<「夢を具現する能力」にシフトした「夢を見る能力」が負う、「具現した夢を継続する能力」が内包する責任の重大さについての物語>
1 自らが拓いた前線で手に入れたものと、失ったものの価値の様態①
時代の風穴を穿(うが)つことに、全神経網を集中的、且つ、継続的にフル稼働させていく能力において抜きん出た若者が、自らが拓いた前線で手に入れたものと、失ったものの価値の様態を、観る者の感情移入を遮断させるに足る距離感覚を保持させつつ、限りなく客観的な筆致で捕捉した映像の凄みに、言葉を失う程だった。
回想シーンと現在進行形のシーンをクロスカッティングさせながら描かれる映像は、前者が、手に入れたものの価値の様態を描くのに対して、後者は、前者によって失ったものの価値の様態を再現していくのだ。
手に入れたものとは、「富」と「名声」である。
「マーク・ザッカーバーグは世界最年少の億万長者である」という、エンドロールのキャプションにあるように、「富」と「名声」を手に入れた若者の価値の様態とは何だったのか。
そのテーマに関与するが故に、ここで、全神経網を集中的、且つ、継続的にフル稼働させていく能力において抜きん出た若者が、本作で身体化された「創造力」について考えてみたい。
失恋相手への不徳的リベンジから転じて、他者に押し付けられる行動規範への妥協の拒絶が人格内化されることで累加してきたに違いない、持前の自在性を肝にした「創造的精神」のうちに、そのモチベーションを昇華させていった、この若者の心理的推進力こそが、物語の軸となっていく振れ方を決定づけるので、「創造力」についての定義から起こしてみよう。
「創造力」 ―― それは、既成の概念・発想に一切囚われることなく、自らが選択した課題に対して新しいアイディアを着想し、それを自ら実践することで、新しい価値を生み出す能力である、というのが私の定義。
従って、それは、継続的な実践性を伴わない、単なる「思いつき」の次元で留まる何かと別れると言えるだろう。
この「創造力」を身体化させていくプロセスの中で、「富」に象徴される欲望の稜線の広がりが共存的に強化されていくのは必然であるし、それが、バーナード・ワイナー(米国の心理学者)が提示した、成功と失敗の因果関係の要素の一つである「課題困難度」のハードルを上げていくことで、達成動機を加速的に強化していく現象には特段の問題がない。
それ故にと言うべきか、「創造力」を身体化させていく行程を通して、「富」と「名声」手に入れた者に対する評価の中に、「人格性」という極めて曖昧な尺度を嵌めこんでいくことで、世俗的な囲い込みの振舞いが流れていく、「道徳」という名の、当該社会の規範体系に拠った情感言語の無邪気な集合による攻撃性には、大いなる違和感を持つのである。
なぜなら、「創造力」という概念は無論のこと、「富」と「名声」という世俗的言辞もまた、「心の優しさ」とか「思いやり」などという、位相の異なる別次元の世界に収斂される倫理学の範疇の概念ではないからだ。
単なる「思いつき」の次元で留まる何かとも異なる、「創造力」のフル稼働の文脈には、既成の倫理学の範疇を突き抜ける破壊力とも、しばしば同居する含みを持つからと言って、極めて曖昧な、倫理学の世俗的な囲い込みにうちに支配される何かではないのである。
老若男女を問わず、「富」を手に入れることそれ自身、或いは、「富」を手に入れるために必死に自らを駆動させていく行為を、倫理学の範疇で裁断する発想はあまりに貧弱であり、傲慢ですらあるだろう。
大体、ハイリスクな危機突破の自給熱量を総動員したり、得難き「創造力」を果断に身体化させていったり、等々の因果に関わらず、ビジネスの最前線で手に入れた「富」や「名声」に年齢制限など存在し得ないのだ。
「金儲け」に走ることの、どこが問題なのか。
「金儲け」に走る企業活動の、どこが問題なのか。
