<男と女の深い心理の機微を精緻に描き切った秀作>
1 「恋愛の王道」をいく、切なくも、紆余曲折の経緯をトレースする物語
そこかしこに牧歌的風景が広がる、18世紀末のイングランドの片田舎。
その日、初老期にあるベネット夫妻と、適齢期を迎えた5人の娘たちばかりで構成されるベネット家での話題の中心は、夏の避暑地の別荘がある隣家に、独身の資産家・ビングリーが引っ越して来るという「朗報」だった。
当時、女性に財産相続権がなかった事情から、仮にベネット氏が逝去すれば、遠縁のコリンズ牧師に資産が丸ごと相続されることになるので、ベネット夫人は、僅かな持参金しか用意できない娘たちに、資産家との婚姻を切望していた。
その現実的な思惑があまりに度外れな夫人と切れ、書斎で読書に耽る日々を愉悦するベネット氏は恬淡としていて、常に、この「婿取りゲーム」と相応の距離を確保していた。
そんな中、お目当てのビングリーが出席する、地元主催の舞踏会が開催される。
当然、いの一番に参加するベネット家の姉妹たち。
村の有産階級が参加する舞踏会は、皆が嬉々として踊る人いきれでむんむんしていた。
華やかな舞踏会の中にあって、一人だけダンスを踊ることなく、無愛想な印象を与える一人の青年資産家がいた。
ビングリーの友人のダーシーである。
ダーシー |
上位ジェントリ階級(大地主層)に属する大富豪のダーシーには、中位ジェントリ階級に属するビングリーと異なって、ベネット家の娘たちに関心を示す気配すらなく、一貫してマイペースを貫いていた
「ここは美人ばかりだ」とビングリー。
「君の相手だろ」とダーシー。
「あんなに美しい人は初めてさ。エリザベスさんもいい」
「美しい人」とは、パーティでビングリーと一緒に踊った、長女ジェーンのこと。
「悪くないが、そそられはしないな。戻って、彼女の笑顔を楽しんでこい」
これが、次女・エリザベスに対するダーシーの反応だった。
この会話を耳にするエリザベス。
「この辺りで美人と言えば、ジェーンですよ」
大体、ベネット夫人自身が、エリザベス本人と、ダーシー、ビングリーの前で、こんな露骨な売り込みをするほど自慢げに語って見せる風景を、そこだけを切り取れば、人間としての無教養を晒すものであるに違いないが、下流ジェントリ階級の限られた財産を死守するには、あまりに分りやすいこの類いの戦略の駆使しかないのだろう。
このベネット夫人のジェーンの自慢話の際に、かつて、ジェーンに見惚れた男が求婚せず、詩を送ってきたというエピソードを紹介したときのこと。
「詩は強い愛を遠ざける力があるんですね」
「詩は愛の糧かと」
静かな口調で、ダーシーが反論する。
「詩は強い愛には糧ですが、弱い愛には毒です」とエリザベス。
「愛情を育てるには?」とダーシー。
「相手にそそられなくても踊ることです」
エリザベスの目一杯の皮肉であった。
ここから、この二人に特化された、「プライド」に関わる「ラインの攻防」が容易に軟着し得ず、精緻な心理描写を丹念に紡いでいく物語が開かれていく。
「私は愛する人としか結婚しないわ。姉さんは人の欠点を見ずに、誰でも好きになるわ」
長女のジェーンに言い切った、このエリザベスの「プライド」の牙城の高さが、女性のハンデに背を向ける彼女の近代的自我を支えている。
「プライドは短所かしら?それとも長所?」
「知りません」
「短所を教えて?」
「僕は侮辱されると許すことができない。執念深いのです」
ビングリーの邸での、二度目の、エリザベスとダーシーとの会話である。
まもなく、このイングランドの片田舎に軍隊が駐留する。
ベネット家の姉妹たち |
多くの男たちの駐留に、ベネット家の10代の娘たちの心がときめき、あっという間に特定武官との関係が形成されていく。
その武官の名はウィカム中尉。
エリザベスもまた、プライベートな会話を繋ぐ関係を作っていた。
そのエリザベスに、ウィカム中尉が吐露した言辞には、ダーシーへの誤解の因子となる情報が含まれていたから厄介だった。
以下、二人の会話。
「彼と一緒に育ち、先代は息子のように愛してくれた。死も看取りました。遺言で、給金付きの牧師に推薦してくれました。だがダーシーは、他人に譲った」
「どうして?」とエリザベス。
「嫉妬です。彼の父が、僕の方を愛したからです」
「ひどい」
「それで、連隊に加わったのです」
ダーシーを憎むウィカム中尉の言葉だった。
かつて、ダーシーの亡父の被保護者にあったウィカムの話によると、彼が相続するはずだった分の遺産がダーシーに奪われたと言うのだ。
