<「負け組」の男と女の、その究極の生き様を描き切った傑作>
1 「ただ、やることを探しているだけ。でなきゃ、完全な負け犬だ」
検閲とのせめぎ合いの中で、基幹メッセージを巧みに隠し込み、商業映画としての成功を収めた映像は、見事なまでのラストシーンの提示のうちに、極めて作家性の高い結晶点に収斂されていく。
紛れもない傑作である。
―― 以下、梗概。
1999年夏。
中国北部の華北地方。
刑事であるジャンは、彼の妻から「離婚証明書」を突き付けられても、未練が残り、あろうことか、妻と別れる駅のホームで強引に押し倒し、なお、セクハラ紛いの行為に及ぶ。
そんな折、6都市・15箇所に及ぶ石炭工場の各所で、頭部を除く手足が切断されたバラバラの遺体が見つかるという猟奇事件が起こった。
近年、暖房用の燃料となる石炭の使用増の影響で、大気汚染が深刻化している華北地方のイメージは、報道を通して私たちにも馴染み深いエリアである。
リアン・ジージュン。
この遺体の被害者の名である。
身分証と服が発見されたからである。
石炭工場の計量部で働き、人に恨みを買う人物ではないことを聞かされたジャン刑事は、嗚咽するばかりの若い妻から事情聴取も満足に遂行し得なかった。
捜査の中で、遺体を運んだと思われるトラックが特定され、そのトラック運転手のリウ兄弟が容疑者として浮かび上がり、華美な色彩に彩られたヘアサロンで拘束しようとしたとき、仲間の刑事二人が射殺され、間髪を容れず、リウ兄弟を射殺するジャン刑事。
2004年冬。
事件から5年経って、刑事を辞め、異動の警官として工場の保安課の一員となったジャンは、酒浸りの荒れ果てた日々を送っていた。
そのジャンが、いつものように飲んだくれて、路上脇に横たわっていた所で、自分のバイクが、通りかかりの男に盗まれてしまうシーンが映像提示される。
治安の悪さが目立ち、「法治国家」とは名ばかりな中国社会の現実を投影しているような構図だった。
スケート靴を履いている切断された足。
これが、この猟奇犯罪の被害者の画像だった。
その猟奇犯罪との関与を疑う一人の女を、ワン刑事らは張り込み中だったのである。
自転車に乗る女を尾行する警察の覆面車両。
そこにジャンも同乗していた。
女の名は、ウー・ジージェン(以下、ウー)。
石炭工場での猟奇殺人事件の被害者・リアンの妻である。
「リアンも入れると、関係ある被害者は3人か」とジャン。
「彼女と関わると死ぬ」とワン。
「俺は好きでも、向こうにその気がない。でも、雇っているのは同情からだ。99年に店を始めてすぐ、彼女が革の上着をダメにした。その直後に、彼女の夫が死んだ。クビにはできない。」
クリーニング店主のホーをウーの愛人と疑っていたジャンは、そのホーから、直接、彼女を雇っている事情を聞き出した。
店主の話は続く。
「その客は賠償を要求してきた。2万8000元。99年当時は今より大金だ。ボタンぐらい何でもない。でも、彼女はツイてた。客は1週間騒ぎ続けて、突然、姿を消した。数日前、その革の上着を偶然見つけた。客に返そうかと思ったが、やめといた。面倒を起こすだけだ」
店主の話をここまで真剣に聞いていたジャンは、店のカウンターを拭き掃除していたウーからメモを受け取る。
「“私に付きまとわないで”」という内容のメモだった。
自転車で帰るウーを、オートバイで尾行するジャン。
ところが、ジャンのオートバイに何者かが仕掛けをしたので、エンジンがかからないのだ。
夜の雪面に、その者の足跡が残っていたことを確認するジャン。
明らかに、ウーの「共犯者」を想像させるに難くなかった。
その直後、ウーに対する店主のセクハラを提示した映像は、ウーへの疑念を深めるジャンが、帰宅する彼女のあとをゆっくりと尾行するシーンにシフトする。