ともあれ、個人的には、映像で映し出された限りの、本作の主人公の曲折的な生き方の振れ具合に対して、何の感慨も魅力も感じることがない私だが、これだけは断言できる。
本作の主人公であるマーク・ザッカーバーグの推進力となった「創造力」を、安直な「模倣」と揶揄する人たちは、「改造力」もまた、「創造力」の範疇に属することを認知できないということ。
だから、彼のフェイスブックの立ち上げは、彼の全神経網を集中的、且つ、継続的にフル稼働させていった、稀有な「激情的な習得欲求」(米の女性研究者による、「天才」の内的条件の把握)⇒「一点集中力的な『創造力』の開発欲求」という能力の所産であることを認めざるを得ないのである。
本作がサクセスストーリーとして構成されていない事実の認知とは無縁に、既成の概念・発想に一切囚われることなく、自らが選択した課題との対峙の中で着想したアイデアを、ハイリスクな危機突破の自給熱量を駆使し、全く臆することなく、全人格的に実践したからこそ、彼は決定的に成功し、その結果、「富」と「名声」を手に入れたのだ。
彼の手に入れたもの価値の様態は、抜きん出て高い彼の能力の結晶以外ではなかったのである。
2 自らが拓いた前線で手に入れたものと、失ったものの価値の様態②
ここでは、マーク・ザッカーバーグが失った「友情」について考えたい。
これについて、デビッド・フィンチャー監督が興味深い発言をしているので、インタビューから拾ってみよう。
「この映画では、マークとエドゥアルドが親友だということではなく、マークが自分のことを親友だと感じているとエドゥアルドが考えている、ということだ。双方がそう考えているかどうかが明らかになったことは一度もない。要は、二人は同じ時に同じ部屋で同じ目標を達成しようとしていた若者たちだった。そして、ある時点で別れ道がやってきた。マークが実現しようとしていることに関しては、ショーンこそが彼のソウルメイトに近いと思う」(「au one デビッド・フィンチャーインタビュー」より)
マークとエドゥアルド |
因みに私は、「友情」には、「親愛」、「信頼」、「礼節」、「援助」、「依存」、「共有」という6つの構成要件があると考えている。
この6つの構成要件の中の、「親愛」の部分に相当するのが、マークとエドゥアルドとの関係の基本骨格であったということ。
この認識が、本作を理解していくことで、極めて由々しき問題となるだろう。
しかし、西海岸に住み、「ナップスター」(音楽無料配信サービス)の創設者であるショーン・パーカーとの出会いによって生まれたマークとの関係は、「親愛」というレベルを超えて、「共有」という、「友情」を形成する最も重要な要件にまで届き得ていたと事実に注目せざるを得ない。
「共有」とは、思春期ならば、「秘密の共有」という、特化された関係の形成力の特有の価値が相当の支配力を持つだろうが、ショーンとマークの「共有」の生命線は、「価値観の共有」という高次元の形成力を表現していたのである。
マークとショーン |
そこで昇華された「同志」的な紐帯の磁力は、相互の能力を補完し合うことで、「課題困難度」のハードルを一気に上げていく。
このプロセスによって必然的に招来した事態は、一般に、「裏切り」などという偏頗(へんぱ)な概念のうちにイメージされる現実であった。
それが、本作の中で同時進行する、訴訟手続に関わる現在進行形のシーンの内実であると言っていい。
映像限定でフォローしていく限り、マークの自我には、「裏切り」などという次元の異なる観念が張り付いていなかったと思われる。
ビジネスの最前線で同志的関係を構築し、そこで手に入れた高価値の情報を推進力にして、「課題困難度」のハードルを上げていく闘いの中には、「皆、仲良くやっていこう」などというチャイルディッシュな倫理学が介入する余地など存在しないのだ。
ショーン |
3 失恋・報復・炸裂・亀裂・捕捉への鋭角的な流れ ―― 物語の梗概
物語の梗概を、簡単に書いておこう。
