1 絶望的な旅に打って出た男の危機一髪
広告代理店を経営するロジャー・ソーンヒル(以下、ロジャー)が、陰謀組織・バンダム一味の二人の男によって、ニューヨークのホテルから広壮な邸宅に連れ出された。
カプランという男と勘違いされたためである。
連れ出された郊外の邸宅の主の名は、タウンゼント。
そのタウンゼントに、自分がカプランでない事実を否定しても、信じてもらえず、逃亡を恐れた一味によって強引にウイスキーを飲まされ、事故死に見せかけた危機に遭う。
危機を脱し、自ら解決すべく、国連本部にいるタウンゼントを訪ねて行くロジャー。
ところが、ロビーで呼び出したタウンゼントは、広壮な邸宅に住む男と別人物だった。
騙されている事実を知っても、もはや手遅れ。
眼の前のタウンゼント本人が、ロジャーを連れ去った一味によって殺されてしまったからである。
タウンゼントに放たれたナイフを手に持つロジャーが殺人犯にされ、以降、警察から指名手配される身になる始末。
このテンポのいい映画は、既に、ロジャーをインボルブした事件のカラクリを、観る者に教えている。
CIAの一室で、「教授」と呼ばれるボスが組織の仲間に語っていた。
「ジョージ・カプランという人物が存在しないことを、もしバンダムに悟られでもしたら、彼の近くにいるスパイは怪しまれ、殺されることになるだろう」
「教授」のこの話で、カプランという男が、バンダム一味に潜入させたCIAの本物のスパイを守るための、架空のスパイである事実が判明したのである。
カプランがシカゴのホテルにいるという僅かな情報のみで、ロジャーはシカゴ行きの特急寝台列車に乗って、殆ど絶望的な旅に打って出るが、警官から捕捉される危機を、列車内で知り合った金髪の美女から救われるエピソードが挿入され、ヒッチコックらしいロマンス含みのサスペンス映画の本領が発揮され、スリル満点のシーンが連射されていく。
金髪の美女の名は、イブ・ケンドール。
偽名を名乗るロジャーの正体を見抜いているが、「ハンサムだから助ける」などと言ってのける自称・工業デザイナーは、逆にロジャーを誘惑するのだ。
イブの特別室で、二人が懇ろな時間を費している隙に、給仕を介して、別室にいたバンダムにメモを渡すイブ。
「朝、彼をどうする?」
イブのメモの全てである。
イブ・ケンドールもまた、バンダム一味の構成員だったのである。
列車はシカゴに到着した。
イブの荷物を運ぶ赤帽に成済ましたロジャーは、刑事に見抜かれることなく列車を降りた後、カプランとの連絡を取ると言って離れたイブを、構内で待っていた。
一切は、イブに対するバンダムの指示だが、ロジャーだけがその事実を知らない。
そのロジャーを裏切るイブが、シカゴでの別離の際に垣間見せた陰鬱な表情の意味を、正確に読み取ることができない男だけが、まもなく、新たな危機の受難者になるのだ。
停留所の名はプレイリー。
そこは、人っ子一人いない、枯れたトウモロコシ畑が広がる広大な平原。
いつまで待っても、カプランが現れず、苛立つロジャーを襲うのは、あろうことか、農薬散布用の2枚の主翼を持つ複葉機だった。
まるで爆撃機のように、銃撃を繰り返す複葉機からの被弾を必死に逃れるロジャーは、タンクローリーに衝突して炎上する間隙に、爆発を恐れて停車している乗用車を奪って逃走する。
「飛行機が突如降下して襲ってくるまえに、観客に不吉な予感をあたえて、恐怖への心の準備をさせておかなければならない」(「ヒッチコック 映画術 トリュフォー」山田宏一、蓮實重彦訳 晶文社)
ヒッチコックのサスペンスの技巧が際立つシーンである。
「このシーンの魅力というのはその完壁な無償性にあるのではないでしょうか。あらゆる〈らしさ〉、あるゆる意味づけを欠いた、まったくありえないような荒唐無稽なシーンです。このようなかたちで実践された〈映画〉は、まさしく、音楽のように、真の抽象芸術となります」(トリュフォー)
