<西部劇という名の、二つの「攻撃的正義」の虚しい争いの様態を描き切った一級の名画>
1 強いメッセージ性を内包する名画
「大いなる西部」は、ニューシネマ以前に作られた西部劇の中で、フレッド・ジンネマン監督の「真昼の決闘」(1952年製作)と双璧を成すほどに、強いメッセージ性を内包する名画である、と私は考えている。
「西部劇」という衣装を被せながら、両作とも、駅馬車に乗り合わせた人々の人間ドラマという体裁を確保しつつも、その内実は、ネイティブ・アメリカン(ここでは、アパッチ族の1部族)を「悪」の象徴として描いた「西部劇の最高傑作」・ジョン・フォード監督の「駅馬車」(1939年製作)のように、騎兵隊=「善」というマニフェスト・デスティニーの思想を定着させた時代状況下で、ネイティブ・アメリカン退治をメインにした作品と切れて、既にネイティブを駆逐し、領土を拡大しつつある白人的開拓精神という名のアナーキーな大地で、「勧善懲悪」のストーリーの骨子を排除した、メッセージ性の純度の高い一篇に仕上がっていた。
保安官バッジを投げ捨てたラストシーンに集中的に表現されているように、「マッカーシズム」の大攻勢の前で「防衛的正義」からも逃避し、「沈黙」を余儀なくされたハリウッドの欺瞞性を鋭利に衝く「真昼の決闘」の強いメッセージ性と分れ、本作のメッセージ性は、遥かに普遍的な包括力を内包していた。
私怨にまで膨張した、「攻撃的正義」を振りかざす男たちの拠って立つ価値観が、意地と虚栄と欲望の集合的情動にまで肥大し切ったときの爛れの様態。
その醜悪さを、一貫して「防衛的正義」に拠って立つ主人公の人物造形との「対比効果」によって、鮮やかに描き出したこと。
これが、「大いなる西部」のメッセージ性の内実であると言っていい。
「ここじゃ、自分が法だ」と誇示する者の如く言い放つ男たちの「攻撃的正義」の欺瞞性を衝くには、「西部劇」という「何でもあり」の風景を借景にする手法は、そこに娯楽の要素を嵌め込められる分だけ自在な表現を駆使できるが故に、極めて有効な戦略だったということか。
その辺りの批評の詳細は後述したい。
2 人生観に関わる根源的な乖離を提示した破綻なき映像構成 ―― 本篇の梗概
1870年代のテキサス州での物語。
大西部の一画で牧場を経営する、テリル少佐の一人娘パットとの結婚のため、紳士ハットを被り、東部から遥々やって来たジェームズ(ジム)は、到着早々、西部で呼吸を繋ぐ者たちの荒っぽい洗礼を受ける。
左からパック、ジム、パット |
乾期になると、決まって、テリル少佐と水源のある土地ビッグ・マディを巡る争いを常態化させていた、一方の勢力・ヘネシー家の息子パックたちによる、悪戯含みの手荒い洗礼だった。
以下、この一件を知ったテリル少佐と、手荒い洗礼に「非暴力」を貫いたことで、「臆病者」呼ばわりされるジムとの会話。
「名誉と名声は、男の大切な財産だ」
「しかし、名誉のために死ぬ必要はない。決闘の理由も曖昧です」
「西部では、自分を守るのは自分だ。甘く見られてはいかん。本当だぞ」
「昨日の件ですね」
「責める気はない。だが、ヘネシーの奴らに遠慮はいらん」
「不愉快でしたが、荒っぽい歓迎には馴れています。船でもそうでしたから」
「娘がいたのでは、銃は使えんしな」
「いなくても使いません。あの手の連中は、世界中の港にいます」
「それは違う。奴らは人間のクズなんだ。獣のように暮らしている。洪水か何かで、一人残らず死ねばいい」
「非暴力」を貫いた元船乗りのジムに、「無法地帯の西部」で生き抜く知恵を伝授したつもりのテリル少佐にとって、娘の婿になる男の「臆病さ」が気になるが、未だその関係に亀裂が入るまでには至らない。
「保安官事務所まで320キロある。ここじゃ、自分が法だ」
しかし、そう言い放って、「昨日の件」のリベンジに打って出る、テリル少佐と牧童頭のリーチたち。
テリル少佐と牧童頭のリーチ |
これが、「無法地帯の西部」で生き抜く彼らの唯一の方略だった。
「あなたの行為は、個人的な仕返しだ」
このジムの反対の意志など、全く通じない世界がここにあった。
「臆病者」呼ばわりされたジムが、暴れ馬のサンダーを乗りこなすエピソードがインサートされたのは、ヘネシー家へのテリル少佐の殴り込みで、牧場が留守になったときだった。
暴れ馬のサンダーに乗り込もうとしても、その度に振り落とされるジムが、しくじっても繰り返し、遂に最後には、暴れ馬と一体化し、乗りこなしたのである。
このシーンで重要なのは、馬の世話係であるラモンに、サンダーの一件を口止めにさせたこと。
「自分の勇気を見せつけても、そのことによって証明し得る何ものもない」、
これが、ジムの生き方だった。
だから、「臆病者」呼ばわりされても全く気にしないのだ。
