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2013年3月14日木曜日

八月の鯨(‘87)   リンゼイ・アンダーソン



<「八月の鯨」という、解放系の空間に駆動させる老姉妹の心理的推進力>



 1  「老境する基本的スタンスが異なる老姉妹



これは、「約束された死」への境遇が実感的迫る、「老境する基本的スタンスが異なる老姉妹が、それによって生じる葛藤の心理的補完を、一方が他方に依存的に求める「対比効果」(対比によって、一方の特徴を際立たせる効果)の技法のうちに、鮮やかに浮き彫りにした一級の名画である。

姉の名は、リビー。

妹の名は、セーラ。

共に、配偶者に先立たれている高齢の身を、精神的寄り添い合って生きてきた老姉妹であるが、近年は、全盲という不遇の状態を託つリビーを、元気闊達なセーラが物理的・心理的に支えている。

そんな老姉妹が、去年もそうであったように、今年もまた、ニューイングランドの最北端に位置する白人州、メイン州の海沿いの島にある、セーラ所有の別荘にやって来た。

8月になると、島の入江に、その見事な躯体を現わすという鯨の伝説を信じ、岬からの眺望を視界に収めるために、別荘に期間限定で集う老姉妹。

それは、仲睦まじい少女時代に経験した、印象深い思い出をルーツにしていた。

しかし、老姉妹の別荘での共存の時間には、少しずつ、顕在化されてきた心理的亀裂が目立つようになってきた。

セーラに対する、リビーの依存度の高まりが、看過できないまでに膨れ上がってきたのである。

その心理的風景のうちに隠し込まれていたのは、「老境する基本的スタンスの相違であると言っていい。

老境する基本的スタンスが異なる高齢の姉妹の、その人生観の落差を端的に表現するシーンが、本作の中に拾われていた。

以下、それを再現する。

別荘のバルコニーに出て、白髪自慢のリビーの髪を梳(と)かす、セーラとの合わせの構図は、如何にも、仲睦まじい少女時代の延長を印象づけるが、その内実は、決して良好な会話とは言えない尖りを含んでいた。

「見苦しくないようにしてね」とリビー。
「いつも、きちんとしてるわ」とセーラ。
「あんたには、迷惑をかけているわね」
「少しも苦にならないわ」
「気が変わるわよ。誰でもそう」
「大丈夫。あなたが断らなきゃ」
「アンナがいるのにね」

アンナとはリビーの娘の名だが、その母子関係は良好ではない。

「アンナは、私たちを敬遠してるのよ」とセーラ。
「私の娘なのに!」とリビー。
「アンナは娘らしくないし。あんたも母親らしくないわ。仕方ないわね」

リビーは、娘との関係に触れられたくないのか、話題を変えた

「あなたの髪は今、どんな色なの、セーラ?」
「色褪せたわ。茶色がすっかり消えて」
「全てが消えていくわ。遅かれ早かれ」
「いつも言うわね」
「なぜ、老女は公園のベンチに座ると思う?」
「なぜ?」
「若い恋人たちの席を取るため。たとえ、11月の木枯らしが吹こうとね」
「今はまだ8月よ」
「時期など気にしないで」
「そうはいかないわ」
「そうね。人間には重くのしかかっているわ。マシューは11月に死んだの。言っておくけど、マシューの月に、私も逝くことになりそうよ。セーラ、雑用を片付けなさいよ。私、ベンチを確保しておくから」

マシューとは、リビーの亡夫の名だが、明らかに死を意識する言辞を、嫌味を込めて放つリビーの「老境」には、「約束された死」への境遇が実感的迫っているのである。

そこまで聞いて、姉から離れていくセーラ。

メイン州(イメージ画像・ブログより)
 老境する基本的スタンスの相違が、そこに垣間見えていた。




2  「姉妹の関係の復元」というイメージだけを求める屈折的自我の軟着点



「私たち、新しい物を作るには年寄り過ぎるわ」

これは、別荘に見晴らし窓を設置したいというセーラに対する、目が見えない姉の物言いだが、そこにも尖りを含んでいる。

「リビー死を気にする」

幼馴染みのティシャに、吐露するセーラ。

「それは年のせいよ。リビーはいつも難しい人だったわ。娘のアンナにリビーを引き取らせなくちゃ

ティシャの忠告である。

「ダメよ」とセーラ。
「自分の母親を世話するのよ・・・あなた、このままでやっていける?」
「どういうこと?」
「お金よ。この家を維持していける?」
「考えてもみなかったわ」

