<「忘れられた被害者」に対する「全称の誤用」のトラップの危うさ>
1 貧しい国の家族が負った状況を突破する男の物語
ボスニア=ヘルツェゴヴィナの冬。
雪の積もる中、一人の男が細い木を伐採し、多くの薪を作っている。
更に、レフケという名の弟と共にハンマーを振り上げ、廃車を解体し、それを鉄くず状の小さな物質に加工していく。
その鉄くず状の小さな物質を業者に運び、金に換えるのだ。
「153マルク」
これが、冒頭から開かれる男の、今日の仕事の戦利品だった。
その金を持って、二人で飲み屋に入り、酒を酌み交わす。
「女房に殺されるよ」
「何で?」
「どこ行ってたのって」
「鉄くずを拾ってたと言えばいいじゃないか」
「微々たる金のために?」
「充分だよ」
男の名はナジフ。
左からナジフ、セナダ、シェムサ |
愛する妻セナダと、二人の姉妹(サンドラとシェムサ)と共に、倹(つま)しい生活を送るロマの一家である。
セナダの夕食のパン作りにぴったりと寄り添い、明るい声を弾ませているサンドラとシェムサ。
如何にも、幸せな家族の印象を観る者に与える。
そのセナダに異変が起こったのは、その直後だった。
辛そうに、ソファにうつ伏せになっているのだ。
「お腹が痛いの」とセナダ。
「それは大変だ。医者に行こう」とナジフ。
「いい。明日まで様子を見る」
この日は、それで終わった。
いよいよ辛そうにしているセナダを車に乗せ、ナジフは街の病院に連れていく。
「赤ちゃんに問題が。死んでるって。産婦人科に行かないと。異常みたいよ」
3人目の子供をお腹に身ごもっているセナダが、診察を終え、廊下で待つナジフに話したこの言葉の意味が流産を指しているのは言うまでもない。
「産婦人科に行って、掻爬(そうは)手術さえすれば、すぐ良くなります」
医師の言葉である。
紹介状を持って、その足で産婦人科に向かう4人の家族。
ところが、産婦人科に着いたナジフは保険証を持っていない事実を説明したら、「保険がないので、980マルクかかります」と言われるのだ。
出血を止めたが、セナダの手術をするのに、980マルク(500ユーロ/ボスニア・ヘルツェゴビナは新通貨として兌換マルクを使用)の金が必要なのである。
「そんな金持ってない」とナジフ。
「手術を受けるなら、お金が必要です」
「そんな金はない。分割払いではダメか?何とかならないのか。妻を助けてくれ。お願いだ」
そこまで言われた看護士は、院長と掛け合ってみた結果、「分割は受けられない」と言われるに至る。
「俺たちの状況は分るだろ?頼むよ。子供たちのことも考えてくれ。妻に何かあったら・・・わざわざ、村から遠く離れたここまで来たんだ」
「できることはしました。もう、手はありません」
不毛な押し問答のあげく、結局、全く埒が明かず、自宅に戻る以外になかった。
ナジフができることは、ただ一つ。
鉄くずを集めて、それを金にすることである。
妻の命を救うために、雪の残っている荒れ果てた残土をまさぐって、ナジフは必死に鉄くずを集めるのだ。
台詞のない映像は、この男の懸命の仕事をフォローしていく。
しかし、妻の腹痛が再発したことで、先の産婦人科にセナダを連れていく。
「金は払ったのか?」
この産婦人科医の言葉に、「簡単に用意できない」としか答えられないナジフ。
「金が払えないなら、手術はできない。院長の命令だから、どうにもできない」
「頼むから助けてくれ」
「私も雇われてる身だから、仕方がない」
病室の扉を締められて、病院を追い出されるナジフとセナダ。
二度にわたって断られ、自分のもう一人の弟・カシミに子供たちの面倒を見てもらったナジフは、再び自宅に戻る。
追い詰められたナジフがとった行動は、「ロマ民族女性協会」会長・インディラの元に赴き、彼女に社会福祉事務所に連絡してもらうが、全く埒が明かなかった。
「戦争中の方がまだ良かった。前線で弟を失くした。まさに惨劇だった。今でもはっきり覚えてるよ。あんな状況に耐えられる人なんかいない。ひどい光景だった。別の兄弟が死体を発見したんだが、頭だけしかなかった。木っ端微塵だよ」
改善されない状況の中のナジフの言葉である。
且つ、4年間従軍した経験のあるナジフにとって、その後、恩給も生活保護も子供手当てもなく、常に命の危険があった時代を回顧するほどに、手術をしなければ敗血症の危険のある妻・セナダの苛酷な状況が我慢できないのだろう。
そんなナジフが救いを求めたのは、「子供の地」という組織だった。
「もう、あそこには行きたくない」
「子供の地」に勤務する女性に放ったこのセナダの言葉には、病院に対する不信感が拭えないほど膨らみ切っていた。
義妹の保険証が借用できるという情報をナジフが得たのは、そんなときだった。
すっかり衰弱し切っているセナダを説得し、知人から車を借り、義妹の保険証を持って、別の産婦人科を訪れるナジフとセナダ。
家族以外の者の保険証を借用するという違法行為を犯すことよりも、ナジフはセナダの命を救わねばならないのだ。
「なぜ、今まで放置を?」
