<「漲る殺気」にまで下降できない青春の苛立ちと、その〈生〉の鼓動の「現在性」>
1 「俺は、あの親父の息子ぞ!」
私が観た青山真治監督の作品の中でベスト。
田中裕子と光石研というプロの俳優の凄み満点の演技に喰われることなく、思春期後期の揺動感や情動の炸裂を表現し切った、主役の菅田将暉は出色の出来栄えだった。
全ての描写に無駄がなく、100分余でまとめあげた、骨のある邦画の構築的映像に深く感動した。
―― 以下、物語の詳細な梗概。
「俺が17のとき、親父が死んだ。昭和63年だった。仁子さんには、左腕の手首から先がなかった。戦争中、空襲に遭い、焼けて崩れた破片の下敷きになったんだ。両親とも空襲で死んでしまったので、仁子さんは川辺の魚屋に住み込んだ。川辺は海岸や駅の傍とは違って、戦後の開発から取り残されていた。しばらくの間、貧乏を凌ぐつもりで集まって来た人たちが、そのまま居着いてしまった、という土地になっていた。仁子さんは、そんな居着いてしまった男の一人、10歳年下の篠垣円(まどか)と夏祭りで知り合って、結婚した。年のいった手のない女を嫁にしようという男が現れるなんて、思ってもみなかった。しかし結婚してから、親父が女に関して色々あるということ、そしてセックスのときに殴りつけることをした。俺が生れて1年も経つと、また殴り始めたので、仁子さんは魚屋で、一人暮らしを始めた」
山口県下関市にある、「川辺」という土地での半年間の出来事。
「川辺」の土地を歩く遠馬 |
今や、成人となった本作の主人公・篠垣遠馬(とおま)が、17歳の夏休みの前の誕生日間近に、文学に寄り添ったようなこのナレーションから開かれていく物語は、貧乏を凌ぐつもりで集合した者たちが土着し、「川辺」という、沈降的に凝結する閉鎖系のコミュニティで暴れる、厄介なパターナリズムが曝す血縁の因果への、そこだけはどうしても終わらない「戦後」の、絡みつく〈状況性〉からの解放の可能性を「関係性」の反転的イメージのうちに包括し、その裸形でラジカルな風景を炙り出していく。
「セックスしよる間は思い寄らんけど、親父と俺、やっぱ、同じなんやなぁ。とにかくやるんが、好きなだけなんやなぁち」
「まあ君は、殴ったりせんよ」
「殴ってから気がついても、遅いやろが」
これは、恋人の千種(ちぐさ)と、神社の神輿倉(みこしぐら)でセックスした時の二人の会話。
父の愛人である琴子との三人で暮らす遠馬は、母が話したように、女なしに生きられず、その女たちに、「セックスのときに殴りつける」ような暴力的な異常性欲の父の血縁を呪いつつ、その因果を断ち切れない運命を怖れているのだ。
「なんで別れんの?親父が怖いけ?」
「うちの体がすごくええんって。殴ったら、もっとようなるんて」
左目の周りに痣(あざ)を作っている琴子との、この短い会話のうちに凝縮されている遠馬の感情は、その血縁を断ち切るために、遠馬の下に子供を儲けなかったと吐露する母の恐れと同質のものである。
殴る行為を否定する千種と、殴られても受容する琴子の「間」で呼吸を繋ぐ遠馬が、そこにいる。
遠馬にとって、夜の店で働く琴子への、セックス依存症(脳内から快感物質が放出される性的嗜癖症)とも思しき父の常軌を逸した振舞いは、狂気の沙汰でしかなかった。
以下、そのような暴力的な異常性欲を嫌って、魚を器用に捌(さば)くために特殊な形態をした義手の左手を駆使し、「川辺」の土地の、川一本隔てた魚屋で一人暮らしをする母・仁子と、遠馬との会話。
「なんで、ここでウナギ釣るんやろね」
