1 ネガティブに暴れてしまう「語られない父」への幻想
絶対に知られたくない秘密を持つ母が、そこだけは特段に武装することで繋いできた娘との、相応の融和性に満ちた母子関係の中で、いつしか、母の武装性それ自身の発露への違和感を感受するに足る感性を身に付けてきた娘の、その思春期自我を狙い打ちし、骨肉相食(は)むかのように襲いかかってきた、アイデンティティに関わる由々しき初発の危機。
それが、自らの自我のルーツに関わることだけに、娘が感受した得体の知れない感情は、思春期の快走を許容しないほどに深甚な何かだった。
「パパはシャヒード(殉教者)よ」
サッカーのゲームに興じる男子と混じって、件の少女が、一人の男子と派手な喧嘩をしたときに、その喧嘩を止めに入った教師に放った言葉である。
サラの担任教師が、彼女に両親を呼ぶことを命じたからである。
シャヒード。
それは、ボスニア紛争(1992年から1995年まで続いたボスニア・ヘルツェゴビナ紛争)で、セルビア軍に制圧された際に戦死したボシュニャク人(ムスリム)らのサラエボ市民のこと。(画像は、砲爆により火災を起こしたサラエボのビル・ウイキ)
この特別な響きを内包する言葉が、母から教えられた、亡き父に関する情報の全てである。
自分の父は、一体、何者だったのか。
「パパに似ている点は?」
「・・・髪の毛よ」と苦しい言い訳。
なぜ、母はそれについて詳細に語ってくれないのか。
そんな娘が、母に懇願する。
「ママは結婚しないで。約束して」
「いい加減にしなさい!」
「私を捨てるのね」
「何があっても捨てないわ!絶対に!」
娘を抱擁する母。
12歳(ヤスミラ・ジュバニッチ監督は、インタビューで13歳と説明)である。
母の名はエスマ。
このときのサラの情動を支配していたのは、両親の離婚が子供に与えるストレッサーと同質の感情であると言っていい。
ここで言うストレッサーとは、既に父を喪った子が、母まで失う事態への恐れである。
要するに、「見捨てられ不安」である。
思春期自我にある難しい年頃の子供にとって、「語られない父」への幻想だけがネガティブに暴れてしまって、どうしても、拠って立つ自我の安寧の基盤を埋めるに足る決定的な何か、絶対的で、包括的な愛情という何かへ渇望が煩く騒いで止まないなのだ。
2 一触即発の危機を顕在化しつつあった母子関係の濁りの現実
なぜ、母は父親の戦死証明書を出さないのか?
亡き父がシャヒードであるなら、戦死証明書を出せば、修学旅行の費用が免除されるのである。
死体が未発見だから戦死証明書を出せない。
この苦しい言い訳が見透かされそうになっても、何とか、娘のサラを修学旅行に行かせてあげたい。
母エスマの強い思いが推進力になって、彼女は望みもしない世俗の異臭極まる世界の渦中に、その身を預け入れていった。
ナイトクラブでのウェイトレスの仕事である。
一切は、娘を修学旅行に行かせるためだった。
それでも、金が足りない。
前借りもままならず、知人からの借金も覚束なかった。
必死の努力の結果、ようやく修学旅行費用の工面の目処が立って、娘の危惧を払拭したと思い込んだ。
しかし、娘のサラが苛立っていたのは、もっと根源的な問題だった。
母が言うように、本当に、父親はシャヒードだったのか。
シャヒードであるなら、修学旅行費用は免除されるではないか。
「なぜ、シャヒードの子が旅行代を払うの?なぜ、名簿(戦死者リスト)になかったわ」
死体が未発見だから戦死証明書を出せないと言うときの、母エスマの言葉に濁りを感受させる感性を身に付けてきたサラにとって、意地悪な級友の、こんな嘲罵(ちょうば)を浴びせられても、それを否定し切れない思いが塒(とぐろ)巻いているから、却って、中枢を抉(えぐ)り出されるときの激しい情動反応を露わにしてしまうのである。
