<そこだけは他者と共有できない「内なる時間」の絶対性>
1 「不在の女」と「常在の女」の間で浮遊する男の軽走感
「手紙を送ります。君に書いた手紙だからです。“親愛なるクォン。ソウル行きの機内にいる。すぐ会いに行くよ。機体が降下を始め、窓越しにはっきり地上が見える。空の光がとても美しい。たとえ会えなくても、受け入れてくれなくても、来なければと。会えば、分ってもらえると思う。君ほど素晴らしい人は他にいない。今、それが分る。元気で幸せだといい。モリより”」
かくて、2週間の予定でソウルにやって来たモリは、クォンの部屋の近くのゲストハウスを見つけ、そこをクォンを探す拠点にする。
そのゲストハウスは、「北村韓屋村」(ブッチョンハノクマウル)にある韓国伝統家屋を体験できる「ヒュアンゲストハウス」。(このことは、のちに知り合うチ・グアンヒョンとの会話で判然とする)
クォンが好きだったカフェ・「自由が丘」に立ち寄り、そこで元女優のオーナー・ヨンソンと知り合うに至る。
季節は夏。
日本ほど湿度が高くないが、30℃を越える日々が続くソウルの夏は暑い。
ともあれ、モリからの手紙を語学学校で受け取り、それを読み始めたところで、体調が優れないクォンが立ちくらみを覚え、階段に手紙を落としてしまう。
バラバラになったその手紙をクォンはクォンは拾い上げるが、手紙の1枚を拾い忘れてしまうのだ。
以下、ページの打っていない残りの手紙の内容を、順番に沿って読み上げることができない状況下で提示された映像である。
「まっすぐ帰らず、カフェに寄った。元気を出さないと」
混乱する心理の中で、クォンは手紙を読んでいく。
愛犬を救ったお礼に、モリはヨンソンに夕食を奢られる。
舞台・映画のプロデューサーの恋人(チ・グアンヒョン)を持つヨンソンと、急速に接近していくモリ。
左からモリ、米国人、サンウォン |
米国帰りの男・サンウォン(のちに、ゲストハウスの女主人の親戚であることが分る)とゲストハウスで知り合ったそのモリは、韓国の人気エリアである「経理団」(キョンリダン)に行く途中、サンウォンの友人である韓国語を流暢に話す米国人と、初対面で意気投合する仲になる。
「ドアのメモは残っていた。留守のままなのだ。この方法なら、彼女が戻ればすぐ分る。もう、住んでさえいないかも知れないが」(モリのモノローグ)
次のシーンは、ヨンソンの恋人・チ・グアンヒョンと「自由が丘」で知り合うが、「働けよ」と言われて腹を立て、ケーキに手を付けることなくカフェを出ていくモリのエピソード。
左からヨンソン、チ・グアンヒョン、モリ |
既にヨンソンとのエピソードから、明らかに時系列が前後していることが分明になっている。
そして、ゲストハウスの女主人から、クォンとの関係を聞かれたモリは、「韓国にいた頃、結婚したいと思っていた」と答えたシーンの後、モリが2年前に住んでいたこと、語学学校で講師をしていたこと、そこで韓国人と喧嘩をしたこと、更に、クォンが語学学校の同僚だった事実も判然とする。
「疲れていたが、気力を振り絞り、彼女の部屋へ。メモはまだあった。何もする気になれず、ただ消えてしまいたかった」(モリのモノローグ)
いくら探してもクォンと会えないストレスがピークに達し、サンウォンと飲み明かしてゲストハウスに戻ったとき、モリはヨンソンからのメモを発見する。
「話をしましょう。一日中、あなたのことを考えてた。今夜、10時半からカフェで待ってます。友人以上として、私と会いたいと思ったら来てください」
そして、ヨンソンと関係を持つモリ。
「他には何もいらない。欲しいのはあなただけ」
恋人になって欲しいと頼むモリへのヨンソンの反応である。
しかし、滞在日数が限られているのに、ヨンソンとの関係を後悔するモリがいる。
自分が韓国に来ていることすらも知られず、殆ど諦め状態のモリ。
「きちんとしよう。すべて正直に話すんだ。傷つけずに済む。また彼女と寝た」(モリのモノローグ)
言うまでもなく、ここで言う「彼女」とはヨンソンのことで、そのヨンソンを傷つけずに別れたいという思いが、モリの心を支配しているのだろう。
以下、手紙を読み終わったクォンのモノローグ。
