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2014年9月29日月曜日

復讐するは我にあり(‘79)      今村昌平


<「犯罪映画」の最高到達点>




1  「本当に殺したい奴、殺してねぇんかね?」



 一人の中年男と、一人の老婆が歩いている。

 中年男と言っても、37歳の壮年である。

 その名は榎津巌(えのきづいわお)。

 専売公社の二人の集金員を殺害した殺人犯として、全国指名手配中の男である。
 
その男が今、浜名湖に近い養鰻場の辺りを漫(そぞ)ろ歩いている。

浜松市の南部に位置する、浜名湖競艇からの帰路でのこと。

相手の老婆の名は、浅野ひさ乃。

浜松市の旅館「あさの」の女将・ハルの母だが、娘が旦那の妾である手前、彼女なりに寄食者としての身分を弁(わきま)えている。

それでも、客と女のセックスを、小窓から覗き見する厚顔さを持つ太い女。

この「あさの」は、「女の子を呼べる旅館」なのである。

その「あさの」で、「京大教授」を騙(かた)っていた榎津はセックス三昧の日々を送っていたが、「あさの」の女将・ハルとも懇(ねんご)ろになってまもなく、榎津の正体が露見されるに至った。

騙された悔しさよりも、「死のうか、先生」とまで言うハルの気持ちに当惑する榎津は、「あんたまで、巻き込みたくなか」と反応する。

ハルに泣かれて、夜の東京の雑踏で立ち往生する榎津。

その翌日には、浜松市の「あさの」に戻っている二人。

浜名湖競艇
ひさ乃も榎津の正体を知っていて、今や、「京大教授」の肩書きを失った榎津に、「出て行ってくれよ!」と声高に叫ぶが、後述する母の事件によって、差別と孤独の日々を余儀なくされた薄幸のハルの反駁に遭い、何事もなかったような夜を過ごす三人。

そんな榎津とひさ乃が浜名湖競艇に行ったのは、その翌日だった。

ひさ乃は無類の競艇好きで、この日も大穴を当てて満足するが、その大金で全国指名手配中の殺人犯を逃そうとするが、その申し出を断る榎津。

その二人が今、養鰻場の辺りを歩いているのだ。

キョロキョロしながら、周囲を見回す榎津。

明らかに、ひさ乃を殺すタイミングを見計らっているのだ

ひさ乃が差し出す大金を受け取らなかったのは、この行為に結ぶ意思のためである。

警察への通報を阻止すること。

それ以外ではない。

警察への通報をないと相手が言っても、絶対に信じない。

榎津とは、そういう男である。

そんな男が、機先を制せられた。 
 
 
ひさ乃榎津
 
「殺すなよ、榎津。あんた、その気だら

 その気配を察知したひさ乃言葉で、榎津の殺意は呆気なく削がれていく。

 「夕べ、あんたが飛び出しちったとき、その気になった
 「これで2度目かよ。3度目がほんとかや」

 ひさ乃の気迫には、相当の凄みがある。

 ニヤニヤ笑う榎津

 何もかも見透かされている男の締りの悪さが露呈されているのだ

 だから、笑って誤魔化す。

 「馴れ馴れしく笑わんでくれよ。あんたは、わしを人殺し同士だとも思ってるだら」
 「そうも思わんが。ムショ仲間なんごつ気がしとる」
 「よしてくれよ。ここはムショの中とは違うだ。娑婆はよ、すっかり変っちまっただ」
 「変わった。世の中、狂っとるんじゃ」
 「でもよう。わしはあの婆あ、本当に殺したかったで殺しただ。だもんで、殺ったときは、胸がすーとしただ。あんた、すーとしてるかね、今?」
「いや」
「本当に殺したい奴、殺してねぇんかね?」
「そうかも知れん」
「意気地なしだに、あんた。そんじゃ、死刑ずら」

凄い会話である。

ひさ乃には与(あずか)り知らないことだが、ここで作り手は、巌の父・榎津鎮雄(えのきずしずお)を、「本当に殺したい奴」として、観る者に印象づけているのは間違いない。

