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2012年10月20日土曜日

セブン(‘95)   デビッド・フィンチャー



<「人間の敵は人間である」という基本命題を精緻に炙り出したサイコサスペンスの到達点>



1  映像を支配する男の特化された「心の風景」



一人の男が映像を支配している。

その名はジョン・ドゥ。

無論、仮名である。

アメリカで実施されている「ジョン・ドゥ起訴」(注1)という概念によって表現されているように、「ジョン・ドゥ」とは、単に「氏名不詳」という意味でしかない。

このジョン・ドゥが支配する世界は、この男が惹起した猟奇的連続殺人事件によって、それを追う二人の刑事が、闇の中の限定スポットを懐中電灯で弄(まさぐ)る光線の青や、連日の雨天の冥闇(めいあん)の構図に象徴されるように、どこまでも深く澱む事件の異臭が放つダークサイドな風景を作り上げているのだ。

それは、ジョン・ドゥと称する男が支配する映像の、特化された風景なのである。

この特化された風景は、最後まで映像を支配する男の「心の風景」であると同時に、件の男によって支配され続けた二人の刑事の、貯留されたディストレス状態を象徴する「心の風景」でもあった。

そして、この特化された風景が、男の自首という、「確信犯」の「確信的行為」によって、一方は過緊張、そしてもう一方は、究極の「殺人ゲーム」の中で対峙してきた両者の、その対極的な「心の風景」の極限にまで辿り着くことで、突如、眩く照り付け、アースカラーに彩られた、どこにも逃げ場のない乾いた大地を呑み込むような、異様にギラギラした太陽光線に捕捉される風景に変容するのだ。

それは、特化された風景を変容させた「確信犯」の自己完結点が、その「確信犯」の「確信的行為」のうちに晒された、理不尽極まる猟奇的連続殺人事件の終結点と重なることで、事件を追い続けた二人の刑事の理性を襲撃したばかりか、一方の刑事の自我を破壊する極限の様態を炙り出してしまったのである。

震え、慄き、叫喚しつつ、究極の「殺人ゲーム」を自己完結させた男を撃ち抜き続けた青年刑事は、男が描いたシナリオをトレースしていくのだ。

その結果、最後まで「確信犯」の「確信的行為」のルールを貫徹した男の、常軌を逸した猟奇的連続殺人事件の自己完結点のうちに、とうてい言語化し得ない現実を白日のものに晒された青年刑事の自我破壊され、無傷で生還できなかった者の悲哀の極限を露わにされてしまったのである。

一切が白日の下に晒された、このラストシークエンスの破壊力は、映像それ自身が放つ破壊力と化して、観る者の「心の風景」を拉致するパワーによって、物語の結末を知っていてもなお圧倒的な訴求力を持つに足る、サイコサスペンスの一つの到達点を極めてしまったようだ。

ジョン・ドゥ
後述するが、それは本作が、「何のために我々は生きるのか」という、「実存」の有りように関わる作り手の問題意識が、ジョン・ドゥと称する男が支配する映像の中で翻弄され続けた二人の刑事の、その苛立ちや過緊張の振舞いを通して描き切れていたからに他ならない。


(注1)被告人の身元を特定できなくても、刑事事件で採取されたDNAによって起訴すること。この起訴によって殺人事件の時効を止めることが可能になり、アメリカで採用されている制度。



2  映像を支配し切った男と、その男によって翻弄される警察権力の対比という物語の構図



ここでは、簡単な粗筋を書いておく。

ミルズ(左)とサマセット
退職間際の初老の刑事サマセットと、転勤して来たばかりの、些か直情径行の若い刑事ミルズは、かつて経験したことがないタイプの事件にインボルブされていく。

猟奇的なシリアルキラーと思われる者によって惹起された犯罪の特徴が、どうやら、キリスト教の伝統的カテキズムである、「七つの大罪」をトレースするかのような性格を有していたのである。

それは、死体の傍らに、犯人らしき者が残したメモによって判然とするに至る。

「暴食」、「強欲」、「怠惰」と特定された被害者の状況から、サマセットは、事件が単純な短絡思考の猟奇的連続殺人事件の範疇のうちに収斂し切れない恐怖を感じ取り、それが、「七つの大罪」に関わる強烈で、反社会的なメッセージを読み取っていく。

「危ない書籍」を読む者を特定する違法捜査を続けるFBI関係者から、公立図書館の貸し出し記録を違法入手することで、遂に割り出した犯人の名はジョン・ドゥ。

ミルズ
早速、サマセットとミルズはジョン・ドゥのアパートを訪ねるが、そこで鉢合わせした男との雨中の追走劇が開かれるが、血相を変えて追走するミルズは不覚にも、潜んでいたジョン・ドゥに銃口を突き付けられ、万事休す。

しかし、ミルズを銃殺しなかったジョン・ドゥは、そのまま逃走するに至り、事件の解決は頓挫したが、ジョン・ドゥの部屋への家宅捜査によって、犯人の心の闇の歪んだ世界を目の当りにする

血糊がべったり貼り付いたシャツを着たジョン・ドゥが自首して来たのは、「肉欲」と「高慢」の象徴とされた女性たちの被害が露わになってからだった。

しかし、「七つの大罪」の中の「嫉妬」と「憤怒」が遂行されていないにも拘らず、自首して来たジョン・ドゥの意図が読解できない状況下にあって、落ち着き払ったジョン・ドゥの態度は、まさに、映像を支配し切った男と、その男によって翻弄される警察権力の対比の構図を炙り出していた。

