<テーマに真摯に向き合う作り手の強い意志 ―― ラストシーンの決定力>
1 「障害者映画」を免罪符にした感傷的ヒューマニズムに流れる危うさを救った、ラストシーンの決定力
この映画ほど、ラストシーンが決定力を持つ映画も少ないだろう。
ラストシーンの素晴らしさが、この映画の完成度を決定的に高めたと言っていい。
と言うより、本作は、このようなラストシーンの提示なしに自己完結し得ない映画であると同時に、そこに至るまでの幾つかのシークエンスの凝縮が、そこに収斂されていると思えるからである。
重篤な脳の発達障害である「自閉症スペクトラム」(「広汎性発達障害」とも呼ぶ)という疾患を抱える兄を、笑みを結んで見送る弟。
実質的な主人公である、弟チャーリー・ハビットの笑みを結ぶ括りの意味の把握は、単に精神遅滞ではなく、脳の重篤な発達障害を持つ兄レイモンドの、通常の観念を無化し得る程に、様々な「異様」且つ、緊迫した振舞いに翻弄された挙句、このような軟着点を迎えるに至るラストシーンの正確な読解と心理学的了解点なくして、本作で丹念に積み上げてきた「自閉症スペクトラム」に関わる問題が内包する基幹メッセージを、観る者が、その根柢において受容することは殆ど困難であるからだ。
とかく、「純粋無垢」などという欺瞞的な言辞に収斂されやすい、「障害者映画」を免罪符にした感傷的ヒューマニズムに流れていくことで、全てを台無しにする危うさを根柢的に救ったのは、まさに、見事な構図を提示したラストシーンの決定力を有するが故である。
これほど素晴らしい映画の、素晴らしいラストシーンへの言及は後述するとして、ここでは、本作の梗概を書いていく。
2 「自閉症スペクトラム」という疾患を抱える兄との、艱難辛苦の旅程が開かれて
ロスで自動車ディーラーの仕事をするチャーリー・ハビットは、厳格な父とウマが合わず、父の愛車を勝手に運転した一件で、留置所に入れられ、父の引き取りが遅れたことで遂に関係の不和が炸裂し、そのまま家出して、以降、絶縁状態になっていた。
事業も順調にいかないチャーリー・ハビットは、週末旅行で恋人スザンナを随伴し、パーム・スプリングスへの浮かない旅に出た。
父の訃報を耳にしたのは、そのときだった。
夜景の美しいシンシナティの街(ウイキ)
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葬儀に出席するため、一路、シンシナティへと向かうチャーリーとスザンナ。
借金に追われる彼には、父親の遺産への淡い期待があったものの、予想通り裏切られる。
贈られたのは、家出の原因になった因縁の車と、庭のバラの木のみ。
憤懣やるかたないチャーリーは、その足で父の弁護士を訪ね、遺産の300万ドルの受取人の名を聞き出そうとするが、弁護士の拒絶に遭うのみ。
納得のいかないチャーリーは、今度はシンシナティ信託会社に赴き、そこで300万ドが信託預金とされ、その管財人が「ウオールブルックホーム」という施設にいるブルナー医師である事実を知るに及び、早速スザンナを連れてホームを訪ねた。
チャーリーが兄の存在を知らされたのは、誤魔化し切れないと判断したブルナー医師からの、直截な説明によってだった。
その兄が300万ドルの受取人である事実を知ったチャーリーは、そのブルナー医師から、兄レイモンドが「ウオールブルックホーム」で生活する自閉症者であることを知らされる。
「欠陥はあるが、特殊脳力には優れている。意思の疎通学習能力に障害があって、普通の理解と感情表現ができない。外界を怖れ、習慣や儀式で身を守ろうとする。行動は決まっている。睡眠、食事、トイレ、歩行、話し方。パターンが崩れるのを怖れる」
ブルナー医師(左)とチャーリー |
これが、ブルナー医師の説明の内実。
ブルナー医師の説明に、兄レイモンドが、街で見かける程度の知的障害者であるという印象から逸脱できないチャーリーは、後々、兄の障害の特殊性を目の当りにすることで、自らの認識の甘さを知らされるに至るが、ここでは、直後に出会った兄の振舞いにも、ただ単に「300万ドルの受取人である男」という把握で済ましていて、特段の感懐もなかった。
「ウオールブルックホーム」で出会った、300万ドルの受取人であるチャーリーの兄、レイモンド。
実は、チャーリーは、そのレイモンドと、先刻、偶然対面していたのである。
スザンナが待っているチャーリーの車に、勝手に乗り込んでいて、その車の名前ばかりか、彼の父の名前、住所まで克明に記憶していたことエピソードを知るに及んで、真実を隠し切れなくなったブルナー医師から、正直にチャーリーの兄、レイモンドの実在を教えられていたのだ。
「バーン(VERN=施設の職員の固有名詞)、この人たち、まだいるの?」
レイモンド |
これは、レイモンドの不安が表現された言葉。
