1 極めて普遍的な人間の問題のうちに収斂される映像
いずれの国も抱える国民国家の、歴史形成的な政治・文化風土の問題に関わる提示が、そこで特化されて提示された、極めて普遍的な人間の問題のうちに収斂される映像として、本作を把握すること ―― この基本的理解が私の中にある。
そこで特化されて提示された、極めて普遍的な人間の問題とは何か。
それは、しごく普通の感覚で、日常性の稜線をほんの少し伸ばして、手に入れた「非日常」への「ガス抜き」の時間のうちに自己投入していった果てに、予想だにしない「非日常」の突発的な破壊力が作り出した〈状況〉の只中で、そこに関わる者たちの自我を翻弄し、食(は)んでいく。
そこに、計画性の破綻が媒介する人為的瑕疵が含まれていたことを思えば、これは、ある一定の確率で惹起する極めて普遍的な現象であったと言えるだろう。
相応に武装化された個々の自我が、その武装性を剝落させていく内的行程の中で、本来の裸形の人格像が露わにされてしまうからである。
露わにされた人格像が、予想だにしない「非日常」の突発的な破壊力が作り出した〈状況〉によって、自己防衛的行動に走ってしまう心理的文脈は、幾多の心理学実験でも検証されている事実である。
人間はこういうとき、かなりの確率で理性的行動を選択し得ず、〈状況〉が作り出した不安と恐怖に関わる感情傾向を、より鋭角的に身体化させていくのは殆ど不可避であると言っていい。
2 「非日常」の突発的な破壊力が作り出した〈状況〉に搦め捕られて
この基本的把握から、物語を検証してみる。
まず、ドイツ女性との結婚に破れたアーマドが、ロースクール時代の友人のセピデーに、再婚相手の依頼に関わる相談をした。
これは、アーマド自身が、エリの失踪の事件が出来した際に、セピデーの夫アミールに吐露した事実で判然とするが、アーマドの依頼行為には、それほどの切迫感を有する内的状況でなかったとも考えられる。
と言うのは、夫のアミールから、「世話焼き」などという、そこだけは明らかに、妻の過剰な「援助行動」への怒りを含めて表現されていたエピソードによって裏付けられる程、セピデーが「世話焼き」の人物として描かれていたからである。
ここから、全てが開かれていく。
「世話焼き」嗜好を有するセピデーには、自分の「援助行動」によって享受してきたインセンティブの誘引力が人格内化されていたのだろう。
だから、本名を知ることのない程度の関係性でありながらも、彼女は、それまでのインセンティブの誘引力の累加の中で、極めて安直な振舞いに流されていくのだ。
これが、計画性の破綻が媒介する人為的瑕疵のルーツである。
「世話焼き」嗜好を有するセピデーが、婚約者が既にいて、その婚約者と別れたがって煩悶しているというエリを、先のアーマドに紹介したのは、仮にそれが回避できない結果になったとしても、エリの離婚を先読みした主観の暴走の所産であった。
エリの複雑な事情を知ってもなお、ロースクール時代の仲間をカスピ海の別荘に集めて、エリとアーマドの「恋のキューピッド」たらんとしたセピデーの行為の推進力には、「援助行動」によって享受してきたインセンティブの誘引力が大いに関与したに違いない。
この時点で、一泊しか滞在できないというエリの申し出を受けていたセピデーは、あろうことか、強引に3日間の「恋のバカンス」をセッティングしてしまったのである。
しかし、そんな事情を全く知らない他の仲間たちと、明らかに心理的距離を作らざるを得ないエリの苦衷だけが浮き彫りになっていく。
加えて、セピデーの人為的瑕疵は予約したはずの貸し別荘が使用できなくなったことで、海辺に近い、荒れ果てた別荘に移動せざるを得ない事態を招来するが、これもまた、セピデーの怠慢に因るもの。
看過し難い「世話焼き」女の人為的瑕疵が、あってはならない偶発的惨事と遭遇する確率を高めていく類の例は、「ハインリッヒの法則」(注1)が教えているように、私たちの社会で往々に出来している、殆ど法則的な現象である。
