<鋭角的な前線の果てに待機していた、家族という名のとっておきの求心力の物語>
1 「人間は『阿修羅』の如き存在である」ばかりではない
「阿修羅。インドの民間信仰上の魔族。外には礼義智信を掲げるに見えるが、内には猜疑心が強く、日常争いを好み、たがいに事実を曲げ、またいつわって他人の悪口を言いあう。怒りの生命の象徴。争いの絶えない世界とされる」
これが、「阿修羅のごとく」の冒頭のキャプション。
1979年と1980年に、NHK総合テレビで放送された著名なテレビドラマで、長女役だった加藤治子のナレーションによるもの。
物語は、「女は『阿修羅』の如き存在である」というテーマに沿って作られているが、映画の内実は、殆どホームコメディのような構成になっていて、テーマだけが誇張されている印象を拭えない。
オスマン帝国の軍楽隊で有名な「攻撃行進曲」を有効に駆使した、かつてのテレビドラマの本線を意識し過ぎたのか、嫉妬に狂い、物を投げつけたばかりか、その死後、行李(こうり)の中から春画が出てくる鮮やかなカットを挿入させた、竹沢ふじ(母)に象徴される、「この母こそ、『阿修羅』の如き存在だった」というドラマの切れを削り取ってしまったことで、テーマ性を希釈させたが故に、本篇は、「インジブルファミリー」(近隣に住んで助け合う家族)とも思しきイメージラインに沿ったホームコメディのうちに、優しく包み込むように軟着させてしまったのである。
だから、物語の中で描かれる女たちの軋轢や葛藤のエピソードには、「内には猜疑心が強く、日常争いを好む」という性格にシンボライズされた、「女は『阿修羅』の如き存在である」というテーマと切れてしまっていた。
従って、この映画のタイトルは、物語の本線を集約させた言辞としては、あまりに不相応だった。
私自身、「女は『阿修羅』の如き存在である」という認識を持っていないので、この物語の内実に全く違和感がなく、映画としての出来を高く評価するのに吝(やぶさ)かではない。
人は様々に感情をコンフリクトさせ、そんな沸騰し切った状況下で、抑制できずに悪意を吐き出すあまり、相手を激しく罵倒し、叫び上げ、狂気の片鱗を露呈しさえする。
「人間は『阿修羅』の如き存在である」
この把握が正しいのである。
然るに、「人間は『阿修羅』の如き存在である」ばかりではない。
興福寺阿修羅像(ウィキ) |
「内には猜疑心が強く、日常争いを好み、たがいに事実を曲げ、またいつわって他人の悪口を言いあう」が、そこに時間の隙間ができたとき、「他人の悪口を言」う自分を相対化することで、恥入り、自省する。
異性に愛されない自己を呪い、特定他者を呪っていても、なお、異性を愛する自己に陶然とする時間を持ち得るし、それが偶(たま)さか、小さくも愛の成就に軟着すれば、自己を呪い、特定他者を呪っていた自己を葬ることができるだろう。
嫉妬の炎で我を失っていた、本作の二女・巻子は、「やだ、私、何してるの・・・」とふっと洩らしたが、これが、複雑に交叉する感情に翻弄され、悩み、迷妄の森に搦(から)め捕られ、時には、突き放しさえする私たち人間の偽らざる様態である。
嫌悪や憎悪の対象人格だった相手を赦し、罵り合っていた時間を浄化し、共に泣き、慰撫し合うのだ。
それもまた人間なのだ。
このように、「女は『阿修羅』の如き存在である」ではなく、「人間は『阿修羅』の如き存在である」という私の把握は今でも変わっていないので、この映画を受容する思いには、大袈裟なテーマ性と切れて、映像総体への評価の高さが裏付けされている。
以下、ここでは、そんな私の問題意識に即して言及していきたい。
2 四姉妹の交流の累加の中で、姉妹たちが抱える「秘密」が露わになっていく物語の稜線
簡単に梗概を書いておこう。
時は、昭和54年の冬。
相応に格式のある日本家屋に住む老夫婦 ―― 竹沢恒太郎とふじ。
円満な老夫婦を強く印象づけるが、70歳になる恒太郎に、年の離れた愛人と子供がいる事実が発覚したことから、女系家族の波乱の物語が開かれていく。