 この事実はラストで明かされるので、後述する。

 
 養殖ウナギで全国的に有名な浜名湖養鰻場の池には、意味もなく、モブと化した人間たちの生態を象徴しているような、辺り一面に蝟集(いしゅう)する、食べ頃のウナギの群れが蠢(うごめ)いている。

 それを見て、自らが死刑になった姿をイメージする榎津の表情が強張っていた。

「殺ったときは、胸がすーとしただ」と言ってのけたひさ乃は、かつて、憎悪に燃える女を殺し、近年まで刑務所に長く入獄していた過去を持っていた。

そんな女が、現在、全国指名手配中の殺人犯に、本当に殺したい奴を殺してないから「意気地なしだ」と言い放って見せるのだ。

この由々しき会話によって、ひさ乃に対する榎津巌の殺意の牙の矛先が決定的に約束されたと言えないい辺りが、この男の「分りにくさ」を排除できない要因にしている。

と言うより、榎津巌は、ひさ乃が自分の正体を知った時点で、躊躇なく殺害することを考えていたはずである。

彼にとって、自分の逃亡のリスク要因となる一切のものを、物理的に排除していく意志において一貫しているのだ。

そこに、「情」が絡む余地は、殆どないと言ってもいい。

なぜなら、一時(いっとき)、男の内面に「情」が入り込んでいたとしても、そのことが、この男の行動を規定する推進力にはならないらである。

「情」と行動が濃密にリンクし合って、それが一つの確信的行為に発現するという普通の風景が、この男の人格内部に見出しにくいのである。

だから、榎津巌という、突き抜けて厄介な男にとって、「情」と行動は全く別次元のモチーフによって動く何ものかでしかないのである。



2  「あれは、殺った俺にも、よう分らんのじゃけん」



前述したように、「情」と行動が全く別次元のモチーフによって動く厄介な男の、その歪んだ人格の身体表現は、「あさの」の女将・ハルの殺害についても説明できるだろう。

女から一方的に惚れられ、セックス抜きに、仮にその情愛を受容する相応の「情」が存在していたとしても、男の中では、そのような類いの指向性によって、自分と心中することすら惜しまない女への殺害行為を、決定的に抑制し得る心理的推進力にはならないのである。

特定異性他者を情愛をもって抱擁し、心の芯から愛する能力が不足しているとさえ思えるのだ。

それが、この男の人格フレームの理解への特徴的な印象である。

なぜ、榎津巌は、自分を愛する女を殺したのか。

「あれは、殺った俺にも、よう分らんのじゃけん」

ハルの殺害の動機に合点がいかない刑事の前で、男は、そう答えた。

本心だろう。

榎津自身ですら説明できないのは、人間的な情愛能力の致命的な欠損を認知できていないからである。

内蔵する感情の深いところで、特定異性他者を包括的に愛する情愛能力を、人格フレームのうちに形成的に内化できない者が、その能力の致命的な欠損を認知できないのは当然のことである。

心理学的に言えば、その養育史の中で、十全な社会適応を保証するに足る、正常且つ、健全な「自己愛」を培養し得ていないのである。

人間にとって極めて重要な「自己愛」は、合理的に加工し、軌道修正しつつも、生涯を懸けて培養し、自らの「物語」のサイズに合わせながら作っていくものである。

健全な「自己愛」を持ち得ない者が、特定異性他者を健全に愛することなど叶わない。

「自己愛」を健全なものとして肯定したのは、オーストリアの精神分析学者ハインツ・コフートである。

コフートによると、健全な「自己愛」を培養できなければ、他者への共感に乏しい人格が形成されると説明する。

その人格の健全な発達のために、持続的に安定した環境を保証し得る大人、即ち、親の存在が不可避とされるのは言うまでもないだろう。

更にコフートは、適切で、適度な欲求不満の状態を経験することの重要性をも強調した。

ハル榎津巌
このことを考えるとき、榎津巌という男の自我のルーツに肉薄することが、本作の基本的理解のキーポイントになると言えるが、ここでは、ハルの殺害の動機について、もう少し言及したい。

