1 ミドル・クラスの令嬢とワーキング・クラスの異端児の出会い
フィレンツェの街の中心を流れるアルノ川。
そのアルノ川に架かるヴェッキオ橋は、フィレンツェ最古の橋として、フィレンツェの代表的な観光スポットになっている。
20世紀初頭のこと。
英国のミドル・クラスの令嬢・ルーシー・ハニーチャーチ(以下、ルーシー)が、シャペロン(世話係)の役割を有する従姉・シャーロットに随伴し、文化遺産・自然景観の宝庫であり、イタリア・ルネッサンスの中心地となったフィレンツェにやって来た。
そのルネッサンス時代の文化遺産・自然景観の宝庫を堪能し、すっかり満悦したルーシーとシャーロットだが、彼女たちが身を寄せた「ベルトリーニ」という名のペンションの部屋は、アルノ川に面した「眺めのいい部屋」ではなかったこと。
「何も見えない北側で、部屋もバラバラ。南側の眺めのいい部屋が空き次第、あなたに」
「眺めのいい部屋」を確保できなかったシャーロットの不満が炸裂し、せめてルーシーには、アルノ川の見える部屋を確保したいと言うばかり。
夕食の席で、他の女性客が「花のフィレンツェ」の話題で盛り上がっていても、シャーロットの愚痴が続くのだ。
同じテーブルで、シャーロットの愚痴を耳にしたエマソンという人物の申し出であるが、これを断るシャーロット。
「交換すべきだ。それだけです」
エマソンの息子・ジョージが、父に促され、無表情に部屋の交換を申し出る。
明らかに、ワーキング・クラスと思える人物に対する偏見が、シャーロットの意識の底層に張り付いている。
「あなたの態度は失礼だったわ」
このルーシーの率直な進言を無視し、「別のペンションに移る」と言い張るシャーロット。
どこまでも「眺めのいい部屋」に拘るシャーロットの意固地な態度は、たまたま同宿していた知り合いのビーブ牧師(ルーシーの地元教区の牧師)の仲介で、階級意識に縛られない物言いををするエマソンの申し出を受け入れるに至る。
その結果、窓を開ければ、アルノ川とフィレンツェのドゥオーモ(大聖堂)が見渡せる「眺めのいい部屋」に宿泊でき、その風景にルーシーは満足だった。
翌朝、フィレンツェの町を一人で見物するルーシー。
そのルーシーが、言葉遣いの悪いエマソンと偶然に出会ったのは、ダンテの記念碑があるサンタ・クローチェ教会だった。
そこに、跪(ひざまず)いて礼拝するジョージがいて、その姿に素朴な笑みを洩らすルーシー。
「せがれは頭は良いが、混乱してる」とエマソン。
「なぜ?」とルーシー。
「“神の名のもとで、人々が憎み合う”。 その迷信から解放され、育ったからでしょう。せがれを愛さなくとも、力を貸してやってくれ。いつも考え込んでる」
相変わらず、一方的な物言いを受け、当惑するルーシーはその場を去っていく。
一人で散策を繋ぐルーシーが、気の荒いイタリアの男たちの喧嘩で、血を流す現場に立ち会って、失神してしまったのは、その直後だった。
そのルーシーを救出したのは、たまたま通り合わせたジョージだった。
ヴェッキオ宮殿前の、観光客で賑わうシニョーリア広場で彼女を抱き、介抱するジョージ。
広場で落としたルーシーが買った写真を探し出し、そのまま一人で帰ろうとするルーシーを案じ、二人で散策を繋いでいく。
結局、血だらけの男が死に至り、広場を血で汚した現場を目の当たりにした二人は、その凶暴な風景を無化するような会話を交わす。
「とにかく、ありがとう。事故が起きても、人はすぐに元に戻るのね」とルーシー。
「戻らない。僕に何かが起きたから。あなたにも」
鉄道関係に勤務しているというこのジョージの反応には、明らかに、階級の違う令嬢の思考の柔軟性を感じ取っていた。
その直後の映像は、ジョージを含む小さな観光集団でピクニックに出かけていくシーン。
当然、その中には穏健なビーブ牧師の他、小説家・ラヴィッシュや元記者であるというエマソン、そして、ルーシーの監視係のシャーロットも含まれていた。
