1 物語らしい表面的体裁をギリギリに保持した映像が開いた荒唐無稽の遁走譚
テレビ局に勤務する妻子のいるフェルディナンは、裕福な家庭での生活に嫌気が差していた。
パーティーの場でも、饒舌に時を過ごす連中から一人浮いたようなフェルディナンは、目眩(めくるめ)く原色の光の洪水のカットの連射の中で、一人のアメリカ人と出会い、女性通訳を介在させて、話しかけていく。
そのアメリカ人が、フランスに「悪の華」を撮りに来た映画監督であるサミュエル・フラー(1980年製作の「最前線物語」で有名)であると知ったが、特段の反応はない。
しかし、サミュエル・フラーの映画論に興味を持ったフェルディナンは、その老紳士に映画とは何かを尋ねた。
以下、通訳を介して語った、サミュエル・フラーの映画論。
「“映画は戦場のようだ”」
「“愛”であり、“憎悪”、“行動”、“暴力” であり、“死” であり、つまり“エモーション(感動)”である」
「僕には見るための目と、聞くための耳と、話すための口がある。全部、バラバラだ。繋がってない。ひとつながりのはずが、幾つもあるようだ」
アイデンティティ・クライシスに陥っているかの様態を垣間見せるフェルディナンが、パーティーの場で、周囲の女性たちにケーキを投げつける行為に走ったのは、そんな内省的な夢想を繋いでいた直後だった。
パーティーでの暴走のその日、フェルディナンは、かつての恋人マリアンヌと偶然再会した。
彼がテレビ局を辞職して、訳ありのマリアンヌと一夜を共にした後、南仏への遁走に打って出たのは、彼の心理的文脈において必然的な事態でもあった。
ここから、物語らしい表面的体裁をギリギリに保持した映像が、荒唐無稽な言動や振る舞いを満載した二人の遁走譚が開かれていく。
2 「詩的言語」=「表現宇宙」を手放せない男、突き抜ける感情優先の女 ―― 「戦場のような映画のフィールド」の最前線
「詩」の連続性を具備して呼吸を繋ぐ男 |
「私は作ろうと思った映画がどんなものか分からなくなってしまった映画監督だった。するとちょうどその時、全てが解決された。私は不意に映画の確信に踏みこんだ。今、自分自身に起きていることを語ればいい。どんな映画を作ろうとしていたか分からなくなった映画監督の話を映画にすればいいのだ」(「フェリーニ、映画を語る」フェデリコ・フェリーニ、ジョヴァンニ・グラッツィーニ著 竹内博英訳 筑摩書房)
これは、現実と虚構の世界を交錯させた超凡なる傑作、「81/2」を構築するプロセスで懊悩した、フェデリコ・フェリーニの正直な述懐である。
ジャン・リュック・ゴダール監督(ウィキ) |
物語を簡単に追っていく。
パーティーでの暴走の日、偶然再会したかつての恋人マリアンヌと共に、印象的なラストシーンに至るまで、フェルディナンは「破滅的な逃避行」を繋いでいく。
マリアンヌの部屋に横たわる死体が示すように、訳ありの彼女もまた、パリを遁走するに足る充分な根拠があったが、それについて一向に気にする様子が見えない二人は、「大都会からの遁走」それ自身が目的であるかのような振れ方を体現していく。
二人が目指す遁走の地は、温暖で湿潤な地中海性気候の南仏である。
その間、二人はガソリン代を支払うことなく、マンガのような滑稽な立ち回りを見せたり、挙句の果ては、ドライバーが死んでいる事故車を利用し、自らの車を燃焼させることで焼死を装ったりするが、お陰でフェルディナンのドル紙幣も灰になるという杜撰さ。
黒煙たなびく長回しのシーンに象徴されるのは、車を失った二人の前途多難な逃避行。
それでも、川を渡り森を抜けて行く二人の脳天気ぶりは、なお延長されていた。
街に出て高級車を盗んだ二人は、一見、ファンタジーライフをイメージさせる島暮しに繋がっていく。
ところが、相変わらず、殆ど表層的な夢想に耽る男と無縁に、退屈を嫌う女の不満が噴き上がって来て、二人の「愛」の幻想が剥がされる「約束された時間」が足早にやってくる。
以下、島の水際での二人の会話。
「悲しそうだ」
「あなたは言葉で語る。私は感情で見つめているのに」
「君とは会話にならない。思想がない 。感情だけだ」
「違うわ、思想は感情にあるのよ」
「それじゃ、本気で会話してみよう。君の好きなきなこと。してみたい事は?僕も言うよ。君からだ」
「花。動物。空の青。音楽。分からない。全部よ。あなたは?」
「野望。希望。物の動き。偶然。分からない。全部だ」
二人の対立の心理的構造を示す重要な会話である。
男から離れて、女は本音を吐露するのだ。
「5年前に言った通りね。分り合えないわ」
女は、「何ができるのか」、「何をしてよいか分らない」とリピートしつつ、夢想のスポットと化していた水際から去っていく。
残された男は、相変わらず、「読書三昧」などとノートに記し、「詩」の連続性を確保するのである。
フランスのコメディに登場することが多い、滑稽な言動(夢想に耽る)を繋ぐピエロのマイペースぶりは、「ピエロ」と呼ばれて反発する男の自己像とは切れているようである。
一貫して、ペダンチックに累加させてきた「過去」に拘泥し、内省的な夢想を繋ぐ時間を延長させる男にとって、「人生」の意味だけが関心事であるが、「過去」よりも「未来」に向かう感情の昂揚のみを大切にする行動的な女との乖離は決定的だった。
