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2012年12月19日水曜日

マネーボール(‘11)      ベネット・ミラー



<「人生を金で決めたことがある。だがもうしないと誓った」 ―― ビジネス戦略を駆使した男の最終到達点>



1  頑として自説を曲げない男



「野球は数字じゃない。科学なら分るが、俺たちのしていることとは違う。俺たちには経験と直感がある。君にはイエール大学卒の小僧がいる。だが、球界歴29年のスカウトもいる。聞く相手を間違えている。野球人にしか分らないものがある」
「嫌なら。クビだ。君は占い師じゃない。俺と同様、人の将来など予測できない」
「もう、友情も過去もクソもない。球界は俺と同じだ。お前は勝てない。このまま惨敗を招いてクビになったら、球界には戻れんぞ」
「クビだ!」

この一言で、全て終わってしまったが、本作のエッセンスが、この会話の中に凝縮されている。

ビリー・ビーン
クビを宣告したのは、MLB(メジャーリーグベースボール)東地区に所属するオークランド・アスレチックスのGM(ゼネラルマネージャー)であるビリー・ビーン。

このビーンにクビを宣告されたのが、球団所属のヘッドスカウト。

2001年、かつてワールドシリーズ制覇9回を数える伝統あるチームのアスレッチクスが地区優勝を果たし、「1億1445万7768ドル対3972万2689ドル」と冒頭のキャプションで紹介された、ヤンキースとのリーグチャンピオンを賭けたプレーオフにおいて、2戦先勝しながら3連敗するという結果でプレーオフを敗退した後、そのプレーオフで獅子奮迅の大活躍をしたジェイソン・ジオンビーの他、俊足強打の外野手ジョニー・デイモン、絶対的クローザーのジェイソン・イズリングハウゼンを、FA(フリーエージェント)で強豪チーム(順にヤンキース、レッドソックス、カージナルス)への移籍が決まり、戦力をすっかり骨抜きにされてしまったチームの状況下で、その補強を巡って、球団スタッフと侃々諤々(かんかんがくがく)の議論をした直後、頑として自説を曲げないビーンが、遂にヘッドスカウトまで解任する事態に陥った現実を露わにする会話 ―― これが、スモールサイズの経営を厳命するオーナーによる、低予算での再建を任された、殆ど未来を展望できない絶望的なチーム状況を凝縮するものだった。

この年、一頭地を抜く成績を残したジオンビ―に代わる選手の補強など、与えられた予算ではとうてい不可能であった。

以下、ヘッドスカウトを解任したスカウト会議で拾われた、古参スカウトマンたちの愚かしい言葉の内実。

 「見かけもいい」、「当るとボールが、かっ飛んでいく」、「よく打つ」、「スィングがいいし、クセもない。未熟な部分もあるが、眼をひく。彼女がブスだ」、「生意気だ。そこがいい。チンポコ見れば、自信がみなぎっている」、「見かけは悪くない。見た目もいい」、「奴の女は並みだね」等々。

こんな会話を散々聞かされたビーンが、苛立たない訳がない。

「おしゃべりばかり。ペラペラ。それが仕事だと思ってる。何が問題かが分っていない」

スカウト会議で
ベテランスカウトマンたちの経験則のレベルが、この程度のものであると知悉(ちしつ)しているはずのビーンの批判のベースにある喫緊の問題意識には、「金持ちチームとの不公平な闘い」に対する球団の構造改革の必要性が横臥(おうが)している。

ただ残念ながら、この時点で、その算段が見つからないだけなのだ。

その苛立ちが本稿冒頭の会話の中で炸裂するのだが、そんな一匹オオカミ然とした男の焦燥感をフォローしていく物語の律動感には全く問題なく、ビーンを演じるブラッド・ ピットの表現力の凄みに感嘆させられる。