ウィカム中尉とエリザベス |
エリザベスとダーシーとのラブストーリーに特化された物語は、まさに、「恋愛の王道」をいく多くの映画の範疇に洩れず、切なくも、山あり谷ありの紆余曲折の経緯をトレースしていく。
2 真剣に自分の思いを語る男がいて、それを真剣に受容する女がいた
「求婚はお断りします」
ベネット家の財産相続権を持つ遠縁のコリンズ牧師の求婚に、エリザベスは、きっぱりと言い切った。
「私は愛する人としか結婚しないわ」と言い切って、屋外に出て行ったエリザベスの「プライド」の牙城の高さは、ここでも壊れない。
「結婚しないと縁を切る」とまで断言するベネット夫人の思惑も壊れ、夫に説得を依頼する。
この意想外のベネット氏の援護射撃に立腹し、ベネット夫人は恫喝的な捨て台詞を残して、その場を立ち去っていく。
ベネット氏は、エリザベスの頑固な性格の何もかも分っているのである。
分っていて、共感的に反応する父親の存在感は、勝負どころで発揮されるようだった。
そのエリザベスは、コリンズ牧師と結婚した親友のシャーロットに招待され、新婚夫婦の村を訪れていた。
ダーシーと再会したのは、コリンズ牧師と縁の深い大資産家のキャサリン夫人の館を訪問した折だった。
キャサリン夫人がダーシーの叔母である事実を知ったエリザベスは、二人の関係に決定的な転機をもたらす会話を繋いでいく。
「初対面だと、うまく話せないのです」
舞踏会で踊らなかった理由を、正直に吐露する一人の若者がそこにいた。
エリザベスもまた、初対面でのダーシーの無愛想な態度が気になっていたのである。
しかし、エリザベスが気になっていたのは、そんな末梢的な問題ではない。
ウィカム中尉の一件もあったが、それはどこまでも他人事の範疇にあり、単に、ダーシーの人間性の印象の悪さを強化する内実でしかなかった。
何より、エリザベスがダーシーへの憤怒の感情を決定づけたのは、姉のジェーンと恋愛の可能性があったビングリーの関係に横槍を入れて、破綻に追い込んだ張本人がダーシーであるという事実を知ったことだった。
しかし、あろうことか、憤怒の感情を抑えられないエリザベスに、独身を通していたダーシーが求婚するに至ったのである。
当然の如く、激しく拒絶するエリザベス。
弾丸の雨の中、雨宿りしているエリザベスに、愛を告白し、拒絶されたダーシーは、それまでの無口な印象と切れて、はっきりと自分の思いを語るのだ。
「理由を聞かせていただきたい」
「なぜ、私を侮辱してまで告白するの。私には断る理由があります」
「どんな?」
「姉の幸せを壊した人など好きになれません。否定なさるの?二人は愛し合っていたのに、運命を翻弄し、姉を絶望に突き落とした。二人を引き裂いたわ」
「そうです」
「なぜなの?」
「姉上は冷淡だった。彼ほど愛情を持っていなかった」
「内気なのよ」
「彼も愛を感じないと」
「思わせたのね」
「彼のためだ」
「本心を見せない人なの・・・財産狙いだと思われたのね」
「そうは思いませんが・・・明らかに得な結婚だ」
「やっぱり」
「違います。身分が釣り合わない」
「彼は気にしてなかった」
「深刻です。母上や妹さんに常識が欠けている」
ここで、雷鳴が二人の頭上で轟(とどろ)く。
ここまではっきり言われて、さすがのエリザベスも衝撃を抑えるのに必死だった。
すかさず、フォローするダーシー。
「お許しを・・・あなたと姉上は違う」
「ウィッカム中尉は?」
エリザベスは話題を変えていく。
「彼が何か?」
「あの方に冷たいんですね」
「関心がおありか?」
「不幸な方よ」
「確かに不幸な男です」
「貴方が悪いのに嫌みだわ」
「そんな男だと?僕の正直な言葉がプライドを傷つけたから、僕の罪を許せないのですね!だが、貴方の身分が低いのは確かだ」
「それでも紳士?あなたのように尊大で他人を見下す人とは、どんなにお願いされても結婚しません」
ここで、二人に「間」ができる。
ダーシーを難詰するエリザベスの心が揺動しているのだ。
「お時間を取らせて申し訳なかった」
その一言を残して、立ち去っていくダーシー。
自分の思いがエリザベスの心の芯にまで届いていないという気持ちは、切歯扼腕(せっしやくわん)の心情に近いだろうが、今、ここで、それ以上の言い合いを延長させても何も得るものがないと察知したのだろう。
本篇の中で最も重要な会話が、こうして閉じていく。
ダーシーの告白を受け、彼女の心にダーシーへの想いが再燃しているのである。