「自死」に向かうと思えるような、榎津巌の犯罪の極限的な暴走の日々にあって、特定異性他者との「愛の逃避行」などという幻想は、丸ごと、お伽噺の世界でしかないだろう。

「おのれの脚で、精一杯、自由に逃げ回ったんじゃ」

拘置所の接見室で、父・鎮雄に言い放った男の言葉である。

まるで、逃亡生活それ自身を自己目的化したような男の行動が、国家権力との「命の遣り取り」のゲームを極限まで突き詰めていく行程のうちに、得も言われぬ悦楽を賞味しているとも受け取れる言辞なのだ。

ここには、「愛の逃避行」というお伽噺が侵入し得る何ものもない。

従って、素性が露見した今、逃亡の絶好の隠れ蓑と化していた、「緊急避難所」という安全弁を失ってしまった男は、女を殺害した。

ただ、それだけのことではないのか。


言うまでもなく、女にとって、「愛の逃避行」=「死の逃避行」を意味する。

母の眼前で、吝嗇(りんしょく)の旦那に強姦される妾の身分の惨めさを味わって、薄幸の女の耐性限界点を越えていくとき、もう、惚れ抜いた殺人犯との「心中」へのハードルは極端に低くなっていったに違いない。

殺人犯との「死の逃避行」が、自活の道が閉ざされた、「元殺人犯」の老いた母・ひさ乃への遺棄的行為をも意味するが、それもまた、耐性限界点を越えてしまったハルの絶望の深さを希釈する何ものもないのだろう。

しかし、ハルの「死の逃避行」を拒絶する男がいた。

「死の逃避行」のパートナーの榎津巌である。

「おのれの脚で、精一杯、自由に逃げ回ったんじゃ」という男には、「死の逃避行」のパートナーの存在自身が障害になるのだ。

継続力を有する「情」が、男の行動の推進力になることはない。

榎津とは、そういう男である。

だから、自分を愛する女を殺害した。

大体、この男が、「愛の逃避行」を求める女を全人格的に愛していたとは、とうてい思えないのだ。

「ありがとな・・・」

男が、女を殺害したときに洩らした言葉である。

ハル殺害
自分の逃亡生活を助けてくれた女への、せめてもの感謝の思いの発露であるのか。

敢えて言えば、自分と心中することすら惜しむことなく、真剣に愛された「不思議な時間」を共有したことへの率直な心情の吐露であったのだろう。

それでも女を殺害する男の心の闇は深く、その人格は救いようのないほど身勝手で、継続力を有する「情」を持ち得ず、人生の目標を確保し得えないアナーキーな風景に黒々と塗り込められているようだった

その辺りの心理の複雑さを描き切っただけでも、この映画は傑作である。

観る者に一定の情報提示をした上で、様々に思考を巡らせ、考えさせずにはおかない映画は押し並べて傑作であると、私は切に思う。



3  「不公平ばい、人間なんて


 
 ここで、私は勘考する。

 映像を観ていく限り、確かに、父・榎津鎮雄に対する憎悪が巌の心の中に潜在しているのは事実だろう。

 しかし榎津巌は、憎悪というような目立った人間的感情によって、一度も殺人を犯していないのだ。

 
老弁護士殺しへ
老弁護士殺しを含め、これまでの三件の殺人の内実は、金目当てでなかったら、殆ど成り行き任せのアナーキーな犯行
である。

 だからこそ、この男の内側に巣食う不気味な「反社会性パーソナリティ障害」の、無軌道で人間的不誠実さの極限的な風景を見せつけられ、閉口するである。

 しかし、この映画は、それ以上の深入りはしない。

 断定的に、榎津巌という厄介な人間を、「分り切った者」の視座で描いていないからである。

 それでも、観る者に一定の情報を提示する。

何より印象的なのは、冒頭のシーン。

凄い勢いで山道を走り抜けて来るパトカーの中に、両脇を刑事に挟まれ、逮捕された榎津巌が乗せられている。

「死刑じゃろう、おいは。あと3年で首ば絞められて、ぶらさげられるとして40か。どう、じたばたしたっち、あんたと同じ年まで、おいは生きられんちゅうすんぽうたい。55。おいより余計生きて、まだまだ余計生きられる。不公平ばい、人間なんて