この反応には、楽天的なセーラの性格が如実に表れていた。

「リビーがいなくなったら、私と生活したら?」
「そんな、面倒掛けたくないわ」
「人生の半分は面倒で、あと半分は、それを乗り切ること」

親友同士の関係を印象づける会話だった。

一方、マシューとの愛情関係が不足していたと、セーラに言われたリビーは、その直後、夫の遺品の毛髪の一部を、自らの顔に当てて、撫でていた。

ティシャとマラノフ(右)
他方、セーラは、落魄(らくはく)した亡命ロシア貴族の末裔であり、配偶者に先立たれたばかりのマラノフを、夕食に招待した。

彼が採った魚を材料に、料理する晩餐の催しである

「私たちは、姉妹でも全然違うのよ」とセーラ。
「私たちは、頑固な血統なのよ。でも、貴重な残り時間は僅かだわ」とリビー。

 これは、魚を採ったマラノフを夕食に招待した老姉妹の言葉。

 相変わらず、リビーの言葉には棘があった。

この棘は、夕食後、伴侶を失くし、孤独に苛まれているマラノフに対する存分な嫌味になって炸裂するのだ。

 「ここを当てにするのは止めてね」

 暗に宿泊を拒否し、自分だけは、さっさと席を外すリビーの態度に、そのまま帰宅していくマラノフ。

 さすがに、感情丸出しのリビーの態度に対して、腹の虫が収まらなかったのはセーラである。

彼女は、客を招く身だしなみから、化粧を施してまで、マラノフを招待したのである

「偏狭なのよ」と謝罪するセーラ。
「行方を見失っても、人生を上手く渡って来た」とマラノフ。
「人生が長すぎるとは?」とセーラ。
「思いませんね」
「寿命以上に生きたとしても?」
「終わりが来たときが寿命ですから」


4人の登場人物
人生を括り切っているようなマラノフの凛とした態度に触れ、セーラはいよいよ、この紳士を追い返したリビーを許せなかった。

一方、自分のベッドの中で、安眠できないリビーは、「セーラ」と寝言で叫んでいた。

懊悩するリビーには、セーラの存在のみが生きがいなのだ。

だから、親愛の情を持って、セーラに近づいて来る者たちの一挙手一投足に、過剰なまでの神経を消耗してしまうのである。

「セーラを失いたくない」
 
この気持ちが、リビーの自我の中枢を支配しているのだ。

そのセーラは、今、亡夫フィリップとの結婚記念日を、一人で祝っている。

夫の遺影にワインで乾杯しながら、明日、別れるリビーのことが心配でならないのである。

「46年目ね、フィリップ。46本の赤いバラ。46本の白いバラ。白は真実で、赤は情熱。いつも、そう言ってたわね。情熱と真実こそ、人生の全てだと思うわ。あなたが生きていれば・・・リビーをどうすればいいの?これ以上、つき合いきれないわ」

そこに、セーラを求めるリビーがベッドから起き出して来るや、「死神」が迎えに来たと言って騒ぐのだ。

「あなたが死ぬのは勝手だけど、私の命はまだ終わらないの」

セーラ
リビーを許せない感情を引き摺ってるセーラは、これだけはどうしても言っておきたかったのだろう。

「あれは悪い夢だったわ」と謝罪し、「娘のアンナの所に行くわ」と、リビーがセーラに告げたのは翌朝だった。

セーラの友人のティシャが、勝手にセーラの思いを忖度し、彼女所有の別荘の売却の話を業者に依頼するという、差し出がましい行為に腹を立てたセーラが、ティシャを追い返した一件が出来したのは、その直後のこと。

