1 「お前さんが死んであの世へ行くと、阿弥陀様にお目にかかる。阿弥陀様は、お前さんをお慈悲深い目で見守って…だから、くよくよせずにお迎え待つんだよ」
崖の下のオンボロの棟割長屋(むねわりながや)には、どん底の人生を送る人間たちが住んでいる。
【棟割長屋とは、一棟の家を壁で仕切って分けて何世帯かが住めるようにした建物】
棟割長屋 |
破損した鍋を修膳する音を出し続けている鋳掛屋(いかけや)の留吉は、病気の女房・あさを抱え、この長屋からの脱出を願う日々を送っていた。
留吉(手前)と殿様(右)、辰(左) |
飴売りのお滝と零落した元旗本を自称する殿様が食事をしながら四方山話(よもやまばなし)をし、それを傍らで聞く留吉が口を挟んで飴売りのお滝と喧嘩となり、殿様は夢想に耽る夜鷹のおせんを茶化し、その様子を見て、桶屋の辰が笑っている。
茶化されて怒るお滝(右)と夜鷹のおせん |
そんなお滝は殿様と仕事への出がけに、苦しそうに咳をする鋳掛屋の女房の背中を摩(さす)り、飴を食べるようにと言って置いていく。
左からお滝、鋳掛屋の女房あさ、留吉 |
遊び人の喜三郎が起きるなり、夕べ誰かに殴られたと言うや、博打でいかさまするからだと辰に返される。
喜三郎(右)と役者 |
左から役者、辰(桶屋)、喜三郎 |
酒で病み、セリフを思い出せなくなった役者が、寝たきりの鋳掛屋の女房を日当たりの良い場所へ連れて行ったことを、大家の強欲の六兵衛が親切者だと褒めると、その報いを求める役者に対して、六兵衛は「親切は親切、借金は借金。味噌も糞も一緒にしちゃいけん」と言ってのけるのだ。
六兵衛(左)と役者。手前は喜三郎 |
その六兵衛は、泥棒稼業を止められない捨吉に捨てられ、未練を残す妻のお杉を探しに来たのだった。
六兵衛(右)と捨吉 |
捨吉が部屋から出て来て、泥棒で手に入れた品を売った金を請求される六兵衛は、捨吉に暴力的に追い出される始末。
その捨吉は、留吉の女房の病気を気に掛ける優しさを持っている。
「おう。どうでい、かみさんは?」(捨吉) |
そんな時、お杉の妹のかよが、一人のお遍路の格好をした老人・嘉平(かへい)を連れて来た。
嘉平とかよ(右) |
かよは捨吉からぞっこん惚れられ、長屋からの脱出を繰り返し求められているが、姉のお杉から嫉妬されて折檻を受け、そのお杉を案じる六兵衛からも邪魔者扱いされている。
捨吉はそんなかよを不憫に思っているが、かよからはまともに相手にされていない。
連れ出されたまま放って置かれた鋳掛屋の女房を連れて帰って来た嘉平は、あさに感謝される。
お杉の叔父で岡っ引きの島造(左) |
「おじいさん、お前さん、いい人だね。本当に」
「河原の石ころさ。さんざん揉まれて、丸くなったのさ」
夜になって、あさはひどく咳き込んでいるが、その傍らでは、辰とお杉の叔父で十手持ちの島造は将棋を指し、駕籠(かご)かきの熊と津軽を交えて、喜三郎らは「テンツクテンツクテンツクテン、コンコンコンコンコンチキショー」と歌いながら、津軽をカモにして賭博に興じている。
駕籠かきの津軽(右)と熊(右から二人目) |
「何かと言っちゃさ、歌を歌う」と愚痴を零すあさを慰めるのは嘉平のみ。
「お腹いっぱい、食べたこともないんだよ。何の因果かね」
辰(左)と島造(右)/嘉平 はあさの愚痴を聞いている |
「苦労な事だったね」
「ねえ、おじいさん。あの世へ行っても、こうだろうかね」
「そんなこたぁない。あの世へ行けば息がつけるさ。もう少しの辛抱だよ」