忌まわしい偶然性との遭遇は、充分なまでに必然性に近い何かなのである。
この見えない負の連鎖が、「非日常」の突発的な破壊力が作り出した〈状況〉に搦(から)め捕られていくのだ。
これが、本作の中で惹起した「事故」=「事件」の背景にある。
帰りたくても帰れない苛立ちを、寡黙な態度のうちに体現するエリに対する、他の者たちの冷淡な視線が囲繞する〈状況〉の渦中にあって、彼女にとっては、それ以外にない選択肢に流れ着けない苦衷を、映像は捕捉していくのだ。
エリを帰らせないためにバッグを隠したセピデーの行為が、エリをして、このようなクローズド・サークル(出口なしの状況)に追い込んでいくのである。
この人為的瑕疵に重厚に関わる行為こそが、予想だにしない「非日常」の突発的な破壊力が作り出した〈状況〉の決定的な因子と化していくのだ。(画像は、前列左から、エリ、アーマド、マヌチュール、ナジー。後列左から、ショーレ、ペイマン、セピデー、アミール)
(注1)1件の重大事故の背景には、29件の軽微な事故と、300件の「ヒヤリハット」が惹起しているという、損保会社による統計分析に関わる法則。
3 或る者は弁明し、或る者は真実から逃避し、或る者は裁く者となり、そして、或る者は「運命論」に流れれていく
「事故」=「事件」が惹起したのは、2日目だった。
3人の子供たちと、浜辺で凧揚げで遊んでいたエリの笑顔が弾けていた。
その直後の映像は、子供の一人が海で溺れたという突発的な事態の発生だった。
海で溺れたのは、セピデーの友人ショーレと、その夫ペイマンの子であるアラーシュであることが分り、動転しながら、急いで浜辺に走っていく大人たち。
何とか、溺死寸前のアラーシュを救い上げ、人工呼吸をして、一命を取り留めた。
ところが、その直後、肝心のエリの所在が不明になっている事実に気付いた一同は、再度襲ってきた突発的な事態に翻弄されていくが、当然の如く、一同の認知は、ここから開かれる深刻な事態の重大性にまで届いていなかった。
それでも、エリの事情について、単に、アーマドとの「恋のバカンス」程度の情報しか共有していなかった彼らは、海で溺れたアラーシュを助けようとして、彼女が難に遭ったのかと大騒ぎになるものの、僅かばかりの情報のみを頼って、侃々諤々(かんかんがくがく)の議論の応酬に終始するばかり。
「もしエリーが帰っただけだとしたら、なぜ俺たちは心配を?そもそも、何も知らない相手なんだし!」
セピデーに、不満をぶつけるペイマン。
自分の子の命が救われたことへの安堵感を得たせいか、そこに生まれた寸分の余裕を駆って、エリについての決定的な情報不足に起因する不満を、「恋のバカンス」の責任者であるセピデーに放ったのだろう。
「だけど、救助で溺れたのかも?」とセピデー。
「そうなのかどうか、分らないわ。子守を頼んだ訳でもないし」とショーレ。
我が子への監視不足を指摘されることへの怖れもあって、ここは、自分の過失を認知したくない言い訳のうちに、自己防衛の意図を隠し込んだ攻撃性含みで、セピデーを責めるのだ。
「好きにさせるさ」とペイマン。
「私は事実を」とショーレ。
「しつこい!」とペイマン。
離れていく夫と、置き去りにされる妻。
夫のペイマンには、妻の監視不足が許容できないのである。
ペイマンが中座することで、中途半端な話合いが幕切れとなった。
「私が何かした。招いても引き止めてもいない」
中座するセピデーの後方から、自己防衛的な言葉を投げ入れるショーレ。
「分っている。全部、私が悪いのよ」
事情を知らない仲間の同情を求めるかのように、セピデーの投げ遣りな言葉が、そこに捨てられた。
前述したように、エリの事情を唯一知っているセピデーは、エリが単独で帰れない事実を隠し込むしかなかったのである。
それを言いたくとも言い切れない空気を、そこで感じ取っているからだ。
セピデーだけが、エリの事故死をリアルに受け止めたのは当然だったのである。
