<「武士道」を貫徹し、「利他行動」の稜線を広げていった男の自己完結点>
1 一日の終わりを哀しむかのような蜩の鳴声に寄せ、一日一日を賢明に生きる男
不満の多かった「雨あがる」(1999年製作)と切れ、全く破綻のないこの映画は、取って付けたような描写も違和感もなく、私の中枢に自然に這い入ってきて、極めて美しく特化された男の人物像を描きながらも、改めて、「利他行動」の様態について考える作品になり、感謝の気持ちで一杯である。
―― 以下、詳細な梗概。
豊後、羽根(うね)藩に檀野庄三郎(以下、庄三郎)が、郡奉行(こおりぶぎょう/領国の農民の管理や徴税などを任務)であった戸田秋谷(しゅうこく/以下、秋谷)の監視役に命じられたのは、祐筆役(ゆうひつやく/文書や記録を司る武家の事務官僚)である彼が、偶発的に起こした刃傷沙汰によって、家老・中根兵右衛門の温情により切腹を免れたからであった。
以下、中根兵右衛門によって命じられた「監視役」の内実である。
「戸田秋谷は郡奉行から江戸表にいて、大殿・兼通(かねみち)公からお側近く用人となったが、7年前の8月8日、事件を起こし、失脚。今、向山村(むかいやまむら)に幽閉されている。秋谷の罪は、江戸邸にて側室と密通して、気付いた家臣を斬り捨てたというもの。本来なら、家禄没収の上、切腹。ところが、そうはならなかった。秋谷は学問ができた故、我が藩の歴史、つまり家譜(かふ)に取り組んでおった。兼通公は、家譜の編纂が中断することを惜しまれ、10年後の8月8日を切腹する日と期限を切り、それまで家譜の編纂を続けるよう命じられた。死を目前に誰しも怖気づく。そなたの役目の一つは、家譜の正史を使命とし、切腹の日まで監視すること。今一つは、側室の不義にまつわる一件がどのように書かれるか確かめ、報告すること。秋谷は編纂を通じ、我が藩の秘め事をことごとく知るであろう。断じて他国へ逃してはならん。秋谷が逃亡を図るときは、本人だけでなく、妻子もろとも斬り捨てよ」
この使命を受け、向山村に向かった庄三郎。
この映画は、秋谷の切腹の日まで3年間という限定された残り時間で、庄三郎の心に深く沁み込んでいく戸田家との人間的交流を、静謐(せいひつ)な映像のうちに描き出していく。
秋谷と最初に出会った際に、庄三郎が目にしたのは、既に、154年の家譜をまとめた分厚い書だった。
驚嘆する庄三郎。
秋谷は、家譜の編纂という任務の他に、日々の雑事や思いを記した日記をつけていた。
その名は「蜩ノ記」(ひぐらしのき)。
以下、日記の由来を説明する秋谷の言葉。
「夏がくると、この辺りはよく蜩が鳴きます。特に秋の気配が近づくと、その一日が終わるのを哀しむかのような鳴声に聞こえます。私も、一日一日を賢明に生きる身の上でござれば、その日暮らしの意味合いを込め、『蜩ノ記』と名付けました」
庄三郎はこの言葉を聞き、自分の「監視役」としての仕事の内実を正直に吐露する。
「お役目を果たされるのは当然のこと。ご懸念には及びません」
ところが、この庄三郎の話を聞き知った秋谷の息子・郁太郎(いくたろう)は動揺し、その事実を父に尋ねるのだ。
「3年後、そなたを元服させ、話すつもりでいた」と父。
「母上や姉上はご存じなのでしょうか?」
「知っておる」
「私だけが知らなかったのですね」
「そなたは武士の子。父の死を知ったとて、何が変わるというわけではなかろう」
衝撃を受けた10歳の郁太郎は、そのまま走り去っていく。
家族の現実の一端をいきなり見せつけられ、自分の使命を迂闊(うかつ)に話したことを悔い、郁太郎を追いかける庄三郎。
溜池に座り込んでいる郁太郎に話しかける前に、郁太郎から問い詰められる庄三郎。
「あなたは父が死ぬのを見届けに来たのですか?」
「そうだ。それが私のお役目だ」
「父上は立派な方です。悪いことをされる訳がありません。なぜ、切腹など」
「戸田様は覚悟をしておられる御様子。息子として、父の覚悟を乱すようなことがあってはならないのではないかな」
「この私に、まもなく父上と別れよと。そう言われますか!」
