時は1980年代。
アメリカ南部・ルイジアナ州の、如何にも長閑(のどか)な小さな町にある美容院。
その美容院に、美容学校でヘアダイの成績が一番と言うアネルが、トゥルーヴィの店に就職した日から開かれる物語。
「生まれつきの美人はいない。それで美容院は成り立っている」
トゥルーヴィの口癖である。
その日は、イーテントン家の長女シェルビーの結婚式だった。
日々のインスリン注入を不可避とする1型糖尿病患者のシェルビーは、結婚後も保母の仕事を続けると言うが、母のマリンは、娘の健康状態を考えて、一貫して反対する。
その母娘が、晴れの日のために、トゥルーヴィの店で髪を結ってもらっている。
社交のミニスポットと化した美容院で弾む、元気な女たちのトーク。
そのシェルビーが発作を起こしたのは、まさにトークの花盛りのときだった。
血糖コントロールの不具合による糖尿病の発作である。
手慣れたように、母のマリンがオレンジジュースを無理に飲ませて意識を回復させるが、妊娠に負担がかかるので、子供を産むことを医師から注意されている現実が相当の心理圧になっていたのだ。
「養子でもいい」などという優しさを見せる、結婚相手のジャクソンの思いを考えたこととも無縁でないだろう。
マリンの夫ドラムが鳥を追い払うために、銃声を響かせる機械音のために、愛犬のセントバーナードが脅えると騒いで、気難しい未亡人・ウィザーが怒鳴り込んで来たのは、髪結いが終わり、母娘が美容院から出たときだった。
ドラムの行為の目的は、娘の披露宴を無事に済ますための計らいであり、全く悪意がない。
怒鳴り込んで来たウィザーがマリンの謝罪を受け、帰ろうとすると、その視線に入ったのが、美容学校から派遣されて来たばかりのアネルだった。
土地の者でないアネルを質問攻めにした結果、彼女の財産を持ち逃げした「犯罪者の夫」の存在を告白させるに至った。
そのアネルがサミーという土地の若者と出会ったのは、シェルビーの披露宴。
ここから、二人の関係が開かれていく。
クリスマス・フェスティバルでは、眼鏡をコンタクトレンズに換え、すっかり明るくなったアネルの変貌ぶりが際立っていた。
彼女もまた、南部の町の根っからの人好きのする風土に馴染んでいたようだった。
「年をとるほど、分らず屋になるんだから」とクレリー。
「あんたは醜くなるわ」とウィザー。
披露宴の後の二人の会話だが、こんな毒舌が連射される物語の基調は、未だ充分にコメディラインの筆致だった。
2 母と娘 ―― 「命」を巡る確執
「妊娠したの」
この唐突なシェルビーの告白に、動揺する母マリンは言葉を失った。
気まずい沈黙が流れる。
「もう少し、喜んでくれたら。出産は7月。ママ、準備を手伝って」
沈黙の中から、マリンは尋ねる。
「ジャクソンは何て?」
「“男でも女でも構わない”って。でも、本当は男の子が欲しいのよ」
ここまで聞いて、娘の体を心配するマリンは、本音を突き付ける。
「分らないの?医者の言葉を聞いたはずよ。あんたも彼も分らないの?」
養子をとることを勧める母の気持ちを理解しながらも、シェルビーは反応する。
「私は子供が欲しいの。私は自分の子が欲しいのよ。夫婦の絆よ」
「分ったわ」
娘の真剣な表情を凝視しながら、その一言を残して、去っていく母。
なお母を追って、自分の思いを吐露する娘。
「糖尿病くらい」
「あんたの場合は違うのよ。無理はできないのよ」
「心配しないで。誰にも迷惑をかけたり、傷つけたりはしないわ。人を思い通りに動かしたいのね」
「母親に向かって何てことを言うの?」
口調は声高になっていないが、もう、感情と感情との衝突になってしまって、折り合いがつかない状態を露わにするばかりだった。
それでも、諦念しない娘は、涙ながらに訴える。
「お願いよ、ママ、理解して。空っぽの長い人生より、30分の充実した人生を」
