1 価値観の違いを顕在化させる、世俗的な現実主義と懐古主義の乖離感
次々と、美しく切り取られたパリの情景が、3分間に及んで映し出された後、ライトアップされた夜のエッフェル塔の絵柄に結ばれて、オープニング・クレジットが表示されていく。
それと同時に、拾われる男女の会話。
「本当に信じられないよ。世界一の都、パリに来ているなんて!」
「何度も来てるじゃない」
「でも、年中じゃないからね。うっとりするほど美しい雨のパリ。1920年代を想像してみてよ。芸術家たちが雨のパリで・・・」
「何で、いちいち雨なの?濡れるだけじゃない」
「僕たち結婚したら、パリに住もうよ」
「あり得ない。アメリカ以外に住むなんて」
「もし、パリに住んで小説が書けたら、マンネリ映画の脚本ともオサラバ」
会話の主は、仕事で訪れただけで、共和党右派を支持する、フランス嫌いの義父夫妻の出張に乗じて、パリ観光する脚本家のギルと、その婚約者のイネズ。
既に、この会話の中に、ギルとイネズの価値観の相違が顕在化されていた。
小説家への一大転身を図るべく、「ノスタルジー・ショップで働いている男」の話を書いている脚本家のギルにとって、パリの街は、そこに居るだけでノスタルジーを感受させる特別な小宇宙であるのに対して、社交的で現実主義者のイネズには、「雨のパリ」という形容そのものがナンセンスなのである。
クロード・モネの「睡蓮」の連作で有名な、セーヌ川に面して建つオランジュリー美術館でのこと。
ソルボンヌ大学のレクチャーを依頼され、渡仏していた友人のポールと再会したイネズは、ギル流の懐古主義を批判するポールの博識に憧憬の念を抱いているが、それに対して、彼のペダンチックな物言いに反発するギルが、ポールのミニレクチャーに悉(ことごと)く異議を唱えていくシーンである。
ピカソのマデリーヌの肖像画(「水浴の女」)の前で、訳知り顔に批評するポールの傍らで、ギルは確信犯的に反論を述べていく。
「待って。この作品だけは違う」
「ギル、聞いていれば、何か学べるわ」とイネズ。
端(はな)からギルの教養を疑っているイネズの一言が、いよいよギルの感情を尖らせた。
「僕の記憶が正しければ、これはフランス娘、アドリアナを描いた失敗作だ。彼女は確かボルドー出身で、舞台衣装を学ぶためにパリに出て来た。浮名を流した相手は、モディリアーニとブラック。パブロの愛人でもあった。この絵には、彼女の繊細な美が表現されていない。すごい美女なのに」
この時点で、既に1920年代のパリ(注)にタイムスリップしていたギルは、ピカソの愛人となっていたアドリアナが、肖像画のモデルとなっている「事実」を目の当りにしていたので、周囲を驚かすような反論を提示した訳だ。
「クスリでもやってるの?」とイネズ。
今まで見たことがないのか、感情丸出しのギルの態度に驚くイネズには、こんな反応しかできないのだ。
彼女には、ソルボンヌ大学のレクチャーを依頼されたといいう、ポールの「学術的実績」の方が、正鵠(せいこく)を射た批評を提示しているとしか思えないのである。
「傑作どころか、駄作だ。パブロの小市民的な理解。彼女へのね。ベッドで性欲を爆発させる本性に眼が眩んだ」
パリを観光の対象としか見ないイネズの世俗的な現実主義と、本気でパリに住もうとさえ考えるギルの懐古主義の乖離感には、「生き方」に関わる価値観の違いが露わになっていた。
(注)曲線を主とするアール-ヌーボーに対して、パリやアメリカを中心に栄えた、幾何学な表現様式を主とするアール・デコが頂点を迎えた、独自の文化に象徴されるように、北米に端を発した、アメリカの1920年代を表現する言葉として、「狂騒の20年代」=「ローリング20s」(ローリング・トゥエンティーズ)という有名な表現があるが、伝統破壊というキーコンセプトを据えた、この文化フィールドの一大ムーブメント(仏では、「レ・ザネ・フォル」=狂乱の時代)は、第一次世界大戦後にヨーロッパに広がった。
2 タイムスリップからタイムトリップへの変容で発見された、ファンタジー・コメディの軟着点
午前0時を告げる鐘が鳴り響いていた。
夜のパリを彷徨するギルは、年代物のプジョーに乗った人々に誘われて、憧憬の1920年代へとタイムスリップする。
