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2017年9月25日月曜日

映画「ブラス!」に見る怨嗟と甘えの構造


「グリムリー・コリアリー・バンド」

1  音楽文化の「進歩」の一つの結晶点としての「英国式ブラスバンド」  





ここまで「サッチャリズム」への怨嗟を声高に叫ぶ映画を見せられると、その露骨なプロパガンダの政治的主張に辟易するが、失業に追いやられる炭鉱労働者の憤怒の情動を理解できなくもないが、映像構成の直接的表現の稚拙さは、映画的完成度を貶めるだけで、お粗末過ぎなかったっか。

徹底したリアリズムで良質な作品を創る、左翼・リベラル系の映画作家であるケン・ローチ監督やダルデンヌ兄弟の映像(「ケス」・「イゴールの約束」等々)には、プロパガンダの政治的主張を台詞で直接的に表現することがないから、観ていて深い感銘を覚える。

ところが、この「ブラス!」は違った。

だからこそと言うべきか、炭鉱労働者視線の「サッチャリズム」の政治的風景が垣間見えて、ある意味で興味深かった。

―― 以下、映画「ブラス!」のストーリーラインを詳細にフォローしていく。

採炭場で労働する炭鉱夫のヘルメットの上で、闇の中で、そこだけが光るキャップランプの集合が、プラスバンドの演奏と溶融していくファーストシーンのインパクトは、観る者を圧倒し、絶大な訴求力を持っていた。


1990年半ば、イングランド・ヨークシャーの炭坑町グリムリー。

北海油田の開発の成功もあり、原油採掘と天然ガス田を最も重要なエネルギー資源にしたイギリスは、1980年代から石油輸出国(当時、EU加盟国最大)となったことも手伝って、300年以上にわたる採炭の歴史に大きな変化を生む。

防衛産業と農業の保護を例外に、国際競争に生き残るための自由市場政策を進めた保守党・マーガレット・サッチャーによって、伝統的な産業部門の衰退が余儀なくされていったのである。

モデルとなった「グライムソープ・コリアリー・バンド」

実話ベースの、1996年のイギリス映画「ブラス!」でも俎上に載せていたが、イギリス最強の炭鉱労組による合理化反対闘争を敗北させた事態に象徴されるような、大鉈(おおなた)を振るう「サッチャリズム」は、炭坑町グリムリーでも怨嗟の声が湧き上がっていた。

炭鉱閉鎖の波がグリムリーの町に押し寄せていったとき、この町の伝統的なプラスバンドである「グリムリー・コリアリー・バンド」(サウス・ヨークシャー州グライムソープ村に本拠地を置く実在のブラスバンド)の面々は、趣味以上の愛着を持ちながらも、「約束された失業」のリアリティの前で防衛的になっていく。

そんな渦中で、ジムとアーニの中年楽団員は、「グリムリー・コリアリー・バンド」を辞めようと決意しても、どうしても口に出せなかった。  

楽団の頑固な指揮者・ダニーの存在が、彼らの前に大きく立ちはだかっていたからである。  

「人生には、楽団より大切なものがあるよ」  
「俺にはない」  

ダニーと息子・フィル
これは、ダニーと息子・フィルの会話。

既に、年金生活者と思しきダニーにとって、借金漬けで生活苦に喘ぐフィルの現状を理解できても、楽団の維持の障壁になるものとは考えていないようだった。

「楽団命」のダニーと、他の楽団員たちの意識の懸隔は、楽団への主体的参加が日常生活の安定にまで影響を及ぼす事態への意識の落差であった。  

そんな折、一陣の涼風が吹いてきた。

炭坑局の地質調査員である事実を隠して、この炭坑町出身のグロリアという女性が、バンドのメンバーに加わったからである。

彼女の祖父が、ダニーの親友だった事実が、紅一点のグロリアの参加を後押ししたのである。

そのグロリアは、バンドマンの一人で、テナーホルンの奏者である青年坑夫・アンディの昔の恋人だった。

アンディとグロリア
忘れられない存在であるグロリアの帰郷を受容して、バンドへの意欲を延長させていたアンディが、この炭坑町の閉山の可能性に言及する彼女の物言いに不信感を抱き、それを問い質したら、あっさりと自分の職業と、その目的について告白するに至る。

二人だけの「秘密の共有」だったが、バンドマンたちから、炭坑局から出て来るところを目撃され、疑義の念を抱かれるグロリア。

しかし、バンドのメンバーになる契機になったグロリアの、「アランフェス協奏曲」(ホアキン・ロドリーゴ作曲)のフリューゲルホルンのソロ演奏が功を奏したのか、しばらくは問題視されることがなかった。

因みに、私自身の通俗的な好みで言えば、この演奏は素晴らしい。

思うに、19世紀のイギリスで発祥した、金管楽器による合奏を本来の姿とする「英国式ブラスバンド」の隆盛は、産業革命という文明の「進歩」によって、炭鉱労働者の生活に「ゆとり」が生まれたことに起因する。

関西を中心に活動している英国式ブラスバンド

炭鉱労働者の間で忽ちのうちに広まっていき、今では、企業のスポンサーがつくことすらあるほどだが、後述するが、「英国式ブラスバンド」の隆盛それ自身が、音楽文化の「進歩」の一つの結晶点だったのである。  





2  一進一退する「グリムリー・コリアリー・バンド」の面々





それでも、なお消えない閉山への恐怖と、失業する事態への大いなる不安。  

炭坑労組は会社側と折衝の結果、重大な判断を迫られる。

「退職金の増額と特別手当」を受け取って閉鎖に同意するか。 それとも、炭坑存続に拘泥し、未来のない炭坑夫生活を繋いでいくか。

そのどちらかの選択肢しかなかった。


今や、「グリムリー・コリアリー・バンド」の面々の生活は危機に瀕していた。

ユーフォ二アム奏者のハリーは、女房からダイレクトに痛罵(つうば)を浴びせられる。  

「私が働かずに家にいたら、失業手当で暮らせた。そうできたのに、しなかった」  
「何が言いたい?」  
「10年前、ストになる前のあなたは素敵だった。生き生きしてたわ。今は見る影もない。ペットを吹くしか能がない」  

