<「家族主義の時代」の「差別前線」の包囲網を突き抜け、抑圧からの女性の解放を描いた傑作>
1 抑圧の縛りを穿ち、新しい人生に踏み込んでいく二人の女の葛藤と再構築の物語
消費文明が一つのピークを迎えて、健全な「家族主義」を謳歌する「フィフティーズ」(50年代)の時代の渦中にあって、二人は運命的な出会いをする。
キャロルとテレーズである。
ニューヨークのデパートの玩具売り場で働いていたテレーズが、4歳の娘のために人形を買いに来たキャロルと視線が合って、一瞬にして惹かれてしまう。
そのキャロルは、娘の養育権問題で、夫・ハージとの離婚の意志を固めていた。
その原因は、かつて、妻のキャロルがアビーという名の女性と同性愛の関係にあった事実と無縁でなかった。
だから、未だにアビーと会っていることを夫に問われ、「あなたと破局する遥か前に、彼女とは終わったわ」と答えるキャロル。
つまり、このキャロルの「性的指向」の問題を夫婦で共有した上での、離婚の合意だったのだ。
単独親権を主張するハージは、アビーと妻・キャロルとの関係を証拠に「道徳条項」を持ち出し、娘を永久に引き離す正当性を審問するというところまで、事態は悪化していく。
キャロルの孤独が、いよいよ深まっていくのだ。
テレーズとリチャード |
娘を永久に奪われる不安を抱えたキャロルが、同様に、情緒不安定なテレーズとの関係が深まっていくのは必至だった。
「あなたも、一緒に行かないかしら」
「審問」(法廷出頭なしに、裁判所が当事者に詳しく問いただすこと)までの不安を払拭するために、テレーズに旅の同行を求めるキャロル。
恋人のリチャードを置き去りにし、嬉々として、キャロルとの旅に同行するテレーズ。
モーテルに泊まる二人は、そこで新年を迎える。
しかし、事態は一転する。
二人を尾行して来た私立探偵によって、モーテルでの二人の情事の録音テープが、依頼主の夫に送られてしまった事実を知り、動揺するキャロルだが、彼女は怯(ひる)まない。
平静を失い、激しく動揺するテレーズを慰め、人生の遥か先の未知のゾーンへの架橋を求めていくのだ。
「映画の途中、視点が変わり、キャロルがテレーズを見る視点になることもある。その時は、キャロルがテレーズに一緒にいて欲しいと思っているんだ」(トッド・ヘインズ監督インタビュー)
トッド・ヘインズ監督が語っているように、この一連のシーンでは、キャロルの視点に変換されている。
「会いたいの。たまらなく…」
一方的に自分の思いを伝え、自ら電話を切るテレーズ。
娘・リンディへの母の強い思い |
かくて、テレーズとの関係をはっきりと認め、離婚して、自分の生き方を貫くことを宣言するキャロル。
後述するが、本作の肝になるシーンである。
自由になったキャロルは、自分を求めていると信じるテレーズに会いに行く。
「憎むわけないわ」とテレーズ。
「仕事で忙しそうね。とても嬉しく思うわ。それに、すごく綺麗よ。突然、花開いたみたい。私と離れたから?」とキャロル。「いいえ」
「それはできないわ」とテレーズ。
「愛してるわ」とキャロル。
しかし、キャロルを愛するテレーズの思いは変わらない。
だから、煩悶する。
ラストシーン。
そして、一歩一歩、キャロルのもとに近づいていく。
テレーズの視線に気づき、小さな笑みを返すキャロル。
二人が運命的な出会いをした冒頭のシーンに円環するが、しかし、この再会は新しい人生に踏み込んでいく二人の女の力強いメッセージになっていた。
2 同性愛者を異性愛者に変える「嫌悪療法」が実施されていた重い歴史
「政治的、社会的偽善や抑圧はずっと興味を持ってきたことだ。女性は男性より社会的プレッシャーや限界に苦しんでいる。だから女性の話を語ることは、社会的要素について考えることになり、それが僕にとっては政治的で重大なことだ」
作り手が「ストーンウォールの反乱」(注)に言及したことでも分明なように、本作は、単に、同性愛の形を成した女性同士のラブストーリーに収斂させるものではなく、同性愛を「愛」の一つの様態であると認知しなかった絶望的な時代の、「偏見・差別・抑圧」の「前線」の圧倒的な制約を突き抜け、凛としてカミングアウトし、社会的自立に向かっていく厳しい〈状況〉を、二人の女の濃密な時間を、クラシカルに紡ぐメロドラマ的主線を張った手法で、なお残る文化の陋習(ろうしゅう)を指弾する意図を抱懐して、同性愛を「愛」の一つの様態であると確信犯的に宣言し、抑圧からの女性の解放を描いた傑作である。
同性愛は「性的指向」である。
幼児期の時期に決定される「性的指向」とは、性愛の対象が「異性・同性・両性」(LGB)のいずれかに向かうのかを示す概念である。
