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2023年9月6日水曜日

ラーゲリより愛を込めて('22)   「堂々たる凡人」 ―― その生きざま  瀬々敬久

 


1  「“死んだ者を哀しんで、なにが悪い!人間としての権利だ!”」
 


 

 

1945年 満州 ハルビン

 

妹の結婚式で、美味しそうに料理を食べる山本幡男(はたお/以下、幡男)と妻モジミと4人の子供たち。

 

「素晴らしい結婚式だ」と幡男。

幡男

「ええ」とモジミ。

モジミ


その夜、ホテルのベッドに子供たちを寝かしつけた幡男は、モジミに日本に帰ることを指示する。

 

「明日、新京に戻ったら、すぐに荷物をまとめなさい。そして、日本へ帰るんだ…勝手にはもう帰れないかもしれない。それでも港を目指せ。南へ急ぐんだ」


「無理です」

「君ならできる」

「できません」

「頼むよ!」

「そうなのね?やっぱり、日本は、もう…」

 

その時、窓の外に爆撃音と閃光が走る。

 

「ここまで米軍が?」

「いや、空襲警報は鳴らなかった。北から来たんだろう。恐らく、ソ連」 


ソ連軍が侵攻してきたのである。

 

街路では、荷物を抱えて列車に乗ろうと走り、混乱するの人々の群れを爆風が襲う。 


山本一家も右往左往し、倒れている長男・顕一(けんいち)を助けた幡男は崩れたビルの石で負傷し、身動きが取れなくなる。

 

「あなた!」

「君たちは、行け!日本に帰るんだ!顕一、母さんと弟たちを頼んだぞ…すぐにまた会える。日本で落ち合おう」 


涙を流す顕一とモジミに、笑顔を見せる幡男。 



「1945年8月9日。ソ連が日ソ中立条約を破棄し、突如、満州に侵攻。日本は敗戦。満州にいた日本兵はソ連軍に拘束されたのです」(松田研三のモノローグ/以下、モノローグ)

 

1946年 終戦から8か月

 

「貨車は、シベリアの奥地へと向かっていました…私が山本さんに初めて会ったのは、その貨車の中でした…この人は正気を失っている。そう思いました」(モノローグ) 

松田研三

ギュウギュウ詰めの貨車の中で、突然、“オー・マイ・ダーリン”を歌い始めた山本。 


少年兵がそれに呼応してハーモニカを奏でる。

 

「連れて行かれたのは、シベリアの果てにあるスベルドロフスクにある収容所。ラーゲリでした」(モノローグ)

 

銃を持ったソ連兵に促されて中に入り、庭で整列されられた日本将兵の抑留者たちは、ソ連将校から厳命される。 


そのロシア語を訳すのは幡男。

 

「“お前たちは戦犯である。今後の収容所生活は、収容所所長が命令をする。逃亡者は射殺する”」 


「山本さんは通訳をしていました。私たちは、シベリア開発のため強制的に働かされました。労働は日本の将校の指揮の下で行われていました。軍隊秩序を維持した方が、ソ連側も支配しやすかったのでしょう」(モノローグ) 



ふらつく捕虜にビンタを食らわす相沢軍曹(以下、相沢)。

 

「ノルマを達成しないと、メシに響くぞ!」 

相沢

「一日の食事は、朝、配給される黒パン350グラム。カーシャと呼ばれる粥。それで夜までもたせないといけない。黒パンは耳の部分が腹持ちがいいと、特に人気でした」(モノローグ)

 

食事に手を合わせる松田を見て微笑む幡男。

 

その松田の黒パンを勝手に交換し、取り上げる相沢。 

松田と相沢(右)

「戦争が終わっても、まだ私は一等兵のままでした」(モノローグ)

 

松田が隣に座る幡男に、どこでロシア語を学んだかを聞くと、ロシア文学の愛読者だったと話す。

 

「憧れてたんですよ。だからね、これを機に、しっかりこの目で見ておこうと思って。ソ連という国を」 


相沢に呼ばれ、日本の将校たちの前で、いつまでここに居るのかと怒鳴られる幡男。

 

幡男は、ソ連側に何度聞いても相手にされないと答える。

 

「貴様、共産主義者だろう。ロシア語ができるのをいいことに、奴らと何か画策してるんじゃないのか?」と佐々木中尉。 

佐々木、相沢、幡男

呆れて苦笑いすると、相沢が「答えろ!一等兵!」と怒鳴りつけるので、幡男は「山本です。名前があります」と反駁し、殴り倒された。 

「山本です。名前があります」


「シベリアの冬は、連日零下20度を下回ります。でも40度を下回らない限り、作業の変更はありません」(モノローグ) 


作業中に倒れた男を抱き上げる幡男。

 

次々に斃れていく抑留者たちは、雪の地面に掘られた穴に埋葬される。


 

土をかける幡男に、少年兵の実が問いかける。

 

「ここに希望はあるんですか?」


「来ます。ダモイ(帰国)の日は」

「本当に信じていいんですか?」と松田。

「そもそも戦争は終わったんですから。兵士を捕虜とするのは、明確な国際法違反なんです。これはね、戦後の混乱の中、起こった不幸な出来事にすぎません…だからね、松田さん、来ますよ、ダモイの日は」 



雪が溶け、ふらふらの状態で作業中の実が、「日本へ帰るんだ」と呟き、突然、鉄条網へ向かって走り出し、射殺されてしまう。 


その実の祭壇を設け、焼香する幡男。

 

実のハーモニカで“ふるさと”を奏でる少年兵の浩。

 

「もう、止めろ!」と怒鳴る相沢に鈴木が追随すると、浩が睨みつける。

 

「あいつ、下に弟と妹が5人もいるんです。いつも“会いたい、会いたい”って。腹いっぱい食わせてやりたいって」 


そこにソ連兵と佐々木中尉が入って来て、集会を解散させる。

 

「“死んだ者を哀しんでなにが悪い!人間としての権利だ!”」と幡男が訴えると、ソ連兵は幡男を蹴り、佐々木は山本が危険だと告げ口する。 


繰り返し蹴られる幡男を見つめる松田は、前線で仲間が撃たれ、怖くなって逃げ出し「卑怯者!」と言われた過去のトラウマが蘇り、思わず、幡男の背中に覆い被さって、共に蹴られ続けた。 