「憎みたければ、私を憎め」
感情を抑え切れず、庄三郎に向かって行く郁太郎。
「どうしようもないことで、罪に問われることがある」
「私には分りません!」
「私は城内で喧嘩をし、友を斬ってしまった」
「父上も同じだと言うのですか!」
「私には分らない!逃れようとしても、逃れられないことがある」
取っ組み合いながら、郁太郎に説諭する庄三郎。
そんな二人が、今、溜池に佇(たたず)んでいる。
「私は武士の子です。覚悟はできました」
郁太郎の力強い言葉が、この二人の不思議な出会いの軟着点になっていくが、運命に抗うことができないと知る気の強い少年の、それ以外にない防衛機制であると言っていい。
一方、この二人の帰宅を待つ秋谷と妻・織江、そして長女の薫。
庄三郎への精一杯の持て成しだった。
「イグサ栽培は、村の人たちの暮らしを少しでも豊かにしようと、父が始めたものです」
この郁太郎の説明によって、「非日常の日常」を繋ぐこの家族が、村人たちのコミュニティに溶融していることが読み取れる。
以下、その夜の、秋谷と庄三郎の会話。
「この家譜がまとまれば、ご家老様はご先祖のことを蒸し返される。そう思われるのではありませんか?」
「家譜が作られるとは、そういうことです。歴史とは、都合良きことも悪しきことも、子々孫々に伝えられてこそ、世の指針となり得るのではありませんかな」
「歴史は鑑(かがみ)と申しますが、藩を預かる中根様のお心にはどのように映るのか・・・」
「ご自身のお手本として下されば。ともかく、私は約束を果たさねばなりません」
「私も、重い荷を背負ったように思います」
かくて朝になり、庄三郎の重くて長い一日が閉じていった。
藩主の側室との不義密通の事情を知らずに、それでも父を信じようとする薫に対し、同様に、事情を知らない母・織江は、そこだけはきっぱりと言い切った。
「お父様は何があろうと、自らを恥じるようなことは決してしない。そう信じておりますよ」
この織江の言葉は、向山村の南麓にある禅寺・長久寺で、村の子供たち相手に「寺子屋」を催す秋谷の立ち居振る舞いを見れば、その人となりが観る者に伝わってくる。
その「長久寺」の庫裏(くり)で、慶仙和尚と庄三郎が会話を繋いでいる。
「秋谷殿は罪を犯したのではない。自ら望んで、罪を背負ったのだ」と慶仙和尚。
「それは、いかなることでしょうか?」と庄三郎。
「藩のためかも知れぬし、一人の女子(おなご)のためかも知れん」
「一人の女子?」
「密通したと言われている側室とは、お由(よし)の方だ」
「松吟尼(しょうぎんに)様のことでしょうか?」
「さよう。お由の方は元々、秋谷殿の父上に仕えていた家臣の娘。秋谷殿とは幼馴染だ。どのような縁(えにし)があったかは知らぬが、お由の方は大殿・兼通(かねみち)公に見染められ、側室となられてな。兼通公は殊の外、お由の方への寵愛が深く、そのお子を溺愛し、お世継ぎにと。厄介なことでござった。当時この藩は、新たにお子を授かったお由の方と嫡男・義之様の御生母・お美代の方を巡り、覇権を争っていた。7年前の騒動は、嫡男・義之様が廃嫡されるのを防ごうとして起きたとも考えられる。もしや当時、幕府御公儀にお世継ぎを巡ってのお家騒動を知られたら、この藩は取り潰しになっていたやも知れぬ。御公儀に対し、表向きは家臣と側室の不祥事。つまり、不義密通として片付けられたがな」(注)
「理不尽ではありませんか」
「いやぁ、秋谷殿は家臣を斬り捨て、大殿の側室と一夜を過ごしたことは事実だそうな」
「その事実の奥にある真実とは、いかなることでしょうか?」
結局、庄三郎の本質的な質問に答えられない慶仙和尚もまた、伝聞の域を超えない情報しか持ち得なかったのである。
しかし、自分のイメージと異なる「秋谷の事件」に対する関心は深まるばかりだった。
その頃、秋谷は村民の相談に乗っていた。
秋谷は、羽根藩の財源が七島筵(しちとうむしろ)にあり、それを独占し、甘い汁を吸い続ける播磨屋への不満の思いを受け止めていた。