因みに、「イエール大学卒の小僧」とは、イエール大学で計量経済学を専攻し、回帰分析という手法で実証分析を行う統計学を学んだピーター・ブランドのことだが、彼については、本作の主人公のビーンに大きな影響を与えた青年なので、稿を変えて言及したい。

 

 2  マネーボール理論に自己投入する男



クリーブランド・インディアンズ(アメリカンリーグ中地区所属)のオフィスを訪れたビーンは、そこで、スタッフとして勤務していた一人の若者と出会った。

ビーンの目的は、インディアンズの中継ぎのサウスポーであるリカルド・リンコン等を獲得するためのトレード交渉。

そのトレード交渉の場にいて、インディアンズのGMマーク・シャパイロに選手分析のアドバイスを与えていたのが、件の若者ピーター・ブランドだった。

そのピーター・ブランドに注目したビーンは、取り付く島もなく、直接本人に会って会話を結ぶ。

以下、そのときのピーターの、遠慮深げなレクチャー。

ピーター・ブランド
「球団の人々は、金で選手を買おうと思っている。だが本当は選手ではなく、“勝利”を買うべきだ。それには得点が必要です。デーモンの代わり?レッドソックスはデーモンを、750万ドル以上の価値と見た。僕から見れば、彼は得点の取り方がよく分っていない。彼は守備はいい。一番打者で盗塁も上手い。だが、年俸750万ドル以上も払う価値があるか。ノーです。野球界は古臭い。求めるものを間違えている。だがそれを言うと、僕は村八分にされる。デーモンを放出したのは正解です。お陰であらゆる可能性が出てきた」

 ピーターのレクチャーを受けて、明らかに共感を抱いたビーンは、かつて、メッツから1位指名を受け、スタンフォード大学の奨学生への道を断念した「失った過去」を想起する。

 メッツでの挫折を経て、控え外野手として渡り歩いた後、アスレチックスに移籍し、現役引退を余儀なくされた「失った過去」への補填行為が、現在のポジションへのシフトであると印象づけるが、映像は、単に「失った過去」の日々のカットをインサートするだけだった。

 自宅に戻ったビーンが、深夜、ピーターに電話して、自らの補佐役としてチーム改造に乗り出していくという「商談」を決めた、ビーンの決断力の凄みが発揮される契機になったのは、その電話での会話によってだった。

「君だったら、俺を1位指名したか?」
「9位指名です。契約金はなしです。メッツは忘れて大学へ行くべきだった」

ビーンのダイレクトな質問に対して、立場の違いを怖れたピーターは、迷いつつも、しかし、求められている発問に「真剣さ」を感受したことで、自らの分析の内実を明瞭に吐露するに至ったのである。

 ここから、全てが開かれていったのは言うまでもない。

ビル・ジェームズ
警備員として勤務していたビル・ジェームズが考案した、野球をより統計的に見る視点によって、出塁率と長打率を最も高く評価する「セイバーメトリクス」の理論の影響を受け、それを計量経済学の回帰分析という手法で実証分析を行っていたピーターのサポートは、犠打や盗塁という小技を多用する「スモールベースボール」とも切れて、一切の非効率的戦法を斥けるマネーボール理論として結実したことで、ビーンの仕事の内実を画期づけていく。

 2002年のシーズンに向けて、抜きん出た選球眼によって、4割7分7厘という最高出塁率を誇ったばかりか、40本近い本塁打と3割4分2厘の高打率を記録し、アスレチックス地区優勝の原動力となった、有数のパワーヒッターのジェイソン・ジオンビーの代わりの一塁手を補填するのは、予算制限のあるチームあって不可能だった。

スコット・ハッテバーグ
 ジオンビ―の代わりの一塁手、今や全盛期を過ぎたスコット・ハッテバーグを、コロラド・ロッキーズ(ナショナル リーグ西地区所属)から獲得したビーンの仕事を支えたのが、言うまでもなく、ピーターのサポートによるマネーボール理論。