だから彼女は、エリに対して疑心暗鬼になる他の者たちとは、明らかに切れた深刻な表情を露わにして、浜辺に走って行ったのである。
「私が子守を頼まれたの」
これは、アーマドの妹であるナジーが、夫マヌチュールに車内で吐露したもの。
ナジーがショーレから子守を頼まれたにも拘らず、それを正直に言えなかった空気の濁りを、ナジーもまた感じ取っていたのである。(画像は、ナジー)
と言うより、自分の子の子守を他人に頼むショーレと、一切の事態の原因者であるセピデーへの責任転嫁の空気の追い風が吹いていたにしても、直接の子守の責任者としてのナジー自身が、更に、その子守をエリに依頼した事実の重みを感じ取っていたからこそ、彼女は夫にのみ吐露したのである。
「夜のゲームのとき、エリは身振りで花輪を表現して、皆は“死の予感”と。あれって、虫の知らせだったかのかも」
これが、夫マヌチュールの反応。
前夜のジェスチャーゲームの際のエリの表現に、“死の予感”を感じ取ったという、一種の「運命論」に関心が振れていく反応をする穏健な性格の彼には、複雑に拗(こじ)れた事態の原因者を責める気はないようだった。
それぞれが、自分の関心領域にのみ拘り、或る者は弁明し、或る者は真実から逃避し、或る者は裁く者となり、そして、或る者は「運命論」に流れれていく。
それが、突発的な事態に呑み込まれていく者の、様々に形を変えた自己防衛的な反応様態であった。
どうやら、この映画は、突発的な事態に呑み込まれていったときの、人間の普遍的な反応様態に肉薄する意図を持つ、極めて心理学的な問題提示の一篇であることが判然としてくるのである。
4 柔和なる着地点なき〈状況〉の極点に搦め捕られて
エリの失踪の謎が特定できないでいた一同の苛立ちが、決定的な不安心理に駆られていったのは、エリの残した携帯の着信歴から、俄(にわ)かに浮上した一人の男の存在だった。
初めは、エリの兄であると自称していた男が、実は、エリの婚約者であったという事実を知ったとき、アーマドとエリの「恋のバカンス」の物語との矛盾に立ち合うに至った一同の動揺は、またしても、予想だにしない「非日常」の突発的な破壊力が作り出した〈状況〉に搦(から)め捕られて、もう、十全な理性的行動を選択し得ない混乱を呈するのである。
その看過し難き事態の真相を、一同が初めて共有する由々しき情報と化したのは、遂に防衛的な反応様態に限界を感じたセピデーが、アーマドと共に、エリの兄であると信じる男と会いにいく車内で告白したことによってである。
以下、そのときの二人の会話。
「これから会う相手は、彼女の兄じゃないわ」
これが、エリには兄はいない事実を隠し切れないと括ったセピデーの、最初の告白の端緒となった。
「誰のこと?」
「今から会う相手よ。彼女、一人っ子だと言ってた」
「じゃ、誰なんだ?」
「多分、婚約者よ」
「誰の?」
「エリの」
明らかに動転するアーマドは、既に最も大切な女性を喪う恐怖に加えて、その女性に対する疑心暗鬼になる仲間たちの心理に近い感情にも届いてしまったのである。
その思いが、次のような当然過ぎる苛立ちの感情に繋がったのだろう。
「何を言ってるんだ。彼女、婚約を?何てことしたんだ。信じられない。それを知ってて、なぜ僕を紹介した?」
「彼女は婚約解消を望んでいたの。でも、彼は夢中で・・・」
ここでアーマドは、更に、困惑の表情を露わにする。
「そんな・・・」
「だから、携帯隠したの・・・」
今や、婚約者に会う〈状況〉から逃げられなくなった二人。
その二人が、件の婚約者に対して、エリが病気であるという一時(いっとき)の方便で凌ぐのだ。
その間、アーマドは戻って、皆に事実を報告することによって、エリに対する由々しき情報を共有するに至るが、当然の如く、その情報は一同の不平不満の遣り場のない空気を作り出す。
「俺たちがバカだったのさ。騙されたんだ」とペイマン。
「そういう人なら、きっと溺れたんじゃなく、帰っただけよ」とショーレ。
