<サイコパスと「性嫌悪障害」を人格の芯と化す男の「妖怪性」>
1 「香水の匂い。ひらひらしたレース。巻き毛」を憎む神の名の下で
「偽預言者に気をつけよ。羊の衣を着て近づくが、内側はオオカミである。その果実で彼らを見分けよ。良い木に悪い実はならず、悪い木に良い実はならない。実によって、彼らを見分けるのだ」
3人の子供たちを相手に一人の老婆が、聖書の一部を暗唱する冒頭のシーンの中に、物語の骨格が既に提示されている。
老婆の名はレイチェル。
身寄りのない子供たちを世話する、信仰熱心で奇特な未亡人である。
そして、この聖書の暗唱をトレースするように、獲物を狙う「偽預言者」が登場する。
「主よ。次は何をすべきでしょうか。すでに何人殺した。6人か、12人か?もう思い出せない。主よ。私は疲れました。時々、本当に分らなくなる。聖書は殺人であふれている。あなたの憎むものがある。香水の匂い。ひらひらしたレース。巻き毛」
神への独言の主は、「偽預言者」・ハリー・パウエル(以下、ハリー)である。
福音伝道師を装うシリアルキラーである。
そのハリーの左手には「HATE」(憎しみ)と書かれていて、ストリップ劇場の踊り子を見ながら、まさに、「香水の匂い。ひらひらしたレース。巻き毛」を憎む神の名の下に、このような女性を殺害した過去の心象が映像提示される。
「窃盗で30日の禁固刑」の判決に処せられたハリーのショットの直後に、銀行を襲い、強盗殺人を犯した男・ベン・ハーパー(以下、ベン)が、1万ドルの金を持って、自分の息子・ジョンに対して、金を隠すことを命じるシーンに繋がっていく。
ジョンに命じるベン |
「命懸けで妹を守るんだ。金の隠し場所は誰にも言うな」
そう言って、ジョンに命じたベンが、警官に逮捕される信じ難い光景を目の当たりにしたジョンの叫びだけが置き去りにされた。
そこにジョンの母・ウィラが走り寄って来ても、うつ伏せにされた父の拘束を目撃する衝撃と、秘密の厳守という心の負荷を抱えた少年の現実が陽光の下に広がっていた。
そして、その父・ベンが、強盗殺人の罪で絞首刑の判決が下される。
1930年代の大恐慌下にある、米国東部・ウェストバージニア州でのことだった。
30日の禁固刑を言い渡されたハリーと、絞首刑の判決が下されたベンが同じ監房に入れられるという設定には無理があるが、物語を続ける。
ベンから1万ドルの隠し場所を聞き出そうとするハリーは、「幼子が導く」(旧約聖書の一節)というベンの寝言を、「幼子」=ベンの子供たちと推測し、ベンの刑が執行され、ベンの教誨師(きょうかいし)として、今や寡婦となったウィラの家を訪ねていく。
右手に刻んだ「LOVE」 (愛)と、左手に刻んだ「HATE」(憎しみ)という文字を利用した巧みな弁舌で、ウィラが務める店を経営するアイシーに取り入ったハリーが、村の仲間とピクニックに出かけ、すっかり信頼を得るが、一人ジョンだけは打ち解けることができなかった。
このアイシーが、ハリーとの再婚をウィラに勧め、戸惑いながらも再婚するに至る。
「新婚の夜のおぞましい行為を、私がすると思ったか。男に冒涜されてきたイブの肉体。肉体は子を産むためにある。男の快楽のためではない」
新婚旅行先のホテルでの、新婦・ウィラに語ったハリーの言葉である。
セックスを求める妻に、セックスを拒否する夫・ハリーの心の風景が垣間見える。
この一件で、すっかりハリーに洗脳されてしまうウィラ。
一方、盗んだ現金をベンが川に沈めたという話で信頼を得たハリーに対して、一貫して疑うジョンは、妹・パールの人形の中に隠した金を、悪意を隠し込んだハリーから守っていく。
中々、金の在り処(ありか)を掴めないハリーが、その本性を現わしていくのは時間の問題だった。
ハリーの本性を察知したウィラの精神が病んでしまう事態が発生するのだ。
そのウィラが、常に肌身離さずハリーが携行しているナイフで刺殺されたのは、ハリーの内側に巣食う、異常なまでの〈性〉に対する嫌悪感と、今や、無用の長物と化したウィラの存在それ自身に起因するだろう。
車ごと川に沈められていたウィラの死体を、桟橋の管理人・バーディ老人が発見するが、第一発見者である自分が疑われることを恐れ、動揺を隠せず、アルコール漬けになる。
そのバーディ老人に、助けを求めに走って来るジョンとパール。
ジョンとパール |
