1 「この国を出たら、あの子はきっと必死に働くわ。家も買って、必ず家族が再会できる日が来る」
車の後部座席で父の足のギブスに落書きしたピアノの鍵盤から、幼い次男が美しい旋律(BGM)を奏でる。
次男 |
その次男が隠し持っていた携帯を父が取り上げ、母はそれを車から降りて、岩石群が連なる廃墟の大きな石の下に隠した。
父母 |
「帰りに回収するから」と父に宥(なだ)められた次男だが、すぐに母を追って出て行き、隠した場所の風景を目に焼き付ける。
イラン北西部の国境を目指す旅にあって、車内で父は黙考している。
車は長男が運転し、家族4人の旅が続行する。
レンタカーの窓に悪戯書きをした次男を叱咤していると、母が後ろを振り向き、「それより尾けてくる車がいる」と父に知らせる。
車を止めて愛犬ジェシーを下ろしておしっこをさせ、エアコンの水漏れを点検し、再び車は走り出した。
長男 |
押し黙って運転している長男の助手席で、母が古い歌謡曲を踊りながら歌い励まそうすると、激しく拒絶する長男。
「やめてくれ!僕はもう子供じゃない。最後の最後に何?」
「弟に聞こえる」
「逆に気が滅入るよ」
案の定、次男がすぐに反応する。
「“最後の最後”って、お兄ちゃんが」
「悪い意味じゃないわ。安心して」と母。
「いなくなるの?」
「結婚するんだ」と父。
「駆け落ちするんだ」と長男。
「やめて。捕まる…嫌な予感がする」と次男。
「すぐ戻ってくる」
そんな会話の中、併走する自転車レースの最後尾の選手に声をかけた途端、車に追突し、転倒させてしまった。
そのまま車を出せと言う父に逆らい、次男は車を止め、母と共に件(くだん)の選手を車に乗せた。
アームストロングに憧れている青年選手に対し、父はドーピングで記録を抹消され、永久追放されたと指摘する。
選手 |
フェイクニュースだと主張する青年に向かって父が諭す。
「悪いことは言わない。そんなつまらない反論はやめて、曇りのない正直な人生を送れ」
「さすがだ」と言う母と次男とで、「ムハンマド師とその子孫に神の祝福を」と3人が唱和する。
他の選手を追い越す車の中で、もらったピスタチオを拾うと言いながら、青年は窓から見えないように身を屈めた。
見え見えの不正行為である・
「不正も違法行為もしたことがないと?問題は境界線だ」と青年。
「実は長男のために…」と父。
「黙ってて」と母。
青年がレースに戻るために降車すると言ったので車を止めたところで、重い感染症で死ぬところを父が次男のために拾ってきたジェシーを、次男がおしっこに連れて行った。
なかなか戻らないので長男が車を降りて、年の離れた次男のところへ走って行くのである。
【アームストロングとはランス・アームストロングのことで、ドーピングの発覚でツール・ド・フランス7連覇の記録を国際自転車競技連合によって剥奪された米国の自転車ロードレース選手。本人もドーピングを認め、自転車競技からの永久追放の処分を科されている】
ランス・アームストロング |
車に残った父母の会話。
「家も車も失った。あの子を送り出すために。もう私には、あなたとチビだけ。先のこと考えてる?」
「これが俺の未来だ。何を言ってる」
「この国を出たら、あの子はきっと必死に働くわ。家も買って、必ず家族が再会できる日が来る」
直後の、タバコを吸いながら休憩する母と長男の会話。
「あなたの世界一の映画は?」
「…『2001年宇宙の旅』…心を奪われる。まるで禅だ。心が静まる。銀河の奥深くへ…」
「銀河は戦争ばかりよ。なぜ心が静まるの?男は理解不能」
「この映画は違う」
「それは何より。全能なる神に祈ります…映画の最後は?」