「美よ!自由よ!真実!人生よ!愛よ!」
イタリアの長閑(のどか)に広がる田園風景の中で、一人で木に登り、自分の理想を叫ぶ男がいる。
ジョージである。
それを「ゲーム」としか考えないシャーロットと切れ、小説家のラヴィッシュを含むルーシーたちは、草むらに座り、四方山(よもやま)話に花を咲かせるが、それに興味がないルーシーは、御者の案内でジョージがいる草原に出かけて行った。。
ところが、ここで「異変」が起こる。
それを遠くから見ていたシャーロットは、急いでルーシーを馬車に乗せ、ペンションに戻っていく。
激しい驟雨(しゅうう)に見舞われる一行にとって、散々なピクニックになった。
「自分の経験を自慢したがるのよ」
英国のミドル・クラスの令嬢と、ワーキング・クラスの青年との、この小さな出来事を深刻に受け止めるシャーロットの階級意識の差が露骨に露わになっていた。
「戻って来たら、彼に会うわ」とルーシー。
「そんなこと、許しません。あなたはまだ若いし、男の人の実体がまだ分らないのよ」とシャーロット。
2 「予定調和」のラインで成就した階級を越える愛
「情熱的にベートーベンは弾くが、私生活ではおとなしい。いつの日かきっと、音楽と人生の調和が生まれ、両方とも向上するだろう」
これは、ビーブ牧師のルーシー評。
この話の相手は、ルーシーの婚約者と目される英国貴族(或いは、アッパー・ミドル?)・セシル・ヴァイス(以下、セシル)。
「その日も遠くない。彼女と婚約を・・・ショックのご様子で・・・」
ここで言う「ショック」の意味が、ルーシーとシャーロットとの二人だけの秘密である「ピクニック事件」を指すが、当然、ビーブ牧師がその原因を知る由もなかった。
何事につけても派手な振る舞いを嫌うセシルは、婚約パーティーのけばけばしさに不快感を示すが、ルーシーとのプライベートなデートで、すっかり気分をほぐしていた。
「君は私と部屋にいる方が、こうした野外にいるより落ち着くようだね」
「確かにあなたは、部屋を連想させるわ」
「まだ、一度も聞いたことがない。お願いがある」
「なあに?セシル」
「君とはまだキスを・・・」
「もちろんよ」
ルーシーから情熱を感じられなかったからだ。
彼女の脳裏には、一心に、自分の理想を追求するようなジョージの異端児性の、その鮮烈な記憶が張り付いているのである。
教養豊かなセシルの豪邸で、ベートーベンではなく、シューベルトを弾くルーシー。
二人の関係が最近接し、理想の家庭を作り上げていく印象が提示されるが、あろうことか、そのセシルが、国立美術館で出会ったエマソン父子にヴィラ(一戸建ての借家)を紹介した事実を知り、驚くルーシー。
本来は、地主であるハリー卿がアラン老姉妹に貸す約束をしていたにも拘らず、その約束を反故にしたヴィラの紹介だった。
「ハリー卿のために、私の顔を潰すなんて。裏切り行為だわ」
怒りを直截(ちょくさい)に表現するルーシーの感情を、セシルが理解できないのも当然である。
エマソン父子に貸した事実を知ったことで、ルーシーは心の動揺が収まらないのだ。
早速、村に引っ越してきたエマソン父子。
そこに偶然現れたセシルらは、ビーブ牧師も含む全裸の男連中の悪ふざけに驚くが、その中で一人、ルーシーだけは笑いを堪え切れなかった。
以下、セシルとルーシーの関係の脆弱性に不安を持つルーシーの母・ハニーチャーチ夫人が、そのことを娘に尋ねたときのルーシーの答え。
「彼は人を傷つけるつもりはないのよ。醜い者が嫌いなの。ただそれだけ」
自由に振る舞うフレディのガサツさに耐えられないで、無言で部屋の外に出ていくセシルの性格は、ベートーベンのような情熱的な音楽を好むルーシーの嗜好とも切れているから、否が応でも、セシルとルーシーの関係に隙間が生まれてしまうのである。
そんな折り、シャーロットがハニーチャーチ邸にやって来た。
その著は、「バルコニーの下で」。
例のラヴィッシュ女史が公刊した本である。