 更に、メッツ経由で、2001年の覇者アリゾナ・ダイヤモンドバックスから、デービッド・ジャスティスを獲得したのも、ジオンビ―の補填のためだが、それが予算制限のあるチームの博打のような戦略だったと言える。

 この博打の打ち止めは、シーズンの大半をマイナーで過ごしたチャド・ブラッドフォードを、中継ぎエースとして起用しようというビーンの、マネーボール理論の大胆な結論であった。



3  「人生を金で決めたことがある。だがもうしないと誓った」 ―― ビジネス戦略を駆使した男の最終到達点



とうてい優勝するのに相応しくない苛酷な状況下で開かれた2002年のシーズンは、マネーボール理論の浸透力が脆弱なため、当然ながらチームの不調が続き、スポーツメディアから嫌味たっぷりに批判されるに至る。

「俺は何をしてる・・・」

分っていたこととは言え、思うようにならない事態に苦悩するビーン。

それでも動くこと、動き続けることを捨てない男が、そこにいた。

疲労し、ヘトヘトになり、自らを追い込むことを捨てない男には、それ以外にない人生を選び切れない心の迷妄が垣間見えるようだった。

こんなビーンの迷妄について、ベネット・ミラー監督はインタビューで答えていた。

ベネット・ミラー監督
「食べることと運動することは、とどまることを知らない彼の人物像を表しているんだ。ビリー・ビーンは常に消費し続け、自分自身を疲労させ続ける。彼は自分がどういう状況に置かれていて、何を求めているのかを自問自答しているんだ。実際のビリーも常にハングリーで、落ち着かずにソワソワしているようなところがあるんだけど(笑)、その中で自分が辿りつきたい場所がどこなのかを探っているんだよ」(シネマカフェ)

しかし、状況を不安視するオーナーの前では、ピーターを随伴して、今や、運命で結ばれたかのように分かち難い関係を構築している二人は確固たる信念を結んでいく。

「我々は、このまま選んだ道を進みたい」とビーン。
「世界を変える」とピーター。

 それでも勝てない現状に苛立ち、椅子を投げつけるビーン。

「私のチームは、私が仕切る」

アート・ハウ監督
ビーンの強引な手法に馴染めない、アート・ハウ監督の反駁の言葉である。

「負けて楽しいか?」

選手控え室で、ゲームに負けても踊り騒いでいる選手を視認したビーンは、バットを投げつけて、怒りを炸裂させるのだ。

「感情で動いてはダメだ」

トレードを即断するビーンに、遥かに年若いピーターも批判を結ぶ。

それでもトレードを敢行し、本人に通告するビーンの行為は、メジャーリーグのリアリズムの厳しさを踏襲しただけなのだ。

トレードを通告される選手は、商品価値を顕著に劣化させたアスリートでなかったら、より商品価値の高い選手を獲得するための要員なのである。

 或いは、安く買って商品価値を高めた挙句、その商品(選手)を必要とする球団に高く売りつける、ビーン流のビジネス戦略であると言ってもいい。

それは、常に過去の実績よりも、「今、どれだけチームの勝利に貢献でき、機能し得る能力を持っているか」という現実のみを基調とするメジャーリーグのシーンでは、あまりに見慣れた光景だったと言わざるを得なかったが、それを強行するビーン流のビジネス戦略は、ドラスティックなマネーボール理論が張り付いている分だけ目立つのである。

この辺りに、単に、過去の実績や個人記録への配慮を優先し、剰(あまつさ)え、特定の「大物プレーヤー」に法外な年俸を与えるばかりか、あろうことか、しばしば戦力の中枢に据えておく我が国のプロ野球との決定的な乖離が垣間見えるだろう。

