<「囚われ感」の強度が増すたびに、限りなく演技性を帯びていく女の二重拘束状況>
1 退行的に「白鳥の湖」を踊る女と、感情コントロールの限界の際(きわ)で妻を愛する男の物語
インディーズ・ムービーの一つの到達点を示す、殆ど満点の映画。
意思疎通が上手くいかない夫婦の思いが沁みるように伝わってきて、言葉を失うほど感動した。
夫婦を演じたピーター・フォークとジーナ・ローランズのプロの演技力の凄みが圧巻だった。
―― 以下、梗概と批評。
水道管の破裂事故 |
水道工事など土木作業の現場監督・ニックの妻・メイベルの異変が目立って顕在化したのは、水道管の破裂事故で夫のニックが徹夜作業を強いられたことで、「女房と約束したんだ。今夜は2人きりで楽しもう」(ニックの言葉)という約束を反故にせざるを得なかった、ほんの些細な出来事が契機になっていた。
「彼女は皿を割り、泣き叫ぶ。メイベルは情緒不安だ」と現場仲間。
「女房は変わってるが、イカれてるわけじゃない。理解に苦しむこともあるが、まともな女だ。とにかく俺に惚れてる」
そう言いながら、ニックはメイベルに電話する。
「埋め合わせはするよ。明日は君のそばにいる」
メイベル |
この電話を受け、了解するメイベルだが、彼女のフラストレーションは解消できなかった。
メイベルが夜の街に出て、バーで見ず知らずの男に声をかけ、酩酊状態の中で、その男と一晩限りの関係を結んだのは、その直後だった。
覚醒したメイベルが、事務所を兼務する自宅での交接の相手がニックではない事実に苛立ち、その男を追放する始末だった。
帰宅したニックを暖かく迎えるメイベルに、安堵するニック。
ところが、ニックが現場の仲間を随行して来たことで、「2人きり」になれない状況に苛立ちを隠しながら、スパゲティの食事を振る舞い、このパーティの演出で彼女なりに必死にもてなそうと努力する。
考えてみるに、徹夜作業で疲労し切っているにも拘らず、仲間を随行して帰宅したニックの行為には、メイベルの疑心暗鬼を払拭する心理が垣間見えるが、このような振る舞いが裏目に出てしまう辺りが、この夫婦の意志疎通の拙さを露呈していると言えるだろうか。
そんな予想だにしない事態に直面し、感情コントロールが困難なメイベルには、食事での柔和な団欒を構築することは至難の業(わざ)だった。
一切は、愛するニックのためであると信じる彼女の行為であったが、疲労し切っている作業員たちに執拗に絡むことで、ニックの苛立ちはピークアウトに達する。
静まりかえる食事の場が安寧をもたらすことなく、澱んだ空気を読んだ作業員たちは一斉に帰ってしまうのである。
ニック |
「彼らは誘われていると勘違いしたのさ・・・君は病気なんだ」
「私は悪くない?なぜなの?正直に言って欲しいの。どこを直せばいい?言われた通りにするわ。あなた好みになる」
この短い会話で、この一件は収束する。
それでもなお、この一件が収束しても、メイベルの行動の異常性は収束しない。
子供たちを迎えに行くと言って、普段着で白昼の街路に出て、訝(いぶか)る通行人に時間を聞くが、全く相手にされない始末。
そればかりではない。
妻が病気のため、自分の子供を預けに来たジェンセンという人物の前で、子供たちとの遊びの延長上に、「白鳥の湖」を踊るのだ。
「白鳥の湖」を踊るメイベル |
「あなたの振る舞いは、少し変だ」
全裸で走り回っている孫娘の扮装遊びを見て、呆れ、怒り捲(まく)るジェンセン。
たまたま、自分の母親を随伴して帰宅してきたニックが、メイベルの行動の異常性に対して、思わず頬をはたいてしまった。
文句を言うジェンセンにも暴力を振ったことで、ニックと喧嘩になる始末。
ニックの感情コントロールの限界が露呈されたのである。
「あなたは自分自身で勝手に恥をかいたのよ。許してあげる。初めてあなたに殴られたわ。でも、傷ついたのは、あなたの心ね。長い時間をかけて、私たちはぴったりと結ばれてるの」
このメイベルの言葉には、一切が夫・ニックの常軌を逸した行動にあるという決めつけが支配している。
当然、ニックは我慢できない。
それでも、必死に我慢するニックに、悪罵を投げつけるメイベル。
「あなたは無鉄砲で、可哀想な坊やね」
ニックの我慢の限界が切れそうなときに、この家にやって来たのは、主治医の精神科医だった。
「子供たちのことを考えて、この女を追い出すのよ!この女は壊れてる。正気じゃないわ!」
夜の彷徨 |
見知らぬ男を連れ込んだあの夜の一件をも嘲罵(ちょうば)する、ニックの母親の言葉である。
ここで、この一件をも含むメイベルの異常な行動について、ニックが自分の母親に相談していた事実が判然とする。