クリスマスの晩のことだった。
このシーンはとても自然で、感動を狙ったあざとさも全く感じられず、観る者の心に深く沁み入る描写であった。
同時に、物語の基調がコメディラインの筆致から、シリアス系にシフトしていく重要なシーンである。
そんな中でも、逞しい女たちの滑稽な会話が拾われていく。
その中枢に、悪口雑言を連射するウィザーだけは変わらない。
「もっと、ヘルシーな考え方を。センターで精神医と話をしたら」
全てを吐き出したシェルビーの表情に明るさが戻り、母のマリンにも、ウィザーにアドバイスする余裕が生れていたが、ウィザーの反応は、いつものパターン。
「病気じゃないわ。40年、機嫌が悪いだけなのよ!」
ウィザーの反応を、いつものように受容するクリスマス・フェスティバルの渦中で、父のドラムがシェルビーの妊娠を発表し、陽気な連中たちの祝福の喝采が沸き起こった。
ただ一人不安を抱えるマリンの周囲に、元気な女たちの輪ができて、皆で励ましていく。
「人間は試練に耐えて、強くなると言うわ」とクレリー。
「私の取り越し苦労ならいいんだけど・・・」とマリン。
そのマリンの手に、女たちの熱い友情の手が重なっていった。
3 「対象喪失」の悲嘆を「人間の生命の連鎖という営為」に収斂させた傑作
シェルビーの子は無事に出産した。
元気な男児である。
肝心なシェルビーは、産後、腎臓にストレスがかかり、人工透析を続けていたが、今や、腎臓移植を必至にする状況になっていた。
「大丈夫。うまく行きました」
担当医のこの一言で、全てが救われた。
仲間たちに普段の陽気さが戻り、ハロウィンで弾けるのだ。
一方、そのハロウィンに、サミーと結婚したアネルは、仲間たちの派手な祝福を受けていたが、時を同じゅうして、我が子を抱いていたシェルビーが倒れてしまう。
唐突の不幸の急襲に、慌てて、昏睡状態のシェルビーの元に駈けつけて来たマリン。
マリンの怖れていた事態が惹起したのである。
「お願い。目を開けて。写真を見て」
そう言って、娘の愛児の写真を見せるマリン。
家族が見守る中、娘の病床を片時も離れない母がいる。
遂に、最後まで昏睡状態からの回復がなく、心電図は平坦となり、心停止するに至った。
そして迎えた葬儀の日。
いつまでも、娘の墓から離れられないマリン。
そこにトルービィ、ウィザー、クレリー、アネルという固い絆で結ばれた女たちがやって来た。
「大丈夫?」とトルービィ。
「ええ」とマリン。
「いいお葬式だったわ」とクレリー。
「シェルビーは、神のもとへ召されたのよ」とアネル。
「分ってるわ」とマリン。
「喜ぶべきことよ」とアネル。
「喜ぶべきことよ」とアネル。
信仰心の厚い、このアネルの言葉に、マリンは強い口調で反応する。
「勝手にどうぞ。私は娘が、ここにいてくれたほうが嬉しいわ」
謝罪するアネルが、それでも、「天使になって、皆を見守れる所へ行ったのよ」などという言辞を結び、それを受容し得ずにいるマリン。
「頭では分ってる。でも、心の痛みが・・・あの子が何か言うかと、話しかけた・・・でも、絶望だと分ったの・・・それで、機械を切った。ドラムとジャクソンは耐えられず、出て行った。鋼鉄のように強いはずの男が…私だけ残って、あの子の手を握ってた。静かだったわ。何も動かず、安らかだった。思ったわ。
私は幸せな女かと。 あの素晴らしい娘が、生まれた時を見守り、去っていく時を見守った。私の人生で、最も貴重な一瞬よ・・・」
マリンを見守る女たちが、すすり泣く。
娘の墓から離れるマリン。
歩きながら、遂に耐性限界を越えた彼女は号泣してしまう。
4人の女たちも動揺を隠せない。
理性で封印していた感情を吐き出してしまうのだ。
「大丈夫よ。心配しないで。大丈夫!」
最後は、絶叫になった。