言うまでもなく、その「性的指向」が同性に向かうのが同性愛である。
下世話な説明だが、オナニーの対象が異性か同性かによって、「性的指向」が判然とする可能性が高いとも言えるが、決定的ではない。
子孫を残す上で不利な性質であるにも拘らず、なぜ、淘汰されずに、この「性的指向」が残っているのかという一点において、進化論的な説明を避けては通れないと思われる。
LGBTのシンボルとなっているレインボーフラッグ(LGBTの社会運動を象徴する旗)
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現在、WHO(世界保健機関)がLGBTを治療の対象にしていないという事実は大きいが、動物(鳥類・哺乳類)にも存在する同性愛の生物学的メカニズムについては、殆ど何も分っていないのが現状である。
全世界の人口の約90%以上を占めると言われる異性愛者に対して、LGBT(身体の性と心の性が一致しないT=トランスジェンダーは、「自分は男性(女性)である」という自己認識を持つ「性自認」であることで、「性的指向」のLGBと分かれている)は10%に満たないが(電通の調査によると7.6%)、発想転換すれば、ノーマルな「性」とされる異性愛もまた、「性的指向」であると言えるだろう。
レズビアンのカップル(ウィキ) |
ともあれ、この「性的指向」である同性愛を普遍的な人権として尊重される風潮が、先進国を中心に見られつつある。
然るに、同性愛行為を終身刑とするウガンダの「反同性愛法」は極端な例だが、同性愛行為をした者に刑罰を科した有名な「ソドミー法」(英連邦圏を中心に存在していた)が実質的に終焉しつつも、同性愛が「セクシャル・
マイノリティ」(性的少数派)である現実によって、なお偏見と差別のターゲットにされているのは紛れもない事実。
まして、健全なる「家族主義の時代」を謳歌し、「ゴールデンエイジ」と呼ばれる「フィフティーズ」(50年代)という時代限定の渦中にあって、「セクシュアルマイノリティ」が、その煩悶を抱え続ける孤独の辛さは、善かれ悪しかれ、LGBTという言葉が普通に使われている現代から見れば、隔世の感があるだろう。
ハリー・スタック・サリヴァン |
中でも、「嫌悪療法」は、同性の裸体の写真を見せた後、クライエントに電気ショックや、嘔気を催す薬物を与える療法として、ごく普通に実施されていたのである。
また、ほぼ同時代に惹起した、マッカーシズムの「同性愛者狩り」を俯瞰しても、ホモフォビア(同性愛嫌悪)の歴史の根深さは無視できないが、DSM-II(米国精神医学会の診断基準第2版)において、「人格障害」の分類にふくまれていた「同性愛」が精神障害ではないとされたのは、DSM-III(1973年)まで待たねばならなかったのである。
3 「家族主義の時代」の「差別前線」の包囲網を突き抜け、抑圧からの女性の解放を描いた傑作
「エデンより彼方に」 より |
その「生き方」が不本意であると明瞭に認知し、それを大きく変容させていくには、その行動を後押しする物理的・心理的推進力が必要だった。
即ち、「性的指向」を同じにする者との「出会い」と「共感」、そして「性愛」への階梯(かいてい)にまで登り詰めていく物理的・心理的推進力である。
この推進力なしに、健全なる「家族主義の時代」の風景の中枢に風穴を穿(うが)つことは叶わないだろう。
―― ここから、物語の世界に入っていく。
その頃より、既に、女の子が普通に興味を持つ人形ではなく、男の子と同じ趣向性があった事実を暗示しているからだ。
夫・ハージとキャロル |
それは同時に、テレーズとの「出会い」に「性的指向」を同じにする者の「共感」が発生し、最も自分にフィットする新たな人生の再構築の、その意識レベルの高まりが決定的に反応していったと考えられる。
映画の中で、キャロルから両肩に手を乗せられるシーンが、度々ある。
これは、テレーズの「性的指向」を端的に示す重要なシーンである。
そして、この関係濃度の深まりの延長上に、モーテルでのキャロルの両手が、今度は確信的に、且つ、全く何の障壁もない自由の境地の中で、テレーズの身体を這っていく。
それを求めていたテレーズもまた、キャロルの誘惑に自ら飛び込み、「性的指向」を同じにする者の性的興奮を満たしていくのだ。
しかし、私立探偵によって盗聴された事件が、二人を現実の世俗世界に一気に引き戻していく。
「何を考えてるの?何度、同じ質問させるの」とキャロル。
「ごめんなさい。何を考えているのか。私が自分勝手で…」とテレーズ。「何を言うの。まさか、こうなるとは」
「あなたの誘いを断るべきだった。自分勝手よ。なぜなら…何も知らず、“ノー”と言えない。望みが分らないのに、すべてに“イエス”と」