「母さんが魚を捌いたあとの骨やら皮やらを川に捨てるけぇ、そこにウナギが集まるんよ」
「そうなん?」
「俺が父さんのウナギ釣るの付き合うんは、こなら3人、一緒におられるけん」
まさに、母・仁子が魚を捌いたあとの骨や皮を捨てた生物の残滓をウナギが喰い、風呂場から遠馬の精液や、下水が流れ込む川に蝟集(いしゅう)するウナギを、父・円が釣って喰うという関係の構造こそ、適切な距離感を保持し得ずに、「川辺」の土地で絡み合って生きる「共喰い」のイメージを濃密に想起させるのである。
遠馬と琴子 |
それは唐突だった。
琴子が妊娠し、それを告げられた遠馬は、父との激しいセックスを覗き見していたその生々しい記憶が惹起したのか、思春期の身体が揺動し、興奮してしまうのだ。
その直後の映像は、いつもの神社で千種を押し倒し、抵抗する彼女の首を絞めてしまう17歳の高校生の、抑制の効かない身体が置き去りにされていた。
コンドームを装着せずにセックスに及ぶ行為に、千種が拒否反応したのである。
父の血縁の因果を怖れる遠馬自身が、まさに今、暴力的な異常性欲を延長させる父の身持ちの悪さをなぞってしまうのである。
「なんねん、さっきから。恐ろしげな目してから」
「なん?」
「同じ目、しちょるち言いよそ。もうちょい、こっちに似せて産んじょきゃ良かったけど、だけど手遅れやね。あんだけ、あっちこっち出入りしよるすに、結局、まともに育ったんは、あんた一人よ。あの男の子供を産める女、ウチぐらいなもんにゃろ、もう」
「もう一人産めたはずなのに」
「産んじょったら、あの男の子供になっちょるところやね。その前に、ひっ掻き出したけ、うちの子供になったそ」
凄い会話である。
祭りが近付いてきた。
千種との関係を噂で知った母・仁子は、遠馬が千種に暴力的な性的振舞いをした事実を見抜き、益々、円との「呪われた血」を感受し、強く戒める。
「あんた、死んでくれへん!」とさえ罵られた千種との性的関係が閉ざされた遠馬にとって、今や、そのストレスの捌け口を、他の特定的異性との関係で埋めねばならないほどに、父との血縁的近接感を知らしめるのだ。
「噂が町全体を作っている。 その噂のネットワークが、まさに遠馬を閉ざしている、 遠馬を監禁している場所ということ」(『共喰い』青山真治監督インタビュー - 一個人)
青山真治監督の言葉である。
確かに今、町全体を張り巡らしている噂のネットワークが、遠馬の思春期自我を覆いつつも、出口を求めて氾濫する、17歳の情動を監禁するクリティカルポイント(限界点)を迎えつつあった。
琴子との物理的・心理的な最近接によって、毎日、精液を風呂場から川に流し込む遠馬が、思春期後期の情動氾濫に弄(もてあそ)ばれている。
その琴子から円を捨て、家出する覚悟を聞いたのは、そんな時だった。
「今まで散々やられてきたけ、最後くらいは。何もされんちに行ってしまいたいんよ」
妊娠した琴子の代わりに、円が通う「アパートの女」の所に行って、コンドームなしで下半身の処理をする遠馬。
「川辺」の土地が蘇生する夏祭りの日。
ヨリを戻しに来たのである。
「ウチは、会いたかったんやけ」
「お前、俺になにされたか、覚えちょろうが」
「今度やったら、殺す。それでええやろ」
「ええこと、あるがじゃ。俺、絶対またするぞ。俺は、あの親父の息子ぞ!」
そんな強がりを言って、千種を追い返す遠馬が、今、「川辺」の土地で、「青春前期」の呼吸を繋いでいる。
2 「俺は卑怯なんじゃ。俺は自分でする代わりに、父親と母親を見殺しにするんじゃ」
