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2023年11月10日金曜日

橋のない川 第二部('70)   闘い切った映画作家の本領の眩さ  今井正

 


1  「世間の人たちはそう思っていても、僕らに向かっては、決して口には出しません。ただ、その目で僕らを見るのです。あなたは正直にそれを僕に教えてくれました」

 

 

 

スケッチブックを抱えて、川の対岸を歩いている杉本まちえ(以下、まちえ)の姿を見て、畑中孝二(以下、孝二)は、「まちえさ~ん!」と何度も呼びかけるが気づいてもらえない。 

まちえ


孝二(橋のない川の象徴的画像)


夢だった。

 

高等科を優等で卒業した孝二は18歳となり、ガラス工場で熱心に働いていたにも拘らず、皆が部落出身者と一緒に働きたくないという理由で、職場を解雇されてしまう。 

解雇を言い渡される孝二



列車の中で、相変わらず酒浸りの永井藤作(以下、藤作)に声をかけられ、藤作が靴の修理で身を立てていることを知る。 

藤作(左)


孝二の祖母・畑中ぬい(以下、ぬい)は、孝二が解雇された件で、安養寺の秀賢和尚(しゅうけんおしょう)に相談する。 

ぬいと秀賢


「あの子は今度で五へんめだんね。わい、工場の親方に文句言いに行きたいねん」

「…なんぼ四民平等、言うたかて、部落のもんも世間に嫌われようにせんにゃあかんな。早い話が、永井藤作や…子供は学校にあげん、娘はオヤマ(遊女のこと)に売るわ、家は汚のうて、風呂にも入りよらん。小森でも嫌われ者じゃ」

 

孝二は、大阪の米店で働く兄の誠太郎の職場を訪ねた。

 

誠太郎の店の旦那は、誠太郎が小森出身と知って、長年雇い続けてくれている理解がある人だと話し、孝二を紹介すると誘うが、兄に迷惑がかかるからと辞退する。 

孝二と誠太郎(右)


小森出身を隠して就職する者もいる中、孝二はバレるのをビクビクするのは嫌だと言って、出自を隠さず就職活動をするが上手くいかず、結局、草履作りを止め、今は靴作りをしている小森の志村国八の店で働くことになった。

 

そんな孝二は町の本屋で、島崎藤村の『破戒』を買いに来たまちえの声を背中で聞いたが、一瞬振り向いただけだった。 


まちえは坂田小学校の教師になっていた。

 

その夜もまた、まちえの夢を見る孝二。

 

傍らで母のふでとぬいが、シベリア出兵(ロシア革命に対する列強の軍事干渉)の話をし、近々、兵役検査を受ける誠太郎を案じる。

 

そんな折、誠太郎は旦那の安井徳三郎から、7年の年季明けの祝儀を受け取った。

 

徳三郎の妻・みきからは、兵役検査で着る着物を贈られ、誠太郎は感謝の気持ちで胸がいっぱいになる。 

徳三郎とみき



「7年間も同じ釜の飯を食うてきたんや。親子みたいなもんやないか」

「何をおしゃいますねん。わてみたいな生まれもん」

「それを言いないな。それを言うたらあかんねん。どんな生まれかて、人間ちゅうものは精神や。お前くらいの人間やったら、どこへ出したかて立派なもんや」

 

みきにも、「…どんな生まれかて、人間に変わりはあらへんやさかい」と言われた誠太郎は、涙ながらに深々と頭を下げるのだった。

 

更に徳三郎は、兵隊検査を終わって入隊するまで、番頭として働いてもらうと話すのである。

 

甲種合格した誠太郎が実家を訪れ、父の仏壇に報告する。

 

【戦前の徴兵検査には、甲種(身体頑健)・乙種(甲種に劣るが兵役に適する)・丙種(合格だが現役に適さず)・丁種(障害者/兵役に適さず)・戊種(ぼしゅ/病気持ちのことで、翌年に合格見込みあり)の5種類ある】

 

ところが、シベリア出兵で米が高騰し、更に東北の凶作で金持ちの問屋が米を売らず、益々米の値段が上がるだろうという話となった。

 

「朝鮮から米を買い上げてな、代わりにまずい南京米を朝鮮人に売りつけているんや」


「えげつないこと、しよるもんやな」とぬい。
 



志村で誠太郎の甲種合格の祝いを開き、そこに秀賢和尚も参加した。

 

秀賢は共同風呂を提案し、部落の衛生観念の向上を訴えたが、身体を洗っても部落は消えないと反論する者も出る。 

秀賢


それよりも、部落の若い女たちが村から出て行き、自分たちが結婚もできない現実を改善すべきだと訴えるのだ。

 

「ほんまのとこな。わしら在所の娘に惚れることだってありまんねん。ほんまに後ろから抱き付きたいぐらいの娘に会いまんねん。そやけどな、おのれが部落やと思うと、水を浴びたように寒うなりまんねん。せやからな、わしの嫁はん、部落の娘しかおらへんねん。その娘がいんようになったら、わしら一生嫁もらえへんがな。部落改善言うんやったら、こっからやっておくんなはれ」 


若者たちの拍手が起こった。

 

