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2014年5月3日土曜日

仁義なき戦い(‘73)    深作欣二


<「任侠ヤクザ」から「組織暴力」へのイメージ変換を決定的に成就させた映画>




 1  「任侠ヤクザ」から「組織暴力」へのイメージ変換を決定的に成就させた映画



 「弱気を助け、強きを挫く」というイメージを堅気の大衆にセールスする一方で、その内部で、疑似家族的な共同体ピラミッド型の階層構造を仮構し、「親分・子分」という関係で結ばれた、「義理・人情」を基本モチーフとする「任侠ヤクザ」の虚構の美学を根柢的に削り取って、シノギと面子に関わる確執によって、その権力関係内部の爛れ切った抗争の裸形の様態を、徹底したリアリズムで描き切った奇跡的な傑作。

「任侠ヤクザ」から「組織暴力」へのイメージ変換を決定的に成就させた映画 ―― それが「仁義なき戦い」だった。

 従って、「笠原和夫と深作欣二 ~ 破滅へと向かう葛藤」(Adobe PDF)という鋭利な分析を、私なりの表現を加えて要約すれば、このイメージ変換は、以下のように説明できるだろうか、

即ち、「外圧に対しての自己抑圧」という、日本人が好きな「忠臣蔵」の世界の根柢にあった、「我慢劇」としての「任侠映画」(「日本侠客伝」に代表される、「緒溢れる昔ながらの下町世界」を重視するマキノ雅弘の世界)が内包する「世のため人のため」に闘う勧善懲悪型ヒーローの人格のうちに集中的に具現された、「任侠道」による「男の美学」という綺麗事の物語を擯斥(ひんせき)し、生き抜くための狡猾なエゴイズムや欲望を剥き出しにした、幻想としての「男の中の男」から、何より現実を投影する、「男の中の男でない男」を描くことへのイメージ変換だったということである。

日本侠客伝」より
それは、会社側の要請で「任侠映画」の脚本を執筆していた笠原和夫が、自らの「戦争体験の怨念」をモチーフにした情念の炸裂だった。

だから、そこで描かれたアウトローのリアルな世界は、「組織暴力」権力関係内部の裸形の様態が活写されることで、そこに集合する男たちの毒気に満ちた台詞の猥雑さと、人間本来の「滑稽な喜劇性」が炙り出されるに至ったのである。

 その意味で、私は、この映画は、「男の美学」を拾い上げて成就したフランシス・フォード・コッポラ監督の「ゴッドファーザー(1972年製作)よりも、実話を元にして書かれ、まるで救いようのない「悪」を描き切った、マーティン・スコセッシ監督の「グッドフェローズ(1990年製作)のイメージに近いと考えている。
 
確かに、「仁義なき戦い」という驚嘆すべき映画には、「任侠道」のイメージを被せるに値する男がいなかった訳ではない。

物語前半で際立っていた、梅宮辰夫扮する若杉と、本作の主人公・菅原文太扮する広能昌三である。

刑務所で知り合った二人は意気投合し、「兄弟」の杯を交わすが、この関係には、「仁義あり」という「任侠道」のイメージのノスタルジックな臭気がった。

この二人だけは、物語を通して、極道の情感体系である「男の観念」を象徴する魅力溢れる人物として描かれていたのである。

若杉と広能(右)
しかし、刑務所を保釈で出るために、自らの腹を掻き切ってしまう若杉の人格イメージや、山守組を守るために、敵対勢力の組長(土居)を暗殺することを請け負った広能が、殺しの前に女の裸を貪ることで、不安含みの感情を激しい欲望で処理する人格イメージは、明らかに、「任侠映画」の奇麗事の世界とは無縁だった。

とりわけ、女の肌を攻撃的に貪り尽くす広能の情動の暴れ方は、岡田茂と俊藤浩滋がプロデュースした、「東映任侠路線」で勧善懲悪型ヒーローを演じた、鶴田浩二や高倉健の人格イメージと完全に切れていた。

「あとがないんじゃ」

女の肌を攻撃的にる広能の台詞である。

この台詞が内包するのは、自ら暗殺を請け負ったときの、「任侠道」の中枢を占有すると信じる、綺麗事で塗りたくった「男の観念」と切れたことを示す極道人生のリアリズムである。