 松田のトラウマ



2人は営倉送りになり、南京虫の餌食きになった。

 

【営倉とは、軍律を犯した軍人を収容する懲罰施設】

 

幡男に代わって佐々木が通訳となり、ふらつく幡男はソ連兵に罵倒される。

 

「共産主義者なのに、ロシア人からも見捨てられたか」と鈴木。

「バカな奴だ」と相沢。

 

その相沢は初年兵の時、佐々木に命じられて、中国人捕虜を殺害したことを松田に話す。

 

「俺はあの時、人間を捨てた。いいか、一等兵。ここは戦場と同じだ。人間は捨てろ」

 

松田は幡男を見ると、微笑み返してきたが目を逸らす。

 

「私は卑怯者に戻りました…その後、山本さんは何度も営倉に入れられました」(モノローグ)

 

バラック(宿舎)に戻ってぐったり横になる幡男は、歌い始める。

 

「なんでアメリカの歌なんですか?ロシアが好きなんじゃないんですか?」と浩が訊ねる。

 

「美しい歌に、アメリカもロシアもありません」と答え、咳き込む幡男。 


男の信念は堅固だった。

 

島根県 隠岐島

 

モジミが子供たちを連れ、リヤカーを曳いて魚を売っている。

 

モジミの教師時代の知人に声をかけられ、校長に復帰を頼んでくれると言うのである。

 

「あの人は帰って来ますから。約束したんです。日本で落ち合おうって。あの人は必ず帰ってきます。そういう人なんです」 


夕日に染まる空の下、“オー・マイ・ダーリン”を子供たちと歌いながら家路に就くモジミ。 



一方、ラーゲリでは、拷問を受け、横たわる幡男が呟く。

 

「こんな所で、くたばるわけにはいかない…妻と約束したんですよ。必ず帰るって…」

 

そこに、勢いよくドアを開けた佐々木が「ダモイだ!」と叫ぶ。

 

「今、正式に通達があった。我々はダモイだ!」 

佐々木(手前)

皆が「バンザーイ!」と歓声を上げる中、幡男は実の位牌を見上げ、涙する。

 

ナホトカの港に向かう貨車に乗り込んだ抑留者たちは、「ダモイ」の喜びを噛み締めていたが、突然、急停車して扉が開くと、ソ連将校が立っていた。 


幡男の通訳で名前を呼ばれた20数名が、別のラーゲリへ連れて行かれることになった。

 

佐々木や浩らは列車に残り、幡男や松田、相沢らは「ダモイ」を手に入れられなかったのである。

 

 

 

2  「何もなくても、それでもそこには、絶対、希望があるんです!」

 

 

 

1947年 終戦から2年

 

平原を無気力に歩く一行は、ハバロフスク第21分所に到着し、再び抑留生活に入っていく。 


そこはスターリンの肖像写真を貼り、反ソ、反共、反動分子を糾弾するステージが用意されていた。

 

バラックに入ると、幡男は掃除をしている知人の原に気づき、「また会えてよかった」と声をかける。 

原(右)

殴られた顔の原は、無表情のまま、「私に近づかないでください」と突き放す。

 

「原さんは、ハルビン特務機関で山本さんの上官だったそうです」(モノローグ)

 

ソ連の裁判所で、元満鉄職員でハルビン特務機関員だった幡男に、1943年12月2日旧満州国黒河(こくが)での諜報活動により、25年の矯正労働の判決が下された。 


幡男は「ただの満鉄の出張だ!と誤解を解こうと主張するが、無駄だった。

 

控室へ連れて行かれると、相沢が同じく25年の刑を受け、目を血走らせ机を叩いている。

 

そこにいた松田は、「卑怯者の罰です」と自虐。

 

「それがダモイ寸前で列車を降ろされた理由でした。我々は重罪を犯した戦犯とされた者たちだったのです…この時期のソ連は、共産主義運動のでラーゲリ内を扇動しようとしていました。アクチブと呼ばれる活動家になれば帰国できる。そんな噂も流れました」(モノローグ) 


ステージでは、「我々はソ連に賛同する!」とアジテートする委員長の腕章をした男が、殴られ正座させられた原に自己批判を迫り、次に相沢を反動分子として暴行し、糾弾するのだった。 


反動分子として暴行される相沢


夜になり、ステージから降りようとして倒れた原の腕を幡男が抱える。 


再び近づくなという原に、幡男はそれはできないと、「ロシア文学の素晴らしさを教えてくれた」と答えるのである。 


「今の私があるのは、原さんのおかげなんですよ」

「昔のことです。忘れてください」

「忘れられるわけないじゃないですか。あなたは六大学野球で優勝した故郷の英雄なんですよ」

「妻と子供に会えるなら、何でもします。友人や仲間だって売ります。ただの満鉄の出張を諜報活動にもします。私があなたを売りました」

「まさか…」

「私はそういう人間です」 



【シベリアでは、帰国を果たすためにスターリンへの忠誠を競い合い、仲間を貶めるための密告が、抑留者の中で普通に横行していた。因みに、日本共産党の幹部・山本懸蔵は「日本のソルジェニーツィン」勝野金政(かつの きんまさ)を密告し、大粛清時代に、同じモスクワ在住の社会衛生学者・国崎定洞(くにざきていどう)を密告して死刑に追いやったが、自らも密告を準備していた野坂参三(日本共産党名誉議長/のちに除名)の密告によってスパイ容疑で逮捕され、処刑された。この歴史的経緯の偏流に象徴されるように、「懲罰大隊」での吊し上げなどという、抑留者に大きな影響を与えることになる、秘密警察と密告制度によって成り立っていた全体主義国家・ソ連邦の実態だった】

 

原は去り、幡男は打ちひしがれて立ち竦む。

 

猛吹雪の中、作業を終えた帰路、抑留者たちがバタバタと倒れて行く。


 

そんな中で、クロという子犬を連れた足の悪い新谷(しんたに)という若者が、ハバロフスクの夏空を見上げると、幡男も雄大に広がる大空を見渡し、モジミと行った浜辺から見た空を思い出す。 

新谷

新谷は漁師で戦争には徴兵されず、学校にも行かなかったので、幡男に字を教えてくれと頼み込む。 



その頃、隠岐島では、モジミが教師として復職し、黒板に「希望」という文字を書いて、生徒たちに語りかける。

 

