ヨーロッパの国境の垣根を緩めたシェンゲン協定や、ユーロの導入、共通農業政策等によって軟着したかに見えた、「ヨーロッパの多様性における統一」という歴史的大実験が、ギリシャの財政破綻の問題に端を発したEUの危機を顕在化させ、PIIGS(ピッグス=ポルトガル、イタリア、アイルランド、ギリシャ、スペイン)の財政不安の広がりで、ユーロ相場の下落を招来し、欧州総体の債務危機の有効な克服の方途(「包括戦略」)が垣間見えるものの、現時点(2013年5月)においても最大の正念場を迎えている印象は拭えない。
本作との関連で、フランスの移民問題について言えば、高度成長を支える労働力不足の解消という意味合いもあって、フランスが歴史的に多くの移民を受け入れてきた国民国家であるという背景がある。
然るに、旧宗主国であるフランスを頼って渡仏してきたアフリカ移民の増加が、フランス人の失業率の元凶とされるに及んで、フランス人との深刻な摩擦を生み、それが由々しき社会問題を惹起させた要因となっていく。
パリ郊外暴動事件(サイト・大紀元より)
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そして今や、イスラム系移民に対するフランス国民との軋轢の激化が、社会党のオランド政権下にあって、アルジェリアでのイスラム過激派による外国人労働者の襲撃事件(2013年1月)を機に、マリへの軍事介入を招来し、空爆の開始という作戦にまで発展していった事実に、「自由・平等・博愛」の精神を重んじるイメージが崩されたとナイーブな日本人は思うだろうが、「多文化主義」を掲げてきたフランスが抱える状況は、まさに、EU各国が内包する、シビアな国際政治のリアリズムの様態である現実を認知しない訳にはいかないだろう。
デーヴィッド・キャメロン(ウィキ) |
EU各国のいずれの国でも、今まさに、シビアな国際政治のリアリズムの洗礼を受けているのである。
2 構成力についての合理的な突っ込みを無化させるほどの独立蜂のパワーの凄み
EUのリアリズムが逆巻く最前線で、時代の激流に呑み込まれて、それぞれの生活のサイズを縮めていくことで、すっかり疲弊してしまうよりも、「古い良き時代のコミュニティ」というお伽噺の中で存分に遊び、弾けることによって、束の間、「非日常の突沸」を紡ぎ出すものの、時代のリアリズムを限りなく喰い潰すパワーを持つ、基本・緩々系のもう一つの世界を仮構しよう。
これが、本作に対する、私の映像イメージの本質的な把握である。
不思議なことに、玉屋庄兵衛のようなからくり人形師の如き、カウリスマキ監督の巧みなマジックにかかってしまえば、いとも簡単に、登場人物たちが活き活きと身体疾駆していくのである。
なぜだろう。
ここに、当人による、その答えと思しき言辞が提示されている。
アキ・カウリスマキ監督(右) |
「自分の映画のキャラクターを愛さずにはいられない」という強い思いの結晶が、普段と変わらぬ「カウリスマキ・ワールド」を、その特徴的な色彩設計と、情感的なBGMの強力なサポートのうちに再現されたということが判然とする。
大体、「自分の映画のキャラクターを愛さずにはいられない」という言辞を、非武装にも表現してしまうナルシズムこそ、自らをペシミストと括る作り手の内部世界で、矛盾なく溶融する心象風景の誠実な結晶点だろう。
ナルシズムとペシミズムは、表裏一体なのである。
今や、「この監督なら仕方がない」と思わせるに足るだけの、「巨匠」の域にまで昇り詰めてしまったが故にか、ご都合主義満載で、「展開と描写のリアリズム」を確信的に蹴飛ばしてしまう、信じ難き映像構成力の致命的破綻ですらも、取り立てて問題なく掬い取ってくれる寛容な空気が、独立蜂の輝きを放つ、ユニークなジャンダルムを構築し得たと思わせる作り手の周囲に蔓延しているようである。
それを無化させるほどの独立蜂のパワーの凄みが、そこに垣間見えるからだろう。
以上が、この作品と、作品を提示した作家性の濃度の高い一人の映画監督に対する、私の客観的視座である。
以下、稿を変えて、今度は私の率直な所感を記しておきたい。
2 「極貧者利得」を是認する「全身お伽噺」の物語
アッパークラスに留まらず、ミドルクラスの生活をエンジョイしている者たちはエゴイストであり、且つ、心が貧しいのに対して、逆にワーキングクラスの者たちは、貧しいけれど、押し並べて人情は温かく、心は豊かである。
このような、巷間に流布された根拠なき幻想を、私は全く是認しない。
形式論理的な矛盾を内包する、二項対立的思考を是認するシンプル思考から侵入する発想こそ、惹起した事態を多角的な判断で処理する「認知的複雑性」の妥当性を蹴飛ばしてしまう、本来的な人間の複雑性を無視した知性の貧困であると考えているので、この類の妄言を拾い上げることは一切ない。
カティ・オウティネン扮するアルレッティ |
当然、それに異議申し立てをする野暮な物言いを繋ぐ意図など、毛頭ない。
ただ私には、馴染まないだけだ。
無論、カウリスマキ監督が、愚昧な表現者ではない事実を知っていて敢えて書くが、二項対立的思考の根拠なき幻想を押し付けられ、本作を「最高のハッピー・エンディング映画」として受容することを求められるなら、私は厳として拒絶する。
