映画を観ていて、涙が止まらなかったのは、いつ以来だろうか。
外国映画なら人間の尊厳を描き切った、ワン・ビン監督の「無言歌」(2010年製作)という生涯忘れ難い作品があるが、邦画になると殆ど記憶がない。
敢えて言えば、映画評論を書くために、何十年ぶりかで再鑑賞した市川昆監督の「破戒」(1962年製作)くらいだろうか。
市川昆監督は大好きな映画監督の一人だが、「破戒」はあまりに感動的に描き過ぎていて、それが却って私の不満になっていた。
市川昆監督らしくなく、感動を意識させた映画の作り方に違和感を覚えたからである。
ところが、本作は違った。
震えが走る程だった。
映画の舞台となった高校 |
本作の構成力の見事さは、決して偶然の産物ではない。
この「屋上の炸裂」に至るまでに、それぞれ立場が違う視線で描かれた高校生たちが抱える様々な葛藤の、その本質的な部分を巧みに拾い上げて辿り着いた、解放系の限定スポットで表現された描写があまりに構築的だったので驚嘆したのである。
群像劇の物語を、僅か100分余でまとめ上げた演出力の精妙さは、その演出によって、活き活きと表現された現代の高校生たちのリアリティ溢れる描写のうちに検証されるだろう。
それは、このような構築的な映像を創る映画作家が、漸くこの国に出現したと思わせるに足る素晴らしさだった。
吉田大八監督 |
全てに無駄がなく、且つ、映像表現の力を信じて、最後まで物語を支配し切った吉田大八監督の力量に脱帽した次第である。
本作は、〈状況〉をきっちり描いて成功した、ガス・ヴァン・サント監督の「エレファント」(2003年製作)のように、「桐島、部活やめるってよ」という由々しき情報が、関係者に伝播するシーンが繰り返し挿入されることで分明なように、時間軸を巧妙に動かすことで、登場人物の様々な視座を変えていく物語構成によって、日常性の中枢的拠点としての学校空間に呼吸を繋ぐ者たちの、その多角的な視座を複層的に交叉させながら、ノスタルジーの格好の対象である青春をチャイルディッシュに美化することを拒絶し、そのことによって鮮やかに浮き彫りにされる、この国の「現代の青春」の空気感を鋭く切り取った青春ドラマの大傑作であった。
2 「屋上の炸裂」での嗚咽に辿り着くまでの心情変容の振れ幅 ―― 宏樹の浮遊感
「ヒッチコック 映画術 トリュフォー」)(山田宏一、蓮實重彦訳 晶文社)で多用されたヒッチコックの常套的な概念に、「マクガフィン」という言葉がある。
「それ自体に特に意味を持たない映画の仕掛け」であるという風に、ヒッチコックは説明している。
本作では、紛れもなく、桐島という、校内で圧倒的な影響力を持つ高2男子が、「マクガフィン」の役割を果たしていた。
それ故、「マクガフィン」である桐島とは、「一体何者なのか?」という問題提示は一切意味を持ち得ないのである。(注)
本作の基幹テーマは、桐島とは「一体何者なのか?」という詮索などになく、リベロとして、とある県立高校の男子バレー部のキャプテンで、県選抜に選出されるほどの活躍していた桐島が、突然、前触れもなく部活を辞めるという事態に直面したことで、彼に関わっていた高校生たちの心理の揺動による振れ幅を通して、この国の「現代の青春」の様態をリアルに映し出すという一点にこそ集約されると言っていい。
この文脈の中で、実質的に、「桐島の不在」の設定を崩すことなく描き切っていくのである。
加えて言い添えれば、「スクールカースト」と言われる、心理的な階層構造の頂点に立っていた人物の選択的行為を問題提示することで、本来なら、ベタな青春娯楽編の主人公になっていただろうスーパーマンを不在にさせた映像は、このような青春娯楽編を作り続けてきた、この国の映画・テレビ放送の定番的コンテンツへのアンチテーゼの意味をも包含させていたとも思われる。
従って、本作の中で最も注目すべきは、スポーツ万能で学力優秀、更に、ハンサムで長身の高校生が、それ故に、定点に軟着し得ない浮遊感を表現する人物造形に成就したことにある。