「先生は、この言葉が好きです。何度も失いかけてきたけどね。でも、先生はこの言葉を、絶対に希望を失わない人から教わりました」 



モジミは顕一を連れ、抑留者の引き揚げ船が到着した舞鶴港で、山本幡男の名を書いた紙を掲げ、知っている人を探すが、手掛かりは掴めない。

 

「どうせ生きているかも分からない。もうやめよう。待つのは、もうやめよう」と顕一。

「父さんは生きてる。絶対に帰って来る。分かるの。母さんには」 



1950年 終戦から5年

 

「朝鮮戦争がはじまり、捕虜の帰国が突然、打ち切りになりました…」(モノローグ)

 

ステージに項垂(うなだ)れて座る原に声をかける幡男。

 

「生きるのをやめないでください。一緒にダモイしましょう」


「私を許すって言うんですか?こんな私を」

「許すも何も、そんなことがなくても、俺は25年でしたよ。ここには意味もなく捕まってる奴らが、たくさんいます」

 

バラックでは、幡男がフハイカ(防寒着)の綿を集めてボールを作り、新谷は俳句を書いて文字の練習をする。 

野球のボールを作る幡男

そこにソ連兵がやって来て、抑留者が娯楽のために作った将棋や花札などを没収し、新谷のノートも取り上げられてしまう。

 

「せっかく頑張って書いたのに…」

「文字を書き残すのは、スパイ行為なんだそうです。でもね、新ちゃん、書いたものは記憶に残っているだろう…頭の中で考えたことはね、誰にも奪えないからね」 


没収されなかった幡男の作ったボールで野球を始め、看守も一緒になって楽しんで見ていたが、新谷の打球が大飛球となって鉄条網の外に出てしまうと、クロが走ってボールを咥(くわ)えて戻り、更に大きな歓声が沸き起こった。 


その声に釣られて、慶應の4番バッターだった原もバラックから出て来て加わり、打席に着く。 


大きなファールを打ち上げ盛り上がる中、ソ連将校がサイドカーで現れ、解散を命じるのだ。

 

あと一打席を願い出た幡男は、「日本人ごときが!」と殴り倒され、鞭で打たれる始末。 


「希望が必要なんです。生きるためにはどんなに小さくても…私たちには、この野球なんです…」 


鞭で打たれ続けた幡男は、一か月の営倉送りとなったが、バラックに戻って来ると、新谷が俳句を教えていて、皆は拍手で幡男を迎え入れるのである。

 

原が交渉して、野球は続行できた。

 

「労働効率が上がると言って、待遇改善を要求しました。せめて日常のささやかな楽しみを許可してくれと。結果、ノルマ以上を達成しました。ソ連側も大喜びです。みんなの笑顔も増えました。あなたのおかげです」 



1952年(終戦から7年)。

 

ようやく日本との連絡が認められ、俘虜郵便のスタンプが押された往復葉書での通信が許可された。

 

各自が思い思いに書き込んでいる。

 

「“お母様。ご無事でしょうか。それだけを私は、このシベリアの空の下で、それだけを願い”」(松田)


「“もう一度、生きることを始めようと思います”」(原)

「“僕はこの手紙を自分で書いています。驚いたでしょう。今では、どんな字だって書くことができるんです”」(新谷)


「“幸子。お前は無事か。どうしている。子供は大きくなったか。飯はちゃんと食えているか”」(相沢)


「“まず、私が元気に暮らしていることをお知らせします。ご安心ください。ただ、心配でならないのは、留守の家族の安否。殊に、子供たちはどう暮らしているか。顕一はもう17歳ですね。学校はどうしていますか。厚生、誠之(せいし)、はるかも大きくなったことでしょう。モジミ。あなたは一番苦労したのではないですか。私は、約束を忘れていません。あの日の約束を。必ず会いたい。君たちに。今すぐにでも会いたい”」(幡男) 



後日、往復葉書の返信がラーゲリに届くが、その中に幡男宛の葉書はなかった。

 

松田は受け取った葉書を読み、極寒の外に出ていった。 


最愛の母は死去していたのである。

 

まもなく、幡男の元にも返信葉書が届いた。

 

「“私も子供たちも全員、日本で生きています。みんな、あなたの帰りを待っています。私たちは。あれからのあなたに会いたい。それだけで、私はもう何も要りません”」 


同じく葉書を受け取った相沢が、雪の庭を鉄条網に向かって歩き出す。

 

幡男は、「奥さんに会うんでしょ!」と必死に止める。 


「どうせ会えない。空襲で…俺がソ連に来た時には、あいつはもう…」

「お腹の子は?…撃たれますよ!」

「子供は、生まれもしなかったんだぞ!…殺されるのが何だ。もう生きてる意味もねぇ!」 


それでも生きようと止める幡男を、振り切って進む相沢。

 

「なんで生き続けなくちゃいけねえんだ!こんなとこで生き続ける意味は、俺にはもう何もねえ!」

「何もなくても、それでもそこには、絶対、希望があるんです!」



「お前に、俺の気持ちが分かるか!お前の家族は生きてるんだろうがよ!」

「…相沢さん、それでも、生きろ!」

 

突然だった。

 

幡男は耳を押さえ苦痛の表情を浮かべ、それでも喘ぎながら、相沢に訴える。 


原や新谷が山本の名を呼び、皆が駆け寄って来た。

 

1954年。終戦から9年。

 

病室のベッドに伏す幡男の元に、原と新谷が見舞いに来た。 


目が殆ど開かず、耳垂れと腫れた首の痛々しい姿の山本は、葉書の返信を待っているが、船便が遅れていることを知らされる。

 

「そうですか…いや、息子がね。大学に行くはずなんだけど…そうか…会いたいな…」 

喉頭癌で首にしこりができて大きく腫れている

原が山本を見つめ、涙ぐむ。

 

その夜バラックでは、幡男が繰り返し倒れる症状に対し、抑留者たちの案じる声が上がる。

 

もう幡男は助からないかも知れないという原の話を聞いて、松田は本部の前で覚悟の座り込みを決行するのだ。

 

