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2024年1月14日日曜日

夜明けまでバス停で('22)   「道徳的正しさ」で闘った女の一気の変容  高橋伴明

 




1  「やめて下さい。仕方ないんです。こういうことは誰のせいでもないので」

 

 

 

アクセサリー作家の北林三知子(以下、三知子・みちこ)は、昼は喫茶店の一角で自作作品を販売し、教室を開いたりしながら、夜は居酒屋でバイトをしている。 

三知子(居酒屋で)

三知子(喫茶店でアクセサリーを展示販売)


若い女性店長の寺島千春(以下、千春)が差配する客で賑わう居酒屋で、三知子は忙しくフロアを動き回り、客の残した料理を洗い場に運び、フィリピン女性のマリアにこっそりと渡す。 

千春

マリア(右)と三知子

その直後にマネージャーの大河原が来て、マリアに嫌味たらしく警告する。

 

「くどいようだけど、残飯はゴミと混ぜて、野良犬が食べないようにして捨てて下さいねぇ」 

 大河原(左)

そう言いながら、大河原は残飯をゴミ箱に捨て、ビールを振りかけて見せる。

 

出て行った大河原の背中に向かって、「<野良犬って私への当てつけかよ!今時、この街に野良犬なんかいるか。ムカつくんだよ。苦労知らずのボンボンが!>」とフィリピン語で怒りをぶつけるマリア。 



仕事が終わり、三知子は同じ社宅アパートに住む同僚と飲みに行って帰宅すると、実家の兄から電話が入る。

 

兄に母親が施設に入るので費用の一部を出すように言われ、実家と疎遠で、母親とそりが合わなかった三知子は、自身も生活が苦しい中、渋々20万円を振り込む。 


三知子は、別れた夫が三知子のカードで使い込んだ借金を、自分が選んだ夫がやったことであり、自分の名義のカードだからと払い続けているのだった。

 

その話を聞いた同僚の純子が、呆れて言い放つ。

 

「あんたってさ。いつも正しいよね。それって何か、時々むかつく」 

純子(左)


いつものように、マリアが三知子から受け取った残飯の袋を、大河原が取り上げてゴミ箱に捨ててしまう。

 

「うち、食べ盛りの孫がいるんです」

「知らねぇよ。だいたいさ、孫にそんな飯食わして恥ずかしいとか思わないの?そういうの日本語で何て言うか知ってる?虐待だよ、虐待」 


大河原に共犯扱いされた三知子は、店が終わってからマリアを慰め、話を聞く。

 

「日本に来て、もう35年だよ。ジャパゆきさん、聞いたことある?みんな日本に来れば、幸せになれると思ってた。日本の男と結婚すれば、フィリピンに家、建てられるって。全部ウソ」 


マリアの夫は娘を生んでからいなくなり、今度は娘も3人の孫を残していなくなったと涙ながらに話すマリア。

 

「こんな国、来なきゃ良かったよ」

「そんなこと言わないでよ」

「孫たちは日本語しか話せない…」

 

嘆息するばかりだった。

 

【「ジャパゆきさん」とは、日本に出稼ぎに来るアジアの女性のことで、現在では死語】

 

如月の喫茶店でアクセサリー教室を開いている三知子の元に、店長の千春が習いに来た。 

如月(中央)

「その店長って言うの、やめてもらえますか」

「じゃ、何て呼んだらいいの?」と如月。

「ちーちゃんとか…」

 

三知子と如月は笑うが、「じゃ、“ちーちゃん”で」と三知子が笑顔で応える。

 

制作する石の効果を「心身の調和と…それから、チームワークと友情」と三知子は説明し、千春とお揃いのブレスレットを作った。

 

そんな中、如月が新型コロナで停泊していた大型クルーズ船(ダイヤモンド・プリンセス)から陰性の乗客500人が下船したという携帯のニュース画面を二人に見せる。

 

「ちょっと、怖くない?」

 

不安を隠せなかった。

 