「パパはチェトニク(注1)に殺されたシャヒードよ!塹壕から逃げるのを拒否したからよ!」
トイレの中で、意地悪な同性の胸倉を掴んで叫ぶサラだからこそ、男子に交じってサッカーに興じ、それを詰(なじ)る男子と派手な喧嘩まで辞さない気丈さを身体化するのだろう。
そんな気丈なサラが、唯一、気の許せるパートナー ―― それは、そのサッカーのゲームで派手な喧嘩をした、例の男子だった。
少年の名はサミル。
サミルもまた、ボスニア紛争で父親を亡くたシャヒードの子だった。
二人の心が最近接していく流れは、運命の悪戯という安直な範疇を超えていたからこそ、より強く求め合うに足る異性愛の萌芽をも分娩したとも言える。
また、自我のルーツ求めるサラの思いの強さが、その思いに反応できない母エスマとの直接対決を必至にしていく、母子関係の宿命を免れ得ないものにしたのだろう。
今や、それだけが母子関係の障壁と化していく濁りを、払拭する唯一の手立てのように見えた。
まして、「見捨てられ不安」を内深く抱えているサラにとって、母の愛人と思しき男の存在を窓越しから視認する現実に立ち合ってしまえば、チェトニクに殺されたシャヒードであるはずの幻想の父のイメージが、少なくとも、母の中で自然裡に自壊していく不安を抱懐したとしても不思議ではなかったに違いない。
まさに、この母子関係の現実の様態は、一触即発の危機を顕在化しつつあったのである。
(注1)チェトニクとは、第二次世界大戦下のユーゴスラビアにおける対独レジスタンス組織の名称のことだが、ボスニア紛争時には、セルビア民族主義を自称したセルビア兵の総称として使用されていた。
3 感覚鈍磨と回避反応にすら潜り込めない自己防衛の厳しさが炸裂したとき
炸裂させた主体は娘であったが、それ以上に懊悩を深めた母の自我の、深々と負ったトラウマの圧倒的な負荷が、その空気の中で呻き、叫び続けるのである。
シャヒードとしての父親の形見であった、サミルから預った拳銃を構えて、母を詰問するサラの暴走が開かれたのだ。
「どこで殺されたの?」と娘。
「銃を渡して」と母。
異常な光景が、かつては平穏だったはずの睦みのスポットの只中で、一方の情動が剥き出しにされ、露わになっているのだ。
「パパが死んだ場所は?」と娘。
「戦場よ」と母。
「戦場?」
「最前線よ」
「場所は?」
畳み掛ける娘の問いに、沈黙するばかりの母。
「本当のこと言ってよ?私に教えてよ!」
激昂する娘。
「知りたいか!そんなに知りたいか!」
ここで遂に抑制系が弾けた母は、内深くに封印してきた忌まわしき記憶の束を解き放ち、それが激しい情動と化して、娘に向かって炸裂させるのだ。
馬乗りになって、娘を叩き続ける母の身体表現は、まさに、自分が封印させてきたものを反転させる行為として、過剰にアクティング・アウト(封印した記憶が身体表現されること)するような突沸(とっぷつ)だった。
「だったら、本当のことを教えてやる!お前は、チェトニク兵士との間に生まれた子だ。収容キャンプで犯されて妊娠したのさ!セルビア兵士の子供だ!お前は敵の子供なんだよ!」
凄惨な物語のピークアウトに待っていたのは、絶対に知られたくない秘密を持つ母が、そこだけは特段に武装することで繋いできた娘への、激しい情動を推進力にした「告白」だった。
母と娘の直接対決において、初めに炸裂したのは娘だったが、今は、本当に炸裂したい感情を飽和点ギリギリの辺りまで、必要以上に貯留してきた者の突沸が、完全に〈状況〉を支配しているのだ。
考えてもみよう。
