<「大狂気」に振れていく男の一種異様な酩酊状態の極限的な様態>
1 エルドラドへの艱難辛苦なアマゾン下りの探検譚
1560年末、ピサロ率いるスペイン遠征隊がペルー高地に到着後、消息を絶つ。
随行した宣教師カルバハルの日記が、僅かにこの記録を伝える。
これが、冒頭のキャプション。
ポポル・ヴーの荘厳なBGMの調べに乗って、アマゾン川上流の奥地にあると伝えられるエルドラド(黄金郷)を目指し、鎖に繋がれたインディオを随伴した、鎧で完全武装した兵士を主力にしたスペイン遠征隊が、険阻な断崖の山道を曲折的なラインを成して行軍するロングショットのオープニングシーンは、雲海に呑み込まれ、暗雲が垂れ込めるカットの挿入によって、もう充分に、この遠征隊の先行き不透明な近未来のイメージが映像提示されていた。
「インディオは役立たず、気候の変化で簡単に死ぬ。風邪が命取りになる」(カルバハルのナレーション)
インディオとは、捕虜となった先住民のこと。
彼らでさえも、アマゾンの大自然の猛威の前では全く戦力にならず、食糧の枯渇もあって、大砲をも搬送せざるを得ないリスクを抱える、遠征隊の危機がリアリティを増していく。
この困難な状況下で、ピサロは遠征隊の継続を断念し、その代わりに分遣隊を組織することを決断した。
「筏を作り40人が乗り込む。この分遣隊の任務は、食料の調達と情報の収集、危険な先住民とエルドラドの位置を探る。1週間以内に帰還すること。戻らない場合は全滅したものと看做す」
これが、ピサロの命令だった。
アギーレとフローレス |
この分遣隊の隊長には、誠実な男のウルスアが、副隊長には、「最適な人物」という評価を得たアギーレが選ばれた。
因みに、15歳のアギーレの娘フローレスが分遣隊に選ばれたのは、父と離して残しておくことのリスクを考慮してのもの。
かくて、簡便に作られた3床(しょう)の筏に分乗した分遣隊の、ペルーのアンデス山脈を源流とする、およそ6000メートルの水源の標高を有し、7000キロメートルという途方もない距離を持つアマゾン下りの艱難辛苦の探検が開かれた。
ピサロの命令が下された4日後の、1月4日である。
アマゾンの激流に翻弄される分遣隊の戦いの内実は、何にも増して、悠久の昔から微動だにしない大自然との格闘だった。
1月6日。
「漸く上陸し、野営を張った」(カルバハルのナレーション)
ところが、まもなく、7名の兵士と2名のインディオが乗る、筏の一つが激流に呑み込まれる事態に遭遇する。
救済を主張するウルスアが、異論を唱えるアギーレを抑えて救援隊を出したが、既に先住民に殺害されていた。
1月8日。
「一夜にして5メートルも水位が上がり、不運はいつ終わるのか」(カルバハルのナレーション)
この不運とは、水位の上昇のため1床(しょう)の筏が流されてしまったこと。
アギーレの命令で筏作りに専念する兵士たちを視認したウルスアが、ピサロの元に戻ることを命じたことで、アギーレと決定的に対立するに至る。
予想された事態だが、探検の継続を諦念しないアギーレにとって、筏作りはしごく合理的な作業だったが故に、ウルスアへの反逆は必然的事態であったと言える。
「コルテスを覚えているか?遠征中にを命じられたが従わなかった」
アギーレの反逆宣言である。
兵士たちを説得するアギーレに対する拘束の命令を下すウルスアと、それに従う兵士に発砲し、一切の不満を封印するアギーレが空気を支配する。
一瞬にして、権力関係が逆転したのである。
イネス(左)とカルバハル |
分遣隊長ウルスアの被弾によって不安に駆られた愛人のイネスは、カルバハル修道士に救いを求めるが、修道士の反応は冷厳なものだった。
「教会は主のために、常に強者の側についた」
「強者」であるアギーレの権力掌握の手法は、貴族出身であるだけで取り柄のない、肥満男のグズマンを分遣隊長に選び、自らは副隊長に留まったが、無論、「傀儡政権」である。