【2020年2月初旬に、新型コロナウイルスに感染した乗客が、横浜から香港にかけて本クルーズに乗船していたことが発覚。横浜港で長期検疫体制に入り、その後も感染していた人数が増え続ける事態となった。この事象は、その後、数年間続く世界的なパンデミックの始まりとなった/ウィキ】 

乗客乗員約3700人が船内隔離されていた大型クルーズ船「ダイヤモンド・プリンセス」


新型コロナの蔓延で、予約のキャンセルが相次ぎ、居酒屋の売り上げが激減したことで、従業員のシフトも半減するだけではなく、解雇候補者が検討されることになった。 


如月の店もしばらく締めることとなり、三知子は展示販売していた作品を家に持ち帰る。

 

テレビでは、安倍首相による緊急事態宣言の発出を伝えている。 


LINE一つで解雇通知されたマリアと純子と三知子の3人が店に行くと、中からマネージャーが出て来た。

 

マリアは大河原にゴミをぶちまけ、逃げて行く大河原にゴミを投げつけるのだ。 


「あたしは、野良犬じゃないよ!人間だよ!」

 

三知子は八方塞がりとなり、兄に電話をかけてみるが、逆に介護用品の費用が足りないので、あと5万円送って欲しいと言われ電話を切った。

 

社宅アパートを引き払うため、荷物をまとめている三知子の元に、千春が訪ねて来て自分の力不足だと謝罪する。

 

「やめて下さい。仕方ないんです。こういうことは誰のせいでもないので」 


次の仕事のことを聞かれた三知子は、住み込みの介護施設の仕事が見つかったと答え、千春を安心させる。

 

ところが、スーツケースを引いて介護施設へ行ってみると、コロナで採用見送りの通知を昨夕に送ったと言われ、メールを受け取っていない三知子は食い下がるが、追い返されてしまった。 


途方に暮れる三知子は、住み込みの条件で仕事を探し、新宿のホームレスが屯(たむろ)する公園を横切って、夜は幡ヶ谷のバス停のベンチに座って一夜を過ごす。 


朝になり、三知子は公園の公衆トイレで顔を洗い、薬局で生理用品やスナック菓子を買う。

 

季節は夏となり、公園の水道で歯を磨き、コインランドリーで洗濯をしながらアルバイト雑誌に目を通す三知子は、相変わらずバス停のベンチで休み、すっかりホームレス生活を常態化させていた。 


 

 

2  「ちーちゃん、あなた爆弾に興味ない?」

 

 

 

三知子は、携帯でユーチューバーKENGOの動画を観ていた。 


時を同じくして、引きこもりの男が自宅でその動画に見入っている。 


「ホームレスっていなくて良くない?臭いし、何の生産性もないよね。働かざる者食うべからずっていう言葉があんじゃん。税金だって払わないし、ああいうのが街ウロウロしてると、その土地の価値が下がるんだよね。真面目に働いてる人の足引っ張って、何が面白いんだろう。いい?経済に問題ある人は人間関係に要因があんの…」 


その動画の画面に向って、三知子は、「あんたってさ。それなりに正しいのかも知んないけど、結構ムカつくわ」と呟く。 



KENGOの動画に影響されたその引きこもりの男が、バス停のベンチでスーツケースに凭(もた)れて眠る三知子を離れたところで見つめていたが、千春からのメールに気づいて三知子が起きたので、そのまま横を通り過ぎる。 


千春のランチの誘いに、三知子は元気も仕事もない、お金もないと返事を書くが、すぐ消去した。

 

千春は如月の店を訪れ、連絡が取れない三知子を二人で案ずる。

 

「あの性格じゃさ、人に弱み見せられないでしょ。もしかしたら、嘘ついてたのかもね」

「メッセージ送っても、返事がないんです…」


 

千春は実家の住所を聞くが、如月も知らず、家族とうまくいっていなかったと話す。

 

「私、三知子さんのこと、何も知らないですね…」

 

吐息を漏らす千春だった。

 

本社経理部から店長の千春宛てにメールが届く。

 