そんなジョン・ドゥが、弁護士を介して要求してきたのは、ミルズとサマセットの二人が、自分の指定した場所に同行するなら、既に、遂行し切った残り二つの死体を教えるというもの。

かくて、ミルズとサマセットを随伴して、遥か彼方の荒野の如き無機質な風景のエリアに向かって、一台の警察車両が走っていく。

これが、衝撃のラストシークエンスの始まりであった。

思うに、ラストシークエンスのジョン・ドゥの行動は、自分を「特別な存在」と考えるような、当該社会の法規範や倫理観を決定的に逸脱した自己基準の物語を、ミルズに自らを殺させること=「殉教」によって自己完結するために、「不特定他者」の「群塊」=「現世の腐敗し切った世界」と、そこに蝟集(いしゅう)すると決めつけたであろう、その歪んだ射程に捕捉される「特定他者」を完全に支配し切ったという、捩(よじ)れ切った自己史の行程で途方もなく累加され、膨れ上がった欲望系の愉悦が極点に達する文脈において把握される何かであると思われる。

 稿を変えて、以下、映像の破壊力を衝撃的に刻んだラストシークエンスをフォローしていく。

 

3  ラストシークエンスの衝撃的な破壊力



「出て来たぞ」

ジョン・ドゥ自首
 そう言って、血糊のべったり付着したシャツを着た男が、自ら警察に自首して来た。

 異様な緊張が走る中、ミルズは、拳銃でジョン・ドウを床に伏せ、即、逮捕した。

 逮捕されたジョン・ドウは弁護士を呼んで、自分の要求を代弁させた。

 「依頼人は、あと二人、死体を隠しているそうだ。ミルズとサマセット刑事だけを、今日6時に現場に案内すると。二人が断れば永遠に死体は見つからない。断れば、依頼人は精神障害を主張しますよ。彼の言う条件を認めれば、彼は罪を認めます」

 なお状況を支配する男の要求は、自首して来た行為のうちに、隠された方略の厄介な存在を暗示するものだった。

 「終わらせよう」

 このミルズの言葉で、全て決まった。

 警察のヘリコプターが上空から警戒しながら、ジョン・ドウを乗せた車が発車した。

 運転するのはサマセット。

 車内での会話の内容は、ジョン・ドウの一方的な持論の展開に終始した。

 「お前は救世主なんかじゃない。せいぜい、ワイドショーのネタだ」などと、その度に横槍を入れるミルズの若さが露わにされる中、サマセットだけは、黙々とジョン・ドウの常軌を逸した議論を捨てていく。

アースカラーで染め抜かれた、広大な荒れ地のような土地の中枢を南下していく車。

送電線網に囲まれながらも、渺茫(びょうぼう)たる褐色のエリアの中で、車の移動を点景のシフトにする無機質な風景がどこまでも続き、そこを突き抜けて行った先で、車は停車した。

 まるで温もりを持たないアースカラーの大地に停車した車から、二人の刑事が降りていく。

 ここで、ジョン・ドウを下車させたのだ。

 時間を聞くジョン・ドウ。

 「7時1分だ」
 「まもなくだ」

 そう言って、ジョン・ドウは二人を導いていく。

 そこに、一台のバンが猛スピードで走って来た。

 不安を感じたサマセットは、僅かに生える褐色の草地に座らせられているジョン・ドウを、拳銃で監視するミルズを待機させて、そのバンに近づく。

 拳銃を突きつけて、バンの運転手を強引に降ろさせるサマセット。

 その運転手は、ミルズに荷物を届けに来た運送屋だった。

 数百メートルほど離れている位置にいるミルズを視認した後、サマセットは、バンの運転手にミルズ宛ての荷物を持って来させた。

 それは、一辺の長さが30センチほどの立方体の箱だった。

 「本当に君には感心している」

 サマセットがその箱を開けようとした際に、ミルズに放ったジョン・ドウの言葉だ。

 何か異様な不安を感じつつあったミルズは、ジョン・ドウに目も呉れず、サマセットの振舞いだけに神経を昂らせていた。

 ナイフで箱を開けていくサマセット。

 「君は立派に生きている。自信を持っていい」

 このジョン・ドウの言葉を捨てて、サマセットの行動に釘づけになっているミルズ。

 箱に付着していた血糊を確認しながら、心の動揺を抑えつつ、箱の中身を視認したサマセットが、思わず後ずさりし、驚嘆の声をあげた。

 ミルズを振り返るサマセット。

 その場に立ち竦み、言葉を震わせながら、上空のヘリに近づくことを禁じるメッセージを送った。

 「ミルズ!」

 異様なまでのサマセットの振舞いに、不安だけが膨張するミルズ。

 「何だ!」
 「聞けよ。君を褒めているんだ。可愛い女房もな。トレーシー」

 このジョン・ドウの意味深な言葉に反応するミルズの表情から、加速的に膨張させてきた不安がピークアウトに達しつつあることを、映像は提示した。

 「君の分署の警官たちは、簡単に記者に情報を流す。今朝、君の出たあと、家にお邪魔した。平凡な夫の楽しみを味わいたくてな。逆らいおった。そこで、土産を持って来た。女房の首だ」