彼らの「任侠道」もまた、悪者退治をするまで「我慢劇」を求められた、ストイックな勧善懲悪型ヒーローと切れていたのだ。

女の肌を攻撃的にる広能
彼らは、揃いも揃って、我慢することをしないのである。

それ故、この映画から、虚構としての「任侠道」を拾うことは不可能なのだ。

それだけのことである。

それだけのことだが、「組織暴力」の凄惨な内部抗争のリアリズムの世界に踏み込んでいくという、この種の映画の不在の負の軌跡こそが、快調なテンポで物語を駆動させていった、ドキュメンタリーと思しき生々しい描写で繋ぐ本作の出現によって炙り出されてしまったのである。

そして、「滑稽な喜劇性」を象徴するエピソードもまた、極道人生のリアリズムを鮮烈に照射させていたので、その種の典型的なシーンを紹介しておこう。

 政治絡みで土居組と敵対していた山守組、土居組組長のヒットマンを決めるときに、山守組幹部らは、思い思いの理由を付けて回避しようとする。

その中でも、「滑稽な喜劇性」を象徴するは、田中邦衛扮する槙原の弁明である。

「わしゃぁ、死ぬゆうて問題じゃないが、女房がの、腹に子がおって、これからのことを思うっとったら、可哀想で、可哀想で・・・」

そう言って、泣きじゃくるのだ

その場にいた誰もが、槙原の演技を見透かしているが、自己防衛に必死な幹部連中は、槙原を臆病者扱いできる道理がない。

土居組組長を射殺する広能
結局、復員兵上がりで、偶然に出会った山守組のために暴漢を殺して服役し、出所後に組員となった広能がヒットマンを申し出て、前述したテロルを遂行するという展開になる。

まさに、極道人生のリアリズムを切り取れば、「滑稽な喜劇性」をも切り取ってしまうことを、このエピソード象徴しているのである。

しかし、何と言っても、この映画を実質的に支配しているのは、「これからの極道、銭が勝負よ。わしを助けると思うて、助けてくれ」などという甘言を平気で弄する、金子信雄扮する山守組組長である。

地方政治を巧みに利用し、発足まもない山守組の構成員たる、血気溢れる多くの若者たちを翻弄し、使嗾(しそう)した挙句、「一人天下」を狙うことのみに執心した男、それが山守であった。

無慈悲、傲慢、厚顔、貪欲、吝嗇、裏切り、狭隘、枉惑(おうわく)、不義・不正、殺人教唆、虚偽、無恥、恫喝、居直り、狡猾、臆病、等々、極道と言わず、人間の持ち得る「悪徳」の全てを集中的に体現させた男こそ、この山守だった。

本作の中で、このような「悪徳」の限りを体現させた人物が山守以外に存在しなかった事実を考えれば、なぜ、深作欣二と笠原和夫は、ここまでして、この男の人物造形の老獪さに拘泥し、それを抉り出そうとしたのか。

「わしを助けると思うて、助けてくれ」
一見、アウトローに見えながら、その実、最も体制的で、極端なまでに我欲の強い男として描かれていた件の男の存在こそが、戦前から貫流し、戦後にレジームチェンジしても、その根柢において何も変わらない、この国の「悪」の元凶と言わんばかりに、思い切り否定的に描き切ったのである。

深作・笠原のコンビは、モデルらしき男の存在如何に関わらず、彼らが共有するであろう反体制的な憤怒の情動を、そこで特化され、仮構されたケチな男の生き様に対して、叩きつけるように激しく撃ち抜いたのだ。

そんなケチな男によって翻弄された極道たちが内部抗争し、「そして誰もいなくなる」という状況を目の当たりにしたとき、山守組若衆頭であった坂井鉄也(松方弘樹)が、かつての盟友・広能に吐露した言葉が印象的に想起される。   

「昌三。わしらはどこで道間違えたんかのぉ。夜中に酒飲んどると、つくづく極道が嫌になってのぉ、足を洗ちゃろか思うんじゃ・・・朝起きて若いもんに囲まれちょると、夜中のことはころーと忘れてしまうんじゃ」

弱気になっ極道・坂井鉄也
まさに、この言葉にこそ、自業自得とは言え、ケチな男によって存分に翻弄され、軟着点を持ち得ない辺りにまで流されていった極道人生の、自縄自縛のトラップに嵌り込んだ陥穽から抜け切れない、寒々しい内的風景の踠(もが)きが垣間見える。