宏樹 |
桐島の親友でありながら、「桐島の不在」の理由を知らされることなく、それによって惹起した風景の変容の中枢で揺動する、宏樹という高2生。
実質的な主人公である彼こそが、複層的に交叉する物語の中で浮き彫りにされた、この国の「現代の青春」の振れ幅の揺動感を集中的に代弁していたと言える。
野球部に所属しながら、その泥塗れの体育会系の情動を自給できないのは、プロになるレベルに達していない認知能力によって自己を客観化しているが故に、いつもどこかで冷めてしまっている。
だが、冷め切れない。
だから、葛藤が生まれる。
思うに、青春期の自我形成過程で重要な相対思考が確保されているという、「大人視線」から見れば、「夢追い人」を途絶させたような宏樹の存在の在りようには、何ら問題がないだろう。
宏樹と沙奈 |
しかし、当の本人の内側に、その現実を「問題なし」と括り切れない感受性が張り付いているから、「大人視線」のラインに沿って、合理的思考から導き出された感情文脈を預けられないのだ。
「桐島の不在」の問題が、そんな高2生の揺動する自我を、「当事者性」によって深々とインボルブしていったのである。
そんな宏樹が、高3の秋になっても、野球部を引退しないキャプテンとの興味深い会話があった。
「あの、キャプテンって三年じゃないですか。何で、引退しないんですか?いや、別に、夏が終わったら引退するから・・・」
直截に、宏樹は野球部キャプテンに発問する。
「ドラフトが終わるまでは・・・ドラフトが終わるまではね」
「キャプテンのとこに、スカウトとか・・・」
「来てないよ。来てないけど、ドラフトが終わるまでは、うん。悪い!行くわ、そろそろ」
その一言を残して、野球の練習に向かうキャプテンに、宏樹は後方から言葉を投げかけた。
「あの、俺、次は・・・」
ここまで言いかけたとき、キャプテンの言葉が遮った。
野球部キャプテンと宏樹 |
「良かったら、応援だけでも来てくれよ。勝てそうな気がすんだ。次は」
これで、二人の会話は閉じていった。
キャプテンが夜になっても、必死に素振りをしている場面を視認した宏樹は、大きく心を動かされて、このとき、「幽霊部員」を返上しようという思いを伝えたかったのだ。
しかし、既に「応援団」としての役割でしか見られていない宏樹にとって、高い感受性を有するが故に生まれる葛藤の克服は、いよいよ高いハードルになっていった。
思うに、恐らく、そこだけは類似しているだろう桐島と同様に、年齢相応以上の合理的思考を身につけている宏樹には、「夢を見る能力」の継続力が不足していたのであろう。
デヴィッド・フィンチャー監督の「ソーシャル・ネットワーク」(2010年製作)の稿でも書いたが、「夢を見る能力」が「夢を具現する能力」にシフトする心的行程には、それまでの自己基準的なリアリズムの枠内では収まり切れない、「夢」という名の心地良き物語を具現せんとする対象人格が放つ、シビアな客観的世界との対峙を回避し得ない冷厳なリアリズムが待機しているのである。
「夢」が自壊しないことによって、「夢」を自分なりに成長させてきた青春期の自我の懐(ふところ)深くに、外部世界とのリアルなリンクへの自己運動が、騒いで止まない情感系の心的行程の中で加速的に延長される、「夢を見る能力」のリアリズムの具象性に近い内的イメージが、この宏樹には感じられるのである。
そんな彼にとって、唐突な「桐島の不在」は信じ難きできごとだった。
なぜなら、彼は桐島の第一の親友であったからである。
その親友が、自分に全く連絡せずに部活を止めることを決断したことは、「親友幻想」の揺らぎをも意味するのだ。
その揺らぎの中で騒ぐ心が捕捉したネガティブな感情は、桐島の登校を待機するという空虚感のみだった。