因みに、ウィキによると、七島筵は庶民の畳表として用いられるようになり、特産品として藩の財政と農民の暮らしを潤したと言う。
金貸しである播磨屋と羽根藩の役人の癒着によって、搾取される村民たちという構図が、そこにはある。
その村民たちの不満が、一揆にまで広がることを諫(いさ)めているのだ。
「人は生きている限り、どこかに生き火が隠されているはず。大切なのは吹き続けること。今、必要なのは耐え抜くこと。時を待ちなさい」
今にも江戸表に直訴しようとする村民たちに対する、「大切なのは吹き続けること」と言うこの秋谷の言葉は本作のメッセージの一つでもある。
一年経った。
中根兵右衛門に呼ばれた庄三郎が、お由の方改め、松吟尼の元に行くための許可を求めた。
家譜の編纂の中で、文化元年(1804年)、松吟尼に兼通より許しが出るという一文に接し、その内実を知ることが目的だったが、庄三郎の思惑は、どこまでも「秋谷の事件」への関心を捨てられなかったからだ。
(注)幕藩体制下にあって、大名廃絶政策としての「改易」の主因が「世継ぎの不在」であったため、公儀の認可によって養子を儲けたり、血縁者を世継にしたりするなどして、お家再興を図る諸藩の努力には涙ぐましいものがあった。
2 理不尽な事態に憤怒する青年藩士
「戸田様にはお許しがなく、いずれ腹を召されます」
庄三郎のこの言葉に驚く松吟尼。
「あなた様は、真に秋谷殿のもとにおられるのですね。秋谷殿にもお許しが出ているとばかり思うておりました」
「戸田様は、さようなことを一言も申されません」
「では、あのお方は何の釈明もされず、黙したまま、命を捨てられる御所存でありまするのか?」
「それは、いかなることでございましょう?」
「あの日のことは、秋谷殿にとって何の落ち度もありません。私たちの間には、何事もなかったのですから。8月8日のあの夜、頭巾を被った武士が数人、私の部屋に押し入りました。近くで殿居をしていた秋谷殿が駆け参じ・・・」
殿居(とのい)とは、殿を護衛する任務のことだが、その殿居をしていた秋谷のその時の果敢な行動を想起する松吟尼の言葉から、当時の映像が挿入される。
頭巾を被った複数の武士を斃した後、兼通との間に生まれた松吟尼の乳児が既に殺害されていて、我を失う松吟尼を抱き締め、力を込めて激励する秋谷。
「なりません!此度のことは、大殿に報告の上、御指図を仰がねばなりません。あなた様には何の落ち度もありません。忍び難きを忍び、どのようなことがあろうとも生きて下さい」
「我が子を亡くした私に、何のために・・・」
ここまで言われれば、沈黙せざるを得なかった。
「私の・・・私の思いもありますゆえ・・・」
沈黙の中から、秋谷は、この言葉を吐き出すが、幼馴染である松吟尼の衝撃の深さを真剣に受け止める思いは変わらない。
「あなたの思いとは?」
「若かった頃の自分を愛おしむ思いかも知れません・・・お由、死ぬことは易しい。どうか、生き抜いて欲しい」
「10年おったが、私もあなた様の御屋敷にいた頃が、愛おしゅうございます」
嗚咽の中から、思いを込めた言葉を吐き出す松吟尼。
ここから、庄三郎と松吟尼の会話に繋がっていく。
「違う道を歩みましょうと、若い頃の思いを共に語れる人が、この世にいて下さるだけで、うれしゅうございます」
「事の真相は闇に葬られ、我が子は病死とされました。私は髪をおろし、秋谷殿はいわれのない不義密通を問われ、切腹を命じられました」
「理不尽な」と庄三郎。
「秋谷殿と大殿・兼通様の間に何があったのか、知る由もありません。なぜ、今以て(いまもって)、腹を召そうとしているのか、私には分りかねます。そのようなことがあってはならぬと思うております」
「私もさように」
「何卒、秋谷殿をお助け下さい」
以上が、庄三郎に語った松吟尼の言葉である。
そして、この話を中根兵右衛門に対して、庄三郎は強い言辞で説明するが、一蹴する中根。
そればかりではない。
向山村で、強訴を企んでいる農民たちをけしかけているのが秋谷であると断言し、その秋谷を明日にでも斬り捨てることを、庄三郎に命じるのだ。
