1 「国を羽ばたかせたい」という尖り切った熱情の破滅的帰結点
心理描写で埋め尽くされるから、余計な台詞は全くない。
これほどの映画と出会った僥倖(ぎょうこう)に感謝の気持ちで一杯である。
今や、ベネット・ミラー監督の映画は、絶対に外せない何ものかになった。
―― 以下、梗概と批評。
「この国について思うことと、なぜ、レスリングをするのか」というテーマで、子供たちを前にして講演する、レスリング競技でのロス五輪(1984年)の金メダリスト・マーク・シュルツ(以下、マーク)の言葉から、物語は開かれる。
「金メダルが意味するのは、厳しい自己鍛錬です」
この言辞のみの講演シーンの終了後のマークの講演料が20ドル(プラザ合意の後なので、1988年の時点では1ドル=約120円台になり、ドルの価値は半減)と聞き、無表情のマーク。
しかも、有名な金メダリストである兄のデイブと間違えられて、自分の名を相手の事務員に確認させるマーク。
車内でハンバーガーを食べた後、アパートに帰宅し、そこでインスタントラーメンを割って食べているのだ。
説明台詞を一切抜いて、レスリングの金メダリストの生活の一端を提示する、この冒頭のシーンは素晴らしい。
株式上場されていて、大統領選の応援演説にレスラーが駆り出されたりするほどのWWE(アメリカのプロレス興行会社)の存在感の大きさを見れば、ファンを熱狂させるエンターテイメントとして人気の高いプロレスに比べると、オリンピックの時のみ注目されるアマレス(アマチュアレスリング)が、アメリカではマイナー競技である事実を、このシーンは端的に表現しているからである。
世界選手権に備えて、兄のデイブと訓練を繰り返す日々のマークが、ペンシルベニアにあるジョン・デュポンから連絡を受け、自家用のヘリコプターで招待される。
言うまでもなく、ジョン・デュポン(以下、ジョン)とは、世界有数の化学会社であるのみならず、最大の火薬メーカーであるデュポン財閥の御曹司。
「私はレスリングという競技に深い愛情を持っている」
ジョンの言葉である。
「ソウル五輪で金メダルが欲しい」
「アメリカは君に栄誉を与えていない。社会的な問題だ。敬意を払うべき者を無視するのは間違いだ。国を羽ばたかせたい。2人で成し遂げよう。偉大なことを」
このジョンの言葉の重要性は、本作の肝に当たるので後述する。
「この国は、モラルや価値観を失った。道に迷った若者を導くヒーローもいない」
2万5000ドルの年俸を提示され、「アメリカの正義の復活」を説くジョンの言葉に決定的な影響を受けた27歳のマークが、嬉々として、兄のデイブに語った言葉である。
そのために、兄に協力を求めるのだが、家族を持ち、金にも振れないデイブは、弟を励ますのみ。
かくて、ジョンの生活の拠点があるペンシルベニアに移動するマーク。
「超一流の名馬を持つデュポン氏の母には関わるな」
ジョンの執事に忠告され、了承するマーク。
かくて、「父は人生の手本だった」と言うジョンの広大な敷地をバックグラウンドにして、「フォックスキャッチャー」(デュポンの広大な敷地の名)と名付けたトレーニング場でのレスリングの強化トレーニングがスタートする。
「デイブは金では動きません」
その名の知れたデイブに拘るジョンに、弟のマークが答える。
この時点で、ジョンの目的がデイブの参加にある事実が明瞭になる。
フランスでの世界選手権でディブの強さを見たジョンが、マークの案内で、妻子のいるデイブが宿泊するホテルの部屋に訪問するが、その場は素っ気なく帰っていく。
「君は“デイブの弟”では終わらない。だが、兄だからこそ、弟が追い越すのを決して許さない。君はずっと、兄の影に隠れて生きてきた。今度は、君が脚光を浴びる番だ」
そう言って、多額の報酬をマークに渡すジョン。