「マクガフィン」である桐島の人格像の詮索が意味を持ち得ないのを認知しつつも、敢えて想像力を膨らませて書けば、逸早く「大人」のリアリズムの世界に潜り込んでいったと思しき、「似た者同士」の桐島の選択的行為の現実に直面したことで、宏樹は「置き去り」にされたという思いを抱いたのかも知れない。
左から宏樹、沙奈、友弘、竜汰 |
ここで見過ごしにできないのは、「桐島の不在」のその日、担任に配られた、宏樹の「進路希望調査票」が、「桐島の不在」後も空白になっていたという事実である。
恐らく、進路について選択的行為に踏み込んだと思われる桐島と切れて、宏樹の場合、仮に大学に進学しても、なお、全身をもって打ち込む何かを持ち得ない心象風景を映し出していたからである。
しかし、そんな心象風景は、彼に限らず、現代に生きる高校生の普通のイメージをトレースするものであるだろう。
ともあれ、映像を通して、少しずつ浮き彫りにされていく宏樹の感受性の高さは、十全に張られた彼の内面的振幅に関わる伏線が、ラストシークエンスでの「屋上の炸裂」での嗚咽で回収されることで検証し得る構成力の、出色の精妙さを際立たせていた。
それは、紛う方なく、「屋上の炸裂」での嗚咽に辿り着くまでの彼の心情の変容を、構築的に描き切った演出力の最大達成点だったと言える。
(注)因みに、エンディングクレジットでは、友弘が見た男は、「屋上の男子」とだけ紹介されていた。桐島の存在を、最後まで正体不明な人物として扱っていることが判然とするだろう。
3 「スクールカースト」の下位に甘んじる部活のヒエラルキーの屈折的情動
「屋上の炸裂」のラストシークエンスに言及する前に、この高校の「スクールカースト」の部活のヒエラルキーを、端的に描いたエピソードを拾ってみよう。
この「スクールカースト」という厄介な現象の背景について簡単に言及すると、以下の解釈が可能になるのではないか。
主に、親による極端なフレンドリー化の情緒的包括や、自立性を損なうほどの過剰把握などによって、世代を超えた幅広い交流を経てきていないこの国の子供たちは、自我形成の心的行程の中で培養された価値観を持ちにくいので、価値観交叉によって選別された「親友」を作っていくことが困難になっていったと、私は考えている。
華美な表面性が際立つだけのトレンディドラマに象徴される、映像メディア等で垂れ流されてきた、「大人基準」の「価値観」が、小さいころから視聴覚に刷り込まれてきた結果、容姿・ファッションセンス・運動能力など、外見的な「差別化」が無意識裡に児童期自我のうちに、複層的に影響を与えてきた現象の背景に横臥(おうが)していることは否定し難いだろう。
かくて、以上のような外見的な「差別化」が、「スクールカースト」の肝になっていったということではないか。
その外見的な「差別化」が、思春期後期から青春期の自我が集合する、学校空間という、本質的に無秩序な「場」に降りていくのは、学校空間を「日常性」にする青少年にとって必然的だった。
そこでは、運動系は上位で、文化系は下位であり、更に、「オタク系」の濃度の高い映画部などは、部活のヒエラルキーの最下位を構成するのだろう。
朝礼での屈辱 |
彼らは往々にして運動音痴であるから、体育の授業では常に置き去りにされるという具合である。
本作でも、件の映画部は、顧問のシナリオによる作品が、一次予選に受かりながら二次予選で落ちたという、朝礼での部活動報告の中で嘲笑の的になっていたエピソードが挿入されていた。
「君よ拭け、僕の熱い涙を」
これが映画のタイトルだったから、講堂は殆ど爆笑の渦だった。
「自分たちのやりたいことをやる。ただそれだけ」。
時を経ずして、前田涼也(以下、涼也)と武文が主導する映画部による、朝礼での嘲笑への反撃=顧問という名の、殆ど千切れかかった権威の記号でしかない、「大人」の介在の否定の意志が、この言辞に結ばれていく。
映画部を率いる涼也 |