そう非難して、家に入ろうとする女房に、遠慮げに呟いた。  

「それでも」  
「でも、何?」  
「聴衆はいる」  
「遅れるわよ」  

最後は、そう言って、夫を送り出す女房に、ハリーは叫んだ。  

「これはユーフォ二アムだ!」

自分の小さな誇りだけは守ろうとする男と、当然ながら、生活優先の妻との軋轢(あつれき)は、今度ばかりは回避できない失業の危機に直面し、大きくダッチロールする内面の脆弱性を浮き彫りにするだけだった。(因みに、ユーフォ二アムはトロンボーンよりも柔らかい音色を奏でる)

ユーフォ二アム

誇りだけは捨てていない「グリムリー・コリアリー・バンド」が地区大会優勝を果たし、決勝進出を決めても、無記名投票で8割が閉鎖に賛成という結論が出るに至った。  

今や、それ以外の選択肢がない状況に追い込まれた炭坑労組の完膚無(かんぷな)きまでの敗北だった。

「石炭の歴史は終わったんだ」

会社側の代表の男の言葉が、閉山問題の本質を語っていた。

この間、「グリムリー・コリアリー・バンド」の心棒となっていたダニーが、長年の肺の疾患が昂じて倒れ、入院する事態を招来する。

そのダニーが入院する病院前で、アイルランドの民謡「ダニーボーイ」(グレンジャー編曲)が、ハリーの指揮で届けられる。

ダニーを元気付けるためだが、それは同時に、ここにきて決勝進出を諦念したバンドの面々による、「別離」の含みを持った葬送曲でもあった。  

決勝進出を諦念しながら、それをダニーに伝えられない息子・フィルの生活の惨状は、目を覆いたくなるような 風景を露わにしていた。

10年前の炭坑ストの際に、会社側との紛争で入獄した男にしては、その行動の振れ幅の大きさは成人した男の安定感とは、あまりに無縁であり過ぎた。

フィル
借金漬けの状態下で、なお金を借りてまで、新しいトロンボーンを買ってしまい、借金の形に家財を没収された挙句、4人の子供を持つ妻から愛想を尽かされ、逃げられる始末。

そればかりではない。

あれほど、「労働貴族」に悪態をつきながら、炭坑存続に拘泥した男が、肝心の無記名投票で炭坑閉鎖に一票を投じてしまうのである。

「退職金の増額と特別手当」に目が眩(くら)んだ訳だ。

せめてもの金銭稼ぎで、ピエロのバイトをする男は、溜まったストレスを、選(よ)りに選って、教会で炸裂させてしまうシーンは悲哀の極点だった。

「神が何をした?ジョン・レノンを殺し、エンズリー抗で3人殺した。今度はパパの番だ。サッチャーはピンピンしてるのに。それが神のやることか」

自分の不始末に起因し、明らかに、自己責任の範疇に入る事柄まで政治は疎(おろ)か、神のせいにするチャイルディッシュな男の成れの果ては、首吊り自殺未遂。

「俺は裏切り者だ。金欲しさに賛成に投票した」

こういう物言いに含まれる甘えの心理が、容易に見透かされてしまうチャイルディッシュさと、自己防衛ラインの張り出しが読めてしまうので、殆ど同情の余地がない。

本気で死のうという覚悟できていないから、頓挫してしまうのである。

自業自得と言う外にないのだろう。

これをユーモア含みに観る者の感性を疑うが、魂胆見え見えの構成力にうんざりさせられる。

賭けビリヤードで負けて、テナーホルンを失ってしまうアンディの愚かさと切れて、いずれの国でも例外がないようにも思われるが、こういう状況下で、最も強いのが女であるらしい。

会社に利用された現実を目の当たりにしたグロリアは、楽団員たちから冷眼視されながらも、「グリムリー・コリアリー・バンド」名義で貯蓄してあった3000ポンドを、病床のダニーや炭坑夫たちのために、決勝への旅費等に使って欲しいと切望し、受容されるに至った。

相当ベタな展開だが、この映画でのグロリアの存在価値は、「閉山を防ぐスーパーウーマン」ではなく、「閉山を防げなかった代償を、バンド同志の共有感覚の中で金銭に変換させた最強の助っ人」という一点に集約されていると思えるので、「予定調和」のラインをトレースしていくのだろう。

かくて、「全英ブラスバンド選手権」の決勝会場となる、ロントンのロイヤル・アルバートホールでの演奏が開かれる。

「グリムリー・コリアリー・バンド」の選曲は、ロッシーニ作曲の「ウィリアム・テル序曲 」。  

病院を抜け出して来たダニーが見守る中で、渾身の演奏を披露した「グリムリー・コリアリー・バンド」の全国制覇が成し遂げられる展開もまた、初めから観る者に約束させているから、あとは、全国制覇の余韻を如何に観客に届けていくかという感動譚の締め具合で勝負するのみ。

この勝負を、一身に委ねられたのはダニーだった。

これも、殆ど予約済みである。

そして、華やかなステージの中枢に立ったダニーの、一世一代の政治批判の「糾弾スピーチ」が開かれていく。  

ロイヤル・アルバートホール

この辺りの言及は、本稿の肝でもあるので、稿を変えて批評する。  





3  一世一代の政治批判の「糾弾スピーチ」に収束する「音楽映画」





それは、一九八四年二月に始まり
一九八五年三月に終わり
この間の十二か月は
あたしの一生で最悪の時だった
炭坑夫が炭坑夫を裏切り
家族はまっぷたつにわれ
怒りとつらさにあたしはうろたえ
にもかかわらず、あたしにできることは何もなかった
警官はブ夕だ、とあたしは思うようになったが
こんなに憎たらしいと思ったことはかつてなかったし
父さんがピケに加わってからは
万が一けがをするのではないかと
暴力にまきこまれはしないかと心配だった
警官はまるで、父さんたちをチリかホコリのように扱った
スト破りした連中を殺してやりたかった
マギー・サッチャーも死んでしまえばよいと思った