その著には、シャーロットとルーシーの二人だけの秘密であったはずの、フィレンツェでのルーシーとジョージの出来事(「ピクニック事件」)が書かれていた。
二人だけの秘密であるとルーシーに約束させた当人のシャーロットが、ラヴィッシュ女史に話してしまったのである。
そのシャーロットに怒りをぶつけるルーシー。
「許されたとしても、自分が許せないわ。死ぬまで」
ユーモア含みの映画でのシャーロットの自戒の弁だが、そのシャーロットに頼み、ジョージを呼んでもらったルーシーは、彼にきっぱりと言い切った。
「私がここにいる限り、二度と家には来ないで」
「ムリだ」とジョージ。
「それだけよ。行って。セシルを呼びたくないわ」
「本気で結婚を?」
「何て失礼な」
ここまで言われて、ジョージは自分の思いを吐き出すように表現する。
「もっと違う奴なら身を引いただろう。でも彼は、女性はおろか、誰とも理解し合えない。女性を分っていない。彼は君を絵画や象牙の箱のように扱っている。所有し、自慢するためだ。君を人間として求めていない。僕は君を愛し、考えや感情も認めていたい。めぐり逢えただけで奇跡なんだ。幸運なんだよ」
ジョージの長広舌に言葉を挟むルーシー。
「セシルを愛し、結婚することは関係ないと?」
「二人の間に素晴らしいことが起きたんだ。僕らは引き裂かれるべきではないんだよ。分ってくれ」
「分らないわ」
「理解できるはずだ」
「行って。話を聞くのが間違いだったわ」
「聞いてたなら、理解してるはずだ」
「今すぐ帰って。いやよ!何も聞きたくない!」
その手を話し、なお、執拗に話そうとする男を拒絶する女。
耳を塞ぎ、拒絶する態度の中に、自分の思いを封印する女の複雑な心情が見え隠れする。
二人の話をずっと聞いていたシャーロットには、自分の行為の故に、かえって、二人の距離を縮めてしまったことが理解できていた。
だからこそ、嗚咽を隠せないのだ。
ルーシーもまた、教養をひけらかすセシルのようなタイプの男の妻に、自分が相応しくないことを認知するが故に、その思いを隠し切るのは、もとより無理な相談だった。
「結婚はムリよ。そのうち分るわ。合わないのよ」
セシルに、そう言い切ったのだ。
「でも、愛しているんだ。君も私を愛してくれるものだと・・・」とセシル。
「違ったの。そう思ったけど・・・許して。あなたも本当は愛していないのよ。本当よ。それはきっと所有物としてよ。絵画とか、ダビンチ画なの。そんなのイヤよ。私は私でいたいの」
部屋を替えて、セシルは冷静に反応する。
「君は本当に私を愛していないようだ。残念ながらね。その理由が分れば、痛みも和らぐんだが・・・」
ルーシーも冷静に、しかし、言いにくいことを明瞭に言い切った。
「あなたは、女性を分っていないのよ・・・今のは言い過ぎたわ。でも、息が詰まるの。美術と書物と音楽だけの世界なんて。だから解消を」
「事実だね」
「ほぼ、そうよ」
「今夜の君は、まるで人が変わったようだね」
「どういう意味?他の人に恋してるとでも?」
「まさかそんな。ただ、今までにない強い意思を見たようで。怒らせたなら謝るよ。何も考えられなくて。君に感謝したいと思ってるんだ。自分が見えてきたよ。君の勇気には感心した」
完璧に失恋し、決定的に恥辱を受けたにも拘わらず、一貫して冷静に、ここまで言語化する男の内側には、恐らく今までもそうだったように、どのような状況に置かれても、感情を荒げる行為に振れることがない自我を作り上げてきたのだろう。
要するに、内側に貯留されている感情に致命的な欠落感が見えなくても、その感情の炸裂の仕方を学習してきてないのである。
まさに、そのような男だからこそ、同時に不労階級で育まれながらも、際立って個性的な自我を育んできたに違いないルーシーには、相互の性格の折り合いの悪さを感受するが故に、「私は私でいたいの」と言わしめるのだろう。
かくて、握手を求められたルーシーは、それに応じることで、この関係は呆気なく終焉するに至る。