「あなたといると疲れるわ。オタクだからモテないと思ってるんでしょ?じゃなくて、性格が最低だからよ」
これは、オープニングシーンで、殆ど無秩序と思える主観的な言語の連射によって、恋人のエリカに言われた言葉。
ここから開かれる物語は、失った恋人への嘲罵(ちょうば)を、自分のブログに浴びせるマークが憤怒の感情を収め切れず、自らが通うハーバード大学のコンピューターをハッキングすることで、あろうことか、学内の女子の顔の格付けサイトを立ち上げる不埒な行為に淵源する。
「フェイスマッシュ」である。
「フェイスマッシュ」のサイトは学内の男子を刺激し、何と、2万2000のアクセスを記録するという具合だった。
エドゥアルド |
「フェイスマッシュ」の炸裂は、当然の如く、大学側からペナルティを科されるに至る。
大学のサーバーをダウンさせてしまった代償が、半年間の保護観察処分だったが、ここで懲りないのがマークの凄み。
そんなマークのプログラミング能力に瞠目したのが、双子の兄弟であるウィンクルボス。
ボート部に所属する資産家の息子たちだ。
ウィンクルボス兄弟が立ち上げを計画していた交流サイト(「ハーバード・コネクション」)に、マークの協力を求めたのである。
ところが、この計画に興味を示したマークは、エドゥアルドの資金援助を得て、逸早(いちはや)く、「フェイスブック」を立ち上げてしまったのだ。
当然、ウィンクルボス兄弟の恨みを買い、これが後の、著作権侵害等の訴訟に繋がっていくが、回想シーンの映像は、これも前述したように、「ナップスター」の創設者であるショーン・パーカーとの運命的な出会いによる意気投合をフォローしていくことで、エドゥアルドとの関係に亀裂が入る人間学的現象を拾いあげていく。
エドゥアルドは、自らの存在を無視されたような二人の「暴走」への怒りで、口座を凍結させるが、その報復として、持ち株比率を0.03%まで希薄化されるに至り、彼もまた訴訟の提起を決意していくのである。
かくてマークは、二つの訴訟の提起を前に、証言録取の時間に捕捉され、そのための訴訟手続を描く現在進行形のシーンの主役として、気乗りがしない視線を露骨に身体化させていくに至るのだ。
4 鋭角的なアイロニーとして処理できないラストシーンの余情 ―― 「広汎性発達障害」という概念で括られる「自閉症の闇」の中で
本作の主人公であるマーク・ザッカーバーグの、無秩序と思える主観的な言語の連射の背景には、「アスペルガー症候群のボーダーライン」(デビッド・フィンチャー監督の言葉)が横臥(おうが)している事実を蔑(ないがしろ)にしてはならないので、ここで簡単に「アスペルガー症候群」について説明を加えておきたい。
「アスペルガー症候群」に対する、多くの人々の誤解と偏見を見過ごすことができないからだ。
まず、「自閉症」の一つとして認知されているこの疾病を、「広汎性発達障害」という概念で括られている事実を把握する必要がある。
私自身、学習塾の運営の経験から、「自閉症」と思われる児童の個人教育をしていた時期があるが、その際、教科教育の困難さが予想されたので、専門医や特殊学級(現在、学校教育法改正により、「特別支援学級」と呼称)、更に多くの「自閉症」の児童の親の聞き書き等を通して、事前準備を怠らなかったものの、実際、教科教育の実践に入るや、想像以上の苦闘を強いられた。
「心の理論」(注1)でも検証されているが、心理や言語交通の致命的とも思える巨壁が立ち塞がって、普通の会話が通用しないのだ。
更に、由々しきことは、件の児童には、最も一般的に見られる知的障害を伴っていたという事実である。
そのため、普通学級で受けていた教科教育に全くついていけず、完全に「お客さん」扱いだった。
件の児童が通う学校に行って、担任教諭と会い、「広汎性発達障害」についての説明をしても要領を得ず、結局、最後まで「お客さん」扱いが常態化していた。