その頃、藤作は売りに出した娘のお夏の店に金の無心に訪ね、夏が金を工面する間に渡された小銭も、すぐに焼酎代に使ってしまう始末。 



その夏には小森出身の杉本清一(きよいち)という恋人がいて、客として訪れた清一が肺結核を患っており、夏もまた身籠った体で、追い詰められた二人は将来を悲観して心中してしまうのだ。 

清一




その知らせを受けた清一の母・かねは藤作の家に走って来て、一人息子が夏のために殺されたと、さよに怒りをぶつける。 

かねとさよ(手前)


ぬいがそれを因縁だと宥(なだ)めると、「わいは、あの子一人が頼りやったんや」と泣き崩れた。

 

その後、遺体の本人確認の帰りの汽車で、別々に座っているさよにかねが声をかけ、隣に座らせる。

 

「夏ちゃんのお骨な、清と一緒に埋めたらどやねん」

「そら、ほんまだっか?」

「何もかも因縁やでな」

「そうしてもろたら、この子はどない喜ぶか知れまへんけどな」


「…こうなったらな。夏ちゃんは清の嫁はんや。わいら親類になったんやでな。仲ようしてな」

「おおきに」

 

抑えていた感情が吹き上げ、さめざめと泣くさよ。

 

同じ列車の中で、まちえが小学校時代の恩師・柏木はつと再会していた。 

柏木はつ


孝二と会っているかと聞かれたまちえは、「いいえ」と答える。

 

「畑中さんは、私のことを憎んでいらっしゃると思います」


「あのことで?」

「…私が悪かったのですわ。好奇心であんな失礼なことをしてしまって」

「あなた、今でもそう思ってらっしゃるの?」

「はい。受け持ちの生徒に、やはり小森の子供がおりますから。忘れたくとも…」

 

柏木は、一度孝二と会って話をしてお詫びをすれば、気持ちもすっきりするのではないかと進言する。

 

【「あのこと」とは、前作で描かれていた、まちえが好奇心で孝二の手を握った一件。後で、まちえは、以下のように謝罪する。「うち、御大喪(ごたいそう)の晩、あんたの手握ったやろ。あれな…うちな、あんたらの手、夜になったら蛇みたいに冷(つめ)となるって聞いたんや。そやさかい、畑中さんの手、試したんやわ。堪忍な。堪忍してな」】 

ショックを受け、言葉を返せない孝二少年


こうして二人は、神武天皇御陵で会うことになった。 


「藤村の『破戒』、手に入りましたか?」


「いいえ。どうしてそのことを?」

 

孝二はその本屋にいたが、声をかけられなかった理由について、「それは、僕が部落の人間だからです」と、子供の時は知り得なかった部落の歴史について話し始めた。

 

「ここは部落民にとっては試練の土地です…部落民が試されたんです。この御陵は国家が最近大掛かりな改造を行っています。その時、昔からあった部落は強制的に取り払われました。恐らく部落は汚いということからだと思いますが、部落は他の場所に移されたんです…ここを追い立てられた部落は、国の手で新しい部落が作られました。家は新しくなり、元の部落にはなかった共同風呂もできました。しかし、部落の人たちの気持ちは複雑です。そうしたことを国の恩恵として喜ぶ人たちと、反対に屈辱に感じる人たちに分かれたからです…部落の歴史は、部落の屈辱の歴史です。狭い土地に押し込められ、仕事を選ぶ自由も与えられず、世間の人たちが捨てるようなものを食べて生きてきたのです。いつの時代でも、部落民は最低の人間でした。いえ、人間以下に扱われていたと言ってもよいかも知れません。ですから部落の人間は夜になると、蛇のように体が冷たくなると信じられてきました」


「それをおっしゃらないで」

「僕はまちえさんを責めているのではありません。世間の人たちはそう思っていても、僕らに向かっては、決して口には出しません。ただ、その目で僕らを見るのです。あなたは正直にそれを僕に教えてくれました」


「お詫びのしようもございません」

「いえ、今の僕には寧ろ楽しい思い出なんです」

 

その明治天皇の大喪礼の日を回想する孝二。

 

そして、対岸を歩くまちえの名を呼ぶ夢の話をし、まちえは涙を零しながら聞いている。

 

「気がついてみると、あなたは川の向こう岸を歩いているのです。僕はこちら側の岸を走りながら、あなたを呼び続けました。でも、あなたには聞こえません。川には橋がなかったのです」 


まちえは「紅葉(もみじ)」を歌い始め、孝二もそれに続き、二人は小学生の頃のように、並んで合唱する。 



一方、藤作の家に、死んだ夏の店から借金の取り立てが来て、その形(かた)に妹のしげみが大阪へ奉公に出ることになった。

 

自ら進んで行くというしげみは、自分がいなくなれば食い扶持が浮くと考えたのである。 

しげみ



志村の店では、秀賢の息子・秀昭(ひであき)が社会主義者となって警察に追われているという噂が話題に上っていた。

 

その頃、高騰した米価と品不足で人々は困窮し、小森の村民たちの生活も脅かしていた。

 

