1 「癒しの空間としての家族」という物語と、家族外人間関係における道徳観念が内包する欺瞞性
私たちが殆ど疑うことがない「癒しの空間としての家族」という物語と、とりわけ、この国において、家族外人間関係における道徳観念が内包する欺瞞性を、ブラックコメディ仕立てで抉り出した逸品であり、相応のテーマ性を持った娯楽映画としても充分に楽しめる作品である。
ここでは、ブラックコメディ仕立ての相応のテーマ性について言及したい。
まず、「癒しの空間としての家族」という物語。
いつの時代でも、どの国でも、この物語の求心力は絶対である。
そんな絶大な求心力を誇る現代家族には、3つの幻想が内包されていると私は考えている。
その1 「役割共同体」。
「役割共同体」とは、かつて愛し、恐らく、今でも愛しているに違いない特定の女性を、「お母さん」とか、「ママ」とか呼び、更に、かつて愛する男性もまた、固有名詞の人格呼称から、「お父さん」という役割呼称に変えられて、瑞々(みずみず)しかった若きカップルは、家族という「役割集合体」に関係ベクトルを転位させていくことになる。
この関係ベクトルの転位の延長上に、「長男」、「長女」、「次男」、「二女」、更に、我が子同士の関係が「兄」、「妹」等々、といった役割呼称で呼び慣らす「役割共同体」を固めていく。
夫婦の関係は、子供との関係に力点を移すことで相対化され、一つの「役割集合体」としての家族が、その固有の律動を刻んでいくのである。
夫婦の関係は、子供との関係に力点を移すことで相対化され、一つの「役割集合体」としての家族が、その固有の律動を刻んでいくのである。
その2 「中性共同体」。
これは、物理的共存を深めるほど関係は中性化するという、関係の仮説命題の流れによって自然に作られやすい形態で、一言で要約すれば、「家族」という物語が、「性の脱色化」を本質にする「中性共同体」への変容を深めていくという持論に収斂されるもの。
夫婦と子供二人という核家族の中で、この中性化=「性の脱色化」という現象が多元的に、部分的には緩慢に、しかし確実に進んでいく。
夫婦と子供二人という核家族の中で、この中性化=「性の脱色化」という現象が多元的に、部分的には緩慢に、しかし確実に進んでいく。
それは、物理的共存を選択した家族の宿命であると言っていい。
この集合体では、性は極めて制限的であり、抑制的である。
物理的共存を深めることで、この「役割共同体」が「中性共同体」として純粋培養させていくのである。
ゲップが飛び交い、放屁と鼾が宙を舞い、裸の肉塊が空間を過(よ)ぎっても、誰もそれを不思議に思わないような空気が、そこにある。
この集合体では、性は極めて制限的であり、抑制的である。
バーチャルお帰り家族(イメージ画像・ブログより) |
ゲップが飛び交い、放屁と鼾が宙を舞い、裸の肉塊が空間を過(よ)ぎっても、誰もそれを不思議に思わないような空気が、そこにある。
中性化の達成度の微妙な落差を認めてもなお、この集合体の内側を貫く脱セックス化の規範ラインは健在である。
このことは、近代家族の使命が、子孫の継続的伝承という中枢のテーマを除けば、愛情と援助の自給という二本柱に拠っていることと関係するが、ここでは言及しない。
このことは、近代家族の使命が、子孫の継続的伝承という中枢のテーマを除けば、愛情と援助の自給という二本柱に拠っていることと関係するが、ここでは言及しない。
その3 「情緒的共同体」。
中性化の亢進は、家族の宿命だった。
多くの場合、夫婦に関わらず、性はどこの社会でも開放されたものになっていない。
隠れて営むという性のスタイルが、人類創世と同時にあったものかは定かではないが、「家族」という名の限定的な小宇宙で、父と母が同時に、「夫婦」という名の男女でもあったという事実を、物心が付き始めた二世たちに見せる必然性がないという規範意識を、人々は自然に継承してきているのである。