「宇宙船に、たった一人残された主人公が、ブラックホールの奥へどこまでも吸い込まれていく。30分間、スクリーンに映るのはそれだけ。時間と空間の果てを超えていく」
「行かないで…行かないで。お願い」
長男はそれを耳にして、逃げるように車に戻り、大音量で音楽をかけるのだ。
窓から頭を出している長男の髪を母が切る。
別離の時が近づいてきたのである。
2 「母親に涙を見せるな。だが父親の前なら…」
羊が放牧された山に入り、羊飼いから長男に持参させる羊皮を高く買わされて待機していると、バイクに乗って来た覆面男に指示された村へ、深い霧の中に車を走らせていく。
羊飼い |
詳しく道を聞かなかったため立ち往生するが、通りかかったマイクロバスに案内してもらうことになった。
その車に次男が乗り込み、やんちゃ盛りの次男の不在の車内で3人が話し合う。
「私たち何をしてるのかしら。あの子といると胸が苦しい。正直に話せばよかった。なのに、あの子には噓ばかり教えてきた」
「本当のことを話したら、ぺらぺら喋ってた」
「気の毒に。バスの中はきっと大騒ぎだわ」
「あいつには、どう話すつもり?」
「どうって何も言わないわよ。あなたは結婚して、花嫁と暮らすため、駆け落ちをした。すぐに戻ると。きっと泣くだろうけど、すぐに元気になるわ」
「2人は、いつまでも悲しむ?」
「まさか。大丈夫よ…いつか笑い話になるわ」
「そうかな?どこが笑えるのか。僕には分からない。あんなに頼んだろ。旅の間は、別れの話も涙も無しって。母さんを見てると胸が潰れそうだ。そんな様子じゃ、安心して行けないよ」
「悲しかったことを思い出しただけ。あなたとは関係ないわ。あなたが嫌がることをするわけないでしょう」
村に着き、長男は一人で待ち合わせ場所に向かったが、心配する母に促され、後から父が杖をついて追いかけて行った。
「出発はいつだ?」
「説明では、まず隔離されるらしい。隔離が終わったら、父さんたちが待つ場所に戻る。そこでお別れだ。2日後らしいから、帰ったほうが」
「うるさい。母さんがお前を残して帰るか?。国境まで付いていくぞ」
「もう行かないと置いてかれる」
「まさか。一時間後だろ?こっちに来て座れ。少し落ち着け」
「精神的ストレスが…」
「ストレスか…」
父は長男にリンゴを取ってこいと言いつけ、長男はそのリンゴを川で洗って父に渡す。
「今後はゴキブリを殺しても、トイレに流すな。両親が希望を託し、外の世界に送り出すはずだから」
「分かった」
「メソメソするな。母さんが悲しむ」
「気をつけてる」
「本当か?何度も見たぞ」
「もっと気をつけるよ」
「母親に涙を見せるな。だが父親の前なら…」
「僕が泣くと思ってる?」
「いいや。だが、もし泣きたいなら許可してやる」
「ご親切に」
リンゴを食べながら、二人は取り留めのない話をするのだ。
やがて、風景が一変していく。
トルコとの国境近くの小高く広がる丘には無数の羊がいた。
そこに 密輸業者が長男を迎えに来て、母親は羊皮と金を渡し、長男の荷物を持って来る。
今、長男は密輸業者に引き渡されていくのだ。
数日後に別れの挨拶に来るとのことだが、母は、買ってあった帽子とマフラーを寒くなるからと長男に身につけさせ、別れを惜しむのである。
長男が戻って来る間、テントを張って待つ3人。
同じような家族が待つキャンプ場で、夜になって焚火をし、父親は次男とバットマンの笑い話をするが、母や夜空を見上げて涙を零す。
別の家族の父親(左) |
闇の中を2台のバイクが走って来て、そこに集まった家族らの声が聞こえる。
「もう一度会えると」
「別れを言ってない」
母は途中まで行って泣きながら戻って来た。
「あの子が行ってしまった」
