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2014年10月6日月曜日

ヒッチコック(‘12)     サーシャ・ガヴァシ


<ヒッチコックの裸形の人間性を巧みに切り取り、紡いでいった物語の訴求力の高さ>




 1  「ハリウッドは、私を受賞させないことに喜びを感じている」
 


 「サスペンス映画の神様」と称されるアルフレッド・ヒッチコックが、次回作に選択した作品は、1957年11月に発覚した、「エド・ゲイン事件」のおぞましい犯罪を映画化することだった。

 その「エド・ゲイン事件」にヒントを得て執筆した、ユダヤ系アメリカ人作家・ロバート・ブロックの「サイコ」という小説に惹かれ、その映画化を目指していくのである。

 そもそも、ヒッチコックを惹きつけたエド・ゲインとは、一体、何者なのか。

その限度を越える厳格性において、体罰も辞さない厳格なプロテスタント一家に生まれた、エド・ゲインの母のチェーン(連鎖)現象的な家庭環境下で育ったために、平気で夫を嘲り、一切の性的行為を禁じる倒錯的な教育を受けたエド・ゲインにとって、母の存在は絶対的であった。

当然、社会的適応性を顕著に欠落させたエド・ゲインは、「絶対愛」の対象だった母の死を受容できず、完全なる孤独に陥ったその心の空洞の補償を、どこに求めたのか。

死せし母親を墓から掘り出すという、倒錯的行為に振れていくのだ。

エド・ゲインの中では、母は永遠に生きているのだ。

 「ただの異常者ではない。こいつは、母親を墓から掘り出した」

 ヒッチコックの言葉である。(注)

 
  小説「サイコ」に対するハリウッドの反対を押し切って、今回もまた、ヒッチコックの最大の理解者であり、脚本の共同製作など、常に助力を得てきた妻アルマの協力を求め、アルフレッド・ヒッチコックは、何とか映画化に踏み切りたいと考えていた。

 「重大なミスが一つ。中盤じゃなくて、最初の30分で殺すの」

 アルマのこの一言で決まった。

 しかし、当然ながら、「ビジネス」中心のハリウッドが、猟奇事件をリアルに描く「サイコ」の映画化を受容するはずがない。

 「観客はショックを求めている。変わったものが必要だ」
 「違ったことをすると、『間違えられた男』や『めまい』のように、誰かが大損する。MGMの『北北西に進路を取れ』。ああいうのをウチでも頼む」

あと一本の契約が残っている、アメリカの映画会社・パラマウント映画のバーニー・バラバン社長は、婉曲にヒッチコックの強い申し出を断った。

 それでも、「サイコ」の映画化の決意を変えず、自己資金でも作ると言う夫に、妻は問う。

 「なぜ、『サイコ』なの?」

 60歳になって、今や功成り名遂げた夫の反応は、極めてピュアなものだった。

 「映画を撮り始めた頃の楽しさを?我々には資金も時間もなかった。知恵を絞り、あの手この手で映画を撮ったな。もう一度味わいたい。あの解放感を」

 
ルー・ワッサーマン
この60歳の男の夢を、明晰なエージェントのルー・ワッサーマンはパラマウントと交渉し、自己資金で作る代わりに配給を求める契約を結ぶに至った。

 「もし、この映画がコケたら、我々は、しばらく世間の笑い者になるぞ」

 その夜、アルマに語ったヒッチコックの心情だが、覚悟ができていた。

 ここで、私は勘考する。

 「母親を墓から掘り出した」というヒッチコックの言葉に象徴されるように、彼の中のマザコン心理のコンテクストとリンクする見方が支持を得ているが、これはどこまでも脚色された映画なので、作り手のモチーフに内包されていたのが、「映画を撮り始めた頃の解放感」への原点回帰であったという解釈を捨てることはできないだろう。

 と言うより、「行動」に結ばれていくときの人間の心理複層的に絡み合っているので、そこには、様々に反応する感情の集合があったと考えたい。

 その経緯の中で、「人を惹きつける吐きそうな話」が特定的に選択されたのである。

 かくて、ヘイズ・コード(米国の厳しい映画検閲制度)をクリアするための、もう一つの闘いが始まった。

 女性の体にナイフが刺さる描写や、トイレの映像と、それを流すシーンでダメ出しされても挫けないヒッチコックも、ヘイズ・コードという障壁を越えるのに精神的疲労を覚えざるを得なかった