鼻歌を歌いながら、隣の刑事の年齢を聞いた後、本気とも戯言とも受け取られるような 榎津巌の言葉である。

 この「不公平」という言葉に集約されるのは、父・榎津鎮雄のように、「他にも俺以上の『悪人』=『度し難い偽善者』や、『私腹を肥やす政治家』がいるのに、なぜ、そいつらは野放しなのか」というような解釈に落ち着くだろうが、単純に、「俺より年上の刑事さんは好きな人生を送れるのに、俺は絞首刑になるのが『不公平』だ」と言っているようにも見える。

 
最初の殺人
当然の如く、極端なまでに、「自責」の念など全くない男の身勝手な性向を映像提示することで、憎悪というような
人間的感情では容易に動かない、この男の「究極の悪」の犯罪の現実のみを、モデルとなった男のそれと切れて、そこに関わると思える背景の提示を添えた物語を、時系列を壊さない程度にフォローしていくである。

 まず、以上のイメージを観る者に提示する。

 観る者は、その自己基準の極端な振れ方に呆れ果てるだろう

では、榎津巌という男は一体、何者なのか。

「不条理な現代的犯罪の走りだとしても、映画は『わからない』ではすまない。少なくとも『わからない』ことが『よくわかる』映画にしなくてはならない、とシナリオは随分苦しんだ」

これは、「映画は狂気の旅である―私の履歴書」(日本経済新聞社)という著書からの、今村昌平監督自身の言葉であるが、非常に共感できる。

この言葉で分明なように、今村昌平監督は、榎津巌の「不条理な現代的犯罪」の「分りにくさ」を率直に認め、その「分りにくさ」を「よくわかる」ようなシナリオを書いたである。

その今村昌平監督は、件のシナリオをベースにして、映画的にどう処理していったのか。

確かに、重要だと思える背景は提示している。

父と子の関係を中枢に据え、そこに、母と子の関係を繰り返し強調している事実において分明である。

例えば、以下のエピソード。

 「負けたんじゃ、父さんは!」

 「潜伏キリシタン」(注)の土地として有名な五島列島の漁師の網元でもあり、熱心なカトリック信者の父・ 鎮雄が、軍に船の供出を命令された際に、天皇陛下への忠誠を誓わされるに至った現場を目視した巌が、その軍人に棒切れを振って抵抗したのにも拘わらず、肝心の父が、軍に対して惨めに敗北したことへの不満を、母に吐露したときの言葉である。

 佐藤忠男が「今村昌平の世界」(学陽書房)で書いているように、榎津巌のこの少年時代の経験が、その後の榎津の非行⇒累犯への行程を開く契機になったと印象づけているが、この設定には相当無理があると思える。

 なぜなら、当時の状況下で、軍への抵抗など不可能であり、少年時代と言えども、周囲の空気が読めない訳がないからである。

加えて言えば、巌少年は、「軍への屈服」と嘲罵(ちょうば)するが、父・ 鎮雄が、決して「完全屈服」してない現場を目視しているである。

 「わしら、カトリックの者だけが、船ば、全部出せっちゅうとは、不公平です

父・ 鎮雄は、現役の血の気の多い軍人を前にして、こう、言い放ったである。

父は無抵抗であった訳ではないのだ。

不公平という言葉が、ここでも出てくるのが気になるが、いずれにせよ、この一件によって、榎津の家族は五島列島を離れていくに至る。

私はこのエピソードを、こう考えたい。

父・ 鎮雄
既にこの時点で、巌少年の目立った攻撃性が垣間見えること。

父の規範教育の致命的な欠損と、母の度外れな溺愛ぶり。

父への反抗的態度の背景に垣間見えるものだ。

大体、軍人に棒切れを持って歯向かっていく態度それ自身が、「怖いもの知らず」の我ままな自我を形成してきた証左と言える。

だから、このシーンは、「父の欺瞞性」という、映画の中枢的視座が了解可能であるにも拘らず、ここで強調された不相応なエピソードには合点がいかないのである

 その後、榎津一家は、海軍から出た保証金で別府に旅館を買うが、巌少年の反抗は日増しに酷くなっていく

戦時中は、ずっと少年刑務所。

米軍MPに成り済まし、ジープを売った罪で、2年の刑を受ける。

 小倉刑務所に入所。(以上は、父のナレーションより)

