1 〈生誕〉への無限抱擁=「大いなる母性」のうちに収斂させていく手品の「生命線」
人間が普通に抱えている不幸や心の闇を大袈裟にデフォルメし、その部分だけを持つ者たちの、その部分だけをマキシマムに特化させ、些か映画的統合性が脆弱な物語のうちに切り結んだとしても、複層的に交叉する各人各様の感情の落差と、そのクラッシュによる氾濫が生み出す〈状況性〉の渦中でしか呼吸を繋げない〈人間〉の、リアルな生き様を精緻に活写することにはならない。
無論、絶えることなく連射された、様々に「不幸」・「不運」なる〈生〉の漂流の落とし所が、その〈生〉のルーツである、〈生誕〉への無限抱擁=「大いなる母性」のうちに収斂させていくという手品の駆使であったとしても、特段に問題がない。
その意味で、この映画は決して悪くない。
私の感懐を率直に述べれば、悪くはないが、幾つかの粗雑過ぎる箇所が目立っていたのも事実。
情緒的で、説明的過ぎる嫌いもある。
「百万円と苦虫女」(2008年製作)が、ほんの少し良質なテレビドラマの範疇に収斂される一篇だとしたら、「ふがいない僕は空を見た」という作品の完成度の高さは、レイティングシステムでブロックされただけの、ほぼ良質なテレビドラマ以外ではなかった。
まさか、刺激的な絵柄と、幾つかの印象深い「決め台詞」や「情感系台詞」を随時にインサートすることで、束の間、飽きっぽい観客の求心力を保持し得ると舐めているほど愚昧であるとは思わないが、それにしても、どうしても以下の点が気になるのだ。
その詳細は後述するが、繰り返し、「非言語的表現」の提示によって登場人物の心象風景を雄弁に物語っているのに拘わらず、観る者の想像力の自在な営為に委ねることなく、却って、絵柄から滲み出るイメージを想像力に昇華させる営為を狭めてしまうような、殆ど不要な「情感系台詞」の連射が気になったのである。
「百万円と苦虫女」より |
以下、そこで提示されたテーマ性に沿って批評していく。
前述した、〈生誕〉への無限抱擁=「大いなる母性」とは、言うまでもなく、主人公の高校生・卓巳の母である寿美子のこと。
息子の卓巳が、不埒にも、人妻の里美とのコスプレ・セックスの動画が流布されても、平然と受容する寿美子の無限抱擁の底力は、後述するが、「ひたむきな青春譚」を繋ぐ良太と共に、物語を決定的に駆動させていくフォーマットの内実において、本篇の中枢テーマを体現するから御座なりにできないのである。
「母性幻想」が根柢的に崩れた現在、それでも〈母性〉が大切な理由は、その「効能」が形成的・限定的なものであるが故に、それを守っていく環境整備が切に求められるからである。
〈性〉を〈生〉に昇華させるという中枢テーマの一つを描き切る集合的推進力が、最終的に、本篇で執拗に強調された「悪意」・「不幸」・「心の闇」・「虐待」など、ネガティブな〈生〉の一切を「母性幻想」に収斂させていくという、取っておきの手品を駆使した訳ではないだろうが、少なくとも、寿美子の存在が記号化されている印象を拭えないのだ。
奈良時代から、この国で造像された「如意輪観世音菩薩」。
これが、熱心な助産師である寿美子の、記号化されたイメージに最も近い。
生きとし生けるものを救済し、「観音経」で説かれる「安産・子育」の菩薩である。
だから、彼女は決して息子を責めることがない。
この母子の関係の密度の深さを示すエピソードがあった。
自己責任において自然分娩を自ら望みながら、最終的に病院の世話になる患者の妻の夫に、罵倒される寿美子。
「子供に何かあったら、お前のせいだからな!」
こんなアホな男の、悪意丸出しの台詞を平気で描くのは、全て、寿美子の「如意輪観世音菩薩」を際立たせるためと読解する以外にない。