そんな不合理が通用しないと思っても、以下の言葉に収斂されることで、そこにしか辿り着けない結論の貧困さに流れ着く。
「知らない振りで、兄として扱おう」
当然、そんな嘘が、予想だにしない「非日常」の突発的な〈状況〉を支配し切れる訳がない。
だから、セピデーの告白の第2弾が不可避となったのだ。
「婚約中では会えない」という思いを、事前にエリに打ち明けられていながら、アーマドがドイツに戻る前に会って欲しいと、一泊の条件付きでエリを説得したという真相告白がそれである。
「彼女が来たのは大きな間違いだった」
ペイマンは、相変わらず、突発的な〈状況〉の打開のための提示よりも、恨み節に振れていく。
結局、婚約者に事実を知らせるという結論に至って、男たちが婚約者当人に会うことになった。(画像中央は、アーマド、ペイマン)
かくて、正直に告白する男たち。
その事実が、それでなくとも動転している相手を怒らせてしまった。
件の婚約者が、アーマドに殴りかかったのである。
相手の男の、激情的な性格を窺わせる行為に、室内にいた女たちを震え上がらせたのは否めないだろう。
更に、興奮を収めた婚約者は真実を知るために、セピデーと会って、一つだけ聞きたいと言うのだ。
まもなく、真実を迫る男と、真実を語ることを迫られる女との、「非日常」の突発的な〈状況〉の極点とも言える、1対1の由々しき会話が開かれた。
後述するが、この会話は、本作の物語の中で最も深刻なシーンと言っていい。
「彼女は婚約してると言ったのかどうか、どっち?」
これが、婚約者がセピデーに迫った理由の全てだった。
「イエス」か「ノー」を迫る男には、それ以外の答えを認知しないのだ。
椅子にかけて話すことを求められても、応じない男には、自らが求める発問の答え以外は眼中にない。
こんな沸騰し切った〈状況〉に呪縛された女の自我は、もう、防衛機制を張り巡らす焦燥の渦中で、極度の不安・緊張を鎮める反応を模索する。
だが、軟着点が手に入らない。
深刻な表情を露わにしながら、反応しない女。
反応できないからだ。
そこに、「間」が生まれる。
男にとっても、女にとっても、断崖を背にした者の、追い詰められた心理が漂流している。
「何も言わなかったわ」
どのような説明にも深傷を負うだけの闇の迷妄の中で、漸(ようや)く絞り出された女の言葉。
言葉にならない衝撃を受け、部屋の外に出て、声を詰まらせて泣く男。
部屋の内側に残された女もまた、抉(えぐ)られて、穿(うが)たれた空洞が吐き出す異臭のスポットで、救いの手の届かない辺りまで押しやられて、ただ一人、咽(むせ)び泣く。
初めから得るものがない者同士の会話には、予約されたリアリズムの洗礼から必死に逃れたとしても、潜り込む魂のシェルターなど、どこにも存在しなかったのだ。
それは、柔和なる着地点なき〈状況〉の極点だった。
まもなく、一人の女性の溺死体が発見された。
検死に立ち合った男が、未だ涸れない液状のラインを露わにして、その抜けがらの身を、遺体安置所から重々しく動かしていった。
男が3年間もの間、求め続けた女の事故死が検証された瞬間だった。
ラストカットは、タイヤが浜の砂に嵌って動けない車を、一同が黙々と押し上げている構図。
これについても後述する。
5 “永遠の最悪より、最悪の最後がマシ” ―― 「婚約者利得」を盾にとって迫る男への、率直な反応が洩れたとき
ここでは、本作の肝であるテーマの一つに言及する。
エリと最近接した三人の人物と、エリとの関係濃度についてである。
アーマド、セピデー、そして、エリの婚約者である。
まず、アーマドの「恋」の行方を考えてみよう。
アーマドのエリに対する「好意」が、未だ強い「恋愛感情」にまで成熟していなかったとしても、既に、セピデーから見せられたエリの写真によって、この「恋のバカンス」を愉悦していた事実だけは否めないだろう。
では、アーマドに対するエリの「好意」は検証されるのか。
海沿いの貸し別荘での「恋のバカンス」行以前に、エリもまた、アーマドの写真を確認し、相応に満足していたようにも見える。
