2024年7月6日土曜日

怪物('23)  抑圧と飛翔  是枝裕和

 


1  「ちゃんとしろよ!あのさ、皆さん、さっきから目が死んでるんですけど。私が話してるのは人間?」

 


 

夜、自宅のベランダから、アイスを食べながら雑居ビルの火事を見ている麦野早織(むぎのさおり/以下、早織)と息子の湊(みなと)。

 

「豚の脳を移植した人間は、人間?豚?」

早織と湊

「何の話?」

「そういう研究のがあるんだって」

「誰がそんなこと言ったの?」

「保利(ほり)先生」

「最近の学校は変なこと教えんだね。それは人間じゃないでしょ」 



シングルマザーの早織は、小学5年生の湊を学校へ送り出し、勤務先のクリーニング店で、昨夜の火事で全焼したビルのガールズバーに保利先生がいたという話を、店に来た湊のクラスメートの母親から聞く。 


仕事から帰ると、洗面室に湊の切ったくせ毛が散らばり、何事かと早織が聞くと、湊はシャワーを浴びながら「校則違反」と答えるのみ。

 

亡くなった父の誕生日にケーキを買って来た早織は、湊の運動靴が片方しかないことに気づく。

 

二人は仏壇で父の誕生日祝いをする。 


朝、ベッドから起きられない湊に学校へ行くことを確認し、水筒に麦茶を入れようすると中から泥水が出てきた。 


「実験。理科の」と湊。

 

夕飯の時間になっても帰って来ない湊を車で探して、自転車が乗り捨てられた場所で車を止め、古びた鉄橋の下の真っ暗闇なトンネルを進んで行くと、「かいぶつ、だーれだ!」と叫ぶ湊の声が聞こえてきた。

 

湊を見つけた早織は、走って抱き締め、車に乗せて帰る。 


「ごめん。僕ね、お父さんみたいには…」

「…お父さんに約束してんだよ。湊が結婚して家族を持つまでは、お母さん頑張るよって。いいのもう。どこにでもある普通の家族でいいの。湊が家族っていう一番の宝物を手に入れるまでは…」 


突然、湊はシートベルトを外し、走っている車から飛び降りてしまうのだ。

 

慌てた早織は車を止め、湊を追い駆け、怪我をした湊を病院へ連れて行った。 


CTを撮っても異常はなく、安心した早織だったが、湊の様子がおかしい。

 

「学校でなんかあった?」

 

耳の怪我を触ると、湊はビクッとして後ずさりする。

 

「豚の脳なんだよね。湊の脳は豚の脳と入れ替えられてるんだよ!」 


走りながら、「そういうところ、なんか変わっていうかさ。化け物っていうかさ…」と言う湊を追い駆ける早織。

 

「それ誰に言われたの?蒲田君?蒲田君でしょ?」

 

逃げる湊の肩を掴み、真剣に見つめ、誰に言われたかを問い詰める。

 

「保利先生」 



早速、早織は小学校へ行き、伏見校長に湊が虐められている事実について問いかけた。

 

「体操着を廊下に捨てられたり、授業の支度が遅れただけで給食を食べさせてもらえなかったり、そういうことがあったって…耳から血が出るくらい引っ張られたり。“先生、痛いです”ってお願いしたら、“お前の脳は豚の脳なんだよ。これ痛い目に遭わないと分かんないだろ”って」


「はい」
 

伏見

メモを取る伏見は、入って来た教頭の正田、湊が2年の時の担任だった神崎(かんざき)、学年主任の品川らと入れ替わって校長室を出て行った。

 

話を聞いた校長が何も言わず出て行ったことに驚く早織。

 

正田から再び用件を聞かれ、校長に話したと言うと、校長は所用で出かけたと答える。

 

「生徒のことなんですよ…」

「校長は先日、お孫さんを事故で亡くされたばかりでして」 

後方左から品川、正田、神崎

後日、改めて早織は小学校へ行った。

 

前回の4人と、今度は担任の保利が席に着いた。

 

伏見は問い合わせの件について、保利が謝罪すると伝える。 

保利(後方右から3人目)

正田に促されて立った保利は、虐めについて何も答えることなく、たどたどしく謝罪する。

 

「このたびは…私の指導の…結果?麦野君に対して…対しましての…誤解を生むこと…ことになりましたことと、非常に残念なこと…思っております。申し訳ございませんでした」

 

保利が頭を下げ座り、他の4人が立つと保利も再び立って、5人揃って深々と早織に頭を下げた。

 

「え?違います。違いますよ…息子はね。この先生から実際ひどいこと言われて傷ついたんです。誤解っていうんじゃないんです」


「指導が適切に伝わらなかったものと考えております」と伏見。

「指導ってどれのことですか?」

「慎重を期すべき指導があったものと考えております」

「確認していいですか?息子に暴力をふるったんですよね?」

 

保利はティッシュで鼻をかみ、何も答えない。


 

「誤解を招く点があったかと思われます」と伏見。

「…この先生に叩かれて、息子は怪我したんです。分かってます?」

「ご意見は真摯に受け止め、今後適切な指導をしてまいりたいと考えています」

 

伏見は決まり文句を繰り返すのみ。

 

早織は、殴ったか殴らなかったか、そのどちらかの答えを保利に求めると、保利は顔を左右に背(そむ)け、落ち着かない様子で何も答えない。

 

再び伏見がバインダーを覗きながら、教員の手と湊の鼻の接触があったことは確認できると言い、のらりくらりとかわそうとし、横では保利が飴を口に入れるのを見て、早織は呆れ果てる。

 