「自然分娩だなんて偉そうなことを言っておいて、最終的に病院の世話になっているようじゃね」
この厭味の主は、そのときの病院の女性看護士。
児童福祉法に定められる助産院(株式会社にあらず)は医療行為を目的としないので、医療機関との適宜な連携が求められている現実の中で、自然分娩の「事故」が全く起こらないという保証がないとしても、わざわざ、こんな「悪意」のカットを挿入する映画の過剰さに、どうしても馴染めないのだ。
「あたし、帝王切開なんて母親失格ね」
この嘆息の主は、自然分娩で我が子を産めなかった母親。
こういう事例は今でも残っているらしいが(義母から被弾されるケース)、殆ど払拭された観念である。
この映画の「悪意」の集合の言辞のアナクロ性に、ほとほと、うんざり気分になる。
この夜、相棒のみっちゃんに語った言葉は、寿美子が記号化されているからこそ、我慢して聞けるのである。
そうでなければ、「母性幻想」に収斂させていく、如何にも取って付けたような、厭味な「綺麗事言辞」のオンパレードになってしまうだろう。
いつものように、寿美子は穏やかに語っていく。
「みっちゃん、助産師ってね、元気に産まれてくる赤ん坊のために手助けをするだけじゃないのよ。病院に勤めていたときだって、思っている以上に子供は死ぬの。自分がどんなに手を尽くしても、産まれてきて、すぐ亡くなる赤ちゃんとかね。その冷たくて硬くなった体思い出すと、眠っていられないのね」
「全身男前」のみっちゃんは、すかさず反応する。
「でも、それは先生のせいじゃないです。それは、その子の寿命だと思います。だって、そう思わないと」
「だとしたら、寿命だとして、じゃ何だって、その子たちは、その短い一生を過ごすためにこの世に産まれてくるの・・・ほんとに誰でもいいから、ああ、あの子たちの短い人生には、そういう意味があったんですかって、教えて、納得させて欲しいって思う」
この母の真剣な言葉を、卓巳が立ち聞きしている。
それを、どこかで意識して語る生活習慣があるから、この母の子は「大丈夫」なのだ。
母性が崩れていないのは、それを形成的に構築してきたからである。
だから、ダメ亭主と別れた後も、金をせびってくる男に、「これで最後にしてね」などと言って、金を渡す寿美子。
ダメな父を持っても、「如意輪観世音菩薩」の母の存在が、一時(いっとき)の情動で駆動する青春の、その浮遊感を体現する卓巳の自我の中枢を崩すことがなかったということだ。
その卓巳は、この直後、アメリカに行ったはずの、ドアに落書きだらけの里美の家に入り込み、別離の日の回想に耽る。
神社の前で嗚咽する卓巳。
このシーンはいい。
中枢を持ち得ない青春の揺動が出口を求めて、地虫のように這い出していく心象風景が、余計な台詞なしに映像提示されていたからである。
これが、ラストシーンのレジリエンスの体現と化すが、偶然、神社で母と出会うエピソードが、出口を求めて彷徨する青春を後押しする。
祈る母に、息子が尋ねる。
「何、祈ってんの?」
「子供のこと。勿論、あんたも。全部の子供。これから産まれてくる子も。産まれてこられなかった子も。生きてる子も。死んだ子も全部」
「いつも、私が思っていること」
それにしても、息子の問いに、こう答えるだけで充分だとは考えなかったらしい。
母の反応など、ワンカットの提示で、もう、充分に想像できるではないか。
なぜ、この国の映画は、殆ど「男性思考」の西川美和監督のように、観る者に問いかけ、考えさせることをしないのか。
閑話休題。
この映画は、母の反応に、約束済みの息子の反応を用意する。
「母さん、ごめん」
「あんたは誰にも謝る必要ないの。生きててね。あんたも命の一つなんだから。生きて、そこにいて」