大組織に化けていった極道集団の内輪同士の、その不毛な抗争で厭世的になった男の思いを吐露し、相当に重量感があるのだ

「最後じゃけん、言うとったるがよ、狙われるもんより、狙うもんの方が強いんじゃ、そがな考えしとると隙ができるど」

 これが広能の反応。

 これも相当に重量感がある。

 弱気になった極道には隙ができる。

 隙ができれば、抗争の渦中にある極道には、精神的に非武装の状態を露呈する。

精神的に非武装の状態を露呈した極道は、その時点で負けてしまっているのだ

それは、凄惨な内部抗争の渦中で犬死する以外に、終焉し得ない極道人生の抑制の効かない崩れ方を予約してしまうだろう。

この映画で抉り出した、悪しき「組織暴力」の爛れ切った風景がそこにあった。



 2  荒ぶる若者たちの、拠って立つ精神基盤を持ち得ない心の風景の揺動



敗戦直後、イメージとしては、米軍兵士の横流しや、接収処分された旧日本軍の廃棄兵器の拳銃を乱射する、「組織暴力」の構成員たちの心の風景のアナーキー性。

それが殆ど完璧に描かれていたことで、本作は、この国の敗戦直後のカオス状況に翻弄される、一群の荒ぶる若者たちの、拠って立つ精神基盤を持ち得ない揺動する風景を炙り出すことに成就した。


元より、「弱気を助け、強きを挫く」というイメージと乖離する所業を繋いできたからこそ、「フロリダ自衛法」(銃による自衛活動を容認する州法)や、オクラホマ州の「オープン・キャリー法」(銃所有者が公共の場で拳銃を持ち歩くことの合法化)を持つアメリカとは比較にならないものの、それでもこの国は、「平成の刀狩り」(平成21年12月4日に改正銃刀法の規定がすべて施行)を必要とせざるを得なかったのである。

佐賀入院患者射殺事件
共に、指定暴力団の中でも特段に凶悪と看做される「特定指定暴力団」に指定されていて、道仁会の内部抗争事件(九州誠道会vs. 道仁会)で惹起した、「佐賀入院患者射殺事件」(武雄市の医院で無関係の市民が誤認された事件)に見られるように、一般市民をもインボルブした「組織暴力」の実態を無視する訳にはいかないのである。

さて、「仁義なき戦い」のこと。

ここで重要なのは、この映画の背景が、アジア太平洋戦争を通過してきたことで、血生臭い臭気を強烈に発散させる連中たちが、本作で描かれる「組織暴力」に吸収されていくという、ネガティブでアナーキーな風景を認知することである。

この血生臭さは、拠って立つ大義名分を失った敗戦国の、底なしの戦後状況に呼吸を繋ぐ人々の、その澱んだカオス的な空気感が分娩したものである。

その意味で、原爆投下から始まるファースト・シークエンスで提示された映像は、この映画の重要なアウトラインを構成している。

昭和21年、広島県呉市。

「敗戦後、既に一年。戦争という大きな暴力こそ消え去ったが、秩序を失った国土には、新しい暴力が渦巻き、人々がその無法に立ち向かうには、自らの力に頼る外はなかった」

これが冒頭のナレーション。

いきなり提示された画像は、米軍兵士の集団に追い駆け回された若い日本女性が、暴力的にレイプされるシーンである。

この忌まわしき状況下にあって、周囲の日本人は何もできない。

復員兵・広能
そんな中から、一人の復員兵が米軍兵士と渡り合い、一悶着起きるが、最終的には、MP(在日米軍憲兵隊)の介入によってしか収束できないのだ。

この構図こそ、まさにナレーションで説明されたように、「人々がその無法に立ち向かうには、自らの力に頼る外はなかった」という状況を作り出していく。

この国が、「全日本軍の無条件降伏」を受容した敗戦国であったということ。

そして、日本の敗戦を決定づけた原爆投下と、GHQ主導の戦後の占領統治という、敗戦国にとって最も屈辱的な状況が、このファーストシーンのうちに映像提示されたのである。

更に由々しきことは、そのレイプされた女性が、まもなく、在日米軍将兵を相手にする街娼(「パンパン」と呼称)になり、米兵と連れ立って映し出されていく構図である。

大義名分に縋り付くことが脆弱な日本女性にとって、生きていくためには米兵だろうが、極道だろうが、相手が生活の糧を保証してくれる何者かであれば、一向に構わないのである。

