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2013年2月4日月曜日

たそがれ清兵衛(‘02)      山田洋次



<「清貧」と呼ぶに相応しい清兵衛像の、肩ひじ張らない恬淡とした生き方>



 1  屋上屋を架すようなナレーション挿入の、「過剰なまでの分り易い物語」への振れ方の悪弊



 「観る者との問題意識の共有」=啓蒙意識への強い拘泥。

いつからか、山田洋次監督には、これが、そこだけは外せない地下水脈のように、いよいよ累加されてきているように思われる。

この拘泥感の強さが、時として、「過剰なまでの分り易い物語」を生んでいく。

致命的な瑕疵の見られない本作においても、この「過剰なまでの分り易い物語」が堂々と侵入してしまっていた。

端的に言えば、時代を跨(また)いで成長した主人公の次女以登による、間断なく、途切れることがないナレーションがそれである。

何より看過し難いのは、明治維新を経て、大人になった以登が、父の回想を閉じていくラストシーン。

以下、そのナレーションを再現する。

 「かつて、明治の御世になって、父の同僚や上司だった人たちの中には、出世して、偉いお役人になった方々が沢山いて、そんな人たちが、父のことを”たそがれ清兵衛”は不運な男だったとおっしゃるのをよく聞きましたが、私はそんな風には思いません。父は出世などを望むような人ではなく、自分のことを不運などとは思っていなかったはずです。私たち娘を愛し、美しい朋江さんに愛され、充足した思いで短い人生を過ごしたに違いありません。そんな父のことを、私は誇りに思っております」

ラストシーン
 このナレーションを耳にして、正直、全身の力が抜けてしまった。

 殆ど稀有な存在でしかない主人公の生き方を、「本来的」な「日本の心・武士の心」、「日本人本来の男らしさ」(レビューより)と幻想して、感銘を深くする人たちとは無縁に、私の場合、この「全身説教居士」にまで上り詰めてしまった作り手が挿入した、このラストナレーションを聞かされて、「観る者との問題意識の共有」への強い拘泥=啓蒙意識全開のスクリプトに愕然としたのは事実である。

「このような父がいたからこそ、今の自分の幸福がある」という、身内自慢のメッセージと化してしまったラストナレーションの挿入だけは、大の説教嫌いで、説明過剰な描写を嫌う私にとって、断じて看過し難かったからである。

これを削ることによって軟着し得たラストカットが包含する、えも言われぬ、「言外の情趣」の価値を高めたことが容易に想像し得るので、至極残念であると悔やまれてならないのだ。

敢えて傲慢な言い方をすれば、この映画は、清兵衛の帰還で終わるべきだったのだ。

清兵衛の帰還
清兵衛の帰還によって、時代を跨いだこの家族の様態のイメージは、観る者が容易に想像できるではないか。

そうであるなら、大人になった以登のナレーション自体、一切不要となるだろう。

それが正解なのである。

なぜ、こんな屋上屋を架すようなナレーションを挿入したのか。

そこでは、恐らく作り手のパーソナリティに根差すだろう、「観る者との問題意識の共有」=啓蒙意識への拘泥感をベースにした、嗜好・性癖が露呈されていたと言わざるを得ないのである。

そればかりではない。

「過剰なまでの分り易い物語」への振れ方の悪弊が、まさか、「上意討ち」のシークエンスの中で拾われるとは思わなかった。

自分の不幸を嘆く敵対者の余吾に対して、共感含みで、くどくどと説明する清兵衛の描写など、既に繰り返し映像提示されていたものであるだけに、この余分なシーンの挿入が物語総体の価値を壊したとは言わないが、不必要なカットだったことは間違いない。

では、本作を通して、「過剰なまでの分り易い物語」の基本骨格を削り切れない山田洋次監督にとって、「観る者との問題意識の共有」に収束される基幹メッセージは何だったのか。

言うまでもない。

御蔵役所
既に前述したように、一切が「清貧の美学」に収斂されるに足る基幹メッセージが、物語の中枢を占有していて、それを、実質30石取りの「下級藩士」としての短い一生を、最後まで自らの「分」を弁(わきま)え、「眩いまでに清く、正しく、美しく生きた男」の物語のうちに昇華させたという、その「高潔」、「純愛」、「謙虚」、「愚直」、「恬淡」、「質素」等々のメンタリティの集合的な「美徳」の価値である。

まさにそこにこそ、欲望の稜線を伸ばすばかりの現代人が最も欠落しているという決めつけに繋がったのだろう。

明らかに、この辺りの文脈が、作り手の内側の観念系を支配していると言っていい。

山田洋次監督
山田洋次監督の説教臭さが、年輪を加える度に目も当てられなくなっていくと印象づけられるのは、その後の作品で既に検証済みだからこそ、敢えて、悪態をついた次第である。