言わずもがなの会話をリピートさせるのが、この映画の訴求力の「生命線」になっているから、単に、理念系先行の「ドラマ」として受容してしまえば、ここもスルーできるだろう。
そう思っていたら、またしても、人間の複雑な心理を活字の連射で処理する、ケータイ小説風のフィールドが入り込んできたから、正直、観る気が失せそうだった。
「神様、どうか、この子を守ってください」(キャプション)
言い過ぎかも知れないが、向井康介の脚本は、山下敦弘監督と組まないと、こんな諄(くど)いスクリプトを連射させてしまうのか。
2 時空限定の「御伽話」の物語 ―― その風景の落差感と悪意の発動による収束点
もはや、アンダーグラウンドな存在ではない「オタク文化」のイベント、コミックマーケット。
そのコミケットでのアニメの同人誌即売会で、高校生の卓巳が、コスチュームプレイに包(くる)まれた、無類のアニメ好きの主婦・里美と出会い、あっという間に、金銭絡みの男女関係に発展する。
悪く言えば、見栄えのする卓巳を特定化した、里美のナンパの網の目に引っ掛かったのである。
「ムラマサ」というアニメキャラクターを、台詞付きで演じさせる卓巳を相手に、「あんず」というキャラに成り切った里美が、コスプレ・セックスを愉悦するのだ。
里美に請われるままのコスプレの世界に、十全を期して念を入れる心境に届かないものの、情事に耽る悦楽だけは、それだけで、この時期の〈性〉の処理の格好のインセンティブになるから、敢えて手放す必要もなかった。
しかし、卓巳に一目惚れした里美が自己投入する、この「非日常」の特化された時間が、マザコン夫・慶一郎との間で子作りができないが故に、普段から、義母の執拗な言語暴力を被弾して貯留された、心身不調のディストレス状態の解消になっていることが分明になっていくとき、映像の風景は変色していく。
「ねぇ、何でできないの?やっぱり結婚させなければ良かった。慶一郎は、どうしてもって言うから、あんたの過去だって、眼を瞑ってきたのよ」
「過去って?」
「お金出せば、何だってできるのよ。調べて、全部、分ってんだから。あんたの学生時代に、何て呼ばれてたか。でも、そんなこといいのよ、どうだって。慶一郎が結婚したいって言うんだから!私はただ、孫が欲しいだけなのよ。何でそれが叶わないの」
「赤ちゃんができないのは、私のせいばかりじゃありません。慶一郎さんにも原因が・・・」
「バカなこと、言ってんじゃないわよ!あんたを食べさせるために、慶一郎は一所懸命働いているんじゃない。世の中には共働きで、家事だってやって、子供何人も育てている主婦だっているのよ!あんたはどう?仕事もしない。料理もろくにできない!子供も産めない!あんたなんて、外れ籤よ!それを息子のせいにして!あんたがもっと、頑張んないからよ!ほら、何とか言ってみなさい。最初から分っていたのよ、あんたがダメだってことは。欠陥品よ」
「バカなこと、言ってんじゃないわよ!あんたを食べさせるために、慶一郎は一所懸命働いているんじゃない。世の中には共働きで、家事だってやって、子供何人も育てている主婦だっているのよ!あんたはどう?仕事もしない。料理もろくにできない!子供も産めない!あんたなんて、外れ籤よ!それを息子のせいにして!あんたがもっと、頑張んないからよ!ほら、何とか言ってみなさい。最初から分っていたのよ、あんたがダメだってことは。欠陥品よ」
以上は、電話での、義母からの一方的な攻撃的言辞である。
それにしても、この諄(くど)い台詞は、何とかならなかったのか。
このシーン以外でも、料理ができないばかりか、「卵管の狭さ」の故か、子種を宿す里美の能力の欠如を難詰する義母のパワハラの連射を見せつけられ、殆どアナクロ的な過剰な演出に辟易する。