驟雨の日の夏祭りは湿気ばかりが土地を覆い、その焼けつくような暑さが、そこに住む者の臭気に張り付き、〈生〉の鼓動を緩慢にするが、それは、いつもの手慣れた風景の中に溶融しているだけなのだろう。
琴子が家を出て行った。
「わしの子供を持ち逃げしよる」
血相変えて、琴子を探しに行く円。
何もできず、家の中で寝転んでいる遠馬。
自縄自縛に陥っているのだ。
覚悟を決め、自力で決断し、行動する琴子の芯の強さに羨望の念すら覚える遠馬にとって、同時にそれは、「川辺」という狭隘な閉鎖系のコミュニティで、まるで監禁状態に捕捉されたような日々を繋ぐ自分への怒りでもあった。
しかし、遠馬のその怒りが、まもなく父に向って放たれる。
あろうことか、琴子を失った円が、たまたま出会った息子に、千種との間で性的関係があった事実を、嬉々として吐露する現実を目の当たりにして、遠馬の怒りは今、積年の屈折した感情を乗せて炸裂する。
父の頬に投石した遠馬は、その足で、千種の待つ神社に駆け走って行く。
「ウチ、待っちょるって言うたやろ。子供たち、止めてくれようとしたんやけど、こんな中に入れられて、内側締められて、ダメやった。罰があたったんかね」
腰を痛めて、神輿倉の畳みの上に横になっている千種の言葉は、あまりに重い。
「俺が来とったら、なんもなかった」
「あんたのせいやない」
「自分のせいやない。俺自身がやったんじゃ。じゃけ、俺が殺す」
そう言って、優しく千種を起こし、抱き締める遠馬。
遠馬の言葉も、あまりに重い。
自らの攻撃的腕力の許容範囲を超えると思われる、重い負荷を抱えた高校生が、今、その負荷を清算し、落し前をつけようとしてのだ。
「止めんけえね」
この千種の言葉の重さは、遠馬の行為の重さに、更に負荷をかけていく。
しかし、更に負荷をかけられた遠馬の行為が具現するには、17歳の高校生の内側で瞬時に昂まった、情動の集合的な馬力では太刀打ちできない。
「あんたには無理よ。殴られたこと、なかろうがね」
弾丸の雨の中、励ます言葉を置き土産にして、仁子が動いていく。
「俺は卑怯なんじゃ。俺は自分でする代わりに、父親と母親を見殺しにするんじゃ」
叫ぶように放って、遠馬は千種を送り届けた後、父親を捜しに雨の中を走り回った。
しかし遅かった。
既に、円を義手で刺殺した仁子の表情が、遠馬の視界に入っていた。
「終わったよ」
息子に添えた、母の一言である。
仁子の果たすべき「仕事」の全てが終わったのである。
遠馬 |
その母との接見を求め、拘置所に赴く遠馬。
「あの人、血吐いたんやったね?」
唐突な母の言葉の意味が分らず、聞き返す遠馬。
「新聞におおきゅう出よったろ」
「ああ、あの人か。新聞読めるんね?」
「判決が下りるまで、生きとって欲しいち、皆言いよる。恩赦があるきち。あの家で、子供産まれたとか、結婚したとか、目出度いことがあったり、死んだりとか、お目出度くないことがあったら減刑されるそ」
「ほんなら、はよ出て来れるんね」
「あの人が始めた戦争で、こうなったんじゃけん」
そう言って、今や、義手を装着していない自分の左手を見せる。
「それぐらいはしてもらわんと。あの人より先に死にとうないち思うてきた」
昭和天皇への戦争責任を誹議する台詞の挿入は、本作のメッセージのうちに強引に包括されたという違和感を覚えなくもないが、しかし、障害者となっても、殆ど独り身で身過ぎ世過ぎを繋いできた女の半生を思うとき、必ずしも不自然な台詞の挿入と言えなくもない。
泥沼の戦争に明け暮れた「昭和」という負の「近代」が終焉し、価値観の劇的転換を内包する、「近代」という社会システムの大きな変化が到来しても、未だ収斂し切れていない「戦後」の総括を反故にするな。