「今度、野外スケートに行こう」
馴れ馴れしく近づき、デートに誘うジャンに、表情の変化を見せないウーは受け入れる。
「首を突っ込むな」
同様にウーをマークするワン刑事は、かつての仲間のジャンに忠告するが、ジャンは聞く耳を持たない。
「ただ、やることを探しているだけ。でなきゃ、完全な負け犬だ」とジャン。
「今さら、勝ち組になれると思う?」とワン。
ジャンの心象風景を炙(あぶ)り出すような会話の中に、現代中国が抱える社会的問題が垣間見える。
ウー |
ウーの肉体に触れ、ジャンが強引にキスしたのは、スケートリンクから外れた氷道でのこと。
スケートリンクから外れた氷道に誘(いざな)ったのがウーであることを思えば、自分を付け狙うようなジャンに対する殺意を持って、「共犯者」に遂行してもらう画策が、そこに見え隠れする。
ともあれ、抗えない女と、その女の「魔性」に惹きつけられていく男の物語は、この辺りから大きく変容していく。
ワン刑事が、拘束した一人の容疑者からスケート靴で反撃され、殺害されるに至る事件が惹起する。
その辺りの関係は不分明である。
KF295。
ワン刑事の同僚が残したと思われるこのメモは、ワン刑事を殺したスケート靴を肩にかけた男が乗車するバスの車両番号である。
そのバスに乗り、男を尾行するジャン。
そして、ジャンが目撃したのは、鉄橋の上から、その真下を通る石炭車両にバラバラにした死体を放り投げる現場だった。
これは、5年前の事件との関連なしに説明できないのだ。
5年前の事件の真犯人は、スケート靴を肩にかけた男なのか。
未だ不分明だが、ジャンは、この男とウーとの関係を疑わざるを得なくなった。
その直後、スケート場で、ジャンは「リアン・ジージュン」を呼び出してもらう。
このことは、ジャンが、「スケート靴を肩にかけた男」=「リアン・ジージュン」であることを認識した事実を物語る。
要するに、5年前のバラバラ死体の主が、「リアン・ジージュン」を偽装した別の男であることを意味するのだ。
当然、「リアン・ジージュン」が出現することはない。
しかし、「スケート靴を肩にかけた男」はこの放送に驚き、疾走する。
彼を追いかけるジャン。
まさに彼が、「スケート靴を肩にかけた男」=「リアン・ジージュン」である事実を確信したからである。
しかし、男を捕捉できなかった。
その代わり、既にウーを捕捉していた刑事たちは、ジャンに会わせて欲しいというウーの要求を受け入れるに至り、ジャンとウーの二人だけの会話が交わされる。
「今朝、男が鉄橋の上から死体を投げてた。下を走る列車が、俺の同僚の体をいろんな町に運んでいく。そして思い出した。99年のあの事件。各地で見つかったバラバラ死体。たった1日で、死体をバラまけるのは誰か。知りたいか?計量員だ。すべてのトラックが計量台を通る。石炭を積んだ荷台に死体を載せれば、翌日には、各地の工場に送られ、焼かれて灰になる。君の旦那のリアン・ジージュンは計量員だったろ?」
「スケート靴を肩にかけた男」=「リアン・ジージュン」によって、鉄橋の上から放り投げられた死体の主はワン刑事だったのだ。
しばらくの「間」の中から、本質を衝く追及を受けたウーは、諦念した者のように答えていく。
「99年、彼は強盗をはかり、人を殺した。彼は怖くなり、死人と入れ替わった。そうすれば見つからない。結局、警察はダマせたけど、一生、戻れなかった」
「運が良かった。当時、DNA検査は普及してなかった」
「何年もの間、素性を隠し、私を監視する生活。私のそばには死人がいた。逃げたかった。でも、できなかった。彼は私に近寄る男を殺した。誰に言える?私も殺されるかも」
「彼は強盗をはかり、人を殺した」というウーの説明が嘘であることが後に判明するが、重要な情報を含むジャンとの会話はこれだけだった。