顧問から押しつけられた、「半径1メートルの世界」をテーマにする「青春純粋譚」を否定し、「自分たちの映画」の製作に没頭する彼らが、「ゾンビ映画」というコンセプトを手に入れたことは、映画部総体にとって、下降化された体制的文脈を屠るための絶対命題だったと言えるだろう。
因みに、本作の原作である、 「桐島、部活やめるってよ」(朝井リョウ 集英社)から、「スクールカースト」についての一文を紹介しておこう。
「前田涼也
僕にはわからないことがたくさんある。
高校って、生徒がランク付けされる。なぜか、それは全員の意見が一致する。英語とか国語とかではわけわかんない答えを連発するヤツでも、ランク付けだけは間違わない。大きく分けると目立つ人と目立たない人。運動部と文化部。
上か下か。目立つ人は目立つ人と仲良くなり、目立たない人は目立たない人と仲良くなる。目立つ人は同じ制服でもかっこうよく着られるし、髪の毛だって凝っていいし、
染めてもいいし、大きな声で話していいし誰も間違わない。どれだけテストで間違いを連発するような馬鹿でも、この選択は誤らない。
なんでだろうなんでだろう、なんて言いながら、僕は全部自分で決めて、自分で勝手に立場をわきまえている。僕はそういう人間だ。そういう人間になってしまったんだ。
(略)
自分は誰より「上」で、誰より「下」で、っていうのは、クラスに入った瞬間になぜだかわかる。僕は映画部に入ったとき、武文と「同じ」だと感じた。そして僕らはまとめて「下」なのだと、誰に言われるでもなく察するのだ。察しなければならないのだ。
(略)
僕らは気づかないふりをするのが得意だ。
(略)
自分達が傷つきそうなことには近づかない。もう一度、自分のこの立ち位置を再確認するようなことはしない。
ひとりじゃない空間を作って、それをキープしたままでないと、教室っていうものは、息苦しくて仕方がない。それをかっこうよくこなせるほど17歳って強くないし、そう言う人はいるかもしれないけど、自分はそうじゃないってことだ」
閑話休題。
―― ここでは、下位に甘んじる「スクールカースト」の屈折的情動のエピソードを拾ってみたい。
「体育の授業で何点取ったってな、無意味。Jリーグ行くなら別だけど」と武文。
「言えよ、直接」と涼也。
「言わない。好きなだけ不毛なことさせてやるよ」
武文 |
これは、体育の授業でのサッカーで、恥をかかされるだけで終わった直後の涼也と武文の会話。
対抗精神をバネにして、毒気満点の打たれ強さを有する武文と、他者との比較とは無縁に、「好きなことをやるだけ」という涼也のコンビが化学反応を起こすことで、「ゾンビ映画」での炸裂に繋がっていく流れが、そこに息づいていた。
また、「スクールカースト」の中にあって、文化系でも吹奏楽部と映画部の「格差」を拾った、殆どオフビート的な感覚で笑いを誘うエピソードがある。
自らの発想で、「ゾンビ映画」を真剣に撮ろうとする映画部にとって、屋上という肝心のスポットに遮蔽物が立ちはだかっていた。
同じクラスの宏樹が、放課後にバスケをしているのを見ることを楽しみにしている沢島亜矢である。
吹奏楽部部長の彼女にとって、屋上の建物はサックスの練習に託(かこ)つけて、密かに思いを寄せる宏樹を俯瞰し得る特別な占有空間だった。
場所争い |
その空間こそ、近未来の設定にイメージされた、映画部の特化された撮影スポットだから、当然、場所争いが起こる。
その場所を譲って欲しいと、恐々と要請に行く涼也に対して、亜矢は言い放った。
「それは遊びですか?こっちは真剣な部活なんですね。遊びなら学校の外で」
これは、弱腰の涼也の態度を見透かした亜矢の、きつい一撃。
そこまで言われて、さすがの涼也も、「皆の屋上でしょ」と抗弁するが、その視界に宏樹しか入っていない亜矢には上の空。
諦め切った表情で、映画部員の元に戻って来た涼也の言葉である。
「あいつ絶対、吹部の方が偉いと思ってるんだ」
映画部の「同志」・武文の一言だが、本音であるが故に、このシーンには笑いを堪えられなかった。
「実際、強いしな」と他の映画部員。