負けが込んだ津軽がいかさまに気づき、仲間と喧嘩となるが熊が諫(いさ)めて、お開きとなる。
殿様(左) |
皆で飲みに行くので、嘉平も誘われるが断ると、役者がめっぽう素晴らしい台詞を聞かせてやると言いながらも、役者はそのセリフを思い出せず、言葉にできないで茫然自失(ぼうぜんじしつ)。
嘉平は、役者に酒の病気(アルコール中毒)を治してくれるお寺を紹介しようとするが、嘉平もまたその寺の名前を思い出せなかった。
「とにかく、その気になるこった。まず酒をほどほどにして、やがて病気が治ったら新規蒔き直し(しんきまきなおし)と行くのさ」
励まされて、「おめぇ、妙な爺(じじい)だな」と、嬉しそうに笑う役者。
再び、不安を訴えるあさに呼ばれて、話をする嘉平。
「…あの世は、この世の休み場所さ」
「本当かね、おじいさん」
「お前さんが死んであの世へ行くと、阿弥陀様にお目にかかる。阿弥陀様は、お前さんをお慈悲深い目で見守って…だから、くよくよせずにお迎え待つんだよ」
「でも、ひょっとすると、私、良くなるかも知れないね」
「何のためにさ。また苦しい目に遭うためにかい?」
「だって、もう少し、生きていたいもの。あの世に苦しみがないのなら、この世で、もう少し辛抱してもいいよ」
その話を傍らで聞いていた捨吉は、嘉平に対して、「おめぇ、なかなかの代物だな」と嫌味を言う。
「嘘も上手ぇし、作り話も板についてら。嘘の方が本当よか、よっぽど面白ぇからな」
更に捨吉は、将棋を指している島造に、お杉にひどい折檻を受けて出て行ったかよの居所を聞き出そうとして島造を怒らせ、辰はお杉に言いつけることを案じる。
島造(右)と辰 |
嘉平は捨吉に、早いとこ、ここを出て行くことを勧める。
「どこへよ?」
「どこだって、いいわさ。ここより悪いとこあるめぇよ。上方(かみかた)もよかろう。いっそ蝦夷だって悪かねぇや」
「おぅ、爺さん、何だって、てめぇ嘘ばっかつくんだ?でめぇに言わせれば何処も彼処もいいとこ尽くめだ。嘘に決まってらい!」
「…だがな、兄さん。この世の中で、嘘が悪いとばかりとは限らないよ。また、誠がいいとばかり限らねぇ…」
「おい、爺!阿弥陀なんて、本当にいるのかい?」
「アハハ…いて欲しい人にはいるだろうさ」
そこにお杉がやって来た。
お杉(大家の女房) |
辰は自ら出て行き、嘉平はお杉に促され出て行くが、密かに戻って来る。
猫なで声で捨吉に迫り、捨吉に抱き着くお杉に、「奇麗な顔だな。そのくせおらぁ、心底お前が好きになったことはねぇ」と本音を言って払いのける。
「でもね、あたし、お前さんとこんな仲になって、心待ちにしてたことがあるんだよ。こんな暮らしから助け出してくれるだろうと願ってたのさ」
お杉は、捨吉がかよに惚れていることを見透かし、持ちつ持たれつの駆け引きを持ち出すのだ。
「もし欲しかったら、あの子をやるよ。熨斗(のし)をつけてさ。その代わり、あたしを助けておくれ。あの宿六をなんとかしておくれよ」
お杉は六兵衛がかよまで狙っていると言って、乗り気にならない捨吉をけしかける。
「出てってくれ!」
「よく考えたらいいさ」
その瞬間、外から覗いて立ち聞きしていた六兵衛に気づくお杉。
六兵衛は部屋に入って来るや、「売女!恥知らず!」と罵ると、お杉は捨吉に目配せして、無言で出ていった。
捨吉が出て行けと言っても、留まる六兵衛。
「笑わしちゃいけねぇ。てめぇの指図は受けねぇよ!」と返された捨吉は切れてしまい、六兵衛の首を絞めるのだ。