ルーシーとセシルとの婚約解消の事実は、周囲に少なからぬ影響を与えていく。
一切を忘れて、アラン老姉妹のギリシャへの旅行に随伴することを考えていたルーシーは、そのことをエマソンに伝えるために、彼の家を訪問する。
以下、二人の会話。
「息子さんの話はしたくないわ。失礼な人だわ。最初からひどい無礼を」
「それは違う。不器用なだけだ」
「ごめんなさい。この話は止めた方が」
そう言って帰ろうとするルーシーの後方から、エマソンの言葉が追いかけてくる。
「せがれが迎えに来ます。ここに住むのは辛いそうで・・・あなたの姿を見たり、話を耳にするのがね」
「私はギリシャへ発つの。いい家なのに、行ってはだめよ」
「なぜ、ギリシャへ?混乱しているようだね。婚約解消の件やギリシャの話にしても、息子を愛するからかい?」
ここで嗚咽するルーシー。
「顔の輝きが失せてしまった。ジョージと同じだ。そうしたらいいんだ。泣かせて悪かったね」
「行かないとダメなの・・・不可能だわ」
嗚咽しながら、ルーシーは心の中で激しい葛藤を繋いでいる。
「唯一、不可能なこととは、愛していながら別れることだ」
ルーシーの手を取って、エマソンは畳み掛けていく。
「君が愛されてるように、ジョージの身も心も」
ここまで言われて、ルーシーは封印した感情を解放する。
「愛してるわ。気づかなかったの?」
「自分を含めて、皆をダマしてきたのに・・・」
このエマソンの一言が、階級の異なる若い男女の障壁を突破する決定力になっていく。
母とシャーロットの前で、満面の笑みを浮かべるルーシーがそこにいた。
ラストシーン。
ルーシーとジョージは、思い出深いフィレンツェに、再びやって来た。
以下、シャーロットへのルーシーの手紙の文面の断片。
「私たちが泊った宿は、少しも変わってません。女将は相変わらず、人使いが荒く、泊り客もアラン姉妹やエレナや牧師様の他、私たちもいます」
「眺めのいい部屋」で、激しく求め合うルーシーとジョージ。
3 フィレンツェへの二人の旅の「本物の始まり」
「ワーキング・クラス」の階級に呼吸を繋ぐナイーブな若者の恋が、「アッパー・ミドル・クラス」の壁に弾かれて悲惨な結末に終わる「ハワーズ・エンド」(1992年製作)と切れ、「社会の壁を越えて」というモチーフのヒューマニズムを貫流する同じ原作者・E.M.フォースターの「眺めのいい部屋」は、「ワーキング・クラス」の階級に属しながらも、「アッパー・ミドル・クラス」の壁を突き抜ける若者の恋が、「予定調和」のスポットに着地していく物語だった。
「僕が彼女にしてあげることは、共に飢えることだ。金持ちならやり直せる。だが僕らは、一度職を失ったら、それまでです。食後の満足は金持ちにしかない」
だから、「ハワーズ・エンド」の「ワーキング・クラス」の悲哀が漂う、このレナード・バストの自虐的性向が、「眺めのいい部屋」からは全く拾えない。
そこにあるのは、「アッパー・ミドル・クラス」の令嬢・ルーシーに恋するや、いきなりキスしてしまうような若者の、軽忽(きょうこつ)で圧倒的な行動力だった。
「美よ!自由よ!真実!人生よ!愛よ!」
そんな青臭いことを、自然の懐に抱かれた若者・ジョージが叫ぶのだ。
その叫びに、かつて味わったことがない未知のゾーンに連れて行かれるルーシー。
そのタイミングは、エピソードの「偶然性」に無頓着な文学の延長線上にある、ジェームズ・アイヴォリー監督によるこの映画は容易にインサートする。
ルーシーが住む村に引っ越して来たジョージの情熱溢れる行動は、この行動と相容れない「アッパー・ミドル」の婚約者と物理的に対比させることで、情熱的な音楽を好むルーシーの中で、自らの人生観・価値観・異性観と溶融し得る選択肢を提示するのだ。
「でも、愛しているんだ。君も私を愛してくれるものだと・・・」