この会話で際立ったのは、二人が極めて「似た者同士」であるということだ。
言いたい思いをきっぱりと主張する。
だから、言い合いになる。
言い合いになっても、決して主張を曲げない。
頑固なのだ。
それでも、言いたい思いを主張すれば、心残りがない。
その辺りに、彼らのプライドの心理的拠点がある。
そして何より、エリザベスには、自分の「美しさ」=「商品価値」を過剰にセールスすることを嫌う自己像を持っている。
「愛する人としか結婚しない」という彼女の物言いは、「人の欠点を見ずに、誰でも好きになる」姉のジェーンと、あまりに対象的である。
姉のジェーン |
このようなエリザベスの心理的拠点もまた、彼女のプライドが支えている。
同時にそれは、ダーシーのプライドと通底する。
彼もまた、自分の「身分の高さ」=「商品価値」を過剰にセールスすることを嫌う自己像を持っている。
「身分の高さ」=「商品価値」を自覚しているからこそ、その「商品価値」によって人の心を操作する行為を軽侮しているのである。
裸形の人間性を評価し得る能力を持つ対象人格をこそ、認知する。
だから、へりくだる態度を全く示さないエリザベスを愛したのである。
しかし、「似た者同士」であるが故に、プライドラインが衝突(「ラインの攻防」)し、不必要な摩擦が起こる。
ここで二人の会話に戻るが、エリザベスの場合、誤解を偏見にまで下降させていないということ。
この把握は重要である。
ここで言う偏見とは、特定他者を、特定の人間観によって凝固させてしまうことを意味する。
彼女はどこまでも、誤解の範疇で相手を問い詰めることで、噂の成否を確認する努力をする。
束の間、嫌悪感が集合しても 決めつけていないのである。
常に、思考する習慣があるからだ。
思考する習慣がある者は、短絡的にものを考えない。
様々に思いを巡らしながら、中枢のテーマを追い詰めていく。
だから葛藤し、悩み、煩悶する。
それ故、射程は狭いが、内面の奥行きは、いよいよ広がっていく。
そんな自我を、この二人は作り上げてきたのである。
これは簡単に変わらない。
エリザベスが誤解を偏見にまで下降させていないのは、知的・理性的な思考習慣の所産である。
偏見の暴走を限りなく抑えられる根拠が、そこにある。
それを信じて、誤解を解くために、真剣に自分の思いを語る男がいて、それを真剣に受容する女がいた。
恐らく、真剣に自分の思いを語る男が、「身分」や「母や妹の常識不足」に言及した点について、エリザベスは感情的に反応しつつも、彼の物言いが正鵠(せいこく)を射た指摘であると受け止めたに違いない。
だから煩悶も深くなる。
深い煩悶に捕捉された女に、一通の手紙が届いた。
自分の思いを語り切ったはずの男からの手紙である。
「告白の続きではありません。誤解を解いておきたいのです。僕の父はウィッカム君に、牧師の座を残しました。しかし、父が亡くなると、彼は断ったのです。聖職に代わる金銭を要求し、すぐ浪費しました。更に金を無心しましたが、僕は断りました。去年の夏になって、僕の妹に駆け落ちを持ちかけました。狙いは財産でしたが、一銭ももらえないと知り、消えました。妹は悲しみました。まだ15歳だったのです。姉上とビングリー君については、友人のためを思ってしたことです」
当然ながら、男は語り切っていなかったのだ。
「告白の続きではありません」という書き出しの中に、既に男のプライドが垣間見えるが、同時に、読まれることなく破棄されることへの防波堤でもあるのだろう。
まだ、男には分かっていなかった。
女もまた、消化不良の男からの、何某かのアウトリーチを待つ思いを保持していた事実を。
いずれにせよ、この手紙によって、エリザベスの誤解が解かれていったのは、彼女の中に偏見の暴走を抑える理性系と、その激しい言辞と裏腹に、ダーシーの告白を冷静に受け止める情感系が息づいているからである。
だから、ダーシーの叔母のキャサリン夫人の傲慢極まる非難に、静かだが、凜として答えるエリザベス。
「身分の低い者に邪魔させないわ。さあ、答えて。婚約したの?」
「いいえ」
「婚約はしないわね?」
「お約束できません。あらゆる言葉で、私を侮辱しましたね。お帰り下さい」
相手の身分の上下に拘わらず、このように胸を張り、凜として反応するエリザベスの性格的な高貴さを認知したからこそ、「あなたと姉上は違う」とダーシーは語ったのである。
あとは、再会のタイミングの問題だった。
そこに、ダーシーがやって来る。