これは、「父さんの贈り物」(M・ホイオルズ、S・ヘミングス編 山崎勇治・田中美保子訳 レター・ボックス社)の一節で、児童文学書評のサイトからの引用である。  

そのサイトで、著者は書いている。

「この詩が示すように、イギリスの炭鉱ストを子どもの目から追ったものである。炭鉱ストの影響をもろに受けた子どもたちは、平和な家庭が崩れたり、警官や一部の近所の人々や友だちなどを敵対する存在として考えざるを得なくなったり、お金がなくなり、やむなく共同で飯場で食事をとらなければならなくなったりしたことに戸惑うが、ヤマを守るため、子どもの未来を守るためにたくましく闘う親たちの姿に共感する。
子どもたちは、炭坑夫の子どもであることを誇りにし、ヤマをつぶそうとする政府に怒りを感じる。炭坑夫の値打ちは『黄金よりも尊いもの』といい、炭坑夫こそは『本当に国を思う、英国人の中の英国人』で、『炭坑夫魂はイギリス全土の権力と栄光の中にやどっている』という」(森恵子 図書新聞 1987/09/12)    

「炭坑夫が炭坑夫を裏切り 家族はまっぷたつにわれ」という子供の詩の背景になっているのは、スト派と反スト派間での暴力抗争が惹起し、その泥沼の抗争の中で死者も出した、1984~85年「全国炭坑労働組合」(NUM)のストライキのこと。  

この大規模なストは、炭坑労組の弱腰を詰(なじ)るフィルの激情的炸裂のエピソードとして、本作でも描かれていたが、英国労働組合史上、炭坑労組の決定的敗北の画期と考えられる著名な労働事件である。  

炭鉱労働者ストライキ(1984–1985)①
この一件で、如何にマーガレット・サッチャーが、彼らの怨嗟の的となっていたかという事実が読み取れる。  

この間の一連の閉山の流れで、「イギリス炭鉱夫の誇り」が決定的に傷つけられたという思いの結晶点 ―― それが、ダニーの優勝スピーチに結ばれたのである。

―― 以下、無記名投票で8割が閉鎖に賛成という「炭坑夫魂の死」を最も深く嘆き、肺を冒され、物理的な昇天まもない男の、そこだけを確信犯的に狙った、物語を収束させる優勝スピーチの全文を紹介する。    

「後ろにいる皆が、俺を喜ばそうと優勝してくれた。でも、それは違う。本当に大切なのは音楽です。彼らの演奏です。それこそが宝です。このトロフィーを勝ち取るのが我々の夢でした。残念ながら、優勝は返上します。これは、俺だけの問題ではない。
10年前から、政府は意図的に炭鉱を潰してきました。炭鉱だけでなく、村や家や人生を、進歩の名の下に潰した。我々の働く炭鉱も、2日前に閉鎖になった。何千人もの労働者が仕事を失った。仕事だけでなく、勝つ意欲も、闘う意志も失った。生きる希望さえ失われそうになってる。息さえも。もし我々が、アザラシやクジラなら助けてもらえたろう。だが、我々は普通の人間だ。誇り高い人間だ。なのに、ひと握りの希望も残ってないのです。確かに演奏は素晴らしく、上手い。だが、それでどうなる?街でも見て帰ります。さようなら」


多くの観客の神経を逆撫ですることを承知で、正直に書くが、映画的に言えば、映像それ自身が表現し得るマキシマムな効果に依拠することなく、基幹メッセージの一切を、こんなチープな台詞に収斂させてしまう手法は、驚くほどベタ過ぎて臭く、且つ、聴衆の情感に訴えるセンチメントのみが膨張されたスピーチの内実もまた、あまりに短絡的で浅薄過ぎる。

だから私は、このロジカルエラー(論理的過誤)に充ちたスピーチを受容しない。  

違和感を覚えてしまうのだ。

ここまで明瞭に政治的な主張をされると、さすがに、狭隘な政治的メッセージ性を臆面もなく押し出してきた、この確信犯的プロパガンダに言葉を失ってしまう。

それまでダニーが、炭鉱閉鎖という最も深刻な問題に全く言及しなかったのは、全てがこの確信犯的メッセージに収束させるための、狡猾なギミックであったということだったのか。

炭鉱労働者ストライキ(19841985)

結局、「退職金の増額と特別手当」という人参を、「善」の象徴である炭坑労働者の鼻先にチラつかせて懐柔する、「悪」の権化として類型化された炭坑局の政治手法=「サッチャリズム」・「新自由主義」を批判するために、相当程度、作為的に音楽を利用したという印象を拭えないのである。

殆ど「予定調和」のラインに沿って振れていった果ての、この優勝スピーチでの炸裂の瞬間のインパクトは、耳触りが良いばかりに、全てを台詞に変換させてしまう凡俗な手法の致命的瑕疵を見えにくくさせただけで、物語を軟着させる風景の映像構築力の貧困さが際立ってしまったと言わざるを得ないのである。

観ている私の方が、気恥ずかしくなった。  

「進歩の名の下に」とダニーは声高に言うが、「技術進歩」によって石炭が産業革命の主要なエネルギー源となり、そこで働く炭鉱労働者の存在そのものが、その「進歩」の物理的・文化的結晶点ではなかったのか。

同時に、その炭鉱労働者に余裕が生れたことで、「英国式ブラスバンド」という輝かしさは、英国の歴史の「文化的進歩」に結実したのではないのか。

眼の前に、自分たちの快楽を具現する技術を一度手にしてしまったら、それを放棄することなど決してあり得ない。

これが、私たちホモサピエンスの性(さが)であると言っていい。

私たちは、このようにして「文化」を作り、それを継承してきた。

このような「文化」の継承なくして、私たちの現在は存在しない。

それは、限りなく欲望の稜線を開くことを止められない私たちの、飽くなき「進歩」への根源的希求である。

余談だが、私たちは「エボラ出血熱」の恐怖に怯え、それと戦っていたが、この戦いに成就する方法はただ一つ。

現時点で承認されたワクチンや治療薬が存在しない、エボラウイルスによる急性熱性疾患であるエボラ熱のパンデミックを抑えるための、疫学的研究の「進歩」の切り開きという一点に尽きるのだ。