テリル少佐の娘で、ジムの婚約者であるパットに横恋慕する、牧童頭のリーチから喧嘩を売られても、一向に相手にしないジムへの不満が募っていくばかりのパットの短絡的な性格には、明らかに、父譲りの狭隘なメンタリティーが張り付いていて、二人の愛情の継続力に暗い影を落としていた。
そんなるジムが、テリル少佐とヘネシー家との、抜き差しならない対立の主因がビッグ・マディにある事実を知って、単身、動いていく。
ジュリーとジム |
まるで砂漠の中の点景でしかない、ビッグ・マディの女主人ジュリーの家を目指し、西部の広大な大地を、地図とコンパスを駆使して辿り着き、そこで、牧場の売買交渉に及んだのである。
「私に売ってくれれば、ヘネシーに、この水を分けてやる。テリルにもだ。そうすれば平和を保てる」
誠意のこもった本気の思いを乗せた、このジムの言葉に心を動かされたジュリーは、牧場を売る決意をするに至る。
この果敢な行為に打って出たジムを夜通し捜索するリーチにとって、「西部の男」に染まろうとしないジムの態度は目障りなだけだった。
更に、父のテリル少佐の価値観に同化するパットもまた、漸次、ジムとの心理的距離を広げていくばかりで、婚約関係にあるカップルの睦みの風景の印象と切れていた。
ジムが、テリル少佐の牧場を去っていくのは必至だったのである。
そんなるジムが、リーチから売られた喧嘩を買うに至ったのは、牧場を去っていく前夜だったが、決着がつかない喧嘩が朝まで延長されてしまった事態は、隠し込まれたジムの腕力を、リーチが見直す契機になっていく。
「争っても、何も証明できないぞ」
これが、リーチへのジムの置き台詞。
リーチ |
この有名なシーンに、正直、私が違和感を覚えたのは事実。
「夜を徹しての殴り合いの喧嘩」
1対1の殴り合いを、朝まで続けられるのはハリウッドだけで、存分にリアリティを壊してしまう安直なシーンに、娯楽性の名のもとに許容しろという方がどだい無理なのだが、思うに、ロング・ショットを多用してのバトルのシーンに、寧ろ、娯楽性の希薄化が感じられることを想起すれば、単に、「争っても何も証明できない」という本作のメッセージ性を映画的に膨らませたと考えれば、私としては了解できなくもない。
閑話休題。
まもなく、ジムがサンダーを乗りこなし、ビッグ・マディの土地を買った事実を知ったパットは、ジムを町に訪ね、謝罪した。
「パパは喜ぶわ。牛をもっと増やして・・・」
パットの言葉を遮り、ジムは、そこだけは明瞭に言い切った。
「少佐のための牧場じゃない。近所の牧場に川の水を分ける」
「どういう意味?」
「血生臭い争いはごめんだ。ヘネシーにも分ける」
「あなた、正気なの?あなたもパパを憎んでいるのね。あなたなんか最低よ。パパの半分も男らしくないわ」
所詮、父に同化するパットには、ジムの価値観など理解できようがないのだ。
パットとジム |
二人の関係を遮る距離は、心理的・感情的次元の表層面での縺(もつ)れなのではなく、人生観に関わる根源的な乖離と言っていい何かだった。
そして、この距離の深さは、心理的・感情的次元の軋轢をも抱え込むことで、意地と虚栄と欲望の集合的情動にまで肥大し切った、「攻撃的正義」を振りかざす男たちの根深い対立と絡み合っているから、ビッグ・マディを巡る「武力戦争」を惹起させるのは、今や時間の問題だった。
ジュリーを拉致・監禁するヘネシーの暴挙を知って、丸腰でヘネシーに立ち向かっていくジム。
ヘネシーの息子・バックとジムの決闘が開かれるが、決闘で敗れた息子の卑劣な行為を目の当たりにしたヘネシーによって、射殺されるバック。
ヘネシー |
もう、二大勢力の「武力戦争」を回避できなくなるが、ヘネシーは、テリル少佐との1対1の決闘を求め、それに応じる少佐との虚しいだけの撃ち合いの結果、両者共に斃れるに至った。
残された二大勢力間の「武力戦争」は回避されるという着地点には、ビッグ・マディでの牧場の立ち上げに向かうジムの、近未来の生活イメージが眩(まばゆ)く輝いているようだった。
3 西部劇という名の、二つの「攻撃的正義」の虚しい争いの様態を描き切った一級の名画 ―― まとめとして
経験的に鍛えられ、強化された武力を、人知れず、自分の内側にのみ閉じ込めておくことによって自己完結する「防衛的正義」の理念の継続力は、それを正当に評価する者たちとの間に結ばれるルールの設定と、そのルールが一定の秩序を保証する限りにおいてのみ有効である。
このことは、武力を過剰に誇示することで自分の身を守り、そのことがテリトリーの侵入者に対する排除を、「攻撃的正義」の名のもとに堂々と正当化する者たちとの間に、秩序ある堅固なルールを構築することの難しさを示している。
「非暴力」を貫徹するジム |