金の在り処を追求するハリーに、思わず、パールが「人形の中」と口に出したことで危機に直面した兄妹は、酩酊(めいてい)するバーディ老人を見限って、必死に追うハリーを振り切りながら、一艘(いっそう)のボートに乗って、川を下って逃げて行く。
夜の闇に反射する水面の輝きの中を揺曳しつつ、ジョンとパールが辿り着いたのは、冒頭のシーンで登場した、信仰熱心で奇特な未亡人・レイチェルの施設だった。
レイチェルに保護されたことで、この時点で、執拗に追い駆けて来るハリーから身を守ることに成就する。
馬に乗って追い駆けて来るハリーが、レイチェルの元に身を寄せるルビーから、ジョンとパールが共に生活している事実を耳にする。
ルビーは町に屯(たむろ)する少年たちとのデートを楽しみにする、恋に憧れる思春期後期の少女である。
そんなルビーに、本来の「愛」の在り方について説教をするレイチェルの異性観には、我が子の「愛」を失った中年女性の悲哀が垣間見えていた。
そのレイチェルの施設に、優雅にも、白馬に乗ったハリーがやって来た。
レイチェル |
ジョンを見るなり、いきなりナイフで脅すハリーに、ライフルで追い払うレイチェル。
「夜になったら戻って来る」
捨て台詞を吐き、その場を退散するハリー。
そして、夜になる。
頼れよ 頼れ
そうすれば 全ての怖れは消える
頼れよ 頼れ
永遠なる主の 御手に
神との交わり 神の喜び
主の 御手に頼る日は
至福と平和が我が身に
月夜の闇に照らされて、レイチェルの庭先で、聖歌・「主の御手に頼る日は」を歌うハリー。
そのハリーの歌に、レイチェルは唱和するのだ。
この重要なシーンの意味を、どう読み解いたらいいのだろうか。
「香水の匂い。ひらひらしたレース。巻き毛」を憎む神の名の下に、このような女性の殺害を繰り返すハリーと、年に一回しか手紙を寄越さない息子の代わりに、「信仰」の名の下に、身寄りのない子供たちに愛情を注ぐことでアイデンティティを確保する、レイチェルの拠って立つ「神」との違いが、「善悪」という分りやすい概念で説明することが可能だが、双方ともに、〈性〉に対する嫌悪感を持つ共通点を考える時、「神」に対する二人の立ち位置が異なっているだけのようにも思える。
そんなメタファーが提示されているのではないか。
物語を進める。
再び現れたハリーをライフルで発砲し、奇声をあげて逃げて行くハリーは納屋に隠れ込む。
その間、レイチェルは警察に連絡するが、警察が現場に到着したのは翌朝だった。
「ウィラ・ハーパー殺害」の容疑で、あっさりとハリーは警察に逮捕される。
このとき、「やめて!」とジョンが叫んだのは、かつて、警察官によってうつ伏せにされながら逮捕された父の姿が、ジョン少年の脳裏にトラウマとなって刻まれていたからである。
「こんなもの要らない!」と叫びつつ、人形に入った一万ドルの札束をばら撒いてしまうのだ。
失神したジョンを抱き上げ、家の中に入れるレイチェル。
まもなく、福音伝道師を装ったシリアルキラー・ハリーの裁判が始まり、マスヒステリア(集団ヒステリー)と化した群衆の狂気が暴れ捲っていた。
まさに、このような群衆こそが、ハリーのハンティングの対象人格になっていくというアイロニーが、そこに映像提示されている。
一方、彼女なりの使命感を堅持して、5人の子供たちを育てるレイチェルは、その是非には議論の余地を残すかも知れないが、地域コミュニティの歪んだ風景から、この子供たちを隔離するための純粋培養的な養育環境を作り上げていく。
ただ、その養育環境が、全てを失ったジョン少年の笑顔を復元させた事実の大きさを否定すべくもないだろう。
ラストシーン。
「主よ、幼子をお救い下さい。クリスマスの一日だけ信仰するのは、恥知らずかも知れません。運命に従う子供たちの姿に身が引き締まります。幼子をお救いください。強い風にも、冷たい風にも、子供たちは耐えています。従順で忍耐強いのです」
信仰厚きレイチェルの祈念の言葉であった。
2 サイコパスと「性嫌悪障害」を人格の芯と化す男の「妖怪性」
川底に沈められたウィラの死体が水中を漂う、人生の儚(はかな)さを幻想的に表現するシーンなどに象徴される、感情世界を濃密に反映させるという一点において、表現主義的色彩を放ちながらも、定点が定まらないように見えるフィルム・ノワールの一篇は、前衛的な色濃い、ファンタジックなホラーサスペンスの範疇に収斂されるとも言えるだろう。
