1 「アリス。私はあなたよ。大事な話があるの。あなたが質問に答えられなくなったら、『蝶』というフォルダを開くこと」
「僕の人生を通じて、最も美しく、最も聡明な女性に」
コロンビア大学(ニューヨーク市 マンハッタン)で教鞭を執り、世界中でも指折りの言語学教授・アリス・ハウランド(以下、アリス)が50歳の誕生日に、医師である夫・ジョンから受けた最高級の賛辞である。
3人の成人した子供(法科大卒の長女・アナ、医学生の長男・トム、女優志望の次女・リディア)を持つアリスが、突然の異変が襲われたのは、UCLA(カリフォルニア大学ロサンゼルス校)での講演中だった。
途中で、スピーチする語彙(ごい)を思い出せなかったのである。
その直後、アリスは、ロスの劇団に所属する次女・リディアと会い、未だ成功が覚束ない彼女にアドバイスするが、一言で一蹴される。
「私は自分の人生を生きているの」
きっぱりと、自分の意志を表現するリディアの性格が表れていた。
認知症の中核症状である、人・場所・時間が分らない「見当識障害」の一端が、もう、そこに現出していた。
不安を感じたアリスは、専門家に相談するが、充実な日々を過ごしていると信じる彼女には、この時点で、更年期障害を疑っているレベルだった。
母と姉を事故死で喪い、アルコール依存症が原因の肝不全で、父を喪っているアリスが、神経科の専門医・ベンジャミンに相談した理由は、青年期における家族の不幸を目の当たりにしているからだった。
しかし、認知症の簡易な知能検査として日本で用いられている、「長谷川式認知症スケール」と同質の検査で、記憶の復唱に頓挫したことで、MRIの検査を受けることになったアリス。
それでも専門家には、記憶の復誦に頓挫した一件が気になり、「近時記憶障害」(最近覚えた記憶の障害)と判断し、記憶機能の低下を指摘した。
かくて、PET検査(ペットけんさ/癌・認知症・パーキンソン病・統合失調症などの診断に用いられる)が要請されるに至る。
若年性アルツハイマー病との関連が疑われたからである。
神経科の専門医のこの一言に不安を持ったアリスは夫に相談するが、取り立てて心配しない夫・ジョンに、「怖いの」と告白する。
「物忘れをする年のせいだ」とジョン。
「そういうのじゃない。抜け落ちるの」
ここまで話しても真剣に取り合わないジョンに、突然、激怒するアリスだが、既に、このような行為の中に、彼女が罹患した疾病の症状が顕在化していていた。
「人生を捧げて来たことが、何もかも消える!」
激怒の直後の号泣を、この夜、ジョンはしっかり受け止めた。
若年性アルツハイマー病と断定され、それが家族性アルツハイマー病の指標になるから、遺伝子の変異を調べるという結論になった。
そのために、家族成員の遺伝子を調べる必要があり、それを自分の子供たちに説明するに至る。
衝撃を受ける子供たち。
そして、授業に立つアリス。
しかし、授業の内容を忘れてしまって、アリスは学生たちに聞く始末だった。
その上、悪いことが重なる。
長男・トムは陰性、次女・リディアは検査を拒否するが、長女・アナが陽性反応という結果が出て、アリスは「ごめんなさい」と謝るばかりだった。
「次の人工授精の前に分って良かった。心配しないで」
しかし、大学の授業で学生たちから不満が募り、それを指摘する教授に、アリスは正直に自分の疾病を告白する。
まもなく、自分が近未来に入所する予定の施設を見学するアリス。
そして、アリスは、自分が自分であることを確認するために、パソコンに向かって、現在、自分の持ち得る能力を駆使し、自らに語りかけていくのだ。
自ら質問し、自ら答えていく。
「アリス。私はあなたよ。大事な話があるの。あなたが質問に答えられなくなったら、次の段階に進むべき時よ。間違いないわ。寝室にランプの載った棚がある。一番上の引き出しに、錠剤の入ったビンがある。“水で全部飲め”と書いてある…質問に一つでも答えられなくなったら、『蝶』というフォルダを開くこと」