左からギル、ヘミングウェイ、ガートルード・スタイン |
ギルが、ピカソの愛人となっていたアドリアナを知ったのも、この異界の世界でのこと。
二人は初対面から意気投合し、恋愛の兆候をイメージさせる関係に進展していくには、さして時間を要しなかった。
ギル好みの、「永遠なるロマンティシズム」を具現する、究極の時空を超えた愛である。
ギルとアドリアナは、フレンチ・カンカンで有名な、モンマルトルのムーラン・ルージュに象徴される、ベルエポックの時代のパリにタイムトリップしていく。
ベルエポックの時代こそ、アドリアナの幻想するゴールデンエイジなのである。
だから、彼女は、ギルが憧憬する20年代への未練など寸分も持ち得なかった。
以下、そのときの二人の長い会話。
「私、戻りたくないわ。この時代に残りましょ。パリが一番美しく輝いていた時代よ」
「でも、20年代にも、チャールストンや、僕の好きなヘミングウェイやフィッツジェラルドが」
「それは今、現在よ。退屈な時代だわ」
「退屈?なら言うけど、僕の現在は2010年だ」
「どういうこと?」
「今夜、1890年代に来たように、君の時代へスリップした」
「本当?」
「君と同じだ。現在から逃げて、黄金時代へ行きたいと」
「あんな20年代が黄金時代なの?」
「僕にとってはね」
「私から見たら、ベルエポックの時代こそ黄金時代よ」
「でも、ベルエポックの彼らは、ルネッサンス期こそ黄金時代と。もし、ミケランジェロと並んで絵が描けるなら、喜んでスリップする。そのミケランジェロは、13世紀辺りに憧れたかも。小さいことだけど、今、分った。夢の中で覚えた不安の訳が」
「どんな夢?」
「怖い夢だった。家に抗菌剤を切らして、歯医者へ行くと、麻酔薬がない。つまり、黄金時代には抗生物質がなかった」
「一体、何の話?」
「もし、この時代に残っても、いずれまた、別の時代に憧れるようになる。その時代こそ、黄金時代と。“現在”って不満なものなんだ。それが人生だから」
「もし、このまま過去に住んだら、上手くいかない。何か価値あるものを書こうと思ったら、幻想は捨てるべきなんだ。過去への憧れも、その一つだよ」
「それじゃあ、お別れね」
「さよなら」
アドリアナもまた、自分と同じ懐古主義だった事実を発見したこと ―― これが、作り手の思いを代弁するかのような、ギルの内側深くに根付いていた厄介な幻想を相対化するに至ったのである。
同時にそれは、特定的な時代のスポットに限定していた、パリに対する狭隘なイメージを払拭させる思いに繋がって、婚約者イネズとの、「生き方」に関わる価値観の違いを顕在化させていく契機になっていく。
「僕は帰らないことにした。パリに残る。はっきりしたと思う。僕らは合わないんだ。犠牲的精神じゃないけど、君は僕がいない方が幸せだ」
ベルエポックの時代から生還したギルは、ホテルに戻るや否や、イネズに真情を吐露することで、二人の関係の破綻を決定づけてしまった。
今、ギルは、観光気分の延長ではなく、大好きなパリの「現在」に腰を据えて、小説を書く決意を固めたのである。
だからもう、午前0時を告げる鐘が鳴り響いても、タイムトリップしないギルが、そこにいた。
イネズと別れたギルは、今度こそ、ストレス発散の手段としてではなく、遥かに解放的な気分を乗せて、夜のパリを彷徨する。
ギルが、アンティーク・ショップで働くパリの女の子と再会したのは、セーヌに架かる橋を彷徨している時だった。
3 「記憶の再構成」という補正心理の技巧が生むノスタルジーのトラップ
ノスタルジーには、故郷を懐かしむ「郷愁」と、「過去」を懐かしむ「懐古」という2つの意味がある。
多くの場合、「郷愁」も「懐古」も、心地悪いイメージで捉えられていないということ ―― それが、ここでは問題になる。
人は大抵、他人に話せないような「負の記憶」を内側に張り付けていない限り、「郷愁」も「懐古」も心地良いイメージとして受容されているだろう。
しかし、この心地良いイメージというのが曲者なのだ。
自分の過去を特段に否定的イメージで捕捉していないならば、人間は、「現在」の自分の〈生〉に、都合良く「過去」の記憶を補正して生きている。
