<「共生関係」―― その凝結する「赤」の溶かし難い粘着力>
1 禁断の小宇宙で安寧を保持する男と、その男を独占する少女。
マグニチュード7.8、震度6の烈震が北海道・奥尻島を襲った。
死者・行方不明者含めて230人の犠牲者を出した、所謂、「北海道南西沖地震」である。
1993年7月12日のことである。
その日、たった一夜にして、津波被害で家族を喪った一人の少女がいる。
ペットボトルを胸に抱いて、被災の現場を彷徨(さまよ)う少女を、「俺の子だ」と言って、一人の男が救い出した。
男の名は淳悟(じゅんご)。
海上保安庁に勤めている27歳の青年である。
その淳悟は、遠い親戚筋の大塩から、津波被害で全滅した竹中一家で、未だ一人の子供だけが行方不明であるという情報を得たが、淳悟が連れている少女が、その行方不明の子供であることを、大塩に説明した。
その少女の名は花。
「あんた、えらい目にあったね。もう、大丈夫だからね。ほんと、よく生き残ったね。あんた凄いよ」
そう言って、花を慰める大塩。
「お父さんがね、“生きろ”っておぶって逃げてくれたから・・・」
淳悟と花 |
花の言葉である。
「俺が父親になりますよ。俺も家族が欲しいんですよ」と淳悟。
「あんたには、家族の作り方なんて分らんよ」と大塩。
そう言いながらも、淳悟に親しい大塩は、危惧しつつも、淳悟の希望を叶えて上げるのだ。
かくて、淳悟が花の親代わりになるに至った。
その淳悟は、花に、かつて奥尻島の竹中家に、一時期預けられていたという過去の事実を吐露していた。
従って、淳悟と花の関係は、何某かの縁で結ばれていたということになる。
流氷砕氷船「ガリンコ号II」で有名な、淳悟の住む紋別市に向かう車内で、花は、喪った父に背負われ、遁走した記憶が蘇り、それまで抑圧していた感情が吹き出して、嗚咽が止まらない。
「今日からだ。俺はお前のものだ」
ずっと花の手を握って、淳悟は、そう言い切った。
それから数年が経ち、花は思春期に踏み込んでいた。
淳悟には、銀行に勤める大塩の娘・小町という名の恋人を持っていたが、中々、結婚にまで至らない状況には、それを妨害しているように見える花の存在が、小町のイメージの中で膨らみ切っていた。
淳悟と花が、お互いに、まるで恋人のように、指を舐め合っている現場を見てしまったからである。
じゃれ合っている、その現場を隠そうともしない淳悟と花の関係は、「父と娘」のごく普通の日常性を露わにするだった。
「淳悟に殺されるのって、小町さんだったら、やだ?あの人ね、寂しくて、ずっと我慢しているの。家族っていう心が欲しい。それだけでいいって。他人じゃダメなの」
花と小町 |
そんなことを、淳悟の恋人である小町を前に、唐突に口に出す、中学生の花がいた。
既にこの時点で、中学生の娘が、「淳悟」と呼ぶ「父」をコントロールし、支配している構図が垣間見える。
まもなく、淳悟との結婚を諦めた小町が東京に上京するに至った。
邪魔者を追い払った花が、「淳悟」と呼ぶ「父」と男女関係を結んだのは、花が高校生になったときだった。
二人の交接する裸形の身体に、真っ赤な血の滴が滴(したた)り落ち、全身が深紅に染まるシーンが意味するのは、作り手の説明によると、以下の通り。
「より、背徳感を強めたかったというのと、やはり血のつながりを描いた話なので、血に溺れていくようなイメージを出したかったというのがありますね」(熊切和嘉監督インタビュー/dacapo - マガジンハウス)
「血に溺れていくような」現場を大塩に見られた事実に、大きな不安を抱いた花が、接岸した流氷の危険な塊の向こうまで跳び越えていった先で、その大塩を殺害するに至る。
以下、そのときに交した二人の会話。
大塩 |