恐らく、有名な「外見」、「態度」、「話し方」、「話の内容」という「四つの壁」が、他人を受容する最も大きな障壁になっているという、「メラビアンの法則」という俗流仮説に準拠したとしても、アーマドに対するエリの印象度は決して粗悪なものではなかったであろう。
少なくとも、エリは、アーマドの「外見」という一次的印象においてクリアしていたに違いない。
そんな二人が、唯一、語り合うシーンがあるので、再現してみよう。
街へ買い物に行ったアーマドが、携帯目的でアーマドに随伴したエリとの会話である。
2年前に母を亡くしたアーマドの吐露が、自然な流れの中で繋がった。
「そうだったの」とエリ。
「ちょうど離婚で揉(も)めてた時で、悪いことしたよ」とアーマド。
ここで、「間」ができた。
その「間」を、エリの言葉が埋めていく。
「一つ、聞いていい?」
「僕が困るようなこと?」
「いいえ」
「どうぞ」
「なぜ、別れたの?」
「誰と?」
二人の会話から、「澱み」が払拭されていく。
エリの柔和な微笑に、微笑を返すアーマドの心が溶けていったことを如実に示すシーンである。
「嫌ならいいわ」
「なぜ、知りたい?」
今や、二人の微笑が溶融し、空気を浄化しているように見える。
「別に。ただ、なぜかなと」
「なぜかな。ある朝、起きて、朝食を摂ってたら、彼女が言ったんだ。“アーマド・・・”」
一番肝心な部分を、ドイツ語で話すアーマド。
ここから、ドイツ語でのリフレインを、エリに求めるアーマドは、すっかり、自分の本来のペースに戻せた者の余裕を見せるのだ。
「ダメだわ」
エリの柔和な微笑は延長されていた。
そこに、唐突に入って来た携帯の音。
エリの表情が突然曇ったが、それを切ってしまうのだ。
明らかに、エリの婚約者からの連絡であることが分る。
男は、こうして、「最愛の女性」に対して、執拗に携帯をかけてくる習性から解放されていないことが想像できるのである。
「それで意味は?」
僅かに生まれた澱んだ空気を断ち切って、エリは、アーマドとの会話の続きを求めるのである。
「“永遠の最悪より、最悪の最後がマシ”」
そこに、また「間」ができた。
「その通りよ」
エリは、このときだけは微笑を捨てて、そう答えたのだ。
エリの感情を読み取ったアーマドが音楽をかけたことで、この短い会話は閉じていった。
アーマド同様に、アーマドに対するエリの「好意的反応」が、決して「恋愛感情」にまで成熟していないのは当然としても、この会話から、「態度」、「話し方」、「話の内容」という「四つの壁」が良好に推移しているという印象は拭えないだろう。
この会話の中での重要な言葉。
言うまでもなく、「“永遠の最悪より、最悪の最後がマシ”」という、アーマドのドイツ人妻の反応である。
それは、恐らく、「婚約者利得」を盾にとって、ストーカー紛いの行動を延長させてきたように推測し得る男に対する、エリの率直な反応であると言っていい。
「早く別れて、アーマドのような穏健な男性と交際したい」
そう思ったのかも知れないし、アーマドへの微笑が、単なる社交辞令であるとも言えなくもない。
また、そこに「好意」の萌芽を読み取ることも充分可能である。
従って、「その通りよ」というエリの反応は、セピデーとの1対1の由々しき会話の中で、彼女の婚約者が陥った、「永遠の最悪」の重要な伏線となっているばかりでなく、婚約者の暴力からの自己防衛によって、彼に放ったセピデーにとっても、「永遠の最悪」の結果を招来してしまったのだ。
それについても、稿を変えて言及したい。
6 「非日常」の突発的な破壊力が作り出した〈状況〉の只中で、食まれゆく自我の凄惨さ
婚約者からの決定的な発問に対して、どのような説明の選択肢においても、致命的深傷を負うだけの闇の迷妄の中で、「何も言わなかったわ」という言葉を返すことが、「あなたと別れたがっていたわ」という言葉を返すことよりも、相手の深傷を軽減する何ものでもない現実を認知できない訳がないので、結局、セピデーが選択した言葉は、如何に、このクローズドサークルの〈状況〉から、自らが深傷を負うことのないと判断した果ての反応様態だった。