映画的要素が様々に混淆(こんこう)され、デフォルメ化されたこのカルト系映画の中で、私が関心を寄せるのは、ただ一点。
それは、眠ることを知らないかの如き、ハリー・パウエルという男が、果たして何者であったのかという点に尽きる。
以下、複雑に絡み合っている人間の心の分りにくさをを短絡的に把握する危うさを重々認知しながらも、ここでは想像を逞しくして、脳科学の情報を包摂しつつ、どこまでも主観的な視座で言及していきたい。
福音伝道師を装ったハリー・パウエルという男は、群衆のマスヒステリア(集団ヒステリー)の渦中で、童話の主人公・「青髭男爵」と罵倒されていたが、「すでに何人殺した。6人か、12人か?もう思い出せない」という「神」への独言を想起する限り、シリアルキラーとしてのこの男の殺人の対象人格が、「香水の匂い。ひらひらしたレース。巻き毛」にシンボライズされる、フェロモンを放出する女性の〈性〉それ自身であったと言っていい。
フェロモンを放出する女性をハンティング対象にして、闇のゾーンで執拗に追い詰めて殺人を犯すハリー・パウエルは、「神と私とで作り上げた宗派」という物語を仮構し、一切の犯罪行為を正当化するのだ。
だから、罪悪感など全くない。
共感・自責・恥などの道徳的感情の致命的欠如。
これは今、犯罪心理学のフィールドでサイコパスと呼ばれている。
脳の機能として生得的に備わっている「復内側前頭葉前皮質」(「前頭前皮質腹側システム」)が、道徳的感情の部位であると説明されてもいる。
この「前頭前皮質腹側システム」機能の低下こそが、サイコパスに共通するとされるが、しかし、それはパーソナリティ障害としての精神病質であって、統合失調症・神経症・躁うつ病と呼称されるような精神疾患(医学的治療が望ましいもの)や、精神病(医学的治療が不可欠なもの)ではない事実を押さえるおく必要があるだろう。
カナダの犯罪心理学者・ロバート・ヘアによると、サイコパスは以下のように定義される。
即ち、異常なまでの良心の欠如、他者への共感の欠如、情動の乏しさ、他者に平気で嘘をつく性向、行動に対する無責任さ、罪悪感の皆無、過大な自尊心と自己中心的性向、弁舌の巧みさ、上辺の魅力を操り、他者を籠絡(ろうらく)する能力の保持、等々。(ウィキ参照)
且つ、サイコパスは、恐怖の感情など情動反応の処理に関与する「扁桃体」(大脳辺縁系の一部)が普通の人よりも小さい事が分っている。
だからと言って、サイコパスの共感能力が全人格的に欠如していないという事実は、オランダの大学の心理学実験の結果で検証されている。
凶悪犯罪者=サイコパスという決めつけは、僅かな情報で物事を単純に処理する「ヒューリスティック処理」であること。
私たちは、人間が犯しやすいこの「ヒューリスティック処理」の心理パターンにも、よくよく注意を払わねばならない。
そして、もっと切要な認識は、精神病者の犯罪率は一般刑法犯の犯罪率と変わらないか、或いは、相対的に少ないというデータである。
これは、毎年、法務省が作成している「犯罪白書」によって確認されている。
―― 以上の把握を踏まえて言及すれば、ハリー・パウエルという男が、サイコパスであると断定して間違いないだろう。
先のロバート・ヘアのサイコパスの定義に、ハリー・パウエルの性格・行動傾向が余りにも一致するからである。
とりわけ、「他者への共感の欠如」と「罪悪感の皆無」は表裏一体と化していて、その「自己中心的性向」は、「神と私とで作り上げた宗派」と嘯(うそぶ)く心理のうちに顕在化していた。
「右手と左手の話をしよう。善と悪のお話だ。“憎しみ”。この左手で兄のカインは弟を襲った。“愛”。この指の血はじかに魂に流れている。右手は愛の手だ。両手の指はいつも取っ組み合っている・・・勝ったのは愛。憎しみの左手は敗れた」
まさに、この類の平易な言辞こそ、「神と私とで作り上げた宗派」という妄想系の観念の極点と言っていい。
この妄想系の観念の延長上に、ハリー・パウエルは、「香水の匂い。ひらひらしたレース。巻き毛」の女性の〈性〉を破壊していくのだ。
では、なぜハリー・パウエルは、ソフトターゲット(防衛が手薄で攻撃されやすい標的)になりやすい女性をハンティングの対象に特化したのだろうか。