「我々は反逆を宣言する」
ここで改めて、アギーレは反逆宣言をする。
その書状を、カルバハルに読ませることで、実質的にアギーレの「王国」作りが開かれたのである。
「神の恩寵に満ちたカスティーリャ王・フェリペ2世に奉上する。我々は1561年l月7日まで、国王陛下の忠実なる臣民であった。だが今や、ピサロから300キロ以上も離れ、神の御意思により下流に運ばれた。我々は、この運命に決着をつける。今後は、いかなる富も王と分かつことはない。命を賭して反逆する。フェリペ2世は廃位される。新たに、セビーリャ貴族デ・グスマンがエルドラド皇帝に即位する。誓いを破れば、腕は腐り落ち、舌は干上がるだろう」
ウルスアとイネス |
このアギーレの「王国」作りにとって、当然の如く、ウルスアの存在が邪魔になる。
アルマンドの脱走事件を機に、ウルスアの関与が問われ、カルバハルを裁判官とする公開裁判が開かれた結果、「反逆罪」で処刑が決定するが、アギーレによって「皇帝」に任じられたグズマンが横槍を入れ、死刑は免除され、代わりに、市民権の剥奪と財産の半分の没収、あとの半分は兵士に分与するに至った。
1月12日。
「叛乱の新部隊」はウルスアを連行し、新しい筏で再出発する。
再出発するや、黒人の先住民に襲われ一戦を交えるが、彼らが「食人族」であることを知り、早々に退散する。
1月20日。
「山並みは背後に消え、平地が開けた。屋根をこしらえ、激しい日差しを防いだ。流れは淀み、筏は進まない」(カルバハルのナレーション)
そんな中で、毒矢の急襲があり、「叛乱の新部隊」は必死に応戦する。
流れの淀みが、「叛乱の新部隊」の緊張を加速させる。
アギーレは、その度に、奴隷のインディオに、パンフルートと思しき手製の楽器を吹かせる。
彼なりに、分遣隊の秩序の維持に拘泥しているのだ。
すっかり「皇帝」気分のグズマンは、僅かな食物を占有したばかりか、怯えた馬に怒ったあまり、筏から投棄してしまう始末。
1週間分の食糧の損失と嘆くカルバハルの諦念は、「皇帝」への反逆を封印する兵士たちの感情を代弁していた。
その直後の、グズマンの謎の死は、殆ど「約束された喜劇」の終焉のシグナルと言って良かった。
そして、この「約束された喜劇」の終焉は、同時に、「約束された悲劇」の終焉と化す。
ウルスアを庇護してきたグズマンの死によって、ウルスアの運命が尽きたからである。
ウルスアの死と、その直後に続く先住民との死闘。
その死闘の中で、愛人を喪ったイネスは、一人、先住民の森の奥に消えていく。
覚悟の死である。
「静けさのあまり、仲間が恐慌をきたした。死の前の不気味な静寂」(ナレーション)
先住民の方がマシだと吐露する兵士もいた。
どれほど進んでも、エルドラドに辿り着けない「叛乱の新部隊」の秩序も崩れかかっているのだ。
アギーレを非難する兵士の頸が切り落とされたのも、そんな空気の産物だった。
「逆らう者は許さん。俺は神の怒り」
決して笑みを見せないアギーレの高音だが、一気に言い放つ威圧的な声には、普段から寡黙なだけに、却って恫喝だけで済まないリアリティがある。
だから、アギーレの一言で、内部環境は沈黙を余儀なくされた澱んだ空気が蔓延する。
2月1日。
「兵士の士気は下がり切っている。アギーレと話した。期待は裏切られたようだ。飢えと死があるばかり。敵の姿は見えない。エルドラドも、今は幻に過ぎない。アギーレは、我々を破滅に導く。故意にそうしているのか?川が密林にまで氾濫して、接岸できない」(カルバハルのナレーション)
2月11日。
「目を覆う惨状だ。大抵の者が熱病にかかり、立つのもやっと。もう書けない。筏は旋回するばかり」(カルバハルのナレーション)
エルドラドも幻に過ぎないと感受する隊員たちにとって、今や、次々に仲間が斃れていく現実の事象を目の当たりにして、生に対する感覚が麻痺していくのは必至だった。