早晩、夫婦の中から「ときめき感覚」が稀薄化していく。
それに反比例するかのように定着化が進むのは、「安らぎの感覚」である。
早晩、夫婦の中から「ときめき感覚」が稀薄化していく。
それに反比例するかのように定着化が進むのは、「安らぎの感覚」である。
これが、関係の中性化の推進力になる。
家族の中性化の基底のモチーフは、中性化を果たすことで得られる「安らぎの感覚」の共同内化にこそある。
家族の中性化の基底のモチーフは、中性化を果たすことで得られる「安らぎの感覚」の共同内化にこそある。
一言で要約すれば、家族の成員は自らを包含するその集合体のうちに、それぞれの自我を裸にしたいのである。
言い換えれば、家族とは、その成員の自我を裸にする何ものかなのだ。
そこで眠っていても、誰も襲って来ることがなく、裸になっても、誰も特別の視線を投げかけたりはしない。
そこで眠っていても、誰も襲って来ることがなく、裸になっても、誰も特別の視線を投げかけたりはしない。
当然、会話には敬語はいらない。
要するに、人が社会とクロスするときに生じる緊張感が、ここには僅かしかないのである。
この装置の中で、各成員がそれぞれの成長と老化のプロセスに見合った、様々なる情緒的結合を果たしていくこと。
この情緒的結合こそ、現代家族の基幹を成す生命線であると言っていい。
要するに、「家族」という物語は、「情緒的共同体」のうちに収斂されていくのである。
要するに、「家族」という物語は、「情緒的共同体」のうちに収斂されていくのである。
―― 次に、家族外人間関係における道徳観念について。
家族外人間関係における道徳観念とは、社会的に支持された、成文化されざる規範の集合的観念のことである。
とりわけ、この国の道徳観念を支配しているのは、「空気」という厄介な代物である。
この「空気」の本質は、「そんなことは言わなくても分っているだろう」と人々に思わせるに足る、「察しの文化」であると言っていい。
これが「互酬性の原理」=「世間体の原理」として、長く、この国の地域社会の見えざるルールとして機能してきたことは否定しようがないだろう。
然るに、急速な都市社会の発展によって、隣に誰が住んでいても一切関知しないという、集合住宅の生活ゾーンでは、相当程度形骸化されているが、それでもまだ、地域社会の中で安楽死していないという、強(したた)かな現実がある。
隣人祭り・農園株式会社しみづ農園HPより
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まさに、本作の舞台である北陸の田舎町で、この国の「察しの文化」が強力に根を張っていて、それが、本作の物語の起爆点となって自己運動していったのである。
この「察しの文化」の中で、私たちは、「自己基準を押し付けるな」という、見えない抑制系の世界で呼吸を繋いでいるということ ―― この把握が重要なのだ。
映画の舞台になった能登地方(白米の千枚田・MAPPLE 観光ガイドHP)
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「癒しの空間としての家族」という物語と、「空気」という厄介な代物が内包する、幻想体系を相対化するという一点によって本作を読み解けば、少なくとも、私の中では腑に落ちるものがあった。
それが、本作に対する私の好評価に繋がっている。
2 「権力関係」を作られて、その鬱憤を処女妻に晴らすような「腑抜け」と、「全身オプティミスト」の脳天気
4人の登場人物の中で最も哀れを極めたのは、永瀬正敏が演じる、長男役の宍道(しんじ)である。
「父親の後妻の連れ子」という紹介があるから、血縁的には、宍道が父親の2人の娘(澄伽と清深)と切れていることが分る。