この時点で、ジャンは彼女の話を信用し、「罪を認めた」と担当刑事たちに報告する。
あとは、「死人」である夫・リアン・ジージュンを逮捕することが捜査班の基本方針になった。
ホテルの一室で、そのリアン・ジージュンがウーの前に現れ、金を渡すシーンに繋がる。
まもなく、夜道を歩くリアン・ジージュンとウー。
しかし、ウーの無表情さだけが際立っている。
男は女の手を握ろうとするが交され、その手を引っ込める。
まるで、女によって支配されている男の脆弱さが印象づけられるのだ。
それを、影から見ていた女の悲痛な表情が映し出されていた。
女が男を裏切り、警察に通報したのである。
2 「今のうちに自分で話せ。あとで、他の人に話すよりだいぶいい。自分から話すんだ」
事件が一段落し、ウーは警察から解放される。
しかし、ウーに強い関心を持つジャンは、どこまでもウーを追っていく。
「ついてこないで」とウー。
「説明させてくれ」とジャン。
「必要ないわ」
「頼む。聞いてくれ!」
「何も聞きたくないわ!」
「君を助けたい!」
そう言って慰める男と、泣き叫ぶだけの女。
その二人の前に、刑事たちが待っていた。
「お手数だが、5年前の遺骨を確認したい」
「川に捨てたわ」とウー。
ウーの言葉を信じない刑事たちは、クリーニング店でウーを捕捉する。
一方、ジャンはクリーニング店に赴き、そこで5年前にクレームをつけられ、預かったままの革ジャンの男の住所を聞き出した。
“華龍貿易会社 ジャオ・ジエンピン”
革ジャンの男の名刺である。
警察から戻って来たウーが、その様子を一瞥し、一瞬、動揺する素振りを見せ、ジャンはそれ見逃さなかった。
その革ジャンを買い取るジャン。
ジャンは、その華龍貿易会社のジャオ・ジエンピンに会いに行く。
革ジャンを手渡しても、「自分のものではない」と言って、受け取ろうとしないジャオ・ジエンピン。
ジャオ・ジエンピンは革ジャンの持ち主ではなかったのだ。
ジャオ・ジエンピンの案内で、本当の革ジャンの持ち主に辿り着く。
「確かに私の夫のよ。最後に会ったのは、私たちが開いたバー。あの女が訪ねて来た。夫は彼女と出ていって、それっきり」
本当の革ジャンの持ち主の元妻の言葉である。
「あの女」とは、ウーである事実を確信するジャン。
「その女を、今、見ても分ります?」
「店の入り口に立ってた。あの顔は忘れやしないわ」
「場所はここ?」
「ええ。店名も“白昼の花火”。時代と共に店は大きくなったけど、記憶は変わらないままよ」
「勝ち組」の象徴のようなこの富豪の元夫人は、5年前の革ジャンを、わざわざ届けに来たジャンに、「いくら欲しいの?」と言ってのけるのみ。
「我が国は長期にわたる社会主義の初期段階にある」(「中華人民共和国憲法の前文」)と標榜する一党独裁国家の格差の現実が、この辺りから俄(にわ)かに鮮明に映像提示されていく。
「今のうちに自分で話せ。あとで、他の人に話すよりだいぶいい」
「どういう意味?」
「自分から話すんだ」
嘘偽りのない告白を求めるジャンの言葉を受け、今やもう、自分を「援助」する者の存在を失った女は、なお、自分に強い感情を持つジャンに対して、初めて「女」を身体表現する。
観覧車で激しく求め合う男と女。
ウーの援助に強く振れるジャンには、彼女が犯した犯罪の内実を殆ど察知しているが故に、それを補填する女の告白を受けることで、「弱き者」同士の縁で結ばれた女の救済に向かうのだ。
朝になった。
「店を開けるから、先に行くわ・・・夜も会う?」
ウーの方から、初めて誘うのだ。
「いいよ。いつもの場所で」
はっきりと、ジャンは答えた。
ウーは、その言葉を受け、食堂を去っていく。
しかし、その直後、ウーは警察に逮捕されるに至る。
それを背後から見るジャン。