左から長女・綱子、次女・巻子三女・滝子、四女・咲子 |
四姉妹の中で、図書館司書の職務に就く三女・滝子が、その事実を知って、比較的疎遠だった姉妹を招集する。
生来的に潔癖(潔癖症にあらず)な滝子は、「父の浮気」を不浄な行為と考えるが故に、私立探偵に依頼してまで、その証拠を確認せねばならなかった。(トップ画像)
証拠写真を提示されて、動揺する姉妹たち。
母には知られることがないようにと確認し合う姉妹たちだったが、四姉妹の交流の累加の中で、彼女たちが抱える「秘密」が露わになっていくのは時間の問題だった。
華道の師匠で身過ぎ世過ぎを繋いでいる未亡人の長女・綱子には、生け花の外注を依頼する料亭の亭主と懇(ねんご)ろな間柄になっていて、その事実を察知した妻の「討ち入り」にまで発展するに至るが、そのドロドロの関係が延長されていくという、まさに「阿修羅のごとく」を地で行く有様が描かれる。
一方、二人の子供を儲けている次女の巻子は、サラリーマンの夫・鷹男が、部下の秘書と不倫関係の事実を知って以来、心穏やかでない日々を送っているが故に、父の愛人問題に些か過剰な反応を示す。
ましてや、綱子の不倫関係に対する反応が、「夫を奪う姉」という尖ったラベリングに結ばれるのは必至だったと言える。
また、全く男っ気がないことで、奔放な四女・咲子から愚弄される三女・滝子は、彼女が依頼した私立探偵の勝又から、知り合ってまもなく、トゥレット障害(慢性チック症)とも思える、不器用で訥弁のプロポーズを受けるが、本人は至って真面目な男で、且つ、礼儀を弁(わきま)えているので、この似合いのカップルには、「阿修羅」の亡霊も近寄ることもない。
そんな滝子の性格が、売れない新人ボクサー・陣内と同棲する四女・咲子の奔放な性格と相性が合う訳がなく、顔を合わせれば口論する始末で、この二人に関しては、「阿修羅のごとく」の相貌性が剥き出しにされていたと言えるだろう。
左から四女・咲子、長女・綱子、次女・巻子三女・滝子 |
その陣内と咲子が、滝子と勝又の結婚式のハレの日に、礼儀を弁えていない振舞いに及んだことで、関係が決定的に乖離してしまうのである。
姉妹という関係の濃度が高いが故に、却って厄介な感情の亀裂を生んでしまうのである。
しかしそこには、新人戦に勝った後、パンチドランカーの末路を辿っていくような陣内の疾病の予兆が伏在していたが、まもなく、それが顕在化することで、滝子と咲子の関係が好転する契機を作つてしまうところが、如何にも、アンビバレンツの感情を生み出しやすい肉親の微妙な綾と言っていい。
「私、遣り切れないの。陣内さん、どうかなりゃいい。咲子、ペチャンコになればいい。そう思った事あるの。本当になるなんて。姉妹って変なものね。妬みそねみもすごく強いの。そのくせ姉妹が不幸になると、やっぱりたまんない・・・」
時系列は前後するが、これは、緊急入院した陣内のベッドの傍らで、必死に看護する咲子の思いを汲み取った滝子が、その煩悶を勝又に吐露する言葉。
この流れが、三女と四女の関係の修復に軟着していくというドラマの本線をフォローする限り、「阿修羅のごとく」のドロドロとした情感世界と切れていることが確認できるだろう。
そんな中で、母・ふじ
だけは、泰然とした日常性を、昨日もそうだったような流れの延長に、笑みを湛えた表情のうちに垣間見えるようだった。
以下、稿を変えて、物語のクライマックスをフォローしていきたい。
3 鋭角的な前線の果てに待機していた、家族という名のとっておきの求心力の物語
昭和54年の年末。
四人姉妹が、白菜の漬物で実家に集まっていた。
「一遍、私たちが四人揃って、お父さんの前に並ぶのが一番だと思うの。何も言わなくたって、お父さん分るわよ。だから、取り返しがつかなくなる前に・・・」
用があるからと言って、母・ふじが外出した際に、三女・滝子が切り出した。
日本家屋を象徴する縁側での会話である。
ここで、次女の巻子が反応する。
