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2016年3月8日火曜日

初恋のきた道(‘99)    チャン・イーモウ

<「再構成的想起」による完全無欠な純愛映画>



1  村と町をつなぐありふれた山道で愛し合った父と母の物語



「父が突然、死んだ。私の故郷は三合屯(サンヘチュン)という小さな山村。父は村の小学校で、ずっと教師をしていた。私は一人っ子で、村でただ一人、大学に行った。残された母が、どうしているか心配だった」

都会で働くユーシェン(字幕では「ションズ」と紹介されていたが、本稿では「ユーシェン」とする)のモノローグから開かれる物語は、彼の父が吹雪の日に心臓発作で斃(たお)れた事実を三合屯の村長から知らされ、両親が円満だったが故に、残された母を案じる息子の心境をフォローしていく。

その父の葬儀をトラクターで運ぶことに母は反対し、家路を辿らせる昔からの習わしで、都市の病院から生まれ故郷の三合屯まで担いで帰りたいと、村長から聞かされるユーシェン。

しかし、若者たちが外に働きに出て、担ぎ手のいない村では、この習わしの踏襲(とうしゅう)難しい現実を知ったユーシェンは、母の説得を引き受ける。

その母は、「父が死んでから、ずっと学校の前にいて、何を言っても動かない。座ったっきりだ」(三合屯の村人・シアの言葉)と言うのだ。

学校の立て直しのために金策に奔走していた父の、あってはならない急死に衝撃を受ける母の元に行くユーシェン。

「もう、父さんに会えないんだよ」

ユーシェンと母
号泣する母に寄り添い、ユーシェンは痩身(そうしん)の母を自宅まで連れて帰る。

棺にかける布を、機織(はたお)り機で織ると言い張る母の思いを受け取り、機織り機を修繕し、その作業を見守る息子。

1999年のことである。(母の実家のカレンダーに明示)

父母の新婚当時の写真を眺め続けるユーシェンの、温もりに満ちたイメージラインに誘(いざな)われて、二人の馴れ初め(なれそめ)が回想されていく。

「父は村の人間ではなく、よそからやって来た。父と母の恋愛は、村中を騒がせた。村人たちは、物語のように語ったものだ。母はまだ18歳。父も20歳だった。馬車が父を村に運んで来たと、母は言った」(ユーシェンのモノローグ/以下、モノローグ)

20歳の父の名は、ルオ・チャンユー(以下、チャンユー)。
18歳の母の名は、チャオ・ディ(以下、ディ)。

視覚障害の母を持つディが、チャンユーと出会った瞬間に一目惚れし、桃色の新しい服に着替えるディ。

何度も縁談がありながら、すべて断ったというディにとって、チャンユーとの出会いは決定的だった。

都会の香りを運ぶ魅力的な異性だったのだろう。

新築する校舎の建物の梁(はり)に赤い布を巻く風習で、村一番の美しい娘が織る決まりに倣(なら)って、その赤い布を織るのはディだった。

チャンユーの近くにいたいがために、新しい表井戸で水を汲むディ。

「当時、村で建物を建てるときは、各家が現場で働く男たちに食事を運んだ。母は父に食べさせたい一心で食事を用意した。昔は、女が手を出せないことが沢山あった。家や井戸を作るとき、女は不吉だと遠ざけられた」(モノローグ)

それ故、自分が作った「お焼き」を食べてもらおうと、チャンユーが食べるテーブルの一番手前の場所に「お焼き」を置くディ

識字能力のないディの楽しみは、チャンユーが朗読する声を聞くこと。

「村人が馴れて関心がなくなっても、母だけは聞きに行き、それは40年続いた」(モノローグ)

チャンユーを追い駆けて行くディ
遠くから学校に通う子供を送るチャンユーを、追い駆けて行くディ。

このような行為が日常化し、ディの生活の中枢を占有していく。

このディの目立った行為が、チャンユーに知られるのも時間の問題だった。

自分を待つディに挨拶するチャンユー。

それで充分だった。

やがて、お互いを意識する関係になる。

そして、その関係が深まる絶好の機会がやってきた。

村人たちは順繰りにチャンユーを昼食に接待するが、いよいよ、ディの家をチャンユーが訪れるのだ。

チャンユー迎えディ
「父は言った。初めて母の家に行ったとき、母が入り口に立って父を迎えた姿は、一幅の画のようで、一生、忘れないと」(モノローグ)