これを、「記憶の再構成」とも呼んでもいい。
近年、ネットスラングで、「思い出補正」とも呼ばれているものだ。
人間は、この「記憶の再構成」によって、想起し得るレベルの自分の「過去」の情報量を補正し、その中から「負の記憶」を弾き出していく。
だから、多くの場合、「過去」は美化されやすいのである。
なぜ、このような心理的現象が惹起するのか。
簡単に言えば、こういうことだろう。
当然の如く、人間は常に「現在」の中でしか呼吸を繋げないので、その「現在」に至るまでの自分の〈生〉の軌跡を、ひと連なりの人生の時間として把握することで、「私の人生の固有の形の確かさ」という感覚のうちに受容し、「あの過去があったから、今の自分がある」という風に補正する感情を持ってしまうのである。
だから、たとえそこに、「ごく普通に嫌な過去」が紛れている程度の「負の記憶」の残像が張り付いていても、アーティフィシャル(人為的なさま)な濃度を限りなく希釈させた、この補正心理のトリックの中で拾われることがないのは必然的であるだろう。
しばしば、自らの創作的な想像を付加させて、自在に拡大させていった、その加工的な補正心理の、人間本来の高度な「記憶の再構成」によって、拠って立つ自我の安寧を保証し、それを「現在」の〈生〉の心地良い風景イメージに繋ぎ、存分に浄化された「過去」をノスタルジックに幾度でも確認したいのである。
件の「記憶の再構成」という心理的トリックの補正を媒介して、「ごく普通の嫌な過去」は捨てられ、「ごく普通の良い過去」だけが自我に残されていく。
この確認は、心地良いイメージとして受容されていなければ意味がないからだ。
それは、自我の防衛戦略としても有効に機能するから、人は、この補正心理のトリックを簡単に捨てないのである。
4 「パリ万歳」というチープな感覚を超えて、タイムトリップのゲームをファンタスティックに描いて見せた傑作
ここから、本作の場合を考えてみよう。
タイムスリップして驚くギル |
ただ、ここで問題なのは「懐古」の対象が、いつでも、自分の経験に基づいた「正の記憶」になっていないということである。
1920年代のパリに栄えた文化の氾濫を、そこだけは希少価値と断じる、ギルの過剰なロマンティシズムが、今や、書物や他者からの伝聞情報の累加によって、特別に価値づけられた挙句、その時代の中枢スポットにタイムトリップしていく。
しかし、いつの時代でも、「最悪の現代」との「対比効果」(二つのものを対比した際に、一方の特徴が際立つ効果)によって、過去を美化する発想から免れ得ない人間が、一方の「古き良き時代」を際立たせ、主観的に特化され、特別に価値づけられた、その時空の幻想の懐で「虚構の舞い」をふんだんに繋いでも、欲望系を全開させて、身も心もすっかり馴致してしまえば、「古き良き時代」の鮮度が劣化するのは必至であるだろう。
そんな「古き良き時代」の鮮度の劣化から、ギルのロマンティシズムを防いだものは何だったのか。
思うに、ギルを誘導した蠱惑(こわく)的な世界への侵入が、「ミッドナイト・イン・パリ」という時間限定の「虚構の舞い」であったと同時に、彼が憧憬するアートの世界での象徴的人物が、一堂に会する限定的なスポットであったということ。
これに尽きる。
要するに、ギルは、彼の内側で特別に価値づけられた、蠱惑的な世界との「約束された睦み」を、彼の幻想のイメージラインに沿ってトレースしていっただけなのだ。
だから、彼がそこで手に入れた至福の本質は、どこまでも、彼の内側に棲みついて離れない、「古き良き時代」への過剰なロマンティシズムの炸裂であるに過ぎなかった。
ギルにとって、「ミッドナイト・イン・パリ」という限定された時間の、限定されたスポットで、全人格的に手に入れたものの価値が、永久(とわ)の輝きを放つのは当然だったのである。
そんなギルの、「永遠なるロマンティシズム」を相対化したのは、彼が時空を超えて出会ったアドリアナであった。
しかし、アドリアナと共に、更にタイムトリップしたベルエポックの世界で、ギルが視界に収めたのは、ギルが特別に価値づけた、20年代のパリを厭悪するアドリアナの、過去を美化する発想それ自身だった。