婚約者・セシルの物言いには、内側に封印した感情によって激しい葛藤を繋ぐことで、微妙に揺動する「女心」の中枢を理解できない洞察力の脆弱性が露わになっていた。
彼の教養の内実は、どこまでも、ペダンチックな表層世界での自己満足の思弁の範疇を超えられないものだった。
だから、感情によって動く人間の、その複雑な心の奥深くで揺動するコアの部分に架橋できず、その部分と心地よくキャッチボールし得ないから、関係を決定力に繋ぐに足る「共有」の実感を持つことが叶わないのだ。
「共有」こそ、人間関係を強化する重要な推進力になる。
この「共有」の実感の心地良さを手に入れない現実に直面したこと。
それ故に、一見、子供っぽくとも、感性豊かなルーシーは、感情を荒げる行為に振れることがない自我を作り上げてきたに違いないセシルを拒んだのだろう。
「私は私でいたいの」
ルーシーのこの言葉が、この映画の全てだと言っていい。
セシルとの表面的な交叉の中で、ルーシーは自己の感情を鮮明にすることができたのである。
青臭いが、真剣に自分を愛し、失恋の思い込みによってルーシーから離れようとするピュアな若者・ジョージの、溢れんばかりの情熱が、セシルとの関係を通して際立っていくのだ。
「あなたは、女性を分っていないのよ」
ルーシーのこの一言で完璧に失恋するセシルは、感情を炸裂させることがない。
その場で感情を行動に変換してしまう、ジョージのストレートな性格を目の当たりにしてきたルーシーにとって、その性格と正反対なセシルのその感情・行動傾向こそが、かえって苛立たしかったのである。
ラストシーン |
この関係が、どれほどの継続力を持つか、全く保証の限りではないが、少なくとも、「今、この時」の幸福の実感を享受するだけでも満ち足りるのだろう。
これ以上、野暮なことは言うまい。
―― ヘレナ・ボナム=カーターの感情表現力は素晴らしかったが、私には何と言っても、セシルを演じたダニエル・デイ=ルイス。
この作品後、「存在の耐えられない軽さ」(1988年製作)、「マイ・レフトフット」(1989年製作)、「父の祈りを」(1993年製作)、「クルーシブル」(1996年製作)、「ギャング・オブ・ニューヨーク」(2002年製作)、「ゼア・ウィル・ビー・ブラッド」(2007年製作)等々、強く印象に残る作品が多いが、その中で鮮烈な記憶に刻印された作品を挙げれば、断トツに「ゼア・ウィル・ビー・ブラッド」。
私の評価では、現在の映画界においてナンバーワンの俳優である。
どんな役でも演じ切る凄みに感嘆する。
4 「階級にとりつかれた人びと」の自己運動の形成力 ―― 【余稿】として
以下、【余稿】として、「階級にとりつかれた人びと 英国ミドル・クラスの生活と意見」(新井潤美著 中央公論新社刊)から、読みやすくするために、非礼にも部分的に補筆しつつ、英国の階級社会の歴史的背景について紹介します。
英国の階級には、大別すれば、「アッパー・クラス」、「ミドル・クラス」、「ワーキング・クラス」の3階級に分けられている。
更に、「ミドル・クラス」も、「アッパー・ミドル・クラス」と「ロウアー・ミドル・クラス」に2分されている。
そして、高度な教育を受け、教養豊かな知識で武装し、上昇志向があるが故に、「ロウアー・ミドル・クラス」は階級意識が強く、それ故に揶揄(やゆ)の対象になっているという事実がある。
そして、高度な教育を受け、教養豊かな知識で武装し、上昇志向があるが故に、「ロウアー・ミドル・クラス」は階級意識が強く、それ故に揶揄(やゆ)の対象になっているという事実がある。
今日でも、便宜上、「ミドル・クラス」と大きく分類されている人々の間には、このように、自分がアッパーかロウアーかという、はっきりとしたアイデンティティが存在しているのである。
この「アッパー・ミドル・クラス」は、いわゆる「アッパー・クラス」と同じ「上流階級」に属するわけであり、この二つの間にはっきりとした境界線を引くのは難しい。
ヴィクトリア女王(ウィキ) |