映像は、「家長」としての責任を持って、炭焼きをしながら、「家族」という物語を構築しようと努める宍道の真面目な性格をフォローしていく。
しかし、彼には最大の弱みがあった。
両親の急逝を知って、帰郷して来た長女の澄伽(すみか)との「約束」に、雁字搦めに縛られていたという現実。
これが、この男を加速的に追いつめていく。
義兄妹という関係の中で、澄伽と性的関係を持ったことで、女優志願の澄伽への経済援助を続けること、そして、澄伽以外の女との性的関係を持たないということ。
ここで言い添えれば、血縁のない義兄妹同士の性的関係は、近親相姦にならないどころか、法的には結婚も可能である。
その辺りが、澄伽のハニートラップに掛かって、性的関係を持ったこの若者の脆弱性の悲哀でもあるが、自業自得でもあった。
だから、この若者は、実父をナイフで脅すことも辞さない、「半身犯罪者」である澄伽との間で形成された、「権力関係」の破壊力に怯(おび)える「腑抜け」の象徴的人物だったという訳だ。
「家長」という名の、ズブズブの「腑抜け」のキャラを引き摺っていく宍道の悲哀が、ブラックコメディ基調で拾われる、陰惨な風景を身体表現していくのである。
血縁のない義妹の澄伽に「権力関係」を作られて、その鬱憤を、処女妻に晴らすような「腑抜け」は、自死に振れる以外にないのだろう。
宍道の自殺は、ハニートラップに掛かって「権力関係」を作られることなく、「甘えるのもいい加減にしろ!」と言って、澄伽を殴り飛ばせなかった男の「腑抜け」の極点だったと読むべきである。
待子 |
「家族」という名の物語の継続力。
これが、待子のアイデンティティの生命線になっていた。
それ故、結婚してもセックスレス状態を延長する、「名ばかり妻」の悲哀に落ち込むことがないのだ。
例えば、夫にかけられた麺つゆが、コンタクトレンズの間に入ったことで、失明の危機に陥り、入院するに至るような不幸に直撃されても、恬淡とした態度を崩すことのない彼女のキャラの座り方は、殆ど感性濃度の奥行きを印象づけないほどだった。
何より、生まれ育ちの影響が起因になって、周囲の「空気」の読解力の決定的不足をも補って余りある、突き抜けた明るさを振舞っていた。
この女は、一貫して変わらない。
その変わりにくさこそ、彼女の真骨頂だったからである。
3 男たちの「腑抜けさ」を均等に分け合って喰っていく、誰も勝者のいない女たちの腕力の決定版
然るに、澄伽をモデルに描いて発表されるに至った、ホラー漫画の恨みを受ける彼女は、入浴中に熱湯を入れられ、苦痛に歪む表情をカメラで撮られたり、村の老婦人たちの前で、澄伽を褒める歌を唄わされたりというという受難に遭っても、「これ以上面白いモデルはいない」と確信するイメージラインが一貫して壊れることがないのだ。
帰省中の澄伽と物理的に共存しながらも、澄伽の知る由もなく、郵便局でバイトしていながら、せっせと、「ろくに芝居もできないのに、性格が悪い姉の面白さ」を、ホラー漫画の題材にする図太さを隠し込んでいて圧巻だった。
しかも彼女は、この4者関係の爛れ方の現実を熟知する観察眼の鋭さがあるから、リアルに出来する家族内騒動を、ホラー漫画というツールに変換させていく抜きん出た能力は、早晩、この家を去っていく必然性を内包していたという訳だ。
「もう、ここには帰ってこんと思う。私、東京で漫画家になるから」
これは、ホラー漫画のグランプリで100万円を手に入れた清深が、澄伽と待子に放った言葉。
彼女は、自分の眼の前で事故死した両親の逝去以来、「家族」という名の物語の継続力を信じ切っていないのである。
この清深の逆転譚の伏線が映像の中で小出しにされながらも、その本来の堅固な自我を隠し込ませることで、物語総体の支配力を見せつけるラストシークエンスの効果は絶大だった。
「お姉ちゃんが、女優を諦める漫画。演技以前の問題やろ。お姉ちゃんは、自分の面白さが全然分ってない!」