無論、「この人たち」とは、チャーリーとスザンナのこと。
そんな兄レイモンドを、チャーリーは散歩を理由に連れ出し、その間の事情を知らないスザンナが待つ車に乗り込んで、そのまま、自宅があるロサンゼルスへ向かったのである。
ここから、ロードムービーが最も似合う国での、普通の範疇で収まり切れない艱難辛苦(かんなんしんく)の旅程が開かれていく。
艱難辛苦の旅程の内実は、「自閉症スペクトラム」という疾患を抱える兄レイモンドの、尋常では済まない行動傾向の厄介さによって埋められるのだ。
疾病の詳細については後述するが、尋常では済まない行動傾向を要約すれば、「反響言語」(オウム返しの発語)、「同一性の保持」(自分の習慣を変えられないこと)という自閉症特有の症状の発現であり、加えて、視線を合わせないこと、接触を極度に嫌う傾向が顕著で、更に、アプローチを間違えると、突如としてパニックを惹起させるのである。
スザンナを含めた三人は、ホテルに宿泊する。
さすがに、兄レイモンドの、「同一性の保持」という自閉症特有の症状の発現に悩まされるチャーリーにとって、言語的コミュニケーションどころか、非言語的コミュニケーションが通じない兄に対するアプローチは、常に命令口調になるのだ。
しかも遺産の公平な配分のために、チャーリーがブルナー医師の許可なく、「ウオールブルックホーム」から連れ出した事実を知るに至ったスザンナは、恋人との睦みの直後、チャーリーにすっかり愛想を尽かし、濡れた髪が乾かぬ状態で、一人で帰路に就いてしまったのである。
チャーリーの暴力的言動をメモ書きするレイモンド |
更に、そんな四面楚歌の孤立状態に陥ったチャーリーを絶望的な心境にさせたのは、兄レイモンドの、そこだけは決して変わり得ぬ、極端な自己防衛行動の裸形の様態を見せつけられたこと ―― それは、航空会社の事故記憶の確率の数字を羅列して、飛行機で一気にロスへ行く予定を立てていたチャーリーの甘い思惑を砕いた事態に集中される、一連の兄レイモンドの非適応の振舞いだった。
そこには、明瞭に、自分が拠って立つ日常性の安寧基盤の変容を怖れる、自閉症特有の症状の発現が露わにされているが、当然ながら、自閉症への認識が希薄な時代でのチャーリーの知的把握には限界があったと言える。
だからチャーリーは、兄レイモンドの極端な自己防衛行動の裸形の様態を前に、一人で苛立ち、そこで貯留されたストレスの処理を緩和させる術がなく、いよいよ攻撃的に尖り切っていくばかりだった。
それは、飛行機の利用を断念したと思ったら、今度は高速の事故記憶の確率の数字を羅列するレイモンドの頑なな意思を変えられず、結局、帰路の行程の計算の立たない田舎道を選択せざるを得なかった事態の予測困難性であると言っていい。
しかも、雨の日は外出しないのだ。
かくて、1週間に及ぶロードムービーが開かれるに至った。
チャーリーにとって、極めてストレスフルになるロードムービーの初発の展開で、早くも、兄レイモンドの「同一性の保持」の振舞いに悩まされる。
それは、自分が穿いているパンツが、Kマートのものではないことへの不満の表出であったが、いつまでもパンツに拘泥し続けるレイモンドに憤ったチャーリーは、遂に兄の「扱い」に諦念し、街の精神科に丸投げの気分を預けるに至る。
兄レイモンドとの言語的、且つ、非言語的コミュニケーションの成立がロックドインされて、途方に暮れるばかりの弟チャーリーは、もう自分の手に負えぬと考えたのだろう。
精神科で |
最寄りの街の精神科医に連れていったチャーリーは、間髪を容れず、4ケタ×4ケタを答えるレイモンドを目の当たりにして、その予想を超える能力に驚嘆する医師。
チャーリーもまた同様だった。
まさにこの時点で、専門医が「天才」と表現した構図の中に、なお自閉症への最低限の情報の共有が為されていない現実が露わにされていた。
本作の中で最も重要なシーンが開かれたのは、この直後だった。
稿を変えて、フォローしていきたい。
3 兄弟の「発見」と「復元」に関わる物語のトーンが変容していくとき
その夜、モーテルに泊まった二人。
いつまでも歯を磨いているレイモンドに、弟のチャーリーは尋ねた。
「今日、医者に聞かれて計算したろ?」
前述したように、これは最寄りの街の精神科医に連れていったときの出来事のこと。
「なぜ、できる?」
「見える」
「歯磨きを止めろ」
「見えた」
「人が聞いているんだ。止めろと言ったら、すぐ止めろ」
ここで、レイモンドは小さな笑みを洩らしながら、突然、奇妙なことを言い出した。
「おかしなレインマン。おかしな歯」
「何と?」
「昔、レインマンと言った」
「レインマン?俺が言った?」
「レインマン」
「レイがレインマン?」
「おかしなレインマン」
「レイがレインマン?」
同じ言葉を繰り返していたレイモンドは、ここで自分の荷物を取りに行って、古い一枚の写真をチャーリーに見せたのである。