件の児童の「疾病」は、限りなく「カナー症候群」(知的障害を伴う自閉症で、会話が成立しにくい)に近いと思うが、そこに幾つかの看過し難い障害が同居しているようだったので(本人を随伴して専門医に看てもらったが、「広汎性発達障害」という説明のみで、詳細な原因特定できず)、具体的なメカニズムについては未解明の部分が多い現状において、とうてい、私の能力の及ぶところではなかった。
「広汎性発達障害」という概念で括られている「自閉症」の闇。
それは、他者の心を理解し、共感すると言われる「ミラーニューロン」という仮説の存在も関与するかも知れないが、一切は不分明なのだ。
しかし、これだけは認知すべきである。
内気な性格を称して「自閉症」と呼ぶ類の愚かさは論外として、「レインマン」(1988年製作)のモデルになった「サヴァン症候群」のような稀有な例を拡大解釈し、「自閉症者は、特殊な能力の持ち主である」などという、明らかに、認識の誤謬と言える風潮が現在でも罷(まか)り通っている事態は、「カナー症候群」に対する極端な偏見を生む土壌を作り出しているということ。
また、本作の主人公であるマーク・ザッカーバーグを見る限り、デビッド・フィンチャー監督が言うように、「アスペルガー症候群のボーダーライン」と把握し得る蓋然性の高さは否めないが、正直、不分明である。
ここでは、マーク・ザッカーバーグが「アスペルガー症候群のボーダーライン」と仮定して言及するが、確かに、冒頭でのマシンガントークを観る限り、相手の心理の正確な斟酌が全く読み取れない人物像として描かれていた。
この傾向は、本作の中で、往々にして見られる性格傾向であったと言える。
その意味で、知的障害が見られない、「高機能自閉症」としての「アスペルガー症候群」という把握は認識の誤謬であると断じられないだろう。
その把握を踏まえて言えば、マーク・ザッカーバーグは、恐らく、自らの「障害」を自覚し得ないが故に、円滑なコミュニケーションを形成できない苛立ちを、寧ろ、「激情的な習得欲求」⇒「一点集中力的な『創造力』の開発欲求」という稀有な能力に変換させていくことで、「人と人との繋がりの場」である「フェイスブック」の立ち上げを具現した一連のプロセスこそ、自らの自覚し得ないハンデの克服の一つの「形」を作り出したモデルではなかったか。
思えば、パソコンのような機械的・規則的な機能を保証するアイテムに対して、特段の関心が惹起され、その継続力によって一気に才能を開花させ、それが累加されることで自信と矜持(きょうじ)を保持していく心理は、相互関係の微妙な振れ方次第で、感情の変化を見せる人格的な対象に対する対応の難しさと決定的に異なる心理であるが故に、「マニュアル」の学習モデルを確保し得ないのは必至であるということだろう。
「人と人との繋がりの場」に飢えていながら、恋人から、「性格が最低」と軽侮された原因すら特定できない苛立ちを、「人と人との繋がりの場」を構築することによって、夢を具現した若者 ―― それが、マーク・ザッカーバーグだったのだ。
そのとき、「アスペルガー症候群のボーダーライン」としての、極めて見えにくいハンデが内包する、「人と人との繋がりの場」への強烈な欲求が、失った恋人との関係の復元に収斂されるという夢に接続されるはずだったが、最も肝心な「宝」を手に入れられなかった思いだけが虚空に舞っていたのである。
これが、恋人エリカからの友人登録メールの受信を確認するために、繰り返しパソコン画面を更新する無言の振舞いの中に、「人と人との繋がりの場」を自らのために占有し切れなかった、哀切極まるラストシーンの余情に繋がったのだが、決してそこだけは、鋭角的なアイロニーとして処理できない括りとなって、映像総体が隠し込んだ情感を収斂させていったのだ。
以下の稿では、デビッド・フィンチャー監督の言葉を援用して、引き続き、マーク・ザッカーバーグの人格像に言及したい。