絶叫する母の痛みが夜の闇に響き渡った。
朝になり、父と母は眠れぬ夜を過ごし、憔悴しているところに、何も知らない次男がテントから起きて、屈託なく話しかけてくる様子を二人はいつものように優しく接して、遊びに行かせる。
母の涙が止まらない。
まもなく、3人の家族は帰路に就き、母が運転する車のサンルーフから体を乗り出した次男が、砂漠の風景に「すごい!」と興奮して叫んだ。
カーステレオで歌をボリュームいっぱいに流し、次男は踊り、父も踊り、母は歌う。
♪愛する人が去っていった
私の頬は青ざめていく
私は荒れ狂う愛の海の中
ノアの箱舟に取り残される
こんなにも故郷が恋しい
異国の地で神だけが私の支え
こんなにも故郷が恋しい
異国の地で神だけが私の支え
この胸の痛みは誰に届くだろう
この憑かれた声で何が歌えるだろう♪”
母は両頬を叩き、何とか悲しみから立ち直ろうと自らを鼓舞し、歌い続ける。
「ものすごく、愛してるわ!」と叫ぶ母の頬を次男がキスする。
突然、次男がジェシーの様子がおかしいと叫ぶ。
「ママ、パパ!ジェシーが苦しそう」
車から降ろされた虫の息だったジェシーが死に、父が墓穴を掘る。
母に背負われた次男が顔をあげ、大人になった声で歌うのだ。
♪私の愛する同郷の人よ
異国の地で誇り高く馬に乗る人よ
この土地に根を残しながら 最後のあなたも力尽きてしまった
喉の渇きにも平然と耐える それが私たちの誇りだった
風にさらわれてしまったものが 私たちのすべてだった
どんな秋があなたを呼んだのか
恋したあなたを ケシの花を追い求め 果敢に飛び立っていった
行かないで そばにいて
私は悲しく春を待っている
行かないで そばにいて
2人で太陽を取り戻そう
あなたと同じ恋する無数の鳥が 陽光を夢見て夜を渡っていった
怯むことなく いとも易々と
そのまま今も戻らない
夜に疲れたあなたに神のご加護を
けれど旅で痛みは癒えない
あなたが去った道は 朝日ではなく 夕日に向かう
闇が訪れる前にどうか戻ってきて♪
ジェシーを墓に埋葬した3人は車に戻り、Uターンして何もない砂漠の道を走る続けるのだった。
3 悲痛な叫びが夜の闇を切り裂いた
「熊はいない」がDVDで観られない中、尊敬するイランの不屈の映画作家、ジャファル・パナヒの長男の監督デビュー作というだけで観た。
不毛な決め台詞を金繰り捨て、天才的なパフォーマンスを発揮する幼い次男相手に日常会話を繋ぎながら「家族の最後の旅」が描かれていた。
自我の安寧を保てず崩れゆく母親の情動が昂進する、ラスト10分のシークエンスに身震いした。
涙も止まらなかった。
総合芸術としての映画の底力がフル稼働し、音楽の力をまざまざと見せつけられたからである。
「あの子が行ってしまった」
悲痛な叫びが夜の闇を切り裂いた。
長男との今生の別れを意味するだろう、この旅が内包する不条理な痛みが母の絶叫を必定とし、物語を貫流しているのだ。
ラストでの母の絶唱が観る者の情動を否応なしに掻き立て、奮い起こすパワーがあった。
♪この胸の痛みは誰に届くだろう 喉の渇きにも平然と耐える それが私たちの誇りだった あなたと同じ恋する無数の鳥が 陽光を夢見て夜を渡っていった そのまま今も戻らない けれど旅で痛みは癒えない あなたが去った道は 朝日ではなく 夕日に向かう 闇が訪れる前にどうか戻ってきて♪
ジェシーの死 |
魂の芯が打ち震える情動感染だった。
誰でも自由に音楽を作り、歌うことができた時代が終焉し、革命を機に規制が強化され、音楽に面白みがなくなってしまった時代の変容の景色を見せつけられているのか。
以下、パナー監督の率直な思いの束。