ともあれ、マネーボール理論を浸透させるため、ビーンは選手の内側にまで侵入し、その実践を繋いでいく。

「出塁すれば勝つ。出塁しなければ負ける。俺は負けたくない。バントはよせ。バントされたら、迷わず一塁へ投げろ。もう一つ。盗塁はよせ。確実に一塁へ出塁しろ。野球は一連の行為だ」

頓挫したとは言え、野球経験を持つGMが、野球経験を持たないイエール大学卒の若者と共に、未だ日の目を見ないながらも、野球を職業にするプロ相手に真剣に教え込むのである。

「自覚はないだろうが、君らは優勝する!」

必死に選手を鼓舞するビーン。

そればかりではない。

一人、黙々とバッティング練習に打ち込む、アリゾナ・ダイヤモンドバックスから獲得したデービッド・ジャスティスを、チームリーダーとして指名し、バラバラな状況下にあるチームを結束させようと努めるのである。

要するに、ビーンは、脆弱な組織の構造的変革を通して、組織パフォーマンスの効果を最大化する「チームビルディング」の構築を目指し、それを遂行し切ろうと努めたのである。

その行為の肝が、「セイバーメトリクス」の理論に拠って立っていたのは言うまでもない。

ビーンの目指す方向と、その熱意によって、漸次(ぜんじ)、チーム内部に浸透していったのは、過去の実績に拘泥しないビーンの思いが、それまでプレーの充分なチャンスすら与えられなかった選手の意欲を掻き立てることに成就し、彼らの心的変容を惹起させたからだろう。

言ってみれば、ビーンは、個人としての技巧のパフォーマンスに不馴れなばかりに、目立った実績を挙げられなかった者を含む選手たちに、未だリアリティに乏しいが、「優勝」という具体的な目標を設定することで、彼らの目的意識を集合させて「集団凝集性」を高め上げ、選手個人が内に秘めたエンパワメントを獲得させていったのである。

そして、その努力が、遂に報われるときがやってきた。

 レギュラーシーズンの後半のことだった。

2002年9月4日、アート・ハウ監督率いるアスレチックスは、ア・リーグ新記録となる20連勝を達成したのである。

以下、海の向こうの、驚嘆すべきスポーツ情報を報じた記事。

 「米大リーグのアスレチックスは4日、オークランドでのロイヤルズ戦で9回に12-11でサヨナラ勝ちし、ア・リーグ新記録となる20連勝を達成した。2日に1906年のホワイトソックス、47年のヤンキースと並ぶ19連勝を果たしたアスレチックスはこの日、3回までに11-0と大量リード。しかし、ロイヤルズの反撃に遭い4、8回に5点ずつを奪われ、9回には同点とされたが、その裏、代打ハッテバーグの本塁打でサヨナラ勝ちした」(47NEWS2002/09/05

代打ハッテバーグのサヨナラ本塁打
ここで注目したいのは、11点差のゲームを追いつかれたアスレチックスが、「代打ハッテバーグの本塁打でサヨナラ勝ちした」というニュースである。

 まさに、このハッテバーグこそ、ビーンのマネーボール理論に則って、ジオンビ―の代わりに、実践的トレードで獲得した一塁手であった。

マネーボール理論の一応の達成点とも言える、このハッテバーグの劇的な大仕事は、鮮烈な成果を印象付けて、「セイバーメトリクス」の理論が効果覿面に決まった、エポックメイキングな現象だったと言えるだろう。

 レギュラーシーズン後半に具現したこの大記録が、この年のアスレチックスの地区優勝に結実したのは言うまでもない。

 但し、残念ながら、「リーグ最低レベルの年俸総額ながら2年連続でシーズン100勝を達成した」(ウィキ)ものの、ポストシーズンが開かれる「10月の壁」を突破することが叶わなかった。

 理詰めで勝負する「セイバーメトリクス理論」は、ビーンが最も嫌う「監督の直感的采配」、更には、「運」や「ゲームの流れ」が大きく左右する短期決戦には有効ではないのだ。