ギルの憧憬の対象であった蠱惑的な世界を、彼女はあっさりと拒絶し、ベルエポックという名の、いつの時代でも、少しずつ形を変容させながら存在してきた、「黄金時代」への回帰を吐露するアドリアナの、爛々と光る双眸(そうぼう)を視界に収めたとき、ギルの自我に巣食っていた幻想が剥落されるに至ったのである。
それは、ギルの内側に棲みついて離れない、「古き良き時代」への「永遠なるロマンティシズム」が相対化された瞬間だった。
アドリアナの懐古趣味を視界に収めることで、「永遠なるロマンティシズム」を相対化し得る程度において、メタ認知能力を強化したギルは、「現在」の〈生〉に立脚して生きることの大切さを知るに至ったのである。
因みに、ここで私が想起するのは、「ALWAYS 三丁目の夕日」(2005年製作)。
そこで過剰なまでに「懐古」されている、「古き良き時代の下町共同体」という幻想は、まさにギルが浸入した蠱惑的な世界へのノスタルジーであって、それ以外の何ものでもなかった。
「ALWAYS 三丁目の夕日」より |
それは、下町で育った私自身が、経験的に実感しているところである。
ゆめゆめ、「過去」を極端に美化する発想に逃避しないことである。
思うに、「最悪の現代」は、いつでも、「古き良き時代」という、好いとこ取りのノスタルジーによって対比され、格好のストレッサーとして「正義派」の攻撃対象にされていく。
「過去」を美化する発想から免れ得ない人間の、宿痾(しゅくあ)の如き、丸ごと幻想の被膜で覆われた「ノスタルジーの美学」の構造は、人間の心の脆弱な部分を照射する固有の瑕疵として、世俗世界で生きる私たちの日常的な疲弊感の中で、永久に再生産されてしまうのである。
それが人間であり、それが人間の弱さではあるが、しかし、「ノスタルジーの美学」が永久に再生産されてしまうことによって、辛うじて、「最悪の現代」が吐き出し続ける疲弊感を、些かなりとも癒してくれるのだ。
この映画の作り手は、その辺りの人間の性(さが)について、全て了解済みである。
だから、この映画は、単に「パリ万歳」という、チープな感覚で受容する枠を遥かに超えて、今や後戻りが困難な辺りにまで、文明に浸り過ぎてしまった人間が、ウディ・アレン監督一流のアイロニーを隠し味として含ませつつ、「古き良き時代」にタイムトリップするゲームをファンタスティックに描いて見せたのである。
ウディ・アレン監督 |
これは、「もし監督自身がタイムスリップするとしたら、どの国のどの時代に行きたいですか?」というインタビュアーの質問に対する、ウディ・アレン監督の答え。
「抗生物質がないところにも住めない」と言い切るウディ・アレン監督にとって、「古き良き時代」にタイムトリップする快感は、その時代の空気をほんの少しでも嗅ぐことができれば充足し得るゲームであったが、映画の主人公には、このゲームを突き抜けていくアクションを選択させていた。
しかし、 映画の主人公に選択させたアクションに、特別な意味を持たせていた事実を見逃してはならないだろう。
この物語の本質は、どこまでも、「永遠なるロマンティシズム」という「虚構の舞い」への没我の児戯性を自己修復し、幻想の被膜で覆われた「ノスタルジーの美学」に浸る感傷を、否定的に昇華させていく男の心的行程を描くところにあるが故に、映画の主人公に、価値観の違いをも妥協させずに、婚約破棄へと振れていくアクションを選択させたのである。
価値観の違いをも妥協させない括りこそ、ウディ・アレン監督流の「予定不調和」の物語の本質だった。
ベルエポックの世界へのタイムトリップによって、初めて、「今」、自らが置かれている「現在性」の矛盾に気付かせた果てに、「生き方」に関わる、基本的なところでの価値観の違いは、「性格の不一致」の違いや、「相性」の違いの問題に収斂されないということの重みを、本作はファンタジー・コメディという軽走感の中で描き切ったのである。
そこに、ウディ・アレン監督の基幹メッセージがあると考えれば、私の腑に落ちる。
少なくとも、私にとって、「ミッドナイト・イン・パリ」という作品はそういう映画だった。
(2013年3月)
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