マークもまた、このジョンの指摘を受け入れるのだ。
ジョンもマークも、「越えられない距離」にある特定の存在に対して、その感情の多寡の違いがあるにせよ、屈折した思いを持っていることが判然とするシーンである。
コカイン常習者のジョンが、マークにコカインを吸引させ、名士が集まる講演会で自分を褒め称(たた)えるスピーチを覚えさせたのは、その直後のシーンだった。
未だ異和感を覚えるマークだが、自分の生活の全てを支配するジョンの影響力は強化されるばかりだった。
マークを相手に訓練するジョンが、シニアのレスリングの試合に出て、勝利するジョンだが、「下品なスポーツ」と母に言われたことで決定的に傷つくのだ。
そんなジョンが、母を見返す手段は、唯一つ。
デイブを招き寄せることだった。
「金で動かない」と信じるデイブが「フォックスキャッチャー」にやって来たことで、マークの心が傷つくのは自明だった。
既に、ジョンとの同性愛の関係に踏み入っていたようにも見えるマークにとって、自分の存在が、単に、デイブを招き寄せるための「おとり」でしかなかった現実を思い知らされるのだ。
それは、ジョンとデイブの二人に、共に裏切られたことを意味するからである。
「兄貴に助けは必要ない。俺のやり方でやる」
心配する兄に、怒鳴り返す弟。
初めてジムに現れた母に対して、自分が「良きアメリカ」の代表としての、レスリングの優秀なコーチである現場を見せつけるジョン。
マークから覇気が削がれ、それが、レスリングの予選の試合での無残な敗北に繋がっていく。
ホテルの部屋で暴れ捲り、自暴自棄的な行為に振れていくマーク。
そんなときでも、兄の優しい励ましが、弟を変えていく。
マークが、その本来の力を復元させるのは、殆ど予約済みだったのだ。
まもなく、ジョンの母が急逝し、ジョンを囲繞する風景が変容していく。
母を見返す機会を逸しても、ジョンのモチベーションが下がらなかったのは、「国を羽ばたかせたい」という尖り切った熱情が、彼の内側で深々と根を張っているからである。
そんなジョンの熱情が、全米レスリング協会に多額の寄付をするという条件で、「フォックスキャッチャー」を五輪代表チームの公式練習場と認知させるのだ。
マークが「フォックスキャッチャー」を去っていくのは、いよいよ、デイブの役割が求められた時だった。
「俺には無理だよ」
マークの言葉である。
「家族に安定した生活をさせたい」
このデイブの言葉が、家族ぐるみで「フォックスキャッチャー」にやって来た理由だった。
だから本人には、単に、デュポン財閥の金の力で動かされたわけではないという思いがある。
デイブの言葉に対して、どうしても納得できないマークは、押し黙るだけだった。
しかし、デイブの思いに嘘はなかった。
ドキュメンタリーの撮影の際、デイブがジョンの「偉大さ」を語らされる行為には、少なくとも、コカインを吸引してまで語らされたマークと切れていた。
最後までデイブは、ジョンの「偉大さ」を語らされる行為に振れないのだ。
かくて、第24回オリンピック、ソウル1988年の幕が開かれる。
元々、ジョンはオリンピックのコーチ席に入ることに固執していた。
然るに、自分を裏切った男が傍らにいる中で、試合をするマークの厳しい視線の先には、トレーナーのデイブの有効な励ましと対比するかのように、コーチのジョンが捕捉される。
だから、約束されたように敗北する。
ジョンに自らの勝利を贈り、有頂天にさせる思いが、初めから失せているような敗北だった。
「フォックスキャッチャー」に訣別するマーク。
このシーンを観る限り、彼の中で、マークを忘れれない思いが強いという事実が判然とする。
そのジョンが、デイブを射殺するという事件が惹起したのは、この直後だった。
雪の上に横たわるデイブの死体に抱き付き、号泣するデイブ夫人。