ディが、腕によりをかけて作った料理を食べながら、視覚障害のディの母と雑談を交すチャンユー。

その表情を奥から見るだけで満足するディ。

大学を出てもやりたい事が見つからず、教師の募集の張り紙を目にして、この村にやって来たと言うチャンユー。

未だ独身で、縁談もない若い教師の話を耳にしたディの心が一気に明るくなり、チャンユーが帰った後、彼が好きだと言う餃子を作るのである。

「良い人だけど、うちとは身分が違う。あきらめるんだね」

ディの母の言葉である。

母の言葉に耳を貸さないディの心が、決定的なダメージを負う。

未だ、一ヶ月間に過ぎない村の教師の仕事を辞めなければならない事実を、本人から知らされたからである。

「帰って来る?」とディ。
「もちろんさ。授業がある」とチャンユー。
「いつ帰る?」
「旧暦12月8日には。冬休みになる前に」
「待ってる」

赤い服に似合うと言って、髪留めをプレゼントされ、そこだけは笑みを隠せなかった。

チャンユーディの最初の出会い
村人たちの話では、チャンユーが「右派」であることが理由で、党の機関から呼び出されたようだった。

赤い服に髪留めを留めたディは、正確な理由も知らず連行されていく、チャンユーの馬車を必死に追い駆けていく。

チャンユーの好みである餃子を何とか届けようとするが、追いつける訳がなかった。

晩秋の紅葉があでやかな色彩を染める大自然の中枢に置き去りにされ、号泣するディ。

おまけに、大事な髪留めを失くしてしまって、途方に暮れるばかりだった。

「母は、それから何日も朝から晩まで山を歩き、髪留めを探し回った」(モノローグ)

そして、遂に見つけた髪留めをして、唯一のチャンユーとの思い出に、生きる縁(よすが)を見出そうとするディ。

そればかりではない。

餃子を入れた容器が壊れてしまったので、それを完璧に修繕してもらうのだ。

1957年のことである。(この事実は、チャンユーをひたすら待ち続けるディが、カレンダーをめくるシーンで明示される。カレンダーには、旧暦12月8日=1958年1月27日となっていたので、チャンユーの赴任が前年である事実が判然とする。この事実は、本作で重要な意味を持つので後述する)

冬になった。

誰もいない校舎を訪ねては、チャンユーとの見えない絆を深めていくディ。

「父は母に言った。授業中、目を上げると、赤い布が目に入る。すると、母の赤い服を思い出す。村長が天井を張ろうと提案したが、父は断った。だから校舎には、天井がないままだった」(モノローグ)

毎日、校舎を訪ねるディの姿を見た村長は、それを村人たちに振れ回ることをしなかった。

村で初めての「自由恋愛」の奇跡
村で初めての「自由恋愛」の奇跡を、人情味のある村長は、世間話の種にすることを嫌ったのだろう。

「父が帰ると約束した日。母は朝から道で待った。父は確かに言った。“旧暦12月8日には帰る。冬休み前には・・・”帰らないはずがない」(モノローグ)

極寒の冬の一日を、「初恋のきた道」で待ち続けるディ。

日が暮れるまで、吹雪の中で待ち続けるのだ。

その結果、凍傷になりかかり、熱を出して自宅で寝込んでしまうディ。

母親の反対を振り切り、そんな体で、吹雪の中を町まで歩いて行くのだ。

その無理が祟(たた)って、ディは雪の路傍で倒れてしまう。

「村長とシアさんが馬車で連れ帰った。村長の話では、母の手は氷のように冷たく、毛皮で包んでも温まらなかった」(モノローグ)

しかし、奇跡が起こる。

2日間、寝込んだディの耳に、学校で授業をするチャンユーの弾んだ声が聞こえてきた。

約束の日から遅れたものの、チャンユーは無事に帰村したのだ。

帰村するや、ディの家を訪れ、一晩中、チャンユーはディの枕元に座っていたのである。

その話を母から耳にしたディは、矢も盾もたまらず、癒えぬ体で学校まで走っていく。

学校には多くの村人が集まっていて、再会を果たす二人。

残念ながら、この奇跡は一過的なものでしかなかった。

「夕方、父は町に連れ戻された。無断で帰ったのだ。母のことを聞いて、我慢できなくなったらしい。この一件のせいで、二人はその後2年、会えなかった。二人がついに再会を果たした日、母は父の好きな赤い服を着て、道で待っていた。以来、父は母のそばを離れなかった。これが父母の物語だ。二人は、この道で出会い、愛し合った。村と町をつなぐありふれた山道。必死の思いで待ち続けたこの道を、母は最後に父と辿り着いたのだろう」(モノローグ)