「イランの人たちは、この映画の家族のように、車で旅をするとき30~40年前の歌謡曲を好んで聴いています。昔の曲を聴くと、年配の人も、若い人も、みんな切ない気持ちになるんです。明るい曲調に聴こえるかもしれませんが、歌詞には哀しい思いが込められています。現在のイランでは映画製作にも規制があるので、セリフの代わりに使えるものは何でも使います。登場人物の心情を歌詞で代弁しているんです」
パナー・パナヒ監督 |
映画で音楽が多用された理由が、ここにある。
長男を失った母の哀惜の情はあまりに深い。
だから、咽(むせ)び泣く。
必死に堪(こら)えながら歌うのだ。
噴き出る余情を抑え付け、家族と別れてまで長男は国境を越えていった。
なぜか。
なぜ、長男は非合法な方法で外国への亡命の旅に打って出たのか。
「息子はまだ呼び出されてない」という父の言葉がインサートされていたことから推量すれば、徴兵逃れの可能性が考えられるが、政治的問題との関与も否定できないだろう。
【因みに、イランの徴兵制度は18歳の男性で18ヶ月間】
ただ、尾行に怯えながら進軍せんとする、寡黙な若者の出国の背景にある事情を考えれば頷けないこともない。
その背景について、本作の批評の一端として寄稿した的確なコラムを紹介する。
以下、毎日新聞のテヘラン支局長だった鵜塚健(うづかけん)のサイト「ひとシネマ/〝監視対象〟だった元テヘラン特派員が見たイラン映画の『自由への渇望、抑圧への怒り』」からの引用である。
【終盤、国境付近の村で長男との別れに際し、母親が取り乱すシーンがある。自宅を抵当に入れて資金を作り、家族が納得したうえでの送別のはずだが、具体的な未来も再会の保証もない別離はその重みが違う。現代のイラン人の場合、家族の別れには一定の「覚悟」が伴うのだ。私は特派員当時、一時帰国や出張の際にテヘラン郊外の国際空港をよく利用した。そこで印象的だったのは、家族や親族が総出で、若者を見送る光景だった。家族同士で何度も抱き合い別れを惜しむ。多くの若者が向かう先は欧州諸国や米国、豪州などだ。単なる観光旅行や短期留学で向かう人は少なく、長期の滞在を前提とし、『移民』となることも見据える。
(略)教育水準は中東屈指のレベルだが、失業率は高く、若者の絶望は深い。表現や集会、報道の自由も厳しく制限されている。そんな息苦しさから、母国に見切りをつけ、国境を越える若者は今も後を絶たない。現代イラン人の歴史は、移民の歴史でもある。
「暮らしにくくなったイランの若者たち、『行こう、トルコに』」より |
各地のデモの惨状 |
(略)今作品では、道中で母親が繰り返し悩む。父親は「これが正しい未来だ」と家族に、そして自分に言い聞かせる。やがて密出国の手配師と接触し、国境の村に向かう途中で迷い、分岐点を前に立ち止まる場面がある。家族が離ればなれになっても、自由で豊かな生活を追い求めるべきなのか。答えのない問いの前で逡巡(しゅんじゅん)する多くのイラン国民を象徴しているように感じた】
凄い形相で黙考する父親 |
思えば、マフサ・アミニさんの事件が出来し、反政府デモが激化したのは2022年9月だから、それ以前に制作された本篇での長男の亡命が反政府デモとの関与で説明できないことが分かるが、想定の範囲内で言えば、保守強硬派のライシ大統領(2021年8月)の登場によって国内の民主派に対する締め付け・弾圧が横行し、大きく変容していった政治の動向と深く関与しているということだ。
マフサ・アミニさん |
ライシ大統領 |