そんな中で拾われた、興味深いエピソード。
ポロロッカ |
津波に酷似した現象で、アマゾン川を逆流する潮流として有名なポロロッカを例に挙げるまでもなく、河川の増水・氾濫のような大洪水などに起因する、陸地の水没という自然災害等によって、森に突き出た高い木の梢の上に1隻(せき)の帆船がぶら下がっていた。
「船が見える。帆船だ。高い木の梢に。船尾からカヌーがぶら下がっている」
それを目視する黒人奴隷オケロの言葉に、リアリストのカルバハルはネガティブに反応する。
「あれは幻影だ。洪水が及ぶはずがない。我々は熱がある。ただの幻影だ。疲れ過ぎて幻が見えるのだ」
このカルバハルの言辞に対して、最も理性的に反応したのがアギーレだった。
「あれは現実だ。あの船を手に入れ、大西洋に出る」
しかし、カルバハルとオケロには、もう、現実に対応する能力がない。
衰弱し切っているからだ。
「船は幻。森も幻。矢も幻。怖れているから幻を見るんだ」
毒矢を受けて斃れていくオケロの言葉には、死すらも一時(いっとき)の「安眠」と考えるほどに、生に対する執着心が奪われていた。
カルバハルも毒矢を射られて斃れていき、今や、娘のフローレスだけがアギーレの心の拠り所だったが、そのフローレスもまた、毒矢を胸に射られて息を引き取った。
すっかり朽ち果てた筏には、アギーレ以外の人間の影もなく、多くの野生の猿が、まるで新たに巣を見つけた興奮がさめやらないように、流れの弱い川に浮かぶ特化されたスポットで舞い上がっていた。
2 「大狂気」に振れていく男の一種異様な酩酊状態の極限的な様態
自然に同化したが故に、殆どその姿を表す必要のない先住民を含む、手つかずの未知のゾーンを形成する大自然の懐に、その身を投入した「文明」の脆弱さを目の当たりにして、それまで経験したことのない恐怖の念に駆られてもなお、そこで呼吸を繋いでいかねばならないとき、大抵、人間は「狂気」という戦略に潜入するだろう。
狭義の意味で言えば、「狂気」とは、恐怖の念に駆られた自我が、その恐怖を希釈化することによって、それ自身を守る防衛戦略である。
ところが、「文明」の脆弱さを目の当たりにし、それまで経験したことのない手つかずの未知のゾーンに捕捉されても、大抵の人間が潜り込む、「狂気」という戦略に防衛機制を張らない人間がいる。
アギーレである。
良かれ悪しかれ、男には、その恐怖を希釈化する必要がない強靭な自我を有するからである。
だから、恐怖の念の圧倒的な破壊力に全く蹴散らされることがない
それにも拘らず、男の自我は「狂気」に捕捉されている。
それは、「狂気」を食(は)むほどの「狂気」である。
それを、私は「大狂気」と呼ぶ。
恐怖を喰い潰すほどの「大狂気」が心理的推進力になっていればこそ、途絶えることのない未知のゾーンの広がりは、自らの野心の広がりと重なってしまうのである。
このような「大狂気」にまで上り詰めていった男にとって、真に怖れるべき「敵」など存在しないと言っていい。
不気味な風景が広がる「異界」への侵入によって、その恐怖を希釈化するというレベルの防衛戦略に収斂される、数多の兵士たちの「狂気」と、アギーレの「大狂気」。
二つの本質的に異なる「狂気」に肉迫した映像が放つ、異様な臭気の共存の中で、生き残るのは、言うまでもなく、圧倒的な凄みを見せるアギーレの「大狂気」である。
だから、どこから飛んでくるかも分らないインディオたちの毒矢や、アマゾン川流域に棲む「食人族」の襲撃、更に、飢えと疲労に起因する身体の加速的な衰弱によって、自らが実質的に指揮する部下たちが熱病で斃れ、その死屍累々の凄惨な地獄を目視したとしても、「大狂気」に憑かれた男の野心を砕く何ものにもならないのだ。
ラス・カサス(ウィキ) |