勤続10年以上の退職者3人分の退職金90万円の支給が完了し、大河原から手渡しの希望を受け、受領書へのサインと引き換えに現金を渡したという確認メールだった。 


千春は直ちに本社に電話をかけ、退職金は大河原に渡したことを再確認し、受領書のコピーのメールを要求した。

 

更に、純子に電話をして退職金を受領していない事実も確認し、退職金未払いの書類を作って送るので、そのサインを求めた。 

純子

千春は直ちにマリアを訪ね、書類にサインをもらう。 



街頭のオーロラビジョンで、菅首相の記者会見を聞く街の人々。

 

「私の目指す社会像、それは、自助・共助・公助、そして絆であります。まずは自分でやってみる。そして家族・地域でお互いに助け合う。その上で政府がセーフティネットでお守りをする。こうした国民から信頼される政府を目指していきたいと思います」

 

自助努力を迫る「自己責任論」が、時の首相から語られていたのである。

 

それを聞いていた三知子は、途中で踵(きびす)を返して去っていく。 

去っていく三知子(右)


公園で自作のアクセサリーを並べて販売しようとするが、縄張りの主の老女“派手婆”が、イチャモンを付けてきた。

 

しかし、お腹が鳴った三知子を不憫に思い、自治体の食事配布場へ連れて行って、派手婆が2人分の弁当を受け取る。

 

かつて、神楽坂芸者と政治家(宇野首相のスキャンダル)を追い込んだこともある派手婆は、三知子を新しい仲間だと、かつて過激派だった“バクダン”と呼ばれる男を紹介する。 

派手婆

バクダン


居酒屋は業務を再開し、新たにパートを雇うことになったが、解雇した3人に声をかけるべきだと千春が進言するが、大河原は絶対に嫌だと突っぱねる。

 

下心のある大河原が顔を近づけて来たところで、千春は本社に退職金の件で問い合わせたことを告発するのだ。

 

退職金未払いの請求書を見せると、大河原は後で払うつもりだったと開き直るが、千春は尚も過去の伝票から、不正請求が見つかったと追求する。 


「原価率が変わらないように、仕入れの数字も後から改竄(かいざん)されてます。これは悪質ですよ!」

「何だよ、その言い方。この会社はいずれ俺の物になるんだから、細かい金の使い方に口を出さないでくれる?」

 

そこで千春は立ち上がり、毅然と言い放った。

 

「店長として見過ごせません!」

 

大河原は千春の言葉に悪びれるでもなく、本社勤務が決まっている千春を懐柔しようとするが、千春は更に複数の女性アルバイトからセクハラの相談が上がっていると報告書を見せるのだ。 


大河原はそれを茶化して事務所を出ようとしたところ、その会話を録音した遣り取りの音声を携帯から流し、これを本社に提出すると迫る。

 

「後で泣きついても知らないからな」

 

捨て台詞を言う大河原に深々と頭を下げ、千春は「お疲れさまでした」と一言添えた。

 

大河原が出て行くと、精魂を使い果たした千春はがっくりと頭をもたげ、嗚咽しそうになるが、即刻、三知子に電話をかける。

 

しかし、やはり留守電のままだが、GPS情報で三知子が渋谷区にいることだけは確認が取れた。

 

秋になり、三知子の預金残高は4000円台となり、食事を摂ることもできずに、遂にゴミ箱から食べ物を漁って口にするのだ。 


それを店の者に見つかり追い払われ、走って逃げて公園で倒れ込んでしまった。

 

そこを通りかかったバクダンに助けられ、食事を振舞われる三知子。

 

「こんな世の中、やっぱおかしいよな。あんたらみたいな若い子がこんなことになってんのは、俺たちに責任があるんだろうか」


「いやあ、ないですよ…」

 

ここでバクダンは、自らが関与した昔の闘争や体制批判を一気に捲し立てた。

 

「高度成長期なんて言ってよ、てめえら安全な所に居て、ベトナム攻撃するための武器や戦車売って儲けたんだ、この国は。そういうこと、今の若い奴ら知ってのか…三里塚で、どれだけの農民が機動隊に殴られて追い出されたと思ってんだよ。そうまでして作ったのが、あの成田空港なんだぞ…機動隊にボコボコにされて、挙句、泥靴に踏まれて壊されたんだ。下ろしたてだったのによ(サングラス)」