「車がなくて」
「手術をしました。問題はありません。でも、もう少し遅かったら大変でしたよ。しばらく休んだら、すぐに帰れます」
産科医とナジフの会話である。
セナダとシェムサ |
家族以外の者の保険証のお陰で、医療費が安くなり、薬も処方されることで、セナダの命は救われたのである。
帰宅した家族を待ち受けていたのは、電気料金の不払いによって、電力会社に電気が切られるという、厄介な事態だったが、弟・カシミの協力を得て、車のバッテリーから電気を引いて、寒さを凌ぐに至る。
ナジフにとって、妻の命を救ったことに比べれば、このような作業はお手の物だった。
あとは、電気代と薬代を捻出するために、彼の「本業」である鉄くず拾いをすることだった。
しかし、今回の鉄くず拾いの内実は、あろうことか、中古の自家用車を解体することなのである。
304マルク。
これが、自家用車を解体して得た商品価値の全てである。
その金を持って、電気料金を払い、薬を買って、自宅に戻って来た男の物語は、ここで終焉していく。
ナジフとシェムサ |
ナジフの家に電気が灯り、このロマの家族に、かつてそうだったような明るさが戻ってきたのである。
―― 一貫して感傷を排し、「ロマ」への差別にも触れず、ただ単に、「ボスニア・ヘルツェゴヴィナ」という貧しい国の中で生きる家族が負った不幸な事態と、その状況を突破するために動く男を描く物語を、「ドキュドラマ」という名の再現ドラマのうちに描き切った映画の訴求力の大きさは、観る者の共感感情が決めるものだろう。
私の場合は、ボスニア内戦後のこの国の現実を学習できたことが最も大きかった。
2 「忘れられた被害者」に対する「全称の誤用」のトラップの危うさ
「パリの窃盗の5分の1はロマの仕業だ」
欧州において、「非定住者」・「怠惰者」のラベリングを貼られ、移動型民族・「ジプシー」の最大勢力である「ロマ」の集団に対する、「人権大国」フランスの時の政権・サルコジ大統領が言い放った有名な言葉である。
そして実際、その数・最大200万人が住むと言われるルーマニアなどに、「自主的帰還」という名の送還を遂行する。
ロマキャンプの撤去など、ド・ビルパン内閣時でのサルコジ内相の締め付け政策の具現化だったが、驚くべきことに、EU憲法違反であっても、フランスの世論調査では、国民の8割がこの方針を容認したという事実である。
一方、ロマの母国とも言えるそのルーマニア国内でも、ルーマニア政府がフランスの方針に反対していながら、国内には少数民族・ロマへの差別があるから、当然、彼らの基本的人権がシステムとして守られることはない。
思うに、1920代の独バイエルン州で、「ジプシー・浮浪者・怠惰者闘争法」が施行された歴史的経緯を見れば、欧州におけるロマに対する厳しい扱いは根が深く、彼らが「犯罪を引き起こす怠け者」という「恐怖イメージ」は、路上の物乞い・観光客相手の窃盗を常態化する集団として差別され、現状況でも根本的解決とは縁遠い。
そのロマの起源は一様ではないが、遺伝子研究において、インド先住民・ドラヴィダ人との類似性が指摘されているように、インドが起源とされる流浪の民族であるロマは、長期間にわたって、複数の集団がインドから東欧を経由し、欧州全域に移り住むようになったとされている。
以上の欧州の歴史の中で、流浪の民族・ロマへの差別が迫害の標的になったジェノサイドがある。
ポライモス・ドイツの警察官等から調査を受けるロマ女性(ウィキ)
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ナチスによる「ポライモス」である。
「ドイツ人の血と名誉を保護する為の法律」という名で、1935年に制定された「ニュルンベルク法」によって、ユダヤ人から市民権を奪うばかりでなく、ロマは「人種に基づく国家の敵」と看做(みな)され、絶滅政策が遂行されたのである。
数十万以上の犠牲者を出しながら、その数が不明瞭である理由は、ユダヤ人に対するホロコーストと比べて、記憶の保存や戦後補償などが充分に行われてこなかったことを意味する。
ドイツ降伏後、連合軍はドイツに対して、人種的・宗教的などの理由で迫害された人々への補償を行うよう命令しながら、ドイツ側は、ロマを人種的な迫害の対象として認知しなかったのだ。
「ジプシー」への迫害理由が、彼らの「反社会的な犯罪行為」であると看做したことで、ニュルンベルク裁判等で協議の対象にすらされなかったのである。
1970年代になって、補償を求める本格的な運動が推進力になり、「ポライモス」に対する国内外で支援の動きが広がったことで補償の可能性が生まれるが、厳しい補償条件の障壁の前に申請の却下が相次ぎ、ロマ人が、今でも「忘れられた被害者」である事実は、差別を主題にしなかった映画の中でも嫌と言うほど感受させられるだろう。
ボスニア内戦の傷痕 |