そう言えば、インスタグラムに「名誉あるイランの皆さん、さようなら。(略)私は英雄ではなく、抑圧された女性の一人だ。(体制の)道具に過ぎなかった」と書き込み、女性の権利を制限するイランの体制を批判し、「この決断は金メダルよりも難しかった。(略)どこにいても、私はイランの子どもだ」と訴えた記事が鮮烈な印象を残していた。(「『イランの皆さん、さようなら』 女性メダリスト亡命か」朝日新聞デジタル/2020年1月)
リオ五輪で、テコンドー女子57キロ級で銅メダルを獲得して喜ぶイランのキミア・アリザデ選手 |
そして今、ベルリン国際映画祭(2020年)で「金熊賞」に輝いたモハマド・ラスロフ監督が、国家安全保障に反する共謀罪で禁錮8年とむち打ちなどの判決が確定したことで、極秘出国という報道が波紋を広げている。
モハマド・ラスロフ監督 |
これらの記事で分かるように、イラン反体制派に対する当局の対応は甘くない。
2021年のことだ。
米国東部メリーランド州に住むイランからの亡命者を、イラン情報省の協力者が殺害した事件が起こり、米政府は「イラン国外で反体制派の抑圧が近年加速している」と警告した。
米国旗=米首都ワシントンで2023年11月14日 |
数々の反体制派を殺害したと言われる「イラン情報省」という闇の深さは半端ではないのである。
「イラン情報省が反イランテロ組織とサウジ情報機関との関係を示す証拠資料を公開」より |
当然ながら、米国の経済制裁の対象になっている。
【2024年5月19日、ライシ大統領はヘリコプター墜落事故により死亡】
イラン国営メディアが提供したライシ大統領搭乗のヘリ |
―― 本作に戻る。
底抜けて奔放な、止まる所を知らずに弾ける次男の存在が、光と影が揺曳(ようえい)する「家族の最後の旅」の時間を希釈させる物語を衝き抜く寂寥感(せきりょうかん)。
無理に吐き出すユーモアによっても囲い込めない人間の、究極の別離の痛みを抱える両親の内面が深い澱みの奥に沈殿し、それを埋める何ものもない時間を引き摺って、なお引き摺って、時間の向こうに踏み出す一歩。
その熱量の吹き出し口が塞がれても、時間の向こうに踏み出す一歩。
その構築なしに、枯れゆく時間に歯止めを食い止められない家族の内的時間の哀切は、何事にも緩やかな国で呼吸を繋ぐ私たちには想像の域を遥かに超えている。
光と影が揺曳する「家族の最後の旅」の時間だけが夜の闇で交叉し、宙刷りにされ、ここから一気に雪崩れ込む帰郷の旅の負荷が圧(お)し掛かってくるのだろうか。
それとも、途轍もない痛みを懐抱(かいほう)した苛酷な旅の行路を捻(ねじ)り込んだ熱量の推進力が、なお時間を延ばして解放系に向かって直走(ひたはし)るのだろうか。
無邪気さを払拭した次男の絶唱で閉じるラストは、その暗喩だったのか。
ジェシーの死によって、その哀しみを乗り越えて思春期に生まれ変わる児童の構図。
全てが映画的なのだ。
そう思わせる映像表現力が、そこにあった。
それにしても、日本公開にあたりイラン・イスラム共和国大使館イラン文化センターという紛れもない政府機関が本作を後援していること。
イラン・イスラム共和国大使館イラン文化センター/世界観光デーの集会で |
同上 |
政治的表現を完全に封印して、敬虔なイスラム教徒の母の心理の遷移を物語のコアにすることで、イラン当局の厳しい検閲を潜(くぐ)り抜けたであろうことが推量できるものの、正直、これには驚いた。
権力に媚びずに、映画作家としての矜持を貫いた父ジャファル・パナヒの影響下にあって、「2001年宇宙の旅」を150回以上観ていて、世界一の映画と言い切るパナー・パナヒ監督の感性の鋭敏さは只者ではない。
「2001年宇宙の旅」より |
以下、監督の述懐。