「自分は行きません。作業を拒否します。ここを一歩も動きません。飯も食べません」



「何のために?」と原。

「山本さんを大きな病院で診てもらうためです。皆さんは行ってください!これは自分の闘いです」

「殺されるぞ。お前、母ちゃんに会うんだろ」と相沢。

「母さんは死んだ。生きてるだけじゃダメなんだ。ただ生きてるだけじゃ。それは生きてないのと同じことなんだ。俺は卑怯者をやめる。山本さんのように生きるんだ」



「本当に殺されるぞ。一等兵」

「一等兵じゃない。俺は松田研三だ!」

 

松田は毅然と相沢を見上げる。 

 

新谷が松田の隣に座ると、それに他の者たちも続く。

 

相沢も腰を下ろす。

 

「どうせ生きてても意味はねえ。付き合ってやるよ」

 

原が意を決して本部に入り、制止を振り切って将校に訴えた。 


「“我々は作業を拒否します!要求はただ一つ。山本君の大病院での診察!”」



「そんな権利はない!お前たちは戦争犯罪人だ!」

 

これが将校の答えだった。

 

「“その報いは受けました。9年です。もう9年だ。どれだけ死ねば済む!”」

 

銃をつきつけられた原は、なおも訴えることを止めない。

 

「“いつまでこれが続くんだ!我々は家畜じゃない。人間だ!”」 


睨み合う将校と原。

 

その夜、立ち上がって、ストライキを続ける山本の仲間たち。 


松田が“オー・マイ・ダーリン”を歌い始めると、新谷が続き、皆も口ずさむのだ。

 

ストライキがラーゲリ全体に広がったと相沢が伝え、皆と共に歌い出す。 


歌は大合唱となり、夜のラーゲリに響き渡った。

 

その歌声が幡男の耳に届き、一緒に歌を口ずさむ。 



翌朝、ソ連軍の軍用車が来て、ストライキ中の抑留者に銃を向けた。       

 

「抵抗は止めろ。従わぬ者は射殺する」と上級将校。 


前に出ようとする松田を相沢が止める。

 

「ここで闘いを止めても、もう誰もお前を卑怯者とは言わねぇよ」

 

そこに本部の建物から原が走って来て、皆に向かって叫ぶ。

 

「勝ち取ったぞ!私たちの要求が通りました!」 


抑留者たちの闘いが初めて成就した瞬間だった。

 

歓声を上げ、肩を叩き合う幡男の仲間たち。

 

何かが大きく変わっていく抑留施設の景色が、そこに屹立している。

 

山本が別の病院から戻って来た。

 

くじ引きで決まったと言って訪れた相沢に病状を聞かれ、幡男は苦しそうに掠(かす)れた声を振り絞って答えた。

 

「癌でした。喉の癌。すでに末期で、手の施しようがないと言われました。余命は3カ月だそうです。そういうことです」

「何が“そういうことです”だ。悔しくねぇのか。このままじゃ、生きて家族に会えねぇんだぞ。それでもお前は、絶望しねぇっていうのか!」



「しないわけないでしょう!絶望!しないわけないでしょう!」 


目に涙を溜め、幡男は出ない声を振り絞って叫び返した。

 

「帰ってください。一人にしてくれ」

「それでも生きろ。俺にそう言ったじゃねぇかよ。あれから生きたぞ。あれから、何もなくても生きてきたぞ。ここで諦めたら、俺が許さねぇからな、山本!」

 

涙目で訴える相沢に対して、幡男は笑い返す。

 

「初めて呼んでくれましたね。名前」 


相沢はそのまま幡男の看護係となった。

 

原が松田と病室を訪れ、幡男に頼まれたノートと鉛筆を渡す。 


早速、幡男は寝ながら、ノートの表紙に、「未来のために」と書いた。

 

「私はね、松田さん。人間が生きるというのは、どういうことか、シベリアに来て分かった気がするんですよ。それについて書いてみようと思うんです。時間が欲しいなぁ」

 

言い終わると、咳き込み吐血する幡男の口元を、原は優しくハンカチで拭う。

 

その夜、バラックで原が、「山本君に、遺書を書かせましょう」と提案する。 

原(右)と新谷

原はそれを幡男に伝えた。 

ノートを渡す原

「万が一のことを考えてのことです」

「分かりました」

 

その夜から、幡男は新しく渡されたノートに遺書を書き始めた。

 

「“とうとう、ハバロフスクの病院の一隅で、遺書を書かなければならなくなった…”」

 

松田が摘んだ花を持って病室を訪れると、幡男は寝ながらノートを書いて、涙を流している。

 

「戦争って、酷いものですよね」と号泣する幡男。 



夕方になって訪れた原は、幡男に渡された遺書を読み、「これは、あなたの家族に必ず届けます」と誓った。 



帰りかけた原に幡男が声をかける。

 

「私の家族にも、笑顔で会ってやってください」 



作業拒否のスト以来、ソ連兵の検査が厳しくなり、持ち物を没収されるようになる。

 

2週間後のある日、遂に幡男のノートが没収されてしまった。

 

緑豊かな森。 


優しい光の中で、病室の幡男は「未来のために」を書く手を止め、窓の方を見て微笑む。

 

手に持った鉛筆が落ち、幡男は永眠するに至った。 



幡男の棺を乗せた車を抑留者たちが見送り、クロがその車をいつまでも追い駆け続ける。


「山本さんは、シベリアの大地に埋められることになりました。その日以降、クロは帰って来ませんでした…私たちを乗せる最後の引き揚げ船が、ナホトカ港に着いたのは、終戦から11年経った、1956年のことでした。その年、日本とソ連が国交を回復したのです」 

「山本さんは、シベリアの大地に埋められることになりました」

 


 


3  「“君の奮闘を讃えたかった!しかし、とうとう君と別れる日が来た。これからは、幸福な日も来るだろう。どうか、そうあってほしい”」

 

 

 

シベリア抑留者の最後の引揚げ船「興安丸」の甲板から、離れていく大陸を眺める抑留者たち。 


流氷の海を進む船を追い、氷の上をクロが走って来る。 


氷の海を泳ぎ、必死に船を目指して追いつこうとするクロを、新谷は「山本さんだ…クロは、山本さんたちの思いを乗せてるんだ!」と叫んだ。 

「山本さんだ…クロは、山本さんたちの思いを乗せてるんだ!」(左から二人目)