「今さ、何の話してるか分かる?」

「まあ、こういうのって、母子家庭にありがちっていうか…まぁ、うちもシングルマザー…」 


慌てて正田が保利を止めようとする。

 

「シングルマザーがなんですか?」

「親が心配しすぎるっていうか、母子家庭あるあるっていうか」

「私が過保護だって言うんですか…」

「ご意見は真摯に受け止め、今後はより一層適切な指導を心がけてまいります…ご理解ください」と伏見。

 

再び立ち上がって全員が頭を下げる。

 

早織は涙を浮かべる。 


3度目の早織の学校訪問。

 

玄関から入ったところで、早織は保利が女の子に手を引かれているのを目撃する。

 

伏見が改めて事実確認すると話すと、「今、確認してって言ってるの!」と早織が苛立つ。

 

「こんなの転校するしかないじゃん…謝って欲しいんじゃないよ。保利先生呼んでください」

「あいにく保利は外出中で…」

「さっきいました…」

「外出というのは、出かけているという意味ではなく…」

「ちゃんとしろよ!あのさ、皆さん、さっきから目が死んでるんですけど。私が話してるのは人間?答えてもらえます?私の質問に」

「人間かどうかということでしょうか」


「違うけど、いいやそれで、それでいい。答えて」

 

伏見が品川の差し出すバインダーに目を向けると、早織はそれを取り上げる。

 

「紙見ないと分かんない?」

「人間です」

「でしたらね、こっちだって子供のこと心配して来てんだし、一人の人間として向き合ってもらえますか?」

「ご意見は真摯に受け止め、今後、より…」

 

逆上する早織は、思わずバインダーを投げ捨てた。

 

孫と校長が写る写真立てにぶつかって落ちたので、それを拾い、伏見に渡す早織。

 

「ごめんなさい」

「ありがとうございます」

 

そこに正田が校長室を覗き、早織がいることを目視し、随行していた保利を連れ、慌てて引き返した。

 

それを見た早織が追い駆けると、正田の手を振り払い、保利は再び早織に深々と頭を下げて謝罪する。 


「どうもすみませんでした」

「こんな先生がいる学校に、子供預けられないでしょ。この人、辞めさせてください!」 


伏見に向かって訴えると、保利が笑う。

 

「私、なんか面白いこと言ったかな?」

「そんな興奮しないでください」

「興奮してないよ。私はただ当たり前のことを…」

「あなたの息子さん、虐めやってますよ」と保利。

「君、何言ってんの?」と正田。

「麦野湊くんは、星川依里(より)って子を虐めてるんですよ」


「そんな事実はありません」と正田。

「保利先生、訂正して」と神崎。

「麦野君、家にナイフとか凶器とか持ったりしてません?」

 

この保利の発言にキレた早織。

 

「何デタラメ言ってんの。駅前のキャバクラ行ってたくせに。あんたが店に火つけたんじゃないの?頭に豚の脳が入ってんのは、あんたの方でしょ」

 

夜、自室に籠った湊にスイカを持って入ると、乱雑に散らかった部屋の中でうずくまっている湊。

 

そこで、早織はバッグから出て来た着火ライターを見つけ、不安げに湊の背中を見つめる。 



早織は星川依里の家を訪ね、学校から帰って来たばかりの依里が家に案内する。

 

依里は風邪で休んでいる湊に手紙を書き始めるが、「み」の字が鏡文字になってると早織に言われると、突然止めてしまった。

 

【鏡文字とは、上下はそのままで左右を反転させた文字のこと】

 

腕に傷があるのを見つけた早織が、学校で虐められていないかを問うと依里の目が泳ぐ。 

依里


校長室で早織が見守る中、依里は保利を前にし、湊から虐められていることを否定し、逆に保利が湊を叩いていると話す。 

「いつも麦野君を叩いたりしてました」

「なんだよ、それ」

「皆も知ってるけど、先生が怖いから黙っています」

 

慌てて正田と神崎が、依里を教室に戻す。

 

続いて、品川、保利が部屋を出て、伏見も席を立って逃げようとするので、早織は孫が亡くなって悲しかったかを訊ね、私と同じ気持ちだと言って顔を覗き込む。

 

学校は保護者会を開き、生徒の親たちの前で保利が湊に暴力を振るい、暴言を吐いたことを認め謝罪し、辞職するに至る。 


その会見の内容が掲載された新聞記事を読む早織。 



辞めたはずの保利が学校へ来て、接触した湊が階段から落ちたと騒ぎとなり、連絡を受けた早織は学校に駆け付けたが、湊は無事だった。

 

台風が来るので、窓に段ボールを張り付けるなど、暴風雨に備える早織と湊。 



翌朝早く、湊の部屋を覗くと、ベッドは空だった。

 

外から保利の「麦野!麦野!」と叫ぶ声がして、窓を開けると風で机の上のカードが飛ばされる。

 

ここで、回収されるべき複数の伏線を残してフェードアウトしていく。

 

【この章で可視化されたのは、虐めの真相を求めるだけの6度に及ぶ早織の学校訪問に対する学校サイドの対応が、終始、事態を大事にしないための防衛的態度に固執したことで、謝罪に納得がいかない保利の不自然な振る舞い(この時点で「変人性」を印象づける)が浮き彫りになったこと。かくて、早織視点とは言え、それを由(よし)としない早織がモンスターペアレントと化していく硬直した姿勢が顕在化していく経緯が、物語総体が覆う冥闇(めいあん)の広がりの中で映像提示され、観る者を疲弊させていく初発点になっていく。


 