自らの左手首には、「記憶障害患者」というプレートのついたブレスレットが嵌められている。
2 「私はまだ生きています。私は苦しんでいるのではありません。闘っているのです。瞬間を生きること。それが私のできる全て」
アリスの症状は確実に悪化していく。
夫と共に過ごすためにやって来た別荘で、トイレの場所が分らず、失禁してしまう。
嗚咽を抑えられず、若年性アルツハイマー病の一方的攻勢に立ち往生するばかり。
そんなアリスの抑鬱状態を少しでも緩和する役割を負ったのは、相変わらず演劇に打ち込むリディアだった。
演劇の学位を取ることを勧める母に対し、「私がやりたいのは演劇よ。自分を信じて挑戦したい」と答える娘にとって、アリスの存在は、常に自分の身の振り方を考えてくれる、ごく普通の母親以外の何ものでもなかったのである。
だから、いつでも気楽に話し合えるのだ。
「ママ。私を思い通りにするために、今の状況を利用しないで」
「当り前よ!私は母親だもの」
そう言いながら、リディアの演劇の戯曲を読み、その感動を本人に伝えるのである。
しかし、演劇の戯曲を読んだつもりだったが、アリスが読んだのはリディアの日記だった。
リディアに責められるアリス。
本気で怒り、本気で母を非難するリディアの存在は、未だ、母娘関係が継続していることの証となっていた。
しかし、人工授精で双子を身ごもりながらも、陽性反応の一件で、アナとの関係が希薄になっていくのは必至だった。
それまで、二人で続けていた「単語ゲーム」が、「時間がなかったの」と言うアナからの柔和な拒絶反応によって中断するに至る。
そんなアナの態度に、リディアが不満を持つのは当然だった。
まもなく、認知症介護の会議でスピーチすることが決まって、その準備に勤(いそ)しむアリス。
母の思いを受容するリディアが、アリスとのスカイプの相手になって援助していくのだ。
そして、その日がやってきた。
「方向感覚を失くし、物を失くし、眠りを失くし、そして記憶を失くしています。私の人生は記憶に満ちています。記憶は私の最も大切な宝になりました。私が人生で蓄えた全てが、努力して得た全てが剥ぎ取られていくのです。地獄です。前と変わってしまった人間を、どう扱うのか?おかしな行動と言葉のせいで、人の、私たちを見る目が変わり、私たちも、自分を見る目が変わる。でも、それは私たちではない。私たちの病気です。最大の願いは、私の子供たちが、私のような状況に陥らないこと。私はまだ生きています。心から愛する人がいて、やってみたいことがある。喜びと幸福に満ちた瞬間が、今もあるのです。私は苦しんでいるのではありません。闘っているのです。かつてそうだった自分であろうとして。瞬間を生きること。それが私のできる全て」
このシーンをピークにして、アリスの症状は悪化していく。
後述するが、認知症の中核症状が顕在化してくるのだ。
夜中に携帯がなくなったことに気づき、キッチンの引き出しをひっくり返して大騒ぎする。
一か月後、夫・ジョンが携帯を見つけるが、アリスは、それを昨日なくしたと言うのである。
しかし、看過できない事態が惹起する。
アリスはリディアとスカイプで会話した後、リディアの恋人が撮った写真のデータを受信しようとしたときだった。
アリスは、誤って「蝶」のフォルダを開いてしまうのだ。
そして、前述した手順で、「そしたら、横になって眠りにつく」という、「蝶」のフォルダに録画されたメッセージの指示通りに動いていく。
自らが録画したメッセージの言葉を、繰り返し反復しながら、睡眠薬を飲もうとする瞬間だった。
夫が雇った介護士が、玄関の扉を開け、挨拶する声に驚き、アリスは薬を零してしまう。
危機一髪で、アリスは難を逃れたのである。
今や、怯(おび)えるような表情を露わにするアリス。
ジョンと共に、自らが教鞭を執った大学の近くのアイスクリーム店に入っても、もはや、夫とのコミュニケーションは成立しない。
「私がママの面倒をみる」
母の状態を理解しているリディアの言葉である。
季節は巡っていく。