「あなたの言う通り一大事だけど、でも、お母さんにとって、本当にそっちの方がいいのかな。投書にもあったじゃない。波風立てずに過ごすのが、本当の女の幸せなのか・・・夫の浮気に薄々勘付いていたしても、それ認められたら、もっと辛いことだって・・・」
「あんた、自分のこと言ってんの?」と長女・綱子。
「お姉さんこそ、コソコソして!」と巻子。
本質を衝いたこと言われて、感情を荒げて反応する巻子。
「皆、一つや二つ、後ろめたいこと持ってんじゃないの。お父さんだって、70過ぎたって、男は男なのよ」
「だから大目に見ろって言うの?あたし、そういうこと大嫌いよ。お姉さんには分らないのよ。夫に浮気された妻の気持ちなんて・・・」
明らかに矛盾することを言いながら、どこかで父を許せないという気持ちが、母に対する共感感情を強化させている意識を顕在化させている。
夫の浮気に悩む巻子 |
既にこの時点で、浮気相手の電話番号を間違えて、自宅に電話をかけてきた夫のミステイクを苦笑いで済ませていたが、封印し切れない遣る瀬無さが、ここで噴き上げてしまったのである。
因みに、「投書」とは、新聞に投稿した匿名文のこと。
以下、その投稿文。
「姉妹というものは、ひとつ莢(さや)の中に育つ豆のようだと思う。大きく実り、時期がきてはじけると、暮しも考え方もバラバラになってしまう。うちは三人姉妹だが、冠婚葬祭でもないと、滅多に揃うことはない。ところが最近、偶然のことから、老いた父に、ひそかに付き合っている女性(ひと)のいることが判ってしまった。老いた母は何も知らず、共白髪を信じて、おだやかに暮らしている。私たち姉妹は、集まっては溜息をつく。私の夫もそろそろ惑いの四十代である。波風を立てずに過ごすのが本当の女の幸福なのか、そんなことを考えさせられる今日此の頃である。(主婦・四十歳 匿名希望)」
投稿文を読む限り、年齢やプライバシーの内容が酷似している巻子による投書であると、姉妹間で疑義を抱かれたが、本人が完全否定することで、有耶無耶(うやむや)になってしまった。
昭和55年。
その年の正月が過ぎて、巻子は母とレストランで会食したときのこと。
「大事におし」
母に、そう言われたのだ。
その言葉の含意を読み取り過ぎたのか、巻子は、夫婦関係の問題を衝かれた気がしてならなかった。
「やだ、私、何してるの・・・」
その帰り、巻子は、ふっと洩らした。
巻子と眼が合ったときの母の表情 |
父の愛人のアパートの近辺に足を運んでいたからである。
夫の浮気の問題が気になっている自分に、コントロールし切れないようなのだ。
彼女は今、特段に、「私的自己意識」(自分の感情や態度に注意を向けやすい傾向)が高まっているのだ。
夫の浮気によって動揺し、為すべき行為が見えないような迷妄が、彼女の内側で一つのピークアウトに達しているのだろう。
巻子が、父の愛人のアパートの前で立っていた母と遭遇してしまったのは、そんなときだった。
レストランで会食して別れたばかりの巻子を視認するや、一瞬、笑みを洩らした母が、路傍に卒倒して倒れてしまったのである。
母の卒倒は、夫の浮気を知らない振りをして過ごしてきたのに、その浮気を気にする「女」であるという事実を、娘に知られたことが主因であるだろう。
動顛する巻子。
まもなく、病院に運ばれた母の元に、家族が急いで駆けつけて来た。
そこに、父もやって来て、その父に激しく感情を炸裂させる巻子。
「お父さん、お母さん倒れたの、どこだか知ってる?あの人のアパートの前なのよ。そこに立ってたのよ。お母さん、ずっと前から知ってたのよ。でもお母さん、一言も言わないで。でもお母さん、女だから!紙袋下げて、アパートの前で立ってたのよ!お父さん!何とか言いなさいよ!」
最後は叫びになって、父の頬を打ってしまった。
それを諌める巻子の亭主・鷹男に反論したのは、「家族正義派」の滝子だった。
「殴ったの、お姉ちゃんじゃない!お母さんよ!」