物語に戻る。
この会話で顕在化した風景の落差感。
それは、「欠陥品よ」と罵倒され、離婚も許されない里美の苦衷の屈折的〈現状況性〉と、中枢を持ち得ず、流れゆくままに、一時(いっとき)の情動で駆動する青春の浮遊感を体現する、卓巳のドライブスルー感覚の蛇行的様態であると言っていい。
無論、卓巳には、別の人格に変換することで、辛うじて、自己防衛のぎりぎりのラインの攻防を死守する里美の屈折的〈現状況性〉が洩らす、澱んだ心の風景が理解できようがない。
映画は、この風景の落差感を、時系列を前後させ、両者の異なった視座で、特化された「非日常」の、「里美の部屋」での絡みのシーンをリピートさせていく。
正直、単に時間軸を動かすだけの、この技法の効果は、一体、何なのか。
私には、間尺に合わない技法であるとしか思えない。
二人の視線で描くことに全く意味がなかったとは言わないが、コスプレ・セックスに没我する卓巳の射程の狭隘な感覚を相対化し、突き放つ人物として造形され、物語後半の中枢を占有する良太との関係も含めて、松永というガールフレンドとのエピソードをも拾い上げる、卓巳の視線からのシーンのリピートについては、それぞれ切り取って撮るだけで充分でなかったのか。
なぜ、観る者の想像力に任せられないのか。
里美の苦衷と、それを深いところで理解し得ない卓巳だからこそ、最後は、「如意輪観世音菩薩」の母に浄化されるのではないのか。
「感情の落差」を強調するこのパートだけで、1時間以上も見せつけられるのだ。
ここで私は、「桐島、部活やめるってよ」(2012年製作)という群像劇の大傑作を想起する。
〈状況〉をきっちり描いて成功した、ガス・ヴァン・サント監督の「エレファント」(2003年製作)と切れて、同様に、時間軸を巧妙に動かすことで、登場人物の様々な視座を変えていく物語構成によって、日常性の中枢的拠点としての学校空間に呼吸を繋ぐ者たちの、その多角的な視座を複層的に交叉させることで、この国の「現代の青春」の空気感を鮮やかに浮き彫りにしていた。
天に向かって開かれている屋上に、物語の主要な登場人物たちを集合させ、そこで各自の情動が衝突し、炸裂する青春を描き切った構成力の見事さに震えが走った。
しかも驚くのは、この群像劇の物語を、僅か100分余でまとめ上げた演出力の超絶的な精妙さである。
全てに無駄がなく、且つ、映像表現の力を信じて、ワークショップの効果を映像に写し取り、最後まで物語を支配し切った吉田大八監督の辣腕に脱帽した。
本篇に戻る。
「ふがいない僕は空を見た」という、言い得て妙のタイトルを持つ映画で執拗に提示された、里美と卓巳の時空限定の「御伽話」の物語は、二人の絡みのシーンの後にも続く。
「里美の部屋」での、二人の情事を定点撮りするビデオカメラ(里美の視線とパラレルな位置にあっても気付かない)。
動画サイトに投稿したのは、言うまでもなく慶一郎。
これは、里美との離婚の事実を物語る。
更に、このことは、代理出産のための、里美のアメリカ行きが具現しなかった事実をも示唆している。
離婚を決意した上で、里美が卓巳と別れたのは、二人の「非日常」の特化された時間を清算するためだろう。
同じ街に住む二人の、「里美の部屋」での「非日常」の時間は、もう物理的にも、心理的にも存在し得ないのだ。
わざわざ、これだけの〈状況性〉を描くのに、1時間以上も見せつけられた後に待つのは、「貧困」を極端に象徴させることで、シリアスドラマとしてのリアリティを壊す、福田良太のパート。
里美の離婚の事実を物語るカット |
以下、屈折しつつも、「ひたむきな青春譚」を繋ぐ良太のパートについて批評する。