完璧なまでに自己基準で生きる澄伽の暴力を怖れず、ここまで言い放つ清深の逆襲に対して、切れ捲った澄伽が清深をナイフで刺すが、実は玩具に変えられていたという間抜けさを笑い飛ばす清深の逆転譚は簡単に終わらない。
「あんた、あたしのこと漫画にするんやったら、ちゃんと最後まで見なさい!」
これは、路線バスを止めての姉妹の喧嘩の決着を、ナイフで義兄や実妹を刺そうとするほどに、狂い抜いている澄伽は、そこだけは共通語に流れることなく、この声高な叫びのうちに相殺にするのだ。
女たちの身体バトルによって機能停止した路線バスが、姉妹のキャットファイトを吸収し、運航する特定スポットの中で、堂々とした寝顔を晒す澄伽をデッサンする、清深の絵柄をラストカットにした映像の強さの推進力は、「察しの文化」を本質にする「空気」の力学を蹴飛ばす勢いで、まさに、男たちの「腑抜けども」の、その「腑抜けさ」を均等に分け合って喰っていく女たちの、誰も勝者のいない3人の、図太く生きる腕力以外の何ものでもなかった。
「空気」の力学を引き裂き、「家族」という物語の本質的自壊を提示した映像は、義兄の自殺という、決定的な「腑抜け」の極点が提示された物語でありながらも、ドロドロの愛憎渦巻く人間関係の悲劇というイメージとは遥かに無縁に、軽快なテンポで物語を流していったのである。
4 誇張されたキャラクター映画の手法を包括するブラックコメディという戦略
以上、縷々(るる)述べてきたように、血縁関係の希薄な4人が、束の間仮構した「家族」という物語が、それを構成する「役割共同体」、「中性共同体」、「情緒的共同体」という幻想の、骨太の骨格によって支えられていなかったことが判然とするだろう。
「役割」は形骸化し、「性の脱色」を本質とする「中性共同体」が呆気なく壊された、「家族」という物語に「情緒的共同体」を求める方がおかしいのだ。
加えて、「世間体の原理」という心理圧を突き抜けて、どこまでも、自己基準で生き抜く強かな女たちによって、田舎町のコミュニティを取り巻く「空気」をも払拭し去ったのである。
そこに、「察しの文化」の欠片すら拾えないのは当然だった。
その意味で、弱含みだが、本作の軟調なテーマ性が、「癒しの空間としての家族」という物語と、「空気」という厄介な代物が内包する、幻想体系に対する存分なアイロニーを持って、ブラックコメディ基調で描き切った一篇だったということが判然とする。
「自分が許せんかった。自分が家族の不幸を漫画にして、賞金もらうような人間やなんて。生まれ変わって、家族と喜びとか悲しみとか、一緒に分かち得るような人間になろうって、本当に頑張ってんよ」
これは、マンガ家志望の妹(清深)が、完璧なまでに自己基準で生きる澄伽の暴力を被弾したときに、自分に寄り添う義兄・宍道への吐露。
「俺たち、家族なんやから。きっと分り合える」
これが宍道の反応であるが、既に、高校生の清深の吐露の中に、束の間仮構した、「家族」という物語の自壊の認知が窺えるのである。
哀しいかな、一人、悶々と懊悩する宍道だけが、「家族」という幻想に縋りつこうとする矛盾の板挟みにあって、自死に振れていくリスクを抱え込んでいる相貌性が露わにされ、痛々しいほどであった。
「全身シリアスドラマ」を拒絶する映画が拘泥するのは、「狂気」と近接するブラックコメディという戦略以外ではなかった。
「狂気」と近接する本作の破壊力を、「全身シリアスドラマ」で勝負すれば、真面目な日本人は振り向きもしないので、誇張されたキャラクター映画の手法を包括する、「何でもあり」のブラックコメディという戦略が有効だったのだろう。
毒気とユーモアの中に、ほんの少しテーマ性を盛り込んで、辛み少々の、シリアスの味付けをした娯楽映画の逸品だった。
(2013年4月)
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