<組織暴力の爛れた生態を描き切った究極の一篇>
1 「大統領より憧れだった」ギャング生活に身を染めた愚か者の物語
この映画で最も興味深いのは、モデルとなっ実在の犯罪者・主人公ヘンリー・ヒル(以降、ヘンリーと呼称。因みに、2012年6月に69歳で病死)の人物造形である。
大抵、ギャング生活に吸収され、侵入していく経緯には、そのダークサイドな闇の世界に拾われる以外にない、極端に劣化した家庭環境との由々しき因果関係が、人格形成過程において看過し難い背景として横臥(おうが)しているものだが、ヘンリーの場合は些か様子が違っていた。
以下、ヘンリーのモノローグ。
「昔からギャングになりたかった。俺にとってギャングは、大統領より憧れだった。バイトを始める前から決めていた。暗黒街こそ俺の世界だ。カスどもばかりの街でデカイ顔ができる。何だってやりたい放題だ。消火栓の前に駐車しても、サツは知らん顔だ。夜通しカードをしても、誰もタレ込まない」
1955年、ブルックリンから開かれたヘンリーの回想である。
狭い家に7人も暮し、11歳の頃から奉公したアイルランド系の父親が作った家庭環境は、決して機能不全家族の崩壊の風景を印象づけるものではなかった。
「アメリカのガキは怠け者だ」
これが、ヘンリーの父親の口癖だった。
そんな父親から見れば、当然ながら、学校をサボる息子の怠惰は赦し難いもの。
然るに、多忙な父親の眼を盗んで、ブルックリンの街を牛耳るポールという名の、ギャング組織のボスの使い走りを繋ぐヘンリーの非行行為は、彼の軽佻浮薄で、能天気な性癖が自己統制が効かないほどに暴れ捲ってしまった結果が招来したものだった。
「13歳で、俺は近所の大人より稼いでいた」(モノローグ)
悪事の連続で、「成功報酬」を手に入れたヘンリーの非行行為は、今や、ポイント・オブ・ノー・リターンの非日常の危うさを常態化することで、それが彼の日常性のうちに溶融してしまったという訳だ。
実話に基づいた以上の物語の展開を見て判然とするように、彼の家庭環境は、ギャングのチンピラを簡単に生んでしまう家族の風景とは明らかに切れている。
この事実は、ヘンリーのモノローグの中で紹介された、同様にアイリッシュであるジミーの、以下の簡単な生い立ちと比較すれば、彼らの心の風景との落差感が際立つだろう。
ジミー(左)とヘンリー |
「ジミーは、街で一番恐れられた男。11歳でムショに入り、16歳で殺しを請け負った。でも、彼が本当に好きなのは盗みだった。心から楽しんでいた」
これが、ヘンリーがその半生を通して、「グッドフェローズ」(いい奴=ワイズガイ)という特別な関係を形成していく男の人となりである。
この僅かな情報のみで、ジミーの生い立ち(注)は充分に予測可能なのである。
それは同様に、ジミーと特別な関係を結ぶ、イタリア系のトミーの極端に短気な性格にも類推できるもの。
あろうことか、このトミーは、イタリア系の内ゲバ的な様相を見せた、組織幹部バッツを、母親から借用した包丁で刺し殺すという、人格形成の偏頗(へんぱ)さを強烈に印象づける「狂気」を剥き出しにしていた。
ここで、ジミーやトミーと比較するとき、明らかに、ヘンリーの人格造型には極端な屈折や歪みがなく、その眼差しの柔和な相貌も、典型的な「ワル」の範疇に当て嵌まらない事実を認知せざるを得ないのである。
そんな折、発生した600 万ドル強奪事件(「ルフトハンザ強奪事件」)。
無論、強奪専門の本物のマフィアのジミーが首謀者で、ここでもヘンリーは、単なる「共犯者」。
一貫して、ヘンリーは「共犯者」であって、まして、殺人事件の当事者にまで堕ちることがないのだ。
殺人事件に関わるジミーやトミーの具体的話題に対して、常に緊張した面持ちで表情を曇らせていた彼の描写が印象的だった。
要するに、ヘンリーは、「大統領より憧れだった」ギャング生活に身を染めることによって、存分に快楽主義全開で、暗黒街の気分を享受したかったというモチーフが延長され、その底なしの泥濘から抜け出すには、まさに、自らの命の危険性をリアルに体感するに足る、由々しき契機を必要とするレベルの愚か者に過ぎなかったということ ―― この把握に尽きるだろう。
(注)「2歳で捨て子になり、その後10数人の里親の間をたらい回しにされた。里親からは虐待を受けたりもした」(ウィキペディア)
2 組織暴力の爛れた生態を描き切った究極の一篇
1978年。
左からトミー、ヘンリー、ジミー |
その首謀者もジミーだった。