セラピー効果による多くの女性の微睡(まどろ)みが映し出されるオープニングシーンで判然とするが、「集団セラピー」という名の「精神浄化施設」の場を必要とする魂と切れない構図にシンボライズされているように、明らかに、PTSDに搦(から)め捕られていてもなお、それでも身過ぎ世過ぎを繋いでいくために、あろうことか、PTSDの原因子であったセルビア人が経営するナイトクラブ働かなければならないのである。
傲岸不遜な態度全開の件の経営者と親しげに話す男を視認して、慌ててロッカールームに駆け込み、安定剤を服用する描写が示すのは、或いは、エスマが視認した男が、自分を犯したチェトニク兵士たちの一人だったのか。
そうでなくとも、罪深いチェトニク兵士らを連想させる相貌性を有していたのかも知れない。
それは、通いのバスの中で、男の体臭を嗅ぐ度に降車せざるを得なかった行為を想起するだけで充分だろう。
まして、男の体臭で占有された風俗の中枢で、エスマは、連日連夜、最も回避したい男の体臭を嗅ぐという精神的拷問を受け続けているのである。
だからエスマには、ボスニア紛争を形式的に終焉させた1995年の「デイトン合意」以降、10余年という歳月が流れても、紛争が残したPTSDという深甚な心的外傷が今なお癒えていないどころか、日々に浴びる精神的拷問の累加によって、自死に至る危機と最近接していたとも考えられるのだ。
私たちは、PTSDの破壊力を決して粗略に扱ってはならない。
人間は、何某かの深刻な心的外傷(トラウマ)を経験すると、自我による人格統一が困難になりやすく、しばしば自己防衛のために、外傷の記憶を封印する手段として様々な心的機制を図っていく。
有名な「DSM-Ⅳ」(「精神障害の診断と統計の手引き・第4版」)の解説書によると、例えば、外傷に対して「あのときは何も感じられなかった」と体験者自身が後に語ることが多い「感覚鈍磨」の反応を示したり、もっと積極的に、外傷を封印する「回避反応」に逃げ込んだりするというケースがそれだ。
また、心的外傷の鮮明な再体験をすることで、自我を直撃する場合もある。
これが、よく言われる「フラッ シュバック」である。
それは極めて強い感情の襲来で、自我の抑制力が瞬間的に劣化した状態であると言っていい。
ここで、エスマのケースを考えてみよう。
「回避反応」に逃げ込めない自我が、「感覚鈍磨」の反応を示す余裕すら付与されていないのである。
「感覚鈍磨」と「回避反応」にすら潜り込めない、一縷(いちる)の自己防衛の手立てを持ち得ない苛酷さ。
常識的に考えてみれば、こんな危うい心的状態が無難に延長される訳がないのだ。
従って、エスマにとって、自分を理不尽に難詰(なんきつ)する娘に向かって炸裂させた行為こそ、いつの日か、それを回避し得なかった「フラッ シュバック」の、アクティング・アウトするような突沸だった。
馬乗りになって、娘を叩き続ける母の身体表現こそが、外傷の鮮明な再体験をすることで、自我を直撃する「フラッ シュバック」以外の何ものでもなかったのだ。
彼女の場合、自分が封印させてきたものを反転させる行為として発現したのである。
4 炸裂を経て負の記憶の一切を吐き出した母、幻想の否定によって向かっていく強さを発現した娘
物語の最も厳しい展開の先をフォローしていこう。
母と娘の直接対決において、初めに炸裂した娘の心情こそ、最も悲哀を極めた様態を現出したと言っていい。
「ウソよ!私のパパはシャヒードよ!」
泣け叫ぶサラの悲哀を、もう、誰も吸収し得ないのだ。
しかし、映像は決して感傷に流されることがなかった。
「・・・距離のとり方が非常に難しかったんです。感情的になりすぎてしまうと、センチメンタルな作品になる恐れがあり、それは避けなければいけないことでした。感情的になりながらも、怒りに走り過ぎないように気を付けました。でも、脚本の第一稿は怒りに満ちたものでした。仕方のない反応かもしれませんが、“どうしてもこれを伝えなければいけない”、“どうしてこんなことが起きたのか”、“どうして誰もこれを止めることができなかったのか”と、怒りがあふれてしまったのです。そこから怒りを取り除き物語を伝えることが必要でした」(cinemacafe.net 「伝えたいという気持ちがとても重要」『サラエボの花』ジュバニッチ監督が語る 2007年11月29日)