「あの男とはね、昔からよーく知ってる。あんたも、あの男に似ているとこがあるね、ちょっと。かーときて、すぐ見境をなくす。あれは確か、あんたが産まれるちょっと前だったかな。あの男、かっとしてさ、自分の母親の首を絞めたことがあったのさ。あんな男に所詮、家庭なんて無理なんだよ。分ってた」
「無理じゃない」
「それでね、話と言うのは・・・旭川にね、あんたの親戚がおるよ。竹中さんの、あんたの、つまり、お父さんの従弟でさ、その人が、あんたが高校を出るまで預かってもいいって、そう言ってくれたのさ。何も心配はいらんよ、私が全部、助けてあげるから・・・あったかい家だった。あれが本当の家族ってもんだ。私は誰にも、何も言わんからね。これは、あんたと私の秘密」
大塩がここまで、思いを込めて話した後、「消えればいい」と呟く花は、流氷を素早く飛び越えていく。
「あの人は、心が欲しいんだよ。だから、上げたの。包んで欲しかったの!」
「男と女ってのは、しつこいもんなんだよ」
「男とか女とか、関係ないもん!」
「感情が、人を狂わせるんだよ!あんた、知らないかも知れないけどね、あの男とあんたは・・・」
「呑まれて消えればいい!」
そう叫んで、花は海に浮かぶ流氷を蹴って、そこに乗っている大塩を横倒しにした。
「全部、そんなの知ってるよ!あれが、本当のお父さんなんでしょ!」
「あんた、実感があったのか?」
「しちゃいけないことなんて、私にはない。同じ血が流れてるんだよ!」
「あんたとあの男は、親子としての実感があったのか?」
「血で繋がっている。嘘のない気持ちで繋がってる」
「それじゃあ、だめなんだよ!」
「他の誰とも絶対に違う!何が悪い!」
接岸した流氷の擦(こす)れ合うような音の中で、自分が乗っている流氷が、どんどん離れていく中で、大塩は、なおも叫ぶ。
「そんなの、神様が許さないんだよ!」
「私は許す。あれは私の全部だ!」
花は、ここまで言い切ったのだ。
花 |
だから、助けを求める大塩に対して、「泳げばいい!」と突き放し、自分だけは一人で逃げていく。
その直後の映像は、行方不明の大塩の捜索の結果、凍死した大塩の遺体が発見されたという事実を、知り合いの刑事・田岡から花が報告を受けるシーン。
そして、娘の花から、大塩の一件を知らされ、衝撃を受ける淳悟がそこにいた。
この一連のシーンから明瞭にされ、想像し得る事実。
それは、自分の母親への殺人未遂によって、奥尻島の親戚の家である竹中家に淳悟少年が預けられ、そこで恐らく、竹中の母親と「間違い」を犯し、その結果、花が産まれたということ。
だから、淳悟と花の関係が、血の繋がった本当の父娘であったという厳然たる事実である。
そして、この事実を、淳悟と花、更に、大塩の三人だけが知っていたということ。
今、その大塩が流氷の海に呑まれて死んでしまったことで、このインセスト・タブーという禁断の関係の事実を、淳悟と花の二人だけの共有情報と化したのである。
2 「奈落の底」の際(きわ)まで、堕ちるところまで堕ち切った男の物語
紋別との別れ |
淳悟と花は、大塩の葬儀後、流氷が接岸する紋別の町から、東京に逃亡する。
半年くらいの時間の経過が想像されるが、タクシードライバーになっていた淳悟のもとに、田岡が訪れて来たのは、東京の盛夏燃ゆる季節だった。
「豚の餌だ」
大塩殺しの物的証拠であると確信する花の眼鏡を見せて、田岡が毒づいた言葉である。
その意味は不分明だが、普通の人間が使用する眼鏡であっても、花の眼鏡などは鬼畜の餌に均しいということなのだろうか。
このことは、紋別での町の噂になっていたであろうから、自分と親しい大塩殺しの犯人の検挙に執着するが故の、この田岡の差別的言辞は、明らかにその反映であるだろう。
淳悟と田岡 |
そして、この差別的言辞を耳にした瞬間、淳悟の情動が炸裂し、田岡を刺殺するに至る。