「私がやりました」
ウーが放ったその一言から、彼女の告白が開かれるのだ。
「服を賠償できなくて、ホテルに連れて行かれた。何度も」
「刺したのか?何度?」
「覚えてない」
「夫も協力した?」
「いいえ。私のために“死人”になり、一生を犠牲にしたのに、私は裏切った」
既に映像提示されていたが、あのときのウーの悲痛な表情は、自分を支えてくれた“死人”=夫・リアン・ジージュンを裏切った行為への煩悶だったのだ。
同時にこの会話から、ウーが犯した犯罪のルーツは、革ジャンの持ち主であった“白昼の花火”を立ち上げ、商業的に成功して富豪になった男からの執拗なセクハラに遭って、その男から自分の尊厳を守るために殺人を犯した女の悲哀であることが判然とする。
女は自己の尊厳を守るために罪を犯したのだ。
物語を追っていく。
ウーのことが心配で、居ても立ってもいられないジャン。
まもなく、事件が一件落着し、ジャンは今、ダンスホールで踊っている。
複雑な心情を抱える男の内面世界が揺動しているのだ。
思いっきり体を動かし、自分の内部にある情感系を吐き出し尽くし、それでも手に入れられない何かが、この男を漂動させているようだった。
因みに、ディアオ・イーナン監督は、欧陽菲菲(オーヤン・フィーフィー)の曲をバックにして歌うジャンのこのダンスを、「内心の苦しみを隠しながら踊るシーン」と表現している。
一方、逮捕されたウーは、5年前の犯行現場に随行されていく。
現場検証である。
そこは、ウ―が住んでいた貧しいアパートの一室だった。
“白昼の花火”の富豪を、寝室で刺殺したことを認めるウ―の、当時も今も変わっていない貧困の現実が浮き彫りにされる。
殺害したウーが頼りにしたのは、「死人」である夫・リアン・ジージュンだった。
彼が“白昼の花火”の富豪の遺体を切断し、冒頭のシーンで露呈されたように、鉄橋からそれを放擲(ほうてき)したことで、複数に及ぶ石炭工場の各所にばら撒かれたという真相が、最後に明かされるに至った。
ラストシーン。
現場検証を終え、警察署に連行されていくウー。
“白昼の花火”が彼らの前で炸裂したのは、その時だった。
屋上から放たれた、何発もの花火が昼間の空を白い筋で覆っている。
まもなく、護送車の中で、彼女の涙は小さな笑みに変わった。
彼女には、何もかも分っているのだ。
それは、自分のことをいつまでも見守っていてくれるジャンという男の、それ以外にない愛情表現であることを。
ウーに自白させることで事件の解決に導いたジャンには、それでも手に入れられない何か、即ち、ウーへの厚き愛情を表現しなければ収まらなかったのだ。
だから、男は花火を打ち上げた。
この「花火」は、ジャンの内側で吹き溜まっていたものの総体なのである。
「花火」の内実は、ジャンの情動系それ自身なのだ。
情動系を噴き上げる男を「酔っ払い」として処理し、消防隊・警察官の慌てふためく様子を映し出す映像は、最後まで、その「酔っ払い」の姿を映し出すことをしない。
それを映し出したらテレビドラマになってしまうだろう。
素晴らしい映像は、結局、つまらない犯人探しのサスペンスでもなければ、好きな女を「救出」し、共に逃避行に流れていくというナイーブなファンタジーに軟着させなかった作り手の構築力に脱帽する。
主演の男優の演技力にも深く感動した。
良い映画だった。
3 「負け組」の男と女の、その究極の生き様を描き切った傑作
本作は、現実の状況性との折り合いをつけにくく、虚無的で退廃的な雰囲気を有し、それが作品全体を覆っているという点で、ハリウッド流のフィルム・ノワールの空気感に満ちているが、どこまでも、拝金主義が横行する社会にあって、人々の思いが複層的に絡み合いながら、激変する現代中国で呼吸を繋ぐ「負け組」の男と女の、その究極の生き様を描き切った作品である。