それは、あり得ないことを描くことで、「心が満たされる映画」の存在を認知しないということにはならないからである。
そういう映画もあっていい。
アキ・カウリスマキ監督 |
これは、アキ・カウリスマキ監督のメッセージである。
元より、映画という、動画作品の取って置きの快楽装置が、「難題への答え」を提示する虎の巻ではないことは百も承知している。
「EUへやって来ようとする難民たちが受ける、不当な扱いについて描いてこなかった」という指摘については、一連のテオ・アンゲロプロス監督の作品群によって却下されるだろうが、そんな問題意識についても、正直、どうでもいい。
どんな種類の映画が製作されようと自由だからだ。
しかし、根拠なき二項対立的思考による、「極貧者利得」を是認するところから侵入し得ることで愉悦し得る映画とは、一線を画したい。
この映画は、「空想話」という本来的な意味での「全身お伽噺」である。
「全身お伽噺」の映画が、縦横に躍動する作品を否定すべくもないが、私の趣味や人間観と切れるので、一線を画したいのだ。
「暗い世相の中で、殆ど善人しか登場してこないのが最高」という感懐を結ぶ、趣味人限定の映画だからこそ、明瞭な距離を置きたいのである。
「貧しき者は正しい者である」 |
もう、いい加減、この手の議論に辟易(へきえき)することもないほど、私の内側では「ブースター効果」(免疫機能が高まること)が形成されている。
「カウリスマキ・ワールド」という括りで処理できる疑似ロマン主義と無縁な、私のような人生観を有する者には、5分も経ったら忘れる映画への「鑑賞者利得」がゼロであると言っていい。
私にとって「鑑賞者利得」がゼロであるこの物語については、稿を変えて、簡単に批評したい。
3 「カウリスマキ・ワールド」のジャンダルムの小宇宙
英国への密航が発見されて、不法移民が乗った港のコンテナから逃亡したイドリッサ少年を、「ミニマリズム」の極北とも言える「ラヴィ・ド・ボエーム」(1992年製作)で、ボヘミアンの売れない作家・マルセルを演じたアンドレ・ウィルム(ここでも、履歴の似た同姓同名の役)が、重篤な妻アルレッティ(言わずもがな、カティ・オウティネン)が入院している状況下で、男気を出して、「古い良き時代のコミュニティ」の援助を得て、英仏海峡を渡らせるまでの物語 ―― それが「ル・アーヴルの靴みがき」である。
英仏海峡を渡らせる理由は、少年の母親がいるロンドンに住んでいるからだ。
予約されたハッピーエンド |
逃亡したイドリッサ少年を、港湾警察のプロが銃撃しようとするとき、「正義派」のルネ警視が止めた行為と、少年を真剣に追わない港湾警察の「時間稼ぎ」によって、もう、「予約されたハッピーエンド」の気分で、観る者は、「カウリスマキ・ワールド」の愉悦の仕方を、それぞれの心地良き構えのうちに待機するばかりとなるだろう。
ここから開かれるのは、「古い良き時代のコミュニティ」のフル稼働となるが、これも予約済みのこと。
「心をみがけば、奇跡はおこる」 |
この予約をトレースするラインのうちに、二項対立的思考に依拠した作り手の手のひらに乗って、「貧しき者は正しい者である」という基本命題に抗うことなく、虚構の世界で呼吸を繋ぐ人々の善意の集合が奇跡を作り出すのだ。
救いがあるとすれば、善意の集合が自然発生的な「混成部隊」を印象づけることで、この寄せ合わせのパワーの振舞いに暑苦しさを感じさせないところである。
「まともな職もあるが、靴磨きと羊飼いだけが人々に近いんだ。そして、主の山上の垂訓に従う者は我々だけだ」
これは、「ル・アーヴルの靴みがき」であるマルセルが、世話になった礼儀を忘れずに、マルセルの傷んだ靴を磨くイドリッサ少年に放った決め台詞。
「貧しき者は正しい者である」という、階級意識丸出しのメッセージを、さりげなく言わせる辺りに、如何にも「カウリスマキ・ワールド」のオフビート感が揺蕩(たゆた)う空気を醸し出していた。
さすが、持ち前のオフビートの外れ方は、比肩し得る何ものもない、唯一無二の、「カウリスマキ・ワールド」のジャンダルムの眩さが、辺り一面に光彩を放っていた。
「カウリスマキ・ワールド」のジャンダルム |
かくて、カウリスマキ基準のミニマムな映像宇宙が、緩やかに開いた表現世界を受容する人たちとの間に成立する黙契のうちに、心地良く潜入できるか否かによってラインが引かれてしまえば、前者の人たちにとって、もうそこには、特化された「映画の嘘」の支配下で、束の間、疲弊した心を癒すことで充足し得る「鑑賞者利得」を手に入れるだけとなる。
恐らく、それでいいのだ。
私は、その「鑑賞者利得」を手に入れる種類の人間ではなかった。
それだけのことである。
この映画を観て、つくづく、私のような、「全身リアル」の映像に振れていくタイプの者には、カウリスマキが開いた癒し系の草庵が待つ、思いのこもった躙(にじ)り口から侵入する余地はないと痛感せざるを得なかった。
(2013年5月)
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