もっと具体的に言えば、「あなたと別れたがっていたわ」という言葉を返すことは、その事実を知りながら、婚約者である「最愛の女性」の「恋のバカンス」行を許容した事実を受容したことを意味し、それに対する婚約者の詰問が、一泊限定のエリの申し出を無視し、彼女のバッグを隠すことで、帰りたくても帰れない〈状況〉にエリを閉じ込めた、セピデー自身の致命的瑕疵行為に及ぶリスクを回避すること ―― それが、セピデーの自己防衛的な判断が流れ着いた、唯一の心理的根拠だったということだ。
逆に言えば、相手からの倫理的制裁や暴力的振舞いを予想し得る、自らの致命的瑕疵行為に対する認知が、セピデーの自我が正確に捕捉していたという事実を意味する。
と言うのは、セピデーに、この判断を強いた心理の構えには、看過し難い伏線があった。
彼女の自己防衛反応を惹起させたのは、婚約者の関与した、二つの由々しき暴力を視認したことに因るだろう。
一つ目は、アーマドと共に、婚約者(この時点では、「兄」と自称)と会いに行った際に、違法駐車を注意された件の男が、注意した女性の傍らにいた男性に対して、暴力を振るった行為である。
その粗暴な振舞いを、車内から間近に視認するセピデーの表情は凍り付いているようだった。
二つ目は、件の男が海辺の別荘に来たとき、「最愛の女性」=エリの「恋仇」であるアーマドに殴りかかった一件。
特に後者のケースでは、アーマドへの暴力を目視した直後の、苛立つ男との1対1の会話であったので、セピデーが過剰に身構えてしまったのは当然過ぎる流れだったと言える。
それでなくとも、彼女は嘘の上塗りの不徳行為によって、夫のアミールからも、追い駆けられるようにして殴られたという痛切な経験をも持っていた。(画像のシルエットは、携帯を確認するアミール)
そんな彼女が、婚約者=「暴力男」という視線の内に捕捉しない訳がないのである。
しかも彼女は、夫のアミールから、後ろから押されるように部屋に送り込まれたカットが挿入されていた。
恐怖の中での会話であったことが検証されるだろう。
これが、セピデーが、過剰な自己防衛に流れ込んでいった心理的文脈と考えて間違いない。
一方、セピデーの防衛的言辞によって、致命的深傷を負わされた男には、もう、反応する何ものもないのだ。
大体、この男とエリとの関係濃度の希薄さは、殆ど決定的な「感情の落差」に起因することが容易に想像し得るのである。
エリは、3年間に及んで延長され続けた男との関係を通して、恐らく嫌という程、相手との相性の悪さを実感してきたはずである。
そんなエリが、その後、アーマドに惹かれていく心理が形成されていくとしたら、3年間に及んで延長され続けた男との関係のリバウンド現象を突き抜けるパワーが必要だろう。
「感情の落差」は関係の落差であるが故に、二人の間に横臥(おうが)する「感情の落差」の最近接は、時間の問題だったと考えられなくもないからである。
そんな強い「好意」の対象人格だったエリの失踪に衝撃を受け、落胆してもなお、「非日常」の突発的な破壊力が作り出した〈状況〉に対して、限りなく理性的行動を選択していくアーマドの人格像の余情は、既に命を絶たれたエリの悲哀を、より印象付ける何かであったのか。
以上の理由で、エリが婚約者を嫌っている理由が判然とするであろう。
殆ど、「婚約者利得」を盾にとって、ストーカーと思しき感情を抑制できない男の性格を嫌っていたが故に、理性的行動を一貫させるアーマドへの「好意的反応」が読み取れるのである。
しかし、「婚約者利得」を盾にとる男から受けた心理圧によって、エリの苦衷には、婚約解消に流れていけない「政治・社会的・文化風土」との関与が無縁でないと思えるのも事実。