南京米(高アミロース米だから粘り気が少ない)すら手に入らなくなり、さよと岩造は町に買い出しに行くが、馴染みのない顔で小森出身と分かると即座に断られるのだ。 

さよと岩造


「米の代わりに泥でも食うとれてぬかすねん」と岩造。 



腹を空かした藤作の息子2人が、西洋料理店に入って、食べ逃げしようとするところを、数年ぶりに小森へ帰って来た秀賢の息子・秀昭が支払って救うのである。 


秀昭


一方、徳三郎の家では、誠太郎が兵役で不在となるので、娘のあさ子の婿取りの話を進めていた。


折しも、叔父の元次郎(もとじろう)が持ってきた縁談話に乗り気でないあさ子には、他に好きな人がいたが、口に出せなかった。 

元次郎(左)


あさ子


その様子を察した元次郎は、それなら力になると言うので、誰とは言い出せないあさ子は手紙で知らせることになる。

 

配達へ行く誠太郎を外で待っていたあさ子が自分の思いを伝えると、誠太郎は泣きたいほど嬉しかったが、それが許されないと分かっていた。

 

しかし、あさ子は叔父も力になってくれると言って、誠太郎を説得する。 


「わて、夢見てるんやないだろうか」


「誠太郎はん、大丈夫やな?」
 


誠太郎の手を握るあさ子の手を、誠太郎は満面の笑みで握り返すのだった。

 

青春が弾け、何かが変わり、何かが起こりつつあった。

 

 

 

2  「ダメなんだ。そいつらが敵やない。本当の敵はそいつらを操っている連中だ。金でそいつらを動かしている奴らだ」

 

 

 

時代が動き出していた。


遂に富山の漁村のおかみさんたち(「おかか」と呼ばれる)が立ち上がって勃発した米騒動が全国に飛び火して、京都でも米店襲撃が起き、大阪でも不穏な動きがあると警察から電話で呼び出され、徳太郎は出かけて行った。

 

新聞では、おかみさん以上に部落民が暴徒と化していると報道され、近くの石山部落も危ないと聞いたみきは、誠太郎に「暴れに来よる人の中に、お前の知った人おるかも知れんな。もし知っている人おったらな、あんじょう言うて、乱暴させんようにして欲しいんや。誠どんとこに、石山にかて親類あるんやろ?」と本音を吐露する。 


思いがけないみきの言葉にショックを受ける誠太郎。 



仕事を早めに切り上げた藤作は、米を買いに行こうとすると、米屋に直談判に向かうおかみさん達の集団に合流する。

 

それまでのように20銭で売ってくれと談判するおかみさんたちは、米屋から50銭でないとダメだと門前払いされ、駆け付けた警察官がサーベルを抜いて脅し、追い払われてしまった。 



夜まで待ち、藤作がおかみさんたちの集団の先頭に立って、締め切った米屋を襲撃するのだ。 


藤作が荷車で戸を打ち破り、隠してある米俵を2階から次々に投げ下ろしていく。 


徳太郎の店にも群衆が襲って来た。

 

しかし、店を締めずに開け放ち、25銭という言い値を受け入れ、一人2升ずつ米を売ることで、暴力沙汰後とはならずに済んだが、警官が駆けつけ、暴徒に米を売るなと妨害してくる。 


「大事なお客さんだすねん」 


誠太郎は構わず米を計り、売り続けた。

 

別の米屋で、焼き討ちが行われると聞きつけた野次馬を含めた群衆が押し寄せ、警官が店の守りを固めていたが、竹槍を持った石山の若者と藤作らが対峙し、銃で脅す警官を押し切って店に火を放った。 



翌日のこと。

 

あさ子からの手紙を読んだ元次郎の電話を受けたみきは驚嘆する。

 

「あれは部落や。人種が違うねん。あさ子は気が違(ちご)うたんや」

 

それを横で聞いていたあさ子が、「うち、気が違(ちご)うていやへんで。誠太郎はん、好きや」ときっぱり言い切った。

 

「立派な人やったら、それでええのや」


「なんぼ立派な人かて、あかんねん」
 


元次郎は安井家とは縁を切ると言い、みきはあさ子を気違い扱いするのだ。

 

「気違いはお母はんや!」

 

結局、誠太郎は暇を出され、ふでとぬいは、この一件で言い争いとなった。

 

「誠太郎が悪いわけでおまへんねん」

ふで

「わいらな、おふで。安井はんには深い御恩あるんねん。その安井はんに迷惑かけたんやで。誠太郎が悪いに決まっとるわ」


「迷惑や言わはるけどな。向こうのいとはんが誠太郎を好きにならはったんだんね。誠太郎に暇を出される落ち度あらしまへん。安井はんが非道なんや」

「安井はんが非道やない。誠太郎が横着なんや…わいら部落のもんな、なんぼ在所の人を好きになったかて、夫婦(めおと)にはなれへんねん。誠太郎かて、そないなこと、知っとるはずや。知っとっていとはんに手出したんや」

 

それを聞いていた孝二が口を挟んできた。

 

「そら、おばんが間違(まちご)うとるで。おばんな、わしがガラス工場辞めさせられた時な、きつう怒らはったやないけ。にいやんかて、安井はんお払い箱になったんや。わしと同じやで。なんで安井はん、怒らへんね。怒ったらええがな」


「…わいら安井はんに義理があんのや。義理ゆうもんは、人の道や」

「義理が人の道やったらな、安井はんかて、おばんに義理があるんやろ?…わしらが部落や言うて、安井はんに遠慮してんやろ」

「義理いうもんは、昔っからの人の道や。義理の分からんもんはケダモノや!」

「なあ、おかん。安井はん言うたら、わいら部落の味方や思うとりましたんや。誠太郎かて、子供のように育ててくれはったやないか。せやったら好いた同士や。いとはんと夫婦にしてくれはったかてええんだす。これやったら、誠太郎を騙して使うだけや。横着は向こうはんだんね」