世間の悪評があっても、紋別での「安定感」の故に、「間歇性爆発障害」(怒りの制御が困難な精神疾患)とも思しき性向を有する淳悟の攻撃性が、田岡殺しに身体化されたのである。
「ばれてたんだよ。俺も一緒だ」
鮮血の赤に占有されたようなワイシャツを脱ぐことなく、事件直後に帰宅して来た花に吐露した淳悟の言葉である。
まもなく、派遣の受付嬢になっていた花が合コンに誘われ、尾崎という親会社の専務の息子と出会い、二人の交際が開かれる。
「淳悟って、元々親戚なんです。あたしは養女。誰よりも私のこと大切にしてくれたし、いつも一緒でした。そういう人だから・・・」
「好きなんだ?」
この尾崎の質問に、笑みを浮かべながらも、花が回想するのは、紋別の高校時代での「睦み」のエピソード。
「自由って飽きるんですね。きっと、見てたものが違うんです」
尾崎に洩らした花の言葉だが、明らかに、殺人を犯して贖罪に煩悶する淳悟の崩れ方と乖離していく心情が読み取れる。
その尾崎を、散らかし放題の、まるで廃屋のような自宅に呼び出すや、淳悟は不謹慎極まる要求を突き付けた。
「あんた、裸になれないか?」
驚き、恐怖感すら抱く尾崎の上半身を無理矢理脱がせて、その肌を嗅ぎ、彼の指までしゃぶる淳悟の行為は常軌を逸していた。
「良かったか?あいつのあれ、良かったか?」
淳悟は、そんな非常識な言辞を吐いたのだ。
淳悟の行為の意味は、花との関係を結んだと信じる男の匂いを嗅ぐことで、自分の肉体が記憶する花の、「女」としての臭気を確認したかったということだろう。
「もういいよ。帰れよ。おめえには無理だよ」
淳悟は、そう言ったのだ。
尾崎 |
当然の如く、こんな屈辱を受けた御曹司が、花との結婚に向かうまでもなかった。
「小さい頃は、あの人のことは、何だって分ったんです。でも、少しも分らなくなった。家族になりたかったんです。子供だったんですね、私たち・・・」
その御曹司に吐露した花の言葉である。
この花の表現の中に、この映画のエッセンスがある。
それほど、重要な台詞だったと言っていい
それから3年後、すっかり成人した花は、別の男との婚約を結ぶまでに至った。
その二人が会食する銀座の高級レストランに、どこかでレンタルしたであろうスーツを着て、赤い傘を差し、雨に濡れたサンダル履きの淳悟が会いに来た。
「お前には無理だよ」
ここでも、堕ちるところまで堕ち、頭部に禿げが目立つほどに急速に老化した淳悟の、常識外れの本音が吐き出された。
沈黙が流れる。
花の脚先が、サンダル履きの淳悟の脚に触れ、這っていく。
今、淳悟と花の二人は、映画的宇宙の時空に入り込んでいる。
だから、婚約者の存在も消されている。
見つめ合う二人。
花の唇が微かに動き、明瞭な言語に変換されないまま、淳悟へのメッセージが送波された。
「お・め・で・と・う・は?」
結婚式を翌日に控える花の、祝福を求めるメッセージである。
そのメッセージの意味を理解する男は、悲哀に満ちた複雑な表情を浮かべつつ、言語への変換ができないまま、なお沈黙が繋がっていた。
ラストカットである。
このカットによって、この映画が、「俺も家族が欲しいんですよ」と切望して作り上げた、不適切、且つ不健全な「共生関係」の剥落の行程の中で、なお溶かし難い「赤」の粘着力を残しつつ、「奈落の底」の際(きわ)まで、堕ちるところまで堕ち切った男の物語であることが判然とするのだ。
―― 体当たり演技でプロ根性の片鱗を見せた二階堂ふみも良かったが、この映画は、何と言っても浅野忠信に尽きる。
「奈落の底」の際まで、堕ち切っていく男の悲哀を完璧に表現し切った浅野忠信の凄みは、観ていて嗚咽を漏らしそうだった。
ここまで難しい役を表現し切った浅野忠信だからこそ、随所にアバウトな構成力の脆弱性が目立った本作の、主題先行の生命線を自壊させなかったのだと思う。