それでも、それ以上に、「婚約者利得」を盾にとって、「エリは俺の女」と顕示する男に対する恐怖感に近い感情が、彼女をして、婚約解消を本人に明言する態度から逃避させ、且つ、男からの物理的逃避行動に流れていく彼女の脆弱さの中に、一定程度の倫理的判断の希釈化が窺えるが、そのような曖昧ゾーンに隠れ込む彼女の心理は、良かれ悪しかれ、人間として極めて普遍的な現象であると言っていい。
それ故、セピデーが強引にセッティングした、「恋のバカンス」の不徳的行為に呑み込まれていくエリの心理もまた、充分に理解し得る。
従って、婚約者と対峙することで、袋小路に追い詰められたセピデーが、一対一の会話によって負った心的外傷は、まさに、甘い観測による見切り発車が招来した突発的事態に対して、理性的に反応する能動的行為を回避することで、負の連鎖に嵌った厄介な事態に立ち竦み、怯(おび)え、翻弄された脆弱な自我が、遂に、決定的な局面で対象人格に深傷を与えた結果、今や累加された不徳的行為に搦(から)め捕られて、殆どPTSDと呼称される負の記号を開いていく流れを必然化してしまったのである。
それは、予想だにしない「非日常」の突発的な破壊力が作り出した〈状況〉の只中で、そこに最も深く関わった者の自我を翻弄し、食(は)んでいくのだ。
厄介な〈状況〉の負の連鎖が招来した、殆ど約束された事態の最悪の発現だったと言ってもいい。
最終的に崩れ去っていく男もまた、このPTSD、若しくは、それに近い心的外傷から免れることなく、その後の人生の航跡を、暗鬱な彩りで染め上げていくだろう負のイメージをも暗示していたのである。
7 「イラン映画」という狭隘な枠組みを突き抜けて、「非日常」の突発的な〈状況〉を支配し切れない、人間の脆弱性に関わる普遍的な問題提示
それにしても、ラストカットの構図の見事さ。
これは、「恋のバカンス」を愉悦するために弾けていた、ファーストシーンの構図とあまりに対極的である。
タイヤが浜の砂に嵌って動けない車を、一同が黙々と押し上げている構図には、無論、「チームビルディング」(特定の目的達成のために集合した者たちの組織性)の推進力の欠片も見られない。
それは、視界不良の「恋のバカンス」を愉悦するために集合した者たちが、決定的に失ったものの重量感をシンボライズさせているように見える。
そもそも、物語で出来した「非日常」の突発的な事態が、視界不良の脆弱な計画を立ち上げた、セピデーの人為的瑕疵に起因するのは言うまでもないが、何より、最も視界不良の〈状況〉の内実が、「恋のバカンス」の対象人格であるエリについての基本的情報が共有されていなかったこと。
それに尽きる。
浜辺で遊ぶ自分(ショーレ)の子供(アラーシュ)の監視を友人(ナジー)に頼み、その友人が、最も視界不良の原因子であったエリに、子供の監視を依頼する。
そこに、この物語で惹起された突発的事態の因果関係が読み取れるだろう。
早く帰りたいと吐露していたエリの事情を全く知ることなく、単に、我が儘な行為と決め付けた誤読の延長線上で、子供の監視を頼んだナジーには決定的な瑕疵が見られない。
然るに、セピデーには、エリの鞄を隠し込んだことで、彼女の妥協を引き出せるという甘い見方があった。
この甘い見方は、とうてい看過し難い決定的な瑕疵である。
「戻らなきゃ」
これが、映像が残した、エリ(画像)の最期の言葉である。
ビーチバレーを享受する面々が作り出した陽気な空気を目の当たりにして、断りたくても、引き受けざるを得なかったエリの優柔な態度は、彼女の誠実な人柄を彷彿とさせるものであったとしても、特段に気弱な人間の性格的脆弱性と決め付けられないだろう。
しかし、浜辺で遊ぶ子供たちを視界に捕捉していたエリの心中では、この最期の言葉に集約される感情が塒(とぐろ)を巻いていたに違いない。
大袈裟に言えば、彼女は殆どライフセーバー(海水浴場等での監視員)の役割を全く果たしていないのである。
そこに責任意識はあっても、それを削り取るほどの感情に支配されていたからだ。
その意味で、あってはならない事故が惹起したのは、殆ど必然的であったと言ってもいい。