 

そこで、横になっていた誠太郎が起き上がり、口を開いた。

 

「わてな。峰村(みねむら)に報告に行ってくるで。安井はん、世話してくれたん峰村やさかいな」 


ふでの実家である峰村に、誠太郎とふでは出かけて行った。

 

ぬいは、ふでが嫁に来て初めて口答えしたとこぼし、嗚咽を漏らすのだ。 


その嗚咽を払拭する事態が起こる。

 

誠太郎と逢わせないために、叔父と母に髪を切られてしまったあさ子が訪ねて来たのも束の間、帰らないと抵抗するあさ子に、元次郎は誠太郎を婦女誘拐で告訴すると脅し、あさ子を捕捉してしまうのである。 



あさ子を乗せた人力車を、何もできずに見送る孝二は土手に寝転び、まちえを想っていた。 


他人事(ひとごと)ではないのである。

 

程なくして、ふでが家に戻り、ぬいに詫びる。

 

「さっきは、逆ろうたりして、すまんことだす。道々考えたんやけど、なんであんなこと言うたんやろ思いましてな。途中から引き返してきました。ほんまに申し訳ないことしました。堪忍しておくれやす」


「わいが悪いんやで。安井はんな、お前の言うた通り、もう、非道なお人やで」
 


ぬいはふでに、あさ子が誠太郎を訪ねて来た時の様子を話した。

 

ふでは、まちえから来た孝二宛ての手紙を取り出し、誠太郎といとはんのようになるのではないかと懸念する。 

「このまま付き合(お)うてたら、誠太郎といとはんみたいになるんやないか思いまんねん」


「今のうちに忘れさせた方が、あの子のためだすな」

「そやで、今のうちに忘れた方が…」

 

ふでは、その手紙を火に焼(く)べて燃やしてしまうのである。

 

兄に続いて、孝二の恋が灰と化した瞬間だった。

 

翌朝、大阪から警官がやって来て、米騒動の咎(とが)で藤作を捕縛し、連行する。 


「お父つぁんが殺される!」と泣き叫ぶさよを、宥(なだ)めるぬい。

 

「米、高(たこ)うして金儲けした奴がいるねん。藤やんの罪はないねん」

 

そう言い切った孝二は志村の若者たちと話し合い、藤作の奪還のために警察へ押しかけることを決め、大胆な行動に打って出る。

 

秀昭を先頭に、孝二らは竹槍を持ち、さよやふで、かねらも隊列に加って駐在所へ向かうのだ。 




小森の区長の志村らはこの騒動に反対し、秀昭の父である秀賢を責め立てる。 

ひたすら謝罪する秀賢



寺に集まった一行に、秀賢は「嘆願に行くのはもっと穏やかに」と訴えるが、秀昭は反論する。

 

「警察に嘆願に行くのに竹槍は不要ですし、穏やかでないかも知れません。しかし、この嘆願は我々部落民と権力者の警察との話です。決して対等な話ではありません。差別偏見の中で行われるのです。これはお分かりと思います…ですから、我々が今、竹槍を持つ意味は、そうした部落民としての立場の自覚と、その腹構えを作るためです」 


大いに気勢を上げる参加者。

 

かくて、若者たちの竹槍隊とおかみさんたちが一堂に介して、警察に向かっていくのだ。 


その直後だった。

 

米騒動の仕返しと称し、国忠会の暴力団が小森村の住民らの家々を襲撃する事態が惹起する。

 

「思い知れ!米騒動の仇だ 日本国忠会」と張り紙がなされ、女子供らは逃げ惑って身を隠し、暴力団は傍若無人に振る舞い、破壊の限りを尽くして火を放つのだ。 


火を放ち、「ざまあみろ!」と叫ぶ暴力団


嘆願に参加しなかった岩造が馬を走らせて国忠会の襲撃を知らせ、引き返した秀昭らは小森の惨状を目の当たりにする。 


「謀略だ。米騒動を部落になすりつける謀略なんだ」

 

国忠会の犯人を探し出して、仇を討とうと声が上がるが、秀昭はそれを否定する。

 

「ダメなんだ。そいつらが敵やない。本当の敵はそいつらを操っている連中だ。金でそいつらを動かしている奴らだ」 



秀昭を逮捕するために警察がやって来たのは、その時だった。

 

「東京にいる」と言って、皆が秀昭を庇い、彼の逃走を助けたのである。 


時代の激浪(げきろう)を止める何ものもないようだった。

 

 

 

3  人の世に熱あれ、人間に光あれ

 

 

 