 「ハリウッドは、私を受賞させないことに喜びを感じている。心が折れるよ、エド。辛い」

 ヒッチコックの揺れ動く中に侵入するのは、エド・ゲインそれ自身だった。

 
エド・ゲインとの内的会話
エド・ゲインとの内的会話を繋ぐことで、いよいよ、
ヒッチコック中枢にまで入り込んでいく稀代の犯罪者こそ、ヒッチコックの格好の話相手になっていくのだ。


(注)」「ヒッチコック 映画術 トリュフォー」(山田宏一、蓮實重彦訳 晶文社)では、「ロバート・ブロックの小説のどこに興味をひかれたのですか」というトリュフォーの問いに対して、ヒッチコックは、「ただ一ヵ所、シャワーを浴びていた女が突然惨殺されるというその唐突さだ。これだけで映画化に踏み切った」と答えている。



 2  「夫がプレッシャーに喘いでいる。君も妻なら、全力でサポートしろ!」
 


エド・ゲイン=ノーマン役のオーディションが始まった。

右からノーマン役のアンソニー・パーキンス、マリオン役のジャネット・リ
「母を異常なほど好きだった」と言う、アンソニー・パーキンスのオーディション。

そして、マリオン役のジャネット・リーのオーディション。

 着実に映画製作が進めば進むほど、ヒッチコック心奥に入り込んで来るエド・ゲインの陰がリアリティの濃度を高めていく。

 「私は大きな過ちを犯しているのか?」

 ヒッチコックの弱音である。

 そんな心境下で、関係者全員に、物語の「秘密厳守」の誓いをさせた上で、「母親を墓から掘り出す」映画の撮影が始まった。

 満足な手応えを感じられない中で、脚本家ウィットフィールドとの共同製作を始めようとしているアルマに嫉妬を感じるヒッチコック。

 絶えず、自分への噂を気にする男は、覗き趣味を止められない俗物性を持っている。

 だから、女優の日常会話を過剰に気にしてしまうのか。

 とりわけ、アルマへの嫉妬で、撮影中に苛立つのニューロティックな態度は、支配欲の強い男の偏頗(へんぱ)性を極めていて、とても興味深い。

 
アルマ
「サスペンス映画の神様」と呼ばれようと、これが、殆ど許容範囲下にある人間の普通の様態であり、そういう瑣末なエピソードを拾い上げていく構成力に対して、私は全く違和感がない。

人間ヒッチコック」の裸形の相貌を、淡々と、何事でもないように描いていく。

女が分らんよ。なぜ、私を裏切る」

マリオン役のジャネット・リーに、思わず吐露した言葉である。

それでいいのだ。

因みに、他人の視線や振舞いに過敏に反応する辺りは、カトリック教会の中の修道会の一つである、イエズス会の体罰に遭っていた少年期の経験に淵源しているとも思えるが、一切は不分明である。

 一方、ウィットフィールドに求められて、海が一望できる彼の別荘で、脚本の共同製作を始めていくアルマ。

「タクシーでドブロヴニクへ」

 これが、二人の共同脚本のタイトル。

 ドブロヴニクとは、スロヴェニア北東部の都市の名である。

 ヒッチコックは、この脚本を読んで、アルマに「駄作」と決めつけ、ウィットにのぼせて、「男女関係」が描かれていないとまでこき下ろすのだ。

 
夫婦の確執
「女って奴は、何かに心を奪われると、現実が見えなくなるらしい」と夫。
 「あなたに、男女の何が分るの?」と妻。

 その直後の映像は、ゴミで散乱するプールを、荒れ狂うように掻き回すヒッチコック。
 
 アルマへの嫉妬が昂じて、 マリオンが浴室でシャワーを浴びるときに出刃庖丁で襲われる「サイコ」の重要なシーンの際、ヒッチコックの情動が憑依したのか、狂乱状態と化した挙句、高熱で倒れてしまう。