(注1)他者の心理を推測し、理解する能力のことで、「自閉症児」には、この能力が欠如しているという仮説を、「サリーとアン課題」の中で検証されたと言われる。
因みに、「サリーとアン課題」とは、以下の内容である。
舞台上の一つの部屋にサリーとアンがいて、それを児童たちが観るという設定を作る。
サリーが自分の人形を小さい箱の中に入れたままにして、部屋を出て行った後、まだ、その部屋に残っていたアンが、サリーの人形を大きい箱に入れ替えて、部屋を出て行ったとすると、部屋に戻って来たサリーは、一体、どちらの箱から自分の人形を取り出そうとするか。
これを、児童たちの中の「健常児」に尋ねると、小さい箱であると答えるのに、「自閉症児」に質問すると、大きい箱を探すと答えるケースが多いというのである。「自閉症児」には、サリーの立場になって考えることが難しいという実験である。
5 「激情的習得欲求」が「怒り」の炸裂と睦み合って分娩された、「一点集中力的な『創造力』の開発欲求」という能力の発現への変換
「彼は望みをかなえた。でも映画の冒頭のシーンと同じくらい孤独なんだ。 誰も、彼ほど懸命に、長時間にわたって努力しようとはしないし、彼ほど深く一途にものごとを考えていないからね(略)この作品の題材で僕が感動したのは、優れたもの、または価値あるアイデアを徹底的に追求しているマークの姿だ」(「au one デビッド・フィンチャーインタビュー」より)
デビッド・フィンチャー監督の言う、「価値あるアイデアを徹底的に追求しているマークの姿」は、以下のエピソードのうちに拾われていた。
「僕と同じ能力があると、彼らが言うのは自由だが、そんな嘘は退屈なだけだ。聞いても意味がない。僕には“フェイスブック”のことしか考えたくないんだ。彼らには、そんな知性も創造性もない」
ウィンクルボス兄弟 |
証言録取という「無駄」な時間に捕捉されたマークが、控えの廊下で、女性新人弁護士に吐露した言葉だ。
「ウィンクルボス兄弟を嫌ってるのね?」と女性新人弁護士。
「嫌ってない。彼らが僕を訴えた本当の理由は、物事が思い通りにならなかったからだ」
マーク・ザッカーバーグの、この言葉は極めて重要である。
「自分がきちんと評価されていないという怒りだね。それは人間なら誰しも感じることだと思う。このストーリーは、そうした思いをほんの少し誇張して見せているんだ」(前掲インタビュー)
このデビッド・フィンチャー監督の言葉に集約される、マークの「怒り」は、本作の随所で散見されていた。
「怒り」こそ、マーク・ザッカーバーグの心理的推進力だったという訳だ。
恋人に理解されないマークには、前述したように、「アスペルガー症候群のボーダーライン」という把握が関与しているが、冒頭の過剰なマシンガントークのスピード感が本作を支えていると、冷泉彰彦は指摘する。
「徹底的に計算された構図、抑えた光、そこに弾けるマシンガンのような知的バトルトーク、ほんの一言で味方が敵になり、男女の関係が壊れるダイアローグの恐ろしさとリアリティ、2時間という尺を忘れさせるスピード感がそこにはありました」(映画『ソーシャル・ネットワーク』に見る「ネットとリアル」 Newsweek日本版 2010年10月04日 冷泉彰彦)
こんな評価の後に、こうも付加している。
「映画『ソーシャル・ネットワーク』を見ていると、20歳そこそこの若者に対して、その企画を認め、巨額の資金を提供するようなベンチャーキャピタルやファンドが出てきます。そのように、年齢とは関係なくどんどんアイディアを認めていくような公平な環境」の存在する、アメリカ合衆国の懐(ふところ)の深さ。
それは、IT情報に精通した若者の「怒り」の炸裂を吸収し、それをビジネスに取り込んでいく環境の存在に象徴されるように、未知のゾーンへの射程の稜線を伸ばして、あらゆる欲望系を呑み込んでしまう摂取許容量の巨大さに対する驚異への指摘である。
