<「譲れないものを持つ者」の「強い映像」の凄み>
1 「譲れないものを持つ者」の「強い映像」の凄み
この遣り切れない物語は、「神の沈黙」をテーマに先鋭的な映像を繋いできたイングマール・ベルイマン監督がそうであったように、「聖」の記号である司祭としての一切の行為が灰燼に帰し、遂に、自らの拠って立つ存在の基盤を自壊する辺りにまで追い詰められ、神を疑う内的状況を作り出した若者の煩悶を、徹底的に突き放して描き切った映像である。
司祭の内面の振幅を映像提示されたものを、観る者は、それを自分の問題として変換させて迫ってくるような強度が、この映画の生命線である。
だから、この映画は「強い映像」になった。
観る者の心に、これほどまでに迫ってくる映像のパワーの源は、このような映画を構築せねばならないメンタリティを持つ作り手の、何かそこだけは、「譲れないものを持つ者」の意思の中で結ばれていているイメージが全篇に漂っていて、それが「強い映像」を構築し得た推進力になったのであろう。
この映画に関して言えば、深読みは不要である。
観る者を混乱させるようなメタファーも拾えない。
肝心なものは、すべて映像提示されている。
「日常の出来事を率直に記す」ことを目的に、モノローグを繋ぐ丁寧な構図と、それを表現する映像が、潔癖なまでに一つの内的宇宙を構成しているのだ。
ロベール・ブレッソン監督(ウィキ) |
その手法は、観る者に、基幹テーマからの逸脱を防ぐ効果を、いや増すだろう。
且つ、禁欲的な修道生活を送る修道会に閉じ込められる「修道司祭」と切れて、「在俗司祭」とも呼ばれる「教区司祭」として、とある田舎の村に赴任して来た主人公が、閉鎖系のエリアで心身共に被弾する現実を冷厳なまでに客体化することで、主人公への不必要な感情移入をも防ぎ、観る者の融合感度を遮断させる効果を増幅させている。
だから映像は、「俗」の渦中の閉鎖系の村に、「使命感」を抱懐し、「聖」を象徴する、神学校上がりの新米司祭の若者が侵入することによって惹起する事態が、全て新米司祭の煩悶のうちに表現されていくのである。
「教区司祭」としての「使命感」溢れる青年司祭の行為が、たちどころに、閉鎖系の村の尖った視線によって拒絶されていくのは、人生経験の貧困な若者の純粋さが「聖」の記号を身体化すればするほど、「俗」の世界の住人から疎まれ、敬遠されてしまう関係のネガティブな構造性において、人間社会で往々にして起こることである。
重苦しそうに自転車を動かしながら、「俗」の世界に侵入するや否や、にべもなく拒絶されるばかりの青年司祭。
「神の声の代弁者」という、拠って立つ自我の安寧の絶対基盤が、この「聖」と「俗」が溶融し切れない濁った空気の中で、少しずつ、そして加速的に崩されていく。
一向に思うように改善できない〈状況〉の渦中で、それでなくとも、虚弱な身体が自在に駆動できない負の連鎖が、閉鎖系の村の「教区司祭」に着任早々開かれたのである。
演出中のロベール・ブレッソン監督 |
良心的であろうと踠(もが)く人間の特徴的な行動傾向をトレースするように、純粋であるが故に、青年司祭は、心の内奥に封印した攻撃性を自らに向けていくのだ。
2 煩悶から「奇跡」への内的風景の振幅
以下、梗概を書いていく。
「村の人間は、あなたに悪意を抱いてる。助言させてもらえるなら、結果を急いではならん。すぐに心を開くことも」
赴任早々に、電気も通してもらえなかったばかりか、理由も分らず、子供たちからもからかわれ、村からの冷たい視線を浴びた青年司祭は、頼みの綱であった領主である伯爵からも、単刀直言される始末。
その伯爵家では、実は、件の伯爵と家庭教師の女性・ルイーズが不倫関係にあった。
そのルイーズが、毎日のように教会に足を運び、祈っている熱心さを疑うことをしなかった青年司祭のもとに、司祭が早く村から去っていくことを促す匿名の手紙が届くが、その差出人こそルイーズだった。
彼女は、伯爵との不倫を察知され、それが自分の立場を危うくすると思い込んでいたのだ。
家庭教師であるルイーズと父が不倫関係にある現実を、当然の如く認知しない娘・シャンタルは、その現実を知りながら、愛児を喪ったトラウマを引き摺って、グリーフワークを延長させているだけの母の無関心さに対しても、無性に我慢ができなかった。
以下、青年司祭に、存分の悪意を込めて語ったシャンタルの言葉。
シャンタルと青年司祭 |