警察に連行されるジョン。
ラストシーン。
レスリングを辞め、「USA!USA!USA!」という観客の歓声が沸き起こる中で、頭を丸めて、格闘技のリングに上がっていくマークがいる。
「デイブ・シュルツは死後に、レスリングの殿堂入りをした。妻と2人の子供たちが残された。マーク・シュルツは、1988年オリンピック後に、レスリング界から引退。現在はオレゴン州で、レスリング教室を開催。ジョン・デュポンは、2010年12月9日、獄中で死亡」
このキャプションがラストカットとなって、エンドロールに流れていった。
2 「自己愛性パーソナリティ障害」 ―― その屈折的自我の心の闇の痛ましき風景
冒頭のキャプションで、「これは事実に基づく物語である」と書いてあるように、どこまでも、フィクションとして捉える前提によって批評していきたい。
「レスリングは下品」
この言葉が発火点になった。
ジョンが母親に言われた言葉である。
この直後、理が非でも、金メダルを獲得しようと逸(はや)る気持ちから、ジョンはマークに、デイブを「フォックスキャッチャー」に呼び寄せることを命じる。
「それは無理だ」
これが、マークの答えだった。
マークが「フォックスキャッチャー」に身を預ける際に、兄に協力を求め、断られた経緯があるから、マークにとって当然の反応である。
しかし、予想だにしない事態が起こる。
あろうことか、突として、ジョンはマークを平手打ちし、「恩知らずの猿め。お前を選んで失敗だ」と罵るのだ。
このあからさまな本音を吐き出すジョンの侮辱を受け、マークの心は決定的に傷つく。
更に、追い打ちをかけるように、絶対に来ないと確信していた兄・デイブが、家族共々、「フォックスキャッチャー」にやって来たことで、兄に対する極度の不信と反発が一気に高まる。(これは、後に解消される)
二人の人間に裏切られた思いを抱くマークの心情は、蓋(けだ)し、察するに余りある。
しかし、弟の反発の強さを、デイブは予測できていなかった。
これも当然である。
「フォックスキャッチャー」に同行することを誘われ、断っても、マークを不快にさせることもなく、兄弟仲の良い弟が、「金で動かない人間」であると信じていたという事実を、デイブは特段に考えてもいなかった。
この辺りの感情交叉の微妙な綾に、デイブが無頓着だった面は否定できないが、一切はジョンの欲望の稜線の広がりについて、兄弟間で本質的に理解し、その情報を共有できていなかった事実に淵源(えんげん)すると言っていい。
「今度は、君が脚光を浴びる番だ」
ジョンはマークに、そう言い切ったのだ。
そももそ、マークの自立を促したのは兄であり、そして、その行動を促し、身体疾駆のステージをマークに用意したのがジョンだった。
それが今、一切を否定されてしまったのである。
マークにとって、これは屈辱以外の何ものでもない。
今や、一切のアドバイスを受けようとしないマークの心は、常に、自分の勝利が兄の功績にされてきた悔しさを、辛うじて、この「フォックスキャッチャー」という特化されたスポットを得て、それなりの手応えを感じていた最中に、兄が出現することによって、元の木阿弥にされる不安感に満ち満ちていた。
思うに、マークは「アメリカの正義の復活」を説くジョンに、「疑似父性」の観念をインスパイアされたことで、それまで、「母性含みの父性」の対象だった兄・デイブの「心温かな包括性」という支配力から脱し、自立志向を具現化していく。
だから、この世間知らずの若者は、彼なりに頑張ったのだ。
しかし、ジョンという中年男は、自分の欲望の具現化のために、他者を道具としてしか考えられない、歪んだ自我の持ち主だった。
ジョンがデイブの代わりに、マークを自分の欲望遂行の代替物にしていく渦中で、デイブを呼び寄せることに成功したことで、もう、何も見えなくなってしまった。