以上が、ユーシェンによって語られた、尊敬する父と母の物語である。

映像は一転して、モノクロで提示される現在のシーンを描き出す。

ユーシェン
母の思いを汲み取り、生まれ故郷の三合屯まで担いでいきたいと決意したユーシェンは、隣村から人を雇ってでも実現したいと、村長と掛け合い、約36人分の雇い賃5000元 を支払った結果、昔の教え子100人が噂を聞いて、村外から集まって来たのである。

そればかりではない。

その100人は雇い賃を受け取らなかったのである。

教育熱心なチャンユーの人柄を想起させるエピソードである。

彼らは三合屯までの長い距離を、夜を徹して歩き続けるのだ。

「母の希望で、父は表井戸の脇に葬られた。村には水道が引かれ、水を汲む人はいない。ここなら父は、毎日、学校を眺められる。将来、自分もここにと、母は言った」(モノローグ)

村人たちの寄付で新しい校舎が建てられることになり、旧舎との別れをする母と息子。

ラストシーン。

師範学校を出たのにビジネスマンになったユーシェンに、一科目でも授業をして欲しいという母の願望に、息子は応えていく。

まるで、生き返った父が授業をするかの如く、生徒に朗読するユーシェンがそこにいた。

最初の日に父が作り、父が読んだ文章を朗読するのだ。

チャンユーと化したユーシェンの朗読に誘(いざな)われて、少女の日々を追い駆け、学校へ向って歩き出す

すべては、そんな母と、教育者の人生を全うした父のためだった。

それは、三合屯からたった一人、大学に行ったユーシェンにとって、せめてもの恩返しの気持ちだったのだろう。



2  完全無欠な純愛映画



多くの恋愛が、ひたむきに特定異性を思い込む感情から開かれるのは、ごく普通の風景であるかも知れない。

それを、人々は「純愛」と呼んでいる。

狭義に解釈すれば、ひたむきに特定異性を思い込む恋愛の初発的で、且つ、特殊な様態 ―― それが「純愛」である。

スタンダール
「純愛」は恋愛の初発的で特殊な様態であるが、スタンダールの「恋愛論」で語られた「ザルツブルクの小枝」(冬枯れの枯れ枝=恋愛対象の特定異性が輝かしいダイヤモンドの結晶に見える)の比喩で有名な「結晶作用」のように、「純愛」とは、特定異性しか視界に入らない恋愛感情によって対象を美化させてしまう心象風景であると言っていい。

然るに、「純愛」もまた、特定他者への「性的感情」の抑えがたい氾濫である恋愛の範疇と特段に切れた愛の形態ではない。

恋愛の本質である「性的感情」が、恋愛の特化された時間を占有し、その渦中で微睡(まどろ)み、愉悦する恋人たちに強い「共存感情」を誘発する。

相手を占有したいという思いが「独占感情」に膨張し、相手にも独占されたいという感情と見事なまでに融合するのである。

だから、存分の劇薬を呑み込んでいるが、「失楽園」(不倫した中年男女が心中するというシンプルな物語)で描かれた不倫の愛の炸裂も、充分に「純愛」と呼べるものである。

侵し難い「純愛」の聖域として、「恋愛至上主義」の栄光の冠となって時を駆けていくからである。

思うに、「性的感情」を隠し込んだだけのプラトニックラブこそ「純愛」であるという風に、「純愛」を狭義に定義しない方がいい。

映画でも作為的に切り取られていたが、ディの「片思い」から開かれた時間は、プラトニックラブのみが語られていた。

言わずもがな、それは、ひたむきに特定異性を思い込む恋愛の初発的な時間のみを、ユーシェンのイメージラインで描かれているが故に、「片思い」が「両思い」に進展するプロセスを特化しただけで、「性的感情」が隠し込まれたプラトニックラブの、その「高潔」なる「純粋一直線」のイメージラインが切り取られていたに過ぎないのだ。

だから、「両思い」に進展したばかりの二人の、未だ大人の恋愛に昇華し得ない、「性的感情」が隠し込まれたプラトニックラブが強調されていただけで、「結晶作用」を経由し、その後の深々と睦み合う恋愛が描かれなかっただけなのである。

大自然や「純愛」の「結晶作用」の、その目映(まばゆ)いばかりの「美しさ」を誇張するかのように、「過去のシーン」をカラーで表現したのは自明であるが、その意味で、本作は、作為的に特化された「完全無欠な純愛映画」であると言っていい。