「手紙の消印は、1週間前のものだった」
この直後の映像は、「智異山」(チリさん/南部にある風光明媚な韓国最大の国立公園)から戻って来たと言うクォンが、カフェの前でヨンソンと出会い、再会の挨拶をするシーン。
そのクォンが、モリのゲストハウスを訪ねて来た。
そして、ソウル滞在の最終日。
モリとクォン |
ゲストハウスに帰宅したモリは、遂に、クォンとの感激の再会を果たす。
「翌日、僕たちは日本に発った。子供は2人、娘と息子に恵まれた」
幸福感に満ちたカットで閉じていくシーンの後、ゲストハウスの中庭のテーブルで午睡(ごすい)していたモリは、夢から醒めた。
クォンとの感激の再会はモリの夢だったのか。
ラストシーン。
酩酊状態で夜を過ごしたヨンソンが、モリのゲストハウスの部屋から起き上がって来て、タバコを吸うシーン。
このショットは、ヨンソンの愛犬を救ったお礼に、モリが夕食を奢られたエピソードを継いでいくシーンである。
すっかり泥酔してしまったヨンソンを自分の部屋に泊め、モリ自身は遠慮して、中庭のテーブルで仮眠していたのだろう。
当然、ヨンソンとの男女関係を持つ以前の滞在初期のエピソードである。
このエピソードこそ、バラバラになって拾い忘れてしまった手紙の1枚だったと見ていい。
モリとヨンソン |
このラストから、「不在の女」との恋を断念した男が、「常在の女」との恋を開いていくイメージが浮かぶが、一切は鑑賞者に委ねるということか。
とりあえず、この映画のサブタイトルを、「『不在の女』と『常在の女』の間で浮遊する男の軽走感」ということにしておこう。
2 そこだけは他者と共有できない「内なる時間」の絶対性
人間が意識し、認識し、その連続性を確認する際に最も基本的な形式 ―― それが「時間」である。
「時間」なしに人間の思考は不可能である。
人間の思考の不可能性は、〈生〉の不可能性を意味する。
あまりに当然過ぎることだが、「時間」の連続性が保証するのは、どこまでも個人の〈生〉の様態であって、それ以外ではない。
個人の〈生〉の様態が展開する「時間」の連続性は、他者と共有できるものではないのだ。
だからこそ、個人の〈生〉が展開する「時間」の連続性は、その個人にとって、限りなく有価値なものとなる。
そこにこそ、人間を人間たらしめる根源的意味がある。
―― とても面白いこの映画では、時系列が前後している手品を縦横に駆使し、「映画的時間」を自在に動かしていく。
現実と空想の境界を曖昧にし、最後まで、容易に解き得る明白な種明かしをしないのだ。
ジグソーパズルのゲームではないからである。
だから、この「映画的時間」の世界では、自在に動かされている者が、その自在性を自家薬籠中(じかやくろうちゅう)のもののように反転させ、動いていく。
左からモリ、サンウォン、ヨンソン |
クォンが読む手紙の中枢人物・モリの人格の総体が、「映画的時間」の世界で自在に駆動していくのだ。
例えば、モリの手紙を読むクォンの想像力の中で、ヨンソンとの関係に触れた箇所では、恐らく、クォンを傷つけないように簡潔に言及したに過ぎないにも拘らず、モリとヨンソンの濃密な時間が自在に駆動し、愛情表現の交歓を紡ぎ出してしまう。
手紙を読むクォンの「時間」の渦中では、クォンの〈生〉だけが自己運動を繋いでいて、もう、その「時間」の中枢地点に侵入し得る何ものもない。
個人の〈生〉の様態が展開する「時間」の連続性が、他者と共有できるものではないからである。
手紙を読むクォンの〈生〉の自己運動によって、自在に動かされているモリもまた、彼の〈生〉の〈現在性〉の中で、モノローグを含む手紙の世界を飛び出し、ヨンソンとの関係を繋ぎ、愛情交歓の「時間」を紡ぎ出していく。
モリの〈生〉の自己運動が自在に動いていくのだ。
彼は語る。
「時間に実体はないんだ。人間の脳みそが、時間は流れているという概念を作った。過去から現在、未来へとね。だけど僕たち人類は、必ずしもその流れに従って、人生を体験する必要はないと思うんだ。とは言え、人間はこの時間の概念から逃れられない。なぜだか分らないけど、脳がそう進化したからだ」