エボラ出血熱の感染者 と2人の看護師
自分たちの都合のいい「進歩」だけを「善」とし、それを認めない体制的権力の「政策」の一切を「悪」と看做(みな)す狭隘な発想こそが、むしろ、私たちの普通の律動感を吸収しつつ、様々な困難な問題を解決していく「進歩」に対する否定的態度であると言っていい。

ところで、ダニーの言う「進歩」の概念の意味は、どうやら、ここで私が言及した指摘と位相を異にする文脈であると思われる。

要求貫徹まで長期ストを辞さない炭坑労組によって、国家経済の地盤沈下を招来する事態の解決策の一つであった炭鉱閉鎖の問題を、如何に合理的に収束させていくかという、炭鉱労働者の生活権を賭けた再就職を含む、純粋に、労働問題の軟着点の方法の模索の問題に過ぎないのに、なぜ、「進歩」の問題に変換させてしまうのか。

しかも厄介なことに、物語では、地質調査員のグロリアの報告書を炭坑局が無視したシーンに象徴されるように、「既定路線としての閉鉱」の「約束事」の枠組みの中で、類型化された人物描写をなぞる炭坑局の政治手法=「サッチャリズム」・「新自由主義」の「悪」を、徹底的に糾弾するという確信犯的プロパガンダに堕してしまっているから、余計に始末が悪かった。

テーマを変える。

ダニーという男のこと。

それにしても、この男は、何と身勝手な人物なのだろう。

「優勝は返上します」  

そう言ったのだ。

優勝の返上は、政府に対する抗議の意思表示であるが、「後ろにいる皆が、俺を喜ばそうと優勝してくれた」などと恥ずかしげもなく語った後で、ダニー抜きに全身全霊を傾けて演奏した楽団員たちの思いを無視して、「政府告発」の優勝スピーチを結ぶのである。


自分は年金生活者であるのに、支払い余力ゼロの楽団員たちから、強引に楽団費を収めさせたばかりか、全てにおいて絶望的状況に置かれている息子のフィルに、新しいトロンボーンを買うことを求める言行には、「楽団より大切なものがある」というフィルの当然過ぎる物言いに対して、「楽団命」という欲望の稜線を伸ばし切った男のエゴイズムしか見えないのである。  

「生きる希望さえ失われそうになってる」のは、「全英ブラスバンド選手権大会」の決勝を主催するロイヤル・アルバート・ホールへの拘泥によって、楽団員たちに無茶な心理的圧力をかけ過ぎてきたからではないのか。  

大体、ダニー抜きの楽団員たちには、ロイヤル・アルバート・ホールへの旅費もない状態だったのだ。  

その由々しき問題を解決したのは、炭坑局に裏切られたグロリアの資金援助。

ご都合主義の禁じ手を平気で駆使する物語の安直性。

金銭の問題に一切関わることなく、ロイヤル・アルバート・ホールでの演奏のプレッシャーだけをかけ過ぎる男は、その夢を果たした後で、信じ難きことを言ってのけた。

「確かに演奏は素晴らしく、上手い。だが、それでどうなる?街でも見て帰ります」  

一頻(ひとしき)り、「サッチャリズム」・「新自由主義」の「悪」を糾弾したら、もう、それで自己完結してしまうのである。  

この身勝手さに、言葉を失うほどだった。

そして、完成度が決して高くないこの映画は、フィルの家族の再生と、アンディとグロリアの愛の復元という、完璧に「予定調和」のラインをなぞっていって、温和なイメージのうちに閉じていく。  

その後、再就職するだろう楽団員の面々には、「フル・モンティ」(1997年製作)のような、ストリップしてでも生きていくという気概が全くなく、ただ単に、身勝手な男の夢の中で翻弄され、消費されていった。  

バイアスがかかった物言いをすれば、楽団員たちの腑抜けぶりと、その暗欝な生活様態は、「政治の犠牲になった者たち」の凄惨さの印象強度を確保するために切り取られた風景であったとも思われるのだ。

極言すれば、彼らの音楽は、どこまでも、「労働党万歳!」という政治的主張の出汁(だし)に使われたという印象を払拭し得ないのである。  

但し、ダニー役のピート・ポスルスウェイトの演技力は、ここでも一人だけ抜きん出て目立つ存在感を示していて、私の好きなジム・シェリダン監督の「父の祈りを」(1993年製作)の、父ジュゼッペ役の抑えた演技が強烈な印象を残している。  





4  「サッチャリズム」とは何だったのか






ここまで確信犯的プロパガンダを見せつけられたので、その政治的主張の独善性について言及したい。

第二次大戦後,イギリスは労働党政権下で、石炭,電力、鉄鋼、鉄道、自動車産業、道路輸送などを国有化した結果(産業国有化政策)、国際競争力を失って、輸出が減少し、輸入が増加する事態を招来していく。

当然の如く、貿易収支は悪化していき、ポンドは切り下がり、国民一人当りの所得の低下は経済成長を停滞させ、スタグフレーション(不況であるにも拘らず、物価が上がり続ける状態)が発生し、眼を覆う惨状を呈した。

産業国有化政策の主体・英国労働党にとって、重要産業の国有化は社会主義政党としての当然の帰結だったのだ。  

経済学者・ウィリアム・ベバリッジによって提唱された、「ベバリッジ報告」に見られる社会保障制度拡充の報告は、先進各国の社会福祉政策の指針となったものの、「揺りかごから墓場まで」という英国労働党の掲げたスローガンに止めを刺す社会保障費の膨大な財政支出と、国民の勤労意欲の低下を必至にして、既得権益の発生等の経済・社会的問題が深刻になる事態を回避し得なかったのである。