粛清の対象は、事件後に派手な生活をするチンピラや、事件の計画を立てながら報酬をもらえないでグチっている男や、口の軽い男、等々。
要するに、組織防衛に関わる最低限の「掟」が劣化しているギャング団の愚かさが、事件の仲間を次々に粛清する行為の中で露呈されるばかりなのだ。
そんな組織内部にあって、心の動揺を隠せないヘンリーは、充分に軽佻浮薄であり、俗臭満載であり、「低自己統制尺度」(自己統制能力の低さ)も極まっているが、度し難いほどに邪悪ではなく、何より血を好む生臭さと切れた、「脆弱なチンピラ性」としての閾値(いきち=刺激の最小値)も、とうていジミーやトミーに及ぶほどに直情的ではなかった。
それが、ヘンリーをして、「究極の悪」にまで流れ込むダークサイドなラインを約束できないものにしているのだ。
「組織の奴らは、前触れもなしに相手を殺す。何も言わない。映画みたいに言い争いなどしない。殺し屋は親しげに微笑みながら現れる。最も助けが必要なとき、力になってくれるべき者が冷酷に忍び寄る」
「ルフトハンザ強奪事件」の秘密を知る粛清の対象者が累加されていくに連れ、恐怖感を募らせていたヘンリーのモノローグである。
「力になってくれるべき者」とは、ジミーのこと。
裏切った組織の「お礼参り」から、証言者を生涯にわたって保護する制度として名高い「証人保護プログラム」という名の、アメリカ特有の制度によって守られながら、自らが関わった犯罪の履歴を法廷で吐露していく崩れ方こそ、禁断の違法ドラッグに手を出し、殺人に加担する「ワル」でありながらも、先導的にそれを遂行していく役割を最後まで担えない人格構造の裸形の様態 ―― そこにこそ、この映画の主人公が、本質的に「全身犯罪者」にまで届き得ない「素質」の欠如が炙り出されてしまうのだろう。
かつて、数々の無法行為によって逮捕され、裁判にかけられても、「仲間を売らず、口を割らなかった」ことで、ギャング仲間から絶賛されたヘンリー少年の通過儀礼の産物の延長線上に、ギャング組織の闇のルールから抜けられない運命を自ら負った返報が、今、このとき、「最も助けが必要なとき、力になってくれるべき者が冷酷に忍び寄る」現実に搦(から)め捕られていたのである。
ヘンリーとジミー |
そして、その男の視線を通して炙り出された、「本物」の「ギャング」たちの醜悪な相貌性を抉(えぐ)り出し、徹底した自己基準によって平気で人を殺める、私利私欲に塗れた彼らのインモラルな生臭さを、どこまでも観る者の感情移入の導入口を排除するリアリズムで押し切ることで、骨の髄まで性根が腐っている、組織暴力の爛れ切った生態を描き切った究極の一篇だった。
―― 本稿の最後に、「ゴッドファーザー」と「グッドフェローズ」の比較を、簡潔に論じたい。
「美学」、「格調」、「感傷」、「ロマン」、「寡黙」、「静謐」、「憂愁」、「悲哀」、「沈潜」、「沈鬱」、「品位」、「矜持」、「重厚」、「威圧」、「陰影」、「ローキー」、「郷愁」、「渋み」、「脱俗」等々。
「ゴッドファーザー」より |
「私欲」、「軽薄」、「情動」、「卑劣」、「背馳」、「哄笑」、「下劣」、「醜悪」、「邪悪」、「ハイキー」、「生臭さ」、「俗臭」、「浮薄」、「軽佻」、「愛嬌」等々。
そして、これらは、「仁義」を剥落させた分だけ「掟」を形骸化させた挙句、「私欲」の暴走が留まるところを知らない、爛れ切ったギャング組織の風景を描いた「グッドフェローズ」に包含されるものだが、逆に、「ゴッドファーザー」には滅多に拾えない特性的観念である。
いずれもアウトローの武装集団としての組織暴力を否定する映像でありながら、その作風や筆致の相違から、これほどまでにギャング組織の風景の懸隔感を印象づける作品はないだろう。
然るに、これだけは間違いなく言えるが、本作の「グッドフェローズ」で描かれたギャング組織の風景こそ、組織暴力の爛れ切った生態をリアルに捉えていると、私は考えている。
マーティン・スコセッシ監督 |
だからこそ、アウトローの武装集団としての組織暴力は、長期戦覚悟で「武装解除」されるべき由々しき対象となり、我が国のケースで言えば、不当な金銭要求を繰り返したり、民事介入暴力としての「行政対象暴力」が平気で罷(まか)り通っていたりする、「指定暴力団」の「特定暴力団」化が焦眉の急(しょうびのきゅう)とされる所以である。
その意味で、本作を考えるとき、ここまで、組織暴力の爛れ切った生態をリアルに描き切った、マーティン・スコセッシ監督に快哉を叫びたい思いで一杯である。
抜きん出て、切れ味の鋭利な傑作だった。
(2013年1月)
確かに
返信削除