男女関係ができる前のヨンソンへの熱弁である。
もう、そこには、クォンの〈生〉の自己運動の縛りから解き放たれていて、相応に「自己主張する日本人」ではあるが、「時間」の連続性の中で、ごく「普通」の範疇を超えない日本人青年の〈生〉が自在に駆動していることが分るだろう。
「人間はこの時間の概念から逃れられない。なぜだか分らないけど、脳がそう進化したからだ」
このモリの言葉は、とても興味深い。
「時計」を使って「時刻」を知ることが世界共通の概念になったのは、文明が時間の概念を作ったからである。
だから、「人間はこの時間の概念から逃れられない」のである。
モリは、そう言っているのだ。
然るに、「時間」の概念がない人々が、この世に存在する。
アマゾンの部族の一つである「アモンダワ族」は、文明社会と接触を持たないことで独自の文化を保持し、「昼」と「夜」、「雨期」と「乾期」の区別があるだけで、「時間」や「日付」を表現する言語が存在しないのである。
「時間」の概念の必要を不可避とする生活が、「アモンダワ族」とは無縁であるからだ。
モリには、それが分っているからこそ、ゲストハウスの女主人に、以下のように語ったのである。
「花はいつまで見ていても飽きませんよ。5分ぐらいじっと見つめていると、花と一つになったように感じて、他のことは忘れてしまう。自分が何者で、何をしてきたのか。世界とは何であるか。時間すら消えてしまいます。そんなふうに花と繋がっていると、心の底から安らかになれるんです。人生には、怖れるものなどないと思える。頭で理解するんじゃなく、身をもって体験するんです。怖れから解き放たれた経験は、日々の暮らしの中で、気持ちを楽にしてくれます」
この映画の中で、私が最も印象に残った台詞である。
閑話休題。
そこだけは他者と共有できない「内なる時間」の絶対性 ―― このような観念が息づいているからだ。
ごく「普通」の範疇を超えない日本人青年・モリを演じた加瀬亮。
素晴らしかった。
(2016年2月)
「連作小説」まで読んで下さいまして、恐縮いたします。
「完全版」は公開できませんが、これは、日々、喪失感の恐怖に襲われる、事故後の人生を総括する意図をもって書き上げました。
「連作小説」を書き上げた後、心の空洞感を惹起させないためだけに、「人生論的映画評論」を書き始め、現在に至っていますが、読まれることを想定せずに、思考し、「書きたいことを書く」という思いで時間を繋いできました。
思考し、「書きたいことを書く」ことが集中力を高めるので、中枢性疼痛を緩和する効果を生み出すのです。
「書きたいことを書く」ことは、私にとって、最高の抗うつ剤なのです。
ただ、映画評論を書き終える度に、高い確率で心の空洞感が生まれてしまうので、その間隙(かんげき)を埋めるために、ほとんど強迫的に、次の映画評論に没我する作業が強いられ、自己投入していきます。
疲弊しますが、もう慣れてしまっているから、何とか耐えられるのでしょう。
大げさに言えば、この行為は、弱い人間である私にとって、難儀でありながらも、相応の快楽の報酬が得られる、「生きる」という行為の、ほぼ中枢に近いパーツであると思い込んでいます。
だから、〈生〉と〈死〉のギリギリの際(きわ)で、「不完全の美」・「不足の美」という、自らの芸術表現を突き詰めていったように思える、「完全無欠」・「聖人君子」とは無縁な利休に惹かれるのでしょうか。
余計なことを書き過ぎて、申し訳ありません。
―― 今回、「グレート・ブルー 国際版」を読み直しました。
「明らかに、『動物愛護』の対象動物として、イルカという万人受けしやすい動物が、『聖なるもの』として特定的に選択され、その『聖なるもの』と睦み合う男が『聖なる使者』として立ち上げられるのだ」という一文を読むと、些か政治的偏見があるかも知れませんが、基本的に自分の批評に特段の不満を持っていません。
「好み」や「評価」が分れるのは、ごく普通の健全な現象だと思っていますから、仕方がないのでしょう。
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