そこには、幼い頃の兄弟が写っていたのだ。
既に酸化されていた古い写真を見て、驚くチャーリー。
本作で最も重要なシーンが、ここから開かれていく。
「誰が撮った?」
「パパ」
「あの家で?」
「ビーチクレスト通り10961番」
「いつ去った?」
「1965年1月21日」
「記憶が?」
「木曜日。雪が降って20センチ積もった」
「ママが死んで・・・」
「1965年1月5日に死んだ」
「覚えてるのか?」
「病気で死んだ」
「家を出たのか?あの家に僕もいた」
「窓で手を振ってた。“バイバイ レインマン”」
「あの歌を歌ってくれた?」
「そう」
「どんな歌だっけ?あの歌は・・・」
ここで歌い出すレイモンド。
あの娘は17歳
とびっきりイカしてる
彼女の眼差しは
誰よりも素敵
そこに、チャーリーも合わせていく。
他の娘と踊る気になれない
彼女の姿に見とれちゃうよ
映像で初めて見せる真剣な表情で、チャーリーは問いかける。
「僕は喜んだ?」
「ああ」
いつもの薄ら返事のようなレイモンドの反応である。
「ビートルズの他の曲も歌った?」
そう問いかけながら、チャーリーはバスタブの栓を開け、お湯を出した。
レイモンドが大声で叫び出し、パニックが起きたのは、このときだった。
「ダメだよ! いけない!とてもいけない!」
そう叫びながら、自分の頭を叩き続けるレイモンド。
「どうした!何がいけないんだ?」
「ベビーが火傷する」
「ベビーって俺のことか?」
「ベビーが火傷する」
「火傷してない。ほら、よく見ろ」
そう言って、レイモンドのパニックを止めようとするが、一旦、惹起された自閉症者のパニックが収まるのは容易ではない。
「熱いお湯でベビーが火傷する」
恐怖記憶として張り付いていた経験情報が、レイモンドの神経を異様に騒がせているのだ。
「火傷してないよ。大丈夫。心配ないよ」
静かに、宥めるように語りかけるチャーリーの柔和な表現によって、ようやく落ち着きを取り戻すレイモンド。
「弟に怪我をさせないように施設に入れられたのか」
レイモンドのパニックの意味を理解したチャーリーにとって、自らが発語して確認する、この文脈が内包する甚大な含みが放つ情報の決定力は、長きにわたって、彼の内側で黒々と燻(いぶ)されていた情念の曲折的なうねりを根柢から破砕し、浄化されていく者の、予想だにしない軟着点への革命的な心情変容を、噛み締めつつ受容していく行程を開くに足る何かであった。
「チャーリー・バビットに怪我させるな」
再び言語化する、父から言われた言葉に張り付くレイモンドの恐怖記憶は、バスタブの栓を開け、お湯を出す度にフラッシュバックし、狂おしく蘇ってくるのか。
そうではなく、それは、目前にいるチャーリー・バビットとの脈絡において現出した、恐るべき経験情報なのだろう。
弟である幼児期のチャーリーの健康を保証し、命を守っていくために、自閉症者の兄レイモンドを止む無く施設に預け入れた父。
しかし、一切が分明になって、革命的な心情変容を受容していくには未だ解けない謎がある。
では、なぜ父は、兄の存在を秘密にしたのか。
チャーリーにとって、それだけが解けない謎なのだ。
映像は、最後まで答えを出さない。
或いは、チャーリーは、寡黙な父が、敢えてその事情を自分に話せば、後々、「兄を施設に追いやった弟」という罪責感を負わせ続けることを配慮し、煩悶の末に、レイモンドを「ウオールブルックホーム」に預け入れたと考えたのだろうか。
少なくとも、この由々しきエピソードが、鋭角的な敵愾心すら抱懐していた、厳格で皮肉屋の父に対する怨念や憤怒の感情が、一気に氷解していく決定的な契機になったことだけは確かである。
いずれにせよ、この由々しきエピソードは、チャーリーがレイモンドに対する辟易感を捨て、愛着の感情を抱懐するに至ることで、言葉は悪いが、言語的且つ、非言語的コミュニケーションにおいて、殆どロックド・イン状況を継続させてきた、兄弟の「発見」と「復元」に関わる物語のトーンが、明らかに変容していく契機となったのである。
何よりそれは、長らく空想の親友だと素朴に信じていた、「レインマン」の存在の実在性を感受した決定的なエピソードであった。
加えて、最後まで物語に登場しない、兄弟の父の存在感の大きさが、非在であるが故に、観る者に深く印象付けられるパーソナリティとして捕捉されていくのである。
4 レイモンドの「ラスベガス経験」
その後の物語の展開で重要なシークエンスは、レイモンドの「ラスベガス経験」である。