「クロ、来い!一緒に日本に帰ろう!」と、松田も叫ぶ。

 

船を止めさせ、船員がロープで降りてクロは無事引き上げられ、男たちは歓喜する。 


ナホトカ港の氷の中から引き揚げ船「興安丸」の船員に助け出されるクロ

「忠犬クロとシベリア」という見出しの新聞記事


一人静かに松田は遠ざかった大陸の方を見つめ、呟く。

 

「山本さん…ダモイです」 


埼玉県 大宮市

 

帰国を待ち侘びる家族の元に、幡男の死亡通知が届いた。

 

「お父さんは、亡くなりました。でも、心配ありません」と子供たちに告げたモジミだったが、庭に出て慟哭する。 

「お父さんは、亡くなりました」

「嘘つき!嘘つき!」


 

妻モジミの声が、狭いスポットで劈(つんざ)いていた。

 

1957年

 

山本家を原が訪れ、玄関先でモジミにお辞儀をし、「私が記憶してきました、山本幡男さんの遺書をお届けに参りました」と要件を話す。 


「記憶?」

「どうやら、私が最初に遺書を届けに来たようですね」

「ええ」

 

以下、回想シーンを交叉させていく。

 

「私は山本君に遺書を託されました。でも、ラーゲリ内では没収される恐れがあったのです」

 

原が遺書のノートのページを破り取る。 


「遺書は全部で4通です。各自、分散して保管しましょう…これだけは絶対、家族に届けなければなりません。作業に出た隙(すき)に抜き打ち検査もあります。常に身につけましょう」

「身体検査があったらどうすんだ?」と相沢。

「記憶しましょう…山本さんが言ってました。頭の中で考えたことは、誰にも奪うことはできないって」と新谷。 


「そうして私たちは、遺書を記憶することにしたのです」

 

それぞれが、担当する遺書を作業の合間に、監視の目を盗んで暗記していった。 

破られた4通の遺書の一枚を暗記していく新谷


「その後、みんなが隠し持っていた遺書もすべて没収されました」

 

原は、封筒に入れた代筆の遺書をモジミに渡す。

 

モジミは頭を下げ、封筒を受け取り、中の便箋を読み始めると、原は暗記した幡男の遺書を暗唱する。 

遺書を暗唱する原

「山本幡男の遺家族の者たちよ…鉛筆を取るのも涙が出ます。どうしてまともに書くことができるだろう!」

 

以下、思いの籠った幡男の声がオーバーラップする。

 

「“思ったことの何分の一も書き表せないのが、何より残念です。唯一つ。何よりもお願いしたいのは、私の死によって、決して悲観することなく、落胆することなく、意気ますます旺盛に、病気しないよう、怪我をしないよう、丈夫に生きながらえてもらいたい。どうか皆さん、幸福に暮らしてください。これこそが、私の最大の重要な遺言です”」 



原は涙を溜めた目を瞑り、呟く。

 

「山本君、届けましたよ」 


涙を堪(こら)えるモジミ。 



次に松田が訪ね、母・マサトへの遺言を暗唱する。

 

「“私はなんという親不孝だったでしょう。小さい時からお母さんに…やはり、お母さんと呼びましょう。心配をかけ、親不孝を重ねてきたこの私は、何という罰当たりでしょう。どうぞ存分、この私を怒って、叱り飛ばしてください。一目でいいから、お母さんに会って死にたかった。一言、二言交わすだけで、どれだけ私は満足したことでしょう”」 

「一言、二言交わすだけで、どれだけ私は満足したことでしょう」

松田は自分の母を思い浮かべ、涙を堪えながら続けていく。 

出征する松田を見送る、既に逝去した母

「“しかし、お母さん。私が亡くなっても、決して涙に溺れることなく生きてください。どうか孫たちの成長のために、もう10年間、戦っていただきたいのです。強く、強く、あくまでも強く”」 


松田は嗚咽を手で押さえつつ、座り込む。 


「ありがとう」と添え、松田の肩に優しく手をかけるマサト。 


使命を終え、一礼して立ち去ろうとする松田に、モジミは「山本とは、どこで出会ったのですか?教えてください。もっと山本のことを」と声をかける。 


「私が山本さんに初めて会ったのは、シベリアへ向かう貨車の中でした…」

 

松田は、“オー・マイ・ダーリン”を口ずさみながら、山本家を後にした。 



その後、新谷がクロを連れ、庭で子供たちに向かって、「“子供らへ…山本顕一、厚生、誠之、はるか…”」と、大きな声で幡男の遺書の暗唱を始める。 


「“…君たちに会えずに死ぬことが一番悲しい。成長した姿が見たかった。私の夢の中には、君たちの姿が多く現れた。それも、幼かった日の姿で。さて、君たちは、これから人生の荒波と闘ってゆくのだが、最後に勝つものは、道義であり、誠であり、真心である。人の世話にはならず、人に対する世話は進んでせよ。無意味な虚勢はよせ。立身出世など、どうでもいい。最後に勝つものは道義だぞ。君らが立派に成長してゆくであろうことを思いつつ、私は満足して死んでゆく。健康に幸福に生きてくれ。長生きしておくれ”」 

“君たちに会えずに死ぬことが一番悲しい。成長した姿が見たかった”

“私の夢の中には、君たちの姿が多く現れた。それも、幼かった日の姿で”

遺書を見つめ、涙する子供たち。

 

「読めましたか?僕の字」



「もちろんです。この手紙、一生大事にします」と顕一。 

顕一(左から二人目)


別の日。

 

庭に入って来た相沢に気づいたモジミが、「山本の…」と声をかける。

 

「俺は山本が嫌いだった。山本を認めたくなかった…“妻よ…妻よ!よくやった。実によくやった”…すまん。頭にこびりついて離れなくてな、この文章が…あいつのこともな」 

「妻よ!よくやった」


相沢から幡男の遺書を渡されると、頭を下げて受け取ったモジミは、即座に読み始めた。

 

「“妻よ!よくやった。実によくやった。君はこの10年間、よく辛抱して闘い続けてきた。殊勲賞だ。超人的な仕事だ!その君を幸福にするために、帰国の日をどれだけ待ち焦がれてきたことか!一目でいい、君に会って、胸いっぱい感謝の言葉をかけたかった!君の奮闘を讃えたかった!しかし、とうとう君と別れる日が来た。これからは、幸福な日も来るだろう。どうか、そうあってほしい”」 