そんなメッセージなのだろう。
物語を続ける。
「もう、川辺には戻らないつもりだった」(遠馬のナレーション)
母との接見の直後の映像は、フェリーに乗って、「川辺」を去る遠馬の「旅」のシーン。
とある街の繁華街で、飲み屋で働く琴子と会った。
琴子のアパートの部屋で、琴子と関係を結ぶ遠馬。
そこで初めた知った真実。
琴子のお腹の子は、円との子でなかったのだ。
「子供がお腹におったら殴らんち、仁子さんから聞いちょったきぃね・・・お父さんみたいに殴らんとダメなら、手加減してくれるなら、殴ってええよ」
女の強さが弾けている。
求められるように、遠馬が琴子の首を絞めようとする瞬間、琴子は「あっ、動いた」と声を上げ、父の真似事の域を出ない彼の行為は中断した。
お腹の赤ちゃんが動いたのである。
遠馬の「旅」は、このエピソードで、呆気なく閉じていく。
未知なる世界への遠馬の「旅」は、この程度のものだったのだ。
彼の戻るべきエリアは、「川辺」以外になかった。
その「川辺」には、母の代わりに、魚を捌いている千種の姿があった。
「おかえり」
そう言って、捌いた魚の刺身を美味そうに食べる遠馬。
その夜、遠馬は、横に寝ている千種の首元に、手を伸ばそうとする。
千種の決め台詞が発せられたのは、その瞬間だった。
「殺されるんと、手、縛られるのとどっちがええ?あんたの手は、ウチを殴るためにあるん?ウチを可愛がるために、あるんやない?」
これでもう、遠馬はダメになる。
自らの手首を縛られた遠馬は、騎乗位となった性交体位で、「気持ちいい」と堂々と言い放つ千種によって支配されるのである。
ここでもまた、女の強さが存分に弾けていた。
3 「漲る殺気」にまで下降できない青春の苛立ちと、その〈生〉の鼓動の「現在性」
極端なまでの母・仁子の「刷り込み」によって、恐らく児童期以前から、父への悪い印象が定着する教育の累加の中で、遠馬の自我の底層には、父・円との「呪われた血」を強く意識せざるを得ない負の感情が張り付いていた。
全て、円との「呪われた血」が悪いという「ダメ出し」をされ続けたことで、思春期に踏み込んだ遠馬の自我は、父への嫌悪感をも通り越して、「呪われた血」への恐怖感が顕在化するに至る。
気の強い仁子の「刷り込み」は、遠馬自身への「ダメ出し」宣言に変換されことによって、それでなくとも性的感情が氾濫する思春期後期のアナーキーな情動は、人一倍、父のアンモラルな振舞いを意識する一人息子の内側で暴れ回っていた。
恋人・千種を充分に満足させられないセックスの経験的累加の中で、遂に、そのストレスが暴力的性行動にまで堕ちていくのだ。
この辺りの心理は、「ゴーレム効果」という教育心理学の概念を想起させなくもない。
期待されればされるほど、人間は期待された通りの結果を出すという「ピグマリオン効果」と対比される「ゴーレム効果」とは、特定他者への悪印象が延長されると、本人に伝播されたその印象が定着し、件の他者が悪印象をなぞる人格になってしまうことを指す。
ここでは、母・仁子の「刷り込み」によって、「川辺」の川に流れ込む生物の残滓、遠馬の精液、下水までも呑み込むウナギに象徴される性器・性行為、そして、父・円の「呪われた血」が、遠馬の人格のうちに吸収されていく負の流れの悪印象が定着することで、必要以上に、「呪われた血」の系譜をなぞっていく行動を体現してしまう自縄自縛の心理を意味する。
この自縄自縛の心理が体現する痛々しいシーンがあった。