 この経緯を見ると、詐欺師から殺人犯への移行は、特段飛躍には見えない。

 元々、暴力的な性向を持つ男が、詐欺師の能力を有していたという風に考えられるからである。

 
左から巌、嫁・加津子、父・ 鎮雄
例えば、クリスチャンとは思えぬ、父の犬殺しの一件を母から聞いた際に、父と嫁・加津子の関係の疑惑と、その疑惑を転嫁させるために、父の督促で駅の助役と関係を持った嫁の話を知った榎津巌は、助役を脅し、有無を言わさず、金を巻き上げた。
 
更に、父を恫喝する巌は、逆に、父・ 鎮雄から斧を突き付けられ、殺せと迫られるのだ。

 「わしゃな、我が子ながら、ぬしゃ好かんじょよ」

父・ 鎮雄は、今や、手の負えない累犯者に堕ちている一人息子に、こう、言い切ったである。

 父・ 鎮雄にとって、巌の存在それ自身が「不快なる者」であったという封印された思いを、遂に吐き出してしまうのだ。

 このエピソードは、巌に対する父の規範教育が全く実を結ばなかったか、それとも、父の規範教育の不熱心さを想像するに余りあると言えそうだ。

 「敬虔なカトリック信者だから勘当しなかったということか。

巌に送信した父のメッセージには、一種のダブルバインド(二重拘束)のコミュニケーション状況に捕捉され続けたという印象を持つが、これについては後述する。

ともあれ、そのとき追い詰められ、斧を手にした巌は、その斧を嫁に奪われ戦意喪失する。

 笑って誤魔化す巌は、父と嫁の気迫に圧倒されているのだ。

  このエピソードで強調されているのは、義父を想う嫁・加津子の情感の強さである。

 二人の関係の分かち難さが、透けて見える。

 この危ういエピソードを、家内から目視する母・かよがいる。

 「父の欺瞞性」を象徴する犬殺しの際にも、最後は、加津子が躊躇(ためら)うことなく煮え湯をかけていた。

そこには、やがて病を患う鎮雄の妻・かよが逝去し、義父のためなら一蓮托生(いちれんたくしょう)の運命を共にし、自らが別府の旅館に骨を埋める覚悟を持つ、二人の子供の母である女のしたたかな生き様が、そこだけは、堂々と貫徹される天晴な風景を覗かせているのだ

しかし、父と嫁の分かち難き関係が、累犯の果てに地獄へと堕ちていく、榎津巌のアナーキーな流れ方を説明する決定的な因子とは言えないだろう。

それは、どこまでも背景の一端であって、それ以上の何かではないである。



五島列島支援プロジェクト写真館(ブログより)
(注)幕藩体制下で厳しい弾圧に曝されながら、仏教徒を装いつつも、キリスト教(カトリック)を守り伝えてきたキリシタンのこと。



 4  「おのれの脚で、精一杯、自由に逃げ回ったんじゃ」



 思春期からの詐欺の常習の累加の中で、虚構の自己像(理想我)が膨張し切って、いつしか、現実の自己像(現実我)とのボーダーが見えにくくなっていった。

 これは快楽である。

 虚構の自己像(理想我=大学教授・弁護士・MPなど)の立ち上げによって、不快極まる現実の射程に侵入する情報を遮断できるからである。

見えにくくなった現実の自己像を遮断していくことで、虚構の自己像(理想我)に完璧に化け切ることが「普通」になっていくときの自己像には、不快情報を遮断できる程度において、「現実我」=「否定的自己像」が希釈化されている。

だから、これは膨張していくばかりになる。

虚構の自己像・弁護士
希釈化された「現実我」=「否定的自己像」の裸形の中枢に、他者が侵入すべき余地などない。

下手に他者が侵入して、「現実我」=「否定的自己像」の観念を剥がしてしまうこと。

それだけは、あってはならないことである。

しかし、浜松の母娘は、希釈化されたはずの「現実我」=「否定的自己像」の裸形の中枢に侵入し、あろうことか、「水平視線」で受容しようとさえした。

いや、清川虹子扮するひさ乃は、虚構の自己像(理想我)が膨張し切った男、即ち、緒形拳扮する榎津巌に対して、「水平視線」というよりも、「意気地なしだに、あんた」という言葉にシンボライズされているように、「俯瞰(ふかん)視線」によって視界に収めようとしたである。