「どう、償えばいいか」
「妹と姉を救ってくれたわ。償うのは私の方です」
「あなたのためにしたことです。あなたは寛大だ。叔母から話を聞いて、僕は希望を持ちました。あなたの愛情は同じですか。僕の愛情は同じですが、お答え次第で黙ります。もしも、気持ちが変わったのなら・・・言わせて下さい。僕はあなたの虜だ。あなたを心から愛しています」
「分りました」
実質的なラストシーンである。
まさに、「恋愛の王道」をいく映画に相応しい括りだった。
「恋愛の王道」をいくこの映画の良さは、男と女の深い心理の動きを精緻に描き切ったところにある。
映画は、この二人の「恋愛の王道」に特化した物語の顛末の他に、末妹のリディアとウィカム中尉が駆け落ちし、ダーシーの奔走で、不安含みながらも、持参金を肩代わりして結婚式を挙げさせたというエピソードや、ビングリーと長女ジェーンの婚約という、お釣りがくるほどのハッピーエンドのうちに予定調和的な収束点をも描き出したが、ダーシーの「善き人間性」を強調し過ぎる辺りを、さらっと流したのは大正解だったと言える。
一切は、「僕はあなたの虜だ」とまできっぱり言い切れる男の、余りある「金持ち利得」を完璧に活用し得る能力を具現した結果であった。
良い映画だった。
3 このような時代の風景の、ごく普通の生活に生きた女性たちの、その日常性の一端を切り取った映画
この映画の背景となった19世紀前後の英国の上流階級(支配階級)は、貴族階級である男爵と、その貴族階級に含まれない下級地主層、即ち、中世における最下層の領主身分の総称であり、ピューリタン革命(1649年)を担う勢力となったジェントリ階級(ジェントルマンと呼称される名望家)によって構成されていた。
この貴族階級とジェントリ階級には、「貴族院議員資格」を有する前者の名誉称号以外の特権的な差異が全く存在せず、支配階級としての「地主貴族層」という枠組みで扱われていたが故に、両者は社交界を通じての通婚化が進んでいったと言われている。
イングランド諸王家に受け継がれる血筋を持つ、「征服王」ウィリアム1世によるノルマン王朝(1066年から1154年まで)以前から、在地の有力者・領主たちであったジェントリ階級は、有力貴族の家臣として仕えることが多かったが、1455年から30年間も続いた封建貴族間の内戦・「薔薇戦争」による貴族階級の衰退によって、領主勢力として頭角を現し始めた結果、貴族階級と共に「地主貴族層」の身分を構成し、20世紀初頭に至るまで大きな社会的影響力を保持し続けたのである。
これが、典型的な「階級社会」英国の支配階層の裸形の様態である。
そんな英国の支配階層の中核であるジェントリ階級の誇りが、高い地位にある者の社会的義務を意味する、「ノーブレス・オブリージュ」という道徳的概念のうちに象徴的に表現されているのは有名な話。
とりわけ、この階級にあって、歴史的な血筋や財産の格差などによって上下意識が存在することで、それを意識するジェントリ階級内部の微妙な「プライドと偏見」が交叉し、この交叉の中で、異性を見るときの人間観が形成される模様が繊細な筆致で再現されている。
具体的には、古くからの名家である最も裕福なダーシー家(爵位がないように思われるので、貴族にあらず)と、相対的に財産の少ない下層ジェントリのベネット家が対比され、その中間的位置にあるビングリー家がそこに絡み、物語を構成している。
前述したように、興味深いのは、女性に相続権がないため、少しでも財産の多い結婚相手と結ばれることが、下層ジェントリ階級に呼吸を繋ぐ女性の一般的幸福とされていて、それが「暗黙の了解事項」になっていた空気の中で、相対的に財産の少ないジェントリのベネット家の姉妹の幸福の行方が、いつの時代でも変わらない、男と女の恋愛・結婚模様の複雑な様相に絡む、「プライドと偏見」の心理的交叉を通して描かれている風景の特質性である。
内気な長女・ジェーンのエピソードに象徴されるように、適齢期にあるベネット家の姉妹にとって、生涯、下層ジェントリの一族の老齢の父母と共存し続ける生活を繋ぐ事態だけは回避したかったに違いない。
だから、物語を引っ張るのがベネット家の姉妹であったのは、当然の約束事になっていたという訳である。
そんな中で、印象深いエピソード。
それは、27歳まで「独身女性の悲哀」が漂っていた、エリザベスの友人・シャーロットの選択のケースである。