 然るに、この見事な構成力を見せたこの映画は、劇的なまでの破竹の20連勝を達成した、「予定調和の感動譚」の余韻を残すカットで閉じることをしなかった。

「10月の壁」を突破することが叶わなかった悔しさの中で、ビーンの心を大いに迷わせるエピソードが追い駆けてきたのである。

ヤンキースと並ぶ「金満球団」であるボストン・レッドソック(アメリカン リーグ東地区所属)から、「スポーツ史上最高額のGM」(ピーター)と言われるオファーを受けたのである。

煩悶するビーン
しかし、それを素直に喜べないビーン。 
 
「人生を金で決めたことがある。だが、もうしないと誓った」

年少の相棒のピーターは、「この金額が示す価値に本当の意味がある」と言って、ビーンにレッドソックス入りを勧める。

 「ここで勝ちたかった・・・心から」とビーン。
 「立派に勝った」とピーター。
 「俺たちは負けた」
 「しばらくすれば忘れる」
 「俺は忘れない」

ここでピーターは、迷っているビーンを試写室に呼び、1本のビデオを見せた。

ホームランを打ったのに、2塁打と勘違いして、転倒した後、必死の形相でファーストベースにタッチする肥満の選手のビデオである。

「あなたは、ビデオでの肥満の選手のように、文句なしのホームランを打ったのだから、マネーボール理論を決定的に証明できるチームに行くべきだ」

ピーターは、そう言いたいのだ。

 「“人は野球に夢を見る”か」

そう呟くビーン。

その後、煩悶しながら、娘から送られたCDを聴きながら、ビーンの涙交じりの表情が、ラストカットの中で映し出されていく。

 今 迷っているの 
人生は迷路 恋は謎々 
どうしよう 
一人ではムリ
やってはみたけど 
 私は 戸惑う女の子 
 怖いけど すまし顔
 答えが見えない 
 それって落ち込む
 でも そんなの忘れよう
 そして楽しもう
 ゆっくり 止まって
 心臓が弾けそう 
 だってムリ これ以上違う人のふりなんて
 愛の枯れた おバカさん
 まだ迷ってる


“ビリーはレッドソックスの1250万ドルものオファーを断り、アスレチックスに留まった”

 これが、エンドロールに繋ぐ本篇のキャプションとなって、構築力の高い映像が閉じていった。



4  究極の数式で説明される合理主義精神が抱える感情コントロールの脆弱さ ―― まとめとして①



ここでは、本作のテーマを、主人公ビリー・ビーンの心象世界に寄せて言及したい。

 私は、この映画が最も優れていると思う点の一つに、主人公の人格像を、彼が拘泥する「内的ルール」、と言うよりも、「性癖」についてのエピソードを挿入したことにあると考えている。

「自軍のゲームを観戦すると負ける」

 これが、その「内的ルール」である。

なぜ彼は、自らが預かるチームのゲーム観戦を拒むのか。

選手との距離を保持したいとか、或いは、ゲームの中に感情が入り込むことで、彼が信奉するマネーボール理論に亀裂が生じ、それによって、悪影響を受けることを回避するという極めて知的戦略であるという見方も可能である。

しかし私は、以上の文脈を包括してもなお、彼の特徴的な行動傾向をもっとシンプルに考えるべきだと思うのだ。

即ち、彼が自軍のゲーム観戦を拒む最大の理由は、単に、観戦することが怖いからなのである。

なぜ怖いのか。

それは、観戦することによって感情が過剰に入り込み、そこで視界に収めた「敗戦試合」を目の当りにすることで、彼の感情コントロールが覚束なくなり、それによって、それでなくとも大きくない彼の自我の「ストレス瓶」が、常に飽和状態になってしまう心理状況に陥ることを怖れているからである。