「大変でしたね」

「俺たちは、どうすりゃよかったのかなぁ。それが今でも総括できねぇ」


「爆弾で何を壊したかったんですか?」

「何かを壊したいというよりも、爆弾を持つことによって、自分の存在そのものが変われるということかな」


「存在そのものが変われる…」

「なに言ってるか、分かんねえか…要するにさ。俺自身が何者かという問いを立てることなんだ」

「私はそういう哲学のようなことは分かりませんけど、今の政治のせいで、すごく世の中が不公平だというのは分かります」

「確かに今の政治は糞まみれだよ。モリカケ桜もうやむやにして止めやがって。人が死んでんだぞ。あいつはそれ、どう考えてんだよ…あいつなんかよ、“こういう人たちに負けるわけにはいかない”って、国民に向かって言うんだぞ。その挙句、こんなちっちゃいマスクさぁ」

「あの人がやってることも滅茶苦茶だけど、でも今自分がこうなったのは、全部自分のせいだと思います」

「それはちっとはそうかも知れないけど、要するにさ、社会の底が抜けたんだよ。でも、あいつら、底が抜けようがどうしようが痛くも痒くもねえ。全部、自己責任だって、弱いもんに押しつけやがる」

「それはかなり悔しいですね。私、真面目に生きてきたはずです。今でも、爆弾作れますか?…一度ぐらい、ちゃんと逆らってみたいんです」 


三知子の真剣な眼差しに動かされ、バクダンは引き出しの中から、「腹腹(はらはら)時計」と書かれた古い冊子を取り出して来た。 



そのマニュアルを基に、二人の爆弾作りが始まった。 


【『腹腹時計』(はらはらとけい)とは、爆弾の製造法やゲリラ戦法などを記した教程本。1974年、極左集団「東アジア反日武装戦線『狼』」が起こした「三菱重工爆破事件」などで注目された】 

腹腹時計

三菱重工爆破事件


準備ができて、「東京オリンピック2020」のトートバッグに時限爆弾を入れ、勇ましく進軍した先は都庁。 


派手婆も付いてきて、三知子がビルの一角に置いてきたバッグを植木の陰から見守る3人。 



爆発の時間が直前に迫り、警備員が近づいてバッグを覗き込むと、三知子は思わず「危ない」と呟き立ち上がり、「早くどいて!」と叫ぶ。

 

尚も呼びかける三知子の口を塞ぐバクダン。 


時計が12時を差し、その瞬間、時計の目覚まし音がけたたましく鳴り響く。 


「あんた、企んだね」と派手婆。

 

二人は嬉しそうに笑い、三知子は呆気に取られる。 


悪戯だったのだ。

 

疲れ果てた三知子は、いつものようにバス停のベンチ座り、スーツケースに凭(もた)れて眠る。 


そこに、以前から三知子を狙っていた男が、拾った石をビニール袋に入れて近づいて来た。

 

ちょうどその時、携帯のGPSを頼りに三知子に会いに来た千春が、バス停の三知子に気づき、男が石を振り上げたところで、「痴漢!」と大声で叫んで追い払った。 


千春に気づいた三知子。

 

「やだ、どうしたの?こんなところで」

「これ、遅くなったけど、退職金です」 


千春は金と、ロッカーに忘れていたお揃いのブレスレットを渡す。

 

「私も会社辞めてきました。だから、もう同じです」

 

そう言って、千春は満面の笑顔を浮かべる。 


「ちーちゃん、あなた爆弾に興味ない?」と唐突に尋ね、腹腹時計の冊子を手にした三知子もまた、満面の笑みを浮かべるのだ。


ラストである。 


 

 

3  「道徳的正しさ」で闘った女の一気の変容

 

 

 