「時は流れる。そして、名もなき民が歴史をつくる。富山の漁村の主婦たちが米価値下げの嘆願に端を発した米騒動は、たちまち全国に波及して、その数は70万。ついに軍隊の出動で鎮圧されたが、12月現在、検察当局の求刑は、死刑8名、無期懲役48名を含む、7千余名の大量に達している。勿論、永井藤作もそのうちの一人に数えられるのは言うまでもない。また、警察の追跡を逃れた秀昭のその後の消息は、孝二は勿論、父の秀賢にさえ知らされていない。甲種合格の誠太郎は、定められた12月1日に、日本陸軍に編入された。しかし、日本のシベリア出兵によって、彼が父・新吉の戦死の地、満州へおくられたという噂は、軍の機密として未だに明らかでない。一方、志村の靴製造は、部落産業の宿命と言える経路を辿っていた。大資本、大工場の進出は、部落の零細企業を圧迫し、志村国八を倒産に追い込んでいた。零細な部落産業の運命がそのようである限り、そこで働く若者たちも同じ運命を辿らざるを得ない。しかも、自由に職を選ぶことのできない部落の若者たちの生きる道は狭く、そして苦しいのだ。ここにも部落産業がある。ぬいとふでは依然として乏しい収入の草履作りを続けた。孝二は、殆どの部落農民がそうであるように、僅かな小作地、高い年貢米を納めて地主から借りた零細な土地にしがみついていなければならなかった。かくして、大正11年。安養寺・秀賢の部落改善運動は宥和団体・平等会へ合流していった」(ナレーション) 

「しかも、自由に職を選ぶことのできない部落の若者たちの生きる道は狭く、そして苦しいのだ」


「ぬいとふでは依然として乏しい収入の草履作りを続けた」


「孝二は僅かな小作地、高い年貢米を納めて地主から借りた零細な土地にしがみついていなければならなかった」



「大日本平等会創立大会」に参加する秀賢や志村国八・岩造、孝二の顔がある。 

左から孝二、国八、岩造


「ようけ、集まったもんやな」

「皆、うちらみたいに駆り出されて来たんやろ…金集めが平等会の仕事やだでな」

 

元大阪府知事の梅田会長の挨拶が始まった。

 

「…我々は今にして少数同胞に対する差別を改め、理解、同情を持ち、また、少数同胞も一般に対する卑下と遠慮を捨て、進んで宥和をことこそ、先帝陛下の下し賜える解放令の聖旨(せいし)に応え奉(まつる)ものと信ずるものであります。ご承知のように、現在わが日本の国民思想は、腐敗・堕落を極めております。特に、国体を危うくする社会主義・共産主義の危険思想が、一部非国民によって唱えられておりますが、少数同胞の中にも、その過激思想に走り、先年の米騒動に際しても、他人の生命・財産に危害を加え、司直の手に捕らえられ、未だに囹圉(れいご/牢獄)の身にある少数同胞もあるやに聞き及んでおりますが、かかる事態は…」 

平等会・梅田会長



この時、演説を遮(さえぎ)り、「おしきせの平等会、絶対反対!」と言う掛け声と共に、2階席から大量のビラが会場に撒かれ、幕が垂れた。 


「おしきせ平等会を粉砕」

「部落差別は自らの手で差別と貧困を追放せよ」

「全国水平社大会に集合せよ」 


この活動を主導するのは秀昭だった。 

 垂れ幕を吊るす秀昭


その姿を見た孝二は、人混みを掻(か)き分けて秀昭の元に駆け付ける。

 

会場から拍手が沸き起こり、「全国の300万の部落民よ、決起せよ!」、「部落民よ、全国水平社創立大会に参加せよ!3月3日京都・岡崎公会堂!」と呼びかけられた一方、「水平社はロシア共産党の手先だ!国賊どもに騙されるな!」と反対の声も上がり、会場内は騒然となるが、水平社を応援する声が上回っていた。 

「部落民よ、全国水平社大会に参加せよ!」



そんな昂揚と熱気の中で、孝二は秀昭と再会し、固く抱擁し合う。 



「大日本平等会創立大会」という名の欺瞞が、烈々たるパッションによって剥がされた時が過ぎ、孝二はまた夢を見た。

 

雑踏の中で佇む、頭部を布で隠したあさ子を見つけた孝二が、「安井のいとはん!」と声をかけると、走って行ってしまう。 


追い駆ける孝二が路地を曲がったところで見たのは、あさ子が軍服姿の誠太郎と嬉しそうに笑顔で手を握り合う姿だった。 



3月3日の節句の日。

 

孝二は、握り飯を作るぬいに、昨晩の夢の話をした。

 

「誠太郎もかれこれ4年や。日本に帰りたいやろな」

 

そこにかねがやって来て、ふでと孝二と3人で、京都の水平社創立大会へと出かける際に、「孝二は水平社、よう見てくんやで」と言って、ぬいが見送る。 



そして今、秀昭を先頭に小森の参加者が真っすぐ前を向き、堂々と歩を進めていくのだ。 


凛とするふでの表情。



孝二の表情もまた、心の蟠(わだかま)りがとれたような希望に満ちていた。 


ラストカット


彼らの進軍を、秀昭が起草した「水平社宣言」の力強い表現が支え切っていた。

 

―― 以下、「水平社宣言」全文。

 

長い間虐められて来た兄弟よ、過去半世紀間に種々なる方法と、多くの人々とによつてなされた吾等の為めの運動が、何等の有難い効果を齎(もた)らさなかつた事実は、夫等(それら)のすべてが吾々によつて、又他の人々によつて毎に人間を冒涜されてゐた罰であつたのだ。    

 

そしてこれ等の人間を勦るかの如き運動は、かへつて多くの兄弟を堕落させた事を想へば、此際吾等の中より人間を尊敬する事によつて自ら解放せんとする者の集団運動を起せるは、寧ろ必然である。    