3 遺棄された日常の中で、登校し、働き、受験勉強し、介護する「ひたむきな青春譚」の虚構性
新聞配達とコンビニでのバイト。
別れた夫の実母であるという理由で、認知症の義母(良太の祖母)の面倒を見ないで、消費者金融で借金塗れの生活を繋ぐ母の自堕落さ。
ほんの少しばかりの生活費を工面したと思ったら、その金を返して欲しいなどと、平気で口走る母に代わって、認知症の祖母の面倒を見る。
更に、不幸の物理的象徴である「団地」から抜け出すために、バイト先で知り合った元予備校教師の田岡から、大学受験目指し、勉強を教えてもらうのだ。
「福田君が来てから、増えてんだよね。団地のガキの万引き。あまり変なこと、教えないでよね。これ以上、迷惑なガキ増えたら困るんだよね」
コンビニ店長から、こんなパワハラを被弾しても、文句も一つ言わず、仕事する。
ここで言う「団地」とは、独立行政法人・都市再生機構(UR都市機構)の「公団住宅」とは違う、低所得者向けに賃貸する「市営住宅」を指しているのだろう。
その「団地」に住む良太は、部屋を水浸しにした認知症の祖母の一件で、酒の入った住人から罵倒される始末。
「おい、ババア。河童ババア、こらー。川に追い込むぞ!」
「ごめんなさい。ごめんなさい」と土下座して、ひたすら謝罪する良太。
この極端な〈状況性〉の設定に、二の句が継げない。
不可能であるからだ。
認知症者の介護の壮絶さを舐めているのか。
認知症者を描くなら、良太の絶望的な〈状況性〉を強調する、格好の不幸な境遇の出汁に使うことなく、きちんと描いて欲しい。
最近、この種の映画が多いから(その典型が「大鹿村騒動記」の「BPSD」)、なおさら看過できないのである。
この映画では、認知症の祖母を、ペドフィリアの田岡の病院に入院するに至るが、枯れた草を食べる者を、どのように介護するというのだろうか。
明らかに、良太の祖母は、自らが置かれている状況を正しく認識できない「失見当識」(認知症の中核症状)の障害を持つ現実を考えれば、まさに、24時間の見守りが必要な重篤な認知症者であり、「大牟田方式」のように、地域ぐるみでないと困難な〈状況性〉を顕在化させているのだ。
何より案じられるのは、良太の母が、国民健康保険組合の保険料を納めずに、経済的困窮者として、事実上の「無保険者」に陥っている可能性があるということである。
介護保険法で定められた、「地域包括支援センター」による、地域支援事業を受ける余地すらなく、事実上の「無保険者」の可能性がある母を持つ良太も含めて、罹患しても放置される以外になかったらどうするのか。
この映画から、押し付けがましいほどの良太の絶望的な〈状況性〉を感受し得ても、認知症に関わるネガティブな現実の重量感をイメージさせる描写を、私は全く拾えない。
原作では、どのように描かれているか知らないが、草を食べる認知症者を不幸な境遇の出汁に使う意図がないなら、深く丹念な基礎的学習を経由した上で描くべきではないのか。
更に、物語を続ける。
貯留されたディストレスから、バイト仲間であると同時に、同じ「団地」に住むあくつ純子が、彼女の姉がネット掲示板で見つけたコスプレ画像をプリントアウトし、その大量の卑猥チラシを、二人で配り撒いていく。
コスプレ画像を自分で配り撒いたのに、その話題を教室内で大騒ぎするクラスメイトに、殴りかかっていく良太。
この心理は、とてもよく分る。
コスプレ画像の散布は、性的愉悦に消費する卓巳への苛立ちの炸裂であって、一時(いっとき)、ストレスを解消したら、それで自己完結できるもの。
嬉々として、コスプレ画像を散布する良太の表情の輝きが、その事実を裏付けるだろう。