それを、私たちは揶揄してはならない。

浮雲」より
成瀬巳喜男監督の「浮雲」(1955年製作)のヒロインがそうであったように、彼女たちは、生きるためにはどんなものにも縋っていく。

当然のことである。

大義名分を持たないだけ、いつでも、この国の女たちは強いのだ。

因みに、戦後、米軍上陸後、僅か一カ月間で起こった米軍によるレイプ事件は、神奈川県だけに限定しただけで3000件近くになるという報告がある。

しかし、大義名分を失った男たちが、縋っていく何かを持ち得ないとき、そこに「力の論理」で動く草創期の「組織暴力」に流れたとしても決して不思議ではない。

レイプされた女性を助けた男もまた、そんな連中の一人だった。

ところが、不運なことに、その男・広能昌三が身を預けた吝嗇家の相手は、端から大義名分を捨てて、このカオス状況を狭隘な政治力と「力の論理」によって、平気で子分を裏切り、狡猾に生きていくエゴイストだったから始末に悪かった。

山守組組長
この吝嗇家が、山守組組長であるのは言うまでもない。

山守組が県議長選挙に巻き込まれ、山守組結成の媒酌人である呉の長老・大久保(内田朝雄)という大物に逆らえない組長は、「政治」を利用して、組織の拡大を図っていく。

「わしを助けると思うて、助けてくれ」

山守組若衆頭・坂井の前で頭を下げる山守組長にとって、自己の利益のためなら、恥も外聞もなく、甘言を弄するのはお手のもの。

かくて、呉市を仕切る敵対勢力の土居組と決定的に対立し、遂に土居組組長(名和宏)を暗殺する厄介な事態にまで発展していく。

前述したように、土居組組長へのヒットマンを名乗り出る者がなく、ここでも、山守の芝居が功を奏するが、以下、そのときの山守のスピーチ。

「わしが土居と刺し違えたら済むんじゃけん。刺し違えたるよ!組潰す気じゃったら、問題ないんじゃけん!わしが死んだらな、お前らは、お前らでやっていけ!」

明らかに、男っ気のある広能の心理を読み込んだ上での、計算ずくの芝居だった。

その結果、広能がテロルを遂行するに至るが、その際の山守の芝居は、一貫して、狡猾な極道の二枚舌に馴致し得ない男の心を捉える威力があった。

山守(左)と広能
「わしゃ、生涯忘れん。わしを男にしてくれ。その代わりな、お前がな、無期か20年ぐれぇの刑で帰ってこれたら、そのときゃな、わしの全財産をお前にくれちゃる」

そう言って、広能の手を握る山守。

ここでも泣き落とし作戦が成功し、広能もまた、涙で応えるのだ。

「昌三、こんなええ親父さんと姉さん持って、幸せじゃの」

これは、広能の義兄弟・若杉の言葉。

「任侠道」のメンタリティーを捨てていない男には、簡単に人を信じる欠点があるということか。

号泣の嵐の中、山守だけが心中でほくそ笑んでいる。

 しかし、山守の共存が延長されていけば、さすがに、「任侠道」のメンタリティーを捨てていない男でも、山守の本性を見抜いていく。

 
若杉と広能(右)
広能が「塀の中の住人」になっている間に、若杉は山守と訣別の意志を固めて去っていくが、その若杉を警察に売ったのが山守

警察に踏み込まれた挙句、銃撃戦となって、あえなく、若杉は射殺されるに至る。

若杉の死と広能の収監によって、僅かでも生き残されていた「任侠道」の残像は、物語の後半に入って、決定的に自壊ていく。

それ幻想としての「男の中の男」から、現実をリアルに投影する、「男の中の男でない男」を描く映像へのイメージ変換だった。



 3  組織を仕切る、信望の欠片をも拾えない男への憤怒が炸裂する映像の沸点



「昭和25年朝鮮戦争が勃発し、山守組は米軍の弾薬荷役を請け負って膨張した。だが、一方で組員たちの統制は乱れ始め、そのきっかけとなったのは、当時、蔓延していた覚醒剤ヒロポンの密売事件であった」