その時、突然、嘉平の大きなあくび声がして、思わず手を放す捨吉。
六兵衛は這って逃げ出し、一部始終を聞いていた嘉平は捨吉を諭す。
「好きな子があるなら、その子を連れて、さっさとずらかるんだな」
「なんだって、そう俺のことを?」
嘉平はそれに答えず、鋳掛屋の女房の様子を見に近づくと既に息絶えていて、念仏を唱えるのである。
直後の会話「おい、死んだのか?」(捨吉)「やっとな…」(嘉平) |
嘉平と捨吉は、留吉を探しに出ていった。
そこに役者が酔っ払って帰って来て、思い出した台詞でふらふらしながら演じて見せる。
捨吉を訪ねて来たかよを捕まえ、役者は春になったら、酔っぱらいを治してくれるお寺を探しに出て行くと話す。
「かよ坊。おいら出かけるぜ。春になったら出ていくぜ」「一体、どこへさ?」「お寺を探すんだ」 |
かよも鋳掛屋の女房が死んでいるのに気づき、「いつか、こんな風に虐め殺される」と呟いた。
次々と住人たちが鋳掛屋の女房の死を知り、留吉も戻って来たが、届けも弔いもどうしていいか分からないと愚痴るのだ。
嘉平の励ましで静かに逝去した女房の死に面喰らうばかりの男が、そこにいた。
2 「ちぇ、せっかくの踊り、ぶち壊しやがった。バカ!」
長屋に戻って来た捨吉に、嘉平は「もうじきお別れだ」と告げていた。
捨吉もかよに向かい、一緒に出て行こうと誘う。
「俺は泥棒なんて辞めた。男の一言(いちごん)だ。間違えねぇ。堅気になって働くよ…このままじゃぁいけねぇ。もっと、ましな暮らしをしなくちゃならねぇ」
「兄さん、その通りだ」
迷うかよを、嘉平も一緒になって説得する。
「こういう男には、つっかえ棒がいるんだ。お前さんはしっかり者だ。うってつけだよ…」
「あたし、ちゃんと知ってるよ。どうせ、あの二人の食い物にされんのさ」
かよがその気になった時、話を聞いていたお杉が、「婚礼の日取りはいつだい!」と恐ろしい形相で睨みつけた。
六兵衛もかよを𠮟りつけると、かよはその場から逃げ去っていく。
捨吉は、「もう、この女は俺のものだ」ときっぱり言い切るが、「ほう、いくら出した?」と六兵衛が嫌味を言い、お杉は甲高く嘲笑う。
殴りかかろうとする捨吉を嘉平が何とか食い止める。
その嘉平に六兵衛は声をかけ、そろそろ出て行くと聞くと、「尻に帆掛けじゃないのかい?」と言い放った。
「尻に帆掛けじゃねぇのかい?おめぇ、お遍路さんのなりはしているが、ただのネズミじゃねぇと踏んだが、どうだい?」 |
【「尻に帆掛け」とは、慌てて逃げ去ること。例文は「悪事が露見し尻に帆を掛けて逃げる」など】
旅支度を始めた嘉平に、辰は自分の妻が男に奪われ、危うく妻を殺しそうになった話をする。
帰って来た役者は、酔っぱらいを治す寺に望みをかけ、今日は働いて銭を稼ぎ、焼酎も飲まなかったと嘉平に報告する。
博打で負け、酔っぱらって戻った喜三郎は、「この世の中も捨てたもんじゃねぇ。いかさま博打で俺の上手がいやがった。頼もしいじゃないか」と笑って見せる。
「お前さん、陽気でいいねぇ。全く気っ風(きっぷ)のいい人だ」と嘉平。
その嘉平は、頭もよく、昔は一端(いっぱし)の若者で、仲間から兄いと慕われていたという喜三郎が、どうしてグレたかを聞き出す。
「牢屋さ。4年と7カ月。放り出されたら行き場がねぇ…やな野郎がいたのさ…あいにく包丁があったのさ。すぐ傍によ…もうたくさんだ。10年にならぁ」
そう吐き捨てると、喜三郎はいつものように歌い出す。