そして、猟奇事件に関与するウーの存在は、ジャンの刑事魂を搦(から)め捕り、一気に心を奪う蠱惑(こわく)的な魅力に溢れていた。
だからジャンは、猟奇事件に過剰にのめり込む。
もう、それだけが彼のアイデンティティの全てになっていく。
現在の惨めな自己の在りようから抜け出すためでもある。
「汚れた雪景色を好みました」(ディアオ・イーナン監督の言葉)と語っているように、映像提示された情景が包含する虚脱感・喪失感・混濁感を漂動させる絵柄には、男と女のどうしようもないやり場のない気持ちが被(かぶ)さっていて、魂が凍りついたような寂寞感が、観る者に視界不良の寒風を間断なく吹きつけてくるのだ。
彼女の貧困の現実も、ジャンの心を惹きつける重要な要素になっているのだ。
ウーの貧困の現実が明かされる終盤のシ-ンでは、彼女が住む貧しいアパートの一室において、商業的に成功して富豪になった男からの執拗なセクハラで、尊厳を守るために罪を犯した女の悲哀が露わにされていた。
この映画で、最も重要なシ-ンの一つである。
大体、ウーの「人格性」を称して、男を破滅させる「魔性の女」という手垢のついたイメージのうちに、「ファムファタール」の概念を押し付けるのは、言葉の真の意味で、本質的に誤っている。
このことは、ディアオ・イーナン監督自身が、「人をコントロールする力があるが、彼女にはある種の温かみを残している」という風な説明をしていることで判然とするだろう。
そして、工場の保安課の一員でしかない男・ジャン。
「ただ、やることを探しているだけ。でなきゃ、完全な負け犬だ」
印象深いジャンの言葉である。
「ミステリアスな色彩に彩られている」(ディアオ・イーナン監督の言葉)が故に、この二人は物理的・心理的に近接するが、そこには「負け犬」同士の引力が働いているようにも見える。
ウーの夫・リアン・ジージュンの堕ち方の凄惨な風景が、ウーの存在しか視界に入らないほどに「負け犬」の極限にまでいった時、ウーは防衛的だが、身を切る思いの中で夫を裏切った。
夫を裏切った女にとって、もう、自分を守ってくれる何者も存在しない。
自分を守ってくれる何者も存在しない女の脆弱性が曝(さら)され、孤独と不安・恐怖が弥増(いやま)してくる。
そんな女に最近接するジャンの存在に、自分と似寄りの孤独の陰翳を見た時、女は初めて自らを投げ入れていく。
ジャンは女に、セックスだけを求めたのではないのだ。
孤独な男が、罪を犯した孤独な女に最近接した時、男が放った言葉は、男の全人格を懸ける重量感があった。
「今のうちに自分で話せ。あとで、他の人に話すよりだいぶいい。自分から話すんだ」
観覧車の中で、男は、そう言い切ったのだ。
それは、女の腕を強引に掴み、「君を助けたい!」と迫った男の一方的な言辞と切れていたが故に、罪を犯した孤独な女の中枢に届く力を持っていたのである。
罪を犯した孤独な女が、決定的に変容した瞬間である。
本作の中で、観る者の中枢にも届く切要(せつよう)なシ-ンであると言っていい。
男は愛する女の真の救出のために、どうしても、女自身の内側から表出する自白を導き出すことに成就する。
それ以外になかった。
「夜も会う?」と女。
「いいよ。いつもの場所で」と男。
しかし、女は男に会うことができなかった。
逮捕されたからだ。
逮捕された女は、刑事に問われる前に自白する。
「自分から話すんだ」という男の言辞を忘れていなかったのだ。
男の言辞の重さを感受し、罪を犯した孤独な女は最も人間的で、真実の相貌を見せたのである。
これが、決定的なラストシーンに結晶する。
すべて理解できる女から涙が滲んだとき、そこには男の愛情を素直に受容する女のナチュラルな胸懐(きょうかい)が表現されていたのである。