では、なぜ、スタンダールが言う、「第一の結晶作用」への「疑惑」(物理的共存の現実の中で生まれる当惑)を完璧にスル―して、「学校通いを40年続けた」という「お伽噺」に象徴されるように、作為的に特化された「完全無欠な純愛映画」を、チャン・イーモウ監督は描こうとしたのだろうか。

私の関心は、その一点に絞られる。

以下、ヒューリスティック(第六感)な主観を存分に含んだ批評を繋いでいきたい。

その批評のテーマは、「再構成的想起」による「完全無欠な純愛映画」である。



3  「再構成的想起」による完全無欠な純愛映画



蒋介石に忠誠を誓った国民党の青年将校がいた。

ソビエト連邦政府が支援する共産党との国共内戦での敗退によって、台湾に脱出した蒋介石に随行せず、同様に、国民党の軍人である叔父が殺害されながらも、その男は中国に残った。

中国人としての誇りを捨てたくなかったのだろうか。

それが、この男の人生を決定的に狂わしていく。

この男が27歳の時、長男が生まれた。

その長男こそ、後のチャン・イーモウ監督である。

文化大革命の狂気
ところが、27歳の父が国民党の青年将校(「少校」=日本の「少佐」)であったために、彼は「歴史的反革命分子」と「現行反革命分子」(過去も現在も「反革命分子」という意味)にされたことで、殆ど予想されたように、30数年間、定職に就くことができなかった。

その結果、若い医師であった母親が家族の収入を支えるに至る。

いつも明るくポジティブな性格の母親の双肩に、この一家の生命線が託され、貧乏にめげることなく、彼女は病院と家を往復する厳しい生活に耐え抜くが、折り悪く、文化大革命の厳しい状況下で幼い息子(チャン・イーモウ監督の弟)を救い切れず、聴覚障害者にしてしまった。

この一件は、彼女のトラウマとなって、一生、癒し切れない傷となる。

そして、チャン・イーモウ監督自身も苛酷な迫害を受け、文化大革命の渦中で学校が閉鎖され、国民を地方に送り出す「下放政策」=「上山下郷運動」(じょうさんかきょううんどう)によって、何百万人もの若者と共に田舎に送られる。

小さい頃から学力優秀ながら、政治的偏見と「家庭成分」(家族構成)、更に階層的差別のターゲットにされ、精神的な抑圧を背負って生きていく青春を余儀なくされたチャン・イーモウ監督は、誇り高き父母のDNAを受け継ぎ、脇目も振らず、必死に働き続ける日々を繋ぐのである。

年間、農業に従事した後、今度は紡績工場に送られるが、最も汚くて、辛い現場が待つ補助工の身分なのに、綿の入った巨大な麻袋を遠くまで担いで運ぶのだ。

しかし、彼はめげない。

7年半に及ぶこの苛酷な肉体労働が、彼の頑健な身体を鍛え上げていく。

そんな中で、全く収入のない父が住む実家に送金する若きイーモウ。

思い込んだら徹底的に信念を貫く彼は、その後、自分の将来の職業を模索する中で、幼い頃から絵画や写真に興味を抱いていた夢を具現化すべく、年齢制限の壁を超え、北京電影学院(映画の専門家を育成する唯一の国営の映画学校)への入学を果たす。

三段跳びをやってのけた男
その後、カメラマン⇒俳優⇒映画監督という三段跳びをやってのけるのだ。

これが、自分の血を売りながら、カメラを買う金を貯めていた、チャン・イーモウという男の生き様である。

その生き様には全く屈折する何ものもなく、周囲の偏見にめげず、自分の撮りたい映画を構築する仕事を遂行していく。

そんな彼が、1999年に作ったのが、本作の「初恋のきた道」である。

ではなぜ、このような「お伽噺」めいた映像を、彼は世に出したのだろうか。

以下、その製作意図が、彼のインタビューの中で語られている。

「この映画の製作意図は――われわれは『我的父親母親』を抒情的散文形式の映画に撮る。映画は一つの死から展開する愛情物語だ。この種の愛情は人の純粋で誠実な愛であり、人間性と自然とが溶け合い、一体となって萌え出た情感である。われわれがこの映画を撮るのは物欲が横行し、真の愛がうとんじられ、価値観、愛情観が日ましに浮薄になっている社会現象に意識的に挑戦するためである。真の情、真の愛を拒絶している世紀末に、回帰的色調をもって愛情の挽歌を歌いあげるためとも言えようか。