「完壁な無償性」=「真の抽象芸術」であると言い切った、トリュフォーのフォローも興味深いもの。
物語を続ける。
シカゴのホテルを訪ねても、カプランはチェックアウトし、その行き先は、サウス・ダコタ州のラピッド・シティという情報のみ。
カプランの正確な情報を知ることで、漸く、イブに騙された事実に気付くロジャー。
そのロジャーの視界に、イブの姿が捕捉されるや、彼女の部屋を訪ねていく。
「お願いがあるの。すぐに出て行って。もう、私に近寄らないで。お互いに迷惑だわ。昨夜のことは、あれで終わりよ。このまま別れましょう」
イブの反応である。
「君なら、人を殺すのは簡単だろう」
ロジャーの反応である。
イブを疑いつつも、彼女の真意が読めないロジャーにとって、今や、彼女の動向を探る方略しか選択肢がないのだ。
2 ヒッチコックワールド全開のモニュメントでの攻防戦
ホテルのイブの部屋で、彼女のメモを読解したロジャーは、彼女の行き先を特定し、その場所に出現した。
美術品のオークション会場だった。
予想通り、イブの傍らにはバンダムがいた。
「こんな所に何しに来た?」とバンダム。
「生き残るためにね」とロジャー。
散々、毒舌を吐き出したロジャーが、オークション会場の周囲にバンダム一味が見張っている切迫した状況下で、脱出の手段として選択したのは、会場を混乱させ、敢えて、警官に連行されるというクレバーな方略だった。
全てを敵に回して逃げ場のないロジャーには、今や、このような選択肢しか持ち得なかったのである。
しかし、ロジャーは、思わぬ男に救われるに至る。
オークション会場に潜んでいたCIAの「教授」である。
「彼は一体、何者なんだ?」
「いわば、密輸業者ですよ。国家機密専門の」
「逮捕すれば?」
「組織を内偵中なんです」
そう言って、「教授」は、バンダムの別荘がある、サウス・ダコタ州のラピッド・シティへの同行を求めた。
因みに、ラピッド・シティは、4人の大統領の巨大彫刻で有名なラシュモア山観光の拠点だが、今は、観光気分とは一切無縁である。
疑心暗鬼のロジャーに、カプランが架空のスパイである事実を告げる「教授」。
「あと一日、カプランになっていて下さい」
「オトリに使われるのは、もう、沢山だ!」
「送り込んでいる密偵が殺されますよ。お陰で、怪しまれてきたんです」
それでも断るロジャーに、「教授」は、イブ・ケンドールこそがCIAの密偵である事実を打ち明ける。
観る者は気づいていただろうが、この「教授」の言葉によって、物語のベールの断片が剥がされたのである。
当然、イブの正体が「悪女」でない事実を知ったロジャーが、「教授」の要請を断る理由を持ちようがなかった。
かくて、軽飛行機でラシュモア山に向かったロジャー。
ラシュモア山。
バンダムの犯罪を見逃す代わりに、裏切り者のイブを渡せというものだ。
先に別荘に帰ろうとするイブを強引に引き止めるロジャーに向かって、間髪を容れず、銃丸を放つイブ。
無論、イブが密偵ではない事実をバンダム一味に見せる、空砲による芝居である。
観光客たちのパニックの渦中で、倒れているロジャーの傍に「教授」が駆け寄り、手際良く搬送する。
その搬送車が森の中で停止した。
死人の振りをしたロジャーが車から下車すると、そこにイブが待っていた。
「謝りたかったの」とイブ。
「その必要ないさ。任務だったんだから」
「ひどいことをしたわ」
「君を恨んだよ」
「それが悲しくて」
「君はなぜ、こんなことを?」
「パーティでバンダムに惹かれたのよ。暇だったから発展しちゃったの。その後、『教授』から彼の正体を知らされて・・・」
「協力してたのか」
「国の役に立つなんて、初めてだし・・・」
イブの正体が、この会話で明かされたのである。
ところが、二人の逢瀬は一過的なものでしかなかった。
バンダムの逃亡にイブも随行するからである。
その事実を知って憤怒するロジャー。