自らが呼び寄せ、「君が脚光を浴びる番だ」と期待をかけ、中年男なりの愛情を注いだにも拘らず、風景が変わった瞬間、「お前を選んで失敗だ」とさえ言ってのけたのである。
風景の変容とは、前述したように、ジョンの母親から放たれた言葉である。
紛れもなく、その根柢にあるのは、母親からの「承認欲求」の頓挫の様態である。
恐らくそれは、乳幼児期に得られなかった、「承認欲求」の頓挫の空洞を埋める行為こそ、「モラルや価値観を失ったアメリカを羽ばたかせるような偉大なことを成し遂げる」という、妄想的観念の心理状況に捕促されたかの如きイメージラインへの全人格的投入だった。
その母親からの視線に過敏に反応するが故に、ジョンの妄想的観念は限りなく膨張していくのだ。
この妄想的観念が、「道に迷った若者を導くヒーロー」への立ち上げに自己像を変換させた時、「下品なスポーツ」であるレスリングを、内側で空洞化された父性の象徴として、「最も男らしいスポーツ」と信じる競技フィールドの中枢点に立つ者への飛翔に繋がったのである。
母親からの「承認欲求」の頓挫によって、「見離され不安」を常に抱え込んだ自我の歪みは、成人期に踏み込んでも、レジリエンス(打たれ強さ)を持ち得ない屈折的人格を封印できなかった。
「私は母を愛しているが、馬など下らん。食ってクソをする。それだけの生き物だ」
マークらを相手に語る、このジョンの言葉が意味するのは、言うまでもなく、自分を顧みない母に対する挑発的言辞である。
それは、「馬術競技が上品である」と考える母に対して、「下品であるレスリング」に執拗に入れ込むジョンの、その屈折的自我の強烈な「承認欲求」の表れであると言い切れる。
「僕は人に教える立場です。チームを率いて指導している。僕は彼らに夢を与えているんです。そして、アメリカに希望を与えてる」
母に対して、そこだけはどうしても吐き出したい思いを言語化するのだ。
更に、その「下品であるレスリング」の世界選手権で勝利したマークらから、「偉大なジョン」という喝采を受け、喜色満面のジョンの心には、当然の如く、未だ、「誇りある息子」と認知されない鬱屈(うっくつ)した感情が蟠(わだかま)っている。
だからこそ言うべきか、「彼は名高き鳥類学者であり、作家で、世界的な探検家、博愛主義者」であるという自慢話満載の文面を、セレブが集合するスピーチで、マークに読ませる練習まで怠らないのである。
かくて、屈折的人格を隠し込んだ「ゴールデン・イーグル」が狙うのは、「モラルや価値観を失ったアメリカを羽ばたかせるような偉大なことを成し遂げる」という妄想的観念を具現化すると信じる、ソウル五輪での優勝であり、その目映(まばゆ)い祭典の中枢スポットで、「チームを率いた指導者」としての栄誉の輝きを存分に被欲する時間の恒久性だった。
そのためだけに、余りあるほどの財を投入し、アマレス技の真似事を身体化して見せるのである。
ここまで書いてきて、私は、ふと思う。
この中年男の性格傾向が、映画の中で、特徴的なまでに描き出されている事実の様態を。
以下、その事実の様態を列記してみよう。
「自分は特別な存在である」・ 「見栄を張って着飾る」・ 「思い通りにならないと我慢できない」・「自分が一番でないと気が済まない」・「演説や自慢話を止められない」・「下位にある他者を利用して自分の偉大さを吹聴させる」・「他者からの指摘や批判に極端に弱い」・「優秀な他者の手柄を横取りする」・「自己基準で他者を変えようとする」・「期待が外れると怒り出す」・「同じ話を何度も繰り返す」・「人の思いを理解しない」
他にもあるが、以上の性格傾向の特徴的な様態は、この中年男の形成的人格の芯に張り付いていると思われるものである。