こうして『初恋のきた道』となった映画は、原作にまったくない息子の母の初恋時代が描かれていった。息子が頭の中で描き上げた、母の十代のころは、最高に美しく、最高に輝いていなくてはならない。だから初恋時代はカラーで老母に会う現実は白黒にするという描きわけが必要だった」(「中国映画の明星 石子順 平凡社)

ここで言う「われわれ」とは、原作者の鮑十(パオ・シー)とチャン・イーモウ監督のこと。

このインタビューで重要なのは3点ある。

1点目は、原作者の鮑十との丹念なすり合わせで、映画が構築されたという事実。

点目は、そのすり合わせの結果、「原作にまったくない息子の母の初恋時代」を、「息子が頭の中で描き上げた」イメージラインの中で、「最高に美しく、最高に輝いていなくてはならない」母の思春期像を鮮明に、且つ、決定的に浮き彫りにすること。

3点目は、本作が、「物欲が横行し、真の愛がうとんじられ、価値観、愛情観が日ましに浮薄になっている社会現象に意識的に挑戦する」意図を抱懐(ほうかい)した、確信的に「全身理念系」の映画であるという事実。

「完全無欠な純愛映画」に収斂される事実は、点目によって証明されるだろう。

1990年代半ば辺りから、農民の徴税が限界に達したこと、そして、税制が改悪されたことによって、「郷鎮企業」(ごうちんきぎょう/人民公社の解体によって衣替えした農村企業)が末端自治区の官僚の腐敗の拠点となり、それまで文化として根付いていた家族主義や縁故主義の人間関係は、「郷鎮企業」の経営に決定的にシフトしていく。

末端自治区の官僚が、「郷鎮企業」における地位・利権を拡大的に占有するに至るのだ。

末端自治区の官僚と関係を持ち、利益の分け前を得ようとする者たちが蝟集(いしゅう)し、親戚縁者への利益誘導(縁故資本主義)が、共産党独裁国家のごく普通の風景になっていくのである。

脆弱なる人間の常として、彼らが道徳心の欠如の現象に無頓着になるのは必至だった。

郷鎮企業・サイトより
「郷鎮企業」の公的資産が流失する現象も不可避だったのか。

更に典型的な例を挙げれば、1979年から導入された「一人っ子政策」が末端自治区の「罰金利権」を生み出し、自治体が定めた避妊手術目標数を達成するために、村々に対象人数を割り振って、強制的に手術するといった蛮行もしばしば行われた。

かくて、そんな変貌する農村の風景の現実を目の当たりにしたチャン・イーモウ監督が、「真の情、真の愛を拒絶している世紀末」と言いながらも、自国文化の渦中で感受する大いなる不満を、「全身理念系」の映画に昇華したと読み取れるのである。

以上、テーマの「社会性」を背景にしたが故にと言うべきか、「最高に美しく、最高に輝いていなくてはならない」母の思春期像を浮き彫りにする物語に、この「完全無欠な純愛映画」を収斂させたのは、前述した、チャン・イーモウ監督自身の苦闘の人生の総括的意味合いをもって、彼の父母への最大級のオマージュであると思われるのである。

だから、この映画には、チャン・イーモウ監督の「再構成的想起」が深々と侵入していると、私は捉えている。

「再構成的想起」とは、過去の体験を自分の都合のいいように書き換えることで、そこに特別の意味づけを与える一種の心理的操作である。

「夢」への変換であると言ってもいい。

要するに、チャン・イーモウ監督の堅固で、打たれ強い精神を培ってくれた両親の苛酷な人生を、「再構成的想起」によって最高に輝く時間に変換させ、特別の意味づけを与えたのである。

「最高に美しく、最高に輝いていなくてはならない」母の思春期は、可憐なチャン・ツイィー演じるチャオ・ディに仮託し、そのチャオ・ディの初恋の相手となる20歳の父は、教育熱心な教師・チャンユーに仮託し、その「夢」の時間を、ユーシェンのイメージラインのうちに復元させるのだ。

そして、この3人こそ、チャン・イーモウ監督とその両親のイメージが、「全身理念系」の物語の中に、有能な映画作家の「再構成的想起」として具現化しているのである。

それ故に、「初恋のきた道」という言い得て妙の邦題は、「繁体字」(はんたいじ/中国の常用漢字)である「我的父親母親」(私の父と母)という原題の方が、映画の本質を的確に表現していると言えるだろう。