とりわけ、「課題困難度」の高さのハードルを上げても、「運」のみに依拠することなく、「激情的習得欲求」を「一点集中力的な『創造力』の開発欲求」という能力の発現への変換させていくパワーを、正当に評価する摂取許容量の巨大さ。
同時にそれは、福音主義派の宗教原理主義の象徴であるかのような「メガチャーチ」に典型的に現れている、「宗教国家としてのアメリカ」の知られざる現実とも共存し得る摂取許容量の巨大さと言っていいのか。
これには、驚きを禁じ得ないのだ。
思うに、「達成動機づけの帰属理論」で有名なバーナード・ワイナーは、成功と失敗の因果関係の要素を、「能力」・「努力」・「課題困難度」・「運」の4つの要素で示したが、前二者が内的要因で、後二者が外的要因という風に把握し得るものだが、マーク・ザッカーバーグのケースを考えると、「能力」・「努力」・「課題困難度」・「運」の4つの要素をクリアしたからこそ、「コントロールの錯覚」(注2)に呪縛されなかったということ。
これに尽きるだろう。
それ故、マーク・ザッカーバーグの「怒り」の炸裂の一次的表現様態であった、女子の格付けサイト(フェイスマッシュ)の立ち上げの成功体験は、単にそこから開かれる、「フェイスブック」への拡大的定着へのプロセスにおいて、「アーリー・スモール・サクセス」(注3)のステップを一気に突き抜けた、合理性含みの価値を内包していたということである。
「最後には何億のユーザーを持つ男になるだろう。でもそれは、他の人たちが祝杯をあげているときに、彼は夜中まで働かなければならないことを意味する。彼は望みをかなえた。でも映画の冒頭のシーンと同じくらい孤独なんだ。 誰も、彼ほど懸命に、長時間にわたって努力しようとはしないし、彼ほど深く一途にものごとを考えていないからね」(前掲インタビュー)
マーク・ザッカーバーグに対する、このデビッド・フィンチャー監督の把握こそ、「天才」の内的条件を、「激情的習得欲求」という概念によって把握した、米の女性研究者による定義に嵌っていたとも言える。
「激情的習得欲求」が、「能力」・「努力」・「課題困難度」・「運」の4つの要素をクリアした若者の「怒り」の炸裂と睦み合ったとき、そこに「一点集中力的な『創造力』の開発欲求」という能力の発現への変換が分娩されたのである。
それ以外ではないだろう。
(注2)目標課題への結果の成功が、単に偶然に左右される要素が多大であったとしても、自らの能力によって、その結果を支配し得たという幻想のこと。
(注3)竹中平蔵は、講演会の中で、「アーリー・スモール・サクセス」を、以下のように説明している。
「今、必要なアジェンダは何でしょうか。これは私自身は思うところがありますが、これは実際のビジネスの立場で、日本の政府はこの改革をまずやるべきだというアジェンダをお考えいただきたいと思います。例えば、教育改革はもちろん重要です。教育改革、憲法改正は、もちろん重要です。でも、全部これはロングランなのです。ロングランのことはやっていかなければいけないのですが、ロングランだけではなくて、『アーリー・スモール・サクセス』という言い方をしますが、早い時期に成果の見えるものもその間に入れていかないと、政権の求心力というのは出てきません」(竹中平蔵講演会・「成長と改革 ― 新政権への期待」 2007 年2月)
要するに、字義通り、「アーリー・スモール・サクセス」とは、「早い段階での小さな成功」という風に捉える方が正解だろう。
6 「夢を具現する能力」にシフトした「夢を見る能力」が負う、「具現した夢を継続する能力」が内包する責任の重大さについての物語
本稿の最後に、「夢」について書いておきたい。
能力の裏付けのない児童期段階で見る他愛のない「夢」の多くが、大抵、思春期彷徨の渦中で雲散霧消していくというのが、普通の「夢」の流れ方であろう。
「快・不快の原理」に搦(から)め捕られた未熟な自我が、少しずつ、しかし確実に、「損・得の原理」に捕捉されることで、まさに、「夢」という名の心地良き物語とのゲームが自己完結していく訳だ。