この映画の中で、屈折の陰翳感を引き摺らずに、街を走り抜けていくこのシーンが最も輝いているのは、良く言えば、絶望的な〈状況性〉の負荷で押し潰される少年の、その情動炸裂が束の間、眩い陽光を被浴して浄化されているからである。
だからこそ、卓巳の「引きこもり」の被膜を剥いでしまう決定的炸裂を身体表現するのだ。
「自分だけ、不幸なフリしてんじゃねぇよ。コスプレしてよ、セックスしてよ、動画ばら撒かれてよ。アホじゃねぇか、お前。勝手に死ね、バカ!」
ベッドに潜っている卓巳に向かって、良太は叫ぶ。
彼らの友情は延長されているのである。
その直後の映像は、良太が、他の男と同棲する母のアパートのドアを叩くシーン。
空腹で喰う物すらない絶望的な〈状況性〉の中で、母を訪ねたのである。
先日、二つのバイトの傍ら、認知症の祖母の介護をしながら、「底辺層」の代名詞のように看做されている「団地」に住む自分の元に、生活費の返済を求めてやって来た母が、「一緒に暮らしてもいいのよ」と言ったからである。
母の部屋の扉の前に、良太が今、そこに立っている。
ノックをしても反応がないので、帰ろうとすると、母の部屋で物音がした。
居留守を使っているのだ。
その事実を知って、扉の前で、母を責める良太。
「ねぇ、何で俺生んだの?欲しくもないのに、できちゃったんでしょ。堕ろすせば良かったのに。悪者になりたくないからってさ、自分の都合で俺、産まないでよ」
どうしても、この直接的な台詞に結ばせたかった作り手の強い思いが感じられるが、ここまで良太の絶望的な〈状況性〉を見せつけられると、正直言って、〈性〉と〈生〉のラインの攻防とも思えるテーマに都合良く託(かこつ)けた、感動を狙ったあざとさだけが印象づけられるのだ。
無論、私の主観に過ぎない。
以下、前述したように、認知症の祖母の介護が不可能な状況下で、それを延長させてきた良太を案じた田岡との会話。
「入院させた方がいいな。ウチの病院、設備整っているから。もう、お前の手には負えないよ」
「お金、払えないです」
「前から言ってんだろ。困ったことがあったら、とにかく、俺呼べって」
「何で、田岡さん、俺を助けるんですか?施し、みたいなものですか?」
この良太の本質的な問いに対する、迷った末の田岡の反応も本質的だが、相当に気障な台詞が用意されていた。
「俺は、ほんとにとんでもない奴だから、それ以外のところでは、とんでもなく良い奴にならないとダメなんだ」
田岡の放った言辞は、その直後の映像で検証される。
「幼児にわいせつ」
新聞記事に載った田岡の犯罪である。
エピソード繋ぎの連射で、テーマ性を追求する映画は、物語に「余白」を設定しない。
「触るな、変態!」
これは、同じ「団地」で、児童虐待を恒常的に受けている少女の叫び。
叫びを受けたのは、「変態」とは無縁な良太。
自らがネグレクトの被弾を受けているから、心配する思いも強いのだ。
「僕は意地悪な神様に一度だけ祈った。どうか今夜、あの人が寒い思いをしていませんように」
ペドフィリアの田岡を案じる良太の心境を、このキャプションが丁寧に説明するが、映像のみで勝負しない作品に、もはや、言うべき言葉を持ち得ない。
4 恒久的に回収され得ない「存在論的な次元」のテーマのリアリティの希釈化
前半の風景の陰翳を払拭したと言っていい。
この映画のツボに嵌った観客の高評価が、ここで決定づけられるのだろう。
ところで、この映画の文脈の範疇で考えれば、ここまで観てきて、男たちの〈性〉と〈生〉に関わる、この一連の物語の振れ方の中で分明になった点がある。
こういうことである。
〈性〉を〈生〉に倒錯的に変換させる行為にのみ愉悦に浸るという、レッドラインを踏み越えるアンモラルな時間を開いてしまった田岡の、自業自得的行程の負荷で累加された「犯罪的次元」のテーマ。