 

兄弟よ、吾々の祖先は自由、平等の渇仰者(かつごうしゃ)であり、実行者であつた。陋劣(ろうれつ)なる階級政策の犠牲者であり男らしき産業的殉教者であつたのだ。ケモノの皮剥ぐ報酬として、生々しき人間の皮を剥取(はぎと)られ、ケモノの心臓を裂く代価として、暖い人間の心臓を引裂かれ、そこへ下らない嘲笑の唾まで吐きかけられた呪はれの夜の悪夢のうちにも、なほ誇り得る人間の血は、涸(か)れずにあつた。    

 

そうだ、そして吾々は、この血を享(う)けて人間が神にかわらうとする時代にあうたのだ。     犠牲者がその烙印を投げ返す時が来たのだ。殉教者が、その荊冠を祝福される時が来たのだ。     吾々がエタである事を誇り得る時が来たのだ。吾々は、かならず卑屈なる言葉と怯懦なる行為によつて、祖先を辱しめ、人間を冒涜してはならぬ。そうして人の世の冷たさが、何んなに冷たいか、人間を勦(いた)はる事が何んであるかをよく知つてゐる吾々は、心から人生の熱と光を願求禮讃(がんぐらいさん)するものである。    

 

水平社は、かくして生れた。人の世に熱あれ、人間に光あれ。

 

【秀昭のモデルは西光万吉】 

水平社宣言


西光万吉


全国水平社創立の跡地・岡崎公会堂

 

第三回水平社大会が開かれた岡崎公会堂


 


4  天の配剤の如く、各々の身に跳ね返り響き渡っていた

 

 

 

まず、差別問題の研究で知られる教育学者・灘本昌久(なだもとまさひさ/以下、敬称略)の「映画『橋のない川』上映阻止は正しかったか」という、些か長い批評文から、東陽一監督の「橋のない川」と比較した部分を除き、その論旨のみを切り取ってみたい。 

灘本昌久


【この「橋のない川」の第2部は、差別映画であるとして部落解放同盟や共闘団体が一九七〇年より糾弾闘争、上映阻止闘争を続けており、私も一九七〇年代半ばに2回ほど、この「闘争」に参加していた。どうして、それが心に引っかかってきたかというと、大きな声ではいえないが、実はつい先日まで、私はこの映画を見ていなかったからである。よく見てもいない映画の「上映阻止」などという無茶なことができたものだと今になって思うが、当時は差別映画を上映させるわけにはいかないという一念だった。

 

(略)第一部を見終わって、私は妙な興奮を抑えきれなかった。ひとつは、「橋のない川」第一部のできが、あまりによかったからだ。これまで解放運動の中でいいきかされていたことは、第一部は非常にできの悪い映画だが、解放同盟がシナリオをなおし、二部で不十分点を補足することで、ようやく解放同盟の推薦を得られたということだった。ところが、不十分なできどころか、今まで見た数ある部落問題の映画の中では、最高の出来映えだ。 

橋のない川('69)より



(略)しかし、この第二部は、第一部に比べると、同じ今井正が監督した映画とは到底思えないほど出来が悪いことは確かだ。それは、今井氏自身が認めているところだ。本人の弁によれば、もともと三部までの構成だったところ、解放同盟の妨害が厳しくなって、いやいや二部と三部を合体させて製作したという(『今井正全仕事』p.200 )。ことの真偽はともかく、確かに芝居がかったところが多く、一部の隅々まで神経の行き届いたリアルな表現とは大違いだ。しかし、それでも凡百の同和映画からみれば、やはりよくできていることには違いない】 



部落解放同盟の肝いりで制作されヒットした東陽一監督の「橋のない川」は、当然、私も観ているが、被差別部落民の力強い生き方をポジティブに描く基調において違和感しか残らず、娘を大阪の売春宿に売ってまで酒を飲み、家族の食い扶持を繋ぐ永井藤作の人物造形に代表されるように、クローズドサークル(出口なしの閉鎖環境)の冥闇(めいあん)の世界を酷薄、且つリアルに描き切った今井監督の「69年版」(第一部)との乖離感を否めず、主題提起力のコントロールの脆弱性と構成力、そして、肝心要の構築力も欠如していたので胸に食い刺さってくるような感銘を受けなかった。 

「橋のない川」(東陽一監督)より



―― ここで、「橋のない川 第二部」についての、私の感懐を率直に言えば、映画制作における異フィールドの侵蝕に遭った政治的背景を斟酌(しんしゃく)すれば十分に理解できるが、69年版と比較すれば、灘本昌久の批評とほぼ同様に、その完成度の高さにおける構築力の落差を認めざるを得なかった。

 

「女の悲しさを、きびしい目でみつめて来た今井正監督の、ひとつの頂点ともいうべき作品」(朝日新聞 70年4月28日)

 

この評価を否定すべくもないが、それは一面でしかないだろう。

 

全国水平社の立ち上げに流れゆく物語の艱難さの描写をエピソード繋ぎで切り取り、そこに至る複合的な現象をナレーションのうちに回収させてしまうエンディングには無理があり過ぎたと思う。

 

まるで大河ドラマのダイジェスト版を観るようだった。

 