「思い上がったこと言うな!お母さん、許してたよ。だから何もかも・・・」
滝子の観念的なプロテストに、咄嗟に反応する鷹男。
「許してるもんですか!お母さん、口でなんか言えないくらい、焼きもち妬いていたのよ!」
今度は巻子が反駁し、病室内の空気は、「家族正義派」の女性陣と、「前線」で働く男たちの「ポジション・トーク」(自分の立場に有利な意見を述べること)とのコンフリクトの様相を呈してきた。
「寂しかったのよ。お父さんのこと好きだったのよ!それ、何よ、お父さん!」と滝子。
「真面目に働いて、家建てて、四人の子供を成人させて、そのあと、誰にも迷惑かけないで、少しだけ人生の艶を楽しむのが、そんなにいけないのか!」と鷹男。
「女房泣かして、楽しんでるのよ」と巻子。
「苦しんでるかも知れないじゃないか!」と鷹男。
母の病室の枕元で、口論の応酬をする姉妹と義兄たち。
まもなく、熱い空気が幾分クールダウンされて、黙っていた父・恒太郎は、愛人が再婚する話を彼らに伝え、妻のふじと二人だけになった。
「母さん、振られたよ。振られて帰って来たんだ」
ベッドに眠る妻に、吐露する父。
嗚咽交じりだった。
物語は、逝去した母の葬儀を映し出した後、滝子と咲子の関係の修復のエピソードを丹念にフォローしていく。
姉妹の中で、夫の浮気で、ディストレス状態を延長させていた巻子のの問題も解決した。
浮気相手の美人秘書が結婚するに至ったからである。
唯一、長女・綱子のドロドロとした不倫の関係が延長されていて、ここでは、「阿修羅のごとく」の情感世界が、爛れ切ったように繋がっているようだった。
「女は阿修羅だよなぁ」
義母の墓参で、鷹男が独言した言葉である。
物語の括りのエピソードは、新聞に投稿した匿名文の主が母のふじであった事実が、新聞社の記念品の発見によって判然としたこと。
「お母さんも、中々やるなぁ」と綱子。
「お父さん浮気を知ってても、知らないふりして、でも、我慢してただけじゃなかったんだ」
最後まで、四姉妹だけの狭い情報スポットの中で、右往左往した投稿騒動に決着したことで大団円を迎えるが、もうそこには、「女は阿修羅である」という根拠の希薄な形容が希釈された風景のみが切り取られていた。
笑みの交歓の空気の中に侵入した感情が嗚咽に変容するとき、約束された世界に戻っていく四姉妹の絆の、小さくも、崩れ切れない関係の軟着点は、家族の求心力の凄みであったということか。
四姉妹と父母 |
物語のクライマックスの中に収斂される映画のテーマ性 ―― それは、複雑に交叉する感情に翻弄され、煩悶を重ね、懊悩する人間の裸形の様態が身体表現せざるを得ない辺りまで肉厚に絡み合い、鋭角的な前線を作り出した果てに待機していた、家族という名のとっておきの求心力の物語だった。
4 物語から垣間見えた「日本の夫婦・男女関係のパターン」
本稿の付帯的なテーマとして、物語から垣間見えた「日本の夫婦・男女関係のパターン」について言及したい。
「日本の夫婦・男女関係のパターン」
これには、私見によれば、男性サイドから見て、5種類のパターンがあるという仮説を抱懐しているので、物語の主要登場人物を例に考えてみたい。
その1 「自立扶助型」
これは、自立的な男(夫)が、女(妻)を扶助するという男女関係を示すもの。
物語では、父・恒太郎の夫婦や、巻子と鷹男の夫婦関係が範型になるだろう。
巻子と、父・恒太郎の浮気相手 |
巻子の場合は、夫への愛が安楽死していないから、離婚に踏み込む選択肢を持ち得なかった。
それ故にこそ、夫の浮気相手の美人秘書の存在が一貫して気がかりであり、「やだ、私、何してるの・・・」という嘆息を洩らすのだ。
夫の鷹男は浮気として割り切っているので、家庭を反故にしないというラインだけは守られていたこと。
結局、この黙契が自壊しなかったことが、夫婦関係を形骸化させなかったのである。
そして何より重要なことは、巻子は母の立場を最も理解すると同時に、その母の思いを、「我慢してただけじゃなかったんだ」と受容し切れた心理に軟着したという一点にある。