その事実を知っていても、ニックは情動の身体的表出を抑え、彼なりにメイベルへの適正な対応を考えていたのである。
「話を聞け!俺の気持ちは分ってるだろ?」
だから、こんな言辞に振れるのだ。
しかし、理性的能力を劣化させた今のメイベルには、ニックの思いが伝わらない。
メイベルがパニック障害を起こしたのは、このときだった。
「愛してるよ。君のためなら死ねる。傷つけたなら謝るよ。心から愛してるんだ。正気に戻れ!目を覚ませ!」
完全に自我機能を失ったメイベルを抱擁し、自分の心情を表出するニック。
強制入院されるメイベル |
かくて、件の医師によって、メイベルは強制入院(日本の「措置入院」と同義)されるに至る。
愛する妻を失ったストレスが、ニックの心の重荷になっていくのは必至だった。
このニックの心情が、工事現場で炸裂する。
メキシコ人に八つ当たりしたことで、そのメキシコ人が崖下に転落してしまうのだ。
ここで我に返ったニックは、 慌てて仲間と共に、ロープ伝いに崖下に降り、メキシコ人を救助する。
ニックの心の重荷を描くこのシーンは素晴らしい。
ニックはその心の重荷を少しでも軽減するために、3人の子供たちを早退させ、仲間の一人に手伝ってもらいながら、海に連れて行く。
「ママの事はすまん。悪かったな」
「ママの事はすまん。悪かったな」
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本人ばかりでなく、長男と二男にビールを飲ませながら、全く盛り上がらない雰囲気の中で、長男に謝るニック。
半年後。
メイベルが退院する日である。
仲間や主治医などを自宅に集めて、メイベルを迎える「びっくりパーティー」を開こうとするニック。
このサプライズ企画がメイベルを喜ばせようとするニックの思いだったが、その企画に不満を持つ母や友人の批判を受け付けないニックの「無鉄砲さ」(メイベルの言葉)だけが、相互に知り合わない連中たちのスポットの渦中で浮いていた。
結局、母の批判を受け入れ、大勢集まった客人たちを帰宅させるに至るのだ。
まもなく、親戚一同に歓迎されながら、緊張した面持ちで自宅に戻って来たメイベルだが、不安感を隠し切れなかった。
子供と再会し、嗚咽するメイベル。
そのメイベルを不安げに身守るニック。
「家族っていいわね」とメイベル。
映像で初めて出て来る父親と熱い抱擁を交わした後、ニックと二人だけになる。
「俺がついてる。君は何をしてもいいんだ。自分らしく振る舞え。君の家だ。他の連中なんか気にするな!本当の自分を出せ!」
怒鳴りながらハッパをかけるニックの言辞に、嗚咽するばかりのメイベル。
そんなメイベルが、キッチンでお茶の用意をしている妹の所に行き、突然、テンションが上がり、「どうしてそんなに太ったの。痩身教室に行って、痩せなきゃダメよ。すごいお尻だわ。本当にびっくりよ」などと言い出すのだ。
「皆、帰ってくれる。ニックと寝たいの」
これも、メイベルの言葉。
親戚一堂が会した食事会が開かれようとするにも拘らず、TPOをわきまえないメイベルの言動は、入院前と全く変化していない彼女の現実を露呈してしまうのである。
短気なニックの情動が炸裂してしまうのも必至だった。
「普通の会話をしろ!」
「私にできるわけないわ。病院では毎朝、注射された。それから、トイレに連れて行かれて、それが済むと、ワーク・セラピーでゲームや編み物をするの。その後はショック治療よ。頭の中に電流を通されるの・・・」
普通の会話ができないメイベルは、病院で受けた電気けいれん療法(電気ショック治療/ECT)の辛さを告白する。
その直後、メイベルは「白鳥の湖」を踊り、洗面台に行き、自傷行為に及ぶのだ。
メイベルの自傷行為を止めるニックの手も傷つくが、子供たちの喚声の中で、なお「白鳥の湖」を舞っているメイベルには、幼児期、或いは、少女期の世界にまで退行するしかないようだった。
そのメイベルの頬を張り、「殺してやる」と叫ぶニック。
母を想う子供たちは、父から2階に押し込められても、母が横たわる1階に下りて、愛する母の懐(ふところ)に潜り込んでいく。
ニックに笑みが復元する。
「驚かしてごめんね。とても疲れていたの」
メイベルの優しい言葉に誘(いざな)われ、2階に戻っていく子供たち。
子供たちの不安を払拭するメイベルとニック。
メイベルの傷を洗浄したニックの優しさが、メイベルの不安をも払拭する。
夫婦で後片付けをして、水入らずの時間を持ち、穏やかな笑みが復元するのだ。
2 「囚われ感」の強度が増すたびに、限りなく演技性を帯びていく女の二重拘束状況