無論、庄三郎には、その思いがなかった。
かくて、向山村に戻った庄三郎がそこで見たのは、播磨屋と村民たちとの争いの光景だった。
庄三郎が播磨屋の恨みを買ったのは言うまでもない。
3 弔意を抱懐し、小さく暴れる「死人」の怨念
季節が変わり、冬を越え、新しい春がやって来た。
それは、刻一刻と、秋谷の死が近づいてきていることを意味する。
そんな折、長久寺の慶仙和尚の元に、松吟尼が訪ねて来た。
人づてに耳にする松吟尼と会いたいと望む長女・薫を随伴し、庄三郎は長久寺に赴いた。
「若かりし頃の秋谷殿は、文武に秀(ひい)で、清廉な方でございました。私は奉公人の子。親しくお話したことはございません。ただ、江戸表にて殺(あや)められた私を助けて下さいました折に、人としての縁(えにし)を感じた次第です」
これは、若い頃の父に興味を持つ薫に、松吟尼が語った言葉。
「人としての縁」について尋ねる薫。
「この世に生を受ける人は数え切れぬほどおりますが、全ての人が縁によって結ばれている訳ではございません。縁で結ばれるとは、生きていく上の支えになるということかと思います」
その父が、松吟尼の縁になったかどうかを尋ねる薫に、その真情を穏やかに語っていく。
「私にとりましてはさようです。されどそれは、秋谷殿の預かり知らぬことです。それ故、言わずにいるべきことかと思いますが、美しい景色を目にいたしますと、自らと縁のある人も、この景色を眺めているのではないか、そう思うだけで、心が和むものです。生きていく支えとは、そのようなものだと思うております」
この言葉を聞き、感謝し、安堵する薫。
薫が席を離れた後、松吟尼は、兼通の死後、自分に届けられた「お美代の方様ご由緒のこと」(以下、「由緒書き」)という書状を庄三郎に渡した。
そこには、中根兵右衛門の名で書かれた、兼通の嫡男で当代藩主・義之の正室であった、お美代の方の由緒の事実だった。
「尾張徳川家に仕えて後、牢人・秋戸龍斎の息女」
これが、お美代の方の「由緒書き」の内実。
ここで言う「牢人」とは、主家を持たない武士のこと。
かくて、庄三郎は、松吟尼から預かった「由緒書き」を、「生きた事実を大切にせよ」という大殿の言葉を援用し、秋谷に見せる。
「全てはお家の歴史を書き上げることによって、明らかになるやも知れん」
秋谷自身も、お美代の方の「由緒書き」の存在を知らなかったのである。
庄三郎にとって、「明らかになるお家の歴史」の内実こそ最大の関心事だった。
そのことによって、秋谷の救済の覚悟を決めたのである。
その思いを、父の身を案じる薫に吐露する庄三郎。
一方、郡方の役人・矢野が、農民を集めて年貢の取り立てを求めるが、それに不満な農民たちに対して、一揆の噂を耳にした事実で恫喝する。
かつて、播磨屋に盾をついた二人の農民が矢野を襲い、殺害したのは、その直後だった。
事態は変転する。
「由緒書き」の詳細を調べることを引き受けた、元祐筆役の水上信吾(みずかみしんご)は、お美代が播磨屋の先代の娘である事実を、秋谷らに報告するに至る。
この報告によって、播磨屋と中根兵右衛門との癒着が、ほぼ決定的になったのである。
即ち、お美代の方を側室にすることで、播磨屋からの賄賂の事実が露呈されたと言っていい。
真実が明らかになり、心穏やかではない秋谷の厳しい表情が初めて映されるが、しかし、真実を知ったことで、彼の心は浄化されていく。
なぜなら、彼は家譜の正しい編纂の任務を、未だ終焉していないからである。
因みに、ここに出てくる水上信吾とは、庄三郎に足を斬られた張本人だったが、偶発的な事件だったので、今では恨みも消えていた。
中根の懐刀と言われる原市之進が、「由緒書き」の返還を求めるが、秋谷はそれを拒絶する。
更に、矢野の殺害を知った原市之進の脅迫があり、下手人として疑われる危険性がある向山村の万治を村から逃がす秋谷。
そして、その万治を捕えに来た役人に口答えする、万治の息子・源吉が捕えられ、その日の内に拷問死されるに至る。