「憎んでる。3人とも。復讐のため、家出してやる。身を持ち崩せば、父の耳に入り、苦しむはず」
思春期後期という難しい年齢に捕捉されている少女にとって、大人の存在それ自身が敵意の対象になってしまうのである。
「あの女が家に来てから・・・私を寄宿舎に入れるつもりなの」
これも、シャンタルの言葉。
シャンタル |
そんな少女の話を聞かされても、何もできない自分の無力さを痛感し、「私は神の罰を」などと、弱気になってしまう青年司祭。
若いのだ。
自我の防衛機制のスキルが脆弱で、非武装すぎるのである。
心の内奥に封印した攻撃性を自らに向けていく負の連鎖が、遂に、拠って立つ自我の安寧の絶対基盤をも崩しにかかる。
「祈れない。祈りたいという願いが、発展することはなかった。疑問も抱かなかった。祈りが必要だったのに、肺に空気が要るように、血に酸素が要るように、私の背後に、もはや日常生活はなかった。前にあるのは壁。黒い壁。突然、何かに胸を貫かれた気分だった。一時間以上、震えが続いた。幻覚だったのか。聖者もこんな経験を?ベッドの足もとに横たわり、すべてを委ねることを、神に示そうとした。いつもと同じ孤独、沈黙。でも今回は、乗り越えられそうもない。実は障害などないのだ。神に捨てられた。そう思った」
そんな折、苦渋する青年司祭に、一つの「奇跡」が起こった。
それは、伯爵の娘のシャルダンの嫌悪の対象でもあった、伯爵夫人との宗教問答の渦中で招来した。
「神が罪のない者を罰するなんて、道理が通らないわ。愛し合う者を引き離すのは、神と言えども不可能です。愛は死より強いと、聖書にも」
「愛は虚構ではない。秩序も法則もあります」
「神がその主?」
「愛の主ではなく、愛はそのものです。愛の中に身を置きなさい」
「失礼ね。私が罪人のように。主人の不信仰も、娘の反抗や根拠のない憎悪も、私の責任なの?」
「奥さん、悪い考えの結末は、誰にも分りません。密かな過ちは感染します」
「それは間違った考えです」
「私は信じます。神の意思に反して、誰もが善と悪に縛られているとしたら、耐えられない」
伯爵夫人 |
「密かな過ちとは?」
「自我を捨て、心を開きなさい」
「自我を何のために?捨ててるわ。でなかったら、死んでました。やり過ぎたほどです。死ぬべきだったのかしら」
「誤解なさってます」
「では何なの?ミサにも行っているのに」
「神への考え方です」
「心穏やかに死ねる自信が」
「もう、無理でしょう」
「神は許しているのに。私が神を憎んでると認めさせて何になります?」
「憎んではいない。ようやく向き合えたのです。あなたは神と。確信はないが、生と死の国があるのではなく、我々は神の国にいるのであす」
この青年司祭の言葉で、伯爵夫人は、精神的に救済された者の柔和さを見せた。
自分もまた、神を呪っていたことを告白する司祭。
「心に安らぎを」
そう祈り、夫人を救ったのである。
その直後、青年司祭は、夫人から手紙を受け取った。
“息子の思い出に浸り、孤独に暮した私を、別の子供が救ってくれた”
これが、手紙の要旨。
無論、「別の子供」とは、司祭自身のこと。
それは、青年司祭の熱意が、閉鎖系の村で、初めて実を結んだ瞬間だった。
3 “それがどうした。すべては神の思し召しだ”
「奇跡」を手に入れた青年司祭のささやかな喜びは、束の間の達成感でしかなかった。
〈状況〉は、一気に反転していくのだ。
青年司祭のもとに届けられた感謝の手紙の余韻に浸っている余裕もなく、その夜、伯爵夫人は、広い自宅で事故死するに至ったのである。
夫人の死によって、いよいよ精神的に追い詰められていく青年司祭。
なぜなら、夫人の死因が、前日の司祭との会話と関連を持つと決めつけられたからである。
だから、夫人の葬儀において、青年司祭は、村人たちの刺すような冷たい視線を一方的に浴びることになる。
「“心に安らぎを”彼女は、この言葉を受け入れてくれた。自分にないものを与えることができたのだ。こんな私の手でさえ奇跡を」
夫人の葬儀で、彼はなお、「奇跡」の遂行にアイデンティティを確保しようとするが、そんなささやかな思いですらも、周囲の偏見に囲繞されて吹き飛んでしまうのだ。
「人々は、君の純粋さを怖れている。彼らを燃やす炎と思って・・・」
これは、司祭評議員が、青年司祭を訪ねて来たときの言葉。
夫人との関係を疑われている事実を正直に話し、誤解を解くために、そのときの「告白」の内容を話してくれと求められたのである。
それを拒む司祭。