女は自己の尊厳を守るために罪を犯し、その尊厳を捨てないために罪を認め、国家の裁きを受けるだろう。
なお、孤独の陰翳を引き摺って、工場の保安課に勤務する男が待っているかも知れないし、女を待つ時間に耐えられず、アルコール依存症で朽ち果てているかも知れない。
それは、男と女が極限の状況下で、〈生命〉と〈愛情〉のギリギリのやり取りを経由した二人にしか答えが出ないのだ。
観る者に、それだけの思考を用意して閉じていった映像のアート性の高さは、商業映画を仮構して構築した作家性の高い映像の結晶点だった。
4 「土豪」の捩れ切った突出と、そ幻想の崩壊感覚
「土豪」という言葉がある。
中国で流行している言葉である。
一言で言うと、「泥臭い田舎の成金」という意味である。
「泥臭い」というのは、野暮ったく、垢(あか)抜けていないということ。
明らかに、何かのはずみで金持ちとなった人物に対する蔑称として使われている。
金持ちであることを露骨に誇示し、世間の注目を集める連中であるが故に、余計、厄介なのだ。
ここで想起するのは、ジャ・ジャンクー監督の「罪の手ざわり」(2013年製作)で描かれた、3話におけるシャオユーの事件のこと。
風俗店の受付係でしかないシャオユーを、「土豪」のある種の典型のような男たちが、「マッサージ」という名のセックスの相手を迫っていくエピソードの悲痛さは、観る者に相当の不快感を与えるものだった。
「俺をなめるな」と男。
「金ははずむぞ」と別の男。
「出てって」とシャオユー。
「何だ、すかしやがって。金はあるんだ」
「できません!」
「サウナで働いてるんだろ?」
「娼婦じゃありません。帰って!」
この不毛な押し問答が、風俗サウナの小さなスポットで暴れ捲っていた。
札束で女を叩き続ける男の暴力は、それを厳として拒絶するシャオユーの態度の硬化が続くほど、より醜悪に尖り切っていくのだ。
「貴様なんか、金で俺の言いなりだ!」
この構図は、金で全てを買って優越感を満たす男の自尊心が揺らぐ心理を端的に表現し切っていた。
「罪の手ざわり」のシャオユー |
しかし、収監の有無は不分明だが、恐らく正当防衛の行為が加味されて、短期間の収監であったと思われる。
本作でのウーもまた、尊厳を守るために罪を犯すことになった。
「服を賠償できなくて、ホテルに連れて行かれた。何度も」という自白をしたウーが受けた、「土豪」による性暴力への殺意の発生と、その行為は、人間の尊厳を守るための、それ以外にない防衛の手立てだったのだろう。
ここで特筆すべきことは、ウーへの性暴力を繰り返した男が、彼の夫人も含めて、「泥臭い田舎の成金」が跋扈(ばっこ)する、「カネ」というもの以外に自分の存在価値を見出すことのできない、「中国社会の精神の貧困と堕落」の象徴としてのメッセージが、本作に隠し込まれている事実である。
以下、映画とは離れて、その「中国社会の精神の貧困と堕落」の象徴としての「土豪」の実例を紹介する。
帰省のため、自家用のヘリコプターで、町の真ん中に降り立つ「土豪」。
「自家用ヘリを持つほどの大金持ちとなったこと」
この「輝かしい誇り」を、その者を知る知らないに拘わらず、多くの市民に知らせるためである。
また、ある地元土豪の結婚披露宴が盛大に開催された時のこと。
大皿に盛られて出された圧巻の「料理」。
それが、「実物の札束」であったと言ったら、一体、誰が信じるだろうか。
現に、賓客たちは驚愕(きょうがく)の声を上げたそうだ。
バブル期とは言え、さすがの中国人も、宴会の最後に、こんな不埒(ふらち)な光景を見せつけられたら不愉快極まりないだろう。
こんな話もある。
重慶市で老婦人が亡くなった時のこと。