 信じ難い言葉に、ミルズは反応する術を失っている。

 「銃を置け!」

 そう叫びながら、箱の中身を視認したサマセットが、ミルズの所まで走って来た。

 「こいつは何を?」

 興奮の色を隠せないミルズの問いに、瞬時に反応できないサマセットは、右手に握られているミルズの拳銃を収めさせようとするばかり。

 「あの箱の中身は?」

 ミルズの関心はただ一つ。

 理不尽極まる猟奇的連続殺人事件を犯し続けてきた、ジョン・ドウの言葉のリアリティの重みを実感的に経験しているミルズには、妻のトレーシーが殺害され、その首を自分に見せるためだけに、この乾いた土地に連れて来られたことを、一瞬にして理解するしかなかった。

 「君の平凡な暮らしを妬んだ私も罪人だ」

 平然と言ってのけるジョン・ドウ。

 「あの箱は何だ?中身は何だ?」

 今や、ジョン・ドウの言葉が全く耳に入らないミルズは、異常な興奮ぶりを露わにし、箱の中身を知っているサマセットに、その真相を問い質していく。

 「言っただろう」とジョン・ドウ。
 「嘘だ!この嘘つきめ!」
 
 興奮し、叫びをあげるミルズ。 
 
 「奴はお前に撃たせたいんだ!」とサマセット。
 「ノー!ノー!」
 「復讐・・・怒りの罪だ」とジョン・ドウ。
 「無事だと言え!」

 叫喚するだけのミルズ。

 「殺せば、お前の負けだぞ」とサマセット。
 「ノー!ノー!」
 「女房は命乞いをした。子を身ごもっていると」

 ジョン・ドウの言葉が吐き出された瞬間、サマセットの拳が炸裂し、全きリアリティを炙り出す男の毒口(どくぐち)を封印させた。

 決定的な衝撃を受けるミルズの表情から、今や、言葉に変換できない感情が曝け出されていた。

 「知らなかったのか」

 銃をジョン・ドウに向けながら、即座に遂行できないミルズの煩悶。

 「銃をよこせ。デビット。こいつを殺せば、こいつの勝ちだ」

 「オー・マイ・ゴッド(Oh my God)!オー・マイ・ゴッド!」(何てこった!)

 しかし、今やミルズの情動の氾濫は臨界点を超えていた。

ミルズの脳裏に、一瞬、妻の顔が過ぎったとき、彼の拳銃が火を噴いたのだ。

 そのことを初めから計算づくの男の表情には、自分の途方もない物語の終焉を告げるかのように、静かに目を閉じていた。

 ミルズの銃口から、繰り返し発砲される銃丸の嵐。

男を銃殺することは、それをのみ目標にして、「特定他者」として捕捉した二人の刑事たちを連れて来た男が、ふてぶてしい態度すらも突き抜けるような小さな笑みを洩らし、眼を瞑り、悠然と構えていて、まさに、「自己完結点」への「至福」の境地を手に入れる事態を招来することになる。

それは、事件の最終到達点へと導くに足る、男が仕掛けてきた「勝負」に完敗することになってしまうのだ。

しかし、ミルズにはもう、そんなことはどうでもよかった。

妻の顔が脳裏を過ぎったとき、「勝負」=「最も不埒なるゲーム」に完敗するのみならず、男の「至福」の境地を見せつけられることの屈辱よりも、二つの命を平然と奪った男への激しい憎悪が勝っていたのだ。

一切の終焉を告げる構図
 激しい憎悪を身体化したミルズの行為を、体を張って止めなかったサマセットの心情もまた、「当事者熱量」が沸騰した状況下にあって充分に了解可能であり、寧ろ、ジョン・ドウの一連の振舞いへの不本意な「加担」を、男が仕掛けた「勝負」などと考えることなく、その報復行為の文脈を、「最も不埒なるゲーム」を平然と遂行する男の人格総体の「抹殺」という風に変換すれば、そこに整合性が保証されるのだ。

それが、サマセットのボイスオーバーによって閉じられる映像の括りになったが、これについては後述する。

個人的感懐を敢えて書けば、寧ろ、法治国家に呼吸を繋ぎ、それを治安する職掌に携わる者たちの忍耐力に頭が下がる思いであった。



4 ジョン・ドウの人格構造の風景 ―― 「自己愛性人格障害」の性格・行動傾向について



ここでは、ジョン・ドウの性格・行動傾向について考えてみたい。

「自己愛性人格障害」

これが、ジョン・ドウの人格総体に対する、私の基本的把握である。
 
以下、その科学性において様々な批判がありながらも、精神医学的問題の診断の指針として活用されている、「アメリカ精神医学会 DSM-IV」(精神障害の診断と統計の手引き)を基準にした、私なりに整理した要点を含んだ分析を加えてみたい。

 映像提示された「映画の嘘」のラインを認知しつつ、どこまでも「批評性」の問題意識をもって考えてみたいだけなので、その主観的解釈の内実を限りなく相対化しているつもりである。

まず、「自己愛性人格障害」を定義すると、「誇大性」、「自己尊重の肥大化」、「究極の性向への没頭」、「批判への大仰な反応」、「自己評価と自己イメージへの過度な関心」、「対人関係の障害」という行動様式が持続しているということ。