現在では、幅広い精神疾患に対する治療法の一つになっているが、左右のこめかみに電極を当て、電気を流すという電気けいれん療法がメイベルの治療に使用されたことから考えると、病院サイドはメイベルの疾患を統合失調症と判断したと推定される。
確かに、メイベルには思考内容の障害とも言えるような、妄想的な言動などが多々見られる。
「不安障害」(かつて「神経症」呼称)のようにストレス耐性が弱い印象も拭えず、周囲の変化に過敏に反応してしまうことで、不要な思い込みが被害妄想的な「妄想気分」を生んでしまう。
「私に大事なものは5つある。1番目は愛。2番目は友情。3番目は・・・夫婦の時間よ。4番目は母であること。あなたの妻であること。この5つが私の大事なものよ」
精神病院に入院する直前に、混乱しつつも、自分の心を落ち着かせようと、ゆっくりと言葉を選びながら、メイベルが吐露した言葉である。
彼女には、「大事なもの」の中に「友情」を含ませつつも、ニックを中枢とする家族だけが全てなのだ。
だから、思考が狭隘なゾーンで動き回りやすい。
この狭隘な思考の地平で、不特定他者との意思疎通の脆弱性が「疎通性の障害」を顕在化させる。
彼女の不特定他者との意思疎通の脆弱性は、融通無碍(ゆうずうむげ)に機能し得ない、世俗のエリアでの非常識な行動として露出し、循環してしまうのである。
それが、特定他者との「友情」を育むことの致命的な障害になっている。
関係性の中での過度の不安感・緊張感が、情緒不安定な自我を常態化させているのだ。
彼女の情緒不安定な自我は、注意・集中力の瑕疵や、「思考の彷徨 (さまよ)い」を生み出していく。
このような「思考の彷徨い」を、認知科学で「マインドワンダリング」と呼んでいる。
「マインドワンダリング」という注意散漫状態が発現すると、臨機応変な対処能力と問題解決能力の困難さを弥増(いやま)してしまうのである。
思うに、研究社の新英和中辞典では、原題の「A Woman Under the Influence」の意味が「酒に酔っている女」という風に説明されていたが、私は「囚われている女」というイメージで理解している。
この「囚われている女」というイメージの「囚われ感」こそが、本作のキーワードであると私は考えている。
では、メイベルは、一体、何に「囚われている」のか。
それは過去の記憶であり、そこに累加されたネガティブな情報群である。
そして、そのネガティブな情報群が延長された〈現在性〉である。
その〈現在性〉は、自らを囲繞する人間関係の〈状況性〉であると言っていい。
自らを囲繞する人間関係に調和していこうとする配慮が強いられ、それを常に意識することで、関係の〈状況性〉への「囚われ感」の強度が増すたびに、彼女の日常性は限りなく演技性を帯びていく。
「私を見た時にどう思う?“バカみたい”とか、“凶暴”だとか・・・」
そんなことを、本気で子供たちに聞くのだ。
メイベル自身、そのことを常に意識しているからである。
「自分らしく振る舞え。本当の自分を出せ!」
ニックに怒鳴られ、ハッパをかけられたメイベルは、言われるままに、突然、テンション上げるや、今度は、「普通の会話をしろ!」と怒鳴られる始末。
「私にできるわけないわ」
このメイベルの反応に、私は同情を禁じ得ない。
彼女の心理は、アメリカの精神医学者・グレゴリー・ベイトソンが「精神の生態学」(思索社)の中で提示した、「ダブルバインド」(二重拘束)状況によって「囚われている」と断定できる。
即ち、矛盾するメッセージを受けることで自我が混乱し、より一層、情緒不安定な心理状態を累加させてしまうのである。
周囲の者は、そんなメイベルに対して過剰に気配りするから、益々、彼女の心理を覆う「囚われ感」は増幅していく。
その時、彼女はどうするか。
パニックを起こし、ディストレス状態の極点の渦中で不安が身体化する、「固着点」に退行していくのである。
「白鳥の湖」の舞いこそが、彼女の「囚われ感」からの解放の典型的な身体表現だった。
「白鳥の湖」の舞いが、彼女の「固着点」への退行現象なのである。
幼児的な思考状態に退行することで、自我を再適応させるのだ。
それが、彼女の防衛機制の方略であった。
子供たちと無邪気に遊ぶメイベルの心の闇のルーツの風景は、私にも全く分らない。
この分らなさの中で、統合失調症の某患者の手記の一部を紹介させて頂く。
「筆者は、他人から批判されたり怒られることに弱いというか、すぐに凹んでしまったりします。打たれ弱くて、精神的に虚弱な感じです。また、他人に怒られることを恐れて、そもそもその人のいるところ(住んでいるところとか)に近づけなかったり、その人と口がきけなかったりします。小心者です」(ブログ・「患者が書いた統合失調症の真実」)