しかし、二人の対立の関係こそが、「戦場のような映画のフィールド」に自己投入せんとするジャン・リュック・ゴダール監督にとって、異なったイメージを内包する矛盾を統一させていくに足る、内部世界での「詩的言語」=「表現宇宙」の堅固な定着への実験的なテーマであるのだろう。
そして、マリアンヌとの微妙だが、本質的な乖離を露わにした、フェルディナン=ゴダールは、祖父の口真似をしながら、「第4の壁」を突き抜けて、最も肝心な意思を観客に向かって語っていくのだ。
「小説の題材を見つけた。 今後は生活ではなく、人生を書く。人生そのものを。 人と人の間に存在するものや、空間、音や色を書く。 そこへ到達すべきだ。 ジョイスが試みたが、それをもっと完成させねば」
分り合えない現実の反復を目の当たりにする女の慨嘆は、直截な叫びに結ばれる。
「もう、うんざり!海も、太陽も、砂浜も、缶詰もよ!ここを出るの!」
こんなときでも、“勇気とは家に。自然の傍に留まることだ”などと、手に持つ書物からの引用を繋ぐフェルディナンは、内部世界での「詩的言語」=「表現宇宙」を手放せないのだ。
ジェイムズ・ジョイス(ウィキ) |
「私は生きたいだけ。彼には分らないのよ」
マリアンヌもまた、観客に向かって自分の思いを吐露していく。
ベトナム戦争を終焉させられない、米国への存分なアイロニーに端的に象徴されているように、作家としての自己像を一気に解放させて手に入れた自在性の中で、独特の「表現宇宙」を開いていったフェリーニと違って、一貫してゴダールの熱心な鑑賞者でなかった私から見れば、「気狂いピエロ」で具現化した問題意識を「時代状況」の中枢にまで投入していくことで、作家としての自己像を縛りあげていった印象から拭えない「ゴダールの革命」が開いた「表現宇宙」は、果たして、今でも「伝説」という名の賞味期限のバリアを突き抜けていったか否か、不分明であると言わざるを得ないのである。
3 「永遠」という名の「究極の死」によってしか結ばれないトラジコメディの収束点
「僕は地中海の水平線上に向けた大きな疑問符なんだ」
間抜けなギャング団に追われていて、別れることになったマリアンヌと再会したときの、フェルディナンの「詩的言語」である。
それは、「運命線の短い女」の「約束された死」に流れていく伏線でもあったのか。
完膚なきまでに足蹴にされるほどに、マリアンヌに騙されたフェルディナンは、彼女と、彼女の兄と名乗っていた恋人を射殺する。
顔にブルーのペンキを塗りたくったフェルディナンは、その異様な「ピエロ」の相貌を覆い尽くすかのように、黄色のダイナマイトを巻きつけたばかりか、更にその上に、真紅のダイナマイトを絡み付かせてしまうのだ。
青・黄・赤という減法混色による、「色の3原色」の揃い踏みの中で最も際立つ、赤の武装のネガティブな意味は、色彩心理学によれば、憎悪と嫉妬、そして破壊的な感情を表現すると言われている。
まさに、本人が最も嫌う、本物の「ピエロ」にされた男の破壊的感情が女を射殺した後、自己を対象にしてしまったのである。
ダイナマイトの導線に点火する男。
「バカだ。こんな死が・・・」
そう叫んで、火を消そうと足掻く男。
真紅の炎が噴き上がって、爆発音が周囲を轟かすのだ。
映像は、その直後、静寂なブルーの海を映し出す。
「また見つかった」とマリアンヌ。
「何が?」とフェルディナン。
「永遠が。海と溶け合う太陽が」とマリアンヌ。
「海と太陽が溶け合う」とは、フェルディナンとマリアンヌが、「永遠」という名の「究極の死」によってしか結ばれないトラジコメディ(悲喜劇)基調の、異界からの最終メッセージである。
「色の3原色」を構成するブルーの持つ意味は、平穏の欲求である。
「永遠」という名の「究極の死」によって収束する、男と女の「愛」。
思うに、この二人の、ラストシークエンスに至るまでに露わにされた対立の構造性は、本質的に包含する矛盾を融合させていく「詩的言語」の内在性であると言っていい。
ランボーの「地獄の季節」の詩で閉じていく本作は、「詩的言語」を繋いでいった男が辿り着こうとした「人生」の内実が、どこまでも「戦場のような映画のフィールド」の世界、即ち、“愛”、“憎悪”、“行動”、“暴力”、“死”の果てに辿り着く、「永遠」という名の「究極の死」をも画像提示し得る、「観念」の世界でしか自己完結しないことを暗示するのだろう。
「今後は生活ではなく、人生を書く。人生そのものを」
このフェルディナンの言葉に収斂される括りこそ、「戦場のような映画のフィールド」の世界への殉教を意味する、ジャン・リュック・ゴダール監督のマニフェストなのである。
そう解釈するのが自然だろう。
無論、こんな映画があっていい。
ただ、どうしても馴染めないゴダールワールドに、一向に振れることのない私の映像感性は、「快・不快」という快感原則によってのみ生きた男女の、無軌道で中途半端な人生彷徨に全く馴染む余地がないのである。
映像総体を、様々な文化のコラージュでまとめあげた確信犯的構成に対する、一片の共感感情をも拾い上げられなかったからである。
【参考文献 「現代のシネマ 1 ゴダ-ル」( ジャン・コレ・三一書房)】
(2013年1月)
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