「誇大性」(空想または行動における)、「賞賛されたいという欲求」、「共感の欠如」の広範な様式で、成人期早期に始まり、種々の状況で明らかになるとされる。

以上の定義による、「自己愛性人格障害」の様態を具体的に見ていけば、以下の性格・行動傾向が読み取れる。

因みに、以下の性格・行動傾向の中で、5つ以上が該当すれば、一応、「自己愛性人格障害」という判断が可能になるとされているが、それを絶対化し得ないスタンスを確保しておきたい。

それぞれ列記していこう。

①自己の重要性に関する誇大な感覚(例:業績やオ能を誇張する傾向の強さ。充分な業績がないにも拘らず、優れていると認知されることを期待する)

②限りない成功、権力、才気、美しさ、或いは、理想的な愛の空想に捉われている。

③自分が特別であり、独特であり、他の特別な、または地位の高い人たちにしか理解されないにも拘らず、他者との関係の中で具現されるものと信じている。

④過剰な賞賛を求める。

⑤特権意識、つまり特別に有利な取り計らいを求めるが故に、自分の期待の基準のラインに、他者が自動的に従うことを無前提に要求する。

⑥対人関係で相手を不当に利用する。或いは、自分自身の目的を達成するために他人を利用する。

⑦共感性の欠如:他人の気持ち及び欲求を認識しようとしない、または、それに気づこうともしない。

⑧しばしば他人に嫉妬する、または、他人が自分に嫉妬していると思い込む。

⑨尊大で傲慢な行勤・態度。

以上で羅列した性格・行動傾向が、「自己愛性人格障害」の由々しき特徴とされるが、精神分析家のオットー・カーンバーグは、この「自己愛性人格障害」と、超自我(注2)の欠如した「反社会性人格障害」の共通点を重視している。

「七つの大罪」①
即ち、「自己中心性」・「自己顕示欲」・「共感性の欠如」・「過剰な優越欲求と支配欲」・「無謀な衝動性」・「適応的学習の困難」・「発達早期の愛情剥奪」を指摘するが、素人判断ながら、「人生論的映画評論」の視座で批評すれば、物語の中のジョン・ドウの人格構造には、この両者の親和性が認知されるように思われるのだ。

自分を「特別な存在」と決めつける性向の強さ故に、他者を服従させる傾向を有する「自己愛性人格障害」と異なり、「反社会性人格障害」は、他者を騙すことで快楽を得たり、或いは、将来の計画設計を苦手にして、多くの場合、「無謀な衝動性」を随伴しやすい傾向を持ちやすかったりという点で、前者との差異を際立たせているにも拘らず、ジョン・ドウの人格構造には、この両者のパーソナリティ障害の基調が同居しているように思われるのである。

ここで、私が注目したいのは、びっしり書き込まれた、1冊250ページのノートが2000冊もある、ジョン・ドウの日記の内容である。

「我々は何とくだらない操り人形だ。世を気にせず、己を知らず、性に興ずる楽しさよ。道を外した我ら。地下鉄で、男が話しかけてきた。寂しい男の、つまらない天気や何かの話だ。相槌を打っていたが、くだらなさに頭痛がしてきた。思わず突然、その男にゲロを吐きかけた。男は怒ったが、私は笑いが止まらなかった」

 存分の悪意を吐き出す言辞で埋まった、この常軌を逸したエピソードを読む限り、緻密な戦略・手立てを駆使する計画を立て、それをほぼ完璧に遂行した感の深いジョン・ドウの歪んだ人格には、他者を騙すことで快楽を得るという性向が見られずとも、「無謀な衝動性」が同居していることが検証し得るだろう。

 恐らく、彼のパーソナリティ障害の基調は、オットー・カーンバーグが指摘するように、「自己愛性人格障害」を人格構造のベースにして、そこに「反社会性人格障害」の性格異常の気質が張り付いていると考えられる。

その性格異常の気質を際立たせている描写があるので、ここに引用したい。

戦慄すべきラストシークエンスでの、ミルズ刑事との会話がそれである。

「お前は罪もない者を殺した」

このミルズの問いに、ジョン・ドウは興奮気味で捲(まく)し立てていった。

「罪がない?冗談だろ。あの肥満男。満足に立つこともできず、あのまま人前に出れば、誰もが嘲笑い、食事中にあいつを見れば、食欲は消え失せる。あの弁護士など、感謝状をもらいたい。あの男は生涯をかけて、強欲に金を稼ぐために、あらゆる嘘をつき、人殺しや強姦魔を街に放してた。あの女。心が醜くて、見かけだけでしか生きられない。ヤク中など、腐った肛門愛好者だ。それに、あの性病持ちの娼婦。この腐った世の中で、誰が本気で奴らを罪のない人々だと?だが問題は、もっと普通にある人々の罪だ。我々はそれを許している。それが日常で些細なことだから、朝から晩まで許している。だが、もう許されぬ。私が見せしめをした。私のしたことを人々は考え、それを学び、そして従う・・・私は憐れみなどしない。皆、神に滅ぼされたソドムの住民と同じだ」