この「ラスベガス経験」が包摂する意味は、単に、兄レイモンドの「カレンダー計算」(数を視覚的に捉えることで、数字の配列を容易に記憶)の能力を駆使して、会社の倒産によって膨大な債務を抱えるに至るチャーリーの狡猾な企み(犯罪にあらず)の成就を描くことが目的ではなく、普通の範疇で収まり切れない艱難辛苦の旅程の終焉のスポットで、脳の重篤な発達障害の故に、その生活のフィールドが極端に限定されたレイモンドが、生まれて初めて、「全身世俗との交わり」を経験することで、しばしば心中から愉悦感を表現し得る、目立たないが、しかし決して「無駄な時間」の経由ではない小さな至福の疾駆を、一見、「映画の嘘」に充ちた遊びの映像のうちに刻んだという、その一点に収斂される何かであったということ ―― 恐らく、それ以外ではないだろう。
スザンナとレイモンド |
「全身世俗との交わり」 ―― それは、異性との交叉であり、ダンスのマスターによる享受であり、ギャンブルの意味を理解できずとも、そこに集う者たちの、真剣な「大人の遊び」の時間に身を預けたときの軽走感覚であり、そして何より、限定スポットでハンドルを握ることが許容されたレイモンドの、その愉悦感を体現するドライブの弾け方であった。
それは同時に、「成人男性」が、ごく普通に経験し得る時間の、レイモンド基準のイニシエーションであったとも言える。
だから、この「ラスベガス経験」は、レイモンドの「思い出作り」という範疇を、ほんの少し突き抜けた「全身世俗との交わり」の、レイモンド基準のイニシエーションなのである。
更に重要なのは、この「ラスベガス経験」を経由することで、チャーリーとの親密感が、レイモンドの内側に分娩されたこと。
これが最も大きかった。
ここでは簡単に、ラスベガスのカジノでの「成功体験」に触れておく。
まさに、レイモンドの「カレンダー計算」の抜きん出た能力が全開されたからである。
レイモンドの「カレンダー計算」の抜きん出た能力が発現されたのは、カジノ側にモニターチェックされても全く気付かれることがない(カウンターの違法性は裁判で認知されず)、ブラックジャック(21)のカウンターの、その精密機械の如き記憶力の圧倒的な凄さの場面。
1ゲームごとにカードが廃棄されていくブラックジャックの特性を利用し、既に使用されたカードの種類を記憶しておけば、残りのカードの枚数と、その中に含まれる絵札を特定する確率が高くなり、ゲーム支配力が増幅されるのである。
まさに、「カレンダー計算」の抜きん出た能力を有するレイモンドにとって、ブラックジャックのカウンティング能力全開のゲームを支配するのはお手のものだったというオチがつくが、そんな「大人の遊戯」を含めて、彼の「ラスベガス経験」は縦横に弾けていくのだった。
加えて、カジノのバーで出会った女性を気に入ったレイモンドは、彼女とデートの約束をする。
そんなレイモンドに、デートの約束が反故になることが分かっていても、ダンスを教えるチャーリーには、体を触れ合うことを極端に嫌うレイモンドが、それを受容する行為に、一層の親密感を感受し、今や、「兄弟」という特別な意識を持ち得ない兄を包括的に受け入れる心の構えが形成されていく。
静かにステップを合わせ、要領よく、ダンスの基本をマスターするレイモンド。
押し並べて、自閉症者には、個人差がありながらも、こういう単純な反復運動の学習能力の高さについては否定し難いだろう。
兄弟が踊る。
睦み合うように踊る。
更に、チャーリーとの関係を復元させたスザンナが、エレベーター内でダンスをしながら、レイモンドにキスし、愛情交感の「ルール」を柔和に表現する。
それは、世俗世界で言う〈性〉の濃密性と乖離していても、その類の身体接触を拒絶しない自閉症者が、彼なりに心踊る未知のゾーンへの勇気ある侵入を果たしたと言えるのだろう。
ラスベガスのカジノ(ウイキ) |
そして、怪しいと睨まれながらも、決定的な証拠を提示できないカジノサイドによって、一人勝ちのチャーリーたちがラスベガスの街から追放されるに至り、レイモンドの「ラスベガス経験」は終焉を迎えるに至る。
5 「メインマン」という特別な価値を有する存在に収斂される決定的な構図
カジノで儲けた高級ホテルを後にして、スザンナを家まで送ったチャーリーは、レイモンドをロスの自宅に連れていく。
既に、「ウオールブルックホーム」のブルナー医師は、ロスで二人の帰還を待っていた。
ブルナー医師は、チャーリーに25万ドルを提供することで、訴訟を回避し、事態の解決を図ろうとするが、今や、金銭に反応する術もなく、チャーリーは、「もっと早く兄に出会いたかったよ」と吐露し、自分の思いを率直に伝えるのだ。
まもなく、訴訟を回避できない状況下で、マーストンという名の精神科医のオフィスで、レイモンドの将来の生活に関わる審問会(民事訴訟の前に、当事者に陳述の機会を与える手続き)が開かれる。
「率直に話し合おう。どう話しても、結果は見えてる・・・」
マーストン博士(中央) |
裁判所に勧告する役割を負うマーストン博士の言葉である。
「僕の負け?」とチャーリー。