「お前さんは浮世を茶にしてる(冷やかす/筆者注)が、まるで違うねぇ」と嘉平はしょげて帰って来た留吉を見やる。
「あいつだって、じき慣れらぁな」と喜三郎が鋳掛屋の留吉に声をかける。
「思案してんだ。どうしたらいいか。仕事の道具がねぇ。弔いに喰われちまった」
「いいこと教えてやろうか。何にもすんな。そのまんま世間様におんぶしちまうのよ」
「それも良かろう。それができる奴はな。でも俺にはできねぇや。そんなみっともないマネは」
そこに、かよの徒(ただ)ならぬ叫び声が聞こえてきた。
直ちに喜三郎らが六兵衛の家に押しかけ、役者が捨吉を呼びに行った。
喜三郎が外から窓を叩き、「爺さん、来な!もしもの時は、二人で証人に立とうぜ!」と嘉平に呼びかけ、家に乗り込む。(この辺りに、喜三郎の男っ気が読み取れる)
嘉平は、「証人だなんて、とんでもない…」と呟き、そそくさと引き返していった。
乗り込んだ喜三郎が六兵衛の胸倉を掴み、その隙に逃げようとしたかよに、お杉が煮え繰り返った鉄瓶を投げつけたので、かよの絶叫が響く。
駕籠かきの熊と津軽が駆け付け、熊が六兵衛の頭を叩き、おせんと滝がかよを救い出す。
ついでに、いつも太鼓を叩いて、噂話を広めて騒ぎ立てる卯之吉が来て、家の中をひっくり返し、島造がそれを見つけて咎め、六兵衛の家の辺りは大混乱となっていく。
かよを外に連れ出すおせんとお滝を追い駆けるお杉。
抑え込む喜三郎の腕を噛んで振り払い、今度はお杉を辰が羽交い絞めにしてしまうのだ。
お杉が家に戻ると、熊は「胸がすっきりしたぜ!」と叫び、皆が大笑いするが、下っ引きの島造に支えられ出て来た六兵衛が、頭を叩いた熊を告発する。
「やい、てめぇら」と凄む島造から、卯之吉が十手を取り上げたことで爆笑が起こる。
見物人が集まる中、捨吉が戻って来た。
真っ先にかよのところに行くと、六兵衛がこいつが張本人だ!と指差すので、捨吉は六兵衛の胸倉を掴んで倒してしまう。
捨吉はかよを抱えて、火傷の手当てをしようとするが、その時、六兵衛が死んでいるのをお杉が見つけ、「皆、ごらん!殺されてる!」と嬉々として叫ぶのだ。
捨吉を人殺し呼ばわりするお杉に、捨吉は「嬉しいか?くたばりやがった。てめえの注文通りに」と言い捨て、お杉に襲いかかろうとして、皆に留められる。
「じたばたしたって、もうだめだよ。臭い飯をとんとおあがりよ!」
「島造、何をしてるんだよ!早く縄をかけるんだよ!」
「あの親父をどついたのは、お前だけじゃない」と喜三郎。
「俺も思い切り、一つやってやった!」と熊。
笑いが止まらないお杉に、捨吉は「俺はどうなったって構わねぇ。ただ、このアマ、このままじゃ、腹が収まらねえ!」と、お杉が六兵衛を殺せと焚きつけていたと証言する。
「嘘だよ!」
「本当だよ!亭主片付けて、お互い上手くやろうって、唆(そそのか)しやがったんだ!」
背後で、かよが叫ぶ。
「それで分かった。お前は私なんか、どうでも良かったんだ!」
捨吉に言い放つかよ。
捨吉が否定してかよを宥(なだ)めようとしても、取り付く島もなく興奮するかよは、お杉と捨吉がグルだと指差し、「みんな二人が仕組んだことなんです!」と激しく糾弾する。
「驚いたな、こいつは!」と喜三郎。
お杉が「嘘だ、捨吉がやった」と言い張ると、かよは「二人でやったんです!みんな二人で!」と絶叫する。
喜三郎は、「さあ、一か八かだ。しっかりしろよ、捨!うっかりすると、元も子もないぜ」と言って、捨吉の肩を掴む。