武力を過剰に誇示することで押し出されてくる「攻撃的正義」は、いつしか無自覚的に膨張し、その「正義」と対立する者たちとの間で、武力による争いの火蓋が切って落とされる事態を防ぐのは困難であるだろう。
ましてや、そこに「生存」に関わる利害関係が絡んでしまえば、武力による争いは必至であると言っていい。
「保安官事務所まで320キロある。ここじゃ、自分が法だ」
そんな物騒な言辞を、ごく普通の状況感覚で語る者たちが拠って立つ、度を越える「攻撃的正義」が正当化される「秩序なきエリア」の中枢に、自分の内側にのみ閉じ込めておくことによって自己完結する、「防衛的正義」の人格主体が侵入し、際立って美しいクールな棒を差し込むことで、「生存」に関わる利害関係が絡む争いの空虚さを執拗に説いても、隠し込まれた「非暴力」の価値観の理念性など呆気なく蹴散らされていく。
たとえ、それが遠慮深げであったにせよ、「防衛的正義」の人格主体がどれほど華麗に躍動しても、広大な大地に叩き付けられるリアリズムの破壊的地平を見せつけられ、極限的なハードランディングの風景を開くに至るまで、一貫して「臆病者」扱いされるばかりで、結局、「攻撃的正義」という名の私怨の暴走と、その自壊という流れによってしか、彼らの過剰な物語を閉じられないのである。
従って、この映画は、単にリベラルな思考で内的に武装した、「東部」出身の男の「防衛的正義」が、「秩序なきエリア」で呼吸を繋ぐ「西部」の野蛮性を糾弾し、破壊させていく物語ではない。
そして、その「英雄的活劇」によって、「大いなる西部」と和約される「The Big
Country」の無法なる時代の終焉を、叙情性豊かに切り取った物語でもない。
敢えて言えば、こういうことだろう。
左からジム、テリル少佐、パック |
武力を過剰に誇示することで自分の身を守っていくために、私怨にまで固めてしまった「攻撃的正義」の価値観の無意味さを感受し、客観的に認知するには、「非暴力」の価値観の理念性のうちに内的に武装した「東部」出身の男の、厭味なまでに美しく、眩(まばゆ)いほどのクールな棒を差し込む振舞いの総体によって、殆ど相容れることのない、極端に異なった価値観の対照性を強調するためだったと、私は考える。
なぜ、このような極端な設定が必要だったのだろうか。
それは、本来的には、決して「悪人」でも「ならず者」でもないにも拘らず、無自覚的に膨張した、彼らのエンドレスなテリトリー争いの中で累加されてきた関係性の歪んだ様態の中に、「攻撃的正義」の名のもとに膨張した、私怨という負のエネルギーの虚しさと、その非合理的で、未来に繋がりようのない生産性の決定的な欠如を表現するためだったと言っていい。
本来ならば、ジュリーの祖父がそうしてきたように、ビッグ・マディの水源を公平に分配することで保持されてきた秩序を延長させていけば、物語で描かれたような、一触即発の死闘の危うさを回避できたはずなのに、今や、その秩序を復元できない辺りにまで、二つの勢力のボスたちの、極点に達した感情的対立の事態の厄介さだけが、そこに生き残されてしまったのである。
だから、私はこの映画の実質的な主人公は、「攻撃的正義」の過剰な暴れ方を見せた、二つの勢力を仕切るボスたちであると考えている。
ビッグ・マディの水源を、今や公平に供与されることが叶わなくなってしまった事態の厄介さ ―― これが本作の基幹テーマである。
「The Big Country」のポジティブな包括力に決して収斂され得ない、意地と虚栄と欲望が集合するだけの、私怨という負のエネルギーを溜め込んでしまった人間の救い難さが、嫌というほど切り取られ、描き出されていく。
恐らく、それが狙いなのだ。
その意味から言えば、物語を通して、華麗な振舞いを繋ぐ主人公・ジムの存在は、この悪しき対立関係の爛れ切った様態を強調する役割を担う、一種の寓話的人物であると考えられる。
ファンタジーと言ってもいい。
或いは、作り手の理念の結晶とも言える、ファンタジー化された、この完璧なる主人公の振舞いによって照射される、二人の老いたボスの「攻撃的正義」の虚しさ・無意味さ。
だから、ボスたちは死なねばならなかったのだ。
ビッグ・マディ |
ボスたちの死によってしか、ビッグ・マディの水源の公平な供与が具現されないからである。
私怨にまで膨張した、「攻撃的正義」を振りかざすボスたちの拠って立つ価値観は、もう何ものによっても掬い取れないほどに歪んだ、意地と虚栄と欲望の集合的情動にまで肥大し切ってしまっていたからである。
これは、西部劇という名の、二つの「攻撃的正義」の虚しい争いの様態を描き切った、一級の名画である。
(2013年12月)
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