 だから、ひさ乃を殺したとは思わないが、榎津巌という男は憎悪感情で動かない怖さを持ちつつも、少なくとも、自分の裸形の正体を知られた者をそのままにしておく訳がない。

 そればかりではない。

この男は、自分の本当の正体を知った女・ハルにまで、殺意の稜線を伸ばしてしまうが、この心理は前述した通りである。

しかし、殺意の稜線を伸ばす意思がないのに殺さなくてはならなかった、そんな薄幸のハルへの「情」が、の内側で発現した重要なシーンがある。

ひさ乃を殺し損ねた浜名湖の養鰻場から、「あさの」に帰宅したときのこと。

「あさの」の主人とハル
浮気相手に振られた「あさの」の主人によって、妾の女将であるハルが、此れ見よがしに強姦されている現場に立ち会った榎津の表情は、成人後、この男が映像で鮮烈に見せた人間的感情だった。

榎津巌は、心を突き動かされるようにして、台所の出刃包丁を握ったのだ

「お母さん、助けて」

声を振り絞るハルを救済するために、榎津は動く。

だが、榎津の手を押さえつけるひさ乃によって、澱み切った風景の中の異質な殺人事件は未遂に終わる。

これだけだった。

しかし、憎悪感情という人間的感情による情意の発動が、救いようのない物語の中で拾われたのである。

でも、そこまでなのだ

偶(たま)さか、黒色火薬の3成分が構成比を揃えて集合し、一過的な破壊力を持つ打ち上げ花火に化けたとしても、発射のタイミングが削がれたら、もう、それで自己完結してしまう類いの情動でしかないのである。

継続力を有する「情」を持ち得ないのである。

 
左から榎津、ひさ乃、ハル
継続力を有する「情」を持ち得
ない男が動いたとしても、高々、そのレベルなのである。

寧ろ、そんな男が躊躇なく出刃包丁を握ってしまう行動こそ、対他暴力のハードルの低さを検証してしまうのだ

それでも、「情」と行動が一過的に溶融し、破壊力を持つ打ち上げ花火に化けていく男の振舞いには、特定異性他者への独立的な感情が駆動していた事実を否定し得ないだろう。

 でも、もう何もかも遅過ぎる。

 「おのれの脚で、精一杯、自由に逃げ回ったんじゃ」

 繰り返すが、この心情が堅固に根を張っている男のアナーキーな流れ方を、もう誰も止めようがないのだ。

 「もっと遠く・・・」

 女が残した最期の言葉である。


  


5  「ちきしょう。殺したか。あんたを!」



 男の虚構の自己像(理想我)の立ち上げによって希釈化された、「現実我」=「否定的自己像」の裸形の中枢に侵入し過ぎてしまった女が、排尿してしまうほどに、想像だにしない死に導かれていく運命から解放される術がなかったということだ。

 前述したように、基本的に「父の欺瞞性」によって説明する以外にない。

 これは、加津子の出現以前に形成されたものである。

 「この間、あんたの運勢見てもろたと。やっぱり、あんた、人の上に立つ人間じゃと。うれしかねぇ」

 この母の言葉が、ここで想起される。

 小倉刑務所から仮出所して、自らパチンコ屋に呼び出したときの母・かよの言葉である。

 この母は、刑務所への入出所を繰り返す巌に、叱る気配すらなく、「人の上に立つ人間」であると嬉々として語るのだ。

この溺愛ぶりは、夫婦仲が悪く、虚弱体質の高齢の母にとって、息子の巌のみが生きがいになっている事実を能弁に物語る。

且つ、その溺愛が巌の生誕以来、ずっと延長されていて、息子の自我の極端な歪みの性向のルーツになっている事実をも想像させるのである。

更に、ここで重要なポイントは、幼少時より、榎津巌が、父・鎮雄から異なったメッセージを送信され続けていたと考えられることである。

信仰心の厚い父・鎮雄
信仰心の厚い父・鎮雄から、「神に忠実に生きよ」というメッセージを送信されると同時に、本心では巌を嫌っていたその父が、「神に忠実に生きる」ための「有効なメッセージ」を送信し続けるという、肝心な規範教育継続的行為を繋ぐことをしないばかりか、「偽善的行為」とも受け取れる「無効なメッセージ」を発信していたこと。