企業家の息子は帰郷し、盛大なお葬式を執り行った際に、この「土豪」の息子は、500卓の食卓を設置して数千人参加の大宴会を催したと言う。
町の人なら誰でも自由に参加し、飲み食いができたというエピソードだが、その本質は、「土豪」の息子による「見栄っ張り大会」だったという訳だ。
中国人の「見栄っ張り消費」は今や有名だが、「土豪」であることを露骨に身体表現する過剰さは、中国人の面子(めんつ)に起因するが故に、「命より大切なもの」と揶揄されているほどである。
中国共産党の手でバブル化させた、巨大な株式市場を制御できないのだ。
元はと言えば、上海市場への外国人投資を解禁したものの、外国投資家は値上がり益を稼いだ後、上海から一斉に資金を引き揚げた。
株価が急落すると、信用買い(証券会社から資金を借り入れ、株の売買を行う「信用取引」のこと)の投資家が借金返済目的で担保株式の投げ売りすることによって株価が暴落する。
この由々しき事態に対し、中国政府は、露骨な市場介入による株価維持政策に走る。
株暴落は、中国共産党・中央指令型経済モデルの限界そのものを意味すると言っていい。
中国共産党による市場コントロールが続く限り、危機の収拾は困難に見える。
世界最大の貿易国でのバブル崩壊という現象は、バブルの循環の危うさを招来し、国際経済を脅かし続けるだろう。
人民元の変動相場制移行を含む、抜本的な金融の自由化が求められているのだ。
かくて、バブルの崩壊に伴って、「嫌われ者」である数多の「土豪」の拠って立つ基盤が揺らぎ、経済繁栄の幻想だけが置き去りにされていくのである。
「土豪」の捩(ねじ)れ切った突出と、そ幻想の崩壊感覚。
このことは、少なくない中国人に、自分自身の身の丈にあった「物語のサイズ」に復元するシグナルではないのか。
【参考資料】 「【石平のChina Watch】成り金「土豪」が横行する中国」 拙稿・人生論的映画評論・続「罪の手ざわり」(2013年製作)
(2015年8月)
毎回楽しみにしています。
返信削除働き盛りの年齢なので、なかなか時間がなく映画を見られない状況にあります。頑張ってレンタルはするのですが、見ているうちに眠りに落ちてしまいます。そんな中、ストーリーを結末まで解説して頂けるブログに出会えて大変助かっております。映画とのつき合い方は多様にあって良いというのが持論ですが、こういう乗っかり方もありなような気がしています。
「内心の苦しみを隠しながら踊るシーン」と聞いて思い出した名画が2つありました。
マイベストの上位にランクする「黒い瞳」と「ブレスレス」です。
両方ともラストの主人公の踊りのシーンが印象的な映画です。
特に「黒い瞳」のマストロヤンニは最高だったです。
リチャード・ギアは若さの危うさがたまりません。
高校時代から両方ともベストに入っています。
中国映画もずいぶん進化したようですね。「白昼の花火」の画はまるでベルギーかどこかの映画のようです。
自由に作れるようになったら、一時期的に傑作がどっと出て10年くらいはすんごい事になるような気がしますが、まだまだ先の事でしょう。韓国映画も最近は少し落ち着いてしまった感があるので期待したいところではありますが。
もし評論のリクエストを出来るとしたら・・・なんて事を勝手に考えてみたのですが、私にとって衝撃的だった映画「愛する人」(ナオミ・ワッツ主画ン)と「マグノリア」(P・T・アンダーソン)を人生的に分析してもらえると大変興味があります。
時間の余裕がありましたら、お願い致します。
コメントをありがとうございます。「マグノリア」は私も大好きな作品ですが、何しろ長尺なので今の不自由な体の限度を超えてしまっており、残念ながら取り組めずにいます。
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