とりわけ、「他者からの指摘や批判に極端に弱い」という特徴的な性格傾向は、フロイト心理学の概念である「自己愛憤怒」(じこあいふんぬ)と呼ぶ。
この「自己愛憤怒」を含めると、以上の性格傾向の全ては、「自己愛性人格障害」の特徴的な症状である。
因みに、「デイヴ・シュルツの殺害事件」(ウィキ)の際の精神科医の証人によると、「強迫観念症的な統合失調症」と証言されているが、陪審の結果、「有罪であるが精神疾患を患っている」という評決が出ている。(但し、ウィキの映画の「あらすじ」では、「統合失調症」と断定されていた)
然るに、私には、映画を観る限り、ジョン・デュポンの症状は「自己愛性パーソナリティ障害」、或いは、その関連疾患として、「妄想性障害」がコネクトしているようにしか見えないのだ。(ついでに書けば、DSM-IIIによって「自己愛性パーソナリティ障害」の概念が定義されたのが1980年だが、しかし当時は、専門家の間でも、現在のように広く浸透し、理解されていなかった事実がある)
しかし、それは、どこまでも私の主観であって、G.ベイトソンが言う、システムの要素は相互に関連し、循環しているので、原因を一つに特定することはできないとする「円環的因果律」の思考を大切にしたいと考えている。
要するに、短絡的に事態の原因を特定すべきでないということである。
以下、その指摘を踏まえて、この映画の最大の謎である「デイヴ・シュルツの殺害事件」について、存分に私の主観を述べていきたい。
なぜ、ジョン・デュポンはデイヴ・シュルツを殺害したのか。
恐らく、この屈折的な責任転嫁の捻(ねじ)れ切った心理の歪みが、ジョンの犯罪の根柢に横臥(おうが)している。
加えて言えば、「家族を救った経済的恩人」である自分に対して、今なお、「チームを率いた指導者」として崇拝する態度を示さないデイブへの不満が、トレーニングウェアを着たジョンの誘い(多分、訓練の誘い)を断られたという些細なことで、怒りの制御を苦手とする病理よって炸裂したと考えられる。
「人の思いを理解しない」という、「自己愛性パーソナリティ障害」の特徴的な症状が、あってはならない犯罪の土壺(どつぼ)で集中的に顕在化してしまったのである。
テラスの椅子で、男は悶々とした時間を過ごしていた。
世界選手権で勝利を収めたマークとジョンが、熱く抱擁するVTRを見入っている物言わぬシーンの挿入こそ、孤独な男の埋め難い空洞感を雄弁に物語っている。
厄介なことに、自らの裏切りが、「疑似父性」をインスパイアしたマークとの関係を破壊してしまったにも拘らず、この男には、その肝心な意識がすっぽり欠落しているのだ。
全てが、デイブの背反行為にあると決めつけてしまっているようなのだ。
だから、「日曜は家族サービスの日だ」と笑みを湛(たた)えて、ジョンの誘いを柔和に断るデイブの反応に対して、「チームを率いた指導者」としての自分への「拒絶の意思」を感じ取ってしまうのである。
まさに、「思い通りにならないと我慢できない」という、「自己愛性パーソナリティ障害」の発現であると言っていい。
もとより、ジョン・デュポンの、極端なまでの独りよがりな性格が招来した犯罪である事実は自明である。
悲しいかな、「自己愛性パーソナリティ障害」の特徴的な症状を抱え込んでいるが故に、他者と対等な人間関係を築くことを困難にしているのである。
「支配⇔服従」=「権力関係」によって、他者を完全支配しないと我慢できない男の悲劇。
だから、孤独に生きる以外にない。
自業自得であると言う他にないが、私には、屈折的自我のルーツである、ジョン・デュポンの養育期に深い関心を抱かざるを得ないのだ。
(2016年4月)
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