「確かに私は父が苦労してきた姿をずっと見てきましたが、いくらそばにいたとしても、自分も同じ立場になって同じ経験をしない限りは、父の苦労を本当の意味で理解することはできないのではないかと思ったんです。それが映画監督になろうと考えた決め手の一つであるかもしれません。心から映画を愛しているのであれば、たとえどんな困難に見舞われようとも映画を作りたいという思いが湧きあがるもの。もうやめたいと思うような出来事を経験するまでは、きっと撮り続けると思います」
ここに加える言辞の何ものもない。
30代の素晴らしい映画作家が、ここに誕生したのである。
4 イラン社会が揺れている
イスラエルによるガザ地区での軍事行動に終わりが見えない状況下にあって、コッズ部隊の司令官ザヘディ准将を含むイラン革命防衛隊隊幹部の将官7人を殺害した、イスラエルによる在シリアのイラン大使館空爆に対するイランの報復によって緊張が高まっているが、「弱腰」回避の世論の影響を受けたイラン政権の報復(初の直接攻撃)が限定的であったことは了解可能である。
イラン大使館の隣にある領事部が攻撃され破壊された |
イスラエルによるダマスカスのイラン大使館空爆(ウィキ) |
ヒズボラ・ハマス・イスラーム聖戦・フーシ派・タリバンなどのテロ組織への支援を遂行する革命防衛隊は国軍とは別の指揮系統にあり、ハメネイ師を最高指導者と仰ぐイラン指導部の親衛隊で、宗派を超えた連帯関係(ハマスとタリバンはスンニ派)を築き、革命の「輸出」を担う厄介な国家軍事組織だが、「悪魔」と見做す米国との全面戦争を望んでいないのも了解可能。
テヘランで開かれたイラン・イスラム革命40周年の記念式典で、気勢を上げる革命防衛隊の隊員 |
イラン軍による新型コロナウイルス対策 |
【因みに、シーア派とスンニ派の違いは、7世紀の初めにアラビア半島で生まれた預言者ムハンマド(マホメット)の血統重視の前者に対して、後者は、ムハンマドの教えを重視する】
シーア派とスンニ派の違い |
そんなイランにあって、50%にも及ぶと言われるインフレ率と10%近い失業率の経済課題には若干の緩和が見てとれるものの、依然としてボトルネックになっている。
イランのインフレ率の推移 |
そして尚、反米・保守強硬派、故ライシの登場で反政府デモが激化している。
「ヘジャブ」(ヒジャブ)のかぶり方が不適切だとして道徳警察(風紀警察・服装警察)に逮捕、連行され、3日後に急死したマフサ・アミニさんの事件のことだ。
そして今、BBCによると、2022年に反政府デモに参加した後に死亡した16歳の少女シャカラミさんが、イランの治安部隊に所属する男性3人に性加害を受けて殺害されたという事件が発覚した。
ニカ・シャカラミさんは、警察に追われていると友人にメッセージを送っていた |
革命防衛隊の内部報告書をBBCが入手したことで判明した事件である。
シャカラミさんも、アミニさんの死を契機に始まった「女性・命・自由」運動に参加した一人だった。
イラン大使館の近くの交差点で「女性、命、自由」と叫んで抗議する日本在住のイラン人ら |
シャカラミさんの行方不明と死は大きく報じられ、その写真はより大きな自由を求めて闘うイラン女性たちを表すものとなった。
「イランの16歳女性不審死 『デモで拘束の内部報告書』 BBC報道」より |
ヒジャブ着用の厳格な決まりへの抗議がイラン全土に広がるにつれ、デモ参加者らはシャカラミさんの名前を叫ぶようになった。
【イラン反政府運動】犠牲者 |
この一連のデモを故ライシは「暴動」と非難し、徹底的に弾圧したから多くの犠牲者を出す事態の招来は必至だったと言える。
思うに、ハメネイ師が米国とイスラエルが背後で抗議デモを主導していると主張したのも、ウクライナ侵略でのプーチンの愚昧な主張と同じ文脈だ。
ハメネイ師 |