製造業を中心に、男性の失業が女性よりも深刻な状態だったリーマンショックが「男性不況」と称されたのに対して、8回にも及ぶ感染流行期を炸裂させたコロナ禍では、女性の就業が多いサービス業を中心に、「シーセッション」(女性不況)と呼称されている。 

シーセッション

女性の離職率が高かったのは、雇用調整の対象となりやすい非正規労働者だったことに起因する。

 

2020年3月 ~11月期に起きた現象で、非正規女性の3人に1人 は「解雇・雇止め」、「労働時間半減30日以上」など、雇用状況の大きな変化をもたらした。 

国会前で休業補償の拡充を訴える非正規労働者ら


映画でもインサートされていたが、初の緊急事態宣言が発令されたのが2020年4月。 

初の緊急事態宣言の発令


ストーリーは映画的に換骨奪胎(かんこつだったい)されていたが、映画のモデルとなった「渋谷ホームレス殺人事件」(「渋谷幡ヶ谷バス停事件」とも)の被害者が命を落としたのも、同年11月のこと。

 

流行の第3波が押し寄せ始めた只中だった。

 

被害女性は広島県出身の大林三佐子(みさこ)さん。 

大林三佐子さんが亡くなった事件から1年が経ち、新宿駅前で開かれた追悼デモ


当時64歳だった。

 

所持金、僅か8円。

 

死因は外傷性クモ膜下出血。

 

アナウンサーを志望し、劇団にも所属した大林さんは、様々な職を経験し、シフトを増やして働く日々を繋ぎつつ、スーパーの試食販売の仕事を始めたが、家賃を滞納したことで路上生活を余儀なくされていく。 

劇団に所属していた頃の大林さん

若き日の大林三佐子さん

大林さんが働いていたスーパー


犯人の男・吉田和人(かずひと)は、石などが入ったポリ袋で殴殺した後、母親に連れられて最寄りの交番に出頭する際に、「あんな大事になるとは思わなかった。お母さんごめんなさい」(ウィキ)と母親に打ち明けたと言われる。 

吉田和人

週刊文春によると、吉田和人は、「窓から見える景色が僕の全世界なんです」と供述する46歳のひきこもりの男。

 

「彼女が邪魔だった」ので「痛い思いをさせれば、いなくなると思った」。

 

これも男の供述。

 

罪の意識に囚われたのか、保釈後、男は自宅近くで飛び降り自殺した。

 

【果たして保釈が正しかったのか、今なお不思議でならない】

 

資産家の実家の酒店を手伝い、普段から深夜に周辺を散歩していたという男の死は、事件からほぼ2年後のこと。

 

一方、幹線道路沿いの、京王線の笹塚駅に近くでマンションや店舗などが建ち並び、明かりが灯る現場のバス停のベンチは、「奥行き20センチ、幅90センチほど。遠目では気がつかないほどの小ささだった。中央にはひじ掛けがあり、寝そべることもできない」(「ひとり、都会のバス停で~彼女の死が問いかけるもの」より)ので、十分な就眠が保持できたとは思えない。 

現場のバス停

現場のバス停のベンチ


毎晩、バス停にやって来て、ベンチに座り、キャリーケースを横に置いて寝泊りしていた大林さんがこの生活に入って1年半が過ぎ、近隣の多くの住民の視野に収まっても、誰も声をかける人がいなかった。

 

「女性がこんなところで寝ていると危ないので、声をかけたいと何度も思っていました。でも、わざわざ声をかけることはできなかった。そのあたりに関してはみんなそうなんじゃないか」(同上)

 

10メートルほど手前の近接スポットから、大林さんの写真を撮影した男性の言葉である。

 

コロナ禍という非日常が常態化していたから、当然と言えばそれまでだが、そこに行政誹議の論説を載せて、「生きづらい時代」の「都会の閉塞感」等々と、メディアが定番の俯瞰的視点で論じるのは目に見えている。 

減少が続く「ホームレス」

同上


だったら、貴方は彼女にアウトリーチするのか。

 

この問いに答えられなければ、事件を内化することなど到底、覚束ないだろう。 


いずれにしても厄介なパンデミックだったが、負の部分を殊更強調しても仕方がない。

 