「おかよ坊!お前、本気でそんなこと言うのか!俺が、このアマと…」
捨吉がいくら訴えても、かよは耳を塞いで受け付けない。
役人が来て、お杉が捨吉が下手人だと指差すと、「うちの姉と、この人が殺したんです」とかよが訴える。
「お役人様、よくお聞きください。うちの姉が唆して、この人と二人でやったことなんです!早く二人を縛って!それから私も!」
かよの絶望的な叫び声が狭いスポットで響き渡って、貧乏長屋を揺るがした「約束済みの騒動」は幕を閉じていく。
かくて、捨吉とお杉はお縄になり、十手を取り上げられ、のんだくれの島造と結ばれたお滝が、持ち主不在になった六兵衛の家に居抜き(ここでは、家主が不在になった家にそのまま入ること)のまま収まった。
また、邪悪な姉夫婦との物理的共存に起因する、「長屋」という絶望的記号からの脱出を願い、密かに期待していたであろう捨吉という「助け舟」を失ったかよは行方不明になった。
そして、この騒ぎのどさくさの渦中で、凶状持ち(罪を犯して追われている者)であると思しき嘉平は姿を消していた。
―― 以下、その後の貧乏長屋の住人たちの生活風景。
「でもさ、いいお爺さんだったよ。お前さんたちは、人間のカスだけどね」とおせん。
「洒落た爺だったぜ…歯抜けにはお粥(かゆ)。心得た爺さ」と喜三郎。
「あいつには思いやりがあって。ところがおめぇたちときたら、人を踏みつけにすることばっかり考えてやがる」と留吉。
夜鷹のおせんが「あたしは出て行こう。どこでもいいや。ここでさえなけりゃ」と立ち上がると、役者も連れて行けと喜三郎が口を添えた。
役者は未だに無料で酔っぱらいを治してくれる山の上の寺を夢想し、「あいつは嘘の塊って奴さ」と決めつける殿様に反論する。
「あの爺、何かと言やあ、いいとこあっからどこか行けって。そのくせ、そこがどこだか教えねぇ」と留吉。
そして、いつもの殿様の「旗本自慢」をおせんが否定して喧嘩が始まり、その後、おかよの話となるが、行方知れずのままだとおせんが話す。
「旗本自慢」をする殿様 |
「ご放免になったその足で、どこへ行ったのか。それっきり」と話すおせん |
「あれはお杉の勝ちさ。一枚上手だよ。捨吉は島送りだよ」とおせん。
「喧嘩の上のこった。島送りとまでは行くめぇ」と喜三郎。
突然、泣き叫び、「畜生!死んでやる!」と雨の中を出て行くおせん。
残された連中は酒を酌み交わし、留吉も喜三郎に呼ばれて仲間に入る。
「やっとここにも慣れたらしいな」と喜三郎。
「まあ、どうにかな」と留吉。
殿様がおせんを迎えに行き、役者も酒をがぶ飲みして、「俺は行くよ」と呟き、出て行ってしまう。
替わって、辰が酔っぱらって帰て来て、留吉に堤の修繕を頼んでいた卯之吉が受け取りに来た。
辰 |
卯之吉(左)と島造(中央)、辰 |
熊が来て、怪我をした相棒の津軽を労わり、島造と一緒になったお滝もやって来て、四方山話をして出て行った。
津軽(右)を労わる熊 |
そこから例によって、喜三郎が歌い、留吉も加わり、賑やかなお囃子で踊りが始まるのである。
留吉 |
踊りが最高潮となったとことで、ずぶ濡れになった殿様がおせんと一緒に戻り、「役者が首を吊った」と知らせに来て、皆、固まってしまう。
殿様(左)とおせん |
ラストカット。
喜三郎が吐き捨てた。
「ちぇ、せっかくの踊り、ぶち壊しやがった。バカ!」
3 黒澤リアリズムの到達点
仏教用語由来の表現の中では、「どん底」と「奈落の底」という概念が峻別されている。