「私は判事じゃない。裁判所に勧告する医師だ。ブルナー先生は立派な精神科医で、レイの詳細な記録を保存。あの施設も申し分ない」
レイモンドの心の負担を考慮して、何とか訴訟を回避したいと願うマーストン博士のアドバイスには、ニュートラルな経験知が含まれていて特段の尖りがないが、兄レイモンドとの共同生活しか頭にないチャーリーには、眼の前にいる二人の精神科医の存在が、自分の近未来のイメージに立ち塞がる障壁にしか見えないのだろう。
「結論が出てるなら法廷で。施設での20年より、この一週間のほうが進歩した」
明らかに、ブルナー医師への異議申し立てである。
「喧嘩腰になるな」とマーストン博士。
マーストン博士は、レイモンドに眼を転じて、「この一週間」のことを聞いていく。
「何をした?」
「数えた」とレイモンド。
「カードを?」
「ラスベガスで」
「ラスベガスへ?」
「300ドル負けた。20に欠けて3000ドル負けた」
このレイモンドの言葉は、ルーレットで負けたことを指している。
「カレンダー計算」が通用しないルーレット |
ルーレットには、レイモンドの特異な能力の「カレンダー計算」が通用しないからである。
その辺りを、きっちり描く作り手の、自閉症、とりわけ、出現率の稀有な「サヴァン症候群」の特質を、観る者に理解してもらおうとする真摯さが伝わってくる。
マーストン博士の質問が続く。
「他には?」
「チャーリーと踊った」とレイモンド。
「弟と?」
「教えたんです」とチャーリー。
「スザンナと踊ってキス」
スザンナとレイモンド |
このレイモンドの言葉を聞いて、初めて知った兄の、「ラスベガス経験」の持つ意味の大きさに驚くチャーリー。
「良かったか?」
「さあ…」
「気分は?」
「濡れた」
「冒険だな」
「さあ…」
「良い旅を?」
「運転できる」
「感情の爆発は?」
これは、チャーリーに向けられた発問。
「何度か・・・今朝も・・・他愛ない話で。火災探知機が鳴って、レイが驚いて・・・」
チャーリーの家で、レイモンドがオーブンから火を出した際に、火災報知器が鳴ってパニックを起こした一件のことだ。
「責める気はない。君を責めていない。弁解するな」
マーストン博士の質問には、一貫して事実のみを確認し、判断しようとする厳粛な態度が垣間見られ、この国の民主主義の根付きの深さが感じられる。
しかしチャーリーには、粗探しの詰問にしか受け止められないのだ。
「両親とは縁が薄く、やっと出会えた兄さえ諦めろと?」
「誰がそんなことを?」
「じゃ、なぜ妨害する?僕らは家族なのに」
「だが、家族関係を結べない兄だ。専門医の助けが必要だ」
ブルナー医師(左) |
ここで、ブルナー医師がプレッシャーをかける。
少なくとも、チャーリーには、そう聞こえてしまうのである。
チャーリーに対する、マーストン博士の質問が、なお続く。
「ブルナー先生のファイルを読むと、施設から兄を連れ出し、150万ドル要求したと」
「父が死んで混乱してた」
「先週は混乱。今週は急に兄弟愛に目覚め、一生世話をすると?」
「ええ」
「ほとんど誘拐だ」
「言い過ぎです。兄を誘拐だなんて」
「理解し合えたと?」
「ええ、確かに・・・屁理屈だと思うでしょうが、最初は・・・ただの兄に過ぎなかった。名ばかりの。でも、・・・今朝、ホットケーキを・・・」
「メープルシロップがテーブルに出てた。いたずらした」
ここで、レイモンドが口を挟んだ。
「やっと、心が通じた」
「喜ばしいことだが、話し合いの目的はレイモンドの幸せだ。社会生活できるか。本人の選択にかかってる」
「賛成です」とチャーリー。
「彼は判断できない」とブルナー医師。
「できる」とチャーリー。
「無理だ」とブルナー医師。
「その能力がある」とチャーリー。
水掛け論になったところで、マーストン博士が本質的なことを切り出した。
「本人に聞いてみよう。レイモンド答えて。弟と暮すか?彼とロスで暮らすか?」
この切り出しに、チャーリーも異存がない。
「レイ、先生の質問をよく聞いて」とチャーリー。
「ああ・・・」とレイモンド。
「一緒にいたいか?」
「ああ。チャーリーと暮す」
「一緒に?」
「ああ」
「別の質問をする。施設に帰る?」
「ああ」
「2つの違いが分るか?」
「ああ」
「チャーリーとロスで暮らしたいか?」
「ああ」
「それとも施設へ?」
「ああ」
「2つは別のことだ。1つじゃない。選ぶんだ」
「施設に戻って、チャーリーと暮す」
ここまで話を聞いていて、チャーリーは全てを理解できた。
深い憐憫の情を感じるチャーリー |
兄レイモンドに対して二者択一を強引に迫っても、その本当の意味が理解できないということを。
兄レイモンドを追い詰める行為に深い憐憫の情を感じたチャーリーは、マーストン博士の質問を中断させた。
「もういい、止めてくれ!兄を傷つけないでくれ!レイ、もう終わりだ」