カプランの重傷がテレビで報道されたことで、ロジャーは「教授」によって軟禁を余儀なくされるが、イブを案じる気持ちの故に、病室から逃走し、夜陰に乗じてバンダムの別荘に潜入する。
裏切られたバンダムがイブの処分を決めたのは、国家機密を隠し込む組織にとって当然だろう。
バンダム自身もイブへの疑惑が消えないから、骨董品の中に入っている、国家機密のマイクロフィルムの隠し場所を教えなかったのだ。
一方、イブを救うために部屋にまで侵入したロジャーは、「彼らにバレたぞ」というメモを投げ、直接、彼女にその事実を伝えるが、肝心のロジャーが、別荘のハウスキーパーに見つかり、銃を突きつけられる始末。
そこで、別荘から銃声音。
バンダムらが飛行機に搭乗しようとした瞬間だった。
瞬時に、バンダムから骨董品を奪ったイブは、ロジャーが運転する車に同乗し、逃走した。
別荘からの銃声は、実弾を込めていないイブの空砲の銃だったのだ。
バンダムの別荘に入り込めず、車を乗り捨てて、ラシュモア山に向かう二人。
二人を追うバンダムとレナード。
それ以外に逃げ道がないからだ。
バンダムとレナードも下っていく。
「生き延びたら、一緒の汽車で帰ろう」
体力に限界を感じているイブに、ロジャーが放った言葉である。
「お誘い?」とイブ。
「プロポーズさ」
「前の2回は、どうしたの?」
「愛想を尽かされた」
「なぜ?」
「生活がだらしないって」
どこまでも、エンタメサスペンスの基調音を崩さない、ヒッチコックワールド全開であった。
岩場に待機していたバンダムはロジャーに飛びかかり、格闘になるが、崖下に突き落とされてしまう。
しかし、崖上では、イブがレナードに襲われ、落下したイブを助け出そうとするロジャーの手は、レナードに踏みつけられ、万事休す。
そこに、如何にも堂々と、「予定調和」の物語に見合った奇跡が起こった。
敵対者を追い詰めたはずのレナードが、「教授」の部下の銃撃で撃ち抜かれ、崖下に転落していくのだ。
持てる力を出し尽くして、イブを引き上げていくロジャー。
そして、ヒッチコックらしいラストシーン。
画面が一転して、ニューヨークに向かう寝台車の中で、熱いキスを交わし合う男と女のジャンプカット。
いつものように、ハッピーエンドを引き摺らないラストカットは、列車が暗いトンネルの中に入っていく件(くだり)だが、その場面について、ヒッチコックはトリュフォーに語っている。
「あの寝台車のすぐあとのショットをおぼえてるかね? あれはこれまでわたしが撮った映画のなかでもいちばんわいせつなショットだ。列車は男根のシンボルだ」(前出)
ヒッチコックが語ってくれなければ、誰も気づくことのないラストカットだった。
3 「最高のマクガフィン」というエンタメサスペンスの決定版
「なんてひどいシナリオだ。もう最初の三分の一の撮影がすんだというのに、何がなんだかさっばりわからん」
これは、撮影のある日、アルフレッド・ヒッチコック監督の元にやって来て、ケーリー・グラントが零した有名な言葉である。
観る者を置き去りにしないために、ヒッチコック監督は、事件にインボルブされた主人公だけが知り得ない、物語の重要なキーワードになる台詞を挿入する場合が多い。
観る者との間で、最低限の情報を共有すること。
サスペンスは明快でなければならない。
これが、ヒッチコック・サスペンスの特徴でもあるからだ。
「ジョージ・カプランという人物が存在しない」
本作では、CIAの「教授」のこの言葉によって、ケーリー・グラント演じるロジャーの置かれた状況の不運が分るようになっている。
未だ実りに結ばれないロマンスをインサートしつつ、一方的に攻撃され、逃げ回るだけの壮絶なるアクションを強いられたケーリー・グラントには、「教授」の台詞の意味を理解し得ていても、陰謀を企む組織の内実に関して全く理解不能なのである。