この「無効なメッセージ」は、自我形成にって、メタメッセージの意味づけに等しいのではなかったか。

巌への嫌悪に起因する規範教育の欠落という、隠し込まれた本来の感情傾向(メタメッセージ)を送信されていたことの重要性を看過できないのである。

母の溺愛によって虚構の自己像(理想我)膨張し、からは、一種のダブルバインド(二重拘束)のコミュニケーション状況に捕捉され続けたことによって、「否定的自己像」(現実我)に流れていく人格像に結ばれていく。

そして、膨張し虚構の自己像が群を抜いた詐欺能力に支えられ、それが、「否定的自己像」のアナーキーな流れ方(生き方)と絡み合って、間接自殺(拡大自殺)とも思える「殺人逃避行」を生んでいった。

これが、私の見方である。

加津子と父・鎮雄
従って、「反社会的人格障害」の様相を身体化させていく男の暴走は、加津子との結婚前からの振舞いである事実を考えれば、加津子と父・鎮雄との「親子丼」(二人の関係を茶化した巌の言葉)は、鎮雄の欺瞞性の由々しき象徴として描かれたと見るべきであろう。

従って、巌の中で封印されていた負の感情の集合が、ラストシーンで顕在化されたのは必至だったのだ。

拘置所の接見室。

そこに今、父と子が対峙している。

父・鎮雄の接見を迷惑がは、この時間を早く切り上げたいと考えている。

そんな息子に、鎮雄は積年の感情を唐突に開いていく。

「わしゃ、ぬしば許さん」
「誰が許しちくれと頼んだ」
「ばってん、わしも、神様には許されん。ぬしの血はわしの血ばい。わしの中には悪魔の血の流れちょる。わしゃ、母さんでお前でん、早う死ねばよかと思うとった。加津子も抱きたかっちゅうーて、何遍も・・・」
「もう、抱いたんじゃなかが?」

首を振る父。

「わしゃ、獣の心ばねじ伏せた。神には背けんけ」

舌打ちする息子。

信じてないのだ。

「かっこだけだい。へ」
「そいばって、わしゃ、神父さんに頼んで、わし自身を破門した。じゃけん、わしも、ウチの墓に入らん」
「死んだら、どげんする?」
「どげんすっか分らんとよ。破門されてでん、ぬしは神ば、怖れねばいけんぞ」
「おいは神様ば、いらん。おいは罪もなかば人たちを殺した。そいけん、殺される。そいでよか」

ここで席を立って、接見を終了しようとする息子に、父は難詰(なんきつ)する。

「なして、今まで逃げ回ったとか」
「おのれの脚で、精一杯、自由に逃げ回ったんじゃ!」

そう言って、接見を終了しようとする息子の中に、不快な感情が渦を巻いているようだった。

「親子ちゅうもんは、血の繋がりちゅうもんは、こぎゃんもんか」
「そうじゃ、死んでも、あんたとおいは別々たい」

父に背を向け、接見室を出ようとする息子は、そこだけはくぐもった低い声で、父に捨て台詞を残す。

「あんたはおいを許さんか知れんが、おいもあんたを許さん。どうせ殺すなら、あんたを殺しゃよかったと思うたい」
「ぬしはわしば、殺せんたい。親殺しのでくる男じゃなか」
「それほどの男じゃなかっちゅう訳か」

ここに「間」ができる。

徐(おもむろ)に立ち上がった父は息子を凝視し、言い切った。

「恨みもなか人しか、殺せん種類たい」

そう言って、父は息子の顔面に唾を吐きかけたのだ。

「ちきしょう。殺したか。あんたを!」

存分の感情を込めて、息子は父に情動を炸裂させたのである。

このカットで、接見室のシーンは閉じていく。

この重要なシーンの意味を考えたい。

元々、自身が求めて破門されても、神を信じる気持ちの共有を伝えに来たと思える、父・鎮雄の接見の無意味さを見透かしている息子・にとって、そんな父との最後の接見に何の感情をも持ち得なかった。

