「防衛機制」である。
その一点において、ホーマーはセシリアと分れるだろう。
ホーマーの「夢を見る能力」の凄みは「防衛機制」ではなく、遥かに前向きでアクティブな感情傾向の発現である。
然るに、彼の心理の根柢には、科学コンテストで優勝すれば奨学金を手に入れられ、それによって大学に進学できるという強い思いがあった。
「時には幸運な生徒が、アメフトの奨学生として町を出る。残りの連中は炭鉱で働く」(校長の言葉)という厳しい現実の中で、父の期待通りに炭鉱夫の仕事を受け継がざるを得ない「暗黙のルール」への強い拒絶の意思。
この意思が、ホーマーの自我の根柢にあった。
だが生憎(あいにく)にも、ホーマーには「夢を具現する能力」に欠けていた。
数学的・化学的知識の不足が、ロケット作りに向かうホーマーの夢を、単に、多くの少年少女がそうであるような「夢を見る能力」のフラットな次元に留めていたのである。
そんなホーマーの欠点を補ったのは、「変人」扱いされていたクエンティンだった。
そのクエンティンからレクチャーを受けるや、苦手な数学を主体的に学習していく行動を見せるところがホーマーの本領である。
「夢見」の快楽の枠内に収まらないのである。
だから、彼は強いのだ。
森林火災の原因を、三角関数を用いて導き出し、それを具体的な行動でビッグ・クリーク高校の校長の前で、数学的に立証して見せるエピソードに現れているように、映像の提示は足りなかったが、苦手を克服するために、人一倍の努力を怠らないから、彼は強いのである。
このような努力の集積が、ホーマーをして、「夢を具現する能力」に一歩ずつ近接させていったのである。
しかし、彼の前に立ち塞がる大きな障壁があった。
父・ジョンの圧倒的存在感。
「俺達が掘る石炭は鉄を作る。鉄が滅びりゃ、国も亡びる」
これが、父の誇りを支えている。
誇りを持つ男の思いが、自分のDNAを継ぐ次男・ホーマーへの期待に繋がるのは、石炭の町で育った男にとって、しごく普通の感情である。
思うに、子供にとって、父親の存在は、一つの象徴的な「社会」そのものであると言っていい。
だから、父親の言動は、社会から発信される情報のすべてになる。
「僕達、見解が一致しない事柄がある。いや、ことごとく全ての事で一致しない」
父親に語ったホーマーの言葉が意味するのは、自我の確立運動の只中にある青春期にあって、一つの象徴的な「社会」それ自身であった父親の存在の総体を、客観的に見る能力が具備されるまでの自立性が立ち上げられている証左でもあった。
「お前には炭鉱の価値など分らない。だが、否が応でもじき分る」
「僕は絶対やらない」
「自分を見失ってる」
こんな会話を交わしていた寡黙な父親も、息子の思いの強さを理解できていた。
「もう子供じゃない。俺からは何も言えない」
ホーマーの進路を妻に問われたときの父の言葉である。
明らかに、息子を「一人の大人」として扱う視線が、この一言の中に凝縮されている。
厳しい炭鉱夫の仕事をこなし、掘削の最前線で共に働くことによって、高校生としての甘さが払拭されているホーマーの心身の成熟が読み取れたからであろう。
「炭鉱は僕の人生じゃない。坑内には戻らない。僕は宇宙へ飛びたい」
炭鉱夫の仕事を最後まで続けることを求める父に対して、明瞭に言い切ったホーマーの自己主張である。
それを無言で受け入れる父。
ホーマーもまた、父・ジョンの、抜きん出た人格の素晴らしさを理解できている。
「僕もひとかどの人物になれるはずだ。オヤジと異なるからじゃない。同じだからだ」 |
先のホーマーの言葉の続きである。
この時点で、もう、父と子の関係は、「言葉なしでも分り合える友」のようなレベルに達していると言えるだろう。
この時点で、もう、父と子の関係は、「言葉なしでも分り合える友」のようなレベルに達していると言えるだろう。
この親子は、最も理想的な関係を構築したのだ。
「夢を具現する能力」に昇華させた「夢を見る能力」の凄み。
ホーマーの達成点には、終始、物語の重石(おもし)となった父・ジョンの存在なしに叶わなかったのかも知れない。
父から受け継いだDNAが、ホーマーの「夢を見る能力」を、「夢を具現する能力」に昇華させた因子でもあるからである。
一本気な性格を作ってくれた父への感謝の思いが、ラストシーンに結ばれたのである。
【参考資料】 拙稿・人生論的映画評論・続「カイロの紫のバラ」 人生論的映画評論・続「ソーシャル・ネットワーク」
(2015年12月)
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