「他人に怒られること」を恐れる思いは、多くの統合失調症の患者に共通するものだが、だからと言って、メイベルの「病理性」が統合失調症に起因すると言い切れないのである。
統合失調症の原因についての発病メカニズムが不明である現在、メイベルの心身の状態を、統合失調症という疾病概念によって把握することが正解であるのか、私に分りようがないのだ。
従って、前述した「ダブルバインド=統合失調症の原因」という仮説もまた、不分明であることに変わりがない。
ただ、これだけは言える。
米国の心理学者・ダニエル・ゴールマンが提唱した「心の知能指数」、即ち、EQ(感情察知・感情コントロール)理論で言えば、メイベルのような気分の波が激しい女性と円滑な関係を繋いでいくには、このEQの高い能力が求められるが故に、声高くしかりつけるニックの態度はマイナス効果にしかならないだろう。
何より、メイベルに対して、ニックが精一杯、彼なりに配慮しつつも、彼の言語的・非言語的コミュニケーション能力の限界を超える現実を認めざるを得ないところが、観ていて最も辛いものだった。
同様に、ダニエル・ゴールマンは、SQという重要な概念を提唱している。
「社会的知能」と言われるものである。
複雑な人間関係を巧みに処理する社会的適応能力、他者との円滑なコミュニケーション能力などを意味する。
メイベルには、このEQ・SQの能力の双方が欠如しているが故に厄介なのである。
だからこそ、ストレスに極端に弱いメイベルを包括的に受容する対応こそが切に求められる。
「見捨てられ不安」をも内包する彼女の「5つの大事なもの」を、絶対に壊してはならないのだ。
ニックにとって困難なテーマだが、誰よりも愛するメイベルを最も理解できている彼以外に、メイベルを決定的に壊さずに、継続的に守っていく者など存在しない。
性格を変えることは難しいが、行動を変えていくことは充分に可能である。
柔和に軟着するイメージを示唆するラストシーンを観る限り、甘いかも知れないが、ニックの行動変容の可能性には相応の余地が残されていると考えたい。
メイベルは壊れていないのだ。
「求めても得られない寄る辺なき関係状況」である「孤独」の、その冥闇(めいあん)の深い底にまで堕ち切っていないからである。
(2016年1月)
「こわれゆく女」は忘れられない作品です。
返信削除まず、タイトルが好きです。原題は英語としてはカッコいいんですが、そのまま訳す事も出来なかったのでしょう。
意味的には、別に壊れていっている訳でもないし、そこを描いている訳でもないのですが、「こわれゆく女」は字面が良いですね。日本語の見た目としてなんか妙におさまりの良さを感じます。
大学時代に「トコずれな女たち」というのを作った事がありますが、これも字面から考えました。
「囚われている女」とは見事に的を得ているように思います。
「こわれゆく女」をはじめて見たのは、大学3年生の時、大学受験で上京した帰り道でした。
日芸を一緒に受けて、一緒に落ちてしまった友人に、絶賛していた記憶があります。
その後、カサヴェテスの作品はほとんど見ましたが、圧倒されたのはこの作品だけでした。
自主上映会でも上映したりしたので、おそらく5回くらいは見ています。
私はなぜか分かりませんが、夫婦の物語や大人の恋愛の話しに昔から関心を持つようです。
中学3年の時は、休み時間に鎌田敏夫の金妻シリーズの小説を読んでいて、良く先生に「面白いの?」と言われていました。
大学の時に、当時の映画を専攻する学生達が必ず絶賛していた岩井俊二の映画よりも、成瀬の「浮雲」に言葉をなくしていたような感じです。
私の両親も良く喧嘩をしていました。親の喧嘩は言葉にならないほど、嫌なものですね。母親に駆け寄る子供達のシーンが思い出されます。
そして何と言っても、ラストシーンでしょうか。いろいろあったけど、最後は言葉がなくても、幸せな時間が流れ始めるっていうか、うまく言えませんが、あんな終わり方は、最高としかいいようがありません。
「それぞれに働きながらお金を貯めて、仲間が集まって自分たちの作りたい映画を作る」
今となってはよくある話しですが、こんな内容の映画を仲間達で作ってしまったところが、当時の私には理解不能なほどのすごさでした。
映画表現の有り様まで考えさせられる、本物の名画だと思います。
コメントをありがとうございます。
削除私も夫婦の心の葛藤を描いた作品が大好きです。まさにカサヴェテスのこの作品は一級品と言えると思います。