エリという、最も視界不良な人物を、バカンスの中枢に据えた脆弱な計画が出来した事態の、最もリスキーな顛末の厄介なリバウンドの重量感がラストカットの構図に集約されていたのである。
このような状況下で、このような事態が発生することの怖さを描いたというその一点において、この映像は、「女性の地位の低さ」の問題に矮小化される、「イラン映画」という狭隘な枠組みを突き抜けて(後術する)、予想だにしない「非日常」の突発的な〈状況〉を支配し切れない、人間の脆弱性に関わる普遍的な問題にまで肉迫したと、私は見ている。
8 映画の総体を自在に観ていく柔軟度が切望される時代の中で
本稿の最後に、この映像が「女性の地位の低さ」の問題に矮小化される、「イラン映画」という狭隘な枠組みを突き抜けている点について言及したい。
ジャファール・パナヒ(ウィキ) |
たとえ彼らが、知的階層に属する中流階級であったにしても、例えば、ペイマンとショーレの夫婦は、常に対等に感情含みの議論を展開していたし、マヌチュールとナジーの夫婦は、寧ろ、穏健な夫にサポートされているという印象があった。
更に、妻のセピデーを殴ったアミールの、尖り切った憤怒の心理的背景に横臥(おうが)するのは、自らが重大な結果を招いたにも関わらず、嘘の上塗りをするばかりの妻の、その場凌ぎの態度に対する当然の感情的反応だったと言える。
その際にも、妻を殴ったアリーに、周囲の非難が集中するエピソードの挿入は、女性の社会的地位の顕著な低さを、寧ろ相対化する場面でもあった。
しかも、その直後、興奮の渦中で妻を殴ったことを反省し、自己嫌悪しているアリーの同情すべき場面が拾われていたのだ。
恐らく、本作が、「女性の地位の低さ」の問題提示をしたという決め付けによって誤読されたのは、ドイツ人の前妻に「“永遠の最悪より、最悪の最後がマシ”」と三行半(みくだりはん)を突き付けられた、アーマードとの対極のエピソードによって印象付けられたものであろうが、だからと言って、この類の問題提示が、作り手が特定的に狙った政治的メッセージとして、大仰に受容するには無理があると言わざるを得ないのである。
従って、本作では、歴史形成的な政治・文化風土の問題に関わる現実が露呈されていたことを認知するのに吝(やぶさ)かではないが、アスガー・ファルハディ監督は、それを物語の枠内で由々しきテーマとして独立させることなく、単に現実の有りようを表現しただけと考えるのが自然であろう。(画像は、アスガー・ファルハディ監督)
「イラン映画」=「運動靴と赤い金魚」(1997年製作)=「愛くるしい子供の健気さ」と同様に、「チャドルと生きる」に集約される「政治的メッセージ」の映画、というレベルの作品群に矮小化することだけは、もう、いい加減に止めた方が良い。
その類の発想の貧困さこそが、偏見の精神土壌と化すからである。
愚にもつかないイデオロギーに縛られることなく、映画の総体を、もっと自在に観ていく柔軟度が欲しいものである。
そう思うのだ。
シーリーン・エバーディー(ウィキ) |
更に、近年の情報の一例を紹介する。
民主化革命下でのエジプトで、裁判所が軍に命令して、デモで拘束した女性に対する処女検査の禁止を命じた一件である。
以下、共同通信社が配信したニュースの一部である。
「エジプトの裁判所は27日、軍が拘束した女性に性体験の有無を調べる『処女検査』を行うことを禁止する命令を出した。ロイター通信が伝えた。カイロで4月にデモ参加中に軍に拘束された女性が、検査を強いられたとして訴えていた。国際人権団体アムネスティ・インターナショナル(本部ロンドン)は6月、軍がデモに参加した女性らを拘束して処女検査を行ったことを認め、今後はやめる方針を明らかにしたと発表していた」(2011.12.28)
(2012年3月)
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