「甘い恋は私に似合わない。家と生活が保障される。ありがたいわ。私は27歳なのに、財産も結婚の予定もない。すでに両親の重荷よ。怖いの」
エリザベスに吐露したときのシャーロットの言葉である。
物語を通して極めて常識的で現実的な考えを有するシャーロットにとって、この決断は、多くの兄弟を持つことで、無言で迫る心理的圧力を解消し得る唯一の適応戦略であったと言えるだろう。
好悪の問題とは切れて、生活のためにコリンズと結婚するシャーロットだが、この時代の多くの女性がそうであったように、この種の結婚の決断を「不幸」と言うのは傲慢過ぎる。
結婚後、身の丈に合ったシャーロットの生活風景には、幸福感が漂っていたシーンを忘れてはならないのである。
この秀作は、このような時代の風景の、ごく普通の生活に生きた女性たちの、その日常性の一端を切り取った映画だった。
だからこそ、独立自尊の〈生〉を貫徹した下層ジェントリのエリザベスと、その気品に強く惹かれて求婚する上層ジェントリのダーシーの恋愛模様が、偏(ひとえ)に、一人の男と女の裸形の感情の葛藤・交叉の収束点への行程を際立たせたのである。
【余稿として ―― 「プライド防衛ライン」、その「ラインの攻防」について】
そこだけは、どうしても守りたいと思っている意識の防衛網。
これが、「プライド」という、一般的に勘違いされやすい概念に対する私の狭義の解釈である。
それは、外見的容姿・容貌であったり、努力して築いた社会的地位であったり、裸一貫から貯留した財産であったり、特定の分野での情報量の豊富さであったりするだろう。
或いは、特定の目的を抱懐して作り上げた身体能力であったり、知的過程での集積の結晶であったりもする。
それは、自分の「商品価値」を過剰にセールスすることを嫌う自己像であるかも知れない。
例えば、この意識の防衛網にあって、その主体が選択的に踏み込んだ「道修業」の行程で、自らのスキルの意志的向上を実感したとする。
スキルの開拓は、自我の内側に今まで把握されることもなかった序列の感覚を意識させることにもなる。
ところが、スキルの意志的向上は、大抵、そのプロセスで「道」の序列者たちと観念的に出会ってしまう場合が多い。
明らかに、自らの能力と異なる特定他者の個性との遭遇は、「プライド」という概念に集合する意識の防衛網に、無視し得ないさざ波が立つかも知れない。
これは、時として不快である。
能力的偏差を必要以上に意識してしまうからである。
それでも「道修業」を止められられなかったら、どうするか。
プライドラインを戦略的に後退させるのである。
「彼は特別な才能の持ち主だから、比較しても意味ないのだ。大体、自分のスキルの向上は、まだ経験不足なのだから、これからの自分の努力にかかっているのだ」
そんな風に考えることで、自らの「プライド」を守るのである。
これは全く悪くない。
自己を相対化できる限り、「プライド」の暴走も「偏見」の暴走も起こらないからである。
自己の相対化は、好きであるが故に、「道修業」を止められられない者の、本来の前向きな知恵の結晶であると言ってもいい。
私は、このような観念の操作を、「プライド防衛ライン」の最適戦略化であると考えている。
自らが仮構する自我の防衛ラインで、これ以上、特定他者に観念的に混乱されることを統御する心理操作によって、そこだけは、どうしても守りたいと思っている意識の防衛網。
この意識の防衛網を、「プライド防衛ライン」と呼んでいる。
私の造語である。
その「プライド防衛ライン」の心理操作の中で、自らが意識する特定他者もまた、「プライド防衛ライン」の心理操作の営為に踏み込んでいるとき、私は、その内的交叉を「ラインの攻防」と呼んでいる。
「ラインの攻防」が展開されるとき、時には、心理的葛藤が不可避になることで、分りやすく言えば、「意地の張り合い」の空気に近い澱みを生む場合があるが、私たち人間は、そういう「私的状況」の世界で「勝負」を愉悦するのだろう。
「プライドが高い」という風に簡単に言ってしまうが、私は、「プライド」とはもっと個別で、多くの意識の防衛網と考えるので、その定義については慎重にならねばならない。
このような私の問題意識から、この映画を観るとき、「プライドと偏見」の葛藤と言うより、「プライド防衛ライン」の心理操作の中で、「ラインの攻防」の微妙な空気の変容の風景を表現した物語だったとも思う次第である。
(2014年9月)
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