ベネット・ミラー監督も語っていたように、物語の中で一貫して描かれていたのは、まるで、アクション映画の如く動き回るビーンの行動傾向の様態である。

絶えず口の中でガムを噛み続け、交渉相手に対しても、忙しなく喋り続ける彼の行動傾向は、彼が如何に感情過多な人間であることを検証しているだろう。

ゲーム観戦することの怖さを、ビーンは、トレーニングセンターでの運動を繋ぐことによって希釈化させているのである。

それはまさしく、彼にとって、あと2,3時間後に訪れるかも知れない「自軍の勝利」の情報を得ることで、安堵する心境に持っていきたいという強い思いが、彼のこの一連の行為を支え切っているのだ。

それは、彼が期待されながらもメジャーで頓挫したトラウマの原因が、自分の感情コントロールの脆弱さにあるという自己像認知と無縁ではないだろう。

ビーンは、自分の「性癖」の修復力の欠如を理解し得ている。

自分の欠点を理解し得ているのだ。

彼のこの感情過多な性格は、物語の中で、一貫して変わらない人格像として描き出されていた。

だから、自軍のゲーム観戦を拒むという感情が、今や、否定し難いオブセッション(強迫観念)にまで肥大化してしまっていることを物語っている。

要するに、マネーボール理論という、究極の数式で説明される徹底した合理主義精神が、実は同時に、感情過多な心理と共存していることを物語っているのだ。

ビーンのケースは些か過剰であったが、人間のそのような、ごく普通に存在し得る矛盾した人格像をも描き切った心理描写によって、恐らく本作は、一級の人間ドラマに昇華されたと私は考えている。

理論と感情が乖離する人格像だからこそ、彼は、感情コントロールに蕩尽し続ける熱量自給への出し入れを惜しまなかったのである。

そして、そんな異端児だからこそ、未だ道半ばながらも、マネーボール理論による「野球革命」を遂行することで、「旧来の陋習(ろうしゅう)」に拘泥するビジネス戦線に対して問題提示し得たのだろう。

そして、その結果が、必ずしも、彼の理論通りに行かなかったというシビアな現実をも描き出した本作のリアリズムを、私は全面的に受容する者である。



5  「失った過去」の「前線」に自己投入する男のアイデンティティの有りよう ―― まとめとして②



結論から書けば、本作は、本稿冒頭の会話の中で象徴的に拾われているように、「米国版・体育会系原理主義」を信奉する者たちが往々にして陥る、印象や外見・相貌、更には、必ずしも勝利に結びつかない大味なゲームでの目立ったパフォーマンスを含めて、単に、数字上の実績やインパクトのある活躍などで選手の評価を決めつけると言った、多分に論理的根拠の希薄な「経験と直感」に依拠する、古臭い野球界の体質の過誤に加えて、そんな空気に呑み込まれて頓挫したが故に、自己の将来の選択を誤ったことを悔いる男が、「失った過去」を奪回するためのモチーフを心理的推進力にして、まさに「失った過去」の「前線」に自己投入することで、アイデンティティの再構築を具現せんとする物語である。

そればかりではない。

程なく、その気の短さから言って、「知的体育会系」とも思しき「異端児の革命」が、フィールドという「前線」で検証されたと信じる内的行程を経て、アイデンティティの再構築の相応の実感を手に入れるが、しかし、男がじる「セイバーメトリクス理論」を真に検証し得るのは、資金面の余裕で大物選手を駆使し得る球団に身を預けてこそ、完璧に「勝つ」ことのセオリーが、その手腕の発現様態において決定的に証明されるという蓋然性の高い条件を必至にする。

そして、その条件を満たしたにも拘らず、そこに自己投入しない選択をした男の心的風景の中で、モチーフの変容が鮮明に描かれていく物語に振れていくのである。

即ち、男にとって、真のアイデンティティの再構築の有りようとは、単に「試合に勝つ」だけのモチーフから、典型的な弱者の集団の中にあって、未だ具現し得ていないワールドシリーズ制覇という、拠って立つ男の人生の夢を叶えるという心的風景の変容の物語であったのだ。