本作の作り手である女性監督は、こう語るのだ。(画像は、ヤスミラ・ジュバニッチ監督)
「センチメンタルな作品になる恐れがあり、それは避けなければいけないこと」
この自覚が、物語の最も厳しい展開の先を、甘い感傷で流さなかったのである。
「君は傷ついてる」
そう言って、エスマに優しく寄り添った、店の用心棒でもあった男ペルダとの別れを経て、再び孤独になったエスマが行き着く先は、今や、一つしかなかった。
感傷的なBGMに寄りかからない映像の中で、唯一、流される音楽は、セラピーに有効な民族音楽の美しい歌声。
美しい花々が 咲き誇る
この世界が 静けさを取り戻すとき
魂は目覚め 疼き始める
私たちは遠い昔に 離れ離れになった
そのバラの花は 赤かった
眼に染みる赤い花びら
真紅に萌えるバラ
私たちの血と涙が 滲んでる
今にも私に耐えそうな 心の中に
天国は 私たちの頭上にある
ヴェールの奥に 幻のように揺らめく
天国には 7つの階段がある
私たちの胸に 熱い思いが込み上げる
私たちの心に 泉が湧きあがる
そのとき 私たちの涙も 乾くだろう
砂漠にも花が咲く
それは私たちの 幻想の楽園
この音楽の挿入は、映像総体の中で、そこだけが尖った独立系の疾駆として暴れていないので、全く違和感がない。
「集団セラピー」という名の「精神浄化施設」の限定スポットの存在が、映像総体の中に重要な位置づけを付与されていて、「母と娘の情愛」のうちに特化された、物語の基幹テーマに収斂されるマキシマムな効果を自然裡に拾いあげていたからである。
母と娘の情愛のうちに特化されたシビアな物語との溶融において、相応に奏功した描写であったと言えるだろう。
その「集団セラピー」での、エスマの告白。
「娘を殺したかった。妊娠中に自分のお腹をゲンコツで叩いたわ。流産するかと思って。力の限り叩いた。でも、無駄だった。お腹はどんどん大きくなった。それでも犯され続けた。毎日、数人ずつやって来て犯された。病院で出産した後、私は言った。“その子は見たくもない。連れてって”すると、赤ん坊の泣き声が部屋中に響き渡った。その翌日、母乳が溢れ出したわ。私は言った。“その子にお乳をあげるわ。でも一回だけよ”娘が連れて来られた。腕に抱きあげると、弱々しく小さくで、とても奇麗な女の子だった。私は、この世にこんな美しいものがあるのを知らなった」
最後の吐露の内実は、生命の驚異に対する、ある種普遍的な感情の発露であり、ごく普通の包括的な好感情の別名である、「母性」という名の、限りなく「無現抱擁」という幻想に根差した好感情の発現ではあるが、無論、「本能」をルーツにする脳内反射の反応様態ではない。
それは、エスマという固有の人格が構築してきた感性世界と睦み合う、固有の自我形成の所産であると言っていい何かである。
エスマをして、「この世にこんな美しいものがあるのを知らなった」と言わしめる、そのような好感情に軟着し得た一人の固有の人格の情動反応こそが、何より得難い存在の固有性それ自身の、既に一つの掛け替えのない有りようなのだ。
この吐露の内実のうちに包括される自我形成なしに、「母と娘の情愛」を描いた物語の基本骨格が成立しないと思わせるに足る程に、そこに至るまでの展開に説得力を与える由々しき描写であったということだ。