この返しも、丸ごとリアリティを感じさせるものだけに吹き出してしまった。
更に、このエピソードには続きがあった。
吹奏楽部部長の亜矢 |
二人が揉めている間に、肝心の宏樹がバスケを止めて姿を消したことで、近未来の設定にイメージされた場所から、亜矢が去っていくのを目視した涼也は、「勝った」と一言。
「桐島の不在」と無縁な立場にある、文化系の部活のフィールドの前線で拾われた、絶妙な「間」の中で出し入れされたエピソードの、オフビート的な感覚の面白さに唸ったほどである。
沢島亜矢と映画部絡みのエピソードには、感動的な後日談があるので、それも紹介してみたい。
映画部の撮影が校舎の科学棟の裏側で予定されていたとき、今度はその場所で、亜矢がサックスの練習に励んでいて、またしても、涼也と亜矢がバッティングしてしまった。
なぜ、屋上で練習しないのかと問い詰める涼也に対して、亜矢が答えた言葉は、彼女の心の中の葛藤を表現する思いに充ちていた。
「だから・・・今日で、今日で最後だから・・・ごめん・・・集中したいの!集中しないといけないの!だって部長だから、あたしがフラフラしていちゃいけないの、本当は。だから、こういうことは、今日で最後にしたい。・・・だから、ごめん・・・お願い、ごめん」
亜矢の弁明には、屋上での尖った態度がすっかり消えていた。
この日、宏樹がバスケを止めていたので、亜矢が屋上でサックスの練習をする意味がなかったのである。
彼女の態度の変容には、吹奏楽部部長としての自分の果たすべき役割を放棄する行為に対して、今や、看過し難い葛藤を意識する辺りにまで悩むに至り、それが、このような情感的な反応に繋がったのである。
そこには、自己矛盾に悩む真面目な高校生の内面世界の一端が垣間見える。
亜矢を受容する涼也 |
事情は分らなくても、彼女の内面世界の葛藤を読み取った涼也が、彼女の思いを汲み取って、撮影場所を屋上に変更する態度にもまた、相手の心を察し、それを受容するナイーブな高校生の片鱗が窺えるシーンであった。
この映画が包括する真摯なテーマ性を拾い上げる、このような目立たないシーンをきっちりと描く演出に、少なくとも、私は大きく心が揺さぶられた。
4 ピアプレッシャーの中で隠し込んでいた浮薄さが露呈した、女子4人組の地殻変動の予兆
「スクールカースト」の部活のヒエラルキーについて言及したついでに、「桐島の不在」によって、その人間関係が微妙に揺動し、この国の思春期から青春期にかけて目立つ、ピアプレッシャーの中で隠し込んでいた浮薄さが露呈した、女子4人組のエピソードを検証してみよう。
左から沙奈、梨沙、実果、かすみ |
女子4人組とは、梨沙、沙奈、かすみ、実果のことで、共に、「上」の心理的な階層構造に位置している。
梨沙は桐島の彼女であるから、誰からも一目置かれていて、本人もその「ステータス」を誇示することで、虚栄心を満たしていた。
その梨沙(りさ)にラインを合わせることで、女子グループのナンバー2的なポジションを得ている沙奈(さな)は、同様に、男子グループのナンバー2的な存在・宏樹の恋人であることを自負し、吹奏楽部の亜矢の視界が届く科学棟の裏側で、宏樹とのキスを見せ付けるという嫌味なキャラの持ち主で、そのキャラの尖りが、4人組内での亀裂を生む事態を惹起させるに至るが、一切は、「桐島の不在」を発火点にしていた。
女子帰宅部の他の二人と距離を置いているかすみと実果だが、とりわけ、「桐島の不在」によって、リベロを任されてプレッシャーで潰されそうなバレー部の風助を気にかけている実果は、風助を「チビ」扱いにする沙奈への反感が顕在化していく。
以下、そんな女子4人組のエピソード。
沙奈(さな)が風助のことを嘲笑する態度に実果が立腹し、関係に微妙な亀裂が入ったとき、桐島から無視され、憤っている梨紗がやって来たときのこと。
「どう、桐島?」と沙奈。
「休んでる」と梨紗。
「マジで?!それ、やばくない?」と沙奈。