「ああ、チャーリーと暮す。施設で・・・」とレイモンド。
「もういい」
ここで、マーストン博士は、ブルナー医師と相談するために室外に出て行った。
残された二人。
チャーリーはレイモンドの傍らに移動し、寄り添っている。
「大丈夫か?」
「ああ」
「質問は嫌だろう?」
「嫌だ。分らない」
「もうさせないよ。俺が守ってやる」
「メインマン(親友)。僕の親友」
レイモンドは、そう言ったのだ。
レイモンドには、「兄弟」という概念を表面的に理解できても、それがメインマン(親友)という概念のうちに収斂されてしまう事実を。
「いいか、今の内に話しておく。先生はレイが好きだから、施設に連れて帰るはずだ。心が通じた話は本当だ。分って欲しい。兄弟で嬉しいよ」
「運転できる」
「そうだな」
レイモンドが、チャーリーの額に自分の額を合わせたのは、このときだった。
この決定的な構図によって、観る者は一切を了解し得るであろう。
レイモンドにとって、「兄弟」という概念など末梢的なものであって、ただ、自分と少しでも心が通じる対象人格こそ求めて止まない存在であることを。
その対象人格は、「メインマン(親友)」という特別な価値を有する存在なのだ。
チャーリーは、このことの意味を本質的に理解できたのである。
これが、決定力を持つ映画のラストシーンの最も重要な伏線になった。
そして、このカットの後に、感銘深いカットが待っていた。
「兄弟で幸せだよ」
無言のカットが続いた後での、チャーリーの言葉である。
この言葉を受けて、レイモンドが反応した。
「ああ・・・CHARLIE・・・CHARLIE・・・親友・・・」
それ以上ないレイモンドの表現は、「ラスベガス経験」に象徴されるチャーリーとの一週間の旅程が分娩した、固有の対象人格への愛着の深さを、言わずもがなに物語るものであった。
6 テーマに真摯に向き合う作り手の強い意志 ―― ラストシーンの決定力
決定力を持つ映画のラストシーン。
列車に乗るレイモンドを見送るチャーリー。
「2週間後に会いに行くよ。何日後か分るか?」とチャーリー。
「14日後、水曜だ」とレイモンド。
「時間は?」
「336時間」
「お見事」
「分だと2万160分。秒だと120万9600秒」
いつものように、自分の得意分野を聞かれたことだけを答えて、列車の中まで乗り込んで行く。
ポータブルテレビを抱えたレイモンドには、まもなく始まる、お気に入りのテレビ番組だけが気になってならないようだ。
「レイ!レイ!」
既に自分の座席に座っているだろう兄を、弟はもう一度呼びとめた。
「ああ…」
弟の前に、ポータブルテレビを抱えたレイモンドが現れた。
レイモンドの変わらぬ表情を見て、安堵の笑みを浮かべるチャーリー。
「すぐ会える」
ただ、この言葉だけを伝えたかったと言うより、レイモンドの変わらぬ表情を視認することで、1週間に及ぶ二人の兄弟の紆余曲折の、短いが、しかしそこに詰まった人生の重量感において、殆ど革命的な出会いと別れを噛み締めているチャーリーの強い思い入れが素直に表現されていた。
「悪いとき1枚。良いとき2枚」
それがレイモンドの反応。
彼には、ラスベガスでの経験が心の奥深くに印象付けられているようだ。
「2枚賭けろ」
チャーリーのジョークに、「ああ…」と答えた後、「3分で番組だ」とレイモンド。
「間にあうよ」
笑みを絶やさない弟に、いつものように、「ああ…」と答える兄。
その一言を残して、消えていった兄に小さく頷いて、笑みを送る弟。
弟は、兄をしっかりと見送りたかったのだ。
それは、単なる社交辞令を超えた、兄を深く思う弟の、それ以上ない目一杯の身体表現だった。
「メインマン(親友)」との別れの挨拶を終えた兄は、自分の座席に戻り、テレビ画面に釘付けになっていた。
それを車両から離れて、再び、テレビ画面に釘付けになっている兄を見送り続ける弟。
兄を乗せた列車が、駅から離れていく。
最後まで、列車を見つめ続ける弟。
弟は全て分っているのだ。
自分と施設で一緒に暮らしたいと漏らしたレイモンドにとって、本当の幸福とは、仕事をしながらロスの街で窮屈に暮す生活を強いるよりも、長く馴れ親しんだ施設で、「同一性の保持」を保証されながら、不必要なパニックを起こすことなく、父の遺産によって一生を過ごす、レイモンドなりに秩序だった生活の日常性を、遥かロスの街から見守り続けることこそ、唯一の最善の選択肢であることを。
そう確信したからこそ、この日、弟は兄をしっかりと見送ったのである。
兄に会いたければ、自分が訪ねて行けばいいだけのことなのだ。
そこまで理解が及ぶ弟の心理の変容には、唯一の家族であるレイモンドと共有した大切な記憶を捨てるまいとする強い思いが仮託されているだろう。