アリスを伴い、散歩するリディア。
その才能が、なお開花できないリディアの日常性は、演劇と母の介護に埋められていた。
アリスに向かって、セリフの練習を聞かせるリディアにとって、一瞬でも、その表情が生き返る母の顔を見ることだけが、一つの生きがいになっている。
満足に言語を発することができないアリスが今、何かを語ろうとしていた。
「何の話だった?」とリディア。
「愛…愛について」「そうよ、ママ」
ラストシーンである。
3 「約束された喪失感」のみが加速されていく恐怖と闘い、なお保持されている機能をフル活用し、尊厳を守っていく
日常生活に破綻をきたさない軽度認知障害(MCI)と切れ、ニューロン(脳の神経細胞)の脱落(人の脳の委縮は20~30歳をピークに減少に転じる)によって発生する認知症には、中核症状と周辺症状(BPSD)と呼称される二大症状がある。
中核症状とは、記銘・保持・想起によって成る記憶に関わる、「記憶障害」(エピソード記憶=出来事の記憶、意味記憶=一般常識の記憶、手続き記憶=身体で覚えた記憶)と、「見当識障害」(人・場所・時間が分らない)と、「認知機能障害」(失行=掃除や着替えなどの合目的な行動ができない、失認=感覚認知ができない、実行機能障害=スーパーに行っても違う食材を買って来てしまう)などの深刻な症状のこと。
周辺症状(BPSD)とは、幻覚・妄想・徘徊・異食・睡眠障害・抑鬱・不安・暴言・暴力・失禁・排尿障害・セクハラなどの症状のことで、中核症状と峻別される。
症状の現出は人様々だが、根本的な治療法が存在しない認知症に罹患した身内を在宅介護する困難さは、今さら説明するまでもない。
「癌ならよかった。癌だったら恥ずかしくない。癌なら皆で、ピンクリボンをつけて、募金活動をするから、感じなくて済むわ」
映画のアリスが、食事会を忘れたことで出席しなかった不満を言う夫に対して、反応するこのシーンは限りなく重いものだった。
「癌ならよかった」とまで言わしめる認知症罹患者の内面に入ることが、殆ど絶望的であるからだ。
思うに、遺伝子変異に起因する悪性腫瘍(癌)の罹患者の辛さの本質が、「約束された死」の恐怖に収斂されるのに対して、認知症罹患者の辛さの本質は、「約束された喪失感」に収斂されると言える。
前者は、「約束された死」に対する闘争様態が可能であり、「奇跡の復元」の可能性も否定できない。
また、末期癌の罹患者が、同じ辛さを抱える罹患者とのコミュニケーションによって、癒される「利得」もある。
アリスは、「排除・差別戦線」に呑み込まれる不安を吐露したが、同じ辛さを抱える罹患者とのコミュニケーション能力が保証される、精神的現象の「利得」の価値は、それを具現化し得ない認知症罹患者の辛さのうちに反照されるだろう。
まさに、認知症罹患者の辛さこそ、「約束された喪失感」のみが加速されていく恐怖それ自身と言っていい。
「人生を捧げて来たことが、何もかも消える!」
アリスは、こう叫んだ。
「悪い日は、自分が誰だか分らなくなる。私は常に知性によって自己規定してきたわ。今は、目の前にぶら下がっている言葉に手が届かない感じ。次は何を失うのかしら」
「自分が自分でなくなる」ことは、アイデンティティークライシスを意味する。
だからアリスは、自らが提示した質問に一つでも答えられなくなったら、“水で全部飲め”と書いてある「蝶」というフォルダを開き、自死という、究極の選択肢を担保にしたのだが、映画では、認知症の悪化によって、ミステークで自殺未遂に振れていくシーンが描かれていた。
ともあれ、これは安楽死を望む心理と同じである。(因みに、アメリカでは、オレゴン、ワシントン、モンタナ、バーモント、カリフォルニア州で安楽死が認められているが、その対象は、末期患者が医師の処方で命を絶つ権利を法制化するもの)
アリスの認知症が、脳卒中によって、神経細胞が決定的ダメージを被弾する脳血管性認知症とも異なる若年性アルツハイマー病(堤幸彦監督の「明日の記憶」でも描かれていた)であった現実の非情さは、恐らく、私たちの想像の範疇を超えている。