何より気になるのは、性犯罪歴の有無を確認する新制度「日本版DBS」の成立に象徴されるように、教育機関に対する外部圧力によって学校サイドの対応が過剰なまでに防衛的に振れるダークサイドな側面が切り取られていること。更に言えば、公立教員残業代ゼロ(「教員給与特別措置法=給特法」)という、苛酷な教育環境で疲弊する教員の実情が観る者に届かない構成力の脆弱性が読み取れる。攻撃的なモンスターペアレントvs.防衛的な学校当局(「学校権力」にあらず)という構図を単純に般化してはならない。この章での学校サイドの描き方が信じ難いほどリアリティを蹴飛ばして、執拗にコミカライズされているのだ】 

日本版DBS

給特法

 

 

2  「ごめんな。先生、間違ってた!麦野、間違ってないよ!なんにもおかしくないんだよ。麦野!」 ーー 保利の章

 

 

 

火事の日、保利は恋人の広奈にプロポーズしたが相手にされず、自宅へ戻るところで雑居ビルの火事に遭遇する。


火事の写真を撮る広奈。 

広奈

歩道橋で担当する生徒たちがいたので、「帰りなさい」と注意すると、「ガールズバー、ガールズバー」と囃(はや)し立てられる保利。

 

自宅の水槽で飼っている金魚を見る広奈が、動かない一匹の金魚を指して、「保利君みたい、可哀想」と呟く。

 

「…失礼だな。僕は心体ともに健康だよ」

「誤植見つけて出版社に手紙送る趣味持った人が?…もっとさ、楽しい趣味見つけたら?」


「身悶えるほど楽しいんだけど」

 

身内の事故で休んでいた校長が、職務復帰の挨拶をする。

 

伏見は、着任まもない保利に近づき、留守をしたことを謝罪する。

 

「子供たちをよろしくお願いしますね」 


同僚から「夢中になるのはキャバクラだけにしましょうね」と言われた保利は、腑に落ちない表情で反応するが何も答えない。

 

教室へ行くと、湊が生徒たちの体操袋を次々に廊下に投げていた。

 

保利はそれを止めさせようとして、肘が湊の顔面に当たり、鼻血を出してしまう。 


保利はそれを謝り、宥(なだ)めるように湊を諭して、皆に謝らせた。

 

保利が教材を持って倉庫を出ると、「麦野湊の保護者が抗議に来ています」と神崎に言われ、倉庫に押し戻された。

 

「君は目つきが悪いし、感じも悪いから、ここにいなさい」と正田。


「僕、何もしてません。誤解があるなら説明します」

「話が大きくなったら困るの。保護者の扱いは僕らの方が慣れてるからね。任せなさい」

 

小学2年の時に担任だった神崎は、中学受験の予定がある湊について、「虐めで転校みたいなことになったら、受験なんて無理ですよ」と保利を牽制する。

 

夜、職員室で保利は改めて伏見に、たまたま腕が当たっただけだと説明する。

 

「僕が保護者会で説明します。麦野君が暴れてるのを止めただけだって…」


「児童のせいにしたら、親御さんの怒りに火がつくでしょ」と正田。

「教育委員会に持ち込まれたら、学校全体が処分されることになるんです」と品川。

「実際どうだったかは、どうでもいいんだよ」と伏見。

 

保利は校長室で保護者への対応を練習させられ、伏見が亡くなった孫と写る写真立てを保護者に見えるようにセットするのを見て、一瞬凍り付く。

 

他の先生が帰った夜の職員室で、そのことを同僚に話すと、「校長先生、この学校大好きですからねぇ」と言い、駐車場で孫を轢いたのは本当は校長本人だという噂があると耳打ちした。 


【1章にも出てきたが、この事故は「過失運転致死傷罪」が適用されたと思われる。「過失運転致死傷罪」が成立した場合には、7年以下の懲役もしくは禁錮または100万円以下の罰金である】 

過失運転致死傷罪


教室で、依里の上履きを依里と保利が探している。

 

保利はゴミ箱から見つけ出し、ハンカチで上履きを拭(ふ)いて依里に渡す。

 

虐めがあると思った保利は依里の家を訪ねると、缶チューハイを片手に父親の清高が戻って来て、担任の先生だと分かるや、いきなり「大学どこ?」と聞いてくるのだ。

 

依里について訊ねると、「あれはね、化け物ですよ」と小声で言う。

 

「頭の中に、人間じゃなくて豚の脳みそが入ってるの。だからね、私はあれを人間に戻してやろうと思ってるの」 



その後、学校のトイレから湊が出て来たので、「お、出たか?」と保利が声をかけるが、黙って行ってしまった。

 

トイレの個室から、「かいぶつ、だーれだ」と依里の声がするので保利が近づくと、湊がまた顔を覗くが立ち去った。 


保利が外から押さえられた穴あけパンチを外し、中から出て来た依里が「なんだ保利先生か」と言うや、手を洗って行ってしまった。 


呆気に取られる保利。

 

早織の3回目の学校訪問で、保利が女の子に手を引かれているのを目撃した時のこと。

 

保利の手を引いた美青(みお)は、猫が死んでいる場所に連れて行く。

 

「見たんだよね。麦野君が猫で遊んでるところ」



早織や校長の前で依里が保利の暴力について証言した際、保利は美青を見つけ、麦野が猫を殺したかもという話をしてくれと頼むが、「そんな話してません」と言われ、保利が美青の肩を掴んだところで、神崎に顔を壁に抑えつけられる。 


教員室では、正田が保利に関する5年生全員へのアンケートを各担任に配り、保利は抗議するが、相手が弁護士を雇い、内容証明が送ってきたとして、そのまま実施された。

 

保護者会の開催日に、直前まで保利は、「僕、やってません。本当にやってません」と伏見に訴える。

 