「七つの大罪」②
自らが「七つの大罪」の名によって、死に追いやった被害者たちに対する、かくまでも尖り切った男の攻撃性には、自らを「特別な存在」と考えるが故に、その「特別な存在」によって特定された者は、皆「罪深き者」とされ、「七つの大罪」という「罪源」(注3)の過剰性によって屠られる不幸な運命から免れ得なかったのだろう。


以上の文脈で、「自己愛性人格障害」を基盤にした、「反社会性人格障害」の性格異常の気質を有するジョン・ドウの人格構造の風景が判然とするのではないか。

私はそう思う。



(注2)フロイトの概念で「良心」のこと。私は自我のうちに「良心」が包摂されると考えているので、超自我という概念は使用しない。

バチカン市国・サン・ピエトロ大聖堂(イメージ画像・ウィキ)
(注3)「七つの大罪」を構成する因子は、それを「放置」しておくと、人間を「罪」に導く危険性がある「罪源」であって、「大罪」それ自身ではない。それを「大罪」とすれば、人間は「欲望」を持つことすらも禁止されてしまうので、人間の存在それ自身の自己否定になってしまうのだ。
因みに、2008年3月、「聖座」(教皇自身、または教皇庁の組織)を事業者とするバチカン市国の日刊紙・「オッセルヴァトーレ・ロマーノ」に、ジャンフランコ・ジロッティ師が発表したところによると、「遺伝子改造」・「人体実験」・「環境汚染」・「社会的不公正」・「人を貧乏にさせる事」・「鼻持ちならないほど金持ちになる事」・「麻薬中毒」が、現代の「新・七つの大罪」にされている。発表の理由については、「従来の七つの大罪は個人主義的な側面があり、それとは異なる種類の罪もあるということを信者に伝え、理解させるため」とのこと。時代が変われば、「罪源」も変わるということである。



5  「何のために我々は生きるのか」という、実存に関わる物語の基幹文脈
  


「『パニック・ルーム』どうだった? 充分恐かった? 充分バイオレントだった?」

――バイオレンスは「ファイト・クラブ」ほどじゃないですけどね。そういえば国際貿易センタービル崩壊を見て「ファイト・クラブ」のラストを思い出しましたよ。

「(笑)そうかもね」

――資本主義の象徴としての高層ビルを破壊するわけでしょ。

「でも、『ファイト・クラブ』の思想は原作者のパラニュークの思想であって、オレのじゃないよ」

――本当に? でも、ラストでテロを成功させたのはあなたのアイデアじゃないですか。原作より過激ですよ。

「(笑)ぶち壊したかったんだよ。クレジット・カード会社とか(笑)。でも、テロを煽動したわけじゃないぜ。オレがやりたいのは政治的な資本主義批判じゃなくて、もっと個人的でメンタルな……」

――実存主義?

「うん。まさにそれだ! オレが魅了されるのは『なぜ我々はここにいるのか』『何のために我々は生きるのか』と問いかけるドラマなんだよ」

 これは、「パニック・ルーム」(2002年製作)におけるデビッド・フィンチャー監督インタビューからの引用である。(映画.com 2002年4月17日・聞き手は町山智浩)

デビッド・フィンチャー監督
ここで、デビッド・フィンチャー監督が語っているメッセージの意味は、とてもよく理解できる。

但し、「ファイト・クラブ」(1999年製作)のラストで見せた、崩れ落ちていく超高層ビル群に象徴されるように、「荒廃した社会」という時代状況への認知に起因する、作り手基準の破壊的衝動が全く見られないとは思わないが、それ以上に本作には、監督自身の拘泥する情感系が、「なぜ我々はここにいるのか」、「何のために我々は生きるのか」という言辞に集約される文脈に結ばれるのが充分に読解可能であるということだ。



6  「静」と「動」の対比による男たちの心の振幅の物語 ―― その1



前述したように、「自己愛性人格障害」と思われる男によって、一貫して支配されてきたダークサイドの映像が映し出した世界は、恐らく、いつの時代でもそうであったように、このようなタイプの犯罪者によって惹起される事件に翻弄された挙句、最後まで、男の人格の全体像を掴めない二人の刑事の心の振幅が丁寧に描かれていたということ ―― 物語の総体を支配したジョン・ドゥの「異常性」とは切れて、この文脈が本作を根柢において支え切っていたと言えるだろう。

「運命の街」に吸収されるかの如く、転職して来た若き刑事ミルズは、「喧嘩までしてここに来た。なぜだ」と、退職間際のサマセット刑事に問われるほど、「刑事セルピコ」(腐敗した警察組織と戦う警官を描いたアル・パチーノ主演の映画)を究極の理想像とするような、自らが拠って立つ「悪を退治する正義漢」という自己像イメージを実感的に検証するために、まさに「運命の街」で惹起する難事件に、徒(いたずら)に感情剥き出しで対峙し、駆動する。

然るに、そこで出会った事件のおぞましさを、人間学的に認知し得る高レベルにまで辿り着いていないミルズの若さが、〈自分の生〉の有りようと加速的に乖離していって、ディストレス状態に捕捉されていく。

若き「刑事セルピコ」をディストレス状態にしたのは、彼が扱う事件の艱難(かんなん)さが、「刑事セルピコ」の英雄譚の映画とそこだけは切れて、厄介なまでに知的濃度の高い内実を包含していたからである。