「どん底」の「底」=「この世」における最低の底とされているが、私流に解釈すれば、ここで言う「どん底」とは「人生」の「どん底」である。
辞書には、分りやすく、「物事の最悪・最低の状態を指す」と書かれているが、更に私流に解釈すれば、「人生」の「どん底」とは、容易ではないものの、環境因子等の強力なアウトリーチによって這い上がることが可能なゾーンを意味する。
この「人生」の「どん底」のゾーンを、敢えて定義すれば、様々な相貌性を開きつつも、〈生〉と〈性〉への繋がりが未だ切れていない心象風景の様態であると考える。
だからこそ、この〈生〉と〈性〉の繋がりの不如意によって己の〈生〉を恨むだろうし、その幸薄き「人生」を呪うかも知れない。
然るに、この感情の在り処(ありか)への問いこそが、〈生〉と〈性〉との繋がりを捨てられない、「人生」の「どん底」に呼吸する者の情動世界の証左でもある。
ところが、ここで言う、〈生〉と〈性〉への繋がりに固執せずに呼吸を繋ぐゾーンが、この世にある。
無論、その世界の住人は、「聖人」でも「仙人」でもない。
この世界こそ、「人生」の「どん底」より下の世界、即ち、「奈落の底」である。
イメージ |
仏教では、「奈落の底」の「底」は、この世の遥か下方にある「地獄」の底、要するに、「人生」の「どん底」よりも下方の「最低の底」を指すが、ここも私流に解釈すれば、限りなく、「ゼロ・チャンス」を約束された救われようのない世界であるが故に、「奈落の底」であるということになる。
そこでは、「死に神」の供給源としての「奈落の底」にすっかり搦(から)め捕られていて、魑魅魍魎(ちみもうりょう)が跋扈(ばっこ)する世界を漂動し、どこまでも、〈生〉と〈性〉を削り取られた者の軽量の「身体」を喰い潰し、「心」を食(は)み、人間的な事象の一切が無能化されている。
そんな世界に捕捉されてしまったら、固有の軌跡をすっかり剥ぎ取られ、負の行程を偏流するだけの心身を腑分(ふわ)けされたその者は、いつしか、「死に神」の誘いに乗って、非日常の極点である〈死〉の世界に押し込められるように捌(さば)かれ、機械的に処理されていくに違いない。
「国産みの女神」・イザナミ(左)を死神と見なすこともある(画像は、イザナギと共に天の橋に立って、矛で混沌をかき混ぜて島=日本を作っている小林永濯の絵画/ウィキ) |
従って、「奈落の底」に搦(から)め捕られた者への一定の援助が可能であっても、救済の望みは殆ど不可能であると言っていい。
「奈落の底」のゾーンで呼吸を繋ぐ者の救済の不可能性 ―― これが、私の問題意識の中枢にある。
その典型が、「リービング・ラスベガス」でニコラス・ケイジが演じたアルコール依存症の男だった。
「リービング・ラスベガス」より |
エリザベス・シュー演じる娼婦と出会う前から「奈落の底」の世界に搦(から)め捕られていたので、一人の娼婦が、自らが呼吸を繋ぐ「人生」の「どん底」の世界に男を引っ張り上げていく能力など、とうてい持ち得なかった。
男は死ぬために酒を飲む。
飲み続けた果てに息絶えていく「人生」を生きているので、「奈落の底」の世界に嵌まり込んでいて、そこからの解放の望みなど拾えようがなかったのである。
だから、とんでもない映画になった。
この男のことを考える時、私はPTSDの底知れない破壊力に捕捉された、「そこのみにて光輝く」の綾野剛演じる達夫を想起する。
「そこのみにて光輝く」より |