このような括りの中で閉じていった映像の決定力は、テレビ画面に釘付けになっている兄との心理的距離から受ける寂しさの感情を、そこだけは「無視された者」の感情的乖離を強調する構図とは本質的に違っていて、何より、重篤な脳障害である兄の疾病の現実の有りようをきちんと描き切っていたからこそ、映像の完成度の高さを保証したと言えるのである。
そのように読解しない限り、恐らく、「予定調和の大袈裟な感動譚」という絵柄を挿入することで、観る者にカタルシスを保証するという安直な構成を拒絶し、最後まで、そこで描かれた事態に対して真摯に向き合う作り手の強い意志を理解することは叶わないだろう。
ラストシークエンスの中の肝とも言える、「兄弟」と「メインマン=親友」の区別がつかない自閉症者が、「メインマン=親友」と吐露し、チャーリーに額を合わせた行為の持つ意味は、レイモンドにとって、それ以外にない感情表現である現実の認知を経由したからこそ、決定的に重要なのである。
そのレイモンドに、二者択一を迫ることの罪深さを感受したチャーリーが、自分の我を通すことを断念したという最も重要なシーンを想起すれば、本作が、一貫して抑制的に描き切り、最後まで感傷的ヒューマニズムに流さなかった映画の素晴らしさが検証されたと言っていい。
そこで映像提示されたメッセージを、今、私は率直に受容したいと思っている。
それは、「メインマン=親友」と吐露して、チャーリーに額を合わせた行為があればこそ、遠くにいても「兄を守る」と決意するチャーリーの思いの深さを、淡々と、且つ、精緻に描き切った映像の素晴らしさであった。
最後に一言。
ダスティン・ホフマン演じるレイモンドの、抑制的でありながらも、時としてパニックを起こす難しい自閉症者を、抜きん出た表現力で表現した俳優魂を絶賛するに吝かではないが、同時に、兄レイモンドの、基本的に抑制系の演技の「間」を充分に補填したばかりか、心情変容を経由するチャーリーを演じ切ったトム・クルーズの表現力の高さに驚かされたのも事実。
因みに、私は単に「外的」なものでしかない「演技力」と、極めて「内的」な含みを有する「表現力」を識別している。
「演技力」の優れた俳優が、必ずしも、「表現力」においても抜きん出ているとは言えないからである。
「演技力」の優れた俳優が多い日本の俳優が、「表現力」の壁を越えられない現象を想起するとき、本作でのダスティン・ホフマンとトム・クルーズの表現力の高さは眩いほどだった。
バリー・レヴィンソン監督(ウイキ) |
その意味で、率直な感懐として、素晴らしい俳優が素晴らしい表現力をフィルムに鏤刻(るこく)することで達成した、素晴らしく完成度の高い映像を構築したことへの賛辞を、惜しみなく贈りたい思いで一杯であると書き添えておきたい。
7 自閉症は脳の重篤な発達障害である
自閉症は脳の重篤な発達障害である。
普遍的ではないが、精神遅滞の頻度は相当程度高い。
まず、この把握が前提になる。
然るに、相当に幅広い個人差を有している現実も無視できない。
何より不幸なのは、脳の発達異常であることによって、根本的治癒が不可能であるという冷厳な現実を無視したら、今もなお数多いる、「自閉症者は天才を生む」という、真に不幸なる「負のラベリング」から、いつまでも解放されず、近年、話題になることが多い「アスペルガー症候群」に対するロジカルエラー(論理的過誤)の氾濫である。
マーク・ザッカーバーグ |
脳の仕組みが健常者とは明瞭に異なっている事実誤認が容易に修正されず、例えば、「アスペルガー症候群のボーダーライン」(デビッド・フィンチャー監督の言葉)と言われるマーク・ザッカーバーグ(FacebookのCEO)のように、些か言語的コミュニケーションを苦手にしているように思われながらも、ハーバード大学のコンピューターを簡単にハッキングすることで、学内の女子の顔の格付けサイトを立ち上げる発想を具現する能力から開かれたプログラミング能力によって、「激情的な習得欲求」⇒「一点集中力的な『創造力』の開発欲求」という稀有な能力に変換させていく振れ方は、殆ど「天才」の範疇であると言っていい。
未だに、「高機能自閉症」としての「アスペルガー症候群」という把握が、研究者間で共有されていないにも拘らず、「自閉症」=「アスペルガー症候群」=「天才」という愚昧な感覚で氾濫する現実は、アルゴリズムを蹴飛ばし、簡便な判断によって直感的に判断を下す「ヒューリスティック処理」の陥穽に流れやすいから厄介なのである。
加えて、「サリーとアンのテスト」(自閉症者は人の心を理解できないことを示すテスト) で有名な「心の理論」(相手の心中を推察する能力)が、ミラーニューロン(他者の喜怒哀楽を理解する能力)との関連で語られることが多いが、それもまた、どこまでも発展途上の仮説の範疇を突き抜けられていないばかりか、「心の理論」に関わる研究自体が、その概念の包括力において困難な、自閉症の様々な行為を科学的に説明し得ない現実があるということ ―― これを認知すべきなのだ。