浅野忠信は、「非言語コミュニケーション」の底力を表情だけで見せるのだ。
いつもながら、凄い俳優である。
3 「共生関係」―― その凝結する「赤」の溶かし難い粘着力
一家心中をイメージ(注)させる「クソみたいな家族」という言葉に表れているように、機能不全家庭で育ったために、健全な児童期自我を形成できなかったという意味で、アダルトチルドレンとも思しき成人が、子供を育てることの危うさを、ここまで極限的に描いた作品も滅多にないだろう。
まして、「俺も家族が欲しいんですよ」と切望する成人が男であり、その子供が、「年の離れた兄妹」の年齢差しかない娘であったら、子供を育てることの危うさは増幅されるに違いない。
なぜなら、子供に対する親の最大の役割は、社会的環境に適応し得る自立的な自我の形成にあるからだ。
ここで、映画の「父と娘」の出会いを想起したい。
津波被害で家族を喪った一人の少女が、ペットボトルを胸に抱いて、被災の現場を彷徨(さまよ)っていた。
乳幼児がぬいぐるみなどの無生物に特別の愛着を寄せる、「移行対象」の心理学の概念の範疇をも越え、家族の全てを喪ったその少女にとって、ペットボトルとは、少女の独占欲の強さを表現するものではなく(映像では独占欲の構図として提示していたと思われる)、もう、それ以外に縋り付くものがない唯一の愛着の対象であったと言える。
その少女・花が、「俺の子だ」と言って養育する男・淳悟に、愛着の対象をシフトしていったのは、自らの能力で生きる術のない花の「防衛機制」(適応規制)であると言っていい。
その花に対して、「俺はお前のものだ」と言い切った淳悟にとっても、花の存在は唯一の愛着の対象でもあった。
かくて、健全な児童期自我を形成できなかったと思える男が、そのまま放置しておけば、何某かの施設に収容され、同時に、健全な児童期自我を形成できないとイメージさせる少女を養育するに至るが、当然の如く、この関係は、「交流分析」で言う「共生関係」の危うい状態を露わにしていく。
エリック・バーン以後に発展したシフ派(ジャッキー・シフ派)によると、「共生関係」とは、「共依存」の交流分析的説明であり、二人または、それ以上の個人の間で、自我状態に値引き(ディスカウント)が起こり、その人たちが、さながら、一人の人間のように振舞うときに起こるとされる重要な仮説である。
自我状態の値引きとは、相手や自分、更には、それを囲繞する状況を軽視したり、無視したり、傷つけたり、その存在を破壊的に否定するような物の見方、感じ方、心の持ち方、そして、その具体的な表現や行動のこと。
「他人への不適切・不健全な依存関係」と言い換えてもいい。
だから、「共生関係」における不適切、且つ不健全な状況とは、健全な発育期を過ぎてもなお、依存の状況が続いており、
それが「共依存」という関係として存在することである。
まさに、紋別時代の淳悟と花の「父娘」の関係の本質は、この「共生関係」の常態化であると断言できる。
恋人がいるにも拘らず、淳悟には、彼女との円滑なコミュニケーションによる精神的紐帯が脆弱であり、まるで、性欲の対象人格としてのみ、恋人・小町の存在が必要であったかのように見える。
何より驚くのは、そんな恋人の前で、娘の花とじゃれ合うような「父娘」の関係を、敢えて目視させ、「淳悟は自分のものだ」という邪気な優越感を見せつけて、父の恋人・小町を決定的に排除する花の態度である。
「俺はお前のものだ」と言い切った淳悟の感情系は、ナイーブな思春期に踏み込む娘の心的行程の中で吸収され、存分に内化されていく。
だから、花にとって、いつしか、「淳悟は自分のものだ」という頑強な感情が形成されていくのは必至だった。
恐らく、「俺はお前のものだ」という含みを持たせる、言語・非言語コミュニケーションの淳悟の表現が、花に対して、日常的に提示されていたと思われる。