「でしょうね」

「だったら、こんなこと止めて下さい。お願いします」

「今頃反論したって、余計批判が集まるだけでしょ」と正田。

「あなたが学校を守るんだよ」と伏見。 


この校長の恫喝が効いたのか、保利は無理やり保護者会に出席させられで俯(うつむ)き、謝罪するに至る。 


【ここでの伏見の「あんたが学校を守るんだよ」という言葉は、保利を犠牲にしてでも「学校を守る」という絶対命題があるからである。これは恐らく、自らが犯した事故の身代わりとして夫が罪を肩代わりしてくれた強い責任感に起因する。あってはならない事態を重く受け止めている伏見の感情の露出であると言っていい。孫の命を奪ってしまった罪悪感がトラウマと化し、彼女の自我を消耗させてしまっているのだ。だから、1章において、死んだような目で早織に対応する態度には、消耗し切った彼女の自我が厄介な状況の只中で、必死に堪えている相貌性が剥(む)き出しにされている。それにしても、調べもせずに熱心な若い教諭を辞職に追い込む校長の人物造形のデフォルメは、次章との脈絡において首肯できない。単に保利視点というデフォルメで収斂させるのか】

 

広奈と買い物をしてマンションに帰ったところで、保利は雑誌記者に捉まり、取材を申し込まれ、勝手に写真を撮られてしまう。 


広奈は荷物をまとめて、「また連絡する」と言って出て行ってしまった。 


自分の記事が載った雑誌に嬉しそうに付箋を貼ったり、マンションのドアノブに男子生徒から悪戯されたりする保利は、小学校へ行って湊に声をかけ、逃げる湊を捕らえて「何もしていないよね」と言って質す。 


湊は頷き、保利は安堵するが、そこからまた湊が逃げると、保利から階段から突き落とされたと生徒たちが騒ぎ始める。

 

項垂(うなだ)れる保利は、今度は校舎の屋根に上がり、さす又を持った品川と神崎の掛け声を無視して、屋根の淵に立って湖の見える街を見下ろし風に吹かれていると管楽器の音がしてきて、その音の方へ振り向く。 


自殺未遂に終わったのである。

 

引っ越し作業をしている際、依里の作文を見つけ、赤鉛筆で鏡文字を見定めるうちに、湊の名前が浮かんできた。 



翌朝の暴風雨の中、早織の家の前から大声で「麦野!麦野!」と叫ぶ保利。

 

「ごめんな。先生、間違ってた!麦野、間違ってないよ!なんにもおかしくないんだよ。麦野!」 


そこに早織が出て来て、湊に会わせてくれと頭を下げる。

 

早織が運転する車の中で、湊の作文を手にしている保利に話しかける。

 

「小さい頃から、目を覚ますといつも泣いているんだよ。好きな人がいなくなる夢を見て、いつも泣いてるの。優しい子なの」

 

通行止めで、鉄道跡地で土砂崩れがあって避難命令が出ていると聞いた早織は、車を降り、消防団員の制止を振り切って走って行く。

 

保利もそれに続き、暗いトンネルを抜けていく。 


横倒しになった車両に上り、必死で土砂をかき分け、窓を開け、湊と依里の名を呼びかけるが誰もいなかった。 


【保利教諭の不謹慎な行為が「怪物性」の一つの記号として映像提示されていたが、この章では、「誤植を見つけて出版社に手紙を送る」というオタク趣味を有しながらも、トップシーンで早織がガールズバーに保利先生がいたという話が子供たちの作り話であり、彼のキャバクラ通いも信憑性に欠けていることが明示されている。人格が豹変しているようだった。この保利の視点で描かれていたのは、何より彼が、帰宅しても生徒たちのことを案じる教育熱心な先生である事実が具象化されている。ただコミュニケーション能力が不足しているために同僚との良好な関係を保持できないところがある。

 

この章で最も重要なのは、依里に対する湊の虐めを止めようとして、湊を誤って怪我させた一件で大事になり、上司の圧力で弁明の機会を奪われた挙句、一方的に謝罪を求められ、保護者会での謝罪とメディアの餌食になった事態の顛末である。虐めは保利の誤解だったが、トイレに閉じ込められた依里を救う際に湊を見たことで誤解が解けなかったばかりか、湊を階段から突き落としたと決めつけられ、ここでも弁明の機会を奪われて辞職に追い込まれるのだ。全てを失い自殺未遂に及んだ後、鏡文字を見極めることによって依里に対する湊の虐めが誤解だった事実を知ると同時に、「あれはね、化け物ですよ」と清高が言い放った意味をも理解して救済に向かっていく元教諭がいたという話である。但し、二人の児童に関わる情報提示のない保利の、この読解には相当に無理がある。この映画には、観る者の判断を誘導する恣意的な印象操作が行われていて、しばしば不愉快ですらある】

 

 

 

3  「生まれ変わったのかな」「そういうのはないと思うよ」 ーー 湊の章

 

 

 

拘置所の接見室で夫に面会する伏見。

 

「明日から学校戻るから、今のうちに、このこと教えておかなきゃって」

「お墓、どうするって?」

「別で用意するって…それがいいと思ったけど…」

「それがいいね…」 

伏見の夫

【この会話で、孫を死なせてしまったことで、「過失運転致死傷罪」によって伏見の夫が収監されている事実が可視化されるが、孫の墓を別に用意することを伝える妻の意を汲んで「それがいいね…」と反応している。このことは伏見が孫を死なせてしまった事実を暗示する。自らが抱える罪責感のあまり、自我を消耗させた彼女がギリギリの状態で非日常の日々を繋いでいることが想像できるが、ここでも映画は観る者に委ねてしまっている。このサスペンス性に何の意味があるのか】