このナレーションが、物語の後半をネガティブに支配する、「組織暴力」の構成員たちの心の風景のアナーキー性の内実を代弁していく

「男が世に立つ以上、人の風下に立ったらいけん。一度舐められたら、終生取り返しがつかんのが、この世間いうもんよのう。ましてや、侠客渡世ならなおさらじゃ。時には命を張ってでもいう位の性根がなけりゃ、親分と言われるような男にはなれんわね。のう、新開さん、あんたも男になりんさい!わしがなんぼでも応援してあげるけ」

 
坂井と有田(右)
これは、呉市会議員・金丸が、山守組若衆頭・坂井と対立する新開(山守組若衆幹部/三上真一郎)に対して、ヒロポン密売でしのぎをする有田(新開の舎弟/渡瀬恒彦)に不満な坂井との内輪の間で、「不毛な抗争」を仕掛ける狙いで放った言辞だが、組織温存と膨張のために「政治力」を駆使する山守をも包括し、本物の「裏政治」の戦略によって、「組織暴力」を支配せんとする
狡猾さの極北の風景を曝け出したもの。

 今や、壊滅した土居組に代わって、呉の覇権をを占有するほどの巨大組織になった山守組が、山守自身の飽くなき欲望の始末の悪さの故に、ヒロポンの密売に端を発する血で血を洗う内部抗争を必至にする。

坂井一派と新開一派の抗争である。

山守と槙原
それにしても、ヒロポン密売を禁じながら、自らヒロポンの横流しをする山守の狡猾さは、内部からの「信頼」なしに安定的に継続し得ない、「組織暴力」の権力関係の脆弱性を顕在化させていく事態を検証するものである。

 その事実を有田から知らされた坂井は、怒髪天を衝く形相で、疑似家族的な共同体の親分・山守に怒鳴りこんでいく。

「親父さん。言うとったらのう。あんたは初めから、わしらが担いどる神輿やないの。組がここまでになるのに、誰が血流しとるの。神輿が勝手に歩ける言うなら、歩いてみいや。おお!。わしらの言うとおりにしとってくれりゃ、わしらも黙って担ぐわ。のお、おやっさん。喧嘩は、なーんぼ銭があっても勝てんので」

 山守に対して、積り積った怒りを噴き上げて帰っていく坂井。

この坂井こそ、物語の後半の実質的な主人公となって、爛れ切った「組織暴力」の内部抗争の裸形の相貌性の渦中で、抑制の効かない崩れ方を体現ていくのである。

一方、「神輿」とまで罵倒された山守は、面子が潰されたことに不満を零す夫人に、言ってのけるのだ。

 「若いもんには知恵いうもんがないけぇ、喧嘩して、どっちも消耗していくだけよ。そんときになりゃ、わしがただの神輿じゃないいうことが、よう分る」

 何もせず、子分の激発的なエネルギーを利用して、子分同士の「戦争」を煽るばかりか、その仕掛け人となるや、「喧嘩して、どっちも消耗していく」とまで言い切る、究極の「ワル」の様態を露わにしていく。

 
坂井と新開(右)
止めようがない坂井と新開一派との凄惨な抗争事件は、殆ど、「誰もいなくなる」という凄惨な状況を顕在化する。

殺し、殺し合った末に、山守組内部の抗争事件が坂井派の一方的勝利に終わろうとしたとき、広能が講和条約の恩赦で仮釈放され、娑婆に出て来た。

 仮釈放された広能を待っていたのは、山守組長その人だった。

 用件は、自分に反旗を翻した坂井への暗殺の依頼だった。

 かつて、広能の出所の際には、「わしの全財産をお前にくれちゃる」という約束などすっかり忘れていて、今は、「坂井憎し」の感情で固まっているのだ。

さすがに、山守の放言癖が、この男の本来的な性格に起因するという認知に届いている広能には、山守組内部の不毛な抗争と距離を取る態度を貫流するが、それでも、かつての仲間を屠った坂井への疑念を払拭し、不毛な抗争の決着をつける覚悟で坂井の元に現れる。