だから、早々と接見を強制終了したかった。

父への特段のメッセージも、何もなかった。

ところが、「殺し」の思いを吐露することで、風景が一変する。

殺し」をする破壊的な能力を持ち得ない、「クズ」をイメージする嘲罵(ちょうば)を浴びせられ、それが唾吐きの身体表現に集約されたことで、それまで、単に、内実の乏しい表層的な意識の範疇でしかなかった「殺し」の思いのうちに、激しい情動の炸裂を生み出した。

内実の乏しい表層的な意識の土手っ腹に、憎悪感情という人間的感情による情意の発動が反応し、激しく炸裂してしまったのである。

それは、父・鎮雄の浮薄なメッセージではなく、これまで累加させてきた、「我が子への存在性の否定」というメタメッセージの表現であったが故に、息子・巌の中枢を衝く言語的・身体的暴力を被浴した「殺人犯」の本性が、初めて肉親に向かった刃だったのだ。

要するに、父・鎮雄のメタメッセージによって形成された、息子・巌の中枢に広がる「否定的自己像」が、本来、殺すべき男に向かって噴き上がっていったのである。

ラストシーン・遺骨投棄
しかし、本来、殺すべき男を殺せなかった巌の無念が、ラストシーンで映画的に表現される。

5年後、死刑の執行によって受け取った巌の遺骨を、父・鎮雄が山頂から海に向かって投棄するが、遺骨は空中に留まってしまうのだ。

遺骨と化して、殺し」の真似事をトレースする男の脆弱な物語は、あまりに滑稽であり過ぎる。

それでも、いつの時代でも、こんな人間がいて、こんな理不尽な犯罪を犯し、裁かれていく。

だから、格好の話題になり、映画化されもする。

人間ドラマに昇華された「犯罪映画」 ―― その最高到達点。

それが、「復讐するは我にあり」だった。

もう、これを越える「犯罪映画」は出てこないだろう。

役になり切るプロの俳優としての凄みを、これほど感じた映画もない。

今村昌平監督の底力を、存分に見せてくれたプロフェッショナルの男による、超一級の名画であった。

3度目の鑑賞で、より理解が深まったことに感謝しよう。

最後に、ひさ乃殺しに向かう榎津巌のカットと同時進行する、病院を抜け出て、家で死にに来た母・かよのシーンが看過できないが、これを「母殺し」と説明する佐藤忠男の読み方があることを紹介しておこう。

【参考資料】

「今村昌平の世界」(佐藤忠男著 学陽書房)  「映画は狂気の旅である―私の履歴書」(今村昌平著 日本経済新聞社)


(2014年9月)

2 件のコメント:

  1. 殺人のような犯罪の動機を、複雑怪奇だとか短絡的だとか不条理だとかと他人が決めつける事に対してはどうも違和感を覚えるところがありますが、昨今の事件を思い起こすとどうも理解しがたいというか安易な発想によるものが多いような印象を受けます。
    それは一般の映画表現の中にも浸食していて、深度の深い心理描写を装いつつも実は非常に浅い人間観察力から仕上がっている作品を目にする事が多くなっているような気がします。
    同時に鑑賞する側の目も一般的には単純化してきていて、特に私などは、分かりやすい感情表現や善悪の追求をしてくれる韓国映画の方が水が合うような気さえしてきているのが現状です。
    そうした中で、「復讐するは我にあり」はどうでしょう。このような、人間の摑み取れない不確実な心理の発露を表現する事は、まさに商業映画の枠を超えた芸術表現であると言えるでしょう。さらにこの映画が当時の観客にも大いに受け入れられた事も忘れてはならないと思います。
    正直私は学生の頃にビデオで見た記憶がありますが、「何を言いたいのかさっぱり分からん」という印象でした。
    映画は鑑賞した時の年齢や環境において当然感想が左右される物だと思っていますので、出来たら今度再度鑑賞したいと思っております。

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  2. マルチェロヤンニ様

    いつもコメントをありがとうございます。

    >映画は鑑賞した時の年齢や環境において当然感想が左右される物だ

    本当にそう思います。若いころに観て良かった作品を改めて観るとそうでもなかったり、漠然としか掴めなかった作品の良さが分かるようになったりを繰り返しています。また、たった一回の鑑賞では評価し切れない奥深い映画作品もあるのだということも実感しています。

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