 

帰路、遠くで消防車のサイレンが聞こえる橋でタバコを吸ってる伏見は、スキップしていた依里が落とした着火ライターを拾い、依里に渡す。 


【常識外れの伏見の行為には、児童に対する柔和な視線が読み取れるが、死なせてしまった孫への罪責感の投影のように見える。ならば、スーパーで児童を転倒させた行為と矛盾する。不毛な考察を求める映画への不満を口にしても詮ないが、敢えて書けば、孫の事故死は孫が駐車場に走って来たことにあり、走ることの危険性を伝えようとするメッセージとも考えられる。諄(くど)いようだが、理解に苦しむ人物造形である】 

スーパーで走って来た女児を転倒させる


学校へ向かう桜並木を歩く湊の前方に、依里が歩いている。

 

学校前の坂道で、依里が湊を待ち、二人が会話していると、依里が男子生徒に突き飛ばされた。 


その男子生徒に、「何で宇宙人と一緒にしゃべってるんですか」と湊が聞かれる。

 

音楽係の湊と依里が、タンバリンを倉庫に運ぶ。

 

依里は湊に菓子を渡し、「直接触ってないから汚くないよ…病気うつるって思って」と言う。

 

「ほんとにさ。星川君の脳は豚の脳なの?」

 

依里はそれに答えず、湊の髪を撫でるのだ。 


「今度のクラスでも友達できないと思ってた…」

「友達は友達だけど…皆の前で話しかけないで」

「…いいよ、話しかけない」

「ありがとう」

 

その夜、湊は洗面室で髪を切る。 


【これは「豚の脳という病気」(同性愛)を湊が認知し、この「病気」を払拭したいという観念が湊の自我を覆っていることを示す行為である。この少年には、自らの性的指向を薄々気づいているので、それを知られたくないという意識がある。だから、人に言えない複雑な胸中を内部で必死に押し込めているのが緊(ひし)と伝わってくる】

 

教室で、男子生徒たちが依里の机の上にゴミを散らかし、湊も呼ばれ黒板消しで汚す作業を手伝わされ、戻って来た依里はそれを目撃する。

 

依里の片づけを手伝ってくれる女子もからかわれ、依里が女子の味方をするので、「お前女子?宇宙女子?」とキスを強要されそうになる。 


それを見た湊は、突然、教室の後ろに掛かった生徒たちの体操着袋を滅茶苦茶に放り投げて、依里を虐める生徒たちの目を奪う。 


そこに保利が走って来るや、虐めと判断して湊を制止する。

 

学校の帰り、湊は依里に謝り、靴下で歩く依里に片方のスニーカーを渡す。

 

猫の声を聴くために、二人はマンホールに耳を当て目を閉じるが、依里の「ドッキリ」だった。


 

二人は待ち合わせ、自転車で依里が案内する鉄道跡地に到着した。

 

うなり笛を回す依里。 


暗いトンネルを抜け、廃線跡の車両の中に入って、工作をしたり、車両から出て新緑の美しい草むらで走ったりして遊びに没頭する。 


依里は、教室の裏に死んだ猫を湊に見せ、「このままだと生まれ変われないかも」と、廃線跡に遺骸を運び、土の中で落ち葉を載せ、着火ライターで火を点ける。 


火が立ち上り、不安になった湊は、水筒で水路の水を汲み、火を消し、依里の手からライターを取り上げる。

 

「星川君がガールズバー燃やしたの?ガールズバーにお父さんがいたから?」

「お酒を飲むのは健康によくないんだよ」 



学校のトイレで、クスクス笑いながら個室のドアに穴あけパンチを取り付ける生徒たち。

 

そこに湊が入って来ると、生徒たちは出て行き、中にいた依里が「開けて下さい」とドアを叩く。 


湊は近づき、依里から「麦野君でしょ?出して」と頼まれるが、そのまま立ち去る湊。

 

そこにやって来た保利に声をかけられた湊は無言で去り、再び気になってトイレに戻る。

 

ここで、湊が依里を虐めていると保利が判断したシーンの一つが回収される。

 

一転して、鉄道跡地の湊と依里。

 

「保利先生に言ったら?保利先生優しいよ」と湊。

「男らしくないって言われるだけだよ」と依里。

「嫌?」

「豚の脳だからね」

「豚の脳じゃないよ。星川君のお父さん、間違ってるよ」

「パパ、優しいよ。絶対病気治してやるって。治ったら、お母さん帰って来るって」


「病気じゃないと思う」

「ま、親だしさ。気を遣うじゃん」

「それはうちも気は遣うけど」

「お父さんさ、死んだんでしょ?」

「本当はね。のぐちみなこさんていう女の人と温泉行って、事故死したの…」

 

【不倫相手との旅行中に湊の父が事故死した実相が明らかになるが、ここでの要諦は、依里の自我の歪みのこと。依里が虐められても鈍感になっているのは、「豚の脳」と軽侮する、アルコール依存症である父清高からの虐待に馴致(じゅんち)しているからである。感覚鈍麻である。背中の傷が示す虐待サバイバーである依里が、父がいるビルを放火する事件の陰惨なる風景は、雑居ビルの全焼火事の犠牲者の問題をもスルーしたり、湊が猫と遊んでいるのを見たという美青の嘘の理由など、複数の曖昧さを残して動いていく物語の初発点と化していく。ともあれ、「お父さんは優しいよ。病気治してくれるから」と言い放つ依里だが、「豚の脳」の病気(同性愛)を嘲笑(あざわら)い、飲酒で暴れ捲(まく)る父に対するリベンジに振れる児童の自我の歪みが、全篇を通して貫流している。当然ながら、父親からラベリングされても、しれっとしている依里の児童期後期の自我が自分の存在を決められないでいるのだ。いずれにしても、世俗に翻弄されて漂動する二人の児童の時間が物語を貫流し、支配しているという解釈は至当である。この認知なしに本作の理解は不可能ではないか】