だから、余計、切ないのだ。
ここで、この疾患のメカニズムについて、簡単に書いておきたい。
通常、65歳以上の高齢者の罹患が大半のアルツハイマー病(老年性アルツハイマー病)と違って、若年性アルツハイマー病は、早くは20代、多くのケースの発症が40代から65歳とされ、現在、遺伝性の強い脳疾患仮説が主流になっているが、少なくとも、生物学的には、脳内で分泌されているβ(ベータ)アミロイドと呼ばれる蛋白質が脳内で分解されず、それが蓄積される疾病であるという仮説が有力視されているが、なお不分明である。
同時に、原因遺伝子として、「プレセニリン」(正確には、プレセニリン1とプレセニリン2、アミロイド前駆体という蛋白質の設計図になる3種類の遺伝子)という家族性の危険因子が関与している事実も分っている。
本作で指摘されたように、若年性アルツハイマー病には、遺伝が原因で発症するものもあるということだ。
それを、「家族性アルツハイマー病」と言う。
この「家族性アルツハイマー病」を含む若年性アルツハイマー病が深刻なのは、働き盛りの40~50歳代で発症するケースが多く、しかも、有効な治療法が存在しないという現実の圧倒的重量感・恐怖感である。
「あなたは若年性アルツハイマーです」
診断の結果、医師から、こう宣告されたときのショックは計り知れないだろう。
本作でも例外ではなかった。
本作のヒロイン・アリスもまた、PET検査によって、若年性アルツハイマー病との関連が疑われた時点で、ジョンに話しても真剣に取り合わない態度に激怒し、号泣した。
当然である。
脳の神経細胞が委縮し、最終的に死滅してしまうという、由々しき生物学的現象によって惹起される知的能力の確実な致命的低下。
当初、物忘れの累加によってストレスが溜まれば軽鬱と決め込んだり、アリスのように、更年期障害が原因になっていると考えたりすることで、「正常性バイアス」(都合の悪い情報の過小評価)の心理に振れることもあるが、だからこそ、正確な診断が下されたときの衝撃の大きさは、当人でなければ絶対分らないと断言できる。
このことは、認知症罹患者の疾病の進行の速さが顕著である現実が、どうしようもなく横臥(おうが)していることにも関与するだろう。
高齢者の認知症も緩慢な速度で進めば、普通の老化と同じであると考えたいが、現実は甘くない。
映画でも、神経科の専門医は、きっぱりと言い切った。
「家族性の早期発症の場合は進行が速く、教育程度が高い人ほど速く進みます。精神機能を上手に維持するので、発見が遅れるのです」
ところで、川崎幸クリニック院長の報告によると、「認知症の人の老化の速度は非常に速く、認知症のない人の2~3倍のスピードで進行する」という特徴を指摘し、この顕著な現象を、「衰弱の進行に関する法則」と名付けている。
「食事のとり方が悪くなったら、衰弱が急速に進行して、2週間目に亡くなってしまいました。こんなに速く衰弱が進むとは正直思っていませんでした」
これは、「認知症の人と家族の会」で拾われた、日常的な会話の一例である。
衰弱の急速な進行は、2025年には700万人を超えるとの推計値がある(厚生労働省)認知症罹患者を、何年・何十年にわたって、介護し続けなければならないのかと思い悩んでいる家族に対して、川崎幸クリニック院長は、以下のような言葉で説明することにしているそうだ。
「同じ年齢の正常な人と比べると、認知症の人の場合、老化が約2~3倍のスピードで進むと考えて下さい。例えば、2年たてば4~5歳年を取ったと同じ状態になりますから、看てあげられる期間は短いのです」
プラス・マイナスを包括する「両面思考」ではなく、この「反転思考」は悪くないが、加速的にニューロンの脱落が進行する若年性アルツハイマーの罹患者と、その罹患者を介護する家族にとって、言葉で分っても、どうしても、感情の速度との乖離感をコントロールし得ない問題が残ってしまうだろう。