少なくとも、私たちの社会の変化がオンラインで授業・テレワークが主流になったことで、友人らとのオンライン経由の会話が増え、コミュニケーションの風景の変化を創り出した現象は決して悪いことではない。 


何より重要な現象は、復元不能なまでに働き方を変えていったこと。

 

そのことで余暇時間が増え、余暇活動が活発になったこと。

 

自分の時間を手に入れたことで、私たちの価値観の緩やかな変移を生み出したのである。 

コロナ禍で変わった価値観

自分の「物語」を探していくのだ。

 

「当時の菅義偉政権は自助、共助を強調し、国には頼るなという姿勢だった。その結果、市場や家族関係からこぼれ落ちてしまう人の命が社会の中で追い詰められてしまう状況だった」(東京新聞「回復しない『シーセッション』」より) 

菅義偉政権が標榜する「自助・共助・公助」という理念


アジア女性資料センター代表理事の本山央子(ひさこ)の主張である。 

本山央子

まさに、映画の直截なメッセージが拾える表現だった。

 

―― 以上、資料を切り取りながら言及したように、この映画は、事件に関わる者の「道徳的正しさ」こそが問われているのではないかと、私は考えている。


ここで言う「道徳的正しさ」という魔物の正体は、自我を安寧に誘導する「優越コンプレックス」に近い心理。 

優越コンプレックス


自らの優越性を見せつけることで、自己の弱みを隠し込むのだ。

 

アドラー心理学の世界である。

 

どうやら、「人間ってそういうもの」という観念の枠外に飛翔できないようだ。 

 

物語のヒロイン北林三知子もまた、大林三佐子さんがそうであったように、「自助」に拘泥して、「シーセッション」の荒波を乗り越える覚悟で〈生〉を繋いできた女性だった。

 

このことは、親族の連絡先が書かれたメモ用紙も持っていたにも拘らず、連絡した形跡はなかったことで判然とする。

 

「なぜ助けを求めなかったの?」

 

大林さんの弟は、法廷でそう問いかけた。 

「法廷で問う『なぜ姉を死なせた?』 路上生活者襲撃1年 弟の思い」より

弟の健二さん(仮名・手前側)

大林さんの同級生


人の助けを求めることなく、「ホームレス」を「負の記号」と考えたであろう大林さんの観念は、北林三知子にも通底するからである。

 

―― ここから、大林三佐子さんと切れて、映画の世界に入っていく。

 

「あんたってさ。いつも正しいよね。それって何か、時々むかつく」 


別れた夫が費消した借金まで払い続ける三知子に対して、社宅アパートに住む純子のシャープな一撃だが、それを意に介さない三知子が拠って立つ観念 ―― それこそ、彼女の「道徳的正しさ」だった。 


自らの優越性を壊すことなく、この観念の魔物を具現化していく。

 

実家の兄からの金銭要求に対しても、ギリギリの身過ぎ世過ぎ(みすぎよすぎ)の只中で20万円を振り込むのだ。 


「シーセッション」に被弾し、社宅アパートを追い出された挙句、「中央にはひじ掛けがあり、寝そべることもできない」ベンチでの路上生活の日々に踏み込んでいくのである。 



どこまでも、「ホームレス」という「負の記号」を擯斥(ひんせき)するのである。

 

「ホームレスっていなくて良くない?臭いし、何の生産性もないよね。働かざる者食うべからずっていう言葉があんじゃん」 


ネットカフェで、ユーチューバーKENGOの、この動画をバス停のベンチで耳にした時の彼女の反応が興味深い。 


「あんたってさ。それなりに正しいのかも知れないけど、結構ムカつくわ」と呟くのだ。 


「ホームレスはアウト」と認知していても、人に言われると苛立つのである。 


同僚の純子の思いを再体験させられる三知子の「自助」の観念にヒビが入り、何かが壊れていく。

 

壊れかけても、なお生き残される彼女の「道徳的正しさ」という魔物。

 

「物語」を作って生きていく私たち人間の性(さが)は、簡単に消去できないのである。

 