“妻よ!よくやった。実によくやった”

“とうとう君と別れる日が来た”


涙を流し、微笑むモジミは、洗濯物のシーツが風に舞い上がると、背広姿で立っている幡男の幻影を見る。

 

「さようなら。ありがとう」と幡男。



「おかえりなさい。あなた。おかえりなさい」

 

モジミはプロポーズした浜辺での日を思い出し、止め処(とめど)なく涙が 溢れた顔に笑顔を作り、空を見上げると、子供たちも空を見上げる。 



2022年

 

高齢となった顕一が孫娘の結婚式で、スピーチをする。

 

「…素晴らしい門出の日です。素晴らしい結婚式です…私は昔の結婚式を、父のことを思い出していました。どんな状況に置かれてもなお、人間らしく生きるとはどういうことか。父は、それを多くの人々の記憶の中に遺した人でした。その生き方こそが、父が私に残した未来でした。私もその思いを孫に伝えたい。よく覚えておくんだよ、今日という日を」 



窓の外の青空が、青空のハルビンでの結婚式に繋がっていく。

 

ラスト。

 

軍服姿の幡男が、家族に語りかける。

 

「…よく覚えておくんだよ。こうして久しぶりに家族全員でいられること、みんなの笑顔、おいしい食べ物、ハルビンの午後に日差し…」

 

幡男の優しい笑顔が広がっていく。




 

4  「堂々たる凡人」 ―― その生きざま

 

 

 

「堂々たる凡人」


その生きざまを見せつけられて、この稀有な実在人物に対して、こう呼ぶ外に言葉が見つからない。

 

「堂々」の反意語は怖気(おじけ)。

 

この怖気があまりに希薄なのだ。

 

人間が恐怖を感じると、生命を維持するために、自律神経系が過呼吸・興奮・震え・血圧上昇・眩暈・吐き気など種々の身体症状が現れるが、その発現が希薄なように見えるのである。

 

大脳辺縁系の一部にあり、情動反応の中枢・扁桃体の出力をゲートする「ITCニューロン」。 

「インターカレート(ITC)ニューロン」と呼ばれる特別な細胞の働きによって動物が恐怖や不安を克服している



即ち、恐怖反応の消去・希釈に関与する「ITCニューロン」の分泌量が、私たち普通の凡人より多いのではないか。

 

そう思った。

 

だから、「堂々たる凡人」というイメージしか湧かないのだ。

 

幡男さん次男山本厚生さん 映画化契機に父を語る」(タウンニュース秦野)によると、「幼かったためあまり記憶はないが、覚えているのは酔うと『この戦争は間違っている』と本音を漏らす姿と、ペチカ(ロシアの暖炉)で火傷した時に替え歌で慰めてくれた父の姿。『昔から成績優秀でロシア語堪能の文学好き、力仕事が苦手で釘一本打てない不器用な人だった』」ということ。 

山本幡男さんの次男・厚生さんと妻のヒカルさん


父の死の知らせが届いたのは、厚生さんが高校生の時だった。

 

「45年しか生きていない父を思うと悔しい」と話し、「これは夫婦愛を描いた父と母の物語であり、戦争の記録でもある。多くの人、特に若い人に見て欲しい」と語り、この映画を推奨している。

 

また、一方で、女手一つで子ども4人を育てた母・モジミさん。 

山本幡男と妻のモジミさん(ウィキ)


「とても苦労していたけど、明るい人でよく歌っていたのを覚えている。試写会を見ましたが北川景子さんの演技が素晴らしく、母の雰囲気が良く出ていました。もちろん北川さんの方がきれいですが」と冗談交じりに話す厚生さん。

 

妻のヒカルさんとも仲が良く、晩年はしょっちゅう孫に会いに来るなど楽しく過ごしていたという。

 

「強い母の姿」が、そこに垣間見える。

 

映画でも描かれていたが、驚異的なことに、喉頭癌を患いながら一晩で約4500文字を書き上げた幡男の遺書は、「本文」「お母さま!」「妻よ!」「子供等へ」の4通あり、収容所の仲間7人が内容を暗記し家族の元へ届けている。 

「山本君、届けましたよ」


「お母さま!」の遺書を届けて、感極まる松田


原作には書かれていないが、実は誰かが遺書の原本を書き写したノートが存在し、一字一句違わぬことが確認されている。

 

本作はモジミさん宛の「妻よ!」を中心に構成され、厚生さんの兄・顕一さんに聞き取った原作にない描写もある。 

『ラーゲリより愛を込めて』主人公の長男が語るシベリア抑留」より/画像は山本幡男さんの家族



「『別れ』と『再会』という大きな物語を大枠として形作りました」

“とうとう君と別れる日が来た”



「登場人物たちが主人公に影響され変化し、最終的に『主人公を助ける』という形で全員が一致団結していくという物語にしました」

 

瀬々敬久監督のインタビューでの言葉であるが、このメッセージは観ていれば容易に分かる。 

瀬々敬久監督


但し、父の文化活動は割愛された箇所が多く、原作にはほとんど登場しない妻のモジミとの物語が、全面に押し出されていることに不満を持つ生前の長男の山本顕一さんの指摘が知られているが、本作が「夫婦の11年に及ぶ愛」に特化したことで、「実話」という名の映画の様態を恣意的に切り取った物語として構成されていた。 


また、山本顕一さんによると、父の印象は以下のようだった。


子供の頃の私にとっては、父は本当に怖い、おっかない存在だった。シベリアに行ってからの父はユーモアがあって皆を楽しませていたと聞いているけれども、私が知っている頃は戦時中だったので。父はその時代が嫌でね。何かにつけ日本の軍国主義を嫌って、嘆いていた。そのため、いつも不機嫌でした。/二宮和也『ラーゲリより愛を込めて』の主人公・山本幡男氏の長男が語る、映画に描かれなかった家族史」より】

東京大学でフランス文学を学んだ後、立教大学教授として教壇に立った山本顕一さん/軍国主義を嫌っていたのは、随所で描かれていたのでよく分かる



尤も「実話」と言っても、どこまでも仮構の産物でしかない表現フィールドでの自在性は担保されるので、「『別れ』と『再会』という大きな物語」が描かれていくに至った。

 