 

二人は神社や湖の畔の公園で遊び、依里は宇宙の話をして止まらない。

 

依里は膨張し続ける宇宙がいつか爆発して、時間が逆回転すると話すのである。

 

「…人間は猿になって恐竜が復活して、また宇宙ができる前に戻るんだよ」


「生まれ変わるんだね」

「そうだね」

「準備しようか」

 

二人は鉄道跡地へ行き、車両の中を宇宙に見立てて飾りつけをし、椅子に座って給食のパンを食べながら、絵が描かれたカードを額に掲げ、それぞれの特徴を質問・回答し合う当てっこゲームに愉悦する。

 

「かいぶつ、だーれだ」 


二人は同時に答えを言い合う。

 

宿題の作文に依里が横に書いた文字、「む・ぎ・の・み・な・と・ほ・し・か・わ・よ・り…」と読み上げる湊。 


湊も原稿用紙に同じように書く。

 

「保利先生、気づくかな」

「気づかないでしょ、保利先生は」

 

二人はクルミの実を取り、若葉の繁りの中で存分に遊ぶ。

 

思い切り走って来た湊は、ぼーっと立っていた依里と衝突・転倒してしまったので、車両内で足首の手当てをする。

 

考え事をしていたという依里は、祖母の家に転校するみたいだと話す。

 

「だからさ、もう色々心配しなくていいよ」

「お父さんに捨てられるんだ。ウケる」

「そうだね」

「違うよ。わざとだよ。わざと面白く言ったんだよ」

「怒ってないよ」

「いなくなったら嫌だよ」

 

依里の顔に湊の顔が近づき見つめ合うが、湊は「ごめん」と言って体を離すと、依里が湊を抱き締めた。 


「湊…」と依里が顔を押し付けると、驚いた湊は「待って、待って、どいて、どいて!」と依里を突き放した。

 

自分の下半身を見入る湊に、「大丈夫なんだよ。僕も、たまにそうなる」と言って近づく依里を突き飛ばし、湊は走って自転車で帰って行った。

 

図工の授業中に、いつもの男子生徒たちに机を絵の具で汚された依里は、黙って雑巾で拭いていると、その男子生徒たちが雑巾を取り上げ、投げて回して依里を翻弄し、それが湊の机に投げられた。

 

パスを求められた湊は、依里に雑巾を返すと、男子生徒たちに「星川のこと好きなの?」「ラーブラブ、ラーブラブ」と囃し立てられ、咄嗟に依里に飛び掛かり、雑巾を取り上げ馬乗りになり、二人は絵の具まみれになる。 



耳を怪我した湊は保健室で手当てを受け、保利に「本当は職員室に報告しなきゃいけないんだけどさ。内緒にしとこうか」と言われ、依里と仲直りの握手をさせられた。 


【このエピソードが、湊に対する保利の誤解を決定づけることになる】

 

鉄道跡地にやって来た湊。

 

車両に入るが、依里の姿はない。

 

日が暮れ、イルミネーションを点灯し、スマホから依里にメールをして呼び出す。

 

湊は依里を迎えに出て、「かいぶつ、だーれだ」とスマホのライトを掲げると、突然、早織が湊の名を呼び、抱き締めてきたので驚く。 


肩越しから見えた依里は引き返していった。

 

早織が運転する車の中で、依里からの電話に出るかどうか迷う間もなく、車から飛び降りてしまうのだ。

 

病院に連れて行かれた湊はCTを撮り、その後、亡き父の誕生日に仏壇でひとり呟く。

 

「なんで生まれてきたの」 

早織から亡父への近況報告を求められた時の湊の言葉である。


【1章における湊の危険な行為等々が、ここで回収される】

 

湊は依里の家へ自転車で行き、玄関のドアを叩く。

 

出て来た依里の背後に清高。

 

「あのさ…」と湊。

「教えてあげたら?」と清高。

「僕ね、病気治った。心配かけたけどさ、もう大丈夫」と依里。


「治ったって?」

「普通になったんだよ」

「元々普通だよ」

「おばあちゃんちの近くにな、好きな子がいるんだよな」と清高。

「新藤あやかちゃん」

「今まで遊んでくれて、ありがとうね」と清高。

「ありがとうね」と依里。

 

湊が何か言いたそうにするが、玄関ドアは締められてしまう。

 

諦めて湊が自転車で帰ろうとすると、突然、依里が出て来て、「ごめん、嘘」と告げるが、清高が無理やり家に戻す。 


中から、「やめて!痛い!」と依里の声が聞こえてくる。

 

「またお仕置きだ」と清高が怒鳴り、水の音がする。

 

湊は玄関を叩き続けるのだ。 



教室で依里の姿はなく、品川が新しい先生が来ることを生徒たちに告げる。

 

教室を出ると、保利が「麦野!麦野!」と声をかけて、追い駆けてくる。

 

湊が学校のベランダにコップを持った手をかけ、「ごめんなさい」とひとり呟く。 


伏見が「誰に謝ってるの?」と少し離れたところから声をかけてきた。 


「保利先生は悪くないです…僕、嘘つきました」

「そう。一緒だ」

 

伏見は音楽室で、「音楽の先生だった」と言い、トロンボーンを組み立て、湊に吹かせようと優しく指導するが、音は出ない。 


「僕はさ、あんまり分からないんだけどね。好きな子がいるの」


「そう」

「人に言えないから嘘ついてる。幸せになれないってバレるから」

「じゃあね。誰にも言えないことはね、ふーって」

 