この空洞に侵蝕してきた二人の正真正銘のホームレス。

 

一人は組織の拘束から解き放たれ、ホームレス生活を愉悦する自由なる派手婆。 



もう一人は、半世紀前の議論を拠り所に安倍政権を斬り捲って毒づき、相手を煙に巻くバクダン爺さん。 


〈解放・正義〉を通有点にした二人の老人にとって、この〈解放・正義〉こそ、彼らの「道徳的正しさ」だった。

 

そんな二人の老人が放つ悪擦(わるず)れした気迫が、〈自由〉とイデオロギーに非武装な三知子の自縄自縳(じじょうじばく)の自我の中枢に染み込んできたから、一発必中だった。

 

彼女の「道徳的正しさ」の欺瞞を打ち抜き、その形成的自我を濾過(ろか)していくのだ。


「優越コンプレックス」が根柢から崩されていくのである。


「道徳的正しさ」で闘った女の一気の変容。


気概に満ちた信念と化したかのような〈生き方〉の“ズレ”を正されたのである。

 

彼女に巣くっていた「魔物」は所詮、苦労して蓄えた経験的自己防衛戦略の賜物でしかなかったのである。


しかし、そこで手に入れた「正しさ」によって 上書きされたのは、バクダン爺さん経由の「道徳的正しさ」だった。


いつでも彼女は、「道徳的正しさ」から解放されないようだった。



それは、ハラスメントの洪水で溺れそうになったギリギリの所で踏ん張って、打たれ強さを身につけ、本来の「道徳的正しさ」のイメージに近い千春の変容と好対照をなすが、鍛え抜かれた人格の有機的現象の様態は同工異曲(どうこういきょく/似たり寄ったり)と言っていい。


 

共に「道徳的正しさ」の観念で闘ったからである。

 

これが、三知子の「爆弾に興味ない?」との誘導で括られるのだ。 


要するに、理不尽なるものと闘わんとする共闘宣言への呼び掛けだったのである。


ここから何かが拓かれ、何かが生まれていくのだ。

 

思えば、ただ一人、「絶対悪」の記号を負わせられて、「不道徳的卑しさ」を体現させられるハラスメント・マネージャーが際立つ物語の構成は、まさに、規範を無化して直球勝負の作品が量産された感のある昭和映画の独壇場だった。 


憂さ晴らしとも思しき後半の展開は寓話の域を超えないながらも、映画的にはとても面白かった。

 

中でも、サイズが小さくて鼻を隠せないばかりかフィルターの効果が薄く、不織布ではなくガーゼ製布マスクのために、8000万枚ものアベノマスクが全く無駄(使用率3.5%)になったことを茶化すパフォーマンス。 


そして、その決定打は、バクダン爺さんが洩らした「俺たちは、どうすりゃよかったのかなぁ。それが今でも総括できねぇ」。 


思わず笑ってしまった。


なぜ、総括できないのか。

 

情動のみで視界明瞭な観念が抜け落ちているからである。

 

視界明瞭な観念が抜け落ちているのは、観念に結ぶ言語を持ち得ないからだ。

 

このことは、総括する言語を持ち得ていないバクダン爺さんが作ったはずの時限爆弾がゲームの範疇を超えていないことを意味する。


いずれにせよ、バクダン爺さんの「道徳的正しさ」の内実もまた、長年にわたり、振り上げた拳を下ろせない苛立ちを虚空で炸裂させて、〈解放・正義〉の余生を愉悦する確信犯的所産なので、自己欺瞞などとは無縁な時間を費消するスキルにおいて天晴れな人生哲学であると言えるのかも知れない。

 

最後に、三知子の誘導言辞を回収するかのようなエンドロールでの国会議事堂爆発のカットは、バクダン爺さんに仮託した作り手の寓話的メッセージであると解釈するのが妥当だろう。 


シリアスから社会派エンタメに変転する映画だったということである。 



【参照】

ひとり、都会のバス停で~彼女の死が問いかけるもの – NHKニュース

 

(2024年1月) 

 

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