この事件は、他の農民の犯行であったが、藩の目付に対して、最後まで口を割らなかった源吉の心の強さが仇となってしまった。
源吉の仇を討つと言って、羽根藩家老・中根のもとに一人で出向こうとする郁太郎の気持ちを汲み、庄三郎が先導して中根に会いに行くが、一切を否定する中根。
辛うじて、中根にみぞおちを加えた郁太郎と、それを援護した庄三郎が共に入牢の処分を受ける。
兵右衛門の甥でもある信吾が、「由緒書き」の返還を条件に庄三郎と郁太郎の命を保証するという説明のために、秋谷のもとを訪れ、その条件を含めて、自ら中根に会いに行く秋谷。
「私はそなたを誇りに思う」
中根の邸にて、源吉のために一矢報いた郁太郎を褒める秋谷の言葉である。
中根が出現し、彼が望む「由緒書き」を提供する秋谷。
「それはもはや、紙切れ同然である」
秋谷のこの言葉は、既に、慶仙和尚に「由緒書き」の複製を手渡したことで、「紙切れ同然」になってしまったことを意味する。
以下、二人の会話。
「貴様、何を企んでおる」と中根。
「企みなどございません。生きた事実を伝え、嘘偽りのない歴史を書き残すことができれば、それこそが武家の鑑。お家は必ず守られると信じております。それが、大殿との契りでございます。10年頂いたこの命、十二分に使わせていただきました」
「偽りを申すな。御由緒書きの一件を盾に、助命を願うつもりではないのか」
「それがしの命、お家の大事にもてあそんでは、武士の誇りが廃(すた)れる。お家は中根殿御一任にて、抱き留め下さるものと。切腹はかねての覚悟。この10年、死ぬことを自分のものとしたい。そう思って生きてまいりました。郁太郎と檀野殿を引き取り、約束の8月8日、それがしは腹を切るまで」
秋谷のこの腹を括った言葉に、返す言葉を持たない中根。
自らを「死人」(しびと)と呼び、その「死人」の怨念を、中根を殴ることによって、源吉の弔意とする秋谷が、邸の小さなスポットで小さく暴れていた。
「秋谷には、大きな借りができてしまった」
この中根の言葉を聞く限り、藩の財政の立て直しに尽力した男が、もはや、それ以外にない酷薄な行動に振れていった心情が斟酌(しんしゃく)できる。
秋谷もまた、藩にとって中根の存在の大きさを知悉(ちしつ)しているが故に、「約束された死」を引き受け、それを遂行するのであろう。
だから秋谷は、家譜の中に、お美代の方に関わる偽りの「由緒書き」を残したのである。
4 悔いなき人生を完結させ、「約束された死」に向かう男の無言の別れ
「約束された死」が刻々と迫るある日、秋谷は大殿・兼通の墓前に、家譜の編纂が終了したことを報告に来た。
以下、そのときの秋谷の回想シーンでの兼通の言葉。
「わしが不徳であったため藩を乱し、お由にも哀しい思いをさせてしもうた。既に、我が藩の騒動は幕府御公儀に知れ、お家の取り潰し、改易の御詮議が始まるやも知れぬと聞く。わしはその方を、行く末の頼みと思っておった。しかしもう、お前しかおらん。お家のため、そなたの命、名誉も、このわしに預けて欲しい。頼む。10年の間に美しい鑑を作ってまいれ。成仏せず、その方の追い付くのを冥土で待っておる」
兼通のこの言葉を回想し、墓前で笑みを浮かべる秋谷の表情が印象的に映し出される。
その直後の映像は、庄三郎と薫が祝言を挙げ、郁太郎を元服させるシーン。
もう、思い残すことがない秋谷の感情は、自死に振れていくだけだった。
その現実を何よりも知りながら、とうとう我慢し切れず、妻・織江が嗚咽を結んでしまう。
なぜなら彼女は、今、夫が旅立っていく死に装束を縫っているのだ。
その日、秋谷は身体を浄化する。
「父があなたに感謝の心で一杯なのは、私も今、生きる希望を感じております」
秋谷を救えなかった庄三郎への、薫の心のこもった真情である。
そして今、秋谷と織江が、最期の会話を交わす。
「我らは良き夫婦であったと思うが、そなたはいかがじゃ?」
「さように存じます。私は良き縁を頂き、良き子らにも恵まれたと思うております」