このタイプの「正義漢」が旺盛なだけの、殺人課所属の刑事に往々にして見られるように、大学生レベルの一般教養不足を露呈するミルズには、「刑事セルピコ」の胆力や馬力を保持していると自惚れているだけで、実際は、事件の本質に肉薄し切れないもどかしさに苛立ちを募らせるのだ。

そんな若輩刑事にアウトリーチしたのは、「こんなひどい世の中に子供は産めない」と言って、喧嘩別れした(?)内縁の妻との苦いエピソードを、ミルズの妻・トレーシーに吐露するほど、深いペシミズムの人生観に染まっていて、事件の解決よりも定年退職を待望するばかりのサマセット刑事。

これまでに、散々陰惨な事件と関わってきたことで、よりペシミズムの濃度を高めていた初老の刑事は、ミルズに継承されたはずの当該事件に対して特段の関心を抱いていく。

なぜなら、それは、眼も背けるような猟奇事件でありながら、その事件の犯人が、今まで経験したことがないタイプの知的濃度の高い人物であって、且つ、その人物が次々に惹起させる事件には、その行為の振れ方こそ違えども、ある意味でサマセットと同様に、「この腐った世の中」(ジョン・ドウの日記)を厭う戦略的確信犯であることを認知したからに他ならない。

「これは俺の事件だ」

サマセット刑事は、事件の猟奇性の顕著な進展を目の当りにして、そう感受したのだろう。

そんな彼が遂行した最初の行為は、相当の知能犯であるシリアルキラーが、何らかの形で関与したに違いないと信じる公立図書館への深夜訪問だった。

そこで彼は、この犯人が、キリスト教の「七つの大罪」との絡みで、被害者となる人物を特定化して、凄惨な殺人事件を惹起させていることを確信するに至る。

事件のキーワードに肉薄し、ダンテの「神曲煉獄篇」と「カンタベリー物語」(両著とも「七つの大罪」に言及している)の読書をミルズに提案し、まもなく、退職まで数日もない刑事と、重傷を負う破目になってまで自尊心を守り切った「刑事セルピコ」に憧憬して、直情径行の夫ミルズにも話せず、身籠った子供を私立学校にも入れられないと懊悩するような妻を持ち、「運命の街」に転職して来たミルズの二人は、「静」(サマセット)と「動」(ミルズ)による磁力の相互作用によって、「七つの大罪」に関わる事件の核心に迫っていくことになる。

「静」は「動」に指針を示し、それを不本意ながらも受容する「動」が、良かれ悪しかれ、結果的に犯人の思惑の範疇を超えるほどに、事件を強引に動かす推進力となって、理性的、且つ、FBIの違法行為(ヒトラーの「我が闘争」など、図書館の貸し出し記録を違法入手し、貸し出し人を特定)を利用する狡猾さを駆使してまで犯人を特定化するに至る、経験知豊富な「静」の知力を導き出していくのだ。

この「静」と「動」の対比こそが、本作で提示された〈生〉を突き動かしていくことで、まさに、彼らの「今、こんな社会で生きていることの意味」をも炙り出していくのである。



7  「静」と「動」の対比による男たちの心の振幅の物語 ―― その2



自らの浅い経験知や教養では、とうてい事件の本質に肉薄し切れないミルズにとって、「何のために生きるのか」という根源的問いは、心優しく、相思相愛によって結ばれた妻との「幸福感覚」の実感だけでは、アイデンティティの確保を保証するには限界があった。

彼は、どうしても、「刑事セルピコ」のような「何ものか」になることで、職業的アイデンティティを確保したいのだ。

そんなミルズは、「何ものか」になることへの思いの強さだけが浮いてしまって、それが一見、無謬性を誇示するかの如く、絶対的プレデター(捕食者)をイメージさせるジョン・ドウの、理屈を超えるサイコパス的猟奇犯罪の連射を被弾することで、主観の暴走に繋がる危うさを内包していた。

事件の解決に本気で協力するサマセットの知的・戦略的営為によってジョン・ドウが特定されなければ、紛れもなく、ミルズは内側に累加され、貯留されたディストレス状態が不必要な苛立ちを生み出し、そのことによって、事件の本質に全く肉薄できない脆弱性を露呈したであろう。

しかし、「何ものか」になることへの実存的アイデンティティの確保という根源的有りようの問題に包括される、それらのネガティブな内的因子の集合性は、内側に累加され、貯留されたディストレス状態の単純な延長線上では説明し得ない、戦慄すべき事態の惹起が待機していた映像のラストシークエンスの前では、集合因子の一切が無化され、灰燼に帰するに至った。

直情径行の若者の自我が、完全に破壊されてしまったのだ。

だから、生ける屍と化したかのような青年刑事を映し出す、その相貌の陰惨な構図を見るまでもなく、彼は遂に「刑事セルピコ」になれず、そこに憧憬の念を集合させていた情感系の一切が木っ端微塵に破砕され、その未来像は、観る者に暗澹たるイメージを残して、その人格総体が、根柢において崩れ去っていったと印象付けられるのである。

彼にはもう、デビッド・フィンチャー監督が言う、「実存的な問いかけ」などという形而上学が、人格総体の隙間に入り込む余地なき世界に持っていかれてしまったのである。

哀れなる者 ―― 汝の名はミルズなり
哀れなる者 ―― 汝の名はミルズなりと言う外にない。

一方、「動」のミルズと対極的な視座を持ち、限りなく戦略的に動いていったサマセットの自我には、ミルズのような感傷系の物語の何ものも侵入し得ないペシミズムが支配し、「何のために生きるのか」という根源的問いは、彼の中で既に半壊していたと言っていい。