本作が、この巻子にナビゲーターの役割を付与したのは、隠し込まれた母の思いに最も近接していたからである。
作り手の意図が不分明だが、ある意味で、この巻子の人物造形によって、彼女が、隠し込まれた母の思いの複雑な振れ方に同化することで、「女は阿修羅である」という根拠の希薄な形容を相対化してしまったように、私には思えるのだ。
「女は阿修羅だよなぁ」という鷹男の独言が、物語の中で重量感を持ち得なかった所以は、その辺りにある。
その2 「自立共存型」
これは、男女(夫婦)共に、自立的に共存する男女関係を示すもの。
物語では、些か演出過剰が気になったが、探偵屋・勝又と三女・滝子の関係が、このパターンに相応しいと思われる。
潔癖で繊細だが、恋愛に不器用な三女・滝子は、同様に潔癖で不器用でありながら、人の気持ちが分る男を愛する傾向を持つことで、彼女は、恐らく初めて、同じ視線で物を見ることができる異性と邂逅したのである。
その意味で、このカップルは、「自立援助性」、「建前共存性」や「建前依存性」、「全面依存性」のタイプの男女関係のパターンと無縁であり、最も理想的な「自立共存型」の夫婦の範型と言っていいかも知れない。
とかく、「家族正義派」の代弁者に流れやすい滝子の独り善がりな言動を浄化し、共存的な軟着点に導く役割を、訥弁の勝又が発揮したこと ―― これが大きかった。
その3 「建前共存型」
これは、男(夫)の建前=虚栄を、女(妻)が保証しつつ、共存する男女関係を示すもの。
長女・綱子の浮気相手の夫婦関係が、このパターンに該当するだろう。
建前で共存しながら、女(妻)に支配されているから、この国のだらしない男の典型のようなこの亭主が、浮気に走るのは必至だった。
覚悟なしに情動に任せるだけの男の浮気が、ズブズブの関係に嵌っていくのも、それを受容する女の存在によって決定づけられる。
綱子と、綱子の浮気相手の妻のキャットファイト |
未亡人の綱子は、こういう隙だらけの男を好むという印象を拭えないから、愛人関係が延長されてしまうのも必至だったという訳だ。
因みに、綱子と浮気相手の男女関係は、相手次第の「全面依存型」に近いと言えるだろうか。
その4 「建前依存型」
これは、男(夫)の建前=虚栄を保証してもらいつつ、女(妻)に依存する男女関係を示すもの。
新人ボクサー陣内と四女・咲子の関係が、このパターンに該当すると思われる。
常に咲子は、ボクサーとしてのアイデンティティで生きる陣内の虚栄を保証しつつ、全人格的な同化を体現するような、情動の過剰投入をも辞さない関係を印象づける程だった。
陣内のボクサーとしての一時的成功も、咲子の内助の功が大きく関与していて、男の虚栄を保証してもらっている限り、この関係に不都合が起きなかったが、陣内の緊急入院によって、咲子の煩悶がピークに達するのは当然だった。
依存を受ける対象人格の、重篤な疾病による喪失感は、「建前依存型」で安住する世界を自壊させる破壊力を持ってしまうのである。
森田芳光監督 |
咲子の心の風景の空洞を埋めた滝子との和解の流れは、「家族正義派」の滝子の性格傾向の発現が、最適のタイミングで嵌った事象だったと言っていい。
その5 「全面依存型」
これは、男(夫)の建前=虚栄を捨てて、女(妻)に全面依存する男女関係ものだが、前述したように、「建前共存型」のだらしない男が、フェロモンの臭気に誘(いざな)われ、艶を枯渇させていない女の肌を求めて、「全面依存型」の悦楽に存分に浸っていくのは自明である。
かくて、「日本の夫婦・男女関係のパターン」をトレースする四姉妹の振れ幅が、「阿修羅のごとく」の情感世界を右往左往しただけで、最終的に、家族の求心力の振れ幅のうちに軟着していくのは、この国の約束された世界の不文律であったということだ。
(2013年12月)
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