問題はラストの15分。

 

そこまでは悪くない。

 

ラインを成して進軍する小森の部落民の、その凛とした表情の煌(きら)めきを照らす活力感のあるシーンに、全人類の解放を標榜(ひょうぼう)する水平社宣言が、天の配剤の如く、各々(おのおの)の身に跳ね返り響き渡っていた。 



正直、胸に迫り、込み上げてくるものを抑えられなかった。

 

残念ながら、物語の大団円へと至るこのシークエンスを15分でカバーするのは強引過ぎなかったか。

 

思うに、9時間半の上映時間を駆使して、大長編の原作の6部を3本の映画に仕立てた「人間の条件」のように制作できなかった事情が汲み取れるが故に、口惜しいという外はない。 

「人間の条件」より



今井監督の無念さが伝わってくるようだった。

 

それでもいい。

 

情緒的感傷を相対的に希薄化し、客観的リアリズムで映像を支配する今井映画は野垂れ死にしなかった。

 

食らいつくように息を繋いでいた。

 

兄弟の恋愛模様をコアにしたストーリーラインもいい。 


前作以上に、弾け切った永井藤作もいい。 



群像劇に膨らませていった分、前作よりも出番が少なかったが、義母ぬいに逆らって謝罪するふでと、自らの見込みを恥じるぬいの遣り取りには、信頼・礼節・扶助という、被差別部落民ならではの関係濃度の高さが滲み出ていて心に沁みた。 

「わいが悪いんやで」


登場人物の人となりが見える、奇をてらわない演出が受容できたからである。

 

小森限定の畑中の家族に特化できなかったのは当然だったが、何もかも変転極まりない時代の風景にインボルブされていくから、大きな物語の遷移の可視化をスルーできなかったのは約束済みだったということだろう。

 

―― そんなわけで、ここでは映画批評ではなく、異フィールドの侵蝕で惹起した政治的背景に特化して筆を起こしていく。

 

それなしに、この映画の読解が難しいと考えるからである。

 

「日本共産党と部落解放同盟の確執など、私にはどうでもいいこと」と69年版で言い切ったが、この問題で書き逃げしたくないので、今回は聢(しか)と言及しておきたい。

 

 

 

5  闘い切った映画作家の本領の眩さ

 

 

 

今井正監督 



ここでは、今井正監督自身の手記を掲載する。

 

それ以上に貴重な資料がないからである。

 

以下、「今井正が語る『橋のない川』の制作」より、筆者の補足説明を交えて紹介していきたい。(ほぼ原文ママ)

 

【「『ま、今井君、われわれの結論はもう決まってるんだ。第一は、初めからわれわれと相談してシナリオを全部書き直し、それに従って映画の撮影を全部やり直すか、それがいやなら、第二は、映画ができ上がったら最初にわれわれに見せ、われわれがノーといったら、絶対に公開しないと確約するか、第三は、もしそれもいやで、このまま撮影を続行するというなら、明日からいかなる事態が持ち上がっても、われわれは責任を持たない』

『…それは、たとえ暴力をふるってでも撮影を中止させる、という意味でしょうか』

『われわれはそんなバカなことはしないよ。ただわれわれの背後には、全国六千部落、三百万人の部落民が控えているんだ。そのなかには血の気の多いやつがたくさんいる。その連中がどんなことをするかわからない。…ま、そういう意味だ。三つのうちどれでも、好きなものをえらんだらいいだろう』」

 

昭和四十三年十一月、大阪で開かれた部落解放同盟中央委員会のことである。

 

「映画を製作するのに、事前に、特定の団体の赦しを得なければならないなどというバカけたことがあるはずがない。いや単に、肉屋さんとか靴屋さんとかを職業とする人物が登場するだけで、別に差別でも何でもないのに、あらかじめ解放同盟の了承を得ておかないと、後でとんでもないいいがかりをつけられたことがたくさん。それを恐れて、映画会社では、解放同盟におうかがいをたてることが不文律になっている」

 

「『橋のない川』の映画化の話が持ち込まれ」た時に、「大阪のスポーツ新聞の記事」が気に入られなかったのか、「それを自己批判しろなどといわれてもどうしようもないし、部落問題研究所や住井さんのこと(注)を自己批判しろなどと私たちにいわれても、どうしようもない。難題というより、無茶苦茶である」

 

(注)「住井さんのこと」とは原作者・住井すゑが、今井監督に対して、「差別にたいする姿勢にも問題がある。それらのことも清算(自己批判文を書くこと/筆者注)してこい」などと解放同盟に批判されたこと。また部落問題研究所は日本共産党系の団体。 

住井すえ


公益社団法人 部落問題研究所



(略)「撮影が三分の二ぐらいすんだとき、『解同』朝田一派の攻撃が始まった。最初の攻撃は、われわれが撮影に使用した小学校にかけられてきた。(略)学校での最初のロケがあった翌日、差別映画の製作に公共の学校を貸すとは何事かと、学校にたいする糾弾が始まった。(略)校長以下全教員をならべ、多数の『解同』朝田一派の連中が取り囲み、夕方の四時から翌日の朝まで食事をとることも許さず、つるし上げを続けた。ついに学校側は屈服し、学校での撮影をこれ以上許可しないことを約束させられた。教育委員長は、この事件のためクビになったということを聞いた」