明らかに、自らの「性的指向」を身体的に感じながら、その事実を、アイデンティティーとして客観的に認知することに逡巡する、成人化し切れないテレーズの自我の脆弱性が露わになる会話である。
嗚咽するテレーズの頬に、心身ともに成人化し切っているキャロルの両手が伸びていく。
「あなたの気持ちを、喜んで受け入れたの。あなたのせいじゃない、テレーズ」
これだけの会話だが、「確信犯」にまで登りつめた人妻と、未だ「確信犯」にまで登りつめない若い女との、その意識の固め方の乖離が露呈された重要な会話だった。
それは、「性的指向」の故に、恋人とも別れ切れない初心(うぶ)な女が、既に、自らの「性的指向」を隠し込むことなく、人生を再構築していこうとする女の懐に包摂されることで、同時に、困難な時代の閉塞状況を突き抜けていく辺りにまで最近接していくイメージが垣間見える。
しかし、どうしても登り切れない。
もう一つの人生の上のステップを開いていくには、テレーズの自我の脆弱性が肉質な変容を顕示させねばならない。
「最愛の人へ。偶然の出来事などない。彼は、いずれ、私たちを見つけたわ。すべては元に戻るのよ。そうなる運命なら、早い方がいい。ひどいと思うでしょうけど、どんな説明をしても虚しいわ。どうか怒らないで。あなたは若いから、解決や説明を求めるでしょう。でも、いつか分る時が来る。そして、その時、あなたを心から迎え入れる。私たちの人生には、永遠の夜明けが待つのよ。でも、それまでは、お互いに連絡し合わないこと。私は用事が多いし、あなたは、もっと忙しいはず。信じて。あなたが幸せになるなら、何でもする。だから今、私にできる唯一のことをするわ。あなたを解き放つ」
この映画のエッセンスであると言っていい。
しかし、「フィフティーズ」の時代の制約の中で、精神治療を受けることを余儀なくされている、「役割呼称」を捨てたはずのキャロルの悲哀が炙り出されてくる。
夫・ハージの実家での出来事だった。
「いい人で、力になってくれます」
キャロルを担当する心理療法士への、彼女の評価である。
娘のリンディと会うためには、キャロルは、自分の思いとは完全に切れた妥協をするしかなかったのだ。
「もう、耐えられないわ。気取ったランチを、何度、繰り返せば…そして夜は、あの子なしで家に帰る」
テレーズと会いたいが、親権を剥奪される怖さから、車内からテレーズを見守るしかなかった。
しかし、キャロルの手紙を読んだテレーズは、「それまでは、お互いに連絡し合わないこと」という文言に拘泥(こうでい)してしまった。
キャロルからの別離の手紙であると考えてしまったのだ。
それほどまでに、キャロルを愛し過ぎて、もう、セルフコントロールができないナイーブさが暴れているテレーズの思いが、観る者に深々と突き刺さってくる。
かくて、NYタイムズで写真の仕事に携わるテレーズは、キャロルを忘れるために努力するが、彼女の煩悶は容易に浄化できないでいた。
「テレーズに言うべきだった。“待ってて”と」
キャロルが、車内からテレーズを見守る、この上なく切ないシーンは、表層的なメロドラマの通俗性を超えている。
そして、表層的なメロドラマの通俗性を超えた映画が提示したのは、親権を争う夫・ハージに対し、テレーズとの関係を認め、自らの意思を明言するシーンだった。
「あなたには、幸せになってほしい。私は、あなたを失望させたわ。互いにもっと、与え合えば…でも、リンディがいる。私たちが与え合った、途方もなく、素晴らしい贈り物よ。なのに、なぜリンディを互いから引き離そうとするの?テレーズとのことは、私が望んだことよ。否定はしない。でも、私は後悔してる。娘の人生を台無しにするのは、辛すぎる。私たち二人に責任があるのよ。だから、正しい判断を下さないと。リンディの親権はハージが持つべきよ。でないと、耐えられないから。自分のために何がいいのか分らない。でも、娘のために、何をすべきかは、分ってる。面会権を認めて。監視付きでもいい…自分を偽る生き方では、私の存在意義がない」
本作で最も重要なセリフである。
離婚して、自分の生き方を貫くことを宣言したのだ。
一切は、この流れの延長線上にある。
迷いつつも、それを振り切って、自らの強い意思を固め、キャロルに会いに行き、相互に視線を合わせるラストシーンは、映画史上に残る出色の出来だった。
テレーズの人間的成長を告げる、このセリフなきラストは、観る者の心を痛切に打つ。
紛れもない傑作である。
(2017年3月)
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