更に、〈性〉を〈生〉に昇華させる心的行程の蛇行の淵に搦(から)め捕られ、その透明度の低い澱みから抜け出すという一点に収束し得る、青春の膿への消炎化の突破力だけが問題になる、卓巳の「倫理的次元」のテーマ。
そして、そのいずれのテーマとも切れて、何を為しても、自らの〈性〉のルーツへの根源的な問題提示に還元されてしまう、最も厄介な〈生〉が抱えた良太の「存在論的な次元」のテーマ。
「犯罪的次元」、「倫理的次元」、「存在論的な次元」のテーマ。
この3つのテーマは、位相が異なるものである。
田岡 |
なぜなら、「生きて、そこにいて」も、良太の「存在論的な次元」のテーマは、殆ど恒久的に回収され得ないのだ。
〈生誕〉への無限抱擁=「大いなる母性」の収束力は、現実条理において常に限定的であるが故に、「悪魔の証明」に近い、一つの手強い幻想でしかないからである。
存在論の問題は、「絶対貧困」の問題よりも遥かに根源的であり、「神仏」への帰依によっても解決不能な厄介なテーマである。
だから、この映画における良太の人物造形だけがリアリティを希釈させてしまっているのだ。
「ひたむきな青春譚」というチープなオブラートに包んでも、リアリティを希釈させた人物造形の虚構性が放つ叫びが、限りなく情感的であればあるほど異質の存在性を際立たせるだけで、〈生誕〉への無限抱擁=「大いなる母性」の収束力のうちに軟着するドラマは、映像総体の統合性を欠如させてしまうのだ。
5 「産みの苦しみ」を経ての「大いなる命の誕生」への最終的収束点
言いたいことの大半を、台詞に変換させてしまう映画の中で、この決め台詞が一番いい。
テーマの一つの収束点になるからだ。
この台詞の主は、「全身男前」のみっちゃん。
骨の入った骨壷を送られ、慄いた卓巳が落として、割ってしまった。
「あんずとお前のこどもの骨」
その中に書かれていた紙の内容である。
その紙を読む、母親とみっちゃん。
そのみっちゃんの決め台詞である。
物語の流れは、意を決した卓巳の再登校と、離婚し、一人で生きている里美のカット。
そして、卓巳の女性担任教諭の自然分娩を、卓巳が手伝うラストシーン。
完全無痛の病院での出産とは切れて、産むまでの長い陣痛を回避できないと言われる、自然分娩推奨のメッセージの結晶点のような、「産みの苦しみ」を経ての「大いなる命の誕生」への祝福。
「お前、厄介なものくっ付けて産まれてきたな」
無事に産まれた男の赤ちゃんを見て、卓巳が放った言葉がラストカットになる。
本篇のテーマの最終的収束点に相応しいからである。
それだけに、縷々(るる)指摘した箇所が気になってならなかった。
「感動青春もの」の集合的物語を繋いでいくには、「間」を置くことなく、集中的に、多くのインパクト満載のエピソードを嵌め込んでいくしかなかったのか。
だから、テーマに沿ったエピソードを、観る者を飽きさせないために、次々に提示していったのか。
最後に、冒頭の一文を、もう一度書く。
人間が普通に抱えている不幸や心の闇を大袈裟にデフォルメし、その部分だけを持つ者たちの、その部分だけをマキシマムに特化し、些か映画的統合性が脆弱な物語のうちに切り結んだとしても、複層的に交叉する各人各様の感情の落差と、そのクラッシュによる氾濫が生み出す、〈状況性〉の渦中でしか呼吸を繋げない〈人間〉の、リアルな生き様を精緻に活写することにはならないのだ。
私はそう思う。
【参考資料 拙稿・人生論的映画評論「桐島、部活やめるってよ」(2012年製作)】
(2014年9月)
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