「じゃ、どうすればいいの?メール、電話、全部シカト。マジ男子、デリカシーないしさ。色々、聞いてくるし。こっちが説明して欲しいんですけど」
「桐島の不在」によって、最も直接的に被弾した梨紗にとって、「ステータス」の崩壊の危機に遭った者の苛立ちが、仲間内で噴き上がっていく。
「今、笑った?」
梨紗は、実果の表情が気になって、厳しく問いかけた。
「ちょっと実果、楽しんでんでしょ?」
梨紗に迎合する沙奈が、すかさず、ラインを合わせる。
「ごめん。そんなんじゃない」
槍玉に挙げられる格好になった実果は、そう弁明した後、「何か買って来る」という言葉を捨てて、その場を去っていった。
その後を追うのは、実果に親しいかすみ。
実果とかすみ |
当然、このときも、かすみは実果の思いに寄り添う配慮を怠らなかった。
そのことを端的に検証する、小さいが、如何にも女性らしい繊細さを象徴するエピソードを想起してみたい。
かすみに思いを寄せる涼也から、桐島や宏樹の共通の友人である竜汰が、誰もいない教室で、かすみと仲の良いところを見られてしまったときのこと。
「びっくりした。やばいかな。大丈夫かな」と竜汰。
「大丈夫だよ、あの人なら」とかすみ。
「とかさ、いい加減バラさねぇ?俺たちのこと」
「ダメ。大変なんです、女子は」
これだけの短い会話だが、このときのかすみの反応は極めて興味深い。
かすみ |
この反応には、恐らく、女子4人組の中で、実果だけが彼氏がいない事情を知っているかすみが、関係のバランスを崩したくないという気遣い過多の心理が働いているのではないか。
少なくとも、私はそう思う。
そこには、実果だけを、「親友」と信じ切る思いの強さが伏在していると考えられるからだ。
以上の二人の関係の濃密さが、「屋上の炸裂」での女子4人組の、決定的な捩(ねじ)れの伏線として張られているのである。
ついでに書けば、風助を気にかける実果の心情には、「桐島の代役」を果たせずに悩む風助に対して、「姉の代役」を果たせずに、しばしば、部活の継続力を失いかける自らの感情ラインを重ねているからであろう。
実果 |
絶えず、相手の感情を察しながら高校生活を送っているこの国の、過剰なまでのナイーブさが、見事なまでに捉えられていて、関心すること頻りだった。
5 「語るべき何か」を持つ者たちの「炸裂」と「別離の儀式」
屋上という特化された絶好のスポットで、映画部による「ゾンビ映画」の撮影が進められていた。
「屋上で桐島を見た」という情報を元に、桐島に関わる登場人物の全てが集合したのは、まさに、好調に進行する映画部の撮影の渦中だった。
しかし、そこに桐島はいない。
苛立つバレー部副キャプテンの久保(女子から「ゴリラ」とネーミング)が、思わず、映画の小道具(「隕石」)を蹴り上げた。
これは、引き上げようとする久保に放った、涼也の言葉。
「見ろ、沈むんだよ、太陽が。そしたら、今日の撮影はもうできないんだよ」
「ゾンビ映画」に必死に打ち込む涼也の合理的な説明に、それまで全く眼中になかった久保が一喝する。
「ここはお前の屋上か。こっちはこっちでギリギリなんだよ!」
激しい勢いで迫って来る久保の迫力に、後ずさりする涼也。
「じゃあ!じゃあ、俺たちの隕石を蹴っ飛ばしてもいいのか」
「隕石?」
「特殊な隕石なんだよ、謝れ!」
「屋上の炸裂」① |
涼也は、もう怯まない。
だから、援護射撃を受けたのだ。
「謝れ!謝れ!」
「ゾンビ」のメークをした、映画部全ての部員が、一斉に声を上げたのである。
「何なんだよ。桐島いねぇし、おかしいのにからまれるし!」
「お前らの方がおかしいじゃないか!」
「止めろ!試合できなくなるだろ!」
久保を止めたのが、桐島の代役としてリベロになった風助。
それにしても、暴力の行使が次の試合に影響を与えるという物言いは、相当の説得力があるが故に、観る方も引き摺り込まれる圧巻のリアリズムである。
「何、止めてんだよ、チビ」
これは、風助をバカにする沙奈の、露骨な物言いだ。