言うまでもなく、「初恋のきた道」の中の、カラーで描かれる過去のパートの時代背景は、1957年から1960年までである。

従って、「右派」としてチャンユーが拘束されたのは、中国の血で血を洗う権力闘争としてハードランディングする文化大革命への、決定的な転換点の嚆矢(こうし)となる「反右派闘争」の渦中である。

「ワイルド・スワン」(ユン・チアン著 講談社)に詳しく書かれているが、「反右派闘争」とは、スターリン批判による毛沢東の権威の揺らぎを奪回するために、1957年に毛沢東が発動した反体制狩りを指す。

「労働改造局」の決定で、「労働改造」という名目のために放擲(ほうてき)された、「反革命思想」を抱懐する「右派」の男たちに与えられた「労働教育」の内実が、土壌改良なしに不可能な痩せた砂漠の地を開墾する現実については、ワン・ビン監督の「無言歌」(2010年製作)に詳しい。

無言歌」より
一日250グラムの配給しかない「政治犯」にとって、「食」の確保だけが、自らの命を繋ぐ唯一の生存戦略だが、折しも、「一九五八年から六二年にかけて、中国は地獄へと落ちていった」という言葉から開かれた、「毛沢東の大飢饉 史上最も悲惨で破壊的な人災 1958-1962」(フランク・ディケーター著 草思社)で人口に膾炙(かいしゃ)されている、「大躍進政策」の時代の土手っ腹にあったのだ。

以上、「初恋のきた道」という「完全無欠な純愛映画」が、文革にまで膨張する血で血を洗う権力闘争の起点になった「反右派闘争」を背景にしたのは、前述したように、文革で迫害を受けたチャン・イーモウ監督自身の思いが直截(ちょくせつ)に投入されていると、私は考えている。

それは同時に、文革で迫害を受けた監督の両親の苛酷な人生を、「再構成的想起」によって「完全無欠な純愛映画」に昇華させたというイメージに結ばれる。

考えてみるに、「造反有理」(造反には正しい道理がある)のスローガンの下、「反革命分子」を迫害する紅衛兵だったチェン・カイコー監督(チャン・イーモウ監督と共に「第五世代」の映画監督)が、父親を裏切って糾弾(きゅうだん)した行為は、彼の深刻なトラウマとなったが故に、文革を全否定する壮絶な名画・「さらば、わが愛/覇王別姫」(1993年製作)の中で、全身全霊を賭けて叩きつけ、その悲壮なる叫びが、観る者に「情動感染」(気持ちが乗り移ってくること)せざるを得なかった

チェン・カイコー監督
その一点において、チャン・イーモウ監督と決定的に分岐する。

彼は文革の被害者だった。

被害者は、自分を迫害した者たちを見返すほどの成功を収めることで、ネガティブな記憶を昇華できる可能性がある。

全く屈折がなく、心身ともに頑健な彼だからこそ、「初恋のきた道」のような極めつけの「完全無欠な純愛映画」の中で、その思いを具現化できたのである。

しかし、チェン・カイコー監督は文革の加害者だったのだ。

加害者に仕立てられ、加担させられたことへの「被害者意識」が生まれた時、その意識を浄化させるには、自分が犯した「罪」と向き合い、その「罪」を犯させた権力と向き合い、それを客観化することで、自己史の中の最も厄介な記憶を総括せねばならないのだろう。

チェン・カイコー監督は自己に誠実だった。

その最も厄介な記憶から逃げなかったのである。

だから、「さらば、わが愛/覇王別姫」を映像化した。

それで充分だったかどうか、私には分らない。

ただ、ルイ・マル監督が「さよなら子供たち」(1988年製作)を描くために映画監督になったように、「負け犬根性」堕ちていかなかったであろうチャン・イーモウ監督と共に、彼らは映画作家としての矜持(きょうじ)を捨てることなく、一度は引き受けねばならないと思われるテーマを映像化し、描き切った誠実さに大いに感銘を受けるのである。

【参考資料】  

「中国映画の明星 石子 順 平凡社」  「ワイルド・スワン」(ユン・チアン著 講談社)  「毛沢東の大飢饉 史上最も悲惨で破壊的な人災 1958-1962」(フランク・ディケーター著 草思社)  テレビ東京 CINEMA STREET / 活きる)  サイト・「葦の髄から天覗く 中華人民共和国の農村」  人生論的映画評論・続「無言歌」
  
(2016年3月)



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