中には、思春期過程に踏み込んでも、なお壊れ切れない「夢」が、自我に張り付いている場合がある。
「夢」が自壊しないことによって、「夢」を自分なりに成長させてきた思春期自我の懐(ふところ)深くに、世界とのリアルなリンクへの自己運動が、騒いで止まない情感系の内的行程が加速的に延長されているのだ。
これこそが、「夢を見る能力」のリアリズムの具象性である。
問題は、その後である。
「夢を見る能力」が「夢を具現する能力」にシフトするには、それまでの自己基準的なリアリズムの枠内では収まり切れない、「夢」という名の心地良き物語を具現せんとする対象人格が放つ、シビアな客観的世界との対峙を回避し得ない冷厳なリアリズムが待機しているからである。
この段階への跳躍に至って自壊してしまう「夢を見る能力」は、相応に「損・得の原理」を身につけてきた己がサイズに見合った、近未来に向かう確かな自己像を構築していくことで、特段に問題なく、「これが、自分が求めてきたものだ」などという軟着点に収まるに足る職業を選択し、そこに生涯を賭ける「仕事」を手に入れるかも知れない。
そのとき、思春期過程に踏み込んでも、自分なりに成長させてきた「夢を見る能力」は、「夢を具現する能力」が拾い切れなかった本来のリアリズムの実感性を手に入れて、過剰なまでに不必要な葛藤や屈折を経ることなく、ごく自然な内的行程の流れの中に昇華されていくのであろう。
しかし、それでもなお、自分なりに成長させ、継続させてきた「夢を見る能力」に集合する情感が安楽死することなく、いよいよリアリティを帯びてくるとき、「夢を具現する能力」を引っ張っていく堅固な自我が健在であると見るべきだろう。
それが、どれ程のサイズの「夢」であろうとも、シビアな客観的世界との対峙の中で、篩(ふるい)に掛けられて成長してきた「夢を見る能力」が、「夢を具現する能力」に繋がったのである。
自らの夢を育て、いつしか、より筋肉質の武装性を纏(まと)うことで、その者は、どこまでも冷厳な世界のリアリズムに振るい落とされることなく、「夢を具現する能力」の達成感を得て、鮮度の高い未知のゾーンを射程に入れながら、なお呼吸を繋いでいくのだ。
本作の主人公であるマーク・ザッカーバーグは、まさに、この稀有な例の一人であった。
かくて彼は、自らが具現した「夢」の世界に耽溺することなく、辿り着いたその地点から、「具現した夢を継続する能力」が内包する、更なる未知のゾーンに自己投入していくに至る。
その結果、そのような鋭角的な流れ方をした「先人」たちの多くがそうであったように、彼が具現した「夢」が内包する圧倒的な支配力によって、そこで惹起する厄介な負荷の現実とも向き合わざるを得なくなったのである。
圧倒的な支配力のある「夢」を具現したことによって招来した、「社会的責任」という問題が彼の前に立ち塞がったからだ。
映像は、二つの裁判を抱え込むに至ったマーク・ザッカーバーグが、それでも、その「夢」の初発のモチベーションにあった、かつての恋人への柔和な視線を映し出すことで閉じていったが、既に、「夢を具現する能力」を殆ど完璧に遂行し切った男の前に、男が嫌っていた「社会倫理」という壁を如何に突き抜けていくかという重厚なテーマ、即ち、「具現した夢を継続する能力」の艱難(かんなん)さを観る者に印象付けて括られていった映像の凄さは、一人の男の人生の前半部にも満たない発展途上の自我が、全人格的に受け止めなければならない運命的なテーマの存在を問題提示することで、余情含みのうちにフェードアウトしていったのである。
「彼は社交性の欠如ゆえに、この新たな方法で人と交流できる未来がやってくると信じないと、生きていけないのかもしれない。しかも、それが見えているのはマークだけなんだ。だからこそ、彼は孤独でしかも自分の責任の重大さも十分自覚している。それこそがマークをマークたらしめている。マークの目的は自分の夢を完全に実現することだった。その夢とは、現実ではできない形で世界とつながることを可能にする装置を作ることだ」(前掲インタビュー)