達夫がニコラス・ケイジと切れていることが認知し得るからである。
インセストの忌まわしき世界に捕縛されている「人生」の「どん底」のゾーンで呼吸を繋ぐ、池脇千鶴演じる千夏に、繰り返しストロークを出すことで自己救済の手立てを見つけていたので、千夏の存在それ自身が生きる縁(よすが)になっていた。
かくてこの映画は、「奈落の底」の危うさと地続きだった男のストロークが、他人からのストロークを放棄し、「人生」の「どん底」のゾーンで動けない女の中枢を、「そこのみにて光輝く」世界への希望の縁(へり)に移動させていく愛の物語に昇華した。
小さくも希望が垣間見える愛の物語に胸が抉(えぐ)られるような感動を覚えたので、私にとって、生涯、忘れられない映画になっている。
―― 本篇の「どん底」もまた、死を待つだけの鋳掛屋の女房に象徴されているように、これ以上堕ちようがない「奈落の底」のゾーンで呼吸を繋ぐ者の救済の不可能性を思わせるが、物語総体の展開を子細に見ていけば、社会主義リアリズムを立ち上げたゴーリキーの原作と切れ、ラストで弾ける「テンツクテンツクテンツクテン、コンコンコンコンコンチキショー」と歌って騒ぐ棟割長屋(むねわりながや)の住人達の能天気なシーンを印象付け、その日暮らしを余儀なくされながらも、その陽気な景色には「奈落の底」というイメージが希薄なように見える。
労働者階級から脱落した極貧層・ルンペンプロレタリアートを描いた「どん底」は、マクシム・ゴーリキー(画像)の最高傑作(ウィキ) |
男らしさ満載で、本当は人のいいニヒリスト然とした喜三郎を含めて、皆、「どん底」からの脱出願望を有しているのだ。
アルコール依存症からの解放を目指し役者に復元せんとして、それを身体化して挫折したことで首を吊った役者のケースは悲哀を感じるが、本気で生きようとする行為には心を打たれる。
喜三郎に相談する役者 |
「どん底」の極点に押し込められていた女・かよとの脱出を図らんとして動いた捨吉の思いには、この男なりに甦生(そせい)を希求する真摯な姿勢が窺われるのだ。
先の鋳掛屋の女房でさえ、「だって、もう少し、生きていたいもの。あの世に苦しみがないのなら、この世で、もう少し辛抱してもいいよ」と吐露するシーンは、観ていて涙を誘われる。
純愛譚という「物語」を吐き出すことで、リアルな現実からの観念的昇華を志向する夜鷹のおせんも同様。
おせんの純愛譚の作り話を冷やかすだけの殿様と桶屋の辰に対して、嘉平は諫める。
殿様に馬鹿にされて怒る夜鷹のおせん |
「この人の身になって聞いておやりよ。なぜ、そんなことをしゃべるのか、そこんとこを汲んでやらにゃぁ…」
この訓諭(くんゆ)は、お仙の空想譚を見抜いた上での言葉だから理に叶うのだ。
棟割長屋の住人たちに寄り添い、彼らの再生を後押しするのは、巡礼に化けて逃避行の旅を続けるこの嘉平だった。
「病気が治ったら新規蒔き直し(しんきまきなおし)と行くのさ」 |
六兵衛から見抜かれていても、「おっしゃるね」などと返して、役人が現れるまで住人たちへのストロークを止めなかった老人の言語に力があったのは、彼の経験則の開陳(かいちん)が説得力を有したからである。
「だがな、兄さん。この世の中で、嘘が悪いとばかりと限らないよ。また、誠がいいとばかり限らねぇ」
捨吉に対して、早く長屋を出て行くことを勧める時の言辞である。
嘉平の人生のエッセンスが詰まっているのだ。
嘉平を演じた左卜全の会心作と言っていい。