キム・ピーク |
以上の文脈を前提にして、本作の自閉症者・レイモンドのケースに言及すれば、まず、そのモデルとして有名なキム・ピークが脳障害(脳の器質障害)に起因する発達障害という由々しきハンデを負い、肉親(彼の場合は、早くして生母を亡くしたことによって、父のみに依存する困難な状態が余儀なくされた)の介護の限界から、ブルナー医師のような理解者が存在する、専門施設における他者の介護を必要としながらも、相当量の読書を難なくこなし、そこに記述されている内容を全て記憶するという稀有な能力を発揮したばかりか、「カレンダー計算」の能力を有するところから、「サヴァン症候群」と看做(みな)して間違いないと思われる。
山下清 |
然るに、特定の分野に限ってのみ信じ難い能力を発揮する、原因不明の「サヴァン症候群」を自閉症障害者の範疇に入れるとしても、式場隆三郎(国府台病院を創設した精神科医
)によって「発見」され、注目された、我が国の山下清(記憶を基に完璧な貼絵アートに再現)の例を含めて、その出現率は稀有であるが故に、決して通常の自閉症障害者を代表する者ではないということ ―― これもまた認知すべきなのである。
だから、「広汎性発達障害」(「自閉症スペクトラム」)と括られるケースが多いように、「アスペルガー症候群」や「サヴァン症候群」と必ずしも地続きになり得ない、知的障害を伴い、IQが70以下であるが故に「低機能自閉症」とも呼ばれている「カナー症候群」は、学習障害を併発する確率が高く、その出現率も少なくない。
同様に、先述したように、出現率が比較的に高い「アスペルガー症候群」と自閉症障害者の関連も特定できない現実を無視できないのである。(注)
私塾時代に、私自身が経験した「広汎性発達障害」の児童は、「カナー症候群」の範疇に入ると思われるケースだったので、学習障害の併発によって、常に苛立っているところがあり、「反響言語」(オウム返しの発語)、「フラッピング」(手を羽ばたかせるような仕草)や、「同一性の保持」という自閉症特有の症状があり、視線を合わせないこと、接触を極度に嫌う傾向が顕著で、更に、アプローチを間違えると、突然パニックが起こる現象に対して、正直、緊張の連続だったと回顧している次第である。
これらの症状については、本作で丹念に描かれていて、自閉症に取り組む作り手の姿勢の真摯さと誠実さに、心打たれるものが多かったという感懐を言い添えておきたい。
(注)ここに、アスペルガー症候群と認定し、それを自閉症と判断したうえで、アスペルガー症候群の「患者」(男性被告)が起こした殺人事件で、求刑を上回る懲役20年を言い渡した大阪地裁判決に抗議した日本自閉症協会など3団体に関する二つの記事を、一例に上げておく。
「発達障害と認定した男性被告に対し、求刑を上回る懲役20年を言い渡した大阪地裁判決について、日本自閉症協会など3団体は8日、『障害への無理解と偏見があり、差別的な判決だ』などとする声明を、それぞれ発表した。 3団体はほかに、患者や支援者でつくる日本発達障害ネットワークと、日本児童青年精神医学会。 判決は、殺人罪に問われた被告を発達障害の一種、アスペルガー症候群と認定。被告が十分に反省していないことや障害に対応できる受け皿がないことなどを理由に『許される限り長期間刑務所に収容することが社会秩序の維持につながる』などと判断していた」(朝日新聞デジタル・2012年8月8日)
「波紋を呼んだ判決は7月30日、大阪地裁で言い渡された。大阪市平野区で昨年7月、姉=当時(46)=を殺害したとして、殺人罪に問われた無職の男(42)に対する裁判員裁判だ。河原俊也裁判長は、犯行の背景にアスペルガー症候群の影響があったことを認定。その上で『家族が同居を望んでおらず、障害に対応できる受け皿が社会にない。再犯の恐れが強く心配される』として、検察側の求刑を4年上回る懲役20年を言い渡した。 この量刑は当然、一般国民から選ばれた裁判員6人と法律のプロである裁判官3人が、評議で十分に話し合って決めたものだ。判決は『計画的で執拗(しつよう)かつ残酷な犯行。アスペルガー症候群の影響を量刑上大きく考慮すべきではない』と指摘。男に反省がみられない点も踏まえ、『十分な反省がないまま社会に復帰すれば同様の犯行に及ぶ心配がある』と述べ、殺人罪で有期刑の上限となる懲役20年が相当とした。事件の内容や犯行態様、結果の重大性、反省の度合い、更生の見込みなどを検討しており、量刑を導き出す手法として通常のやり方から大きく逸脱したものではない」(産経新聞
8月12日)
(2012月9月)
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