ともあれ、「集団セラピー」からの僅かな日当(注2)目当てで通っていたエスマが、今、地域住民から白眼視されている「精神浄化施設」の限定スポットの中枢で、その本来的な趣旨に添うかのように、意を決して、それまで封印してきた負の記憶の一切を吐き出したのである。(注3)
娘との直接対決による突沸が、この行為の推進力になっていたこと。
これは否定しようがないだろう。
幻想の否定である。
美しい髪をバリカンですっかり剃り落とし、丸坊主になった娘のそれは、明らかに、母と子の間に澱んだ空気を、最も肝心なところで突き抜けかけた内的時間の只中で、シャヒードという幻想に弄(もてあそ)ばれた過去を自らの手で破壊することで、未来への足がかりを模索するに足る自己宣言だった。
その丸坊主の相貌を堂々と引っ下げて、サミルと会い、自ら求めるようにして激しいキスをする少女の情動を動かしたのは、幻想の否定によって、拠って立つ由々しきものが崩壊した思春期自我の空洞感を埋めんとする、それ以外にない孤独の境地での、嗚咽を捨て切った叫喚であると同時に、自分のパートナーを自らが特定する意志を検証化する行為のようにも見えた。
向かっていく者の強さを、鮮烈に印象づけたのである。(注4)
(注2)「政府には経済的な力はありません。ですから戦争の被害女性たちの救済は国際機関に頼らざるえないのが現状です。それと、彼女たちもみずから治療を受けようとはしなかった。何故ならボスニアには精神的ケアをうけるのは恥ずかしいこと、世間体が悪いというふうに思われてきました。ですから救済機関も、通ってくる女性に『日当』を支給し、生活援助が目的ということで治療を行なっています」(上野清士 店長の Cafe Latina 映画『サラエボの花』を撮ったヤスミラ・ジュバニッチ監督に聞く)
(注3)「多くの被害女性にインタビューをし、調査報告もできるだけ目を通して、主人公エスマを造形しましたが、彼女の日常生活での立ち振る舞いは、実際に被害にあった女性のものです。その女性の家に招かれたときにみた、彼女の立ち振る舞いがヒントになっています。私は彼女に仕事をみつけたのですが、職場が『暗い』という理由で働くことを拒否しました。はっきり言いませんが、集団レイプの現場と似たなにかを感じたのでしょう。他の被害女性たちも皆、トラウマから解放されていないのです」(同上)
(注4)「・・・女性というのは、何もない状態でも前向きに行動し、対応することが出来ると思うんです。食べ物がない時でも、そこから何かを作り、家族に食べさせることが出来るんです。破壊的な状況の中から何かクリエイティブなものを作り出すことが出来るのが、女性というものだと思います。(略)サラは未来に対して開かれている、何でも出来る存在として描きたかった。愛が彼女の後押しをするのですが、彼女自身は人生の中で“何か嘘をつかれている”ということに気付いています。歴史の中で、国の良い面と悪い面の両面を背負っているわけで、良い面も悪い面も知ることで、より強くなることが重要なのです」(FUN! FUN! MOVIE・ヤスミラ・ジュバニッチ監督 インタビュー)
5 非日常の日常下から、物言わぬ圧迫感で押し潰すようにやってくる恐怖を分娩する物語の重量感
修学旅行の日。
母と娘がラインを一つにしても、意識的に顔を合わせる仕草を捨てて、特定された目的地に向かって歩いていく。
すっかり坊主頭になった娘には水色のチーフが巻かれていて、首を垂れるように歩いていく姿形には、内側に貯留された複雑な感情を、これ以上噴き上げていくことへの抑制系が、今や、面前でクロスさせていく推進力を奪っているように見える。
仮にあったとしても、もう、今となったら末梢的な情報群でしかないのだろう。
多くの級友が待つバス乗り場までやって来て、娘の表情から笑みが漏れた。