ここで私は、2003年から翌年にかけて韓国で発生した、「柳永哲(ユ・ヨンチョル)事件」(ソウル20人連続殺人事件)を思い起こす。
「歓迎されざる子」として生まれてきたユ・ヨンチョルは、幼児期からベトナム戦争帰りの父のDVによって、まともな少年時代を送ることなど叶わず、少年院と刑務所への入退所を繰り返す日々を送る。
ユ・ヨンチョル |
風俗嬢の女性と結婚しても、性犯罪を繰り返す救いのない人生で妻にも去られるに至るが、妻子への未練を断ち切れず、心身のディストレス(最悪のストレス状態)の累加の中で、風俗嬢をターゲットにするシリアルキラーと化し、2005年に死刑が確定したことで、その転落人生に幕を閉じていく。
ここで特筆すべきは、ユ・ヨンチョルもまた、神を信仰していた事実である。
それは、自らの経験に起因して、「風俗嬢は殺されるべき存在」という歪んだ観念が膨張し、ハリー・パウエルと同様に、「神と私とで作り上げた宗派」という妄想系の虜(とりこ)になっていたことを意味する。
「神」の名を冠することで、一切を正当化するのだ。
では、ユ・ヨンチョルをサイコパスと断定できるのか。
彼は幼児期にDVを被弾していた事実によって、脳に相当なダメージを受けていたと思われる。
それによって、極端に未成熟な自我が作られ、現実原則に則った行動を取ることが困難になる歪んだ人格を形成してしまった。
しかし、「行動に対する無責任さ」や「自己中心的性向」が顕著に見られるが、「情動の乏しさ」というサイコパスの主症状が見られないのである。
ユ・ヨンチョルが、風俗嬢の女性を殺害する際に、シンセサイザーを使って激情を掻き立てるような、ヴァンゲリスの 「1492 コロンブス」を聴いていたという興味あるエピソードを知る限り、むしろ、情動の激しさを増幅させる行為に振れていたことが読み取れるのである。
このエピソードは、「情動の乏しさ」を随所に見せるハリー・パウエルと切れる性向なのではないか。
ユ・ヨンチョルは何某(なにがし)かのパーソナリティ障害(反社会性パーソナリティ障害)であるだろうが、サイコパスと断定できないと想像し得る所以である。
聖歌・「主の御手に頼る日は」を歌いながら、ナイフ一本で子供に襲いかかるハリー・パウエルの犯罪には、シンセサイザーを使って激情を掻き立てるBGMなど全く無用なのだ。
ウィラとの交叉の中で、彼には怒りの表現が拾えても、激しく炸裂するような表情が見られないのである。
そんなハリー・パウエルが、「香水の匂い。ひらひらしたレース。巻き毛」の女性の〈性〉を破壊していく行為の根柢にあるのは、一体、何なのか。
彼のセックスに対する嫌悪感が、信仰厚き者の観念の所産でないことは自明である。
精神障害の一種として定義される「性嫌悪障害」が最も考えられるが、仮にそうだとしても、そのルーツを特定するのは難しい。
幼少時期での性的虐待が考えられるが、凶悪犯罪者の家庭の約半数がセックスに対する嫌悪感を持っているという報告もある。
性的虐待でなければ、幼時期に性的行為を視界情報に入り込んできた可能性も否定できない。
或いは、母親の言動を父親が否定する父性環境の生い立ちの中で、後天的に形成されたミソジニー(女性嫌悪)の感情を形成してしまったのか。
「遠い空の向こうに」の批評でも書いたが、幼少時期の子供にとって、父親の存在は、一つの象徴的な「社会」そのものであるからだ。
女性から悪意含みの嫌がらせを受けたことで、ミソジニーの感情を形成してしまうケースもあるが、「情動の乏しさ」を印象づけるハリー・パウエルという男に、これを当てはめるのは難しい。
いずれにせよ、大脳皮質の内側にあって、大脳辺縁系に位置している「扁桃体」(好き嫌いの判断)が海馬(扁桃体から好き嫌いの感情を受ける)と影響し合い、それが長期記憶されることで、幼少時期の未成熟な自我に刷り込まれた情報が、その者の一生を決めるほどの経験と化す事実を認めざるを得ないだろう。
そこで、私の結論。
幼少時期の未成熟な自我に刷り込まれた情報が長期記憶され、それが思春期の渦中で固められ、成人期を迎える頃には、既に、サイコパスと「性嫌悪障害」が、ハリー・パウエルの人格の芯と化す「妖怪」にまで膨張していったのではないか。
そう思われてならないのである。
(2015年12月)
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