少女・花の児童期自我に、インプリンティング(刷り込み)されたこの情報の重みは、家族を喪った一人の少女の甚大な心的外傷を、限りなく希釈する効果を生んだに違いない。
それは、役割呼称としての「父」を、「淳悟」と呼び捨てる習慣に見られるように、少女・花が、「良い子戦略」(「偽りの前進」)という「防衛機制」を、必要以上に巡らす行為を無化してくれるから、児童期以降の花の精神構造は、父・淳悟との関係を、自らの意思で動かし、甘えさせ、支配していくことで、「小さな女王」の気分を日常化する危うさのうちに成り立っていたのである。
そして、厄介な事に、淳悟もまた、それを望み、その中で自我の安寧を手に入れていたのだ。
一切は、この厄介な男が、作り上げてしまった不適切、且つ不健全な「共生関係」の、その凝結する「赤」の溶かし難い粘着力の産物なのである。
だから、「小さな女王」の気分にまで昇り詰めた少女・花は、淳悟の不適切な「養育」の産物であるが故に、「裏返された虐待」の被害者なのだ。
そこにこそ、この仮構された「父娘」の「共生関係」の本質がある。
従って、作り手の思惑と無縁に言い切ってしまえば、この映画の本質は、「近親相姦罪」を罰する法が存在しない我が国であっても、「裏返された虐待」における「共生関係」の、「加害者」と「被害者」の捩(ねじ)れ切って膨張した物語であるということだ。
この視座なしに、この映画を語ると、津波被害で被弾した児童の心的外傷の問題を無視し、「私の男」を占有する少女の独占欲が、「私の男」を踏み台にして、良家の夫人にまで跳躍する女の物語であるという、映画の挑発性に呑み込まれた読み方に流れてしまうだろう。
果たして、それでいいのか。
ここに、それにについて、問題提起した発言がある。
「私は被害者です。浅野さん演じるお父さんは加害者。二階堂さん演じる花さんは、未成年だから被害者。興奮するのかとか、一般の人たちはアダルトビデオでしか認識はないと思いますが・・・あまり美化されてしまうと。私は50代なので恥ずかしくありません。勇気を持って言ってみました」(シネマニュース : nikkansports.com 2014年7月16日)
都内での「私の男」のイベントの場内が、笑い声に包まれていた空気の只中に、この発言が投げ入れられたのだ。
観客との質疑応答の場が、静まり返ったのは言うまでもない。
熊切和嘉監督 |
美化して描いた映画ではないのは、誰でも分るし、「質問のようなことは覚悟の上で撮った」という熊切監督の反応もよく分る。
「タブーに挑戦したかった」ということだろう。
どんなテーマでも、どんな構成でも一向に構わないが、それでも、発言者の「生身のリアリズム」の投入に対して、質疑応答を繋いでいた場内が蹴散らされ、沈黙を余儀なくされるのは、如何にも「察しの心理」で生きる日本人らしい。
ともあれ、発言者が問題提起した、「加害者」と「被害者」という認識こそ、私の意に適うものであった。
(注)未読の原作を無視して考えれば、思春期以前の花に聞かれて、「皆で死んだよ」と答えた淳悟の言葉の「で」という表現は、実母を締め殺そうとした由々しき出来事に象徴されるように、機能不全家庭の一家心中という事件がイメージされる。
4 インセストの底層に澱む自我の歪みの本質
最後に、インセスト・タブーについて、補足的な一文を加えておきたい。
2年以下の禁固刑と定められているドイツの「近親相姦罪」(近親婚を認知する動きあり)が有名だが、日本では、明治時代に消滅して以来、近親相姦を罰する法は存在していない。
しかし、よく引き合いに出されるジャワ島のカラング族のように、独自の文化を有する一部の部族では、母子の結婚が許可されているケースがあるが、近代国家において、基本的に近親婚を認めていないのは周知の事実。