「悔いはないか?」
「はい。決して悔いはございませぬ」
「わしもだ」
家族と無言の別れを告げ、藩の役人の案内で、切腹の装束である白無地の小袖を着用した秋谷が、盛夏の季節の只中を凛として歩いていく。
これがラストカットになった。
切腹のシーンを描くことなく閉じた映像の素晴らしさ。
そこが最高にいい。
5 「武士道」を貫徹し、「利他行動」の稜線を広げていった男の自己完結点。
「神」という絶対的な存在によって相対化される内的規範を持ち得ない、私たち日本人の「宗教的空洞」を補填するために、敬虔なキリスト者であった新渡戸稲造が、アメリカのプロテスタントの職業的・日常的倫理観の高潔さに感銘を受けて、1938年にアメリカで刊行し、その著が逆輸入されたあげく、ようやく人口に膾炙(かいしゃ)したのが、かの有名な「明治武士道」=「武士道」(矢内原忠雄訳 岩波文庫)であることは周知の事実。
近世以降の封建社会における武士階級の倫理規範とされ、未だに厳密な定義は存在しない「武士道」が、支配階級としての武士の間で理想主義的な精神的倫理として定着したと言っても、それが「太平の世」という経済社会的条件が形成されていたからであり、それ故に、「武士道と云ふは、死ぬ事と見付たり」というフレーズだけが特定的に切り取られて喧伝された、「葉隠」という有名な著述が禁断の書であった事実を無視する訳にはいかないのである。
ところが、「葉隠」を読んだ者には了解済みだろうが、この筆録記録が、緊張感がなくてダラケた生活に甘んじる、当時の武士のマナーを説いたマニュアル本であり、特段に〈死〉を美化したものではない事実は既に検証されている。
ところが、「葉隠」を読んだ者には了解済みだろうが、この筆録記録が、緊張感がなくてダラケた生活に甘んじる、当時の武士のマナーを説いたマニュアル本であり、特段に〈死〉を美化したものではない事実は既に検証されている。
そんな筆録記録でも封印せねばならないほどに、幕府を恐れる藩主らの脆弱さが垣間見えてしまうのである。
それは、「生死」という二者択一の状況下においては〈死〉を選ぶことを勧めた、「葉隠」に収斂されるとする「武士道」の精神が、近世において「共通認識」としての規範体系を持ち得なかったことを意味しているのだ。
それは、「生死」という二者択一の状況下においては〈死〉を選ぶことを勧めた、「葉隠」に収斂されるとする「武士道」の精神が、近世において「共通認識」としての規範体系を持ち得なかったことを意味しているのだ。
それ故に、近代社会に入って、「強き日本人」を育成する必要から、曲解された「葉隠」に象徴される「武士道精神」の立ち上げの故に、「死に場所」を求める男の行動規範のモデルを提示せざるを得なかった、時の為政者の苦労がかえって透けて見えるのである。
言ってみれば、「武士道」とは、天下泰平の世になって、水も漏らさぬ幕藩体制を築いたクレバーな江戸幕府が、堅固な主従関係を構築するために、武士の社会道徳の規範にまで昇華させていった観念体系の仮構の産物であり、それが「義・勇・仁・礼・誠・名誉・忠義」という倫理的な濃度の高い理念に結晶化されたものなのである。
言ってみれば、「武士道」とは、天下泰平の世になって、水も漏らさぬ幕藩体制を築いたクレバーな江戸幕府が、堅固な主従関係を構築するために、武士の社会道徳の規範にまで昇華させていった観念体系の仮構の産物であり、それが「義・勇・仁・礼・誠・名誉・忠義」という倫理的な濃度の高い理念に結晶化されたものなのである。
その意味で、本作の主人公・戸田秋谷は「忠義」という一点において、狭義の「武士道」を貫徹させた人物であると言っていい。
戸田秋谷は、どこまでも曖昧な、人間の情感系の範疇としての「武士道の美学」に殉じたのではないのだ。
「美学」などとは無縁な、「忠義」という名の「武士道」を貫徹させたのである。