国家予算の25%が投じられた「NHS」(国営医療サービス事業)による財政圧迫は、先進各国の社会福祉政策の指針となったものの、数ヶ月もの診療待ちを常態化した「医療崩壊」を招来するに至る。

ウィリアム・ベバリッジ
世に言う、「英国病」である。

この「英国病」の蔓延は、オーストリアの経済学者・フリードリヒ・ハイエクの「リバタリアニズム」(他者の権利を侵害しない限り、各人の行動は基本的に自由であると主張する)の影響を受け、「小さな政府」を目指す、保守党のマーガレット・サッチャー政権の登場を不可避にしたと言える。

国家財政が破綻し、IMF(国際通貨基金)から融資を受けることとなったのは、1976年のこと。

この政治の現実の様相が、財政支出の削減を余儀なくされ、世界中の人が羨ましがった「福祉先進国・イギリス」のあられもない風景だった。

思えば、国有化政策に対して基本的に反対のスタンスを確保していた英国保守党が、政権を担った期間(1951年から1964年、1970年から1974年)では、鉄鋼など一部の産業の民営化が実施されたものの、強固な勢力を誇る労組との対決を恐れるあまり、抜本的な改革の遂行にまで届かなかった。

イギリスの戦闘的な労組の最大の問題は、企業経営や国民総体の利益を無視し、要求貫徹まで、長期ストを辞さないまでの対決姿勢への堅固な拘泥にあると言っていい。

英国資本が海外へ流出するのは理の当然だった。

製造業の設備投資の不足で輸出が減少し、輸入が増加する悪循環で、貿易収支が悪化の一途を辿るのもまた、当然至極だった。

英国の国家経済の地盤沈下が明瞭になっても、永らく、イギリス国民にとって、石炭は国の活力の象徴であったが故に、炭鉱労働者を無碍(むげ)に切り捨てることもできなかったのも事実。

それ故,石炭産業の斜陽化の流れが世界的に既成事実化しても、1980年代に踏み込んでもなお、炭鉱閉鎖に方向転換できなかった石炭産業の土手っ腹に、革命的な変換をもたらしたのは、英国病の主因であった労働組合改革、行財政改革を断行したマーガレット・サッチャーだった。

労働党の「巨人」キャラハン
スト破り防止のための監視線・ピケットラインを超えても組合に制裁されない権利(ストの不参加権)や、労働者の賃金から組合費を控除し、労働組合に一括して渡す「チェックオフ」の停止権を労働者個人の権利として確立していく(1988年雇用法)。

更に、企業内組合が多い日本ではあまり見られないが、「クローズドショップ制」(特定の労組に加入している労働者のみを採用し、組合員資格を失ったときは解雇する制度)の廃止(1990年法雇用法)や、雇用に関係ない争議行為を禁止したり、労働争議の事前届出制に象徴されるように、サッチャー政権の意志の中枢には、既得権益を死守するだけの、産業を麻痺させる長期ストを武器とする、堅固な労働組合・「全国炭鉱労組」との戦いの風景が明瞭に見えることである。

労働組合を怖れて逃げ続けてきた、これまでの保守党政権で、誰かがやらねばならなかった、「英国病」の主因であった労働組合改革の断行。

これが大きかった。

高失業率(2015年の失業率は5.4%)や所得格差の問題など、毀誉褒貶(きよほうへん)が相半ばするサッチャーの最大の功績を挙げるとすれば、採算性の悪化を野放しにしていた国営企業の民営化という一点に尽きるだろう。

英国の失業率(%)

1979年のBP(英国石油)に始まって、航空宇宙、道路輸送、自動車生産、通信、航空、空港、鉄道、鉄鋼、水道、電力、石炭など、殆ど全ての国有産業で民営化が断行された結果、何が起こったか。

ストの減少により、労働生産性が向上したのである。

同時に、ケインズ主義的な総需要管理政策と決別して、公共支出と財政赤字の削減を目標に据える財政政策の一環で、所得減税と資産課税減税を実施し、その税収を付加価値税の増税で補填したり、「人頭税」(各個人に一律に同額を課する租税)の導入を図ったりした政策によって、国民の不満と社会不安が増大したのは問題だが、それまで絶え間なかった労働争議の減少によって、良好な経営環境と高度な生産効率を可能にする、現在の英国の経済環境を構築した「サッチャリズム」の功績を全否定することは難しい。

但し、「人頭税」の導入において国民の不満が増大し、サッチャー首相は辞職したが、「ビッグバン」という規制緩和政策によって外国資本に荒らされ、国内企業が競争に敗れるという「ウィンブルドン現象」を惹起させた責任は免れないだろう。

―― 本稿の最後に、「サッチャリズム」を簡単に集約する指摘を、以下に紹介する。

「低生産性、低効率、高インフレといった形で、どのようなコストがふりかかろうとも完全雇用を維持するという従来のやり方をサッチャー政権が拒否したこと、資源の面でどんなに高くつこうとも福祉国家を維持するというやり方を拒否したこと、不況地域の雇用を維持するため衰退産業を維持するというやり方を拒否したことなど、いずれもそれ自体としては、誤った政策だとか政策が失敗した証拠だとかを決めつけることはできない。それどころか、それらはイギリスの長期的な経済問題にようやく手がつけられたことを示しているのかもしれない」( サッチャーの政策 岩崎新哉 Adobe PDF

【参考資料】 サッチャー時代は終わったのか?―東レ経営研究所(Adobe PDF)  1984~85年イギリス炭坑ストライキ敗北の歴史的意義(1)  生き生きフォーラムHP・「戦後イギリスの経済政策」

(2017年9月)