 

(略)「まず自治体の幹部におどしをかけて屈服させ、傀儡にする。そして自分たちは背後で糸をひきながら傀儡を前面に押し出して、相手に攻撃にかけてくる。『解同』独特の戦略である。

もし俳優の顔でも傷つけられたらどうするか、もし撮影のため借りている千何百万円のキャメラを壊されたらどうするか、と大勢は慎重論に傾き、撮影を再開するためには彼らのいうことに従うより仕方ないということになった」

 

「朝田氏と親しい依田義賢氏(よだよしかた/今井正監督の『米』などの作品で知られる脚本家/筆者注)が呼ばれ、改訂箇所の話し合いが始まった。朝田氏のいい分を聞いていると、糾弾、糾弾の連続である。『この学校の場面では、部落民全部が学校に押しかけ糾弾し、校長たちをクビにしてしまえ。このシーンもなまぬるい、部落民全体が押し寄せ、村長、警察署長、村のボスども全部に土下座させてあやまらせろ』といった具合だ」

 

こんな恫喝のプロセスを経て依田義賢の改訂台本が完成した。 

依田義賢


そこで迎えた初の試写会だったが、実は今井監督は改訂台本に納得できなかった。


「意を決して、前の台本通り一行も使わず撮影を進めた」ので、改訂台本を却下した撮影による映画の試写会では覚悟を括っていた。

 

「かれらがいつ怒り出し、席を蹴立てるだろうか。私は(略)朝田氏の後ろ姿ばかり見つめていた。二十分もしたところ、朝田氏のからだが動いた。ハッと目を凝らすと暗がりの中で眼鏡をはずし、白いハンカチで目を拭っている。映写中なんどもハンカチがうごくのが見えた」という。 

朝田善之助/部落解放同盟中央執行委員長



「試写会終了後、「『いかがでしょうか』と聞くと、『不十分な所もあるが、まあこれならいいだろう』と言う。と中央委員の一人が『やっぱり台本を直したんで、なかなか良くなったなァ』と言った。(略)ほとんどの人が、シナリオなぞ読んでいないのである。その直後、中央委員の一人が言い切った。『ねぇ今井君、本当はシナリオのことなんかどうでもいいんだよ。君の名が時どき、〈赤旗〉に載るだろう。あれが困るんだ。みなが怒ってるんだ』」

 

結局、一切は共産党との激しい確執に起因したのである。

 

だから、『橋のない川』の映画化に関わる風景は変わらなかった。

 

というより、映画化に関わる風景は悪化の一途を辿るばかりだった。

 

「映画館の入り口のガラス戸や看板がたたき壊されたり、(略)汚物を入れたビニール袋がバラまかれたりした。(略)私が高知の試写会へ行った時は、会場である日活の映画館へ『中核』とヘルメットに書いた連中が、何十人も押し寄せ、映画も見てないのに『解同』(朝田派)の操る意図に踊らされて『差別者今井正をブッ倒せ』。『日活資本粉砕』『日本共産党打倒』などとシュプレヒコールをくり返し、試写を妨害した」

 

一貫して、こんな調子だった。

 

自らの手記で、今井監督は最後に、こう結んでいる。

 

「でき上がった映画には、もちろん、いろいろな欠点があることは、私もよく知っている。しかしあの映画を見た人のなかで、差別はいいことなどと思う人は一人でもいるだろうか。みな、差別を生みだす社会を憎み、怒りを燃やし、これを打ち破りたいと思うだろう。それならば、次にはもっと良いものが作れるように、みんなで援助しようというのが本筋だろう。足かけ三年にわたって、『解同』と接触した私の結論は、『解同』(朝田一派)とは『解放運動』の仮面をかぶった暴力団」であるということだ。第一部の場合でも、第二部の場合でも、試写を見てくれた未解放部落の人たちが、『よくこういう映画を作ってくれた。ありがとう』と言って私の手を握ってくれた。そのたくさんの人たちの顔が忘れられない」】

 

(映画を)観る行為を「日和見主義」と決めつける信じ難い極左のイデオロギー至上主義を無視して言えば、本作は断じて「差別映画」などではない。

 

一長一短あれども、今井監督の言うように、「差別を生みだす社会を憎み、怒りを燃やし、これを打ち破りたい」という理念で結ばれた映画なのだ。

 

「よくこういう映画を作ってくれた。ありがとう」

 

未解放部落の人たちのこの反応が全てであると言っていい。

 

「シナリオを届け、何回、京都・大阪に足を運んでも『まだ読んでいない』の一点張りだった」

 

これも、今井監督の言辞。


疲弊感のみが累加していく時間の傷を溶かせなかった時、それでも覚悟を括って引き受けたから逃げ場がなかったのか。

 

抜き差しならない状況に捕捉され、袋小路に嵌り込んでしまったのか。

 

その不如意に対して、胸中を推量するのに察して余りあるが、こんな厄介な連中と闘い切った映画作家の本領の眩(まばゆ)さ。

 

褒め殺しではない。

 

私の率直な感懐である。

 

その残影が私の脳裡に灼きついていて、上手に言葉に結べない。

 

さすが、社会派ヒューマニズムの名匠・今井正である。 

今井正


同上



【参照】 時代の風景「人の世に熱あれ、人間に光あれ

 

(2023年11月)

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