「奴はなるほど嘘をついた。だがそりゃ、薬も付けようもねぇ奴を不憫に思ってのことよ。この世の中、嘘でつっかえ棒しなけりゃ、生きていけない奴もあらぁ。爺はつまり、そこんとこ知ってたってだけのことさ」
嘉平を疎んじるようなニヒリスト・喜三郎の言辞だが、正鵠(せいこく)を得ている。
然るに、この喜三郎の言辞は嘉平批判ではない。
喜三郎こそ、嘉平の体現者であることが、ビッグディール(一大事)が出来した時の彼の援助行動を見れば、よく分かる。
「ちぇ、せっかくの踊り、ぶち壊しやがった」と突き放した男だったが、ここに「間」ができたあと、放ったのは「バカ!」という一言。
「何で死んだんだ」
この思いに結ばれたのである。
「首を吊る力があるなら、酒を断つ力に変えろ!」
こう言いたいのだ。
最後まで仲間を思い遣る男だったのである。
「どんな人間でも大切にしてやらなきゃいけないよ。だってさ。わしらにゃ、それがどんな人間なのか。何をしに生まれてきて、何をしでかすのか見当もつかねぇんだからね。ひょっとしたら、その人間はわしらのため、世の中のために、どえらいいいことをするために生まれてきたのかも知れないではないか」
嘉平の出奔(しゅっぽん)後、喜三郎が嘉平の後釜に座ることを暗示している。
犯した罪で辛酸を舐めた男たちの経験則が、生の〈現在性〉において発現されているのである。
だから、嘉平や喜三郎のような人物こそが、逃げ場を求めざるを得ない者たちの格好の「保護因子」(レジリエンスを促す要因)となるのだ。
少なくとも、映像提示された嘉平が表出する言語を軽視してはならないのである。
希望に向かう熱量が生まれる一切の可能性を捨ててはならないのだ。
この映画で最も救いがたいのは、雀の涙ほどの稼ぎがない連中の「どん底」のゾーンで、「家賃の値上げ」を平然と言ってのける六兵衛その人。
「どんな悪党でも、誰かにゃ好かれてるものさ。だがその誰かもいなくなったら、もうお終いだと言うのさ」
嘉平と六兵衛 |
嘉平のこのシャープな指摘こそが、六兵衛の約束された終局の景色をワンカットで示した本篇のサブメッセージだったということが判然とするだろう。
人と人との「繋がり」と、その健全な強化こそが世界を変える力になっているのである。
トートロジーになるが、棟割長屋の住人が「どん底」のゾーンでその日暮らしの日々を送り、行き当たりばったりの生き方を繋いでも、「奈落の底」に堕ちることはない。
彼らなりに適応しているだけなのである。
それは、「どん底」のゾーンに適応できる強さでもあった。
それが、この映画の強さだったのだ。
―― 感傷を排し、黒澤リアリズムが全開する典型的な群像劇。
だから、主人公はいないが、俳優がカメラを意識させなくするために、複数のカメラを使用して撮影するマルチカム方式を導入して製作されたので、主人公がいなくとも、この映画は、黒澤組の常連の名優のドキュメンタリーと思しき自然な演技を引き出すことに成就している。
舞台やキャストを固定化するシチュエーション・コメディをイメージさせるが、決してコメディではない。
黒澤リアリズムの一級の到達点と言っていい。
そして、六兵衛の女房を演じた山田五十鈴は、殆ど神がかってた。
文句のつけようがない。
脱帽する。
【参照・引用資料】
「そこのみにて光輝く」 「リービング・ラスベガス」
(2023年8月)
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