2017年3月16日木曜日

キャロル(’15)   トッド・ヘインズ


<「家族主義の時代」の「差別前線」の包囲網を突き抜け、抑圧からの女性の解放を描いた傑作>





1  抑圧の縛りを穿ち、新しい人生に踏み込んでいく二人の女の葛藤と再構築の物語





消費文明が一つのピークを迎えて、健全な「家族主義」を謳歌する「フィフティーズ」(50年代)の時代の渦中にあって、二人は運命的な出会いをする。

キャロルとテレーズである。

ニューヨークのデパートの玩具売り場で働いていたテレーズが、4歳の娘のために人形を買いに来たキャロルと視線が合って、一瞬にして惹かれてしまう。

キャロル(右)とテレーズ
ショーウィンドーに置き忘れた手袋を、テレーズが郵送したことを契機に、キャロルはテレーズを昼食に誘い、自宅に迎えることを約束する。

そのキャロルは、娘の養育権問題で、夫・ハージとの離婚の意志を固めていた。

その原因は、かつて、妻のキャロルがアビーという名の女性と同性愛の関係にあった事実と無縁でなかった。

だから、未だにアビーと会っていることを夫に問われ、「あなたと破局する遥か前に、彼女とは終わったわ」と答えるキャロル。

つまり、このキャロルの「性的指向」の問題を夫婦で共有した上での、離婚の合意だったのだ。

単独親権を主張するハージは、アビーと妻・キャロルとの関係を証拠に「道徳条項」を持ち出し、娘を永久に引き離す正当性を審問するというところまで、事態は悪化していく。

キャロルの孤独が、いよいよ深まっていくのだ。

テレーズとリチャード
一方、キャロルと出会ったことで、写真家志望のテレーズにはリチャードという恋人がいながらも、自分の「性的指向」が抑えられない感情が噴き上がってきて、情緒不安定な日常性を繋いでいた。

娘を永久に奪われる不安を抱えたキャロルが、同様に、情緒不安定なテレーズとの関係が深まっていくのは必至だった。

「あなたも、一緒に行かないかしら」

「審問」(法廷出頭なしに、裁判所が当事者に詳しく問いただすこと)までの不安を払拭するために、テレーズに旅の同行を求めるキャロル。

恋人のリチャードを置き去りにし、嬉々として、キャロルとの旅に同行するテレーズ。

モーテルに泊まる二人は、そこで新年を迎える。

一切の障害のない二人は初めて情を交わし、それを求めていた者の至福の境地を味わうのだ。

しかし、事態は一転する。

二人を尾行して来た私立探偵によって、モーテルでの二人の情事の録音テープが、依頼主の夫に送られてしまった事実を知り、動揺するキャロルだが、彼女は怯(ひる)まない。

平静を失い、激しく動揺するテレーズを慰め、人生の遥か先の未知のゾーンへの架橋を求めていくのだ。

「映画の途中、視点が変わり、キャロルがテレーズを見る視点になることもある。その時は、キャロルがテレーズに一緒にいて欲しいと思っているんだ」(トッド・ヘインズ監督インタビュー)

トッド・ヘインズ監督が語っているように、この一連のシーンでは、キャロルの視点に変換されている。

暗室でのテレーズ(序盤のシーン)
その後、モーテルで撮ったキャロルの寝顔を現像し、焼付けて引き伸ばしたキャロルの画像を見て、彼女への思いが断ち切れず、テレーズはキャロルに電話する。

「会いたいの。たまらなく…」

一方的に自分の思いを伝え、自ら電話を切るテレーズ。

娘・リンディへの母の強い思い
テレーズの思いを受容しながら、娘・リンディと会うために一時的に距離を置くキャロルだが、しかし、夫の実家に赴き、精神的に束縛されている息苦しさがピークに達し、彼女の限界も、それまでだった。

かくて、テレーズとの関係をはっきりと認め、離婚して、自分の生き方を貫くことを宣言するキャロル。

後述するが、本作の肝になるシーンである。

自由になったキャロルは、自分を求めていると信じるテレーズに会いに行く。

「憎むわけないわ」とテレーズ。
「仕事で忙しそうね。とても嬉しく思うわ。それに、すごく綺麗よ。突然、花開いたみたい。私と離れたから?」とキャロル。
「いいえ」

煩悶するテレーズ
マディソン街に部屋を借り、そこで、二人で一緒に住むことを提案するキャロル。

「それはできないわ」とテレーズ。
「愛してるわ」とキャロル。

しかし、キャロルを愛するテレーズの思いは変わらない。

だから、煩悶する。

ラストシーン。

キャロルを見つめ続けるテレーズ
会食に招かれているキャロルを追い、その場に立ち、キャロルを見つめ続けるテレーズ。

そして、一歩一歩、キャロルのもとに近づいていく。

テレーズの視線に気づき、小さな笑みを返すキャロル。

小さな笑みを返すキャロル
ラストカットである。

二人が運命的な出会いをした冒頭のシーンに円環するが、しかし、この再会は新しい人生に踏み込んでいく二人の女の力強いメッセージになっていた。





2  同性愛者を異性愛者に変える「嫌悪療法」が実施されていた重い歴史





「政治的、社会的偽善や抑圧はずっと興味を持ってきたことだ。女性は男性より社会的プレッシャーや限界に苦しんでいる。だから女性の話を語ることは、社会的要素について考えることになり、それが僕にとっては政治的で重大なことだ

トッド・ヘインズ監督
この映画は、トッド・ヘインズ監督の以上の言葉に集約されると言っていい。

作り手が「ストーンウォールの反乱」(注)に言及したことでも分明なように、本作は、単に、同性愛の形を成した女性同士のラブストーリーに収斂させるものではなく、同性愛を「愛」の一つの様態であると認知しなかった絶望的な時代の、「偏見・差別・抑圧」の「前線」の圧倒的な制約を突き抜け、凛としてカミングアウトし、社会的自立に向かっていく厳しい〈状況〉を、二人の女の濃密な時間を、クラシカルに紡ぐメロドラマ的主線を張った手法で、なお残る文化の陋習(ろうしゅう)を指弾する意図を抱懐して、同性愛を「愛」の一つの様態であると確信犯的に宣言し、抑圧からの女性の解放を描いた傑作である。