しかし、逆に坂井の子分たちに取り押さえられた広能は、先述したように、弱気の吐露を聞く。

坂井の死
その吐露は、凄惨な内部抗争での犬死を予約する。

山守組若衆で、坂井に対抗していた矢野(曽根晴美)が、坂井のヒットマンたちに殺された恨みを買ったことで、矢野組の組員に呆気なく殺害されるに至るのだ。

当然、山守の策謀である。

自分の地位とテリトリーを保守するために、あろうことか、子分同士を争わせ、完膚なきまでに潰していった男の狡猾な策略は、坂井のによって自己完結する。

「昌三。こんなの考えてることは理想よぉ。夢みとーなもんじゃ。山守の下におって、仁義もくそもあるかい。現実いうもんはの、おのれが支配せんことにはどうにもならんのよ」

 広能に残した坂井のこの言葉が、鮮明に想起される。

坂井と広能
「おのれが支配せんことにはどうにもならん」と言い切った坂井は、結局、坂井を翻弄させ続けた男によって斃されていったのである。

 そんな坂井の心情を最も汲んでいた男によって、「組織暴力」の権力関係内部の爛れ切った抗争の物語が、その裸形の様態を曝け出して自己完結していく。

 その人格に「任侠道」の残像を張り付けている広能が、束の間、坂井の葬儀のスポットを完全に支配するのだ。

ラストシーンである。

 坂井の葬儀が盛大に行われていた。

 そこに広能が現れる。

 祭壇に飾られた坂井の写真に向かって、広能は語りかけていく。

「鉄ちゃん・・・こんな、こがなことしてもろうて、満足か・・・満足じゃなかろうのう・・・わしも、おんなじじゃ」

そこまで言い放った直後、広能は懐から拳銃を取り出して、祭壇に向かって矢庭に発砲する。

驚愕する葬儀の参列者。

広能の拳銃は、参列者の足元に向かって続けざまに発砲される。

「広能、おてーは、腹括った上でやっとるんか!」
広能の拳銃の乱射が収まるや、混乱する参列者の中から激昂した山守が最前列に出て来て、恫喝する。

「広能、おてーは、腹括った上でやっとるんか!」
 
 山守の恫喝を疾(と)うに見透かしている広能は、山守を睨み切って、膨れんばかりの憎悪を決め台詞に結んでいった。

 「山守さん、弾はまだ残っとるがよう」

 そう言い捨てて、後ずさりする参列者の前を通り抜けていく広能。

 激しい怒りを込めた広能の情動の炸裂は、欺瞞に満ちた葬儀を一時(いっとき)支配するが、仮釈放後、かつての極道仲間の凄惨な内部抗争の、不快なる傍観者でしかなかった視線のうちに相対化された思いを凝縮させた者の、遣る瀬無いまでの空虚な感情と無力感であった。

思えば、広能が入獄している僅かの間に、山守組を巡る風景が一変してしまったのである。

 それは、入獄中に情報が入手できたとは言え、現実を目の当たりにした広能にとって、とうてい受容し難い状況だったはずだ。

受容し難い状況の渦中に、強引に引き摺り込まされていく不条理への不快感は、流砂のような空疎な感情の遣り切れなさが、封印し得ない激しい怒りを結んでいって、葬儀での情動の炸裂に変換されたのであろう。


ここで、広能の怒りの根源にある心理が、自分が身を預けている組のためを思ってヒットマンとなり、その結果、覚悟の刑務所行きを余儀なくされたにも拘らず、出所後の風景は自分の脳裏に記憶する「疑似共同体」の欠片すら拾うことができなかったこと。


そのことは、組のために犠牲になった敵対勢力のボスの暗殺と、その後の刑務所生活が全く意味を持ち得なかった現実の無念の感情が、彼の心の奥底で塒(とぐろ)を巻いているのだ。

広能のこの思いの集合が、ラストカットの彼の表情のアップのうちに捕捉されたのである。

信望の欠片をも拾えない男が仕切る組織は、仮に、男の政治力によって自己膨張したとしても、その内部の統制感は相対的に崩れていき、組織としての継続的安定感は常に自壊の危機を孕んでいるのだ。

 だからこれは、金子信雄扮する狡猾な組織暴力のトップが、一貫して支配する映画と化していた。

組織を仕切る、信望の欠片をも拾えない男への憤怒が炸裂する映像の沸点。

 笠原和夫と深作欣二の間で共有された感情の集合体が、そういう憤怒のメッセージとして映像提示されたのではないか。

 私はそう思う。

【参考資料 「笠原和夫と深作欣二 ~ 破滅へと向かう葛藤」(Adobe PDF

(2014年5月)


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