それは、お腹の子を産むかどうかという切実極まるプライバシーの問題を、夫に内緒で、サマセットに相談を持ちかけたトレーシーとの会話で検証されるものだった。

「こんなひどい世の中に産むのかって・・・それで彼女に止そうって、数週間、説得した」

相談を持ちかけられたサマセットは、自分の経験を正直に吐露する。

これは、内縁の妻(?)が妊娠したときのサマセットの反応。


深い教養を有する彼には、常に「こんなひどい世の中」という経験的認知がある。

トレーシー(左)とサマセット
それは、「運命の街」が日々に吐き出す毒物が、長年の間、累加された経験の産物だったと言えるだろうか。

そして、感傷系の物語の何ものも侵入し得ないペシミズムが支配した男の相貌性よりも、人間的に信頼し得ると感受したトレーシーは、その男に相談する。

「あなたしか知らないの」

そう言ったトレーシーだが、直情径行の夫ミルズにも話せない理由は、その反応が容易に予想できたからである。

「僕たちの子供が産まれるぞ!」

そう叫んで、舞い上がるというイメージ以外の反応が予想できない夫には、自分の悩みの深い部分が理解できないだろうと思ったに違いない。

トレーシーがサマセットの人間性を信頼し得ると感受したのは、初めて食事に招待した際に、その抱擁力ある人柄に接したからだろう。

ミルズとトレーシー夫婦のアパートは、地下鉄が通る際に揺れることで、不動産屋を難詰(なんきつ)する夫に対して、サマセットはジョークで和ませたのである。

「明るく、楽しく、揺れる我が家」

如何にも人生経験豊富な初老の男が、地下鉄の揺れに驚きもせず、雰囲気を和ませる態度に、教諭の経験を有し、物事を慎重に考え、判断するトレーシーは、包括力の大きさをサマセットに感じたのだろう。

「私は産みたいわ」

そんなサマセットに、トレーシーは、自分の思いを吐露したのである。

「今、考えてみても、正直言って、あの決断は間違っていなかった。だが、1日とて違う決断をしていればと思わない日はない。もし産まないつもりなら、妊娠は内緒にしろ。だが、子供を産むのなら、精一杯、甘やかして育ててやれ」

これが、サマセットの直截(ちょくさい)な反応だった。

この一言で、トレーシーの腹が決まった。

従って、このシーンは、ラストの悲哀の極限のうちに、由々しき伏線として回収されていくことを把握せねばならないだろう。

因みに、この会話の中に、トレーシーにとって「生きる価値」のイメージが想像し得ると言っていい。

懊悩するトレーシー
それは、サマセットに勇気づけされることで後押しされた決意の内に結ばれる何かだった。

即ち、夫との間に生まれる子供との「幸福家族」の具現以外ではなかったに違いない。

だからこそ、「運命の街」での生活に不安を隠し切れず、サマセットに相談したのである。

テーマを戻す。

ペシミストのサマセットにとって、「何のために生きるのか」という根源的問いの問題である。

ハリウッド特有の「驚かしの技巧」とは切れたラストシークエンスの衝撃波、即ち、ミルズ夫妻の物理的、或いは、精神的解体に起因する凄惨さを目の当たりにしたことによって、皮肉にも、何某かの重量感を上積みさせて変容した人物こそ、この退職間際の初老の男であった。

彼の中で粘液質のように塒(とぐろ)を巻いていた、ニヒリズム基調の厭世感ヘのラインの延長が、予測し難い事件の、あまりに背徳的な終焉によって相当程度削り取られていくのだ。

「これからどうするんだ?」
「何とかやっていくさ」

この上司との短い遣り取りを、再びダークサイドな画面が捕捉し、サイコサスペンスの王道をいく映像がフェードアウトしていくとき、サマセットのボイスオーバーが挿入された。

「ヘミングウェイは言った。『この世界は素晴らしい。戦う価値がある』あとの部分は賛成だ」

彼は引退してもなお、現世逃避を決め込む予定調和の心情ラインに流れることなく、自分の生活エリアで惹起する様々な出来事に対して、「闘う意志」を投入させていく思いを結んだのである。

「人生は素晴らしくない」

サマセットの自我を搦(から)め捕り、そこに深い澱みを広げていたニヒリズム基調の人生観に決定的変容が見られずとも、ボイスオーバーに結ばれた言辞の重量感のうちに掬い取られ、少なくとも、残り少ない後半生を繋ぐに足る分だけ浄化され、反転していったのだ。

彼のペシミズムが、どれほど相対化されていくのか不分明だが、自分を信頼し、切実極まるプライバシーの問題を相談するに至った無辜(むこ)の女性と、その女性が身籠った胎児の命を奪い取っていった事件の陰惨さを通過してしまった男には、もう、「素晴らしくない人生」を何とか繋いでいく中で、世に蔓延(はびこ)る理不尽な事態に対して無関心では済まなくなったのだろう。