―― 以下、本作の社会的・文化的・生物学的視座から批評したい。

同性愛は「性的指向」である。

幼児期の時期に決定される「性的指向」とは、性愛の対象が「異性・同性・両性」(LGB)のいずれかに向かうのかを示す概念である。

言うまでもなく、その「性的指向」が同性に向かうのが同性愛である。

下世話な説明だが、オナニーの対象が異性か同性かによって、「性的指向」が判然とする可能性が高いとも言えるが、決定的ではない。

子孫を残す上で不利な性質であるにも拘らず、なぜ、淘汰されずに、この「性的指向」が残っているのかという一点において、進化論的な説明を避けては通れないと思われる。

LGBTのシンボルとなっているレインボーフラッグ(LGBTの社会運動を象徴する旗)

現在、WHO(世界保健機関)がLGBTを治療の対象にしていないという事実は大きいが、動物(鳥類・哺乳類)にも存在する同性愛の生物学的メカニズムについては、殆ど何も分っていないのが現状である。

全世界の人口の約90%以上を占めると言われる異性愛者に対して、LGBT(身体の性と心の性が一致しないT=トランスジェンダー、「自分は男性(女性)である」という自己認識を持つ「性自認」であることで、「性的指向」のLGBと分かれている)は10%に満たないが(電通の調査によると7.6%)、発想転換すれば、ノーマルな「性」とされる異性愛もまた、「性的指向」であると言えるだろう

レズビアンのカップル(ウィキ)
ただ、永遠に断絶することなく、子孫繁栄に寄与するという生物学的根拠によって、異性愛だけが淘汰されずに残ってきたという、進化論的な解釈が最も説得力を持つのは否定しがたい。

ともあれ、この「性的指向」である同性愛を普遍的な人権として尊重される風潮が、先進国を中心に見られつつある。

然るに、同性愛行為を終身刑とするウガンダの「反同性愛法」は極端な例だが、同性愛行為をした者に刑罰を科した有名な「ソドミー法」(英連邦圏を中心に存在していた)が実質的に終焉しつつも、同性愛が「セクシャル・ マイノリティ」(性的少数派)である現実によって、なお偏見と差別のターゲットにされているのは紛れもない事実。

まして、健全なる「家族主義の時代」を謳歌し、「ゴールデンエイジ」と呼ばれる「フィフティーズ」(50年代)という時代限定の渦中にあって、「セクシュアルマイノリティ」が、その煩悶を抱え続ける孤独の辛さは、善かれ悪しかれ、LGBTという言葉が普通に使われている現代から見れば、隔世の感があるだろう

ハリー・スタック・サリヴァン
なぜなら、当時の米国には、統合失調症治療で多大な功績をあげた、新フロイト派の代表格・ハリー・スタック・サリヴァンが、思春期に同性の親友との関係性に頓挫した結果、「同性愛者」が生まれると説いた事実に端的に表れているように、新フロイト派の精神分析や行動療法による、同性愛者を異性愛者に変えるための心理療法が実施されていた重い歴史があるからだ。

中でも、「嫌悪療法」は、同性の裸体の写真を見せた後、クライエントに電気ショックや、嘔気を催す薬物を与える療法として、ごく普通に実施されていたのである。

また、ほぼ同時代に惹起した、マッカーシズムの「同性愛者狩り」を俯瞰しても、ホモフォビア(同性愛嫌悪)の歴史の根深さは無視できないが、DSM-II(米国精神医学会の診断基準第2版)において、「人格障害」の分類にふくまれていた「同性愛」が精神障害ではないとされたのは、DSM-III(1973年)まで待たねばならなかったのである。



ストーンウォールの反乱
(注)1969年、ニューヨーク市警のゲイバーに対する差別的・強権的捜査への反発によって起こった、セクシュアル・マイノリティの暴動。





3  「家族主義の時代」の「差別前線」の包囲網を突き抜け、抑圧からの女性の解放を描いた傑作





エデンより彼方に  より
「フィフティーズ」の渦中にあって、健全なる「家族主義の時代」の風景の基調に合わせて、自らの「性的指向」を隠し込んでいくことは、唯一、求められた「生き方」だった。

その「生き方」が不本意であると明瞭に認知し、それを大きく変容させていくには、その行動を後押しする物理的・心理的推進力が必要だった。

即ち、「性的指向」を同じにする者との「出会い」と「共感」、そして「性愛」への階梯(かいてい)にまで登り詰めていく物理的・心理的推進力である。

この推進力なしに、健全なる「家族主義の時代」の風景の中枢に風穴を穿(うが)ことは叶わないだろう。

―― ここから、物語の世界に入っていく。

冒頭で、映画のヒロイン・テレーズが、出会ったばかりのキャロルから、4歳の頃、何が欲しかったかと聞かれ、列車だと答えるシーンが印象深かった。

その頃より、既に、女の子が普通に興味を持つ人形ではなく、男の子と同じ趣向性があった事実を暗示しているからだ。

夫・ハージとキャロル
4歳の娘を持ちながら、親権を巡る離婚調停の渦中にあり、「家族主義の時代」の風景に馴染めないでいたキャロルもまた、一方的な「憧憬」の対象として、テレーズからの視線を柔和に受け入れ、それを延長させていた行為は、アビーとの「性的指向」という「道徳条項」によって、娘を永久に奪われる不安解消の孤独の穴埋めでもあった。

それは同時に、テレーズとの「出会い」に「性的指向」を同じにする者の「共感」が発生し、最も自分にフィットする新たな人生の再構築の、その意識レベルの高まりが決定的に反応していったと考えられる。