珍しく激昂するセーラの言動には、昨夜来のリビーとのトラブルが尾を引いていて、セーラの内側で悶々と燻(くすぶ)っていたのだろう。

ティシャとの一件を隣室で耳にしたリビーが、セーラの元にやって来て、そこに居合わせた修理工のヨシュアに、自ら、見晴らし窓の設置を依頼したのだ。

目を輝かせるセーラ。

セーラを求める孤独なリビーにとって、ティシャを追い返したセーラの行為は、何より心地良い振舞いだったのである

こんな屈折的自我を抱えるリビーには、「姉妹の関係の復元」というイメージだけが、至要たる何かだっただ。

これが、ラストシーンでのリビーの、感情の反転という構図に流れ込んでいったのである



 3  「八月の鯨」という、解放系の空間に駆動させる老姉妹の心理的推進力



メイン州
「八月の鯨」とは、永遠に求めることができないが、それを保持することによって、高齢の老姉妹を、閉鎖系の空間から解放系の空間に駆動させる心理的推進力になっているもの ――  それを、私は「希望」と呼んで間違いないと思う。

セーラに導かれて岬に立つ、リビーの遮断された視界に入ってくる風景は、冒頭で挿入された、思春期時代の姉妹が、美しい自然の懐に抱かれて、闊達に身体疾駆していたイメージそのものであったに違いない。

何度観ても、忘れ難いラストシーン。

 「どう、見える?」とリビー。
 「鯨は行ってしまったわ」とセーラ。
 「分るものですか。そんなこと、分らないわ」

 ラストシーンでのリビーの言葉の中に、本作のメッセージが凝縮されている。

ラストシーン
映像は、観る者に、心地良くも、ほんの小さなカタルシスを保証して閉じていくが、しかし観る者は、リビーの行く末に待機しているに違いない、悄悄たるイメージをも喚起させるに充分なものだった。

日常性の中に、小さな満足を繋いでいくセーラには無縁だが、万一、元気なセーラが先に逝ってしまったときのリビーの人生の、陰々滅々(いんいんめつめつ)な破綻的イメージを否定し難いだ。

それ故にこそ、半ば、「死神」に取り憑かれていたリビーにとって、「セーラが先に逝く」という事態は絶対に避けねばならないものだった。

屈折的自我を抱えるリビーは、自分が最も失いたくないセーラに近寄って来る、見知りの人間たちの訪問を悉(ことごと)く拒んだばかりか、セーラの夫が第一次世界大戦で逝去した後、自分が15年間も面倒を看てきてやったことの認識の確認を、常に、セーラ自身に強迫的に迫らざるを得ない感情に駆られていた。

「リビーに面倒を看てもらった15年間」

セーラに対して、この債務感情を認知してもらうこと ――  それが、リビーの生存適応戦略の肝にあった。

この生存適応戦略の肝こそが、リビーにとって、「死神」に連れ去られないための唯一の手立てであったが故に、セーラへの押し付けがましい態度を必至にしてしまったのである

セーラもまた、そのことが理解できていた。

日増しに悪化する、リビーの精神状態を視認することで、ふっと溜息を洩らすセーラの心痛の様態は、「老境する基本的スタンスが異なる老姉妹の、関係濃度の落差に起因する埋め難いアポリアを炙り出してしまっているのだ。

その辺りの、老姉妹の葛藤と精緻な心情を描き切ったこと。

それが、本作を、並ぶものがない伝説的名画たる所以にしていると言っていい。

セーラとリビー
映像は、無論、ラストシーンから開かれる暗欝なイメージを具体的に提示しないが、しかし、そんなことは考えるまでもないことである。

「人生の半分は面倒で、あと半分は、それを乗り切ること」

セーラに放った、幼馴染みのティシャの言葉の重量感は、半ば、「死神」に取り憑かれていたリビーの人格総体が抱える「馬力」の脆弱性では、とうてい困難であるだろう。

それ故、残りの人生をカウントダウンして、日々を繋ぎ、娘のアンナからも遺棄される危うさを内包するリビーが、「老境」を無残にさせないために選択する方略は、ただ一つ。

 妹のセーラとの、「物理的・心理的共存」のみ。

 だからこそ、この「物理的・心理的共存」の可能性を失っていく、リビーの人格の崩れ方のイメージを暗に提示することで、せめて、セーラのように、「日常性の中で拾っていく幸福感」をこそ大切にすべきであるという作り手のメッセージが、存分のリアリティを内包しながら、観る者に伝わってくるのである。

 それが、本作に対する私の基本的理解である。

(2013年3月)

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