いとこ婚は問題ないが、戦後の民法によって、三親等内の婚姻は禁止されている(民法734条)のも、万人の知るところだろう。
これが、我が国の近親婚に関わる基本的制度である。
歴史的に言えば、我が国でインセスト・タブーが本格的に広まったのは江戸時代であると言われている。
ここで注目したいのは、「古事記」・「日本書紀」に記されている「国津罪」(くにつつみ)という、神道における「罪」の観念である。
「クニ」の成立以前の「罪」であるが故に、農耕の弊害としての「天つ罪」(あまつつみ)に対して、「クニ」の成立以後の「罪」の概念である「国津罪」とは、疾病・災害・近親相姦など、「穢れ」(けがれ)の観念を意味するものである。
穢れとは、「清浄」と対立する神道の宗教概念である。
だから、共同体の秩序を乱さないために、禊(みそぎ)や祓(はらえ、はらい)によって浄化せねばならない。
江戸時代の国学者・本居宣長の主著の「古事記伝」によると、禊や祓の浄化について、以下の解釈がなされている。
「禊祓(みそぎはらい)というのは、身体の汚垢(けがれ)を清めることであって、心を祓い清めるというのは、外国(とつくに)の意(こころ)に外ならず、わが国の古代では、そのようなことは決してない」(「古事記伝」)
ここで宣長は、神道の根幹の一つである「禊祓(みそぎはらい)」というのは、ひたすら身体を清浄にすることであり、「禊祓」の対象になるのは、あくまで、「物」としての身体に外ならないと言っている。
即ち、「禊祓」は、「心」を清めることでなく、身体の浄化であると言うのだ。
これは、心の浄化を重視する仏教的世界観を根柢から崩すものである。
このことを想起するとき、無論、本居宣長への批判とは無縁だが、3.11以降、避難民や物資に対する、この国の人々の感情に垣間見えた差別的視線を想起するとき、そこに、「物」としての身体に宿る、「穢れ」の観念が張り付いているように思われるのである。
我が国のインセスト・タブーもまた、「清浄」と対立する「穢れ」の観念と無縁でないだろう。
然るに、高度成長期直前まで、各地の農漁村に残存していた、夜這いの風習(ブータンの「ナイトハンティング」と同じ)を持つ我が国では、祭などの「ハレ」の儀式での奔放な性行為が許容されていて、厳格なインセスト・タブーが存在していない事実をも知る必要がある。
同時に、私たちは、インセスト・タブーに関する、正確な原因仮説をも持ち得ていないのである。
即ち、遺伝的弊害の回避(生物学的理論)・近親者への性的関心の欠如やウェスターマーク効果(キブツの出身者同士の結婚が稀有)・親族関係の混乱(レヴィ=ストロースの「親族の基本構造」)、等々、人類に広く見られる現象であるインセスト・タブー(近親相姦の禁忌)の原因についての仮説が多いが、現代に至っても、説得力を持つ一致した見解が得られていないということだ。
以上、縷々(るる)列記したが、私にとって、親子間のインセスト・タブーの問題は、前述したように、以下の把握に尽きる。
即ち、どこまでも、「我が子」への自立的な自我の形成を最大の役割にする親(または、それに代わる成人)が、社会的環境に適応し得る「我が子」との関係の質を、適切で健全な状態に堅持されているか否かという一点にのみあって、それ以外ではないのである。
この把握なしに、インセストの底層に澱む自我の歪みの本質に肉薄することなど叶わないだろう。
【参照資料】
「交流分析とACの知識による癒しと勇気づけ:人生の再出発」 「交流分析(TA101)レジメ」(Adobe PDF) TA(交流分析)用語の解説集 「本居宣長研究ノート『大和心とは』
(2015年4月)
0 件のコメント:
コメントを投稿