映画の中で、キャロルから両肩に手を乗せられるシーンが、度々ある。

これは、テレーズの「性的指向」を端的に示す重要なシーンである。

テレーズにとって、異性の恋人より、同性との身体的接触の方が性的興奮を感じることを映像提示しているのだ。

そして、この関係濃度の深まりの延長上に、モーテルでのキャロルの両手が、今度は確信的に、且つ、全く何の障壁もない自由の境地の中で、テレーズの身体を這っていく。

それを求めていたテレーズもまた、キャロルの誘惑に自ら飛び込み、「性的指向」を同じにする者の性的興奮を満たしていくのだ。

しかし、私立探偵によって盗聴された事件が、二人を現実の世俗世界に一気に引き戻していく。

「何を考えてるの?何度、同じ質問させるの」とキャロル。
「ごめんなさい。何を考えているのか。私が自分勝手で…」とテレーズ。
「何を言うの。まさか、こうなるとは」
「あなたの誘いを断るべきだった。自分勝手よ。なぜなら…何も知らず、“ノー”と言えない。望みが分らないのに、すべてに“イエス”と」

明らかに、自らの「性的指向」を身体的に感じながら、その事実を、アイデンティティーとして客観的に認知することに逡巡する、成人化し切れないテレーズの自我の脆弱性が露わになる会話である。

嗚咽するテレーズの頬に、心身ともに成人化し切っているキャロルの両手が伸びていく。

「あなたの気持ちを、喜んで受け入れたの。あなたのせいじゃない、テレーズ」

これだけの会話だが、「確信犯」にまで登りつめた人妻と、未だ「確信犯」にまで登りつめない若い女との、その意識の固め方の乖離が露呈された重要な会話だった。

それは、「性的指向」の故に、恋人とも別れ切れない初心(うぶ)な女が、既に、自らの「性的指向」を隠し込むことなく、人生を再構築していこうとする女の懐に包摂されることで、同時に、困難な時代の閉塞状況を突き抜けていく辺りにまで最近接していくイメージが垣間見える。

しかし、どうしても登り切れない。

もう一つの人生の上のステップを開いていくには、テレーズの自我の脆弱性が肉質な変容を顕示させねばならない。

「最愛の人へ。偶然の出来事などない。彼は、いずれ、私たちを見つけたわ。すべては元に戻るのよ。そうなる運命なら、早い方がいい。ひどいと思うでしょうけど、どんな説明をしても虚しいわ。どうか怒らないで。あなたは若いから、解決や説明を求めるでしょう。でも、いつか分る時が来る。そして、その時、あなたを心から迎え入れる。私たちの人生には、永遠の夜明けが待つのよ。でも、それまでは、お互いに連絡し合わないこと。私は用事が多いし、あなたは、もっと忙しいはず。信じて。あなたが幸せになるなら、何でもする。だから今、私にできる唯一のことをするわ。あなたを解き放つ」

時代の閉塞状況を突き抜け切れないテレーズへの、「人妻」という「役割呼称」を捨てたキャロルからの手紙である。

この映画のエッセンスであると言っていい。

しかし、「フィフティーズ」の時代の制約の中で、精神治療を受けることを余儀なくされている、「役割呼称」を捨てたはずのキャロルの悲哀が炙り出されてくる。

夫・ハージの実家での出来事だった。

「いい人で、力になってくれます」

キャロルを担当する心理療法士への、彼女の評価である。

娘のリンディと会うためには、キャロルは、自分の思いとは完全に切れた妥協をするしかなかったのだ。

「もう、耐えられないわ。気取ったランチを、何度、繰り返せば…そして夜は、あの子なしで家に帰る」

アビー
アビーにのみ、自分の本音を吐露するキャロル。

テレーズと会いたいが、親権を剥奪される怖さから、車内からテレーズを見守るしかなかった。

しかし、キャロルの手紙を読んだテレーズは、「それまでは、お互いに連絡し合わないこと」という文言に拘泥(こうでい)してしまった。

キャロルからの別離の手紙であると考えてしまったのだ。

それほどまでに、キャロルを愛し過ぎて、もう、セルフコントロールができないナイーブさが暴れているテレーズの思いが、観る者に深々と突き刺さってくる。

かくて、NYタイムズで写真の仕事に携わるテレーズは、キャロルを忘れるために努力するが、彼女の煩悶は容易に浄化できないでいた。

「テレーズに言うべきだった。“待ってて”と」

これは、アビーに吐露したキャロルの言葉だが、この言葉が届かなかったために、テレーズを煩悶させている悔いが、キャロルの自我を支配していた。

キャロルが、車内からテレーズを見守る、この上なく切ないシーンは、表層的なメロドラマの通俗性を超えている。

そして、表層的なメロドラマの通俗性を超えた映画が提示したのは、親権を争う夫・ハージに対し、テレーズとの関係を認め、自らの意思を明言するシーンだった。

「あなたには、幸せになってほしい。私は、あなたを失望させたわ。互いにもっと、与え合えば…でも、リンディがいる。私たちが与え合った、途方もなく、素晴らしい贈り物よ。なのに、なぜリンディを互いから引き離そうとするの?テレーズとのことは、私が望んだことよ。否定はしない。でも、私は後悔してる。娘の人生を台無しにするのは、辛すぎる。私たち二人に責任があるのよ。だから、正しい判断を下さないと。リンディの親権はハージが持つべきよ。でないと、耐えられないから。自分のために何がいいのか分らない。でも、娘のために、何をすべきかは、分ってる。面会権を認めて。監視付きでもいい…自分を偽る生き方では、私の存在意義がない」

本作で最も重要なセリフである。

要するに、娘の幸せのために、夫婦で親権を争う醜い行為を、キャロルは明確に拒絶したのである。

離婚して、自分の生き方を貫くことを宣言したのだ。

一切は、この流れの延長線上にある。

迷いつつも、それを振り切って、自らの強い意思を固め、キャロルに会いに行き、相互に視線を合わせるラストシーンは、映画史上に残る出色の出来だった。

テレーズの人間的成長を告げる、このセリフなきラストは、観る者の心を痛切に打つ。

紛れもない傑作である。

エデンより彼方に  より
【参考資料】 拙稿・人生論的映画評論・続 「エデンより彼方に 

(2017年3月)