円にレイプされた千種に寄り添う遠馬が、「俺自身がやったんじゃ」と吐き出すシーンである。
この映画の中で、千種の待つ神社に行かなかった責任感をも包括し、遠馬の煩悶が、最も痛切に表現されたシーンであるが故に、観ていて辛かった。
映画の心理的リアリズムを壊さなかった、このシーンの訴求力の高さが、本作を稀有な傑作に昇華させたと、私は評価する。
素晴らしいシーンだった。
思うに、全ては、母の過剰な「刷り込み」による「ダメ出し」宣言に起因する。
あまりに性格の強い母の、父に対する否定的感情が、そのまま遠馬に伝播されたばかりでなく、そこに、「呪われた血」を断てなかった一人息子の遠馬への「ダメ出し」によって、相当程度、息子の自我は傷ついたに違いない。
それでも、矛盾するメッセージを送波しなかったことで、ダブルバインド(二重拘束)の厄介なメッセージで縛り上げることのない、愛情豊かな母の包活力によって、遠馬は非行に走ることはなかった。
「俺が殺す」と、遠馬は言った。
しかし、殺せなかった。
殺すだけの馬力がなかったのだ。
一時(いっとき)の情動ではなく、冷静沈着に「父殺し」を遂行するには、母のように、DVによる憎悪の累加による「漲(みなぎ)る殺気」のような推進力を不可避とするだろう。
恋人を犯されたという一点による思春期後期の情動では、「漲る殺気」にまで下降できないのだ。
だから、「呪われた血」を内包させた、負の系譜を浄化し得ない状態で、遠馬自身の自我の行程を強化するのは困難なのである。
恐らくそれが、父の真似事の域を出ない遠馬の「現在性」の様態である。
「漲る殺気」にまで下降できない青春の苛立ちと、その〈生〉の鼓動の「現在性」。
その間に、「昭和」という負の「近代」が終焉したことで、それでなくとも強(したた)かな女たちは、ラストシーンで垣間見せた千種の騎乗位のように、本来の馬力を全開させていくだろう。
青山真治監督も言及していたが、そんな母性的な馬力と対峙する遠馬の「現在性」は、「新たな父になるのか、逃げるか、どっちかしかない」のか。
それこそが、未だ収斂し切れていない「戦後」の「落とし前」のつけ方なのか。
―― 以下、本作を評価する私の感懐。
限られた狭いエリアで、逃げた女を歩き回って探す円と、どんなエリアでも自分の生存・適応圏を構築できる琴子との見事な対比に象徴されるように、どのような小さなエリアでも生き抜く馬力を持つ女たちと、閉鎖系の苔の生えたコミュニティのエリアの中でしか大声を上げ、騒ぎ、威張り抜くことしかできない男たちの対比の構図が映画的に仮構され、心理的リアリズムを崩さずに構築された映像のパワーを、私は高く評価したい。
小動物から人間に及ぶ生態系の〈生〉の鼓動が全篇から伝わってきて、〈生〉を繋ぐ者も、果てていく者も、閉鎖系の苔の生えたコミュニティの中で、「静」と「動」を繰り返しつつ、時にはゆったりと、時には荒々しく滾(たぎ)る男と女の、茹(うだ)るような夏の暑さでの人生の断片を切り取った映像は、観る者に意想外の言外の情趣を残し、女の強さへの反転的イメージのうちに閉じていく。
最後に一言。
「回想というより、望遠鏡で見ている感じ」で、「語りの距離感」という問題意識によって挿入した青山真治監督の狙いが理解し得ても、文学のリズムと睦み合ったようなナレーションの連射の多くは、映像で語れるのではないだろうか。
そう思った。
(2014年11月)
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