「胃が痛み、食べるのは、パンと果物とワインだけです」
健康を心配する司祭評議員に、青年司祭も正直に答えた。
「健康だと錯覚するな」
これは、その直後の司祭評議員の言葉。
肝心な目的を果たせず帰路に就く司祭評議員とて、自分に及ぶ迷惑を払拭するためだけに動いている訳ではないのだ。
「純粋さを怖れている」村民との関係の修復ができなければ、本来の「教区司祭」としての仕事の遂行に支障を来す事態を回避させるべく、訪問に及んだのである。
「パンと果物とワインだけ」という極端な食生活を案じている思いも強く、そのような生活を延長させている「純粋さ」に憂慮もしているだろう。
しかし、残念ながら、司祭評議員は青年司祭を十全に理解しているとは言えなかった。
青年司祭が、何も語らないからである。
「日常の出来事を率直に記す」ために書いている青年司祭の「日記」は、いつしか、「非日常の出来事」の文面で埋まっていて、今や、「日記」が彼の分身となっているようだった。
青年司祭の自我は、「非日常の出来事」の文面で埋まっている「日記」の中に封じ込められていくのか。
〈状況〉の反転を通して、そう思わせる防衛戦略の風景が、いよいよ、青年司祭の自我に絡みついて離れなくなっていく。
「酔っぱらい」扱いされた青年司祭が、病床に伏すのは殆ど必然的だった。
遂に彼は、路傍で倒れて、大量の吐血をするに至った。
セラフィータ(右) |
そんな若者を救い、介抱したのは、かつて「先生の目がきれいだから」とからかっていた少女・セラフィータだった。
劣悪な環境下に置かれているように見えるセラフィータにとって、今や、理屈っぽい「エリート司祭」に見えない青年司祭は、同情するに値する若者であったのか。
まもなく、町の医院で診察を受けるために、一時(いっとき)、教区を離れた。
「この道連れの青年と一体化したようだった。すべてが単純に思えた。青春は危ういが、その危うさも神の恵みなのだ。神が私の死を望んでいるとしても、危うさを経験してからだ。私の犠牲が実を結ぶためにも」
これは、町の病院に行く途中、快活な青年と出会って、オートバイの後部座席に乗せてもらったときのモノローグ。
「冒涜の言葉を重ねても、どうせ死ぬんだから。あなただって・・・」
快活な青年の一言だが、この言葉が現実になっていくことで、「この道連れの青年と一体化したようだった」という、束の間の浄化の気分も一瞬にして壊れていく。
青年司祭は、病院で胃がんの宣告を受けたからである。
この病こそ、青年司祭が、「パンと果物とワインだけ」という極端な食生活を繋ぐ、最凶のストレッサーとして若者の身体を蝕み、時として、使命感に燃える精神をも食んでいたのである。
病院からの帰路、元の司祭仲間で、かつての友人の家を訪ねたが、そこで再び病に倒れてしまう。
病膏肓に入る(やまいこうこうにいる)状態下で、友人の愛人の世話を受けていた青年司祭の生命の炎は、もう、そこにしか流れ込めないように消えていった。
「彼はとても明瞭に言いました。次のような言葉を。“それがどうした。すべては神の思し召しだ”」
これが、トルシーの司祭に宛てた、青年司祭のラストメッセージである。
青年司祭の死を描き出すことなく、最後まで客体化された映像の凄みは、一人の若者の覚悟を括ったラストメッセージのうちに凝縮されていた。
青年司祭の死の相貌に代わって映し出されたのは、先端に十字架が眩く輝くロザリオだった。
死の床にあってロザリオを求める青年司祭の心の風景は、一体、何だったのだろうか。
これを考えてみたい。
私が思うに、彼はこのとき、「イエスの孤独」に想いを馳せていたのではないか。
ヴァシーリー・ヴェレシチャーギンの「ゴルゴファ(ゴルゴタの丘)の夕べ」(ウィキ) |
何をやっても報われない人生を振り返ったとき、磔刑という、言語を絶する苦痛を強いる処刑の瞬間に、思わず、神を疑って叫びを上げた「イエスの孤独」こそ、自分が最も親近感を抱く内的風景の様態だった。
しかし、人類の罪を一身に負って殉じた、「イエスの孤独」を想起する青年司祭の心の風景は、自分もまた、“それがどうした”と開き直る心境に辿り着くことで、人生の最後の瞬間に、“すべては神の思し召しだ”という思いを持ち得たのではないか。
それが、ラストシーンの意味であると私は考えている。
(2013年8月)
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