級友たちとの抱擁の中で、パラレルなラインを成しながらも、言葉のない母との居心地の悪さから、娘の裸形の自我が、ほんの少し解放された気分が遠慮げに身体化されたのだ。
級友たちとの抱擁から解かれて反転したとき、そこに、自分を柔和に見詰める母の表情が捕捉された。
見詰め合う母と娘。
なお言葉を交せない母娘の沈黙を、母からの抱擁が埋めていく。
明らかに、この抱擁を忌避する娘は、捕捉された状態を自ら断ち切って、バスに乗り込んでいく。
振り返らない娘。
その娘の反応を待ち続ける母。
しかし、全ての生徒たちを吸収したバスは、時間の余裕がないかのように出発していく。
見送りに来た親に手を振り続ける生徒たち。
エスマだけが置き去りにされていく。
あっという間に走り去っていくバスは、後部座席に座るサラを映し出す。
バスの中で初めて解かれた、サラの心地悪さの気分は、複雑な思いの渦に搦(から)め捕られた状況を突き抜けて、相応に離れた場所で見守り続ける母への、それ以外にない身体表現を具現させたのである。
明瞭に、母に向かって、小さく手を振る娘。
この母娘には、この距離が必要なのだ。
それは、今はまだ、この距離の中で、これまでとは全く異なる関係を構築していく時間が必要である現実を暗示しているのである。
しかし、映像が提示したこの暗示は、近未来の「約束された母娘の紐帯」をイメージを残して閉じていく。
バスの中での、凛として明るいサラの表情を映し出すラストカットが、過去の呪縛に負けない力強さで、未来を切り拓いていく大いなるイメージを結んでくれるからだ。
若さで弾け切ったバスの中で、歌声が響く。
「サラエボ・マイ・ラブ」
その歌声の輪の中にサラもいる。
構成力に些か不満が残ったのは事実だが、こういうときの女の強さは、いずこの国でも変わらないというメッセージ性のパワーと、戦争の悲劇は、その渦中のみならず、それが終焉した後の、非日常の日常下から、じわじわと、物言わぬ圧迫感で押し潰すようにやってくるという主題が、「母と娘の情愛」を描いた物語の基本骨格のうちに包括された映像の構築力には特段の破綻もなく、とりわけ、PTSDに捕縛された者の危うさが浄化されていく内的プロセスを、それが内包する破壊力を粗略に扱うことのないギリギリの辺りで、映像的に処理していく技巧を駆使した力量を素直に評価したい思いが、私の中で違和感なく受容し得たのだろう。
「祖国とはテリトリーではなく、記憶なのだ」
これは、「パパは、出張中!」(1985年制作)、「アンダーグラウンド」(1995年制作)などで著名な、旧ユーゴスラビア出身の映画監督のエミール・クストリッツァの言葉。(画像は、エミール・クストリッツァ監督)
出典は、「哲学カフェ:震災語る 『ふるさと』『復興』とは/議論通し『気づき』の場に」 毎日新聞 2012年2月7日より)
この言葉の重量感が、「母と娘の情愛」を描いた物語の中で、PTSDに捕縛された自我に噛みついていて、その見えにくい痛みが累加されていく危うさこそ、非日常の日常下から、じわじわと、物言わぬ圧迫感で押し潰すようにやってくる恐怖を分娩していく。
本作は、私にとって、そういう映画でもあった。
最後に一言。
アメリカの広告代理店ルーダー・フィン社による、セルビア人のエスニッククレンジング(民族浄化)の犯罪性を喧伝させた事情について書かれた、高木徹の「ドキュメント戦争広告代理店 ―― 情報操作とボスニア紛争」(講談社)で、今ではすっかり人口に膾炙(かいしゃ)されているが、スピンドクター(メディア戦略家)の存在を含めて、この種の戦略は禁じ手などではなく、国際外交の常套手段として把握するリアリズムだけは捨ててはならないだろう。
(2012年2月)
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