然るに、悪態をついたからと言って、「一部の瑕疵が、全体の瑕疵となる」程の壊れ方をしない限り、映像総体を全否定するというような青臭い批評をするつもりは毛頭ない。

その辺りに言及しよう。

「観る者との問題意識の共有」への強い拘泥を有する、そんな作り手が構築した、致命的な瑕疵の見られない本作が、観る者に嫌味に映らなかったのは、とかく社会派的メッセージを有する数多の作品群に垣間見られる、以下の厄介な問題に流れ込まなかったからである。

即ち、「善・悪」、「正・不正」、「美・醜」、「聖・俗」という極端な二元論を、恰もそこだけを狙ったかのようなイデオロギッシュで声高な物言いによって、特化された観念系を訳知り顔の倨傲な態度のうちに描かなかったこと ―― これが大きかった。

それによって堅持された均衡感が、地に足がついた映像総体の安定を保証したと言えるだろう。

致命的な瑕疵の見られない本作に、この均衡感を保証したもの。

それは、時代考証に対するプロ意識が縦横に感受し得る、徹底したリアリズムへの拘泥である。

家屋や、御蔵奉行下における城内での薄暗さを提示した映像の説得力は、作品自体の質を相当程度高めていた。

そんな薄暗さの中で日常性を繋ぐ主人公、清兵衛が醸し出す臭気は、まさに、実質30石取りの「下級藩士」としての生活臭そのものだった。

この清兵衛を見事に表現し切った真田広之の力量があればこそ、「清貧の美学」に収斂される基幹メッセージを、観る者に嫌みなく受容し得る自然さを保証したと言っていい。

「重厚」という概念とは様子が異なる、真田広之の存在感の大きさが本作を根柢において支え切っていたのである。

以下、その辺りについて書いてみたい。



 2  「清貧」と呼ぶに相応しい清兵衛像の、肩ひじ張らない恬淡とした生き方



男やもめに蛆が湧く、という諺の通り、伸び放題の月代(さかやき)に髭面の相貌に加えて、着衣からは異臭が漂う清兵衛の日常性は、御蔵役の勤務が終わるや、一切の付き合いを断り、まっすぐに扶養家族のいる茅葺の寂れた自宅に帰還し、亡妻の葬儀での借金返済のために内職しながら、二人の娘と認知症の母の世話をする日々を繋いでいくだけだが、そんな不自由な生活に不満を託っている様子がない。

その風景は、まさに「愚直」で慎ましく、「清貧」な生活そのものだが、その「清貧」さを当然の如く引き受ける器量があるが故に、彼なりに「自分サイズ」の「分」に見合った身過ぎ世過ぎの生活風景なのである。

元気な二人の娘
この時代の人々の、階層内秩序での分相応の普通の向学心が浸透している教育文化の高さは周知の事実だが、寺子屋に通って論語を暗誦する、長女の萱野へのレクチャーを忘れない清兵衛もまた、将来を見据えた教育熱心な男でもあった。

「学問しえば、自分の頭でものを考えることができる。考える力がつく。この先、世の中どう変わっても、考える力持っていれば、何とか生きていくことができる。これは、男っこも女っこも同じことだ」

 彼には、二人の素直な娘との物理的共存を、存分に愉悦する余裕があるのだ。

だから、自分の無精な日常性に相当鈍感になっている。

気にならないのである。

しかし、海坂藩主が御蔵役所を検分した折り、異臭漂う清兵衛と近接した一件で、恥をかかされたと嘆く叔父の訪問に、清兵衛は凛として反応する。

「二人の娘が、日々、育っているのを見ていくのは、例えば、畑の作物や草花の成長を眺めるのに似て、実に楽しいもんでがんす」

相手の器量などどうでもいいとばかりに、強引な縁談を勧めに来た叔父に放った清兵衛の、一徹な一面を窺わせる確信的言辞である。

「天下が変われば、侍やめて百姓になる」

これは、京都にいくように勧める親友・飯沼倫之丞に吐露した言辞だが、そこに些かの誇張もない。
 
これらの物言いは、観る者を意識した説教臭さ丸出しの台詞のようでもあるが、本作の主人公の地道な生き方に溶融しているから、扶養家族の多い下級武士の生活風景を自然に切り取っていたという印象が強い。

何といっても、清兵衛を演じた真田広之の抑制的表現力の抜きん出た力量が、山田洋次監督特有の、「貧しき者たちの真実と正義」を強調する啓蒙意識臭を相応に希釈化させていた。

決闘前夜
本作は、「無欲にして、清貧に生きよ」という作り手の基幹メッセージを、嫌みなく表現し切った俳優が中和化し、浄化したことで救った、典型的な演技者依存の映画でもあった。