湊はトロンボーンを吹き、伏見はホルンを吹いて、音を出す。 


「そんなの、しょうもない。誰かにしか手に入らないものは、幸せって言わない。しょうもない、しょうもない。誰でも手に入るものを幸せって言うの」 


【「誰かにしか手に入らないものは、幸せって言わない」とは、具体的には、自らの同性愛という性的指向を隠し、嘘をつくことによってしか手に入らない幸せは幸せではなく、嘘をつかなくても手に入る幸せこそ、本当の幸せであるという簡便なメッセージであり、嘘をつく行為で自らの立場を辛うじて保持している伏見自身の煩悶と重ねている。ここでは、「男らしさ」という幻想から解き放ち、自らの性的指向を恥じることなくカミングアウトすることで、成人化した湊が真の幸福を手に入れられるという含意が読み取れる。また、心地良き管楽器の音色は死と最近接していた保利をも救い、彼の行動変容を具現化するに至るこの映画の収斂点でもある】

 

伏見は思い切りホルンを吹き、湊もトロンボーンを思い切り吹いて目を輝かせる。

 

【湊にトロンボーンを教える校長の行為には、自我消耗している負の極限的な〈現存在性〉を、せめて教育現場の只中で浄化せんとする伏見なりの営為である。この営為が湊の自立への推進力になるばかりか、伏見・保利をも裨益(ひえき)していくという風に映画的に仕込まれている】

 

嵐が来る夜、湊は晴れやかな表情で自転車を走らせる。

 

早朝、暴風雨の中、ポンチョ姿の湊が、依里の家へ走って行った。


 

浴槽でぐったりして依里を見つけた湊は、「ビッグクランチ(宇宙の終焉)が来るよ!」と声をかけ、背中に傷だらけの依里を救い出した。 


二人は鉄道跡地へ行き、木々がなぎ倒される中、廃線路の車両が無事であることを喜び、中に入って椅子に座って菓子を食べる。 


屋根に小石が当たる音がする。

 

「出発するのかな?」と依里。

「出発の音だ」と湊。

 

二人は目を合わせ、微笑む。

 

運転台に並び、目を輝かせて外を見る。 



その頃、暴風の中、清高はレジ袋を持ったまま転倒して天を仰ぎ、伏見は傘も差さず、水路の濁流を見つめていた。


 

通行止めで車から降りた早織と保利が、鉄道跡地へ向かう。 


真っ暗な水路に、横倒しになった車両から、湊と依里が下りて来て、明るい方へと向かい、泥だらけの姿で地上に出てくる。

 

「生まれ変わったのかな」

「そういうのはないと思うよ」

「ないか」

「ないよ。もとのままだよ」

「そっか、良かった」 


空は晴れ、眩しい光の中、湊と依里は草むらの道を、雄叫びを上げながら走り抜けていく。 


【リアルな解釈をインサートすれば、早織と保利が暴風の中、横倒しになった車両の窓を開けた時、脱ぎ捨てられたポンチョはあったにも拘らず、二人の姿はなかった。考えられるのは、車両の下側の窓が壊れ、土砂か、水路の濁流に吞み込まれてしまったという解釈が正解だが、ここでも、肝心なところで逃げる画を連射することが多い作り手の、剥(む)き出しのセンチメンタリズムが余すところなくアクセル全開していた】

 

 

 

4  抑圧と飛翔

 

 

 

正直、失望した。

 

感動のコメント満載の映画に対して心苦しいが、酷評に近くなる。

 

以下、その根拠を5点に絞って列記していく。

 

その1。

 

カンヌで脚本賞を受賞したばかりかクィア・パルム賞(クィア映画に与えられる賞/ほぼ完璧な「燃ゆる女の肖像」で有名)をも受け、性的シーンの安全性を担うインティマシー・コーディネーターの協力を得て制作され、第3章をコアにして性的マイノリティである二人の少年が物語を駆動させるクィア映画であるにも拘らず、ネタバレ防止のためにクィア性を完全に伏せた制作サイドの問題意識の本気度が問われる作品になってしまった。その理由は5点目にある。 

日本映画初の「クィア・パルム賞」を受賞

燃ゆる女の肖像」より

       西山ももこさん/「インティマシー・コーディネーター」は日本にはまだ2人だけである



極端に言えば、アウティング(第三者が性的指向・性自認を暴露すること)という暴力を被弾しないために、自らの〈性〉を隠し込んで生きねばならない性的マイノリティが負う、その酷薄なる〈現状況性〉が希薄になってしまったのである。 

煩悶する湊

その2。

 

リアルな「化け物」という含意を有した「怪物」という仰々しいタイトルで勝負する一点に凝縮させるような商業性を意識して、視点を複層化してまで感動譚に落とし込んでいく映像構成力のギミックの危うさ。だから、回収すべき伏線を不必要なまでに撒き散らすことになった。

 

その3。

 

何より、かつてない児童のクィア映画をテーマにしたハードルの高さと、それを封印したことで観る者に突き付けてくる大団円への収束点の姑息(こそく)さ。

 

その4。

 

湊と依里の関係の本質を恋愛関係であると刻印するのはOK。 


然るに、特定の集団が集団内の異論を排除する「斉一性の原理」という社会心理学の視座で言えば、「かいぶつ、だーれだ!」と叫ぶ当該児童がそれを理解し得るようにセットアップした上で、「包括的性教育」のコアとしての「性の多様性」を認めないマジョリティーである「多数派」が、二人を消費・蕩尽しているという構造性によって映像処理しない限り、脚本家を含めた作り手の基幹メッセージ性の脆弱さが露わになってしまうということ。 