「私はテキサスまで走れるけど、あの娘はもう…最初から無理だった。腹が立って変になりそう!なぜなの?なぜ、命を奪われたの?坊やは、母親を知らずに育つのよ。母親がどんな犠牲を払ったか・・・神様、教えて下さい!なぜなの?なぜ!私には分りません!」
その間、号泣が止まらない。
悲嘆の極点にいるのだ。
だから、もう、理性で封印できないのである。
「間違ってるわ。どう考えても間違ってる。私が先に死ぬべきなのよ!耐えられない。私には耐えられないわ!誰かを力一杯、殴りつけて、この痛みを分らせてやりたいわ!」
吐きたいだけ吐き出した女の絶叫が、ピークアウトに達したのである。
ウィザーに手を当て、彼女をマリンの前に押し出し、クレリーはそう叫んだ。
抵抗するウィザー。
「一度ぐらい、人の役に立つことをしなさい!」
ウィザーを人身御供(ひとみごくう)にするのはジョークだが、それもまた、悲嘆の極点に達したマリンの絶叫を浄化させたい一心からである。
その思いを共有しているから、マリンの悲嘆を浄化し得るに足る、相応の威力を発揮する。
この状況下での、マリンの悲嘆の炸裂が終焉した瞬間である。
マリンの表情から笑みが零れた。
本気で怒ったウィザー以外の女たちは、笑みを共有する。
笑みを共有した女たちは、一人で去っていったウィザーの復元を、全く疑っていない固い友情がある。
その日のうちに、ウィザーに寄り添うクレリーの笑みが、男ができても、毒舌だけは衰えないウィザーを抱擁するイメージを、女たちは共有しているのだ。
だから、彼女たちは誰より逞しく、強いのである。
女たちの友情の威力の凄みに圧倒される。
まもなく、サミーとの間に産まれる子供の名前を、シェルビーと名づけることをマリンに話に来たアネルがいた。
「そうやって、時は流れていくのね」
母を知らないシェルビーの男児・ジャック・ジュニアをブランコであやしながら、笑みを湛えつつ、マリンは柔和に答えた。
時が移り、イースターの日、産気づいたアネルが、急いで病院まで搬送されていくシーンで、印象深い物語は閉じていった。
4 「予期悲嘆の実行」と、「対象喪失」の悲嘆を描き切った映画の言外の情趣
「予期悲嘆の実行」という、心理学の言葉がある。
愛する者の死をしっかり看取りをすれば、「対象喪失」の際の悲しみ・苦しみからの精神的復元が早いという意味である。
まさに、本作におけるマリンのケースは、この「予期悲嘆の実行」の体現者だった。
彼女は、男たちが逃げ出した病室の一角で、最愛の娘のシェルビーの死を自らの決断で決定づけ、その最期の瞬間まで、しっかりと看取り続けた。
その直後、彼女の悲嘆はピークに達するが、しかし、その悲嘆を全人格的に身体表現することによって、彼女の立ち直りの確かさを約束したのである。
「予期悲嘆の実行」と、「対象喪失」の悲嘆の心理を精緻に描き切った本作を、私は高く評価する。
ここで、私は勘考する。
観る者を存分に泣かせ、大カタルシスを存分に保証してしまえば、あまりに短い賞味期限の中で呆気なく自己完結する。
思考の稜線は初めから途絶され、言外の情趣など拾う余地など全くない。
これが、数多の情感系邦画の基調となっているから、正直、観る気が殆ど起こらない。
テレビドラマと一線を分けるとすれば、「レイティングシステム」によって仕切られているかどうかの違いだけだ。
だから、いつまでも深く心に残る。
言外の情趣の残像が脳裏に焼き付いているから、この映画を思い出すとき、様々に彩られた女たちの、その逞しい人生の断片が鮮やかに蘇ってくるのである。
感動を狙うあざとさを蹴飛ばした映画というものの価値は、その辺りにこそある。
これだけの映画が、今、観られる機会が少ないのが極めて残念でならない。
少なくとも私にとって、本作は、いつまでも心に残る名画である。
(2014年11月)
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