その沙奈を睨みつける実果。
実果とかすみ |
その実果を見るかすみ。
心配なのだ。
ここで、友弘が涼也の胸倉を掴む。
「ちょっと、止めなよ!」
今度は、「仲間」である友弘の暴力の行使を止め沙奈。
その沙奈の、本音全開の振舞いに、鋭く睨みつける実果が、今にも手が出そうになったとき、沙奈の頬を叩いたのは、かすみだった。
「ごめん・・・」
頬を叩かれて驚く沙奈に、かすみが謝罪するのだ。
「非日常」の〈状況〉にインボルブされた者たちの心理を的確に表現し切った、この辺りの描写の見事さに唸ったほどである。
「こいつら全部、喰い殺せ!」
自分たちの存在を無視し、そこにしかない特化された撮影スポットを蹂躙された映画部の部員は、この涼也の言葉に一斉に反応する。
このとき、「高校生」という記号を捨てて、すっかり「ゾンビ」に変身していた映画部員たちは、特化された撮影スポットを「我が物顔」で占有している連中に、「ゾンビ」という名の異界の使者として、「正義」の鉄槌を下すのだ。
その「非日常」の〈状況〉を、涼也の8ミリカメラが捕捉する。
次々に、「ゾンビ」によって喰い殺されていく「蹂躙者たち」。
ファインダー越しに、涼也がイメージする虚構の構図には、彼が密かに思いを寄せるかすみもいた。
「あー」
心の中で叫びながら、涼也は、「ゾンビ」によって喰い殺されていくかすみとの「別離の儀式」を果たしていく。
これは、良くも悪くも、「スクールカースト」のヒエラルキーという、大人社会にダイレクトに繋がっていく、否定し難い世俗の冷厳な現実のとば口にあって、ヒエラルキーの下位に呼吸を繋ぐ普通の高校生たちの一群が、「自分たちにも語るべきものがある」と身体表現する映画だったのだ。
「ゾンビ映画」こそ、彼らが「語るべき何か」の具体的表現だったのである。
そして、この「屋上の炸裂」の終焉と同時に、それに合わせて流れていたBGMも終焉する。
BGMとは、吹奏楽部の顧問が指揮する、ワーグナーのロマンティック・オペラとして有名な、「 ローエングリン」の第2幕の「エルザの大聖堂への入場」のこと。
屋上に集合する必然性のない亜矢は、演奏の終焉の中で充足し切っていた。
弱々しい女性的な首筋から鮮血を噴き出させたことで、かすみとの「別離の儀式」を果たした涼也がそうであったように、亜矢もまた、サックスの全力投球の演奏を通して、宏樹との「別離の儀式」を遂行したのである。
全てが終焉し、今、屋上には、この日の撮影を延長せざるを得なかった映画部員たちの、「炸裂」の後の片付けに終始する。
そんな中で拾われた重要な会話がある。
映画部員の一人が、「ゾンビ映画」(「生徒会・オブ・ザ・デッド」)の台詞について涼也に尋ねるときの会話である。
「あ、俺たちが、この世界でしたっけ?」
「えー。俺たちは、この世界で生きていかなければならないのだから」
「俺たちは・・・この世界・・・俺たち・・・」
「ううん、だから。闘おう。これが俺たちの世界だ。俺たちは、この世界で生きていかなければならないのだから。覚えておいてよ」
「ハイ」
これだけの会話だが、いつか必ず、世俗の冷厳な現実の世界に出ていく若者たちへの、本作の基幹メッセージが、ここに凝縮されている。
この、如何にも気恥ずかしい言辞を、大上段に構えた「決め台詞」にせずに、間接的に挿入する抑制的な演出のうちに、奇麗事を嫌うだろう作り手の心情が読み取れて、私としては素直に受容し得るシーンでもあった。
更に、このシーンは、もっと重要なシーンの伏線になっていた。
「屋上の炸裂」の中で、涼也の8ミリカメラの部品を拾った宏樹が、この会話を耳にすることで、屋上に戻る決定的契機になったからである。
それについてはラストシークエンスに繋がるので、稿を変えて書いていく。
6 状況の反転の中で嗚咽に振れる青春の浮遊感
涼也の8ミリカメラの部品を、本人に届けた宏樹は、父親から譲り受けて以来、特別な拘りを持っているという、8ミリカメラに興味を持ったことを口実に、涼也との会話を開いていく。