一貫して現実主義者であった宣教師カルバハルもまた、コンキスタドーレスの蛮行を告発したラス・カサスのような使命感とは切れていて、約束された「殉教死」をトレースしていく。
自我それ自身を守る防衛する戦略の構築の必要がなく、ひたすら、自らの野望を具現する遠大な試みを妨害する存在を「敵」として蹴散らし、それを悉(ことごと)く排除していく強靭なる意志を貫徹する。
一切は、アギーレ=「神の怒り」の発現なのである。
決して強がりではない、そんな男の攻撃的言辞を映像から拾ってみる。
「我々が引き返せば、誰かが来て成功を手に入れる。俺たちは負け犬だ。この地に、森と川しかなくとも征服するのだ。あとに続く者たちに絞り取られぬよう。男どもは黄金に埋もれる」
「海に出たら大きな船を作り、北を目指す。スペインからトリニダードを奪うのだ。更に北上して、メキシコを奪う。何という大いなる反逆だ。そして新世界を手に入れる。この手で歴史を作るのだ。俺は神の怒り。我が娘と結婚し、この地上に比類のない純潔の王朝を築くのだ。やり遂げるぞ。俺は神の怒り。俺に従う者は誰だ」
後者は、物語におけるアギーレの、彼流の最後の「マニフェスト・デスティニー」である。
野性の小さな猿を手に持って、野心を吐露する男の構図は、まさに、このような男の人物造形を描き出すために構築した映像であると読み取れなくもない。
アギーレとイネス |
少なくとも、本作が、先住民の大量虐殺やインディオ女性を強姦した、メキシコのコンキスタドーレスが犯した文化破壊の蛮行を、真摯な社会派的な視座で指弾する意図を持ち、そのイメージのうちに収斂し得る映画のように思えないのは、このような男の「大狂気」の異様さを際立たせる存在としてのみ、コンキスタドーレスの象徴的人物であるピサロの理性的な人格造形、更に、そのピサロの命令に従順に服従する良心的な分遣隊長・ウルスアの人格イメージ、また、男によって形式的な「皇帝」にされた、貴族出身の美食家の肥満男グスマンや、僅かな食物を占有する、この肥満男の犠牲になって飢餓で斃れていく兵士たち、自分の足に毒矢が刺さったことも幻想と考えてしまう黒人奴隷オケロ、そして、最後までラス・カサスに化けられなかったカルバハル宣教師や、男が唯一愛する娘フローレス等々、様々だが、本来的に、人間としての普通の脆弱性を体現する人物造形群がインサートされたと考えたようが良さそうである。
では、この男の人物造形の本質的な意味は、一体何だったのか。
これについて、私は迷いながらも勘考する。
要約してしまえば、如何なる苛酷な状況に置かれても、自分の強靭な意志を決して曲げることなく、「大狂気」に振れていく男の一種異様な酩酊状態の極限的な様態を、不特定他者を射抜くような眼光だけで演技する、クラウス・キンスキーという稀有な能力を持つ俳優に憑依させて、単に映像提示したかったのではないかと。
ヴェルナー・ヘルツォーク監督(ウィキ) |
或いは、以下の、こんな身も蓋もない常識的把握に軟着するということか。
世界を「文明」と「野蛮」(大自然)に分け、前者が後者を暴力的に支配してきた酷薄な西欧文明のイメージを、「神の怒り」を精神的バックボーンにすることで「野蛮」を駆逐し、そこに新たな「理想の王国」(「文明」の「野蛮性」)を築かんとするアギーレの、「大狂気」の人物造形の極限的な様態のうちに、存分のアイロニーを込めて、コンキスタドーレスの本質的な「悪」を凝縮したという風に読み取るのが一般的解釈だろうが、とうてい私には、こんな凡俗な把握が、この個性全開の映像の推進力になっていたとは思えないのだ。
一切は不分明であると言う外にない。
それにしても、一度観たら、一生忘れないようなパワーを持つ映像だった。
(2013年9月)
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