そして、ヒッチコック監督は、「教授」がケーリー・グラント自身に、事件についての基本的枠組みを説明するシーンをインサートした。
この重要な情報を共有することで、ケーリー・グラントは、少なくとも、陰謀を企む組織のリアリティを把握し得るだろうが、相変わらず、組織の内実が不分明なのだ。
なぜなら、公開当時、この抜きん出て独創的なサスペンスは、驚くべきことに、最後まで全貌の映像提示のないまま、陰謀を企む組織の内実を説明しないのである。
まさに、「冗談」とも呼ぶべきサスペンス映画なのである。
このことは、ヒッチコック監督自身が語っている。
「当時『ザ・ニューヨーカー』という雑誌に、これは『無意識のうちにコミカルな』映画になっているという批評が出たもんだよ。ところが、わたしとしては最初からコミカルな映画をつくったつもりでいた。『北北西に進路を取れ』という映画はわたしにとっては大きな冗談だったわけだ」
「大きな冗談」とは、凄い表現である。
そして、最も興味深いのは、ヒッチコック監督が、この映画を「最高のマクガフィン」という表現で説明していること。
「わたしの映画の最高のマクガフィンは ―― 最高のということはつまり最も無意味で、最もからっぽで、最もばかばかしいということだが ―― それは『北北西に進路を取れ』のマクガフィンだ。スパイ映画だから、スパイたちはいったいなんの秘密をさぐり、手にいれようとしているのかということが、ストーリーの展開のうえで湧き起こってくる唯一の疑問なわけだ。シカゴ空港のシーンで、政府の防諜機関の男(レオ・G ・キャロル)がケイリー・グラントに状況を説明する。スパイたちのボスはジエームズ・メイスンだ。『彼は何をやっているんだ?』とケイリー・グラントがたずねると、防諜機関の男はこう答える。『そうだな、輸出入といったところかな』。『輸出入?なんの商売をしてるのかね?』という問いに対しては、『そいつは国家機密だよ!』。これこそ最も純粋なかたちのマクガフィンだ ―― まったく何もないというわけだ」(前出)
以下、この肝心な一点についての、トリュフォーとの会話。
広大な平原の中の停留所で |
「そう。しかも、そのシーンは二重の機能を果たすことになる。第一は、観客にそれまでの事件の経過を説明し、その内容を明らかにすること、そして、第二は、それがそのまま、もうひとつの謎、つまりなぜ警察がケイリー・グラントをつかまえもせず助けもしないのかという謎の説明にもなること」
「しかし、その第二の謎の説明は、レオ・G・キャロルがしゃべりだしたとたんにエンジンのかかった飛行機のプロペラの轟音にその声がかき消されてしまって、まったく聞きとれないわけです」
「観客はすでにその情報を得ているからね、聞こえる必要はないわけだ」
結局、「飛行機のプロペラの轟音」の部分の会話の内容も、観る者に映像提示された情報以上のものではなかったということだ。
唯一、「飛行場で話を交わすシーン」のみが、スパイたちの違法行為の内実が語られるシーンであったにも拘わらず、最後まで、「国家機密」のベールが剥がされることがないのである。
「最高のマクガフィン」の物語の慌ただしい展開に放り込まれた、55歳のケーリー・グラントだけが、「国家機密」の内実を知ることなく、攻撃対象として終始動かされ、走らされたという訳である。
どうやら、「映画作家は何かを言うのではなく、見せるだけだ」というトリュフォーの指摘に対して、「そのとおりだ」と言い切ったヒッチコック監督自身こそ、良い意味で、「最高のマクガフィン」なのかも知れない。
「見事なジャンプカットによって、いっそう洗練され、完成されている」(トリュフォー)エンタメサスペンスの決定版 ―― それが本作だった。
【参考文献 「ヒッチコック 映画術 トリュフォー」山田宏一、蓮實重彦訳 晶文社】
(2014年9月)
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