「俺たちは、この世界で生きていかなければならないのだから」
だから彼は、涼也の言う「この世界」への心象が気になったのだ。
それが、以下の会話に流れていったのだろう。
涼也から8ミリを受け取った宏樹は、半ば面白半分にインタビューしていく。
「将来は、映画監督ですか?」
「え?う~ん、どうかな」
予想しない質問に、涼也は戸惑っている。
「女優と結婚ですか?」
「え~いやぁ、あ~う~ん」
照れ笑いする。
「アカデミー賞ですか?」
「ん~ん~。でも、それはないかな」
真剣に考えた様子で答える涼也。
この辺りから、空気が変わってくる。
「うん?」と宏樹。
「夢」の具現を諦念しているのに、何で、涼也は、ここまで熱中できるのか。
それは、一分の期待を求めてドラフトに拘泥する、野球部キャプテンの情感の振幅とも切れているのだ。
涼也は、そう言い切った。
ここに、「間」ができる。
明らかに、もうそこには、不真面目で、おちゃらけた空気が入り込む余地など寸分もなかった。
「ん?じゃ、なんで、こんな汚いカメラで・・・わざわざ映画を・・・」
「それは・・・う~ん、でも、ときどきね、俺たちが好きな映画と、今、自分たちが撮っている映画が、繋がっているんだな、と思っているときがあって。いや、ほんとにたまにだよ、たまになんだけど、えへ、それがこう、で・・・逆光、逆光」
宏樹の唐突な発問に、そう言うや、涼也は8ミリを取り上げて、今度は宏樹にカメラを向けるのだ。
自分の思いを正直に吐露して照れる涼也は、状況を反転させ、切り返していく。
「やっぱ、格好いいね」
「え?」
「格好いい」
ファインダーに写る宏樹の表情が歪み、みるみるうちに変化していく。
自らが被写体となってカメラに迫られたとき、状況の反転の中で、自分の近未来像に対する鮮明な答えが求められていることを実感した宏樹は、もう、涼也の言葉に全く反応できないのだ。
宏樹の頬に涙の筋が伝わっていくが、必死に堪えている。
「いいよ、俺は。いいって」
カメラにフォーカスされることを拒む宏樹に対して、カメラを外した涼也は、「大丈夫?」と言葉を添えた。
「どうしたの?」と尋ねないで、「大丈夫?」という言葉を添える辺りが、涼也の感性の高さを印象づける。
ともあれ、感情をコントロールできない思いを認知した宏樹は、それ以上、言葉を繋げず、そのまま立ち去っていく。
誰もいない校舎内で嗚咽する宏樹が向かったのは、夜間練習している野球部のグラウンドだった。
宏樹と亜矢の浮遊感を象徴する、無音の中の印象深い構図
|
それが、宏樹の嗚咽の本質である。
野球部のグラウンドを俯瞰しながら、宏樹は、桐島に携帯をかけている。
いつまでも、携帯をかけ続ける宏樹が、そこにいた。
映像は、存分の余韻を残しつつ、閉じていった。
そして、エンディングクレジット。
そこで、宏樹の所属を記す丸括弧が空白になっていたことが、「同時代性」を描き切った本作のエッセンスの凝縮であったと言えるだろう。
「桐島の不在」によって、束の間、揺動するのは良い。
しかし、「不在のカリスマ」に、もう頼るな。
「今」、「このとき」の「自分」が持つ力を目いっぱい表現せよ。
それで負けたら反省し、そこからまた、一歩、前に進めばいいではないか。
拠って立つ自らの、アイデンティティの確かさを手に入れる自己運動を簡単に放棄するな。
そう言いたいのだろう。
一切の欺瞞と虚飾に充ちた、奇麗事満載の「青春映画」のカテゴリーを突き抜けて、ここに、「全身リアル」な「青春映画」が生まれたのである。
あまりに面白く、完成度の高い作品だったので、DVDで繰り返し観たが、その構成力と演出力の秀逸さを確認させられるばかりだった。
驚きを隠せないほど素晴らしい映画だった。
(2013年5月)
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