J・F・C・ハリソンは、「アッパー・ミドル・クラス」について、「ロンドンの金融家と商人、そして、イングランド北部と中部の製造業者という二つのグループにはっきりと分けられる」と書いているが、それ以外にも、イギリスの長子相続制によって、親から土地を受け継ぐことができずに軍隊に入る、知的職業につく、或いは、商業に携わることを強いられた上流階級の次男や三男たちがいた。
彼らは職業についていても、自分たちが「ジェントルマン」であるという自覚を持っているのだ。
また、知的職業においても、「イギリス下層中産階級の社会史」の著者であるジェフリー
・クロシックの言うように、階級の差ははっきりしていたということ。(略)
しかし、19世紀の終わり近くに人々の注意をひき、かつてない発展をとげたのは、「ロウアー・ミドル・クラス」の中でも、都市のホワイト・カラーの俸給生活者、即ち、事務員と呼ばれる人々であった。
その数は、1871年から1881年の10年間で80.6パーセント増えたといわれている。
これは、ヴィクトリア朝後半の国際貿易の発達の結果、小売業、市場取引、流通、銀行業、そして財政の規模が大きくなり、より複雑なものになっていったことの結果だった。
彼らは、「ワーキング・クラス」出身者であり、両親よりも高度な教育を受けさせてもらい、その結果、あらたに、「ミドル・クラス」の仲間入りを成し遂げた人々が主な部分を占めている。
彼らは、「ワーキング・クラス」出身者であり、両親よりも高度な教育を受けさせてもらい、その結果、あらたに、「ミドル・クラス」の仲間入りを成し遂げた人々が主な部分を占めている。
そして、この頃から、軽い読み物や雑誌、芝居などの娯楽の場において、この新しく勢いをつけた「ロウアー・ミドル・クラス」を揶揄し、嘲笑し、笑いの材料としたものが目立って多くなっていったと言われている。(略)
実際、細かい階層から成り立っているイギリスの社会は、一方では、他国の人々に驚かれるほど、階級間の動きが可能であった。
実際、細かい階層から成り立っているイギリスの社会は、一方では、他国の人々に驚かれるほど、階級間の動きが可能であった。
商人が富を築いて土地を買って、貴族の仲間入りをすることも可能ならば、また一方では、長子相族の結果、貴族の仲間入りをすることも可能だった。
更に、長子相続制の結果、貴族の次男、三男が職業についたり、或いは、商人に弟子入りしたりするという逆方向の動きもあった。
このように、ある程度の動きが可能であればこそ、微妙な階層の差に対するこだわりが強くなり、動く者に対する動かない者の軽蔑も強くなるのかも知れない。
このように、ある程度の動きが可能であればこそ、微妙な階層の差に対するこだわりが強くなり、動く者に対する動かない者の軽蔑も強くなるのかも知れない。
しかも、当然のことだが、上から下に動こうとする者に対する風当たりの方が強い」
―― 以上だが、「他国の人々に驚かれるほど、階級間の動きが可能であった」こと。
そして、「ある程度の動きが可能であればこそ、微妙な階層の差に対するこだわりが強くなり、動く者に対する動かない者の軽蔑も強くなるのかもしれない」という指摘は、心理学的に興味深いものである。
だからこそ、「上から下に動こうとする者に対する風当たりの方が強い」心理も、とてもよく分る。
「階級にとりつかれた人びと」の自己運動の形成力。
それを実感せざるを得ないのである。
大胆な「階級超え」を果たしたルーシーの勇気こそ、この映画の生命線であったのだ。
【参考資料】 「階級にとりつかれた人びと 英国ミドル・クラスの生活と意見」(新井潤美著 中央公論新社刊) 拙稿 人生論的映画評論 ジェームズ・アイヴォリー監督「ハワーズ・エンド」(1992年製作)より
(2015年8月)
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