 そんな演技者の能力を巧みに引き出した、山田洋次監督の演出力の冴えが相乗効果を生み出したのは言うまでもない。

 何より印象深いのは、前述したように、「善・悪」、「正・不正」、「美・醜」、「聖・俗」という極端な二元論が擯斥(ひんせき)されていたこと。

真田広之の表現力の高さに加えて、本作の出来の良さは、以上の点にこそ求められるだろう。

 例えば、主君の逝去によって惹起したお家騒動は、幕府の公儀隠密を恐れた藩内の権力闘争であって、別に「善」と「悪」の争いではない。

 従って、藩命によって清兵衛が決闘する余吾もまた、「悪」の象徴として描かれている訳ではなかった。

 だからそこに、「正・不正」のジャッジが介在する余地がないのだ。

 また、清兵衛が勤務する、御蔵奉行所での同僚や上司の役人は、付き合いの悪い清兵衛を「たそがれ清兵衛」と揶揄したからと言って、「俗」を極める者たちなどでは全くない。

「幕末下級武士の絵日記」(大岡敏昭・相模書房)によると、幕末に呼吸を繋ぐ下級武士たちが、尊王攘夷運動に参加した訳ではなく、多くの下級武士たちは、飲酒したり、グルメ歩きを愉悦したりして、日々の酒盛りで盛り上がっていたのである。

従って、彼らの存在が充分に世俗的であったにしても、別に「聖」と対極にある、極めつけの「俗」の象徴などではないのだ。

まして、彼らの生き方や生活の様態に、「美・醜」のジャッジを介在させる把握などナンセンスである。

以上の把握を踏まえるとき、清兵衛の「清貧」さが、「善・悪」、「正・不正」、「美・醜」、「聖・俗」という極端な二元論による、「悪徳」によって眩く輝く、「美徳」の体現を強調したものでないことは自明である。

 何より清兵衛は、自ら選択的に特化して、「清貧」の生活を、一つの至要たる生き方として立ち上げた訳ではないのだ。

 「清貧」であるより他にあり得ないという選択肢限定の〈状況性〉が、「清貧」の生活に振れただけなのである。

 確かに、「おぬし程の腕がありながら」と飯沼倫之丞に惜しまれた清兵衛だったが、彼にとって、「剣」で身を立てる時代の終焉を感じていたからこそ、余吾のようなリスクの伴う生き方に自己投入できなかったと考えた方が合理性がある。

彼には常に、扶養家族の問題が立ち塞がっているのだ。

 要するに、清兵衛の生き方・生活の内実は、「善・悪」、「正・不正」、「美・醜」、「聖・俗」という、極端な二元論の「悪徳」のパーツを、本人が意識するしないに関わらず、一つずつ潰していったという興味深い解釈も可能なのである。

 大体、中野孝次が著した「清貧の思想」(文春文庫)の中で強調されていた、西行とか芭蕉、良寛上人などという、この世で滅多にお目にかかれないような人物を、敢えて引き合いに出さなければならない程、江戸時代の人々は「清貧の美学」として強調されるような生き方とは無縁に、それぞれが自在な生き方を愉悦し、それで充足する人生が存在したという事実こそ、何より至要たるものではなかったのか。

弥次郎兵衛(左)喜多八(右)(ウィキ)
江戸町民や下級武士にとって、「清貧」を特段の「美徳」と考えることなく、十返舎一九の「東海道中膝栗毛」で語られていたように、庶民の夢であるお伊勢参りを具現したり、自らの生活圏での村祭りなどを楽しんだりといった、ごく普通のサイズの「世俗」的な生き方を繋いでいったのである。

まして、その「世俗」的生き方を、「清貧」という名で呼ばれるような、恰も「美徳」と対峙する如き「悪徳」的な臭気など感じようがなかったのだ。

山田洋次監督は、本作の主人公の生き方を、そこに集合される理念系のうちに仮構して、「清貧の美学」を強調した作品を構築したように思われるが、縷々(るる)言及してきたように、真田広之の極めつけの表現力によって映し出された清兵衛像は、敢えて選択的に特化した生き方としての「清貧」の日々を繋いでいったというよりも、ごく普通に、それ以外に選択し得ない生き方として、身なりはシャビーだが、あのような自分サイズの生活を繋いでいったイメージをトレースする何かだった。

だからこそと言うべきか、過剰なまでに物語を支配し、多弁に語り尽くし、執拗に追い駆けて、動かしていく、あんな嫌味なナレーションの挿入など全く不要だったのである。

なぜなら、フィルムに鏤刻(るこく)された清兵衛像の、肩ひじ張らない恬淡としたイメージの総体のうちに、「清貧の美学」などという胡散臭い概念とは無縁だが、しかしその生活の内実が、まさに「清貧」と呼ぶに相応しい生き方そのものを充分に具現していたからである。

(2013年2月)

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