これも、デビッド・フィンチャー監督の言葉。
解説の余地のない、この言葉に集約された文脈の中に、デビッド・フィンチャー監督の本作への思いが読み取れるだろう。
構築力の高い、ほぼ完璧な映像だった。(画像は、デビッド・フィンチャー監督)
【余稿】 無茶な理想への、無茶な努力を払拭し去ったリアリズム
本稿のテーマとは離れて、本作で描かれた、マーク・ザッカーバーグの「成功譚」についての映像を客観的に評価しつつも、個人的には、その「成功譚」の内実に全く無関心な私の、「夢」についての考察を記しておきたい。
拙稿の「心の風景 物語のサイズ」からの引用である。
そのテーマは、「無茶な理想への、無茶な努力を払拭し去ったリアリズム」
近年、テレビの番組などで、「子供たちよ、大きな夢を持て」と熱っぽく語る大人が眼につくが、天邪鬼な私は、「夢を持たない子供の、どこが悪いのか」と、 つい反発したくなる。
かの大人たちは、自分のかつての幸福な物語が、自分だけに嵌った物語であると露とも思わず、それが恰も人類共通の願いでもあ るかのように信じているらしく、「受験戦争の犠牲になった今の子供たちは、人生の先が見えてしまっている」などと、お馴染みのワンパターン思考で凝り固 まっているかのように見えるのだ。
ここで表現されている「受験戦争」、「犠牲」、「夢を持たない」という決め付けは、全てマスコミが流した嘘である。
この嘘を真に受けて、「子供の危機」を語るウルトラマン諸氏を揶揄(やゆ)する気は更々ないが、「人生の先が見える」ことの功罪についてだ けは言及しておこう。
かつて、私たちが村落共同体にその身を預けていた頃は、産まれたときには、既に人生の先が見えていて、その一生の サイクルも見通せてしまったが、特に、誰もそれに異議を唱える者はいなかった。
人は皆、それぞれの宿命を甘んじて受け入れていたのである。
周囲が皆そうであ るように、自分が負うべき道を歩むことが自然な生き方であると信じた時代があったのだ。
人々の夢は、その循環的な人生の中で、せめてワクワクするような彩りを、ほんの少しそこに添えることで、充分に価値ある何かが存在したのである。
だから決して人々は、過大な幻想を抱くことなどなかったのだ。
「人生の先が見える」とは、自分が負うべき環境の中で、せめて自分の能力を駆使して開く人生を通して、当然引き受けるしかない、自分の未来の確からしいイメージと出会ったということである。
一体、そこに何の不都合があると言うのか。
無茶な理想への、無茶な努力を払拭し去ったリアリズムを引き受けることが、どうして味気ない、つまらない人生などと言えるのか。
そういう発想自体が、過剰な消費文化に搦(から)め捕られた人々の「幸福競争」の感覚であるという外はない。
それは、人生を城盗りゲームのようにしか考えられないワンパターンの思考様式でもあったと言えようか。
人生の先が見えたと言って、暗い森に沈んでいくその囚われ感が、常に少しずつ病理に近い何かであるようだ。
磁気浮上式リニア(ウィキ) |
この時代にあって、人々は周囲が皆そうであるように、自分も又絶対に、時速500キロの夢の列車に乗り遅れたくないのである。
自分一人だけが、徒歩でテクテク動いていく惨めさだけは、罷(まか)り間違っても味わいたくないのだ。
常に人と比べながら生きていくしかない、滑稽なる不合理と切れないのである。
人は過分な夢などなくても、充分生きていけるのだ。
自分の身の丈に合った物語のサイズこそ捨ててはいけないのである。(「心の風景 物語のサイズ」より)
(2012年3月)
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