「忠義」という名の「武士道」を貫徹させる秋谷が守り抜いた具体的対象が、幕府による「改易」=「取り潰し」(大名の領地を没収し、その身分を権力的に奪う)から、藩士・藩士の家族、そして、領内の村民の生活、そして何よりも、自分の家族であった現実を考える時、戸田秋谷という男が、最後まで「利他行動」に振れた人物であることが判然とするだろう。
大名廃絶政策としての「改易」の背景に、「世継ぎを巡る争い」である事実を認知したが故に、「公人」としての秋谷は、自らを人身御供(ひとみごくう)にしたのである。
確かに、秋谷の生き様は、一点の曇りもない眩(まばゆ)いまでの人物像を印象づける。
些か残念な思いもあるが、そのことは、秋谷の「葛藤描写」がないことで自明である。
しかし、人間は様々であり、複雑で分かりにくく、その振れ幅の大きさは驚くほど不可思議性に満ちている。
だから、こういう人物が、「いつの時代」・「どこの社会」にも存在しないと言い切れないのである。
本稿では、一点の曇りもない人物像を印象づける、そんな秋谷の生き様に焦点を当てて考察してみたい。
その生き様のキーワードは、彼の「利他行動」の様態である。
思うに、遺伝子を共有する血縁者の繁殖成功に与える影響力を重視する進化生物学に、「血縁選択(淘汰)説」という理論がある。
この理論から、血縁同士は「協力行動」や「利他行動」を取りやすいという仮説が導き出される。
有名なリチャード・ドーキンス(英国の進化生物学者)の「利己的な遺伝子」の理論と些か根拠が異なるが、進化的に獲得したこの「協力行動」や「利他行動」とは、「自らコストを支払い、他者に利益を授ける行為」と定義されるものである。
その興味深い一例を挙げる。
べルティングジリス(ウィキ) |
警戒音を発すると目立ってしまい、自分が捕食者に捕まるリスクを上げる一方、仲間が捕食者に捕まる確率を下げることになる。
ここで重要なのは、べルティングジリスの警戒音の対象が、自分の姉妹など血縁に近い仲間であるケースが多い事実が確認されているのである。
屋上屋(おくじょうおく)を架すので例証しないが、このようなケースは、サバイバルの極限状況下における私たち人間の場合でも確認されていること。
言うまでもないことだが、この「血縁選択(淘汰)説」によって、秋谷の「利他行動」の全てを説明することには無理がある。
然るに、戸田秋谷という男のとった「利他行動」の様態の一つが、この「血縁選択(淘汰)説」によって説明し得る余地を残しているのである。
要するに、秋谷の「約束された死」へのリードタイムの乏しい残り時間の中で、彼の「大義名分」が再構築されたことは間違いないのだ。
「大義名分」の再構築とは、血筋を偽り、側室となっていたお美代の方を正室にした家老・中根兵右衛門の「由緒書き」に関わる陰謀を知り、そのことで、たった一人の息子・郁太郎の命の危機に遭い、郁太郎を救済するために、自分の命を差し出すという行動だった。
謹慎の身である秋谷にとって、中根の邸に乗り込むことは、その場での処刑を意味するのだ。
それは、大殿との秘匿の「契り」を守り、ひたすら、藩主・三浦家の歴史を綴った家譜の編纂という、秋谷なりの「平穏な日々」を自壊させる危険な賭けだったのである。
「由緒書き」を中根に譲渡する行為によって、一人息子・郁太郎と、早晩、自分の近親者になっていく庄三郎の生存を守る行為を遂行する秋谷が、そこにいる。
そして秋谷は、その危険な賭けに勝った。
思うに、「武士道」を体現する秋谷の内面を占有している感情の中枢に、人一倍の「誇り」が存在する現実を否定しようがないだろう。
「御由緒書きの一件を盾に、助命を願うつもりではないのか」と中根に勘繰(かんぐ)られた時、「お家の大事にもてあそんでは、武士の誇りが廃(すた)れる」と、秋谷は、そこだけはきっぱりと言い切ったのである。
大事な局面での頓挫(とんざ)に遭って、「助命を願う」行為に振れていくだろう自己のサイズで、秋谷の行為を「命乞い」としか思えない中根の器量では、とうてい、秋谷の「誇り」の重量感など理解できようがないのだ。