だから、「家族の誰が、どの程度、介護の負担を引き受けていくのか」という、現実的で真剣な話し合う必要性が出てくるのである。
要するに、「家族の相互扶助」という、分りやすいテーマに凝縮することの難しさを、これほどまでに提起する現代的問題はないと言えるのである。
単刀直入に言うと、脳の神経細胞が委縮し、最終的に死滅してしまう治癒不能な疾病に罹患した者が抱える、絶対的孤独と恐怖を共有することが不可能であるという、どうしようもない現実を認知せずして、何も始まらないということだ。
この、どうしようもない現実を受容すること。
そこからしか、スタートできないということ。
だから、「誰が犠牲になるのか」などというセンチメンタルな発想から、家族成員は解放されねばならないだろう。
「もう何年もコミュニケーションができなかった女性が、歌を歌い始める映像はとても有名だ。それこそがこの映画でも伝えたいことなんだ。コミュニケーションがうまくできなくなった後も、人格は失われない」
筋肉の機能が顕著に劣化し、運動ニューロン(運動を司る神経)が障害を受ける重篤な難病・ALS(筋委縮性側索硬化症)に罹患し、本作の公開後、逝去したリチャード・グラッツァー監督のインタビューでの言葉である。
私事だが、交通事故で脊髄損傷者になった際に病名を告げられなかったので、その病態が「ロックトイン・シンドローム」(眼球運動と瞬き以外の全ての随意運動の障害)に酷似していて、正直、ALSへの恐怖心に呪縛された、忘れられない記憶を想起させられた。
また、「コミュニケーションがうまくできなくなった後も、人格は失われない」という言葉にも、特段に異論はない。
そもそも、パーソナリティ=人格とは、「独立的個人の固有の人間性」であると考えるので、若年性アルツハイマーの罹患者の「人格崩壊」というラベリングには無理がある。
「パーソナリティとは、人間に特徴的な行動と考えとを決定する精神身体的体系の力動的組織。そして、性格、気質、興味、態度、価値観などを含む、個人の統合体である」
このゴードン・オールポート(アメリカの心理学者)の定義に、私も納得できる。
但し、認知症罹患者は「人格崩壊」しないが、「精神身体的体系の力動的組織」が障害を来すことで、「性格、気質、興味、態度、価値観」などが変化する疾病である現実を認めざるを得ないのだ。
ゴードン・オールポート |
これは、原因となる脳病変によって失われていく機能と、その脳病変による「高次大脳機能」が全面的に侵されずに、相応に保持されている機能があるということを意味する。
要するに、認知症患者が呈する様々な症状は、既に失われた機能と、なお、相応に保持されている機能との微妙なバランスの上に現出しているが故に、認知症罹患者の介護を進めていくためには、後者の機能をいかにフル活用し、失われた機能を補填していく工夫こそが決定的に重要になるということ ―― これに尽きるだろう。
その意味で、アリスは十分に賢明だった。
アリスは、自分が自分であることを確認するため、即ち、自分の尊厳を守るために、パソコンに向かって、なお保持されている機能をフル活用し、未来の自分に語りかけていくのだ。
自ら質問し、自ら答えていく。
「アリス。私はあなたよ。大事な話があるの。あなたが質問に答えられなくなったら、『蝶』というフォルダを開くこと」
「蝶」というフォルダを開くこととは、自分の尊厳を守るために残された、自死という唯一の選択肢に振れる行為である。
「約束された喪失感」のみが加速されていく恐怖との闘い。
この映画は、「約束された喪失感」のみが加速されていく恐怖と闘い、なお保持されている機能をフル活用し、尊厳を守っていく一人の認知症罹患者の物語だったのである。
【参考資料】 ブログ・「知っていますか認知症・思いも寄らぬ衰弱の速さ-介護期間は決して長くない」
(2016年10月)
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