表現フィールドにおいて、完璧な「実話」など存在しないのである

 

閑話休題。

 

「在学中に社会主義に没頭して左翼運動に参加していたことから、1928年(昭和3年)の三・一五事件の際に逮捕され退学処分となった」 

三・一五事件

ウィキで、こう書かれているが、日本共産党などに対して行われた大弾圧として有名な「三・一五事件」に連座し、恐らく不起訴処分になり、有能な人材としてリベラルの宝庫であった「満鉄調査部」に入社した経緯を思えば、恐怖政治や「大粛清」を強行したスターリニズムを忌避し、反軍国主義の思想を有する彼のラーゲリでの活動が理解できる。 

一般党員や民衆にまで及んだ800万~1000万人を処刑したスターリンの「大粛清」の犠牲者を弔う墓碑(画像はウィキ)


自分を密告した原を赦し、支援し、復元させていく幡男


【私たちも逆境に置かれ、「もうだめだ」と思うことがたびたびあります。山本さんは、いつも「人生っていうのは生きているだけで楽しいことがあるんだよ」ってことを言うんですね。私は読んでいて、とても力づけてもらえた。収容所は悲惨なのに、山本さんという人物のいるところにだけはボーッと明かりが灯っている。そして、私たちはどんなに辛いときがあっても、生きるんだ、しかも人間らしく生きていけるのだという希望を与えてくれる。そこがすばらしいと思うのです】

 

ウィキで紹介された『収容所から来た遺書』の著者・辺見じゅんの記述の引用である。 


辺見じゅん

「歴史年表にその名が乗るような人物よりも、無名の庶民こそが真の勇気の持ち主にして学ぶべき英知の持ち主であり、山本をその典型例とした」(ウィキ)ノンフィクション作家の辺見じゅんの表現は、言い得て妙である。

 

軍の司令官や大将にも匹敵する「重労働20年の刑」という事実は、確信犯たる彼の思想性を、時のソ連共産党が、共産主義の勉強会など、日本人が特定の目的以外で集まる行為に象徴されるように、収容所での幡男の文化活動(ウィキに詳しい)それ自身が、ソ連好みの「共産主義者」としての「資質」から逸脱していると見ていた証左でもあった。

 

山本の遺書は暗記で日本へ届けられたというエピソードが観る者を大きく揺さぶるが、誰にも看取られることのない孤独な最期こそ、収容所での山本幡男の生きざまが、彼の「闘いざま」であり、「死にざま」であったことを裏付けるが、それでも、「堂々たる凡人」を貫徹する凄みは圧巻だった。 



結婚式から始まり、結婚式で終わる映画。

 

その祝いの中枢に、親族の幸ある人生に希望を託す山本幡男と、その長男・顕一がいる。

 

この「希望」こそ、本作のコアメッセージであったことが凝縮される映画の構成だった。 

「希望が必要なんです。生きるためにはどんなに小さくても…私たちには、この野球なんです…」

「何もなくても、それでもそこには、絶対、希望があるんです!」

 

 

5  シベリア抑留は戦争犯罪である

 

 

 

「トウキョウ・ダモイ」という言葉がある。

 

「東京へ返してやる」という意味だが、武装解除され、ソ連軍に投降した多くの軍人・軍属が貨車に乗せられる際に、ソ連兵に告げられた言葉として知られている。

 

投降者が連れていかれたのは、無論、東京=日本ではなく、ソ連各地やソ連の衛星国・モンゴル(「モンゴル抑留」)ばかりか、ウクライナ・グルジア(現在のジョージアで、ロシア語由来のグルジアという名称を忌避したため)・バルト三国、更にウズベキスタン・カザフスタンなどの中央アジアの国々。 

モンゴル抑留/強制労働の展示に取り組むウルジートグトフさん(左)と近彩さん=いずれもモンゴル・ウランバートル市内


その数およそ60万人。 

舞鶴引揚記念館


一切は、1945年2月、ソ連と米英とのヤルタ会談に基づく「極東密約」(対日参戦)によって、大戦末期の1945年8月9日、日ソ中立条約を一方的に破棄したソ連が日本に宣戦布告して、日本の実質的支配下にあった満洲と朝鮮半島北部に軍事侵攻したことから開かれた。 

日ソ中立条約/条約に署名する松岡洋右外相。その後ろは、スターリンとソ連外相モロトフ(ウィキ)


リヴァディア宮殿(ウクライナ南部の都市ヤルタ近郊)で会談に臨む(前列左から)イギリスのチャーチル首相、アメリカのルーズベルト大統領、ソ連のスターリン書記長(ウィキ)


リヴァディア宮殿/ここで、樺太(サハリン)南部をソ連に返還すること、千島列島をソ連に引き渡すこと、満洲国の港湾と南満洲鉄道における、ソ連の権益を確保することなどを条件に、ドイツ降伏後2か月または3か月を経て、ソ連が対日参戦することが取り決められた(ウィキ)


8月14日に中立国を通して降伏を声明した日本だったが、その後もソ連の侵攻は止まらず、8月16日に樺太、8月18日に千島列島(千島列島北東での「占守島の戦い」が有名)を占領するに至る。

占守島(しゅむしゅとう)の戦い千島列島東端の占守島で行われたソ連労農赤軍と大日本帝国陸軍との間の戦闘で、ソ連から北海道を守った戦いと言われる

 

この強制連行は、スターリンが日本軍捕虜50万人をソ連内の捕虜収容所へ移送し、強制労働を行わせるという「拘留指令」を下したことに淵源する。 

全てはスターリンの「拘留指令」から始まった


8月16日のことだった。

 

彼らは強制収容所(ラーゲリ)での生活を余儀なくされ、氷点下30度の苛酷な環境下にあって、鉄道建設・森林伐採・土木作業・農作業・炭坑鉱山作業など、様々な重労働を強いられた結果、6万人もの日本人の犠牲者を生むに至る。 

シベリア抑留の実態


また、スターリングラード攻防戦でのドイツ人捕虜6万人のうち、帰還できたのは僅か5千人であったと言われる。

 

これがシベリア抑留である。

 