然るにそれは、「人生を金で決めたことがある。だが、もうしないと誓った」という心的風景の継続力の強靭さでもあった。

その点について、ベネット・ミラー監督は、以上の把握を検証し得るに足る極めて重要なメッセージを、インタビューに中で吐露していた。

この作品の中での価値観は次第に変わっていくんです。最初にビリーの大切にしていた価値観は何かというと、彼はとても情熱的な人ですから、とにかく「試合に勝つ」ことにこだわっています。そしてそこから『古い体制に立ち向かう、挑む』ということに変わっていく。(略)最後にビリーは新たな誘惑(提案)に直面しますが、その内容というのは、彼がまさに追い求めてきたものなんです。金銭的にも地位もそうですし、その提案を受ければ彼がかつてこだわってきた『勝つ』ことが実際にできる、そういう状況をもたらすような提案なんです。そこでまた彼の価値観が変わってきます。彼はそれを受けるかどうか決断を下さなくてはいけないんですが、そこで彼は物質的な価値観を重視するのか、それとも大事なのは個人的な思いの方なのかを量りにかける」(映画・エンタメガイド)

 言うまでもなく、ビリー・ビーンは、レッドソックスの1250万ドルものオファーを断り、アスレチックスに留まったのだ。

レッドソックスのGMになってマネーボールの理論を検証することは、ビリーにとって、決して困難な仕事ではないだろう。

しかし、それでは、「人生を金で決めたことがある。だがもうしないと誓った」という、ビリーのアイデンティティ崩壊のルーツに背馳することになる。

それでも、「異端児の革命」を遂行し得る能力を有するが故にと言っていいのか、彼もまた、普通の向上心と欲望を持つ人間である以上、垂涎の的になる魅力的な条件が眼前に揃えられれば、感情が揺動し、振り幅の変位の大きさを露わにしてしまうのである。

 その煩悶の中で、ビリーは、「物質的な価値観を重視するのか、それとも大事なのは個人的な思いの方なのかを量りにかける」のだ。

 しかしビリーは、人生選択に関わる、若き日に内深く穿たれたミスマッチに起因する精神的外傷体験を、忘却の彼方に遺棄することができなかった。

 ミスマッチに起因する精神的外傷体験の継続力の大きさ。

 それが全てだった。

 「今 迷っているの 人生は迷路」の時間を突き抜けていくほど、若き日の誓いの重量感は、拠って立つ男の人生の心的風景の変容の内実を支え切っていたのである。

 それが、ラストカットで見せた男の涙交じりの表情の、それ以外にない心的風景の本質だった。

 「若者・バカ者・よそ者」という言葉がある。

 組織改革を遂行するパワーの主体を説明した言葉だが、決して若くも、よそ者でもない男にとって、一貫して「バカ者」で在り続ける熱量を自給できるからこそ、未だ道半ばであるものの、アイデンティティの再構築の相応の実感を手に入れる程度の「異端児の革命」の懐の中で、旧来の価値観の枠組を打破し得たのである。

 これを失ったら自分ではないと思える辺りにまで、男の人生の心的風景の変容の稜線が伸ばされていたこと ―― これが全てだった。

典型的な弱者の集団の中にあって、異端児が未知のゾーンを切り拓き、組織改革を遂行し切ることは、同時に、「失った過去」を奪回するという「内的革命」を果たし得る、決定的な風景の変容をも具現する何かだったのだ。

「金満球団」とラベリングされる偏頗(へんぱ)さのうちに、その情緒過多の青臭さによって、「悪の権化」のように特定化されたビジネス戦略を決して否定しない私だが、「異端児の革命」を許容する社会の度量の凄みに圧倒される本作の映像世界に、心地良く受容し得た満足感が、私の内側を、一陣の風の如く爽快に 駆け抜けていった。

(2012年12月)



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