切腹の意志を変えない秋谷の「誇り」は、個人の観点からサバイバルに反するように見えるかも知れないが、この人一倍の「誇り」によって、むしろ、子孫や一族の評判や適応を向上(あるいは回復)させることができるならば、遺伝子繁殖的に非常に理に適っていると言えるのである。
考えてみるに、この一連の流れには、幽閉中の秋谷の監視という藩命を受けた、庄三郎の正義感が決定的な推進力になっていたこと。
これは大きかった。
この檀野庄三郎との邂逅(かいこう)。
秋谷の潔い生き方に深い感銘を受け、秋谷の救済に動く青年藩士は、中根兵右衛門の陰謀を追求することで、秋谷のリードタイムの残り時間の内実に、逆に大きな影響を与えていくのだ。
誤解されやすいので敢えて書くが、羽根藩6代藩主・三浦兼通の不徳によって藩を危機に陥れたツケを、播磨屋との癒着がありながらも、有能な中根兵右衛門の財政改革の一定の成功によって、公儀隠密に知られ、「改易」の詮議から免れたのも事実なのである。
二分法の白黒思考で、人間を短絡的にジャッジしてはならない。
そう思う。
閑話休題。
庄三郎との邂逅によって分明になった事柄や、青年藩士の熱い思いが、秋谷の心の中枢に届くことで、秋谷の「利他行動」の稜線は広がっていく。
この流れの中で、「血縁選択(淘汰)説」に関わる秋谷の「利他行動」の稜線が一気に広がっていくのだ。
娘・薫と夫婦になる庄三郎に対する「近親性」の認知によって、自らの遺伝子を遺していく男を発見したこと。
これは大きかった。
庄三郎は、最も頼りがいのある男なのだ。
「父があなたに感謝の心で一杯なのは、私も今、生きる希望を感じております」
秋谷を救えなかった庄三郎への、薫の心のこもったこの言葉のうちに、秋谷の「大義名分」が再構築されたことが判然とするだろう。
だから秋谷は、単に、「公人」としての「武士道」に殉じたのではないのである。
このことは、自身の個人的な「人間道」の理想的帰着点であった。
「約束された死」へのスポットに向かう秋谷が、家族に笑みを見せる。
まさに、それは、思い残すことはない境地に達した男の自己完結点だったのだ。
世の中には、こういう人間も存在する。
同時に、こういう人間の存在を簡単に否定してしまう人間も存在する。
いつの時代でも、私たち人間は、人間自身についての洞察力が不足する世界の渦中で生きているからである。
その意味で、「約束された死」に向かって生きる秋谷の淡然とした行動の「不可解さ」が、以上の説明で、決してあり得ないことではない現実を検証できるだろう。
思えば、多くの人々が共有し得る価値ある業績によって、歴史に名を残す限られた「偉人」の陰で、自らを囲繞する限られた人々と共有し得る価値ある「利他行動」を残しつつも、その〈生〉を自己完結した数知れない名もなき人々がラインを成しているに違いない。
秋谷も、その一人だった。
その秋谷にとって、文化を形成する情報であるミーム(武士道)と、DNAを本体にする子孫へと伝えられる因子である遺伝子(繁殖)という様態が、秋谷の内面世界で対立する図式に流れることなく、それを融合させたことに意味がある。
だから、世俗への未練なく、大殿が待つ「冥土」に旅立って行けたのである。
本稿の最後に、妻・織江や娘・ 薫が、「約束された死」に向かう男と共存しながら、全く取り乱すことも、特段の煩悶・葛藤描写が拾われることがなく、「非日常の日常」の日々を送っていった心の風景の継続が、なぜ可能だったのかについて、私は以下のように考える。
「約束された死」への心の準備 ―― それを、「予期悲嘆の実行」と呼んでいる。
心理学の概念である。
即ち、愛する者の「約束された死」を覚悟し、愛する者との「残り時間」をしっかり共有すれば、「対象喪失」の際の悲しみ・苦しみからの精神的復元が早いという意味である。
だから彼女たちは、ラストで言葉を交わすことなく、愛する者との永遠の別離を実行し得たのである。
私は、そう思う。
(2015年8月)
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