言うまでもなく、シベリア抑留は「武装解除した日本兵の家庭への復帰」を保障したポツダム宣言違反であると同時に、捕虜の扱いを定めた国際法・ハーグ陸戦条約に明確に違反する戦争犯罪である。

ポツダム会談/「日本国軍隊ハ完全ニ武装ヲ解除セラレタル後各自ノ家庭ニ復帰シ平和的且生産的ノ生活ヲ営ムノ機会ヲ得シメラルベシ」(ポツダム宣言9項)

 

ハーグ陸戦条約


その目的は、第二次世界大戦によって甚大な人的被害と物的損害を被ったソ連が、戦後復興を担う労働力不足の解消のため。

 

これが、ノミやシラミが湧き、赤痢やコレラといった伝染病の発症を生み出すほど衛生状況も劣悪で、固い黒パンや僅かに塩味のついたお粥、スープなどの提供のみで、十分な食事を与えられることなく、栄養失調に陥る者が続出したラーゲリの実態である。 

沿海地方ナホトカの収容所で食事を取る日本人抑留者


抑留者は苛酷な労働と劣悪な環境では痩せ衰える(映画に対する不満の一つでもある)


数百名に及ぶ女性抑留者は苛酷な労働に従事させられた


シベリア抑留者の集団帰国は、ソ連との国交が回復する1956年に終了するが、現在においても、ロシア側は、移送した日本軍将兵は戦闘継続中に合法的に拘束した「捕虜」であり、戦争終結後に不当に留め置いた「抑留者」には該当しないとしている。 

ナホトカの収容所で帰国を待つ日本人抑留者たち

シベリア抑留から帰国した引揚者は、上陸早々故郷への手紙をしたためた=京都・舞鶴港で/1948年5月6日


シベリアから最後の引き揚げ者を乗せ、京都府・舞鶴港に到着した「興安丸」。帰国前に亡くなった山本幡男の遺書を遺族に届けようとしていた仲間たちが乗船していた


舞鶴港に上陸したシベリアからの引き揚げ者(1950年)
舞鶴港に上陸する、抑留からの帰還兵(1946年/ウィキ)


シベリア抑留者が白樺の皮に書いた日誌(「白樺日誌」、舞鶴引揚記念館)(ウィキ)



思うに、現在のロシアが他の複数の専制国家と共に、ソビエト社会主義共和国連邦(ソ連)という名の全体主義国家の闇を引き継いでいる厄介な事態は、人権重視の世界の波動から置き去りにされていく現実を露わにしているのだ。

 

かくて、ホロドモールを完全否定したスターリンの唯我独尊の歴史観は、ゴルバチョフが進めたグラスノスチ(情報公開)の下で、「カチンの森」での虐殺がスターリンの決定であったことを認めていたにも拘らず、ここにきて再び一転させ、ナチスの犯行に変える教科書を編纂してしまうプーチンの歴史観の歪みが曝け出されている。 

ウクライナが“絶対降伏しない理由” ホロドモールに刻まれた心の傷と恐怖の記憶」より


カティンの森事件(ウィキ)

アンジェイ・ワイダ監督「カティンの森」より


自らも認めていた自国の負の歴史を書き換える狡猾さ。

現実離れした『プーチンの教科書』進む歴史の書き換え」より

 

また、気に入らない者を次々に殺害してきたスターリンの後継者をなぞるように、密輸・資金洗浄・殺人などを行う犯罪組織に関与するFSBに暗殺を指示し続けてきたプーチンの犯罪を、ロシア国民は問い質すことができない のだ。 

暗殺・リトビネンコ事件('07) 『銃弾で死ぬか、毒殺されるか』という悍ましい負の連鎖」より


同上


同上


裏切り者は必ず殺す「マフィア国家」を作ったプーチンの犯罪を誰も問い質すことができない国家(注)と、議会襲撃事件などによって前大統領を起訴し、実刑判決を受ける可能性もある法治国家との決定的乖離が、ここにある。 

ワシントンの米連邦議会議事堂に集まるトランプ大統領の支持者たち


【注/ロシアには、生涯にわたって、大統領経験者は刑事訴追から免責されることを定めた法がある


(2023年9月)





4 件のコメント:

  1. いつも非常に熱量のある記事を書いて下さりありがとうございます
    私はあなたのブログ活動のファンです
    自分の話で恐縮なのですが、遡ってみると、私は3年前にミヒャエル・ハネケに関する記事で拙い文章をお送りしていました。唐突に長文を文章を送ってしまい、迷惑をおかけしたことをここでお詫びさせて頂きます。本当にすみませんでした
    こちらの記事に関して申し訳ないのですが、自分は双極性障害の闘病中で、その影響で多くの作品に触れられず、こちらの批評をまだ拝読できていません
    その立場でここに書くのは場違いだと思うのですが、私は3年前から変わらずあなたの活動を応援しています。それを伝えたいと思いここにコメントさせて頂きました
    自分にとって尊敬しているあなたのブログの存在は数年経っても忘れることができず、いつか元気になって作品と向き合える精神状態になったら、あなたの多くの記事を読みたいという希望をもって生きています
    最後にひとつだけ、どうかこの貴重なブログを消さないで頂きたいです。どうかお願いいたします
    これからも活動を陰ながら応援しています!

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    1. コメントをありがとうございます。

      自由が利かない身体で、痛みをケアしながら20年以上自宅生活を続けている私にとって、映画を通して思いのままに表現することが、唯一生きる意味を与えてくれる営みだからです。

      ブログは妻が管理しているので、何とか存続できるだろうと思います。

      こんな長文の映画評を読んでもらえるだけで有難いですし、認知されるだけで感謝の気持ちでいっぱいです。

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    2. お返事、どうもありがとうございます
      20年以上、身体の痛みと闘いながら過ごされていたのですね。そのようなお辛いハンデを抱えながらブログ活動を継続されている事実に驚きました
      Sasaki Yoshioさんがこの映画批評という営みを長期間続けていらっしゃるその熱意を非常に尊敬します

      ブログを存続していただけると知って嬉しいです。活動を支えて下さっているSasaki Yoshioさんの奥様に感謝いたします。本当にありがとうございます

      これからも映画を通して思いを表現していただけるとありがたいです。応援しております(^^)

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    3. 応援ありがとうございます。これからもよろしくお願いいたします。

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