 夫に代わって、一過的に「サイコ」の演出を担っているにも拘らず、相変わらず、アルマの浮気を疑う激しい嫉妬が、遂に炸裂する。

 「夫がプレッシャーに喘いでいる。君も妻なら、全力でサポートしろ!」

 ここまで言われて、封印していたアルマの憤怒も炸裂する。

 「家を差し出したわ!あらゆる面で、この映画を支えてきた。過去30年の作品と同じようにね。あなたは私に感想を求め、世間の評価に共に喜び、共に泣いた。私はパーティーを仕切り、女優との浮気にも耐えたわ。海外プロモートでは、あなたの横か、後ろに立ち、疲れを隠して、マスコミに笑いかける。でも彼らは私を無視し、肘で押しのけるの。彼らの眼に映るのは、偉大なる天才ヒッチコックだっけ。そして今、こんなこと何年ぶりかしら。ヒチコック映画から離れて、仕事をしてるの。非難される覚えはないわ!よく覚えておいて。私は、あなたの妻アルマよ。契約したブロンド女優じゃないわ。あれこれ指図しないで」

 そこまで吐き出されて、もう、ヒチコックは何も言えなくなった。

 


 明らかに、妻の正当な反撃に完全降伏する「偉大なる天才ヒッチコック」が、そこに置き去りにされていた。

 このエピソードで、「悩めるヒッチコック」が「サスペンス映画の神様」のイメージに化けていく。



 3  「君ほどのブロンド美人は、私の作品にも登場しない」



 佳境を迎えた撮影の中で、母を失う危機に立ち会って、エド・ゲインは嗚咽し、暴れている。

 無論、ヒッチコックの内面世界で騒ぐエド・ゲインである。

 全て終わったのだ。

 エド・ゲインに憑依したヒッチコックもまた、彼の犯罪の終焉と共に喪失感を味わうに至る。

 「ひどい結果でした。大事なのは奥様の感想ですよ」

 このエージェントのルー・ワッサーマンの言葉を、無表情で聞くヒッチコック。

 「哀れなウィット。君なしじゃ何もできない。私も同じだ。今回は、ひどい出来だよ。退屈な作品だ。『サイコ』は駄作だ。君を失望させる。申し訳ない」

 悄然とする夫に、アルマは言い切った。

 「落ち込んでも仕方ないわ。皆のためにも『サイコ』を再編集する。夫は失格だけど、あなたは、誰よりも編集が上手よ」

 
夫婦の共同作業による「サイコ」の再編
このアルマの助言で、「サイコ」が復活していく。

 文字通り、夫婦の共同作業による「サイコ」の再編集が始まった。

 当然、ヘイズ・コードとの闘いが再燃する。

 「突き刺すシーンと裸が見えた」とジェフリー・シャーロック(映倫検閲官)。
 「見えたと思うから、そういう錯覚に陥るんだ」とヒッチコック。
 「公開は認めんぞ」

 こんな感じだが、「セットに招くから来てくれ。君を心から尊敬する」というヒッチコックのマヌーバーで、遂に難関のヘイズ・コードを突破したのだ。
 
 「セットに招く」という言辞に、ジェフリー・シャーロックは怖気づいたのだが、後者の一言が、ジェフリーのプライドを守ったことが大きかった。

 この辺りのヒッチコックの手練手管は、プロの映画作家としての充分な経験知が如何なく発揮されていた。

 先行上映が2館だけと知ったヒッチコックは、「客を呼ぶための宣伝マニュアル」を作ることを決断し、実行に移していく。

 
左は有能な秘書のペギー・ロバートソン
“特別な入場方針のために、警備員をお雇い下さい。
『サイコ』は恐ろしい映画ですので、取り乱した観客を鎮めてもらうのです。ロビーの時間ボードで、観客に開演時刻を知らせて下さい。映画が始まりますと、どなた様も入場できなくなります。『サイコ』のショックとサスペンスを強調するためです