その意味で、無傷で生還し得ない者たちの物語であっても、何某かの重量感を上積みさせて変容していくに足る経験のパイルは、決定的に甚大な何かであったのだ。



8 猟奇的連続殺人事件の範疇のうちに収斂し切れないシリアルキラーの心理的風景



最後に、この映像を一貫して支配し続けたジョン・ドゥについて言及したい。

先述したように、「自己愛性人格障害」を人格の基調にすると思われるこの男にとって、恐らく、事件を起こす意味は一つしかなかった。

シリアルキラー・ジョン・ドゥ
それは、「自分の名を歴史に残すこと」。

この類の人間に顕著に見られる自己顕示欲の強さが、それを発現させるのに格好の武器、即ち、このような事件を惹起させるのに必要な知略・戦略と、それを支える深い教養を備えていたこと ――  まさに、短絡思考の猟奇的連続殺人事件の範疇のうちに収斂し切れないシリアルキラーに成り得たのである。

このシリアルキラーを生んだ心理的風景には、通常の規範意識では到底コントロールし得ない反社会的な情動が集合するメンタリティの群塊が横臥(おうが)する。

これは、ジョン・ドゥが残した膨大なノートの記述の中で検証されるもの。

この男にとって「7つの大罪」が包含する意味が、「大罪」に関与する対象人格を特定化し、それを屠っていくという単純な構図のうちに収斂されるように見える。

そうではあるまい。

思うに、「自分の名を歴史に残すこと」という人生命題の具現化のために、キリスト教の世界観の伝統的解釈を利用しただけに過ぎないと解釈すべきだろう。

別に、「7つの大罪」でなくても良かったのだ。

然るに、自らを「特別な存在」と考える極端に偏頗(へんぱ)な男には、「神の代理人」という精神的記号を付与させるに相応しいカテキズムに身を委ねることによって、男が惹起した事件は、後世の人々に特段の記憶を残す「歴史的事件」のモデルに変換可能な価値を持ち得たこと ――  これが決定的に重要だったのだ。

だから彼の事件は、予(あらかじ)め、抹殺すべき特定他者の存在が射程に収められていて、そのために、人々の印象に残りやすいカテキズムを利用したという見方もまた狭隘過ぎるだろう。

要するに、「自分の名を歴史に残すこと」という男の人生命題が、「神の代理人」として振舞うに足る格好の戦略に変換するには、「7つの大罪」という、「歴史」の重量感を内包する伝統的世界観に身を預ける方法論は充分に有効だったのである。

そして、この戦略に沿って、「神の代理人」としての「特別な存在」に抹殺されるに相応しい人物を特定化し、「荒廃」の極点と化した社会に、鮮烈なインパクトを与える猟奇的事件という形で具現していく。

物語に即して言えば、ジョン・ドゥの計画は、サマセットの知略の駆使によって阻害されたことで、最後の2つの大罪の遂行のシナリオを変更し、「運命の街」に移動して来たミルズ夫妻が、「嫉妬」と「憎悪」のセットとして、ゲームのパズルを完成させ得る特定他者として選ばれたということだろう。

それは、どこまでも、自らの歪んだ〈生〉の自己完結点を完璧に遂行するための方略以外ではなかった。

ジョン・ドゥが言う「計画の変更」とは、短期間のうちに、自らのアジトを突き止めた二人の刑事に対する報復的攻勢という狭隘な解釈を突き抜けていた。

この短いスパンに、ミルズの激しやすい性格を見抜いていたジョン・ドゥの慧眼(けいがん)に即して言えば、殆ど「予定調和」の自己完結点の歪んだ行程をトレースするように、格好のスケープゴートにされた青年刑事の暴走によって終焉するシナリオが作られたという訳だ。

社会に完全に不適応な〈生〉を繋いできたこの男には、或いは、「拡大自殺」(間接自殺)への志向があったとも思われる。

「世界」を巻き込む「歴史的事件」に変換させる途方もないシナリオには、この破壊的衝動の志向性と、ジョン・ドゥ本来の偏頗で歪んだ理念系が融合したとも思われるのだ。

かくて事件は、このシリアルキラーによって支配された物語の内に自己完結を遂げていったという訳である。



9 「人間の敵は人間である」という基本命題を精緻に炙り出したサイコサスペンスの到達点 ―― 結びとして



デビッド・フィンチャー監督の渾身の一作である本作は、特段に、「現代社会の荒廃」という類の分ったような物言いをせずとも、その時代状況の性格に見合いながら、ある一定の確率で出現する、猟奇的なシリアルキラーが抱える心の闇の歪んだ風景と、有無を言わせずに、その闇の世界にインボルブされてしまう者たちの不幸を極限的に描き切った一篇だった。

そして、その闇の世界にインボルブされてしまう者たちの〈生〉を根柢的に破壊し、或いは、変容させていく〈実存〉の有りようが、全篇を通して、一度も殺人シーンを直接的に表現することをしないが故に、却って、観る者に不安と緊張の共有を強いる「サイコサスペンス」のフラットな範疇を突き抜けることで、「人間の敵は人間である」という基本命題を精緻に炙り出していく作品として、恐らく、一度観たら忘れない歴史的な映像に昇華されていったのではないか。

そう思うのだ。


【参考文献・カプラン 臨床精神医学ハンドブック DSM--TR 診断基準による診察の手引 第3版 監訳 融道男/岩脇淳 メディカル・サイエンス・インターナショナル刊】

(2012年10月)

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