先日、ウクライナ軍が親ロシア派に占領されているドネツク州イロヴァイスク市の奪回を試みた「イロヴァイスクの戦い」の惨状を描いた「ウクライナ・クライシス」を観たが、良心的なロシア系移民を「スパイ」と決めつけ、刑務所に送り込む手法は権威主義国家の常套手段である。
映画「ウクライナ・クライシス」より |
【イロヴァイスク市内に進入したウクライナ軍は、越境したロシア連邦軍の参戦によって完全に包囲されたが、プーチンの合意の元で、包囲下のウクライナ軍兵士のための「人道回廊」を設けたにも拘らず、約束は守られず、撤退中のウクライナ軍部隊に対してロシア軍の攻撃が開かれ、多くのウクライナ軍兵士が虐殺されるに至った】
同上 |
アゾフ大隊とドニプロ大隊を攻撃するドネツク人民共和国軍兵士とBTR-80(ロシアの装甲兵員輸送車/ウィキ) |
本題に戻す。
改革派を排除し、史上最低の投票率(48・8%)で大統領となり、国民の信任を得ていない中で強硬路線を進めた故ライシの罪は相当に重い。
史上最低の投票率で大統領となった男 |
ついでに書いておく。
故ライシが反体制派への拷問に関与したなどとして、人権団体などから告発されている人物だった事実を忘れてはならない。
「イブラヒム・ライシ氏が、人道に対する罪や強制失踪、拷問について調査されずに大統領に上り詰めたことは、イランでは恐ろしいことに免責がまかり通っていることを思い出させる」(アムネスティのアニエス・カラマール事務局長) |
ロシアの戦争犯罪について非難したアムネスティ・インターナショナルのアニエス・カラマール事務総長(局長の上) |
【人権活動家通信(HRANA)によると、これまでに69人の子供を含む500人以上の抗議参加者が殺された。人権擁護団体アムネスティ・インターナショナルが「見せかけ」と呼んだ裁判を経て、2人が死刑を執行され、少なくとも26人が同じ運命に直面している。
画像はイランの反政府デモ/「もう元には戻れない」 反政府デモ開始から100日、イランで今起きていること」より |
抗議行動がイラン全土に広がったことはこれまでもあった。2017年に始まったデモは2018年初めまで続いた。2019年11月の抗議も同様だ。しかし現在のデモは社会全体を巻き込み、「女性、命、自由」のスローガンを掲げた女性たちが先導しているという点で、全く異なっている】
「女性、命、自由」がイランの抗議運動のスローガンとなった。写真はメキシコシティでの抗議運動 |
2022年12月、一連の事件を受け、ライシ政権は悪名高い道徳警察の廃止を決め、イランが揺れている。
「イラン、道徳警察『廃止』 冷ややかな受け止めも」より |
この辺りに、国を離れる若者たちの必死の行動のモチーフが読み取れるだろう。
SNSの加速的普及の中で、Z世代と呼ばれるイランの若者たちが反政府運動に身を投じたり、決死の出国行動に打って出たりなど、自由を求めて動いているのである。
そんな渦中にあっても、欧米の民主主義の衰退が声高に語られ、ロシア・中国・イランなどの権威主義体制の国家が台頭してきたことで、政治フィールドにおける「グレート・モデレーション」(平穏の時代)が終わりつつあると指摘されている。
「プーチン・習時代が過ぎても権威主義は健在 米国人政治学者の分析」より |
視界不良の不透明な時代の到来に呑み込まれることなく、世界を正しく見る知的習慣(ファクトフルネス)を内化し、変化・発展していく自己運動が希求されているのだ。
世界を正しく見る |
(2024年6月)
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