そして、7千人以上が殺害されたと言われ、今では、旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷においてジェノサイドとして認定された「スレブレニツァの虐殺」(1995年)に象徴されるように、1992~95年のボスニア内戦の傷痕は、「デイトン合意」(ボスニア・ヘルツェゴビナ和平協定)後も、至る所で見かけられる崩壊した民家の壁、橋の破壊、道路網の不備が内戦の荒廃を物語っている。(ボスニア内戦については、拙稿・人生論的映画評論「ボスニア」参照)
スルプスカ共和国と州が集まった連邦(ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦で構成される、「デイトン合意」の結果として作られたボスニア・ヘルツェゴビナの複雑な政治および行政システムは、国民国家としての政府の基盤を脆弱にし、それが復興活動の足枷(あしかせ)になっている事実を否定しようがなく、EU加盟を望んでも、本作が製作された2013年に、初めて国勢調査の実施が行われるに至った(EU加盟の絶対条件)始末で、木材業、鉱業、繊維業などの主要産業があっても、日本の外務省のデータによると、国民の失業率27%という数字が示す貧困度は推して知るべしである。
思うに、映画で起こった凄惨な現実は、内戦終焉後、まだ20年も経っていないのである。
「ロマを含めてボスニア人の生活状況はよくない。国の経済が回復せず、不況から長く脱していないことが理由だ」
ダニス・タノヴィッチ監督 |
これは、ボスニア内戦の荒廃で最も傷ついているのが、ロマを含む貧しい人々である現実を訴えるタノヴィッチ監督の言葉。
更に言う。
「90%以上が正式な雇用を得ておらず、映画の主人公の鉄くず拾いのようなその日暮らしの状況です」
恐らく、事実なのだろう。
「戦争を一度体験してしまうと、映画監督である以前に、人間として大きな影響を受ける。以前と同じではいられなくなる。戦場で見聞きしたことと一緒に歩んでいくしかないんだ」
これもタノヴィッチ監督の言葉だが、「戦場のリアリズム」の途轍もない重量感を感受せざるを得ない。
そんな途轍もない重量感とも重なって、ナジフとセナダに起こった「事件」は、観る者にシビアに問いかけていくのである。
ナジフとセナダの本人が「主役」と化し、ドキュメンタリーの筆致で描く物語が、「一種実験的な作り方」(監督の言葉)により、演出の工夫が見えない程度において、極めて緊張感のある映像を創造し得たのは、殆ど約束された着地点だったと言えるだろう。
「彼らは貧しいながらも愛情ある家庭を築いている」(監督の言葉)ロマの典型例として、ナジフとセナダの倹(つま)しい生活を送るロマの一家を特化して、「ドキュドラマ」という名の再現ドラマのうちに描き切ったのである。
しかし、「単純に彼ら夫婦がロマだから民族差別され、このような不幸な出来事が起こった」(監督の言葉)惨状を否定することで、「ロマの一家の受難」という狭隘な視線から解放し、ボスニア内戦後の貧困の問題にテーマ性を収束させていったということ。
この問題意識の共有を、観る者に映像提示したのである。
このことは、8年間にわたって、ボスニアの村で、ドイツ人女性がボスニア国籍のロマ人夫婦に監禁され、虐待を受けていたとされる事件の報道(AFP通信/2012年5月30日)などによって、前述したように、ロマ人が「犯罪を引き起こす怠け者」という、「恐怖イメージ」でラベリングされる愚を戒めるメッセージでもあると言える。
ここで、私は勘考する。
「ロマ人の一部にこのような者がいる」という事実は、「全てのロマ人が『犯罪を引き起こす怠け者』」という現実と同義ではないのである。
当然過ぎることだが、このような誤謬を、私たちは常に犯しているから厄介なのだ。
これは、クリティカルシンキングで言う 「全称の誤用」で説明できる。
要するに、「皆が持っている」という時の「皆」は、僅かな自分の友人が「持っている」ことでも、「皆」にしてしまう時の「皆」であって、実は、「皆」ではないのである。
冒頭のサルコジ大統領の挑発の内実が、どこまで事実に裏付けられているか不分明だが、だからと言って、ボスニアの村で起こった事件を一般化・普遍化できないのだ。
このような事件を起こすロマ人もいれば、映画の夫婦のように、穏やかな暮らしを繋ぐロマ人もいるということである。
「忘れられた被害者」に対する「全称の誤用」のトラップの危うさ。
このことを認知させてくれる映画だった。
【参考資料】 “反ロマ”の壁とは何か? - The New Classic(ブログより) フランス・サルコジ政権 ロマ規制強化、不法滞在ロマをルーマニアへ送還(ブログより) ブログ・内戦の傷跡(ボスニア・ヘルツェゴビナ)より ボスニア・ヘルツェゴビナ: 復興から開発へ(ブログより) 外務省・ボスニア・ヘルツェゴビナ基礎データ ポライモス(ウィキ) ニュルンベルク法(ウィキ)
(2015年8月)
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