 この宣伝マニュアルを全ての劇場主に理解してもらった上で、それを実践に移すことで、「サイコ」の劇場前には順番を待つ長蛇の列ができるに至った。 

 観客の反応を確かめるため、劇場の後ろの扉から覗き見するヒッチコック。

 例の有名なマリオンの入浴シーンでの殺害シーンで、観客の絶叫が繰り返し聞こえてきて、劇場フロアで、ナイフを振り回す仕草で、律動感溢れて動くヒッチコックが、最高のパフォーマンスを心地良く演じている。

 もう、そこには、不安の除去のために格好の話相手と化していた、幻想のエド・ゲインは完全に消えている。

 観客を驚かすことに快楽を覚える一人の、際立って個性的な映画作家が舞っているのだ。

 映画作家アルフレッド・ヒッチコックの独壇場の世界だった。

一世一代のヒッチコックの勝負決定的に成就した瞬間である。

 このシーンこそ、本作の白眉である。

 だから感動も深い。

 そして、心地良さを「共有」する夫婦の最後の会話。

 「あなたの最大のヒット作になるわ」とアルマ。
 「私たちのだ。君ほどのブロンド美人は、私の作品にも登場しない」
 「その言葉を30年待ったわ」
 「だから私はこう呼ばれる。“サスペンスの巨匠”」

 
 かくて、深いところで「共有」し合う、最高の夫婦の一蓮托生(いちれんたくしょう)の物語が閉じていく。



 4  ヒッチコックの裸形の人間性を巧みに切り取り、紡いでいった物語の訴求力の高さ



 女癖が悪く、臆病で猜疑心が強く、嫉妬深い。

覗き見趣味もあり、絶えず、他人の噂や評価を気にする承認欲求の強さと、しばしば常軌を逸した俗物性を併せ持つ男だった。

 同時に、俳優の能力を生かす懐(ふところ)の深さもあった。

 矛盾するようだが、得てして、人間とはそういうものである。

 加えて、「サスペンス映画の神様」とか、「巨匠」と称され、その名を馳せた著名な作品の多くが、聡明な妻アルマとの共同作業の所産でもあった。

 その男・アルフレッド・ヒッチコックの裸形の人間性を巧みに切り取り、紡いでいった物語には、作り手の悪意や偏見の翳(かげ)りの欠片すら感じなかっただけに、些かニューロティックな異常心理性を露わにする男に対する思いには、特段の評価の変化などあり得なかった。

老境に入って映画作家としてのルーツを確認し、そこに新鮮なエネルギーを吹き込もうと努める男の心の振れ幅がどれほど大きかったとしても、この男が作った映画は、どこまでも「ヒッチコックの映画」であることには、全く変わりがないのだ。

「サスペンス映画の神様」と呼ばれた男の人間性が、「一人の嫉妬深い俗物」であったとしても何ら矛盾しないし、大袈裟に騒ぎ立てるほどのものではない。

中央がサーシャ・ガヴァシ監督
それが人間ではないのか。

悪意や偏見の翳りの欠片すら感じさせない筆致で描かれた映画に共鳴することはあっても、私にとって失望することなどあり得ない。

一人の人間の、ごく普通の人間的振舞いを、どこまでも淡々とフォローし、その内面世界にまで踏み込み、活写していく。

何より、長きにわたって物理的に共存する夫婦を、賞味期限のバリアを越えて駆動する一人の映画作家の男と、「分」を弁(わきま)えつつ、自立的で才能ある一人の女との創作の「共有」を、人間的感情の絡み合いの中で描き切ったこと ―― これが最高に良い。

 とても面白い映画だった。

ヒッチコックを演じたアンソニー・ホプキンスは言うに及ばず、とりわけ、ここでも圧倒的な存在感を表現し切っていたヘレン・ミレンには脱帽せざるを得ない。

いつ観ても、貫禄充分な名女優である。

 
 「全身プロフェッショナル」な二人の俳優が、「全身プロフェッショナル」な映画作家の、人生を懸けた画期点となる創作の「共有」の時間の物語を、ベストパフォーマンスによって答えを出していく。

 それが、最高に素晴らしかった。



【参考資料】 拙稿・人生論的映画評論「サイコ」より


(2014年10月)

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