包括的性教育

その5。

 

クィア映画を、視点の多様化・時系列の分断という陳腐な手法を駆使し、殆ど意味のない謎解きサスペンスにしたこと。

 

この5点である。

 

これらが最後まで引っかかっているのだ。

 

特に最後の5点目。

 

これで全てダメになった。

 

この物語の危うさは、教育委員会を怖れるあまりに学校サイドの過剰な反応によって、虐めとは無縁であるにも拘らず、謝罪に追い込まれた保利教諭サイドで描いた2章で薄々明らかになるが、クィア映画だったことを強く印象づける不意打ちの如きインサート。 

「麦野、間違ってないよ!なんにもおかしくないんだよ!」


この手法はない。

 

時系列を分断させたストーリーラインを提示し、観る者に「不毛な考察」を求めることで「良質」な映像を届けるのである。

 

何のことはない。

 

推理小説のパズルを解く快楽を担保する。

 

これだけである。

 

社会派性を内包する物語をサスペンスにしたら、映像構成力の劣化を止める術(すべ)がない。

 

斯(か)くして、私が酷評した「護られなかった者たちへ」という凡作の構成力の狡猾さと、ほぼ同質の作品となってしまったのである。 

護られなかった者たちへ」より


社会派ドラマを謎解きサスペンスにしてしまう手法は、こういう映画になるという典型例だった。

 

私の持論である。

 

いつものように、リアルを蹴飛ばしてハッピーエンドに持ち込むラストをファンタジーに包(くる)んで、エンパワーメントを可視化して見せるのだ。 


予期せぬ効果を狙った「潜在的機能」がフル稼働しただけである。

 

この辺りに真っ向勝負を回避して、肝心なところでいつも逃げてしまう是枝映画の甘さがある。

 

弱さがある。

 

2章で1章を反転させ、1、2章で小出しにさせた根源的問題を、3章で一気に回収させた印象を残すが、センチメンタリズムにインクルーシブ(包み込む)し、予定調和の感動譚を約束しただけだった。 


邦画界の頂点に立つだろう濱口竜介監督の「悪は存在しない」を観て圧倒されたと話す配偶者の辛辣な批評と共に、私もまた、文化フィールドでの「ディリーハッスル」(小さな苛立ち)を累加させ、強制終了の一歩手前で寸止めするのが精一杯だった。

 

加えて言えば、先日、観たばかりの真っ向勝負の社会派映画の「Winny」がほぼ完璧だっただけに、唖然の一言。 

Winny」より

あまりにも諄(くど)過ぎる1章を映像提示させられた時点で、本稿に対する「不毛な考察」への意思が萎えたので梗概で書き込んだ次第である。

 

大体、学校の対応が完全に常軌を逸している。

 

信じ難いのは、「私が話してるのは人間?」と問う早織に対して、バインダーで確認した上で「人間です」と答える伏見校長の反応を見せつけられて、テレビのコメディドラマなのかと疑ったほどだ。


 
なぜ、こんなに大袈裟なのか。


伏見の内的時間が背負い込む問題の深刻さが理解できても、執拗に「怪物性」を強調するシーンの連鎖から拾うべき旨趣(ししゅ)の何ものもない。

 

観る者は、ここまで極端にデフォルメされた映画と付き合うことになるのだ。

 

是枝監督は「性的マイノリティの子どもたちを扱った映画」と言いながら、「特化したわけではない」とブリーフィングする。


ここに小賢(ざか)しさがある。


自らの性的指向を知られないために嘘をつかざるを得なくなった少年が、周囲を混乱させるという構成を組み立てたことで物語を不必要に拡散させ、謎解きサスペンスを約束させる映画を作り上げてしまった。


果たして、差別の最前線に晒されるクィア映画が抱える問題の難しさを、ここから読み取れるというのだろうか。

 

技巧に丸投げするケースが目立つ是枝監督の脆さなのか。

 

ゲイパートナーを喪った悲嘆の、憂愁に閉ざされた支え切れないほどの心の重さを描き切った「エゴイスト」のクオリティの高さにも届かないだろう。 

エゴイスト」より

「反実仮想」(「もし~ならば、~であろうのに」)で言えば、サスペンスを捨て、理解ある教諭を登場させ、二人を保護するようなエピソードをコアにして、時系列を分断させずに物語を反転・再構成させた作品に仕上がっていれば、堂々と児童期のクィア映画が構築できたのではないかとも思うのだ。

 

―― 「怪物とは観る者を含めて、マジョリティーとしての私たち自身のこと」であるのが容易に分かるドラマへのソフトランディング。

 

但し、私も経験的に理解している児童期後期の性的指向に挑戦した作り手の思いを了解し得ていても、予算の出し惜しみをしなかったであろう大手の製作・配給の商業主義満載の映画だったということ。

 

商業的な「面白さ本位」の坂元裕二の脚本力に、最後まで疑義の念を抱かざるを得なかった。

 

―― 以下、本作の総括。

 

主要登場人物が、それぞれの〈状況性〉の渦の中で何某かの〈抑圧〉を受け、その閉塞性の澱みから抜け切れず、各自の苛立ちが延長される時間の向こうに〈飛翔〉できないでいた。 


その孤独から解き放つ手品を手に入れられない〈状況性〉の渦の中で、二人の児童のみに、期限付きだが、煌(きら)めく〈飛翔〉の時間を恵投(けいとう)する。


これが、ラストの本質である。

 

「抑圧と飛翔」の物語だったのである。

 

(2024年7月)

 

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